甘煮

 人気の無い廊下を抜けた先、生徒の大半は怖がって近付こうともしない区画の只中に、その部屋はある。
 確かに彼は怖いし、暴力沙汰も日常茶飯事で、傲岸不遜かつ横暴な性格をしているのは否定しない。けれど、知り合って親しくしてみると案外良いところも色々あるんだぞ、と震え上がる自分の心を叱咤して、綱吉は丸めた拳でドアを軽くノックした。
「開いてるよ」
 間をおかず、室内からよく通る低い声が聞こえてくる。綱吉は深呼吸をして心臓の拍動を整えると、口腔に溜まった生温い唾を一息に飲み干してドアノブに手をかけた。
 金属の冷たい感触を指の腹に受け止め、ぐっと力を込めて押し出す。乾いた音が耳を掠め、微かな軋みを伴って木製のドアはゆっくりと内側へ開かれた。
 踏み出した爪先が隙間を滑り、遅れて綱吉の細い体が室内に流れて行く。踏み出した足をその場に留め、内部を窺い見た彼は、いつものように応接室奥の机に向かって座っている人物を確かめ、あちらが自分を見ていないに関わらず小さく会釈をした。
「失礼しま~す」
 小声で呟き、もう一歩分身体を内側へ移動させてドアを閉める。開ける時よりもよっぽど注意を払っていたのに、どうやっても閉まる時の方が大きな音が響いてしまって、押し出された空気を首筋に受けた彼は、身を硬くして肩を竦めた。
 パタン、という音に引きずられて雲雀が顔を上げ、作業中の手を止める。間断なく室内に充満していた軽い音が途端に途切れ、綱吉は普段と少しだけ違う景色に、引っ込めた首を伸ばし、右に傾けた。
 違和感を覚え眉間に皺を寄せた彼は、何が違うのだろうとようよう注意深く室内を観察して、最後に雲雀を見た。直線上で目が合って、反射的に逸らしてしまう。その態度が気に食わなかったのか、雲雀は露骨にムッとして机を指で叩いた。
「なに?」
「いえ、あ……や、なんでも」
 不機嫌そうに発せられた彼の声に臆し、綱吉は胸の前で指を広げて先端だけを左右重ね合わせた。泳いだ視線は天井を這い回り、横にずらした首を正面に戻す勇気も出せなくて、彼は言葉を濁らせながら何か良い言い訳がないものか必死に探した。
 が、自分の限界を早々に悟って、下手な嘘をついて後でお仕置きされるよりは、との判断から溜息混じりに肩を落とす。踵を揃えて二度上下させた後、応接セットが並ぶ部屋の中央部に向かっていそいそと歩き出した。
 パタパタ言う上履きで磨かれた床を行き、黒い革張りのソファの後ろを通り抜ける。雲雀は座ったまま動きもせず、頬杖をついて綱吉の行動を逐一観察しているようだった。その彼の前には、見慣れぬ黒い物体が置かれていた。
 普段其処にないものだ。
「パソコン?」
「ああ」
 横に長い四角形をふたつ組み合わせた形状で、蓋も兼ねるモニター部分が今は百二十度ほどの角度で固定されている。そこに映し出されているものは綱吉の位置からだと当然見えないが、キーボードの配列だけは斜めに見えたので、間違いない。
 頷き返した雲雀に、止めかけた足を前に繰り出して綱吉は質問を重ねた。
「ゲームですか?」
「どうしてそうなるの」
 彼の不躾な問いかけに呆れた口調で切り返し、雲雀は薄型のノートパソコンを持ち上げると、傍らに立った綱吉が見えやすいように位置を僅かにずらし、モニターの角度も広げてくれた。
 初期設定から変更されていないブルーの壁紙を覆い隠すように、幾つかのソフトが起動している。その多くは文書作成等の実務系ファイルで、残念ながら綱吉が期待したものはなにひとつ無かった。
 あからさまな落胆を表に出した彼に、雲雀が苦笑する。
「僕がゲームをするとでも?」
「意外性を衝いてみたんですけど」
 そういう人間に思われていたのだろうか。疑問を口に出した雲雀に、綱吉はちょっとした冗談だから真に受けないでくれと舌を出した。
