春灯

 麗らかに晴れた休日の午後。
 友人と遊びに行く予定もなく、宿題は珍しく早く目が覚めたのもあって午前中に終了。
 その間に子供たちは、子供たちだけで楽しい遊びを見つけたらしく、出遅れた自分はすっかり蚊帳の外。
 陽射しは暖かく、風はなくて穏やか。青いペンキをぶちまけた晴れ空に浮かぶ白い雲は実に美味しそうで、先ほど昼食を済ませたばかりだというのに、空腹感が身を苛んだ。
 沢田綱吉はぼんやりと、やることもないまま窓枠に肘を置いて、家の前に走る電線に停まった雀が飛び立つ様を見送った。
「暇だなー」
 ゲームをやる気は起きないし、漫画も読み飽きてしまった。テレビで面白い番組はやっていないし、予習復習に励むほど勉強熱心でもない。
 時間を持て余し、浪費するほかない彼は、揺れた電線の上下運動を数えて溜息と共に顔を伏した。
 その頭を。
「いでえ!」
 ドガっ、と緑色をしたバッドで思い切り殴られた。
 勢い余り、額が窓に激突する。割れる寸前まで震えたガラスに映る赤くなった顔を涙目で見詰め、彼は強かに打ち付けた鼻を両手で押さえた。
 誰の仕業かは確認するまでもない。虹色に輝いたかと思うと、緑色のカメレオンに姿を変えたレオンを帽子に載せたリボーンが、恨めしげな目で振り向いた綱吉を笑っている。
「なにするんだよ!」
「腑抜けた面してんじゃねー、ダメツナ」
 握り拳を振り上げた綱吉は、殴られた後頭部と窓にぶつけた額と鼻、どちらの痛みもまだ継続中。果たしてどちらを先に撫でて慰めるべきかで迷い、左手が中途半端に空中を彷徨っていた。
 そんな彼にしたり顔を見せたリボーンは、ぼうっとしている時間があるなら勉強でもしろ、と机を指差す。だが本日の課題はとっくに終了したのだ、と綱吉は結局両手で頭を前後に挟む格好を作り、唇を尖らせた。
 肩を竦めたリボーンが、だったら、と伸ばした紅葉の手を引っ込め、綱吉を仰ぎ見る。
 黒い澄んだ瞳は円らながら、奥底に潜む気配は鋭く尖っている。ぞっとする視線を浴びせられ、綱吉は冷や水を頭から打ちかけられた気分に陥り、首を振って重い腰を上げた。
「と、兎に角。今日はもう勉強なんか絶対にしないんだからな」
 上擦り、裏返った声で言い切って綱吉は膝を伸ばして床を蹴る。素早くリボーンの脇をすり抜け、部屋の中央へ舞い戻った。
「じゃあ、どーすんだ」
「……出かけてくる」
 綱吉が退屈しているのは誰の目にも明らかで、何かすることがあるのかと問われて言葉に詰まった彼は、咄嗟にそう口走り、直後に表情を渋いものに切り替えた。
 言ったからには実行せねばならず、かといって行き先があるわけでもない。リボーンの目に見詰められると今更止めるともいえず、綱吉は巧く乗せられてしまった気分で歯軋りした。
 にんまり笑っている彼に向かって悔しげに地団太を踏み、クローゼットをあけて並んで吊るされた上着を物色する。冬物はもう流石に暑いから避けて、少し薄いかとも思えたが、最初に目に付いたオリーブ色のコットンジャケットを掴むとハンガーごと引っ張りだした。
 手早く右から袖を通し、襟を正しつつドアへ向かう。しかし廊下に出る直前に思い出して机に引き返した彼は、充電中だった携帯電話と中身も薄い財布のふたつを握り、左右のズボンポケットへ分けて捻じ込んだ。
「行って来ます」
「夕飯までには帰ってこいよ」
「分かってるよ」
 目的地は決めず、リボーンの嫌味を浴びて部屋を出る。階下では奈々が取り込んだ洗濯物を畳んでいる最中で、彼女に外出の旨を伝えると、当然ながら行き先を聞かれた。
「ちょっとぶらぶらしてくるだけだよ」
 まさかリボーンに追い出されたとも言えず、ちゃんばらごっこに勤しんでいる子供たちに手を振って、綱吉は曖昧に誤魔化して靴を穿いた。汚れたスニーカーの紐を結び直し、ポケットからはみ出そうになった財布を再度押し込んでドアを開ければ、眩い光が彼を歓迎してくれた。
 掌を庇にして直射日光を避け、薄く広げた唇を舐めて歩き出す。踏みしめたアスファルトは仄かに熱を帯び、薄着かと思われた服装は丁度良い具合だった。
 住宅の庭を飾る木々の多くは緑の若葉を茂らせ、中には小さな花を無数つけているものもあった。どこかから犬の鳴き声が聞こえ、布団を干す人の姿も見受けられる。
 特に珍しいものはなにもないのだが、妙な目新しさを感じて、綱吉は感慨深げに住み慣れた町の景色を見て回った。
