北天

 春の雨は冷たくも、暖かい気がした。
「ったく、なんだって俺が」
「文句言わないのー」
 バックミラーを覗き込み、慎重に車を操作した運転手がぼやくのを笑って、綱吉は隣に行儀良く座っていた子供たちのシートベルトを順に外してやった。
 ガコン、と四方から一斉に音が響いたのは、ドアロックをまとめて外したからだろう。音の大きさに驚いたランボが目を丸くし、窮屈だったベルトから解放されたのもあってその場で飛び上がった。
 イーピンは自分で器用にベルトを外し、綺麗に折り畳んでシートに並べた。それを、中央に座っていたランボが邪魔だと蹴り飛ばしたのでまた喧嘩になってしまい、後部座席の騒々しさに肩を竦めたシャマルは、自分もまた席を立つべく身体を固定していたベルトを外した。
 シュルシュルと内壁に吸い込まれていくそれを見送り、空調も止めてエンジンを切る。シート越しに身体を揺らしていた振動は瞬きの間に消え失せて、ほんの少しだけ体重が増えた気がした。
「傘持って、ほら。もう。ランボ、今開けてあげるからちょっと待って」
 後部座席の左側ドアを開けようとランボがガチャガチャ取っ手を掴んで鳴らすが、重い金属のドアは五歳児の腕力ではびくともしない。煙草臭い車内から早く出たくて仕方が無いのは分かるが、下手に勢い余ってシートから転げ落ち、怪我をされても困る。
 小雨降りしきる中、自分のいる右側のドアを開けて、綱吉は足元に倒していた傘を拾い上げた。尖った先を上向けて空に翳し、ボタンを押して花を咲かせる。
 パッと広がったビニルに雨粒が散り、軽い振動が骨を伝って綱吉の手に落ちた。
「ランボさんがいっちばーん!」
 矢を射るより速く、何も持たずに飛び出そうとする幼子の首根っこを捕まえて問答無用で車内に引きずり戻す。その上で、ちゃんと雨靴を履いて傘を準備して、尚且つ車や人が接近していないかどうか左右を確認してから降りるよう言い聞かせ、分かりましたと頷くのを確かめてから、綱吉はランボを解放して道を譲り、ドアの前から退いた。
 イーピンは注意されなくてもしっかりと自分で準備が出来ていて、ランボもこれくらい手間が掛からなければいいのにと綱吉は肩を落とした。忘れ物が無いか今一度車の中を覗き込んだ彼は、シャマルの「行くぞ」と急かす声に肩を叩かれ、慌ててドアを閉めた。
 自動的に鍵はかかり、もう押しても引いても動かない。鍵をコートのポケットに忍ばせたシャマルを振り返って、それから駐車場から見えている建物目掛けて一直線に走り出している子供たちに気付き、綱吉は悲鳴をあげて走り出した。
「なんで止めてくれないのさ!」
「俺はガキは許容範囲外だ」
「そういう問題じゃないだろ!」
 車に撥ねられでもしたらどうするのだ、と声を荒げた綱吉だったが、シャマルは飄々とした態度を崩さずに口笛まで吹いて綱吉の慌てようを笑っている。
 こういう場合、年長者であるシャマルが、きちんと子供たちの素行を注意しておくべきではないのか。だのにこの有様で、雨の中を必死に走ってランボの尻尾をどうにか捕まえた綱吉は、のんびりした調子を崩さないで歩いているシャマルを強く睨みつけ、最後に深々と溜息をついた。
「それにだな、そもそも俺は、ビアンキちゃんをドライブにだなあ」
「はいはい、それはもう聞き飽きた」
 シャマルが運転中に散々吐いた愚痴をまた口に出され、綱吉は耳にタコができると左耳を手で覆い隠した。彼の足元では、自由になったランボがまた飛び出そうとしてイーピンに怒られている。
 どの年代においても、世の中は女性の方が強いらしい。