 パソコンはまだ真新しいが、完全な新品というのではなさそうだ。頻繁に指が触れるエンターやスペース、それから幾つかのキーは表面に記されたアルファベット、ならびに平仮名が掠れている。
「ヒバリさんのパソコンですか?」
「違うけど、まあ、今はそうかな」
「?」
 もっとよく見えるように、雲雀の座る椅子の後方へ移動した綱吉が彼の肩越しに薄っぺらな液晶モニターを覗き込む。書きかけの文書ソフトの上で、次の文字を強請るように黒い線が絶えず点滅していた。
 内容は学校の運営に関するものらしいが、ザッと目を通しただけでは何のことだかさっぱり分からない。綱吉が眺めていても雲雀は文句を言わず、画面を切り替えようともしないので、秘匿義務の生じるものでない事は確かなようだが。
 曲げた腰を伸ばした綱吉に、気配が遠ざかるのにあわせて上を向いた雲雀が淫靡な笑みを口元に浮かべた。
「没収物」
「……さようで」
 さらりと告げられた事実に、綱吉はコメントに苦慮してそれだけをどうにか言い返した。視線は再び宙を泳ぎ、背中に回した手で空気を掻く。
 何処の誰から没収したものなのかは、聞かないことにする。こんなところで変に共犯者にされて、余計なとばっちりを食らうのだけは御免被りたい。
「データは一度初期化してあるから、問題ないよ。まあ、色々と先にやらせてもらってはいるけれど」
 怖いことを言わないで欲しい。聞き流す体勢に入っていた綱吉は表面に乾いた笑みを浮かべ、どう返事をしたものやら迷いつつ、再び雲雀の横からモニターを眺めた。
「お仕事、お邪魔だったら帰ります」
 教科書や空の弁当箱が入った鞄は教室で、今頃主を待ち惚けて机の横で寂しくしていることだろう。獄寺の「帰りましょう」コールから逃げる為に、ホームルームを終えた直後にトイレに行くと言い訳してその足でこちらに出向いたので、ひょっとしたら彼はまだ教室で本当に綱吉を待っているかもしれないが。
 彼の忠犬具合にはほとほと呆れてしまう。懐いてくれるのはいいが、手綱を締めておかないと突拍子もない方向へ走り出すから、御する綱吉も一苦労だ。
 彼と一緒にいるのは楽しいし、色々と新しい発見も出来て面白いから好きだ。
 けれど雲雀と一緒に居る時間のように、微妙な緊張感を孕む痺れにも似た感覚は味わえない。ざわざわと心が波立つのに、それが決して不快だとは思わず、むしろ好ましく思っている自分は、どこか可笑しいのだろうか。
 確かめるように投げた綱吉の視線を斜めに受け、雲雀は思案気味に眉を寄せた。
「別に、構わないけどね、僕は。ああ、お茶を煎れてくれる?」
 その「構わない」がどこに掛かるのか、微妙なニュアンスを取りあぐねて綱吉は曲げた指の背を顎に押し当てた。瞳を揺らし、雲雀が次に言葉を続けないのを確かめてから、彼が発した内容を脳裏で反芻させる。
 そして並べられた単語から、居ても構わないという風に勝手に解釈して、彼は腕を下ろすと同時に深く頷いた。
「不味いって、後から文句言わないでくださいね」
 応接室たる此処には、簡易キッチンにも劣る設備しか用意されていない。踵を返し、机の脇を抜けて行った綱吉の言葉に、雲雀はそうと知られぬよう口元を緩めて笑った。
「言わないよ」
「聞きましたからね」
 しつこく念を押し、綱吉はすっかり覚えてしまった茶器の在り処へ到達すると、膝を折り曲げ、腰を低く沈めた。
 尻までは落としきらず、踵を数センチばかり浮かせて中腰の姿勢を取る。引き戸を横にスライドさせて中を覗きこんだ彼は、上履きの底が時折床に着くリズムで身体を揺らしながら、綺麗に片付けられている棚の中に右手を入れた。
 続けて左手も薄暗く狭い空間へ差込み、中に納められていたものを取り出す。右手には銀色の小型の湯沸かし器、左手には黒い電気コードが握られていた。
 ふたつでワンセットのそれを、綱吉はコードだけ棚の上部に置いて部屋を出て行く。五分としないうちに戻って来た彼は、今度はドアを開ける時ノックすらしなかった。
