魂祭 第三夜(第四幕)

「同じだよ」
 彼が口ずさんだ名前を即座に否定するが、その綱吉の否定を拒絶してディーノは身を低くし、互いの吐息がかかる距離まで顔を近づけた。
 覗きこむ空色の瞳は、綱吉であって綱吉でないものを見ている。けれど彼は、それが綱吉と同じだと言い放つ。
 何を根拠に、と身を捩るが適わなくて、一度は逃れた口付けも二度目はかわしきれなかった。
「んぅ――」
 唇を吸われ、舌を絡め取られ、熱い息を吹きかけられる。雲雀以外の誰にも触れられたくない場所に手を伸ばされ、撫でられて、綱吉は身を固くして声を堪えた。
「同じ、魂の匂いがする」
「ちがっ……俺じゃない!」
 水墨画のような白黒の世界で、ディーノを見ていた存在。ディーノが、視ている存在。
 綱吉は否定して、自由になった両腕で彼を押し爪も立てて牽制するが、ならばディーノに感じた懐かしさはなんだったのかと問われれば答えに詰まってしまう。初対面であった筈の彼に既視感を抱いたのは紛れもない事実であり、彼を「識って」いる自分を確かに綱吉は強く意識した。
 雲雀とは似て異なる安堵感を彼の腕から受け取り、ずっと昔にその膝に抱かれた記憶を疑いもせず受け入れた。
「い、や……あ、ヒバリさん、ヒバリさん!」
「なんでそんなに、あいつがいい?」
 寒々とした北風を思わせる声に、雲雀を呼び続ける綱吉が涙を零す。
 透明な雫が柔らかな頬を伝い床に落ち、小さな水溜りで跳ねた。ディーノの指がその細い川を辿り、綱吉に問いかける。
 綱吉は喘ぎながら息をして、暗い瞳をしている彼を見上げた。
 答えなど、決まりきっていて今更考えたことなどなかった。何故雲雀が良いのかなんて、幼い頃からずっと一緒に居て、彼に命を救われて、彼が居てくれたから今の綱吉がいるわけであり、最早身体の、魂の一部として存在しているからに他ならない。離れ離れになるなんて考えたこともない、これからもずっと一緒に居て、蝋燭の火が途切れるまでずっと、傍に。
 ただ傍に、一番近くにいて欲しい人だから――
「お、れ……は」
「なんで、同じなんだろうな」
 綱吉が脳裏に浮かべた想いを読み取り、ディーノが苦々しい表情を作って呟く。身を引いて上半身を起こした彼の影が遠ざかり、諦めてくれたのかと綱吉はほっと安堵の息を零した。
 しかし。
「――いやあ!」
 一瞬明るくなったかと思った視界が引き裂かれ、上半身を覆っていた襦袢を千切られた綱吉は悲鳴と共に自分自身を抱き締めて傷跡が残る身体を抱き締めた。
 肌の各所に、そして特に左胸の心臓近辺に色濃く残された赤い痣。それらが何の名残であるのか分からないディーノではなくて、無数に散る花びらにも似た痕に指を走らせながら、綱吉が顔を伏して羞恥心を懸命に堪えている様を低く笑う。
「恭弥と同じこと、俺が出来るって言ったら、どうする?」
「な……」
「お前の命を繋いで、これを動かす原動力になっている霊気の補充」
 人差し指を立てたディーノが、綱吉の露になった左胸に触れて円を描く。一定間隔で、しかし平時よりは幾許か動きの速い鼓動を感じ取り、彼は満足げに目尻を下げると掌全体で覆って肉の薄い肌をなで上げた。
「いやっ」
「恭弥がいなくても、俺と一緒に居ればお前は、生き長らえられる」
 慈しむようにそっと、時に乱暴に綱吉の胸を嬲り、ディーノが嘯く。呼吸を乱して喘いだ綱吉は、沸き起こる熱に最後の一線だけは踏み越えまいとして抗い、霞む視界で彼を睨んだ。
「な……んで、こんな、こと」
 ディーノのことは、好きだった。
 雲雀を拾い、育ててくれた存在だ。綱吉の直接の命の恩人は雲雀だが、その雲雀を救ったのであれば間接的にディーノもまた綱吉の恩人だった。彼が居てくれたお陰で雲雀と巡りあえたのだから、感謝こそすれ嫌いになどなれない。