 何処をどう歩いたのか、家を出てからそれなりに時間が過ぎた頃。横断歩道がない一方通行の道を渡った綱吉は、歩道と車道を遮る段差で躓きそうになって慌てて両手を広げ、その場で足踏みをした。
「あっ……ぶな」
 こんなところで転ぶのは間抜けすぎる。しかも道には車が、制限速度を越えて駆け抜けていって、タイミングが悪ければ撥ねられていたかもしれないと思うと心臓が波立った。
 鳥肌が立った腕を撫でさすり、冷や汗を拭って唾を飲む。もう過ぎ去った車の影は見えず、怒ることも出来なくて、綱吉は腹立たしさを持て余し転がっていた小石を蹴り飛ばそうとした。が、目測誤ってつま先は届かず、こんなところでも馬鹿にされた気分で余計苛立ちが募った。
 感情の行き場を探し、ちぇ、と舌打ちした彼は今度こそ小石を蹴ってその行く先を目で追った。
 車道の反対側、綱吉の前方に広がる緑の木々が一斉に声を立てて笑う。否、腰ほどの高さのブロック塀に囲われた内部から、甲高い子供の声が響き渡ったのだ。
「……なんだろ」
 怪訝に眉を顰め、綱吉は不思議げに首を右に傾けた。
 間隔を広めに取った樹木の向こう側で、幼稚園か小学校低学年程度の子供が集まっている。それ自体は、其処が公園である以上なんらおかしな光景ではない。けれど彼らの輪の中に、小さく、見覚えのある、そして決して忘れられそうにない姿を見つけてしまって、綱吉はひっ、と顔を引き攣らせた。
「まさか、な」
 子供の声は断続的に続いており、賑やかな園内は長閑な空気が満ち溢れている。彼が子供相手に遊んでやっているだなんて、俄かには信じ難い。だから綱吉は、きっと自分の見間違いだろうと無駄に良い自分の視力を真っ向から否定した。
 ただ足は、念の為に確認を、と公園入り口に自然と向かっていた。
 恐怖心に好奇心が負けた。並んだ銀色の車止めの隙間を抜け、乾いた砂が覆う広場へ足を踏み入れる。緑に四方を囲まれた空間に、柵で覆われた砂場と滑り台が仲良く並んでいた。
 子供の声は、白いペンキが若干剥げ落ちているその砂場の中から響いていた。
「あー、だめー」
「崩しちゃだめー」
 可愛らしい女の子の悲鳴がふたつ、立て続けに耳に届く。幼稚園年少くらいだろうか、黒髪を左右で結った子が、砂場で蹲っている金髪の少年の肩を小さな手で頻りに叩く姿が見えた。
 赤地に黒の巨大な髑髏を描いたシャツに、ボロボロのジーンズ。顔の中心にほぼ横一文字で走る大きな傷。爛々と輝く瞳は野生の獣を思わせるが、子供たちは彼をまるで怖がる素振りをみせず、むしろ同年代を相手にしている様子さえ窺えた。
「……」
 遠巻きに眺め、綱吉は光景に失笑した。
 何故彼があそこで子供たちと一緒に砂遊びに興じているのか、さっぱり分からない。見守る保護者も、中には嫌そうに露骨に顔を顰める人もいたが、概ね彼に好意的な様子だ。なにより遊んでいる子供が、彼に懐いている。
「あれ、じゃあひょっとして」
 残るふたりも近くに居るのだろうか。湧き上がった疑問に、綱吉は腰から上を捻って公園内を見回した。
 そう広くもなく、けれど決して狭くはない空間に、陽射しを浴びた緑がキラキラと輝いている。枝ぶりも立派な木々の合間には青いベンチが置かれ、幾つかは既に埋まっていた。散歩中らしきお年寄りに、子供を連れて来ている母親、それから。
 いた、と綱吉は一瞬どきりと跳ねた心臓を宥めて身体をそちらへ向け直した。
 遊具が集まっている区画には寄らず、だから砂場の彼にも気付かれぬまま、綱吉は並べられたベンチの中でもひとつだけ離れた、綱吉が通ったのとは反対側の出口に近いベンチへと足を向けた。
 砂場の青年とは違い、こちらはこげ茶色の無地のシャツにベージュのジャケットを合わせ、いつもの白いニット帽と灰色のストレートパンツ、という出で立ちの青年が、左を上にして脚を組んで座っている。視線は膝元に向いたまま動かず、周囲の雑音は一切耳に届いていないのか、広げた本を捲る仕草がなければただの置物のようだった。
 綱吉はわざと砂利を踏みしめて足元に音を生み、まだ高い位置にある太陽を背にして座っている人物の前で立ち止まった。
 背中に回した手だけが、落ち着きなく指を絡めて互いを引っ張りあっている。
「……や」
 緊張の為に裏返った声で、息継ぎの間を妙に残して呼びかけた。