 行儀悪く足でドアを蹴って閉め、両手で抱えた電気ポッドの壁面を覆う水滴を指で弾き飛ばす。重そうなそれを棚の空いた空間に立てて、放置していたコードを取ると本体と壁際のプラグとを繋げた。
「よし、っと」
「浄水器の水道使った?」
「勿論です」
 雲雀の問いかけに、濡れた手を満足げに叩いた綱吉が自信満々に返事をする。親指まで立てて、ばっちりだと言わんばかりの威勢の良さには苦笑させられて、雲雀は弾みでキーボードをひとつ分横へずらして文字を打ち込んでしまった。
 間違えた、と声には出さないものの表情には滲み出る。一連の彼を見ていた綱吉は、気まずげに髪を掻いた雲雀に小さく噴き出して笑いかけた。
「コーヒーでいいですよね」
「うん」
 耳に心地よいキーボードの操作音に肩を揺らし、綱吉は再度開けっ放しにしていた戸棚を覗き込んだ。
 逐一身体のどこかを動かし、落ち着き無くそわそわしている彼を盗み見て、雲雀は素早く間違いを訂正して続きを入力していく。画面と綱吉の横顔を交互に見やる彼は、殆ど自分の手元に視線を向けていなかった。
 上機嫌にインスタントコーヒーの粉が入った瓶を取り出し、少し濁った銀色のスプーンと黒のコップを続けて棚上部に置く。彼はそこで一旦手を止め、人差し指で唇を小突きながら考え込んだ。
「んー……」
 無意識に漏れた声が雲雀の意識を拡散させる。指と一緒に左の足の爪先が床を叩いていて、トントンと刻まれるリズムは、雲雀が忙しなく両手の指を動かしていたテンポとほぼ同じだった。
 雲雀が仕事を中断しているのにも気付かず、彼は眉間の皺を深くした後、もう一度腰を屈めて背中を丸めた。両膝に手を添え、視線を棚内部に這わせてから左手でオレンジ色のマグカップを抜き取る。
 頻繁に使われるものではない為、比較的奥の方へ押し込められていたそれは、取り出す最中で手前にあるものを引っ掛けてしまい、軽い乾いた音が立て続けに綱吉の耳を打った。
 半円の持ち手に人差し指を引っ掛け、口を下にして取り出されたマグカップに、雲雀が漆黒の瞳を翳らせる。半秒後、彼は納得した様子で小さく頷いた。
 それは嘗て、綱吉が自分でこの部屋に持ち込んだものだ。だが日頃、雲雀が率先して茶を煎れる時は、大抵白いティーカップを使用してしまうので、出番はさほど多くなかった。
「ふふ」
 何が楽しいのかは分からないが、嬉しげに目を細めて綱吉はそのカップを大切に抱え、上下を返して雲雀のカップに並べて置いた。
 肉厚のマグカップは、雲雀の黒いカップに比べて少し大きい。綱吉はそのふたつのカップを指で軽く押し、スプーンを引き抜いてコーヒーの蓋を開けた。
「飲めるようになったの?」
「うへぇあ!」
 瓶を傾け、鼻歌交じりにコーヒー豆を掬い取ろうとしていた綱吉だったが、横から雲雀に声を掛けられ、素っ頓狂悲鳴をあげて両手を万歳させた。
 握り損ねた瓶が危うく彼の指をすり抜けていくところで、いくらかはスプーンの端を飛び越えて並んだコップに降りかかる。落とす寸前で抱き締めなおした綱吉に、話しかけた雲雀もが驚いて目を丸くし、頬杖から顎を浮かせて唖然と口を開いた。
 不意を衝いたつもりはなかったのだが、結果的にはそうなる。吃驚した、と跳ね上がった心拍に汗を滲ませた綱吉の赤い顔を見詰めた雲雀は、右の人差し指が「U」を押しっ放しにしているのさえ気付かない。
「急に話しかけないでくださいよ!」
「あ、ああ……すまない」
 裏返って落ちた瓶の蓋を探し、視線を足元へ落とした綱吉が不満たらたらに声を上げ、珍しく圧倒された雲雀が言葉少なに謝罪する。若干裏返ったその口調は彼にとって非常に珍しいものなのに、綱吉は自分の事で手一杯で気にも留めず、ソファの傍まで転がっていた蓋を拾い上げて軽く撫で、埃を落とした。
