想い誘うは月の篝火

 窓の向こう側からは虫の声が静かに波立ち、風に揺れたカーテンは気まぐれに月を隠す。部屋の灯りを完全に消してもまだ室内は仄かに明るく、手元を確かめる程度ならば充分事足りた。
「う……」
 微睡みの中で寝返りを打ち、俯せになった三橋は精細さを欠く思考で今日の出来事を大雑把に、引いては寄せる波の如く振り返り、反芻していた。
 試合後、阿部を欠いたミーティングという名の反省会と軽い練習。公式戦で初の敗北という悔しさに、全員の意気はむしろ沈むどころか急上昇を遂げたものの、部の要である人物の不在は矢張り大きく、重いものだった。
 熱を持った肩にアイシングを押し当て、すぐに俯きたがる顔を気力だけで持ち上げて前を見据える。次の試合は考える暇もないくらいに間近に迫っているのだ、秋の新人戦はこちらが足踏みしていても待ってくれない。
 阿部の存在に依存し、甘えていた自分を思い知る。何時までも彼に頼るばかりの、背負われているだけのお客様気分で居てはいけないのだ。
 なによりも自分が、このチームで勝ち星をあげたいのだと願うのならば、ひとりで考えて行動出来るくらいにはならなければ。
 枕に突っ伏し、上掛け布団を被りもせずに開けっ放しの窓から零れこむ月明かりに身動ぎする。遅い夕食を食べて、風呂に入って。労いの言葉をかけようとして躊躇し、結局特別なことを何も言えずにいつも通りの小言ばかり口にしていた母を思い出して小さく笑う。投げ捨てた携帯電話では幾つかのメールが、恐らくは早々に敗戦を知ったいとこからだろう、着信を知らせるランプをゆっくりとしたリズムで明滅させていた。
 昼の暑さは日暮れから時間が過ぎていることもあって完全に気配を絶やし、吹き込む空気の波は冷たい。乾かしきらずにいた髪の毛は重く額に張り付いて邪魔だったが、床に投げ捨てたタオルを拾いに起き上がるのも億劫だと、三橋は蕎麦殻の枕に額を押し付け、首を左右に振った。
 毛先に張り付いていた水滴が幾らか飛び散り、そのうちのひとつがむき出しの首に落ちる。火照った体温で即座に蒸発してしまったようだが、一瞬の冷たさは残って彼は閉じていた瞼を持ち上げた。
 もぞりと柔らかなスプリングを軋ませて、広げていた両腕を折り畳んで身体に寄せる。肘を立てて胸元に空間を作り、背筋を測定する時のように背骨をそらせた彼はふと、沈みかけては浮き上がる意識の片隅で何かに呼ばれた気がして、目を瞬かせた。
「ん……?」
 水面を漂う浮き輪のように意識を漂わせていたのが、一気に陸に引っ張られた感じだ。ぼんやりしていた頭はゆっくりとだけれど確実に冴えていき、凛とした月明かりの中で三橋は小さく欠伸を零し、右手で右のこめかみを軽く叩いた。
 今度は背中を丸めて膝を立て、上体を起こす。壁に吊るした時計は上半分が闇に紛れ、時針ごと見えなかった。
「う、あ」
 自分は此処で何をしていたのだろう。それさえも即座に思い出せず、三橋は再びベッドへ身体を倒そうとした。自分が自分でない不恰好な粘土細工めいて思えて、意識は覚醒しようとしているのに身体がそれを引きとめている。眠りたいのに眠くなくて、寝たいのだが寝られない。
 なにかが自分を現実の時間に引きとめている。
 呻くような息を吐き、もうひとつこめかみを叩いて乖離している意識と肉体を重ね合わせる。あふれ出した欠伸は噛み殺しきれず、遠く微かに聞こえる虫の声にまどろんで、彼はやっと、床の上でタオルに絡め取られている携帯電話が震えているのだと気付いた。
「んー……?」
 こんな時間に誰だろうか。
