魂祭 第三夜(第五幕)

 暗く、低く、嘲りが。
 ぞっと総毛立ち身震いを引き起こす声が。
 唐突に落ちた視界の闇に、綱吉の真後ろから、囁く声が。
「――!」
 飛びずさり、振り向く。驚愕に見開かれた瞳は瞬きも出来ずに世界を凝視するが、綱吉の背後にも前方にも、上下左右いずれにも、一秒前から景色は何の変化も現れず、また現れようともしなかった。
 確かに聞こえたのに、声の主の影は無い。
「そら……みみ……?」
 一瞬で跳ね上がった心拍数と体温に唾を飲み、綱吉は落ち着かない心臓を支えて改めて周囲を見回した。
 だが足元には粗い造詣の地蔵様がぽつんと鎮座するだけで、小さな日陰を提供している橡の裏にも人影はなかった。
「な……に」
 汗が全身を覆い、喘ぐようにして綱吉が掠れた声で呟く。
 今確かに、誰かが耳元で囁いた。聞いた事の無い声、けれど頭の片隅にこびり付く違和感。知っているとも感じている、だが知らないと断言して今の声を聞かなかったものとして処理したがっている自分も居ることに、綱吉は混乱した。
 口呼吸で胸を上下させ、震える指で打掛を握り締める。
 足元の地蔵に巻かれた赤い前掛が異様なくらいに脳裏にこびり付き、剥がれない。この世の色が赤だけを残して消し去られた感覚に陥って、綱吉は自分を包んでいる打掛に悲鳴をあげた。
 何が自分の身に起こっているのか、何が起ころうとしているのか。恐怖に苛まれ、彼はいやだ、と一際強く雲雀の名前を呼んだ。
 気付いて。そう切に魂を震わせて。
 その琴線に、なにかが触れる。
「っ!」
 深層心理部分、綱吉が大事に抱き締めて唯一雲雀にだけ門戸を開いている空間に響く足音。
 間違いない、綱吉は瞬時に不安に満ち溢れていた表情を綻ばせ、髪に挿されたままだった黄色い花にも負けない笑顔を咲かせて自分に触れる気配を振り仰いだ。
「ヒバリさっ――」
 しかし。
「おや」
 目を剥き、綱吉は畦道に繋がる水路を跨ぐ、歩幅にして一歩分しかない橋を渡る青年の姿に声を失くした。
 あちらも、綱吉の姿を視野に納めて一寸驚いた風に唇を開き、右に小首を傾がせて彼を見詰め返す。
 珍妙な沈黙が両者の間に流れる。綱吉は、絶対に間違えるはずが無いと自負していた己の感覚がばらばらに砕け、崩れていく音を聞いた。
「……おや」
 青年は人の顔を見た瞬間に表情を凍りつかせた綱吉に対し、それ程気を悪くする様子もなく橋を渡りきって大地に爪先を下ろした。人好きのする笑顔を浮かべ、よろめいてそのまま地蔵に踵を乗り上げて後ろ向きに倒れてしまった綱吉に近付き、手を差し伸べる。
 どうぞ、と指を揃えた掌を向けられるが、綱吉は何も言えず、反応も出来ず、見ず知らずの青年に涙を浮かべて首を横へ振った。
 逃げようと身体を裏返し、むき出しの膝で草葉の茂る地面を叩く。だが転がした地蔵を思い切り骨で踏みつけてしまって、罰当たりなことをしたと考えるよりも先に痛みに脳髄が沸き返り、綱吉はみっともなく悲鳴を上げて再び仰向けに草地に倒れこんだ。
 右手を伸ばしたままの青年が、濃紺の髪の奥に隠した右目を眇めて笑う。
「大丈夫ですか?」
「う……いったぁ」
 衝撃で挿しっ放しになっていた花が落ちて緑に沈んだ。今までよくぞ無事だったと、根性ある花を褒めてやるべきだろうか。
 薄茶色の髪ごと頭を振った綱吉は、打った膝から伝わる新たな痛みに顔を歪め、打掛を敷物にしてその場に座り込んだ。襦袢から覗かせた左の膝小僧が見事にぱっくり裂けて、血を流していた。