 息を吹きかけて最後にもう一度軽く叩き、カップからはみ出てしまった粉を指で寄せて集め、山を作る。後でまとめてゴミ箱に捨てるつもりなのだろう、丁度電熱線で暖められた水が白い湯気を吐き出したのを受け、綱吉は強張らせていた肩の力を抜いてスプーンを握り直した。
 黒いカップへ一杯分、こげ茶色の粉を掬って入れ、蓋を閉める。綱吉の分は空っぽのままで、どうするのかと手を止めたまま見守る雲雀の前で、彼は片膝折るとまた棚に顔を突っ込んだ。
 コーヒーと入れ替わりに抜き取られたのは、黄色いティーバッグ。そういえばそんなものも此処にはあったな、と日頃自分が使わない為すっかり忘れていたものを思い出し、雲雀は肩を竦めた。
 それは綱吉専用と言って良い飲み物で、雲雀は滅多に口にしない。いつも濃い目のブラックコーヒーを愛飲している彼の好みは、綱吉も充分知るところではあるけれど、肝心のそのコーヒーを綱吉はまるで飲めなかった。
「えーっと、なんでしたっけ?」
「コーヒー、飲めるようになったか、聞いたんだけど」
 数個分のティーバックがまとめて入れられている袋を空け、紐を引いてひとつ取り出した綱吉が今頃になって質問を掘り返してくる。だから雲雀は頬杖をつき直して、無駄に打ち込んでしまった文字をひとつずつ消しながら、意味を失ってしまった先程の疑問を舌に転がした。
 最後の一文字を消し終え、雲雀は改めて続きを打ち込むべく、構えを解いて肘を机に寝かせた。
「飲めませんよ?」
「みたいだね」
 タイミングを完全に逸してしまった雲雀の問いかけに、綱吉は目を丸くして何を当たり前の事を、と不思議がる。彼のその子供っぽい仕草に、雲雀は自分にも呆れつつ、まだ新品と言って差し支えないノートパソコンに指を走らせた。
 これが完成しないと次に進まない事業が幾つか積み上げられているから、実のところ彼は少し焦っていた。
 出来れば今日中に終わらせたいところだが、折角訪ねて来た綱吉を無碍に追い返すのも勿体無いと思っている。両方を得るのは難しい、心の中で嘆息して雲雀は漢字変換の候補を探し、幾度かスペースキーを連打した。
「どうぞ」
 そこへゆっくりと、彼を驚かせぬように気を遣った綱吉が、声の後に黒いカップを差し出した。
 暖かな湯気が立ち上り、雲雀の鼻腔を淡く擽る。
「ああ、有難う」
 頼んでから実に十分近く経過していて、頼んだことすら忘れかけていた。雲雀は前屈みになっていた姿勢を真っ直ぐに戻し、背凭れに身体を預けて深く息を吐いた。
 受け取ったカップも熱を帯び、温かい。緩い傾斜の持ち手に指を掛け、左手で底を支え持った彼は、離れていく綱吉の手を追って顔をあげた。
 彼の左手にはオレンジ色のカップが握られ、同じく穏やかな湯気がいっぱいに漂い揺れていた。
 空いた右手も使って胸元にそれを引き寄せた綱吉は、息を吹きかけて表面の熱を冷ましてから口をつけた。が、まだ十二分に熱かったらしい。声にならぬ悲鳴をあげ、慌てて赤い舌をカップから引きぬいた。
「熱い?」
「です」
 礼も兼ねてカップを高い位置まで掲げた雲雀が、肘を引いてなみなみと注がれた黒い液体に自分も息を吹きかける。
 白い湯気がいっぱいに割れて広がり、一瞬だけ彼の視界が薄く濁った。上唇を縁に押し当てて静かにカップを傾けてやると、伸ばした舌先に触れた熱は確かに飲用に適する温度とは言い難かった。
 カップに口をつけたまま眉間に皺寄せ他彼を見下ろし、それ見たことかと綱吉が苦笑する。
「ブラックでよかったんですよね」
 そして今頃になって不安になったのか、雲雀の為にコーヒーを煎れたのはこれが初めてでもないのに、彼は瞳を震わせ、僅かに身を屈めて距離を詰めて問うた。
 雲雀は返事をせず、舌で液体の表面を掻き回し、空気に触れる面を増やして熱を冷まして、濃すぎるくらいの液体を喉へ流しこむ。ほんの少しだけ上下に動いた彼の喉仏を見送って、綱吉は両手に包んだ自分のカップに視線を落とした。
「まあ、合格点」