 結果は、無反応。彼が此処まで接近している綱吉に気付かないわけがないのに、敢えて無視を貫いているのか、表情ひとつ変えない青年は黙ったまま分厚い本のページを捲った。
「こんなところで読んでたら、目、悪くなるよ」
 いくら日陰で若干薄暗いとはいえ、屋外での読書はあまりお勧めできない。後ろの両手を握り締めた綱吉が、意を決して先ほどよりは大きな声で語りかけると、漸く彼が反応らしい反応を示した。
 ぴくり、とページの角を弄っていた指が痙攣して停止する。弓なりに撓った紙は、やがて彼の指先から逃れて真っ直ぐに戻っていった。
「……もう、悪いし」
「左様で」
 そうしてボソリと呟かれた言葉は、相槌を返すのさえ難しいものだった。綱吉は他所に首を向けて視線を流し、もうちょっと愛想よく出来ないものかと心の中で嘆息してから、最後のひとりを探し、瞬きを繰り返した。
 けれど公園内に居る綱吉の知己はふたりだけで、残る少女の影は何処にも見当たらなかった。
「クロームは?」
「さあ」
 大切な彼らの仲間であるはずの少女の行方に、柿本千種はまるで興味がないように言葉を返し、持ち上げた手で鈍く光る眼鏡を押し上げた。
「さあ、って……」
「寝てた。あとは知らない」
 つまりは置いてきた、という事か。
 六道骸と唯一リンク出来る彼女の存在は、彼らにとって貴重なものなのに、こういうところで仲間外れにするところは相変わらずらしい。いや、この様子ではどうも、犬が千種を引っ張って無理矢理連れ出したと推察する方が正しそうだ。
 実際、目の前で座っている彼は非常に不機嫌かつ不愉快そうにしている。視線は下向いたままで、一向に綱吉に向かない。
「なにやってるの?」
「……」
 問えば、見て分からないのかとばかりに膝の本を軽く持ち上げられる。背表紙までは見せてくれなかったのでタイトルは分からないが、ハードカバーの分厚い本は小説の類でもなく、何かの研究所めいた体裁をしていた。
 しかも反対側から眺めた紙面を埋める文字は、綱吉の知る言語でもなかった。
「面白い?」
 会話の糸口が欲しくて、綱吉は爪先で乾燥した大地を弄りながら続けて問いかけを繰り出す。しかし元から無愛想な彼は今もそれを律儀に守り、質問に返事もせず読書へと戻って行ってしまった。
 砂場からの歓声に背中を押され、綱吉が振り返る。よくは見えないが、高く作った砂山にトンネルを貫通させようとしているらしい。
 きゃっきゃっ、と楽しげな声は、聞いているだけで自然と表情が綻ぶ。
「ま、いっか」
 彼が読んでいる本が面白かろうが、つまらなかろうが、綱吉には直接関係ない。同じ本を綱吉が手に取る機会もきっとないだろうから、感想を求め得たところで、全くの無意味だ。
 開き直り、綱吉は踵を軸にして身体を反転させた。明るい声で胸の奥底にあったわだかまりを吐き出すと、千種が怪訝に瞳を持ち上げたのも知らず、彼の右側に空いていた空間へ腰を落とした。
 勢い良すぎて反動も強く、尾てい骨を思い切り打ってしまったが我慢する。ただ痛いという思いはしっかり表に出ていたようで、横向いた千種に変な顔をされてしまった。
 驚いたような、呆れている顔。
「なにさ」
「……別に」
 頬を膨らませて拗ねてやると、彼は言おうとした言葉を飲み込んで、喋るのを諦めてしまう。
 始まった途端にぶちぶちと音を立てて途切れる会話に、居た堪れない気持ちを覚えるのは綱吉だけらしい。千種自身はあまり他人から構われたくなくて、放っておいて欲しいのだろう。
 だがそれでは、あまりにも寂しすぎるではないか。綱吉は出来る限り、自分が知り、自分を知っている相手とは交流したいと考えている。例え相手が、並盛中のボスたる鬼の風紀委員長や、今は闇の底に囚われて自らは動けずにいる存在であったとしても。
 曲げた膝に肘を立て、広げた両手に顎を置いて背中を丸めた綱吉は、部屋でやっていたようにぼんやりと空を見上げ、何をするでもなくため息を零した。
 結局場所を移しただけで、やることは何も変わっていない。進歩がない自分が馬鹿らしくてならず、ひとり笑っていたら視線を感じた。
 本を広げたまま、千種が怪訝な顔をしている。
「なに」
「別に」
 笑っているのが気持ち悪いのならそういえばいいのに、何も言わない。たった一言で終わらせてしまう彼の態度は、分かっていても癪に障る。