 なにをどう間違えて、こんなことになってしまったのか。誰も嫌いになどなりたくないのに、裏切られたという気持ちが先に立って彼を憎んでしまいそうな自分が怖かった。
 せめて理由が知りたい。彼が雲雀の居場所を奪い取ったところで、何の意味があるというのか。何故こうまでして綱吉を手に入れたがるのか、その意図が綱吉にはまるで見えてこない。
「ディーノさんっ」
「好きだから」
「うそだ!」
 悲痛な叫びをあげて、綱吉が彼の言葉を否定する。
 だって、違うではないか。その思いは本来綱吉に向けられるものではない、彼は綱吉を通して別の誰かを見ている。その言葉は綱吉以外の誰かにこそ告げるべきものだ、だから。
「それは俺じゃない!」
「おなじ、だよ。ツナ」
 そっと左胸をさすられ、囁かれる言葉も相俟って綱吉は鳥肌を立てた。
「なに、が」
「本当……なんでだろうな。憎らしいくらい、同じすぎて」
 此処も、と呟く彼が心臓を指し示して哀しげに微笑んだ。
 ディーノが何を言っているのか分からず、綱吉は怪訝に顔を潜めて彼を凝視する。浅い呼吸を繰り返し、意図的に熱を下げて彼が導こうとする方向から逆走を試みつつも、綱吉は急に萎んだ彼の勢いに戸惑い、反発する機会を見失おうとしていた。
「なあ、ツナ。俺を選べ」
 さっきまでの威圧的な態度は影を潜め、自信がないままに縋りつく目で彼は言った。
「俺を、選んでくれ。ツナ、頼む」
「ディーノさん……?」
 唐突な彼の変化に困惑し、綱吉は懇願するディーノに片方の眉を持ち上げる。押し倒され嫌だと言っているのに組み敷かれて、泣きたいのは綱吉の方なのに、今はディーノこそが真に泣く寸前まで顔を歪めている。
 何故。音を刻まぬ唇が彼に問いかけ、ディーノは苦しげに綱吉から顔を背けた。
「お前を、……また失うのか……?」
 力なく零れ落ちた彼のことばに、綱吉は表情を青褪めさせて全身を戦慄かせた。
 僅かに膨らみを持つ胸元に、彼が額を寄せる。体重を預けられるが今度はさほど重くもなくて、それが果たして彼の加減によるものなのか、綱吉の痛覚が麻痺してしまったためか、その判別もつかず綱吉は瞬きを忘れて虚空に見入った。
 彼の呼気が、弱くも健気に拍動する心臓に触れる。
「お前のこれ、さ」
「や……」
「あと数年しか、もたない、だろ」
「いや、だ……」
「恭弥の力じゃ、限界なんて底が知れている。けど、俺なら」
「言わないで!」
 どんっ! と強く胸を押され、不意を衝かれたディーノが横に揺らめく。その隙に綱吉は自分でも驚くくらいに素早く動き、身を捻って彼の下から逃げ延びた。
 距離を取り、引きずった緋色の打掛ごと自分の身体を抱き締める。偶然袖が通ったことで彼の身体は厚みのある生地に包まれ、白い柔肌はディーノの目から隠された。
「ツナ」
「そんなの、言われなくたって知ってる」
 足の裏全体で床を擦り、腰を抜かした状態のまま彼はずるずるとディーノから離れていく。追いかけようと伸ばされた彼の手をことばで跳ね除け、綱吉は涙目で彼を強くねめつけた。
 自分の寿命なんて、人に言われるまでもなく、自分が一番よく分かっている。本当はもっと早く朽ちるはずだったこの身体がこの歳まで保たれているのも、すべて雲雀が影から支えてくれたからだ。
 彼の助けが失われれば、水を与えられない植物のようにいずれ乾いて、風に溶けるだろう。
 今までも、これからも。
 先が見えている命であっても。
 それで構わないと思っていることを、他人にあれこれ言われる筋合いは無い。
「ツナ」
 手を泳がせ、驚いた顔をするディーノを思い切り睨みつける。
 彼は綱吉と、雲雀の想いを穢した。容易く断ち切られるような絆なら、最初から契ったりしない。
「それでもいいって言ってくれたんだ」
 綱吉の体のことも、命の事も。
 長く生きられないとしても。
 ずっと一緒にいられないとしても。