 インスタントコーヒーをどうやれば不味く作れるのか、むしろ教えて欲しいところではあるが、雲雀が満足げに呟いてカップを置いたのを受け、綱吉はホッと胸を撫で下ろし、先程よりは温度を下げた紅茶を啜った。
 気をつけてはいるのだけれど、水分を吸う音はどうしても漏れてしまって、飲みつつ綱吉は渋い顔をする。斜め下では座ったままの雲雀が声もなく笑っている気配が伝わり、喉から胃へと落ちていく温もりをリアルに感じ取りながら、彼は頬を膨らませた。
 放課後の校庭からは、運動部の声がひっきりなしに響く。サッカー部が紅白戦をやっているようで、応援なのか野次なのかわからない声が応接室の窓越しに聞こえて来た。
 雲雀の仕事がまだ当分終わりそうにないのを雰囲気で察し、綱吉は自分の身を持て余して紅茶に舌を垂らした。猫がミルクを舐めるみたいに、幾分量が減った液体の波打ち際を舐めて飛沫を散らす。自然と後ろに傾いた体は、臀部の中ほどが雲雀の机に当たったところで止まった。
 足の爪先で身体全体を押し上げ、半端に腰を預けて身を寄せる。作業中の机に乗り上げた彼を横目で見た雲雀は、しかし特に何も言わなかった。
 雲雀は部屋の中央に向かって深く椅子に座り直し、綱吉は窓を向いて浅く机に腰掛ける。穏やかな時間が緩やかに過ぎて行き、雲雀は苦いばかりの液体を静かに口に含ませた。
 砂糖をたっぷり入れて非常識に甘い紅茶を啜った綱吉は、彼の落ち着いた横顔を斜め上から見つめ、平然と苦いばかりのコーヒーを飲み干す彼に舌を出した。
 彼のカップの底では、溶け損ねた砂糖が透明な塊を形成していて、傾けると非常に鈍い動きで下へ落ちていく。
「よくそんな苦いの、飲めますよね」
「うん?」
 殆ど砂糖の塊でしかないそれに舌を伸ばし、飲み込んだ綱吉がぼそり呟いた。
 雲雀はパソコンの上で動かしていた右手を止め、左手で持ったカップをも口の前で留めた。浮いた肘を下ろし、西日を浴びている綱吉を眩しげに見上げる。
 雲雀としては、紅茶に砂糖を大匙で二杯も入れてしまえる綱吉の味覚をむしろ疑いたくなる。そんなものを口に入れたらと思うと、想像するだけで雲雀は胸焼けがした。
「慣れればどうってことないよ」
 雲雀だって最初からコーヒーが平気だったわけではない。だが気付けば、これなしでは仕事が巧く捗らないくらいになっていた。依存症に近いかもしれない、この歳でこれでは将来がやや心配な程に。
「別に、飲むなって言ってるわけじゃないんですけど」
 自分が飲めないのは根性が足りないからだと言われたようなもので、ぶつぶつと愚痴を零し、綱吉は空っぽのカップを手の中で転がした。広げた掌で挟み持ち、互い違いに前後に動かして丸いそれを揺らす。
 暮れ行く光を受け、オレンジは色合いを強めて輝いていた。瞳を細めて斜陽を受け止めた彼は、底に残っていた数滴の水分を舐めるかどうかで迷い、意地汚いかと実行に移す寸前でやめた。
「けど、なに?」
 作成途上のデータを上書き保存した雲雀が、矢張り言いかけて途中で言葉を途切れさせた綱吉に続きを促す。彼の視線は黒いカップに負けず劣らず黒々とした波を立てる液体に注がれ、まだ仄かに熱を残すそれを持ち上げると一気に飲み干した。
 喉を焦がす苦さが緩みたがる神経を引き締め、雲雀は吐息と共にカップを机に戻した。
 脇へ目をやると、綱吉がさっきよりも幾許か座りを深くし、太股にマグカップを添えて握っていた。
「なんていうか、あんまり飲みすぎると胃が荒れるんじゃないかなあ、て」
 雲雀の強靭な肉体は綱吉も重々承知しているが、それは外側であって、内側は案外脆いかもしれない。もっとも、猛獣を弱らせるのにも充分な毒にさえ抗ってしまえる彼だから、綱吉の心配は杞憂に終わる可能性が非常に高いのだが。
 今度はカップの底で腿を叩いた彼の言葉に、雲雀はひっそり微笑んで視線を浮かせている彼に向け手を伸ばした。
「?」