 やっと辿り着いた建物の前で傘を畳み、水滴を足元に垂らして上を見る。ガラス張りの壁に遮られた内部に人の影は少なく、天気の所為もあるのだろう、あまり混雑している様子は感じられなかった。
「まったく、なんだって俺が」
「しょうがないだろ、こいつらがどうしても行きたいって」
 足跡を乾いたコンクリートの大地に刻み、興味津々のランボが傘を振り回してまた走り出す。だが今度は綱吉も止めなくて、振り向かれたイーピンにも頷いてやった。
 幼い女児はそれでやっと我慢を解き放ち、ランボ同様嬉しげに自動ドアを抜けて建造物へ入っていった。
「他の人に迷惑かけるなよー」
 小さな背中に呼びかけ、傘を畳んで綱吉はやっと追いついたシャマルを見上げた。無精髭を撫でた彼は濡れたズボンの裾を気にして足を交互に持ち上げ、畳んだ傘で硬い地面を叩いた。
 壁に据えられた建物の名前を音には出さず読み取り、腰に手をやって激しく肩を落とす。既に疲れきった様相の彼に苦笑して、綱吉は閉まったばかりの自動ドアの前に立った。
 ドアを潜り抜けた先の内部は、空調が働いているようで、湿度が低い分肌寒かった。
「何処行くんだ?」
「んー」
 目的地は聞いていたが、目的はまだ知らされていない。見上げた入り口脇に設けられた案内板は、この大きな建物には何種類かの施設があって、それぞれ用途が異なる事を彼に教えた。
 渋い顔をして顎を撫でたシャマルに、子供たちの行方を目で探した綱吉が半端な声を搾り出す。
「プラネタリウム。どっち?」
 入って左手にあった記念品販売の店舗を覗き込んでいたふたりを見つけ、そちらに歩み寄りながら綱吉は振り返らずにシャマルに質問した。訊かれた方も顔は案内板に向けたまま、腕を下ろしてから自分たちの現在位置を確認し、首を巡らせる。
 天井から吊り下げられた幾つかの標識に、今しがた綱吉が言った施設が埋もれていた。
「こっちみたいだな。……何やってんだ」
「もー、ランボ。後で買ってあげるから、行くよ」
 正面玄関で幾筋かに分岐している通路の、右に通じる矢印を指差してシャマルは肩を竦めた。ランボはガラスケースに納められたきらきら光る玩具に興味津々で、かじりついて離れようとしない。それを綱吉が無理矢理に引っぺがすのだが、ダダをこねる子供相手に、彼は既に敗北気味だった。
 後ろから一緒になって覗き込めば、見た目のちゃちさに反比例して結構な値札が添えられている。こんな金額、年中貧乏学生をやっている綱吉に払えるのかと視線で問えば、彼は引きつり気味の笑みを返してくれた。
「俺は出さねーぞ」
「そこを、なんとか」
 つい口が滑ってしまったのだと、綱吉は小さく頭を下げる。露骨に嫌そうな表情を作ったシャマルは、早く、と急かすイーピンにコートの裾を引っ張られて視線を落とした。
 人の往来は少ないが、全く無いわけではない。目立つ場所で騒いでいた四人を遠巻きに、館内の職員までが含み笑いを懸命に隠しているのが見えて、綱吉は顔を赤くした。
 これも全部ランボが悪いのだ、と呑気に鼻を穿っている子供の頭を力を入れずに殴り、本来の予定に戻ろうとシャマルが指し示した矢印に従い、そそくさと歩き出す。
 中学校の理科の先生が、余ったから欲しい人にと言ったプラネタリウムのチケットに、教室内は暫くざわついたものの、有効期限がその週末だという理由と、星に興味がある生徒があまり居なかったのだろう、誰も手をあげようとしなかった。
 プラネタリウムに入るのは無料でも、施設自体が並盛から結構離れた場所にあって、移動に時間がかかる上に交通費だって馬鹿にならない。駅からバスを利用しなければならない辺鄙なところというのも災いしたようで、此処が最後のクラスだったのにな、という先生の顔は実に寂しそうだった。