 今日は散々だ、と尻に敷くところだった地蔵様を先に起こし、綱吉は涙目で白い肌を赤く染める血の流れを睨みつける。橡の日陰が顔半分だけにかぶさって、綱吉の視界は斑模様に染まった。
「大丈夫ですか?」
 反応が芳しくない綱吉を前に腰を屈め、先ほどの青年が同じ台詞を繰り返す。それで漸く目の前の人物を思い出した綱吉は、一瞬名前を呼びそうになった自分に驚きつつ、まじまじとその青年を見詰め返した。
 知らない顔、の筈だ。
 ディーノに抱いたのと似た既視感。だが彼程心の奥底に触れるものはなく、混乱した頭が錯覚したのだろうと綱吉は直ぐに思考を切り替えた。
 姿なき不気味な囁き声の事などすっかり忘れ、綱吉は自分の足の傷と、心配そうに見詰めてくる青年の顔とを交互に見詰める。それから露になっていた太股を慌てて打掛ごと襦袢の下に隠し、膝を草の上に伸ばした。
「へいき、です」
「草履はどこかに落としたのですか?」
 千切れた草と砂利を含む土とを赤い液体で貼り付けた足の裏に、青年が顔を顰めて問う。答えられなくて、綱吉は緋色の打掛を抱いたまま乾いた笑みを浮かべて誤魔化した。
 まさか通りすがりの、何処の誰とも知れぬ相手に事情を説明するわけにもいかない。彼の若干引き攣った笑みを暫くじっと眺めた青年は、ややしてから綱吉が喋りたくない旨を察してくれたようで、曲げていた膝から両手を外し、背筋を伸ばした。
 背は、高い。だが山本よりかは若干低いだろうか。黒髪かと思ったが陽射しの下では濃紺色をしている髪は、後頭部の高い位置で一部が跳ね返って独特の形状を作り出している。右目だけが前髪に隠れがちで、薄物の袷姿は何処か洒落ており、村の人間でないのは即座に理解出来た。
 それに綱吉は、並盛村の住民ならば全員顔と名前を覚えている。最近越してきた人が居るという話は聞いていないから、旅人だと推察するがそれにしては身なりも小奇麗で、らしくない。
「ちょっと、失礼」
 注意深く青年を観察しつつ、彼はいったい誰だろうかと綱吉が考えている間に、青年は袖口から折り畳まれた木綿の手拭いを取り出して広げた。
 柄も無い一枚布の、綱吉から向かって左上を口元に運んだ彼は、角を糸切り歯で挟んで対角上の右下を左手に握った。
 右手は左上のやや下側に添えられ、軽く握られる。ぴんと張った布で何をするのかと綱吉が待っていると、彼は唐突に音を響かせ、その布をふたつに引き裂いた。
「っ」
 短くも鋭い音に綱吉が肩を強張らせる。だが彼はふたつになった布を更に二度、同じ作業を繰り返して合計四つに分割した。
 膝を折って綱吉の前に腰を落とした青年と、至近距離で視線が絡む。にっこりと微笑まれ、反応に困っている間に彼は綱吉の怪我をした足にいきなり触れた。
「やっ」
「じっとして」
 ディーノに触れられた記憶が蘇り、咄嗟に身を捻って青年の手から逃れようともがく。だが低く伸びのある声に制され、綱吉はひくりと喉を鳴らして動きを止めた。
 縦長の短冊状に引き裂かれた布を膝に宛がった彼は、綱吉が痛まぬようにゆっくりと慎重な手つきで浮かせた綱吉の脚の裏で布の両端を交差させた。軽く引っ張って緩まぬように調整し、血が染み込んで赤くなった表面部分に戻して二重に結びつける。
 これで痛みが消えるわけではない、だが少なくとも傷口を圧迫されることによって出血の量は減るだろう。
「あ……」
「こちらも」
 まさか手当てを受けるとは思ってもみなくて、竦んでいた綱吉は抱きかかえた体の強張りを解きながら青年の行動に目を瞬かせる。彼は短い呟きの末、残っている布のうち一枚を丸め、綱吉の足の裏にこびり付いていた汚れを拭い取った。