 彼を遺していくとしても。
 雲雀は。
 雲雀が。
「それでも俺が良いって言ってくれたんだ!」
 浮いていたディーノの指先がぴくりと痙攣し、一直線に床に沈んだ。腰をすとんと落とし、綱吉を呆然と見詰め乾いた空気を飲み込む。
 緋色を抱き締め、綱吉は小さな体で精一杯の大声を張り上げた。
「だから俺もヒバリさんが良い!」
 空気を震わせ、綱吉が渾身の想いを叩き付ける。
 ディーノが目を見開き、呆然と綱吉を見詰めた。だが彼は肩を上下に揺らして呼吸を整えると、雑に涙を拭って踵を返してしまった。
 振り返る事無く、ディーノをその場に置き去りに慌しく足音を響かせて道場を駆け抜けていく。扉が横に開かれ、閉じられることなく綱吉の姿はその向こうへ吸い込まれて消えた。
 着乱れたまま、緋色に金馬の打掛を体に巻きつけて。
「…………」
 綱吉の後姿を惚けたまま見送り、ディーノは床に落とした自分の手に気付いてそこに視線を向けた。
 震えが止まらず、握ろうとしても動かない。膝に寄せて反対の手で殴りつけ、痛みで覚醒を促しディーノはそのまま背中を丸めた。額を床に押し当て、両腕で頭を抱え込む。鮮やかな金髪がこげ茶色の床に散り、彼の苦しげな呼吸音だけが静まり返った道場内部に響き渡った。
 綱吉が戻って来る気配は無い。きっと、もう二度とディーノに笑いかけてもくれないだろう。
 リボーンが何を指して「駄目」と言ったのかが、今漸く理解出来た。しかし時既に遅い、後悔だけが胸の中で大きくざわめいて彼を襲う。
「はっ……」
 ディーノは笑った。自らを嘲り、その愚かさに涙を流しながら。
 胸がきりきりと締め付ける痛みに見舞われる、全身が悲鳴をあげて彼を苛んだ。
 苦しい、哀しい。違うそんな安っぽい感情ではない。
 いっそこのまま塵となって消えてしまえたらどんなにか楽だろう、それが許されぬ立場にありながらディーノは思わずにいられなかった。
「いってえ……」
 己自身を抱き締め、ディーノは呻いた。
「いてえよ……ちくしょ……」
 粉々に打ち砕かれた、結果は分かっていたはずなのに何故求めてしまったのだろう。
 ただ、本当はただ、隣で――あの頃のように、三人で笑い合っていたかっただけなのに。
「ちくしょ……」
 顔を伏し、ディーノが呻く。
 もうあの子の気配を感じない、追いかけられない。望むことも許されない、繋がりかけた輪は自分自身の手で引き千切ってしまった。
 それでも、それなのに、まだ。
 笑顔を思い浮かべてしまう。自分で壊したのに、また笑いかけて欲しいと切に祈っている。
「……だよ、好きだよ! ……ナ……」
 どちらの名前を呼んだのかも分からない。
 ただディーノは心が引き裂かれる痛みに瞼を閉ざして光を拒み、数百年ぶりの涙で頬を濡らした。

 砂利を蹴る足音、乱れきった呼吸音、遠い空高く舞い上がる鳥の声。
 破裂しそうな心臓を抱え、身なりを気にする余裕さえなく彼――沢田綱吉は長いながい九十九折の石段を駆け下りていった。
 薄紅の長襦袢の裾を乱し、衿元も大きく広げて左肩を露にして、腰帯一本でどうにか留めている。その上に被せる形で厚みのある綿入りの色打掛に袖を通し、左手で前を押さえて裾は引きずらせて。
 色も柄も鮮やかで目を見張る打掛だが、綱吉が急峻な石段を転がるように降りて行くに従い、裾は跳ね上がって泥を巻き込み、小石に表面を削られる。だが綱吉に気遣ってやれるだけの精神的ゆとりは残されておらず、息咳切らしながら彼は涙でろくに見えない前方から顔を逸らし、風を避けた。
「うあっ」
 右の爪先が落ちていた石に躓き、右側に身体が大きく傾く。危うく横倒しになるところをすんでの所で堪えて回避し、彼は荒く息を吐いて肩を上下させた。