 だから、というわけではないものの、気付けば綱吉が手を上げていて、目出度く無料チケットは彼の手に。だが問題は、誰とどうやっていくか、だった。
 そんな話を夕食の席でしたら、子供たちが騒ぎ出して、まだ本当に行くかどうか決めかねていた綱吉は、押し切られて一緒に行くことにいつの間にか決められていた。
 奈々は町内会の用事があって参加できず、交通費の支給はしてもらえたが、肝心の移動手段は心もとない。調べてみれば本当に移動が面倒で、バスも乗り継ぎがある上に本数が少ないと知り、諦めが先に立った矢先――
 救いの女神が現れた。
『呼んであげるわよ、運転手』
 さらりと言ったビアンキの言葉を信用して、当日小雨の中玄関先で待っていたら、本当に現れた運転手つきの乗用車。出てきたのがこの鼠色のコートを羽織った男で、彼は開口一番ビアンキの名前を連呼して綱吉たちを無視し、家の中へ飛び込んでいった。
 が、残念ながら彼女は留守。
 応対に出た奈々の律儀な説明を受け、色鮮やかな花束と一緒にしな垂れ崩れた哀れな男は、折角だからという彼女の提案で見事、綱吉たちを郊外の科学文化センターへ連れ出す破目に陥った。
 豪華な花束は奈々の手に渡り、待ち構えていた綱吉と子供ふたりは車の後部座席へ。これが最初からすべて、ビアンキによって画策されたものだと運転中に気付いたシャマルは、ぐちぐち文句を言いつつも、それでも当初の予定通り此処まで彼らを運んでくれた。
 もしかしたら連れてくるだけで、帰りはバスと電車を使えと言われるかとある程度覚悟していた綱吉だが、今のところシャマルは最後までつきあってくれる様子で、ホッと胸を撫で下ろす。
「チケット、何枚あるって?」
「二枚。ランボとイーピンは幼児だからタダ」
 右側に大判のガラス窓が並び、外の景色が一望できる通路を抜けて目当ての場所へ。受付の前で足を止めたシャマルは直ぐに他所へ行きたがるランボを抱きかかえた綱吉に振り返り、開始時間を気にして袖を捲くった。
 左手首に巻きつけた腕時計の文字盤と、受付窓口の上部に吊るされた時計とを見比べ、更にその下にある四角形のボードに視線を転じる。左側にある扉は解放され、横に立つ係りの人が欠伸を慌てて噛み殺した。
「まだちょっとあるな」
 綱吉たち以外には、館内の職員以外人の姿は無かった。
 こんな調子で運営していけるのだろうかと無粋な心配をして、じたばた暴れるランボを下ろしてやる。両腕の自由を取り戻した綱吉は、上着のポケットに入れた薄い財布を広げて折り畳んだ入場券を二枚取り出した。
「全部無料にしてくれりゃいいのによ」
 斜め上から覗き込んできたシャマルの愚痴に肩を揺らし、曖昧に笑って綱吉は財布だけをポケットへ戻した。右足を先に繰り出すと、ちっちゃな足を動かしてランボたちもついてくる。
 臆病で弱虫で、泣き虫なくせに、好奇心だけは人一倍の彼に笑いかけ、退屈そうにしていた係員にチケットを渡す。半券をもぎ取られた二枚は最初綱吉とシャマルへ差し出されたが、他のふたりが一斉に手を出したので、係の若い男性は失笑しつつ子供たちへちゃんと券を渡してくれた。
「恥かしいんだから」
「へへーんだ」
 常識外の行動をする子供たちに舌を巻き、綱吉は天井が丸い球体をしたホールへと足を踏み込んだ。
 内部も円形で、中心に向かってすり鉢上に段差が作られている。その最下部に、巨大な球体を幾つも組み合わせた物体が置かれていた。
 機械を囲む柵の外側に、臙脂色をしたシートがホールの形に合わせて円状に並ぶ。座席は映画館のそれよりも背凭れが後ろに傾斜していて、上を見る為の工夫だというのが想像できた。