 メールの着信とは違う震え方に眉間へ皺を寄せて、今一度、今度は枕元の目覚まし時計を覗き込む。深夜であるには違いないけれど、日常ならばまだ起きている時間帯だった。
 ヴヴ……と低い唸り声をあげてタオルを震わせていた携帯電話は、三橋が持ち上げた時計を下ろすと同時に振動を止めた。随分長い時間粘っていたようだが、ついに諦めたのか。彼はコトンと音を立てた時計から視線を外し、左足を伸ばしてベッド脇から下ろして床の冷たさに短い悲鳴をあげた。
 タオルの端を、行儀が悪いとは思ったが面倒臭さが先に立ち、足指で抓んで引き寄せる。だが単純に絡まっていただけの携帯電話は彼の望む動きをしてくれず、柔らかな布だけがベッドサイドに渦を巻いただけに終わった。
「む」
 思惑は外れ、生意気な携帯電話にカチンと来た彼は唇を尖らせた。自分がズボラをしたのが悪いのに、寝起きだからだろうか、棚に上げて、仕方なく三橋はのそりと身体を横倒しにし、腕をめいっぱい伸ばして床に転がる小型の端末を指で小突いた。
 握り締めるのには少し遠くて、何度か床で弾かせながら届く距離まで引き寄せる。どうにか手に出来たときには息も絶え絶えで、素直にベッドから降りていたほうがずっと早く片付いたのに、そこに考えは至らない。
「誰……」
 阿部か、野球部の面々だろうか。
 けれど今日の試合はいつも以上に体力、そして精神力を消耗させられた。学校を出る時にはもう皆くたくたで、いつもなら元気一杯に手を振って別れの挨拶をするのに、それさえも無かった。
 今頃みんな、疲れと敗戦の傷を癒すべく眠りに就いているはずで、それは三橋も同じ。
「ルリ、かな」
 未だ完全な目覚めの一歩手前にいる三橋は、思い浮かんだいとこの名前を口ずさみ、中央で折り畳まれている携帯電話を左手の親指で広げた。
 どうせメールの返信が無いのを気にして、つまらない用件でかけてきたに違いない。念のために着信履歴の名前だけ確認して、今日はもう寝てしまおう。窓を閉めるのだけは忘れずに、身体を冷やさぬよう布団に包まって。
 そして明日は、いつも通りに元気に、早朝練習に参加する為に早起きするのだ。
「ふ、ふへ、ふへへ」
 想像していたらなんだか急に笑いがこみ上げてきて、三橋は目尻に浮かんだ涙をぐっと堪えて手で拭った。そして薄暗い室内で異様なまでの明るさを放つ液晶画面に視線を落とし、瞼を強く擦った所為で歪んだ視界が元に戻るより早く、息を呑み、沈黙した。
 声さえも出ず、自分が今何を考えているのかも分からず、自動的に省エネモードに突入して液晶から明るさが消えるまで、左手で端末を握り締めた状態のまま呆然と。
「……しゅ……」
 名前を読み上げようとして、言葉が喉に詰まる。三橋は舌の上で転がした音を吐き出せずに飲み込み、適当に触れたボタンを押して画面に明るさを呼び戻して、そこにはっきりと刻まれた名前に胸を震わせた。
「ちゃ……」
 どうして自分はもっと早く、電話が鳴っている事に気付かなかったのか。バイブレーション機能にしていたのを悔やんでも遅く、彼は瞬きも忘れて再び画面が暗闇に染まるまで見詰め続け、肺の奥底に溜まっていた分も全部吐き出し、夜の冷えた空気を吸い込んだ。
 身体中の節々は痛み、疲れは確実に蓄積されて眠りを求めている。それなのに睡魔は一瞬で吹き飛んでしまって、三橋は徐々に拍動を強める心臓をパジャマの上から撫で、着信履歴から続くショートカットボタンを押した。
 スピーカーから遠く聞こえてくる呼び出し音ひとつひとつが心拍と重なって、今にも飛び出しそうだった。
『廉!?』
 たっぷり三秒、たった三秒。
 鼓膜を突き破る寸前のボリュームで聞こえて来た大声に身を仰け反らせ、三橋は頭にキーンときた懐かしい人の声に、鼻の奥で詰まらせていた息を一気に吐き出した。