 まだ犬の方が、反応が返ってくる分、喋っていて楽しい。もっとも彼は乱暴で、一寸でも気に食わないところがあれば即暴力に訴えてくるから、そこだけは苦手だった。
 クロームも無口だから、この三人だとさぞかし会話が盛り上がらないだろう。いったい彼らが日頃、どんな会話を展開させているのか気になって、綱吉は猫背のまま傍らの千種を盗み見た。
 彼は読みかけの本に紐を挟んで目印にし、表紙を閉じて横へ退けた。入れ替わりに、綱吉の反対側に置いた黒い布鞄の口に手を入れ、中から何かを取り出した。
 綱吉が興味深げに背筋を伸ばし、もっと良く見ようと首を捻る。だが千種の身体が邪魔で、全体像はなかなかつかめない。
 そうしているうちに、彼は黒いコードが伸びる物体を持ち上げてねじれを解き、白いニット帽の上から頭に被せた。
 黒い円が綱吉にも見えて、すっぽりと彼の耳を覆うそれに目を丸くする。首の後ろへスライドされた左右を繋ぐ部位は、メーカーのロゴが白く塗られていやに目立った。
 ヘッドホン、だろう。携帯用にしては少々、いやかなり、サイズが大きいが。
 コードが続く先に改めて目をやれば、彼の手の中には薄い手帳サイズの機械が握られていた。色はベーシックな白で、表面上半分に液晶のモニターが付随している。下には操作盤が。
 彼はそれを片手で器用に操り、画面を細かく動き回るカーソルを調整しているようだった。
「……」
 しげしげと、気付けば身を乗り出していた綱吉に、千種は相変わらず素っ気無い。
「ね、それって」
 最近流行の、音楽も聴けて、動画も見られる携帯プレイヤーだ。
 電気屋に行けば幾らでも並んでいるものの、身近で持っている人はまだ誰も居なくて、綱吉はつい嬉しくなって興味津々に千種の手元を覗き込んで顔を上げた。
「五月蝿い」
「ごめ……」
 即座に冷たいひとことが落ちてきて、綱吉は下唇を噛んで俯き、千種に寄せて斜めに傾けていた身体を元に戻した。
 画面上を踊るデジタル文字は目で追いきれず、半密閉型のヘッドホンは音漏れもしない。静寂を手に入れた千種は綱吉を完全無視で、起動中を示すランプを点灯させた薄型の機械をベンチに置き、畳んでいた本を膝に広げた。
 会話は終わりを迎え、綱吉にとっては退屈な時間が再び訪れる。
 犬はまだ砂場で、最早完全に幼稚園児と同年代レベルではしゃぎまわっている。ランボやイーピンもつれてきてやればよかったか、そんな事を考えながら、綱吉はまだ興味が抜けない千種の所持品をちらちらと盗み見た。
 特別新しい物好きではないが、触ったことがないものを手にするのはやはり嬉しいし、楽しい。やる事が無い、というのも綱吉の好奇心に拍車をかけた。
 千種の注意が紙面に向いているのを確かめ、恐る恐る自分たちの間に置かれた機器に指を伸ばす。熱いわけがないと分かっていても最初は緊張して、伸ばした人差し指で表面を小突くだけに終わらせた。
 反応は当然だが無くて、調子に乗って気が大きくなった綱吉は、持ち主である千種が何も言わないのを良いことに、手に掴んで持ち上げてみた。
 流石にこれには気付いた千種が横目で綱吉を窺ったが、案の定何も言わない。表裏を返して興味深そうに外見を眺めている分には、問題はないと判断したらしい。
 コードも長さは充分あり、首の後ろを通しているので多少動いても千種の邪魔にもならない。外観を概ね見終わって満足した綱吉は、続けてモニター部に表示されている英字を眺めて首を捻った。
 曲目だろうが、さっぱり読めない。
「なに聴いてるの?」
 千種の邪魔をしないという誓いは呆気なく破られ、綱吉はずっと負けっ放しの好奇心に押されて彼に訊いた。
 反応は鈍く、綱吉はもう一度同じ台詞を、語気を強めて繰り返した。それでやっと彼は眼鏡の奥の瞳を眇め、ゆっくりと首を巡らせて綱吉を見た。
 音楽、耳をすっぽりと覆うヘッドホン。その両方が千種の世界を閉ざしている。いっそ剥ぎ取ってやろうか、とまで考えながら、綱吉は液晶部分を差した指で千種の左耳を示した。
 態度で何が言いたいか理解した彼は、眼鏡の奥の瞳を翳らせて、仕方が無い、と言いたげに吐息を零し、広げたばかりの本を閉じた。
「マイルス・デイヴィス」
「誰?」
 綱吉からプレイヤーを取り返し、音量を絞ったのか、演奏自体を中止させたのかは分からないが、兎も角親指で機器を操作して千種がぼそりと言う。即座に切り返した綱吉に、彼は煙る視線を向けて大仰に肩を落とした。