 見上げた天井は一面が真っ白で、等間隔で縦に筋が入っている。今は何も映し出されておらず、立ったまま見上げていると首が疲れてしまった。
「何やってんだ」
 とっくに椅子の確保に動いていたシャマルから呼ばれ、入って直ぐの地点で立ち止まっていた綱吉は、肩を軽く揉み解しつつ首を下向けた。
 疎らながら椅子は埋まっていて、多くは親子連れ。綱吉と同年代の集団に、シャマルほどの大人がひとりという組み合わせもあったから、あれは部活動か何かの一環だろうか。
 二十段ほどある段差のほぼ中腹、端から五つばかり中に入った座席に座ったランボのご満悦顔が見えて苦笑し、綱吉は早く来いと手招くシャマルの横に潜り込んだ。
 傘は四人分まとめて一箇所に集め、空いている席に立てかける。ざわついた空気が肌を撫でて、始まるのを待っている人たちの気配に綱吉は肩をすぼめた。
「好きなのか」
「ん?」
「星」
 ふかふかの椅子に背中を預けると、首が自然と斜め上を向く。聞こえて来た声に瞳だけを左に流せば、同じく楽な姿勢を取ったシャマルが正面を向いていた。
 彼の無精髭が伸びる顔を暫く見詰めてから身体の向きを戻し、一瞬考えてから浮いていた踵を床に添えた。
 着ていた上着を脱いで簡単に折り畳み、膝に載せる。きゃっきゃっ、とはしゃぐランボには静かにしているよう唇に押し当てた人差し指で命じ、真似をした彼の頭をシャマルの身体越しに撫でてやった。
 ふと前を見れば、おかっぱ頭の女子と目が合って、瞬間的に逸らされる。
「……俺たちって、変な組み合わせかな」
 隣に座る別の女子と肩をぶつけ合って小声で喋りこんでいるその子の後頭部を暫く眺め、座り直した綱吉が呟いた。
 横にシャマル、その隣にランボ、イーピン。
「シャマルがランボたちのお父さんで、俺は……なんだろ」
「変なこと言うな」
 俺はまだそんな歳じゃない、と腕を振って否定したシャマルだったが、実際のところ彼ならば、五歳前後の子供が居てもなんら不思議でない年齢だ。
 思い切り嫌そうに顰めっ面を作ったシャマルを笑い、彼越しに大きすぎる椅子に悪戦苦闘している子供たちを眺める。体重が軽い彼らは、バネ式の椅子を自身の体重だけでは支えきれていなかった。
 跳ね返り、小さな身体を背凭れとの間に挟まれているランボに肩を竦めたシャマルが、見かねた様子でその首根っこを捕まえた。
「おいで、イーピン」
 更にその向こうで、同じように椅子に挟まれている女の子に綱吉が手を差し出した。
 嫌そうにするシャマルの膝で、ランボがはしゃいだ声を上げる。狭い足元ではなく、誰も居ない前一列の椅子の背もたれを駆けて来た幼女に飛びつれた綱吉は、運悪く彼女の頭が鳩尾に直撃して声もなく悶絶した。
「なぁにやってんだ」
 呆れたシャマルに返事も出来ず、苦しげに唸っている綱吉にしまったという顔をしたイーピンは、途端泣きそうな顔を作った。ランボの下品な笑い声は密閉された空間に異様なまでに伝わり、恥かしさもあって、綱吉は彼女を膝に抱え込むと、懸命に痛みを堪えて涙を拭った。
 ほら、とポケットを弄ったシャマルから、綺麗にアイロンが当てられたハンカチを渡される。動けない綱吉の代わりにイーピンが受け取って、彼の頬を拭ってくれた。よしよし、と言っているのだろうか、兎も角そんなニュアンスの中国語と一緒に頭も撫でられる。
 五歳の女の子に慰められるとは、なんと情けない。思わず笑いがこみ上げてきて、もう大丈夫だと心配してくれている彼女に礼を言ったところで、後方の扉が閉められた。
 頭上からブザーが鳴り、開始のアナウンスが機械的に流される。まだ騒いでいるランボの口はシャマルの手で塞がれて、もごもご言いながら抵抗する様子を横目で眺めた綱吉はやっと苦笑した。