「ふえっ……」
 泣きたいわけじゃないのに、どうしてか涙が零れて仕方が無い。
『廉! 廉? おーい、れーん』
「聞こえて、る……よ」
 泣いているのを知られたくなくて、目尻を指で交互に拭いながら勤めて笑おうとする。けれど鼻声なのは隠し切れなくて、返事の直後電話の向こうの人物は黙り込んでしまった。
 ベッドの上で膝を折って倒し、足首を外側に流して座り直す。窓辺で揺れるカーテンの間から虫が飛び込んできたので、三橋は右手で追い払いながら腰を浮かせかけた。
『悪い。寝てたな』
 長い沈黙の末に続けられた言葉はそんな内容で、きっと彼も彼なりに、どう話を切り出そうか迷っていたのだろう。心遣いが暖かく、嬉しくて、三橋は上げた右手を戻すと同時にスプリングに体重を預けて、今度こそ自然に浮かんだ笑みで返した。
「ううん。……起きた」
『寝てたんじゃねーか』
 真面目に言ったつもりだったが、相手には呆けた返答と捉えられてしまったようだ。忍び笑いが聞こえてきて、もし電話越しではなく面と向かって喋っていたとしたら、今のタイミングでぽかりと頭を小突かれていただろう。
 情景が当たり前のように瞼の裏に浮かんで、三橋も口元を緩め、最後の涙を指で弾き飛ばした。
「起き……て、た」
『ごめんな』
「ううん」
 一文字足りなかった返事を言い直せば、神妙な声で謝られてしまう。信じてもらえていないのか、どうなのか。それは直接顔が見えない所為で分からない。
『…………』
「…………」
 そこで会話は途絶えて、夜のしじまに虫の声と風の囁きだけが右の耳から流れてくる。携帯電話を押し当てた左の耳からは、微かに呼吸する気配が。何を言おうか、どう告げようか悩んでいる、そんな空気を匂わせて。
 気遣われてしまっている、その雰囲気を肌で感じ取る。
「ごめ、ん」
『廉』
「ごめん。修ちゃん、ごめ……」
『なんでお前が謝るんだよ』
 咄嗟にその言葉が口から零れ落ちて、奥歯を噛み締めた三橋の頭を撫でるように、電話口から叶の声が響いた。
 ほんの少しの呆れを含んだ、けれど優しくて柔らかい声。耳慣れたテノールは砂に零れた水のように、心にさっと流れて沁み込んでいく。心地よさに目を閉じれば、直ぐ其処に彼がいる錯覚がした。
 わけもわからぬまま謝って、慰められる。そういえば自分たちは中学時代でもこんな風に、先に進まない会話を幾度も繰り返していた。
『廉、次謝ったら怒るぞ』
「ふえっ、ご、ご……」
『れーん?』
「ご、ご……んぐ」
 咄嗟にまた謝ろうとして言葉が出て、じろりと睨む声が聞こえてきて三橋は狼狽する。必死に息を吸って誤魔化し、どうにか最後までは言わずに済ませてから、やっと長い時間をかけて息を吐いた。
「修ちゃん」
 呼びかけに、彼の反応は鈍い。
「あの、お、俺」
 言いかけた言葉は直ぐに詰まって音にならない。飲み込んだ唾の温さが気持ち悪くて、吐き出したい気持ちに駆られて三橋は胸を掻いた。
 俯かせた視界では、ベッドを覆うシーツが無数の皺を波立たせて濃い影を浮かび上がらせている。そこに自分の影が二重にぶれて刻まれていた。まるで心と体が分離しかかっているようで、可笑しい。
『おつかれさま』
 不意に。
『お疲れ様、廉。頑張ったな』
 彼の声が耳を打った。
「しゅ……」
『本当は、こういうことばは掛けちゃ駄目なんだろうけど。ゴメンな、良い言葉、浮かばなかった』
 目を見張り天井を仰いだ三橋の耳に、やや自嘲気味に笑っている叶の声が続く。照れ臭そうに頬を掻いているのだろうか、一瞬だけ声が受話器から遠くなった。