「知らないなら良い、めんどい」
「えー」
 彼が読んでいた本の内容は速攻諦めたのに、音楽に関しては自分にもある程度理解出来ると綱吉は強気だ。高らかに不満の声をあげた彼に、偶々通り掛かった人がぎょっとした顔をする。
 目が合って、そそくさと逸らされてしまい、綱吉はばつが悪そうに首をすぼめて舌を出した。
 嘆息が聞こえて、横向けば案の定千種が神経質気味に眼鏡を押し上げていた。
 レンズの向こう側に潜む瞳は伏し気味で、相手をするのも面倒だと心底思っているのが嫌というくらい態度から伝わってくる。けれどそこでへこたれていては自分ではないと、綱吉は変に対抗心を燃やして彼を睨むように見詰めた。
 やがて、時間的には数秒にも満たなかったろうが、当人にとってはやたらと長く感じられる時間が過ぎ、もうひとつ長いため息を零した千種がゆっくりと肩から力を抜くのが分かった。
 首の後ろへと右手を流し、人差し指で空を掻く。綱吉が背筋をベンチの背凭れ側に倒して覗き込むより早く、彼は耳に嵌めていた黒いヘッドホンを外して綱吉へ差し出した。
「え?」
 思わずきょとんとして目を瞬いた綱吉に、彼は無言のまま自分の体温が僅かに残るそれを押し付ける。綱吉が躊躇している間に、細長いコードも引き寄せて束にし、光沢のある白に光を反射させる本体も一緒にまとめてしまった。
「や、えと……いいよ、聴いてたんだろ」
 自分が邪魔したくせに、棚に上げて綱吉は急に臆病になって両手を広げ、彼に向けて縦に並べた。空気を押し返す仕草で受け取りを本格的に拒否するが、千種も一度決めた手前退くに退けないのか、諦めが悪かった。
 殆ど無理矢理押し付ける形で半円を成しているヘッドホンを綱吉の膝に置き、離れていく。微かな重みを追加された綱吉は、参ったなと言わんばかりの顔をして頬を掻いた。
 千種の視線が横顔に刺さる。肩を竦め、妙なことになったと綱吉は先にヘッドホンを持ち上げ、千種がそうしていたように、一度頭に被せてから首へとずり下ろした。
 付け根の部分がくるくると回転して、手の中で暴れる。なかなか思うように耳に嵌められず、見えないのも手伝って触感だけを頼りに弄っていたら、見かねた千種が細い指を伸ばして綱吉の髪の毛をそっと梳いた。
 筋張った、肉も薄い指が、綱吉のこめかみ付近を覆う、量ばかりが多い髪を持ち上げる。
「あ……」
 触れられる感触に顔を上げた彼は、思いの外近い位置にあった千種に驚き目を見張った。しかし彼の動揺をそ知らぬ顔で受け流し、千種は薄茶色に隠れていた耳を露にさせると、すぐさま関節を折り曲げて遠ざかっていった。
 何かの――春の匂いが綱吉の鼻腔を甘く擽る。
「ど……も」
 ぎこちなく礼を言い、即座に顔を伏せた綱吉がもぞもぞ動いてヘッドホンを耳に引っ掛けた。
 今度は巧くいって、密閉された空間で音が遮断された感覚に脳が震える。左右両側から頭蓋を圧迫する力は思いの外強くて、綱吉は自分の頭が人よりサイズの大きいことを今更思い出した。
 耳の穴に差し込むのではなく、全体をすっぽり包み込んでしまう形状なので、どうしてもずり下がっていきそうな気がして落ち着かない。実際そんな事はないのだが、慣れないのも手伝って、綱吉はそわそわ肩を揺らし、膝元に残されていた白い平坦な機械を持ち上げた。
 顔の正面に掲げ、眉間に皺を寄せる。考えてみれば、彼は今は沈黙しているそれの、起動方法を知らなかった。
「えと」
 ヘッドホンの準備が出来たのは良いものの、次の所作に困ってしまって綱吉は助けを求めて横を見た。が、とっくに綱吉から興味を失っていた千種は、早々に本を広げて頬杖をつき、若干姿勢を悪くして文字を目で追いかけていた。
 援助は期待できそうにない。放置するくらいなら最初から相手をしてくれなくていいのに、とさっきから自分を棚に上げてばかりの綱吉は、膨れっ面を潰し手元に視線を落とした。
 両手で包んだ小さな機械を持て余し、それらしきボタンに指を添える。
 だが違っていたら、と思うとなかなか実行に移せなかった。
 ちょっと強く握ったら容易く壊れてしまいそうな薄さ。市販されているものなのだから、そう軟弱ではないと理解出来るものの、どうしても怖さは先に立った。