 更には膝の怪我同様に、血の出ている箇所に布を巻きつけられる。忘れかけていた痛みが一瞬だけ戻ってきたが、それもじきに消えて不思議な感覚だけが綱吉に残された。
 これでよし、と綱吉の左右の足に手拭いだったものを巻き終えた青年が、汚れた布きれを袖口に戻して両手を叩く。小気味の良い音がひとつ場に流れ、ぼうっとしていた綱吉は慌てて彼に頭を下げた。
「あ、ありがとう」
「いえいえ」
 にこやかな笑みを崩さず目尻を下げた青年を改めて見詰め、綱吉は頭の片隅に引っかかっている疑問を掘り返した。
 やはり何処か、で……会ったことがある、気がする。
 だが具体的にそれがいつ、何処での事なのかは思い出せない。昔村に住んでいて、他所へ越していった家族の誰かだろうか。
「僕の顔に、何かついていますか?」
 あまりにもまじまじと見詰めすぎていたのだろう。全く動かない綱吉の視点に青年は首を傾げ、己を指差して目を瞬かせた。それにはっとなった綱吉は、失礼なことをしたと彼に詫びて座ったまま再び頭を下げた。
 だが彼は広げた手を横へ振って、恐縮している綱吉に顔を上げるよう促す。
「貴方のような可愛らしい方に見詰めていただけるのなら、喜んで」
「あの、俺、男ですよ……」
 なんだか勘違いをされているような気がして、綱吉は足を引いて身体を小さく丸めながら言い返す。抱き込んだ打掛の赤に白い肌を隠し、上目遣いに見やった綱吉に、彼は「おや」と口を窄めた。
 改めて観察され、今度は綱吉が照れ臭さに顔を背ける番だった。
「それは、失礼」
 謝罪しつつも口調にはどこか人をからかうような、楽しげな色が含まれていて、綱吉は首を引っ込めて顔を伏した。
「この村の方ですか?」
「はい。……あの、貴方は」
「ああ、これは失礼。僕はろ――」
 片膝を立てた青年が、すっかり忘れていたと自己紹介をすべく掌を胸へと押し当てる。だが全てを言い終えるよりも前に、綱吉が背を預けている橡の木に大きな烏が羽を広げ、高らかと鳴き声をひとつあげて降り立った。
 この青空の最中にあって異形とも思える程に大きな、鮮やかに黒々とした艶のある翼を折り畳み、烏は警句を発するかの如く綱吉、否、青年に向かって切っ先鋭い嘴を広げた。
「わっ」
 突然の事に驚き、綱吉が身を竦めて上を向く。故に彼は、青年が憎々しげに烏の丸い瞳を睨み、舌打ちしたのを知らない。
 そして。
 凪いでいた心の奥底にある静かの海に、雫が落ちる。
「つなよし?」
「ヒバリさん!」
 聞き覚えのある待ち望んだ声が心にも、そして耳からも直接飛び込んできて、一気に表情を綻ばせた綱吉は勢い良く顔をあげた。
 橡の裏側にある青草の茂みを掻き分け、村の中心部から山へ向かう小道を真っ直ぐ進んできたらしい雲雀が、木陰を作る幹の後ろから顔を覗かせて彼を見た。怪訝に眉を寄せて、飛び出して来た虫を手で追い払い綱吉に近付く。
 求め続けていた人物に漸くめぐり合えて、綱吉の全身から力が抜けていく。よかった、と何が良かったのかよく分からないものの脱力しながら呟いた彼の丸い背中を見送った雲雀は、いったいどうしたのかと首を傾げながら前方に広がる長閑な田園風景に顔を顰めた。
「誰か、いた?」
「え?」
 今さっきまで其処にはもうひとり、綱吉以外の人物が居た。けれど言われて気付く、正面を向いた綱吉の目には誰の姿も映らなかった。
「あ、れ?」
 濃紺の髪をした青年が、忽然と姿を消えていた。