「お」
 思わず漏れたという声を出し、シャマルが徐々に暗くなっていく天井を見上げた。つられて綱吉も弱くなっていく光とは相対的に、足元から伝わり始めた微かな振動を感じ取って下を向いた。
「なになに、なにー?」
「ランボ、黙って」
 静まり返る中に子供の甲高い、不思議がる声が響く。綱吉が薄明かりの中で人差し指を唇に押し当てると、真似をした子供も「しー」と横に引き結んだ口から息を吐いて大人しくなった。
 いい子だと頭を撫でてやると、嬉しそうに目を細める。
 真っ暗闇になるのには少しだけ時間がかかって、瞬きをしながら待っているうちにぽつぽつと、何も無かった空間に淡い光が散らばり始めた。さっきまでは確かに殺風景な白い天井でしかなかったものが、闇に包まれたと同時に見たこともない夜空を描き出す。無数の星明りは本物と見紛うばかりで、並盛の空では決して見るも叶わない星の群生に綱吉は息を呑んだ。
 イーピンが歓声をあげかけて、綱吉に怒られたランボを思い出したのだろう、小さな手で慌てて自分の口を押さえ込んだ。
 どこかに設置されているスピーカーから、抑揚に乏しい女性の声が響き渡る。来場者への挨拶から始まって、一通りの謝辞が終わると同時に眩かった人工の星明りは消えた。入れ替わりに綱吉から向かって左斜め前方、高い位置に幾つかの光が灯される。
 機械音声の説明にあわせ、星と星の間に線が走り、ひとつの形が歪んだ夜空に浮かび上がった。
「牡羊座」
 説明に耳を傾け、それが何を模っているのか脳内では理解出来た。が、つい口ずさんでしまって、綱吉は五月蝿かっただろうかと慌てて唇を舐めた。
 しかし茶々は入らず、横を窺い見ればシャマルもランボも、大人しく星の動きを目で追って、綱吉の心配をまるで気に留めてもいなかった。
 膝の上のイーピンも、珍しいのか、刻一刻と変化をみせるプラネタリウムに言葉もなく見入っている。
 退屈ではなかろうかと思っていたのだが、杞憂だったらしい。ランボが暴れて迷惑をかけるかもしれないとさえ考えていたのに、予想外に子供たちは、滅多に見る機会もない満天の星空に興味を覚えたようだった。
 黄道十二星座の紹介は続き、各個の星の名前や等星、どれくらい地球から離れているのかの説明も随所に挟まれる。また、その星座の由来や物語も折々語られて、中には夜空が急転し、唐突にアニメーションが始まる場面もあった。
 いくら飽きないようにとの配慮とはいえ、少々やりすぎではないか。失笑を禁じえない綱吉とシャマルを他所に、絵入りで語られる物語に子供たちは大はしゃぎだった。
 流石に手を叩くのは止めさせて、移り変わる季節の映像を取り混ぜた頭上を仰ぐ。椅子が最初から角度を持っているお陰か、思ったほど首は疲れない。
「へえ……」
 良く出来たものだ、と感嘆の言葉を零した綱吉は、幾度か瞬きを繰り返して乾いた瞳に水分を補給する。何か飲み物を持ってくればよかったかと乾燥気味の場内に思ったが、今更外へ買いに出るのも半端なのでやめておいた。
「乙女座、だ」
 確か獄寺がそうだったかな、と記憶を掘り返していた綱吉の耳に、半ばまで星座の由来を聞いていたシャマルがふと、嗚呼、と得心気味に頷くのが聞こえた。
「あれか」
「シャマル?」
 得心したという彼の独白に、綱吉はイーピンを潰さぬ程度に姿勢を崩し、前から彼を覗き込んだ。
 だがシャマルは綱吉の動きを感知せず、上を向いたまま展開される映像に見入っている。
 物語は乙女座の由来、冥界の神に浚われた娘を思い、岩穴に閉じこもってしまった母親の嘆きに至っていた。
「んー……なんか、天岩戸と似てる」