 自分の臆病風を笑いたくなって、綱吉は指を揃えた手で顔の左半分を覆い隠し、右に持った手帳大のそれで自分の額を小突いた。硬い感触が肌を越えて骨にまで伝う。一瞬だけ目を閉じた彼は、その姿勢で暫く沈黙した後、陽射しで温められた金属の物体に息吹きかけて手を下ろした。
「ん」
 やっぱりいい、とヘッドホンはそのままに千種へプレイヤーだけを差し出す。
「なに」
 いきなり本と顔の間に機器を突き出され、綱吉の行動の意味を図りあぐねた千種が、眉を顰めて短く返した。
「操作方法分かんないし。壊しちゃったら、嫌だから」
 動かし方は分からない、けれど千種が聴いている音楽には興味がある。
 随分身勝手な主張を水面下で展開させた綱吉に、彼は白い帽子からはみ出ている黒髪を指で梳き上げ、耳に引っ掛けて何度目か知れないため息を落とした。
「いい」
「ん?」
「壊れても」
 差し向けられた携帯プレイヤーを挟み、彼は綱吉の大きな瞳を真っ直ぐに見て言った。
「はい?」
「壊しても、いい」
 聞き間違えかと思った綱吉の驚きを真っ向から否定して、千種は淡々と、抑揚に乏しい声で無機質に告げる。そこに感情は篭もらない。心の底からそう思っているのだと、鈍い綱吉でも分かる冷たい声だった。
 壊れても――壊しても、構わない。
 動かなくなれば新しいものを用意すればいい、今此処にあるものに固執するつもりはさらさらない。言外に告げる彼に、綱吉は乾燥した目を庇って自然瞬きした。
 持ち上げた瞼の先にいる千種は、無表情のまま、感情を素直に露にする綱吉を待っていた。
「でも」
「欲しければ、あげる」
 なににも執着しないし、拘らない。
 無くなれば、また新しいものを。
「壊れても、代わりはいくらでもある」
 吐き捨てられた無感情の声に、綱吉はものを言いかけた唇を閉ざし、空気を飲み込んだ。
 何か言いたいことが、言わなければならない事があったはずなのに、もう思い出せない。分からない。
 呆然と千種の涼やかな顔を見詰め、力なく頭を垂れて無機質な白をなぞる。何も映し出さない液晶画面に影が落ちた。
 暗闇、自力では開けられない扉。集められた子供達、繰り返される意味のない実験。夥しく流された血、使い捨てにされた命。奪われていく心、消えていく温もり。
 あの場所で、自分は番号で呼ばれるただの人形だった。古くなり、動かなくなれば簡単に捨てられる、使い捨ての研究素材。
 だから代わりは沢山いた。自分が居なくなっても、誰も悲しまない。
「でもやっぱり、寂しいよ」
「……」
 不意に。
 闇に閉ざされた世界で、静かな声が風を呼んだ。
「代わりなんて、何処にもない」
 穏やかな日射しの中で紡がれた綱吉の掠れた声に、千種は僅かに右の眉だけを動かして微かな反応を示し、開きかけた唇をその状態で停止させた。
 読みかけたまま、なかなか先に進まない本の表面を爪で削り、指に張り付くインクの感触を噛み締めて閉ざす。今度は目印となる紐を挟まなかったが、彼は気に留めなかった。
 俯いたままで居る綱吉のつむじを見下ろし、浮かせた手を差し向ける。だが触れる直前で逡巡が働き、彼の指先は虚空をふたつに切り裂くだけで落ちていった。
 レンズの奥で瞳は細められ、薄い唇は音にならない声を零して閉ざされた。
「そうだ!」
 沈黙する千種の前で、それまでずっと下向いていた綱吉が唐突に声を張り上げ、顔をあげた。
 下ろそうとしていた千種の手がその跳ね上がった綱吉の後ろ髪を掠め、お互いが同時に驚く。だが若干綱吉の方が復活は早く、明るく弾んだ瞳を輝かせ、彼は呆然としている千種を他所に、後頭部から耳を覆っているヘッドホンを取り外しに掛かった。
「はい、こっち」
 そうして返却するのかと思いきや、綱吉は右耳分をその場に残し、付け根部分をぐるりと百八十度回転させて左耳用のイヤホンを千種へ差し向けた。
 面食らった顔をした千種に、ほら、と急かす。だが依然動かない彼に最後は痺れを切らし、綱吉は腰を浮かせて彼との距離を思い切り詰め、肩が触れ合う近さで座り直した。
 半ばぶつかって行ったに等しい綱吉に、千種はその瞬間だけびくりと震えて全身を強張らせる。が、構わずに綱吉は彼の手を取り、うつ伏せになっていた掌を裏返して、そこにプレイヤーを置いた。
 指まで折らせて、握らせる。
「はい、どうぞ」
 お膳立てを全部済ませ、綱吉が笑った。