 触れはせず、宙を掻くだけで降りていく。しかし他所向いていた綱吉の注意を引きつけるには充分で、俯くと同時にカップを机に置いた彼は、なんだろうかと意味深に笑んでいる雲雀へ僅かに身を寄せた。
 左手も机に添え、上半身を傾ける。雲雀の指がなおも彼を招く動きを見せて、怪訝にしながらも逆らう気は毛頭ない綱吉は、首を傾げて彼の目を覗き込んだ。
 オレンジ色の夕焼けに照らし出された影がふたつ、重なり合い、離れる。
「……」
 唇に残ったコーヒーの苦さに、綱吉が渋い表情を浮かべて近くにある涼しげな雲雀の眼を見下ろした。
「意味、わかんないんですけど」
 此処でキスをする理由が、さっぱりだ。
「いや?」
「それは……好き、ですけど」
 返された短い問いかけ。微妙にかみ合わない会話に、綱吉がもごもごと言いよどむ。
 雲雀とのキスは好きだ。けれど今みたいに唐突に、雰囲気もなにもない状況でされると、対応に困ってしまう。
 唇を舐め、手で覆い隠した綱吉が夕焼けに顔の赤さを誤魔化して瞳を泳がせた。
 そんな風にして照れている彼に、雲雀は空になったお互いのコップを並べ、角をぶつけて音を響かせる。チン、と軽い音が一度だけふたりの間で揺れて、ささやかなその歌声を楽しみ、雲雀がもうひとつ爪で叩いた。
「君が言うから」
「俺が?」
 囁かれた声に綱吉は目を見開き、思い当たる節を探して首を倒した。が、該当する台詞になかなか行き当たらないようで、そのうち腕を組んで本気で考え込んでしまった。
 難しい表情をして居る彼をまた笑い、雲雀はマウスを握ると起動させているソフト右上にある×印を順番にクリックしていった。
 次々に消えていく窓に、振り向いた綱吉が怪訝な顔をする。
「いいんですか?」
「終わりそうにないしね」
 先ほどの疑問は何処へやら、頭の切り替えが早すぎる綱吉の弾んだ声に、雲雀は肩を竦めて諦めに近い表情を浮かべた。
 けれど綱吉は、これで雲雀と一緒に帰れると嬉しそうだ。最近の雲雀は色々と事務処理や細かな作業が多くて忙しくて、帰りが遅い日が多かったから、まだ日が残っている時間に肩を並べて歩けるのは本当に久しぶり。
 急に元気になった彼を横に、雲雀はパソコンの電源を切ってモニター部分の蓋を閉じる。綱吉は画面が光を失っていく様を見送り、カップを洗ってこようと机を降りた。
 その彼を引きとめ、雲雀が再び手招く。
「はい?」
 行き過ぎかけた身体を逆再生で戻し、椅子を引いた雲雀へ顔を寄せた綱吉の鼻筋に、彼の吐息が降りかかる。
 ち、と軽く音を立てて触れるだけのキス。直後ふたりの間で、オレンジがゴトンと鈍い音を響かせて転がり落ちた。
 割れはしない。ただ爪先に激突された綱吉が、痛みに悲鳴を上げる事も出来ずに、恨めしげに雲雀を睨むだけ。
「……だから、意味が」
「糖分補給」
「はい?」
 喉を鳴らして雲雀が笑い、間抜けな顔をした綱吉の前髪を梳きあげる。
 無防備な額にもキスを贈って、彼は惚けている綱吉を置き去りに帰り支度を整えるべく、席を立った。
「ヒバリさん……」
 小馬鹿にされた気分で、綱吉は触れられたおでこを髪の毛ごと押さえつけて呻く。
 まだ分かっていない彼に、雲雀は意地悪く目を細めた。
「君が充分甘いから、僕に砂糖は必要ないよ」
「ばっ――」
 聞いた直後、頭を噴火させた綱吉が雲雀のカップまで落として裏返った悲鳴をあげた。
 慌てふためく綱吉に今度こそ声を立てて笑い、雲雀が鞄にノートパソコンを押し込める。
「早くしないと、置いていくよ」
 まだ握り拳を戦慄かせて突っ立っている綱吉に手を振り、行動を促す。耳まで真っ赤に染めた彼は悔しげに唇を噛み、落としたコップを拾って大慌てで部屋を飛び出して行った。
 夕焼けが窓の外の空を鮮やかに染め上げる。
「うん、……甘い」
 微かに濡れた唇をなぞった雲雀の声を、床に落ちる影だけが聞いていた。

2008/03/21 脱稿