 答えてくれそうにないシャマルに頬膨らませた綱吉は、仕方なく再び柔らかな背凭れに身を沈めて説明に聞き入った。
 それは大地母神が岩穴に隠れてしまい、季節が一年中冬になってしまったという話。古事記にある天照大神の逸話を同時に思い浮かべた綱吉の呟きに、今度はシャマルが身を起こしてランボを抱え直した。
「アマノイ?」
「天岩戸って昔話で……神様がおっきな岩の向こうに隠れちゃって、太陽が空から消えちゃう話」
 大雑把ではあるが、あながち間違いではなかろうと綱吉は物語の内容を掻い摘んで、小声で説明した。
「それで、神様が困って、岩戸の前で宴会をして、神様を外に引っ張りだすんだけど」
「……似てるか?」
 段々と説明の語気が弱くなっていく綱吉に、シャマルが淡々と聞き返す。答えに詰まってしまって、綱吉は遠くへ視線を流して頬を掻いた。
「いや、あ、うん。でも。冥界に行っちゃった人が死者の国の食べ物を口にした所為で地上に戻れない、って話もあったよ、確か。うん」
 非常に苦しい言い訳を、綱吉は早口にまくし立てた。その音量が、焦っていた所為で思ったよりも大きく響き、前の方から迷惑そうな視線を複数感じて綱吉は身を縮めた。
 横で聞いていたシャマルが懸命に笑いを堪えているのも分かって、綱吉は恥かしげに頬を膨らませ彼を睨んだ。
 節くれだった彼の、全く伸びていない爪で、その頬を小突かれる。
「ペルセポネは、冥界の石榴を食いはしたが、年の内八ヶ月は地上にいるぞ。残り四ヶ月が冬だ」
 乙女座を構成する星のうち、最も明るいスピカは麦の穂を意味し、それが豊穣神の神話と重なり合ったのだろうと彼は言った。また、乙女座の由来もこれひとつではなく、複数の説が混在し、元々別の女神だったものが、時代の流れの中で混同し、今見た説に集約されたのだとも。
「ギリシャ神話だが、由来はメソポタミアだって話だ」
「……詳しいね」
 まさかこの男が此処まで星に関する逸話に精通しているとは思わず、感心した様子で頷けば、向こうは不満げに顔を顰めた。
「テメーが知らなさすぎるんだろうが。好きなんだろ、星」
「なんで?」
 呆れた口調で言われ、聞き返した途端後頭部を叩かれる。イーピンを片手で支え直した綱吉は、殴られる謂われはないと目尻をつり上げた。
 もう片手で小気味良い音を響かせた頭を抱く彼に、シャマルが若干挙動不審に肩を揺らした。
「なんでって、お前」
 機械による説明は既に次の星座に移っている。ふたりは周囲を気にして隣り合う椅子に座りながら互いに肩を寄せ、距離を詰めてひそひそ会話を続けながらも、片方の耳は子守唄めいた女性の声を拾い続けていた。
「俺、そんな事言った?」
「言ったろうが」
「いつ」
「さっき……あー、いや。言ってねえな」
 プラネタリウムにわざわざ足を運ぶくらいだから、嫌いなわけがない。綱吉は、晴れ渡った夜空に煌く星の輝きは、見ていて飽きないし、綺麗だとも思う。
 ただ、お金を払ってまで見たいかと聞かれれば、答えはノーだ。今回はたまたま無料チケットがあって、シャマルの運転する車があったから来ただけで。
 言い難そうに黒い瞳を泳がせたシャマルが、自分の頬を掻いて無精髭を撫でた。そんな、少し困惑して渋い表情をしている彼を星明りの下に見て綱吉は首を傾げ、映像が始まる前に交わした彼との会話を思い返した。
 中途半端なところで切れてしまった、問いかけ。
「あー」
 星が好きなのかと聞かれていたのに、綱吉は別のことに気を取られて結局答えなかった。それを、シャマルは勝手に「好き」と解釈してしまっていたのだ。
 得心が行った綱吉が間延びした声を出して頷き、自分の思い込みが照れ臭いのか、シャマルはばつが悪そうに苦笑して、また綱吉の頭を小突いた。