 口腔に満ちる唾を一息で飲み干し、当分正常に戻りそうに無い心臓に左手を押し当てる。緋色の打掛の下でどくん、どくんと脈打ち続けるそれの鼓動に安堵しながらも、壊れ行こうとするものを敏感に感じ取って彼は顔を歪めた。
 元々欠陥を持って生まれて来た、雲雀に出会うことがなければ十歳まで生きられるかどうかと言われていた命だ。
 それが、予測を大きく超えて此処まで成長できた。それもすべて雲雀のお陰だった。
 彼がいたから、生きられた。そして、彼が居るからこそ生きられる。
「いやだ……壊れるな……」
 今年に入ってからの度重なる過度の負担で、元々貧弱だったものが更に悪化傾向にあるのは自覚していた。けれど日常生活を送る上では特別問題を感じることもなく、何事もないままに平穏無事な日々が過ぎるのを夢見ていたのに。
 ディーノに初遭遇してからこの方、ずっと調子が悪い。挙句、この始末。
 血圧の上昇、心拍数の増大。負担にかかることばかりだ、汗を拭い綱吉は自嘲気味に笑んでかぶりを振った。
「ヒバリ、さん」
 力なく名前を呼ぶが、反応は遠い。
 ディーノも言っていたが、彼が近くに居ると雲雀との間に途端距離が開く。それは単純に雲雀がディーノを嫌っているが故の影響だと綱吉は考えていたが、思えば神と龍だ、互いの力が反発し合って障害が発生する可能性は皆無ではない。
 それにディーノの言い草からは、綱吉と雲雀を繋いでいる段階にまで好きに介入できるという意味も汲み取れた。心を読まれたくらいだ、それくらい彼には造作も無いのだろう。
「ヒバリさん、どこ……」
 弱々しく語りかけ、綱吉は左手を伸ばして石段の片側に聳える石壁に触れる。ひんやりした冷たさがこの麗らかな陽気の中でも保たれて、熱の逃げる感覚に綱吉はほっとして息を吐いた。
 両目から零れ落ちた涙が頬を伝い、落ちる。見下ろせば打掛からはみ出ている素足は赤く腫れあがっており、何処かで切ったのか血も滲んでいた。
「いたっ」
 胸元庇ったまま、そろりと右足を前に出す。左手は石壁に添えたままゆっくりと前に進み出ようとした綱吉だが、今までどうして気づかなかったのか不思議なくらい、傷だらけの足の裏が体重を受けて鋭い痛みを放った。
 思わずその場に蹲ってしまう。草履も持たずに飛び出して来てしまったのは自分の落ち度だが、あの状況でそんな冷静な判断が出来る方が奇跡だ。
 石段の残りはあと半分を切っている。目の前を小さく黒い影が行き過ぎて、顔を上げれば岩肌を撫でるようにして鳥が里に向かって滑空していくところだった。
 自分もあんな風に空を駆ることが出来たなら、雲雀の元へ一瞬で辿り着けるのに。傷ついた両足を恨めしげに見詰め、またじわりと浮き上がった涙を拭った彼は崩れそうな自身を奮い立たせ、笑っている膝を叱咤して立ち上がった。
 左肩を壁に預け、呼吸を整える。少しずつであるが平静さを取り戻しつつある心臓に安堵し、綱吉は腿に力を込め、出来るだけ凹凸の少ない平坦な場所を探して足を交互に下ろしていった。
 時間の感覚が遠い。一刻一秒でも早く雲雀に会いたいのに、過ぎ去る時間はのろのろと通常の倍も掛かっているみたいだ。
 地表を焦がす太陽の熱も酷くて、重い色打掛を脱ぎ捨ててしまいたくなる。だがこれがなければ襦袢姿になってしまい、それも出来なくて綱吉は広がる裾を押さえて左右の合わせを右手でひとつに握り締めた。
 首筋にちりっとした痛みが時折走るものの、足に響く痛みが勝っているので気にならない。産毛が逆立つような違和感は、全身を苛む苦痛に比べれば些細なものだった。
「ひば、り、さん」
 途切れ途切れに名前を紡ぎ、必死に呼びかける。応答はまだ無くて、屋敷から随分と離れたはずなのにまだディーノの干渉を受けているのか、と彼は唇を噛み締めた。
 薄くではあるが雲雀の気配だけなら感じ取れる。村の中央に近い場所だ、動いていない。