 まさか白昼夢を見たのかと綱吉は頭に疑問符を浮かべるが、そっと捲った打掛の下にある膝と足にはしっかりと、彼が巻いてくれた木綿の手拭いが赤黒く染まりつつ残されている。だから夢幻の類ではない筈なのだが、では綱吉が烏と雲雀に気を取られたあの短時間で何処へ行ってしまったのかと問われれば、答えは出ない。
 遮るものが殆どない見晴らしの良い平地では、身を隠す場所などそう多くない。まさか煙の如く消えてしまったとでも言うのか、綱吉はこんがらかる頭を押さえて首を振った。
 彼の動きに合わせ、元から大きい打掛がずれていく。
 本来その下には、長衣もしくは襦袢が身に着けられているものだ。しかし今の綱吉は、ディーノによって大きく肌蹴させられた状態そのままであり、当然華奢で色の薄い肩がむき出しとなって現れる。
 そもそも綱吉が何故ディーノの愛用している打掛を身にまとっているのか。最初にそれを疑問に思いつつも、ひょっとすれば綱吉が我侭を言って借りただけかもしれないと、変に勘繰るのを止めようと試みていた雲雀だったが、明らかに何かがあったと分かる綱吉の着乱れように、彼は目を剥き、腕を伸ばして綱吉の腕を掴んだ。
「うっ」
「なにがあったの」
「いたっ、痛いですヒバリさん。待って、やだ」
 強引に体の向きを変えられ、雲雀の側に反転させられた綱吉は掴みかかってくる彼から逃れようと足をばたつかせた。
 だが結局それさえも、隠していた己の状況を彼の前に展開させる結果を導き出すだけだった。露になった雪のように白い太股に残されている雲雀の記憶にない傷跡に、彼は瞬時にそれが誰の手によってつけられたものかを悟り、腸を煮え繰り返らせて激高に顔を染めた。
「あの男!」
 まるでその打掛自体がディーノであるが如く力任せに握り締め、包まれている綱吉ごと斜め上に引っ張りあげた雲雀が声を荒立てて綱吉を怖がらせる。
 憤怒に彩られた雲雀の形相は、嘗て見たことのないまでに激しい感情に満ち、爆発寸前のところでぎりぎり持ち堪えている印象だ。握り締められた拳が憤りに細かく震え、それが綱吉にも伝わって彼は琥珀色の瞳を大きく広げると、目の前で怒りに戦慄いている彼の腕に手を伸ばし、縋りついた。
 肌が触れ合った瞬間、意図せぬまま、綱吉の中にあった記憶が怒涛の勢いで雲雀の中へと流れて行く。
「うっ――」
 凄まじい暴威で濁流となって押し寄せる圧倒的な情報量に眩暈を覚え、雲雀が左の膝を折って姿勢を低くする。綱吉は咄嗟に身を翻そうとしたが、掴まれたままの腕がそれを阻んで逆に彼を前のめりに引き倒した。
 溢れ出す記憶を止める術はない。お互い隠そうとしても相手に筒抜けになってしまう状況が、こんなにも恨めしいとは思わなかった。
「ヒバリさん、駄目。いやだ、やめて!」
 綱吉の視点から語られる、道場での出来事。
 雲雀の笛に合わせて神楽を舞う綱吉が、思う通りに行かずに何度も失敗して悔しがっている。暑さに負けて長衣を脱ぎ捨てて、本番さながらに練習を続けるが、どうしても同じ箇所で足を捻って転んでしまう。雲雀が呆れつつもう一度、と横笛に唇を押し当てて楽を奏で、疲れてへとへとになっている綱吉も気合を入れなおして再び舞を。
 そうしているうちに了平たちが訪ねて来て、雲雀が綱吉に背を向けて応対に出る。話が長引いているのを見て自分も気になって、彼は汗で肌に襦袢を張り付かせたまま雲雀の後ろから飛び上がって外を覗きこんだ。
『上は着なさい』
『え? あ……れ、わ!』