 虫の声がはっきりと聞こえて来て、三橋は左を向いた。窓辺で揺れるカーテンが静かに笑っている、差し込む月明かりは柔らかくて澄んでいた。
 胸を刺す痛みは試合に負けたことへの悔しさか、投げ勝てなかったことへの後悔か。あそこまで勝ち進めたのは自分の力量だとどこかで慢心していなかったか、阿部におんぶに抱っこの状態に甘んじて大切なことを忘れてはいなかったのか。
 静寂の雨が心に降り注ぐ。動けなくて、三橋は頭を垂れた。
「修ちゃん、俺……」
 勝ちたかった。みんなと、あのチームで、もっと。
 奥歯を噛み締め、搾り出した声は果たしてきちんと音になって伝わっただろうか。
 長い、長い沈黙が夜闇の中で寝返りを打つ。唐突にガサガサとざわめきが三橋を包んで、ハッとした彼は窓の向こう側で風に揺れる木々を見た。
 なんて事は無い自然現象、普段ならば気にも留めないものに驚いている。
『悔しい?』
 息を呑んで瞬きを忘れた瞳に、叶の姿が見えた気がした。
『負けて悔しい? 廉』
「……」
 負けて、負けて、負け続けた中学時代。試合が始まる前からチーム全体を覆う倦怠感に、ベンチに座るのが怖くて何度も逃げ出そうと足は出口を向いた。けれどマウンドに立つ事が、自分は確かに此処に居るのだと皆に教えられる唯一だったから、逃げられなかった。
 他に逃げ場なんか無かった、だからマウンドに固執した。
 勝てなくて、勝ちたいという気持ちも次第に萎えていくのが分かるのに、それでも譲りたくなかった。叶は何度も訴えかけていたのに、その声に耳を塞いだ。
 ぐじ、と思い切り鼻を啜り、三橋は手の甲で力いっぱい目を擦った。油断すると即涙が溢れ、大粒の雫が零れて頬を汚してしまう。元から泣き虫なので涙を堪えるのには慣れていない、それを懸命に、腹に力を込めて堪えた。
『廉』
「く……や、し……っ」
 それでも叶の、切なさの滲み出た声で名前を呼ばれると、耐えようとする気持ちが泣きたい心に負けて折れてしまう。
 鼻水でしょっぱい唇を噛み締め、三橋はそれだけをどうにか言葉にした。
 電話の向こうで叶が密やかに笑う。
『そっか。……だよな。俺も、悔しい』
 負けて悔しいと思うのは、誰の心にも平等に訪れる感情。けれど三橋は、もう長いことその気持ちを忘れていた。
 勝てないから、どうせ負けるからと最初から諦めて、割り切って、心が麻痺していた。
「しゅう、ちゃん……?」
『俺が、教えてやりたかったな』
 ふと、電話の向こうで叶も泣いているのではないかとそんな気がして、三橋は素早く瞬きを連続させた。
 開いた口を閉じるのも忘れて四角く切り取られた夜空を眺める彼の額を、ふわりと浮き上がったカーテンの影がそっと撫でる。
「……修ちゃん」
『勝つ喜びとか、負けた悔しさとか。俺が、お前に、本当は』
 三星で、一緒に、経験したかった。
 途中で途切れた言葉の残りを脳裏に描き出し、三橋は漸く乾いた唇を閉ざして表面に舌を這わせた。
 軽く舐めて潤いを補い、吐き出そうとした息を寸前で留めて再び飲み込む。行き場の無い右手が膝元のシーツを手繰り寄せ、襞の数を増やして新たな影を作り出した。
 握り締めると、柔らかくて薄い布はするりと彼の手から逃げていく。
『廉。俺はずっと、悔しかったよ』
「……っ」
『お前を、あそこから連れ出してやれなかった。ごめんな』
 暗く、冷たく、寂しい、悲しい場所から。
 野球をしない野球部という場所から、三橋を救い出してやれなかった。
「ちがっ」
『いいんだ。俺が勝手にそう思ってるだけだから』
 言うつもりはなかったと重ねて詫び、叶は言葉を途切れさせる。