 彼に寄りかかって膝に座っていたランボの頭が、シャマルの腕の動きに合わせてぐらりと横に傾いた。
「うおっと」
 さっきから妙に静かで、不気味なほどに大人しかったランボは、なんてことはない。眠っていた。
 落ちそうになったのを寸前で受け止めたシャマルが先に気付き、仰向けに抱え直したところで綱吉も気付く。よくよく見ればイーピンも、暗闇と暖かい綱吉の膝が心地よかったようで、ランボ同様いつの間にか夢の中に落ちていた。
 大騒ぎをされるよりは良いが、これでは折角連れてきた意味が無い。
「寝ちゃったよ」
「気持ちは分かるがな」
 人工のものとは分かっていても、柔らかな星の光に照らされて、子供たちの意識は一瞬で夜の時間に沈んでしまったらしい。四季で見られる星の解説に移っている機械音声は、確かに綱吉でも、油断した途端に甘い眠りを誘ってくれそうだ。
 子供たちの心地良さそうな寝息に触発されたのか、欠伸を噛み殺したシャマルが目尻を擦った手で頭を掻き毟っている。
「寝てても」
「そうは言ってもなあ」
 一度誘発された眠気はそう簡単に消えてくれない。車を運転する時に眠いままで居られるよりは、今此処でのんびりと出来る時間に寝てもらったほうが、綱吉としても安心出来る。
 終われば起こすから、と自分は最後まで星空を見上げるつもりで綱吉は彼の肩に肩をぶつけて言った。
「折角だし、つきあうさ」
「いいのに」
「たまには大人の言うことも聞け」
「ずるいの」
 こういう時だけ自分が年嵩である事を持ち出して、綱吉の主張を上から押し潰してしまう。気持ち良さそうに眠っているイーピンを胸に抱き、綱吉は拗ねた声で吐き捨てて天を仰いだ。
 北半球の星座が一斉に映し出され、薄い線で星座が浮き上がっている。ゆっくりと回転する星座の中で、唯一動かずに同じ位置に留まり続ける星を正面に見つけ、綱吉は心の中でその名を呟いた。
「北極星がまん前だな」
 シャマルが何気なく呟き、自分の心を見透かしたような彼の声に驚いて綱吉は目を素早く瞬かせた。
 変な顔をしてしまったらしい。挙動不審に動いた綱吉を覗き込み、シャマルが怪訝に眉を寄せる。
「ンだよ」
 そんな顔をされる事を言った覚えは無い、と苦々しく言った彼に首を縦に振りかけて、慌てて横に振った綱吉は一瞬で跳ね上がった心臓を宥めて息を吐き、唇を舐めた。
「動かないんだよね、北極星って」
「動くぞ?」
「え、嘘」
 誤魔化すように、今しがた機械音声でも説明された、昔から航路などの目印にされた由来を端的に呟いた綱吉だったが、真逆の事をさらりと言い返され、素っ頓狂な声を出してしまった。
 闇の中から無数の、彼を咎める視線を感じる。再び首をすぼめて小さくなった綱吉は、肩を小刻みに揺らして笑っているシャマルを上目遣いに睨みつけ、彼の足を横から思い切り踏んでやった。
「いってーな、このクソガキ」
「シャマルが下手な嘘つくから悪いんだろ」
 即座に綱吉の踵から足を引きぬいたシャマルが、お返しに綱吉の脛を蹴って悪態をつく。それをまた足蹴でやり返した綱吉が、小声ながら怒りを滲ませた口調で早口に言い、降ってきた彼の手に頭を潰された。
 肘置きに額を押し当てられて、痛みに綱吉は奥歯を噛む。
 それでもイーピンを落とさないように気を配る辺りは流石か。素早く肘を引っ込めて解放してやり、シャマルは綱吉の何気ない気配りに舌を巻いて肩を竦めた。
「嘘じゃねー。実際、二千年後にはケフェウスのどれかに入れ替わるはずだ」
「ケ……?」
 初めて聞いた単語に首を捻り、綱吉は目で続きを彼に乞うた。が、彼は露骨に嫌そうに顔を歪めるだけで、面倒だ、の一点張りだった。