 渋い顔をした千種が苦々しく綱吉を見返し、抗いきれない自分を笑ってか些か自嘲気味に口元を緩める。好きにしてくれと諦めの境地で綱吉の手を振り払った彼は、幾らか疲れた表情で眼鏡を押し上げると、綱吉の期待通りに音楽再生の為のボタンを押した。
 頭部ではなく、何も無い空間を横切るヘッドホンを右手で支え、綱吉が片側から聞こえ出したメロディに耳を傾ける。それは、綱吉ならば容易に、今日のような昼のまだ明るい時間であっても、心地よい眠りに誘われそうな、スローテンポな優しい曲だった。
 トランペットが穏やかに音を重ね、ドラムの音は邪魔せぬよう静かに深い場所でリズムを刻んでいる。微妙にリズムがずれているようで、むしろそれが独特の表現にも思えて、滅多耳にする機会もないジャズの音色に、綱吉は千種の側へ肩を傾け顔を上げた。
 初めて聞いた曲だが、どこか懐かし気がして、不思議だった。
「マ、マイ……えっと」
「マイルス・デイヴィス」
「そう、それ。有名?」
「それなり」
 ぶっきらぼうではあったけれど、千種はきちんと返事をしてくれた。たったそれだけの事で綱吉は嬉しくなりながら、心を落ち着かせてくれる音楽に目を閉じた。
 千種もまた左手を上げて自分の耳に被さるヘッドホンを支えており、手の位置は身長差があるので被らないが、肘はぶつかり、身に着けているジャケットの袖が摺りあった。
 馴染みが無くて自分から手を出した事がないので知らなかったが、結構、好きかもしれない。綱吉はもっと良く聞こえるようにと、剥き出しの左耳を手で塞ぎ、身動ぎしたのが触れあった肩から伝わった千種もまた顔をあげた。
 そんなふたりの目の前に。
 砂まみれの犬がいた。
「うわっ」
「………………」
 驚いて両足を跳ね上げた綱吉と対照的に、慣れているのか千種は淡々としたまま表情を変えず、綱吉の支えを失って左側を重くしたヘッドホンを静かに下ろした。
 音楽再生を止め、腰を深くして座り込んでいる犬に向かって眼鏡を押し上げる。光を反射したレンズは、彼の表情の大半を隠していた。
「何してるびょん」
 いったいいつから其処にいたのか、拗ねた、唸る声で犬が訊いた。姿勢は相変わらず、折り曲げた膝を両手で抱えて蹲っており、ベンチに腰掛けているふたりからすると彼の頭が随分と低い位置にあった。
 牙を見せて睨みを利かせる彼の目は、怒っているというより自分だけ仲間外れにされたのを悔しがっている色が強い。綱吉はあげた足を下ろし、靴の裏で公園の乾いた砂地を踏みしめ、どう返事をするか迷って苦笑した。
 切実に助けを求めて脇の千種を見るが、彼はまだ眼鏡に手を置いたままで綱吉さえ見ようとしない。
 心なし耳が赤いのは、気のせいか。
「別に、たいした事じゃ……」
 千種から犬へ視点を戻し、綱吉は戸惑いがちにどうにか返事をしようと試みた。が、具体的に説明するのも気恥ずかしさが募って出来ず、適当に誤魔化して終わらせようとしたのだが、逆にそれが悪かったようだ。
 益々頬を膨らませた犬が、砂遊びに興じた所為で服のあちこちに絡み付いていた細かい砂を撒き散らし、うがー、と叫んで両腕を突っぱねた。
 飛んできた塵に綱吉も千種も揃って顔を顰め、横へ背ける。単に砂を避けただけで悪意は無かったのだが、ふたりの態度が気に入らなかった犬は余計に気色ばんで吼え、周囲の目もまるで意に介さずに両腕を広げると、勢い任せに地面を蹴って、何故か綱吉に飛びかかった。
「うわあ!」
 至近距離からの攻撃は避けられず、タックルを食らった綱吉が天を仰いで後頭部をベンチの背凭れに撃ちつけた。目の前を星が散り、ぶつけた箇所が激しく痛む。
 身を退かせていた千種もまた目を丸くし、綱吉をぎゅうぎゅうに押し潰す相棒に嘆息した。間に割って入るつもりは無いが、このままでは綱吉は本当に窒息してしまいかねない。
「お……も、いぃ……」
 犬の胸に頭を埋め込まれ、酸素を求めて喘いだ綱吉の手が宙を泳ぐ。声さえ上げられない彼はなんとか拘束を逃れようともがくものの、力任せで人の迷惑考えない犬は抵抗を強めた綱吉を更に締め上げ、上に圧し掛かった状態で勝ち誇った顔を千種に向けた。
 変な対抗意識の被害に遭った綱吉が、苦しげに声にならぬ声で呻く。
「犬、潰れてる」
 あっかんべー、と舌を出していた犬に冷静に指摘し、千種は携帯プレイヤーを片付けた手でベンチと犬の間に挟まれている綱吉を指差した。既に息も絶え絶えの彼は限界に近く、くたりと折れた腕が千種を縋って彼のジャケットを握っていた。