 三橋は腰を浮かせ、そして沈め、ベッドの上で二度跳ねて首筋を撫でた冷たい水に心で悲鳴をあげた。慌てて右手で触れれば、髪の毛の根元はまだ完全に乾いていない。ドライヤーはもう夜遅い時間なので使うのは憚られ、彼は仕方なくベッドサイドに落としたままだったタオルを拾い上げた。
 けれど広げて膝に載せるだけで手は止まり、そこから進まなかった。
「お、れは……」
『俺は、お前が野球、止めないでいてくれて、嬉しいよ』
「……」
『いいんだ、廉。お前はやっと、そこで……西浦で、野球がやれたんだ』
 三星で出来なかったことが、西浦なら出来る。叶が三星でしてやれなかったことを、教えてやれなかったことを、西浦の皆は三橋に与えてくれる。
 そこに自分が居ないのは悔しい。けれど同時に、とても嬉しいのだ。
 当たり前の事を、当たり前に与えてもらえなかった彼に、野球をやる喜びを、楽しみを。自分の代わりに、彼に教えてくれて、ありがとう、と。
 電話越しに伝わってくる暖かさに三橋はしゃくりを上げ、また新しく零れた涙に慌てて腕を持ち上げた。
 右の小手に両目を押し当てて左右に擦る。それでも止まらない涙はどうしようもなくて、必死に鼻を啜って耐えるのにどうにもならない。電話の向こうにまでその気配は伝わってか、叶は小さく笑っていた。
「だ、て……俺、泣く、な、……て」
 試合終了後のベンチで、悔し涙は零すなと叱られた。泣いたら悲しみが逃げる、悔しさが薄れる。だから流してはいけないのだ、忘れないためにも。
 でも、我慢しても、耐えても、溢れてしまうものは、どうすればいいのだろう。
『廉』
「お、れ……俺、くや、し……」
『うん』
「勝、ちたか、た……勝ちたか――」
『うん』
「阿部君が怪我して、田島君と、みんな、で、頑張った、けど、……俺、俺もっと、もっと巧くなりたい。強くなりたい、みんなと勝ちたい。勝ちたいよ!」
『勝てるよ』
 ふわりと、風が三橋を包み込む。膨らんだカーテンの裾が部屋に溢れて、零れ落ちた月の雫が暗がりに満ちた。
『勝てるよ、廉。お前はもう、ひとりじゃないんだから』
 其処に自分が居ないのは矢張り悔しいけれど、自分もまた違う場所で既に歩き出している。一緒には行けなくても、目指す先が同じならば、また交差する日は来ると信じてる。
 その時、お互い胸を張って笑えるように。
 けど、今は。
 今だけは。
「しゅ……ちゃ……」
『だーかーらー。泣くなって、泣き虫廉』
「泣い、て、ない……よっ」
『嘘つけー』
「うそ、じゃない、よっ」
『そっかー?』
 ぼろぼろぼと零れていく涙、止まらなくて三橋は頻りに赤い頬を擦った。
 明日部活で散々言われるだろう、赤く腫れた目は分かり易い。
 けれどこれは、悔し涙じゃない。
『廉、見えるか? 月が綺麗だ』
「うん……うん!」
 遠く離れても、同じものを見上げて、同じように感じ取れる。繋がっているのだと知る、今もこうして彼と居られる幸せを思う。
 ぐっと腹に力を込め、最後の涙を袖で拭って三橋は顔を上げた。叶の言うとおり、綺麗な月が儚くも健気に夜空を照らしていた。
「修ちゃん……」
『ん?』
「あ、りが……と」
 照れくさくて段々小さくなっていく声に、叶は笑ったのだと思う。見えなくてもそれが分かって、三橋は胸に灯った温かな炎を抱きしめてそっと目を閉じた。
 ベッドに斜めに倒れ込む、跳ね上がった両足も揃ってスプリングに沈んだ。
 布団も被らず、窓も閉めずに横になった三橋からは即座に寝息がこぼれ落ちる。聞こえた叶は、電話口の向こうで呆れた顔をして肩を竦めた。
『おやすみ、廉』
 どうか、良い夢を。

2008/03/24 脱稿