 知りたければ自分で調べろ、という事らしい。綱吉はむん、と唸って鼻を鳴らし、腹立たしげに膨らませた頬から息を吐いて椅子にどっかり座り直した。
 そろそろ星空鑑賞も終わりだろうか。横ではまたシャマルが欠伸を零しており、つられて自分も大口を開けた綱吉は、眠たげに目尻を擦り、その手を左側の肘置きに載せた。
 思いがけず柔らかなものを下敷きにしてしまい、驚いて慌てて肘を跳ね上げる。
「んだよ」
 不機嫌な声を聞いて、初めてそれがシャマルの腕だったと理解した綱吉は、驚いてしまった自分にも驚いてから、決まりの悪い顔をして手を膝に置いた。
「俺の課外授業は高いぞ」
「え?」
「日本の空は汚れてんなー、星なんざろくに見えやしねえ」
 肘置きを滑り落ちたシャマルの手が、狙ったのか、それとも偶然か、手の甲同士でぶつかり合った。
 視線を横向けたまま、綱吉が暗闇の中、掌を裏返す。一瞬圧力が加わって、緩んで、重なり合った掌は緊張してか、少し湿っていた。
「イタリアは?」
「都市部は日本に負けねーが、まあ、そうだな。エンナなら多少マシだろ」
 乙女座の由来となった神話の地ならば、或いは。
 今日と同じ空を見上げられるかもしれない。
 すやすやと寝息を立てていたランボが、楽しい夢でも見ているのだろうか、シャマルの膝で声を潜めて笑っている。そうやって抱いてやっているのを見ると、シャマルが父親でも充分通じそうだった。
 ならばイーピンを抱きかかえる自分は、母親役が似合いどころか。
 想像すると妙な構図だ、思い浮かべて肩を震わせていると怪訝な視線を横から投げられて綱吉は小さく舌を出す。
 甘えて胸に頬を擦り寄らせるイーピンを支え、綱吉は椅子の上で背筋を伸ばした。
「講義代、これで足りる?」
「ん――?」
 密やかに笑んで、囁き、首を横向けた彼に合わせて伸び上がる。
 最後まで聞いてくれたことへの感謝を事務的に告げ、アナウンスは終わる。夜が明け、東の空が白むよりもずっと早く明るさを取り戻す屋内で、眩しさに瞳が慣れない以外の理由で瞬きを繰り返し、シャマルは悪戯っぽく笑っている綱吉を呆然と見詰めた。
「タバコ苦い」
「うっせえ」
 取り返した手で唇を撫でた綱吉の感想に、今頃恥かしさが募ってシャマルは赤い顔のまま小声で怒鳴った。
 騒動に重い瞼を擦り、夢から引き揚げられたランボがぐずって鼻を鳴らした。イーピンもむずがり出して、綱吉は慌てて彼女を両手で抱え直し、軽く左右へ揺らした。
 席を立つ人たちが、小さな子を互いに抱えながら喧嘩をしているふたりを怪訝な様子で見守っている。気付いた綱吉が苦虫を噛み潰した顔をして、シャマルは眠たげに目尻を擦っているランボの頬を叩いて覚醒を促し、床へ下ろした。
 しかし寝起きの五歳児は、その場でぺたんと尻餅をついてしまう。あまりにもやる気の無い顔に、シャマルは苛立ちを隠して乱暴に自分の頭を掻き回した。
「しっかりしてよね、お父さん」
「誰がだ!」
 茶化した綱吉が、イーピンを上手にあやしながら囃し立てる。通路を登っていく人にも聞こえたようで、忍び笑いが彼の耳に飛び込み、シャマルは悔しげに拳を握って振り回した。
 あっという間に人の波は去り、場には綱吉たちだけが残される。人の足に寄りかかってまた眠りに落ちようとしているランボを、仕方なく腕に抱いた彼は、まだ笑っている綱吉を上から軽く睨みつけた。
「ん?」
「あんなんで足りるかよ」
 補習代の追加分だ、と嘯いて、彼がきょとんとしている綱吉の琥珀を影で隠す。
 遅れて目を閉じた綱吉の舌先で、苦いけれど慣れてしまった煙草の味がじわりと広がり、熱に溶けた。

2008/04/10 脱稿