「ぬおっ」
 やり過ぎたのは認めるらしい、犬が気付いて慌てて綱吉を解放する。けれど完全に、ではなくて、体重の預け方を変えただけの彼は、相も変わらず綱吉の頭を抱え込んで千種を牽制していた。
 ぜいぜいと肩を激しく上下させて酸素を肺に送り込んだ綱吉は、頬擦りまでしてくる犬のじゃれ付き具合に力なく項垂れた。好かれるのは嬉しいが、毎回飛びかかってこられては、いい加減こちらの身がもたない。
 もう少し教育してくれ、と飼い主を犬と一緒に睨みつけるが、肝心の千種は何処吹く風で、涼しい顔をして他人のフリを決め込んでいる。
 ふくれっ面の顔を向かい合わせた綱吉と犬は、額が擦れ合うくらいの至近距離で互いの目を見つめ、やがて思惑が一致してにやりと笑った。
「てやっ」
「そーれっ!」
 やられっ放しも悔しいが、無視されるのはもっと悔しい。
 どうせだから、巻き込んでしまえ。
「っ!!」
 横から重なった掛け声にぎょっとし、千種が身を硬くする。綱吉がまずその彼に飛びつき、続けて犬が綱吉の上から圧し掛かって、千種は青いベンチの上、反射的に綱吉を受け止めようとした所為で逃げ切れず、本を下敷きに、仰向けに寝転がった。
 直前で弾き飛ばされた携帯オーディオプレイヤーの入った袋は、ベンチの下に落ちて日陰に埋もれる。
 男三人、サンドイッチの完成だ。
「お、も……」
「へっへーんだ。柿ピーのばーか」
「…………」
 犬の体重を一身に埋め止めた綱吉が呻き、一番楽な犬が楽しそうに声を立てて笑って舌を出す。そんなふたり分の体重を受け、ベンチの端から首を落とした千種は外れかけた眼鏡をどうにか戻し、声には出さずに重みに耐え、逆さまの視界に映し出された空と影を見上げた。
 ワンテンポ遅れて気付いた綱吉が、春の日差しに映えるパステルカラーに目を見張る。
「……ボス?」
 いつのまに現れたのだろう、右目を覆う眼帯に桜色のコサージュをあしらい、短く切った髪の一部を逆立てている少女が、不思議そうな目で綱吉を――否、綱吉を上下で挟むふたりごと、見詰めていた。
 淡いピンク色のワンピースの胸元には、同じ布で作った大き目のリボンが飾られ、その下で幾重にも折り畳まれた布が下に向かうに従って緩やかに波立ち、裾を広げていた。ノースリーブのその上には長袖の、水で薄めた空色のボレロを羽織り、寒くないのか素足にはヒールの高いサンダル。色は白で、踝までぐるぐると細い紐を巻きつけて固定されていた。
 髪型と眼帯さえなければ、どこかの清楚なお嬢様を思わせる服装だ。厚みのある唇はうっすらオレンジ色に塗られており、見慣れた黒曜の制服姿とはまるきり異なる格好に、綱吉は言葉を失くして彼女を見詰めた。
「なーにしに来たびょん」
「……ふたりとも、いないから」
 千種と綱吉に乗ったまま牙を剥いた犬に、怯えもせず彼女は困惑気味に瞳を揺らし、丸めた拳を口元に置いた。
「ああ」
 そういえば千種が、彼女は寝ていた等と言っていた気がする。ならば目覚めた時周囲にふたりがいなくて、探しに来たといったところか。
「重い」
 納得した綱吉の下で、不意に千種が呟く。依然として声色は変わらないものの、現状を不満に感じているのは伝わってきて、綱吉はクロームから視線を落とし、彼の胸元から千種の鼻筋を見下ろした。
 そして、戸惑っているクロームににっこりと笑いかける。
「クロームも乗っちゃえ」
「え?」
「柿ピーを押し潰すんだっびょん」
「………………」
 大人しい彼女を嗾ける綱吉に、調子に乗った犬が賛同して自分の背中を指差す。最下層では無言で苦情を申し立てた千種が、眉間の皺を深くして最後に溜息を盛大に零した。
 ただでさえ既に重いのに、ここでクロームまで乗ったらどうなるか。彼女はおろおろしたまま三人を順番に見て、下ろした手で胸元のリボンを抓んだ。
「大丈夫、へーきへーき」
 何を根拠にか綱吉は高らかに笑って、困っている彼女を誘って手招いた。その上では犬がにんまりと意地悪く笑い、普段馬鹿にされている千種を虐めるのが楽しくて仕方がないと表情で告げる。
 クロームは本当に良いのか、千種に問いかけの視線を投げた。
「……好きにすれば」
 もう勝手にしてくれ、と投げやりの千種の声がぼそりと春風に乗って流れた。

「これくらいじゃ、――壊れない」

2008/03/22 脱稿