 雲雀に言われ、其処に了平だけでなく山本や獄寺まで居るのを知って慌てて道場奥へ戻る。獄寺が何か叫ぶのが聞こえたが内容までは分からず、雲雀が軽くあしらっているうちに身支度を雑にだが整えて、再び雲雀の横へ。
 フゥ太と行く約束をした旅芸人一座が到着したと聞き、綱吉の心は途端躍り上がる。けれどひとり居残りで稽古を命じられ、確かに雲雀の言う通り最後まで通しで出来ていない以上のんびりしていられないのも分かるから、不貞腐れながらも彼は頷いて人気が去った道場で扇を広げた。
 着込んで居ると矢張り暑過ぎて、再び襦袢一枚の身軽な格好になって初手からなぞり返す。けれど幾度やっても最後に至る一歩手前で躓き、巧くいかなくて投げやり気味に床へ両手両足を投げ出した彼の耳に、誰かが噴出す笑い声が響いた。
 脳裏に浮かび上がったディーノの姿に、雲雀は口惜しげに唇を噛んで思い切り心の中で悪態をついた。
「いたっ」
 肉体的にはならなかったが、精神的にその攻撃が綱吉に向いてしまい、甲高い悲鳴に雲雀はハッとする。けれど流れ込んでくる綱吉の記憶は勢い止まず、無理矢理思い出したくないものを掘り返された綱吉は、同じ箇所を二度抉られて傷の痛みに涙した。
 嫌だ、そう唇が刻むが雲雀にももう止められない。
 心の在り処を問われ、好悪を問われ、ディーノを拒みきれないまま綱吉は嫌いではないと彼の居場所を残してしまった。神楽の見本を見せてやるといわれ、最中に蘇った知らぬ自分の思い出に困惑した綱吉のその記憶に、雲雀自身も動揺を見せて目を見開き彼を見返す。
「知らない、俺じゃない!」
 泣き叫ぶ綱吉が大きくかぶりを振って雲雀の胸に顔を埋める。こんなことまで知られたくなかったと、彼は嗚咽を零しながら自由の利く手で雲雀の胴衣を握り締めた。
 ディーノに押し倒され、肌を弄られる。胸元を暴かれ、昨日の雲雀との名残を見られ、なぞられ、恥辱に悶えながら懸命に拒絶するがディーノの手は止まらない。
 必死に雲雀を呼ぶけれど声は届かなくて、嫌だと逃げたがる綱吉をなお強く拘束して彼は綱吉の心を暴いた。
 綱吉の命を、神の手で自在に出来るものだと軽く見たディーノへの怒りが増幅する。
「あの男!」
 激憤に身を翻し、雲雀が漸く綱吉を解放する。握り続けられた手首は鬱血して赤く染まり、残る痛みに顔を顰めた綱吉は踵を返して歩き出そうとする雲雀に慌てて背中からしがみついた。
 長い打掛の裾に手拭いを巻いただけの足が引っかかり、踏み止まれない綱吉の指先が地を滑った。
 ずるりと斜め下に向かって後ろから腰帯を引っ張られる。あと一歩進めば解けるところまで緩められた雲雀は慌てて身を引き、腰の位置でぐずっている綱吉に目尻を吊り上げた。
 放せ、そう言い掛けた声を寸前で飲み込む。
「いやだ、いかないで!」
 先に叫んだ綱吉の悲痛な声に、我を忘れかけていた彼は冷水を浴びさせられた気分で生まれつき細い目を丸くした。
「つ……」
「俺が悪いの、俺が、俺がちゃんとヒバリさんの言いつけ守らなかったから! 俺が、もっとディーノさんに、出来ないって……ちゃんと、俺が言えてたら、だから……だから、ごめんな、さ……」
 踵を擦って立ち上がることも出来ずにいる綱吉の傍へ戻り、手を下ろさせる。頬を撫でてやると、ずっと泣き続けていたのだと分かる涙の跡が無数に残っているのが分かって、一瞬であっても怒りから綱吉の心の傷を忘れていた自分を彼は呪った。
 掌全体で顔を包んでやれば、その温もりにやっと安心できたのか、彼は新しい涙をひとつ零して目を閉じた。力を抜き、膝立ち状態から腰を落としてその場に座り込む。
「君が謝ることじゃない」
「でも」
 低く囁くと、瞼を閉ざしたまま綱吉が小さく首を横に振る。頬に添えられた雲雀の両手に自身の手を重ね、近くなった彼の胸に再び額を押し当てた。
 ごめんなさい、掠れる声でそう彼が呟くのが聞こえ、雲雀は奥歯を噛み締めながら綱吉の震えが止まらない身体を抱き締める。
「君は、なにも悪くない」
 悪いのはあの男で、綱吉に非はない。誰も彼も許容して受け止めようとする綱吉の優しさにつけこんで、無理矢理に雲雀との関係に割り込もうとしたディーノの身勝手さこそ、恨むべきだ。
 それなのに綱吉は、自分が悪いと主張してやまない。あんな目に遭っておきながら、ディーノを庇おうとする。
 傍を離れるべきでなかった、あの男から目を離すべきでも。
「僕も……すまなかった」
 この子を愛おしく思う。一生を賭けて守りぬくとも誓った。
 けれどこんなに簡単に約束を破ってしまった、雲雀の後悔に綱吉は顔を上げ、瞬きの最中に涙を零し首を振る。
「ごめ……さ、い……」
「謝らなくていい」
 泣きすぎて赤くなった目尻に顔を寄せ、唇を押し当てた雲雀は其処に浮かぶ暖かな雫をそっと啜った。肌を撫でた音に綱吉は首を竦め、彼の舌先が頬に刻まれた涙の川を辿っていく感覚に身震いする。
 薄く開いた唇から熱い息を吐き、待ち焦がれる感覚を先走った心で感じて彼は背筋を伸ばした。
 持ち上げた手で雲雀の衿を握り、膝の傷が開くのも厭わず草地の上で脚を広げる。自分から彼の身に擦り寄って、胸を重ね合わせて触れ合った唇の柔らかさに酔い痴れた。
「んぅ――」
 上から押し潰すように強く吸われ、打掛の下で腰を引き寄せられる。互いの心音が肌越しに直接感じ取れて、早鐘を打つ拍動に綱吉は頬を赤らめて露を滴らせる赤い自身の舌を慌てて引っ込めた。
 だが追い縋る雲雀に下唇を噛み付かれ、短い悲鳴をあげて握っていた彼の衿を下に引っ張った。元から緩めに前を合わせる癖のある彼の胸元が肌蹴て、綱吉とは違う鍛えられた筋肉が彼の視界に落ちた。
「ヒバリ、さ、……ん」
 口呼吸をしながらだらしなく舌を伸ばし、胸の苦しさから早く解放して欲しくて彼の首に手を伸ばす。雲雀はそんな綱吉の背を抱えると、見える範囲に誰も居ないことを素早く確かめて彼を草の上に横倒しに寝かせた。
 倒れた地蔵が脇腹を掠め、恥かしげに綱吉が身を捩る。だが構う事無く雲雀は彼に影を落とし、余裕の無い素振りで綱吉の膝を割り開いた。
「綱吉」
「ん、い……い」
 熱を孕んだ瞳で名前を呼べば、綱吉は躊躇なく頷いて雲雀の首に両腕を絡ませる。自分から顔を寄せて口付け、持ち上げた膝で彼を挑発した。
「誰に教わったの」
 一瞬息を詰まらせて堪えた雲雀が、左肘を地面に落として綱吉をねめつける。日頃は自分からあまり積極的に動こうとしないくせに、こんな時に限って自分から脚を絡ませて来て、つい疑って掛かった雲雀に綱吉もまた言葉につまり、ぷいっとそっぽを向いて返事を誤魔化した。
 けれど彼の脳裏に浮かんだ、いつぞやの夜に雲雀が綱吉相手に仕掛けた出来事を読み取られ、当の本人が渋い表情をして顔の下半分を手で覆い隠した。
「……すまない」
 そこで謝られると、綱吉もいたたまれない気持ちになる。だってこんな事を許すのは雲雀しか居ないのだから、必然的に教え込む存在もひとりきりだ。
 ぐっと腹に力を込めて睨み、仕返しとばかりに雲雀の首を爪で引っ掻いて綱吉は顎を擽った彼の黒髪に噛み付いた。草を食む牛みたいにもぐもぐと口を動かし、味がしないそれに唾液を塗して吐き出す。
「つなよし……」
 べったりと濡れた髪の毛を額に張り付かせ、雲雀が困惑した様子で名前を呼んだ。
 いい気味だと舌を出してあっかんべーをしていると、その伸ばした舌の表面をなぞられて噛み付かれる。鼻先に濡れた髪が触れて冷たさに総毛立ち、綱吉は背に当たる地面の感触を嫌って彼に身を寄せた。
 彼に与えられるあらゆる熱に、全身が歓喜を表明している。
「ヒバリさん、俺、おれ……」
「なに?」
「ヒバリさんじゃなきゃ、俺、いやだ」
「……知ってる」
 息も絶え絶えに告げられ、間をおいた雲雀が小さく呟く。その、彼にしては珍しく照れたような、嬉しそうな赤い顔に綱吉はきょとんとしてから、雲雀に負けないくらい嬉しそうに表情を崩した。

 緑の葉を茂らせる橡の枝に停まった烏が、やれやれと人が肩を竦めるのに似た動きをみせ、なるべく下を見ぬように視界を前面に展開して三尺を越える漆黒の羽を折り畳んだ。
 細い爪で器用に枝を捕まえた大烏は、時折呪が刻まれた羽で風を撫でては道行く村人の視界を誤魔化し、橡の木が聳える辻に足を向けぬように仕向ける。何も知らぬ村人は、呑気に雑談を交わしながら自分が意図的に道を選ばされているのにも気付かずに目的地を目指して、大回りしながら去って行った。
 そんな大烏を遥か遠くから繰り、髭の男は先ほどの烏と同じ仕草で肩を竦めて欠伸を噛み殺した。
「ちっくしょー、若いっていいなあ」
 橡よりもずっと背丈がある一本杉の頂に胡坐をかき、頬杖ついて愚痴を零した男は、脂性の髪を乱雑に掻き回してもう一度欠伸をした。
 背筋を伸び上げて左腕を頭上高くに持ち上げ、骨を軋ませてまた前屈みに姿勢を取る。昼間から酒臭い息を吐いて頬杖を解いた彼は、当面あの辻に近付く存在が無いと確かめると、式神を操る力を僅かに緩めて村の別地点へ意識を飛ばした。
 瞬間、背筋が凍りそうな凄まじい眼力で睨み返されて彼はひゅぅ、と窄めた唇で息を吐いた。
 こちらが悪戯をする前に勘付かれてしまい、背筋に浮かんだ汗に男は背に畳んでいた漆黒の翼を大きく広げ、胡坐をも解いて中空に飛び上がった。
 居場所を悟られた以上、攻撃を受ける可能性がある。移動した方が得策だという判断は正しく、彼がつむじ風を呼んだ直後、先の杉の木の先端が突如燃え上がり、蛇の舌をくねらせた。
「ちっ」
 舌打ちした男は自分を支える旋風に命じ、放った疾風で炎を纏った杉の枝を真っ二つに切り裂いた。そして嫌な臭いを放ちながら焦げ行く枝の周囲にも風を起こし、真空状態を一時的に作り出して炎を掻き消す。
 延焼を免れた杉林に真っ黒に炭化した枝が落下していくのを見送って、男は冷や汗を拭い今度は注意深く村の気配を窺った。
 最初のあの程度の警告で退いてくれたのは、自分が助かった、の一言に尽きそうだ。本気で歯向かわれていたならば、傍に居た綱吉も含め、かなり危険な事になっていたに違いない。
 いや、危険が訪れるのはこれからか。
「しっかし、なんて物を飼ってやがるんだ」
 あれの正体は、今のやり取りで大体把握した。あまりにも想像通り過ぎて、笑う気も起こらない。
「お山の方が騒がしいと思っていたが、原因はあれか」
 涼しい顔をして村の中心部たる笹川の家に向かっている濃紺の髪色をした青年を睥睨し、男は短く舌打ちするとどうしたものか、と腕を組んで考え込む。
 だが自分は人の世の理を外れ、傍観者となるべくしてなった存在。記録者が介入するのは、歴史的にも宜しくなかろう。
 とはいえ。
「あの坊主がみすみすこの状況を見逃すはずがねえ。だったら、これも流れのひとつなのか?」
 自分よりもよっぽどこの村に、そして綱吉に執着している存在が、あの子を危険にさらす存在を懐に招き入れるわけがない。ならば何か考えあってのことなのだろうが、それにしたって危険度が高すぎる。
「……これはちょっと、やばいんじゃねーの?」
 旋風の名残に問うが、答えは見えない。男は仕方が無いと肩を竦めて頭を掻き、北に聳える霊峰に眦を下げた。

 庄屋で行き先を聞き、辿り着いた村はずれの広場で既に組み立て作業に入っているランチアと犬の姿を目に留めた骸は、少し離れた場所で荷の整理をしていた千種に歩み寄った。
 舞台を組むという大工仕事を、犬の補助はあるものの一手に引き受けているランチアは、槌を振り下ろす最中に骸の横顔を見やったが彼から何の反応も無いのを確かめると、自分の仕事にすぐさま思考を切り替えた。犬もまた気付いていたが、こちらは相手にしてもらえなかったことを拗ねているようで、ぶつくさ文句を言いながら子供みたいに頬を膨らませる。
 千種は細かな小道具を使う順序ごとに分けて並べており、歩み寄る骸に最後に気付いた。軽く会釈して眼鏡のずれを直し、首を傾げる。
「お疲れ様です、千種。どうやらこの様子では、境内は使わせてもらえなかったようですね」
「あの山の上、らしいので」
 眼鏡を押し上げた手で北に聳える山を指し、骸がそちらに視線を向けるのを待ってから彼はぶっきらぼうに言った。指は即座に折り畳んで下ろし、中断させた作業に戻っていく。
 骸はそんな千種の素っ気無さを咎めもせず、袖口に手を入れて腕を組むと懐かしそうに目を細めた。
「ああ、そういえば、そうでしたね」
 言われてみれば確かにそうだった気がする。すっかり忘れていた事実が、この土地を踏むことで様々に蘇ってくるのを体感し、彼は感極まった様子で相好を崩した。
 そんな骸の独白を聞くとはなしに聞き、千種は手を止めて膝に載せた。
「随分と」
 こんな彼は珍しい、と千種は眼鏡の奥に潜ませた細い目をやや剣呑に眇めた。
「楽しそうですね」
 飾り気の無い率直な感想に、骸は振り向いて大仰に頷き返す。当然だと言わんばかりの態度に千種は眉を潜め、小さな溜息をひとつ零した。
 広場には彼ら以外に、誰も居ない。丹塗りの小さな鳥居の向こう側に、随分と小奇麗な狐の像が左右並んでこちらを見ているだけだ。こじんまりした社が佇む空間は非日常的であり、本殿も立派な山の上の神社に比べれば見劣りするのも仕方が無いが、広さも立地条件も申し分ない。
 骸は千種の前に並べられた木箱から鋭く尖った刃の欠片をひとつ摘み、陽光を受けて鈍く輝くそれの表と裏を交互に揺らして残酷な笑みを口元に浮かべた。
「明日はとても楽しい日になりそうです」
「それは、良かったです」
「ええ、とても」
 相槌を打った千種に作り物めいた笑みを返し、彼は手にしていた細長い刃を瞬間、真後ろへ弾き飛ばした。
 ギャッ、という金切り声と共に木立の中から何かが落ち、地面に沈む。片方の眉だけを持ち上げた千種が見たものは、無数の羽を散らして砕け散る一羽の烏だった。
「さて、準備に取り掛かりましょうか」
 両手を叩いて埃を落とし、槌の音を響かせるランチアに向き直って骸が呟く。
 千種はひとつ欠けてしまった刃の代替をどうしようか迷いつつ、溜息の末緩慢に頷いた。

 各々の想いが交わり、巡り、すれ違い、そして。
 魂祭の朝が来る――

2008/02/16 脱稿