 綱吉が道場にひとりで残される少し前、彼は了平の要請を受けて村を訪れた旅芸人一座と話をするべく里へ向かっている。動いていないということは、まだ笹川の屋敷に居るという事だ。其処に行けば、彼に会える。
 だが道中誰かとすれ違うかもしれないし、雲雀たちと一緒に出向いた山本や、あの屋敷に暮らす了平に京子たちとも顔を合わせる可能性は非常に高い。こんな格好のまま会えるわけがなく、何があったのか問質されるのは確実。
 最後の石段を降りて柔らかな草の茂る大地に立ち、綱吉は眼前に広がる長閑な田園風景を前に呆然となった。
 けれど今更、またあの長い石段を登って屋敷に戻る気も起こらない。用事が済めば雲雀は帰って来るから、それまで此処で待っていれば。
「でも、山本も、いっしょ……」
 雲雀と共に出て行った幼馴染の姿を思い浮かべ、綱吉は丸めた拳の背に唇を押し当てた。
 彼には知られたくない。無論雲雀にも出来れば知られたくないけれど、彼に隠し事が出来る程自分が器用ではないのは、綱吉自身がよく分かっている。
 誰にも見付からず、雲雀だけに会うためには。近くまで行けば、流石に彼に心は届くだろう。だったら、矢張り行動する以外に道は無い。
「……」
 本当は一歩たりとも動きたくないが、そうも言っていられないと悟ると綱吉の行動は早い。彼は決意を込めて唇を噛み締めると、引きずるばかりの色打掛の前合わせを深くして素肌を隠した。
 帯の一本でもあれば腰で結べるので手で押さえる必要も無いのだが、こんな道端に都合よく落ちているわけがない。長襦袢を留めている帯を解く真似は出来ないので、結局綱吉は天を仰いで首を振り、自分の身の丈には余りすぎる裾の一部を持ち上げて右腕で握り締めた。
 鼻腔を擽ったディーノの匂いが、胸を締め付ける。思い返すだけで涙が溢れて来て、嗚咽が零れて止まらない。
「うっ……」
 どうしてこんなことになってしまったのか、分からない。考えたくもなかった。
 涙を拭いたかったが顔に手をやるには打掛を解かねばならず、綱吉は首を左右に強く振ってあふれ出そうとする鼻水も一緒に堪えた。何度も口で酸素を吸って吐き出し、肩を上下させて零れた涙を拭う。
 ずるっと薄汚れた布を引きずって、彼は最初の一歩を緑も濃い草の上に踏み出した。
 心の中では泣きながら雲雀を呼び続けている、こんなにも探しているのにどうして彼は気付いてくれないのだろうか。
 いつもなら即座に駆けつけてその逞しい腕で抱き締めてくれるのに、なにも心配は要らないと耳元で囁いて綱吉を包み込んでくれるのに。どうして今日に限って。
「いやだ……こんなの、いや、だ……」
 会いたい、今すぐにでも彼に。
 頭上には真っ青に澄んだ空が広がり、白い綿雲が気持ち良さそうに浮かんでいる。風は薄く、陽射しは暖かい。
 大地は乾いているが、田畑に繋がる水路では陽射しを反射させて水がさらさらと音を立てて流れている。視界を遮るものは乏しく、どこまでも続く草地が彼の前に横たわっていた。
 夏の盛りも過ぎたというのに、終わりが見えてこない炎天下の日々。並盛は水に恵まれて旱魃知らずであったが、昨今の状況が冬場まで続くようであれば危機感も募る。
「……ばり、さ……」
 この気候は異常だと、雲雀は言っていた。彼の雲読みが外れたのは初めてであり、その原因が分からないとも言っていた。
 確かに夏に入る直前までは、雲雀の読み通りに雨が多いものの晴れ間も多い、穏やかな天候が続いていた。狂いだしたのはいつ頃からだろう、それさえも判断できないくらい自然に、異常気象の魔の手が忍び寄っていたというのか。
「いてっ」
 出来る限り慎重に足場を選んで進んでいたけれど、田圃の畦道に入ると土の面が多くなって草葉が脇に追い遣られてしまう。泥濘に打掛の裾が掛かるのは、いくらあのディーノの所有物とはいえ勿体無さも手伝って気が引けて、仕方なしに中央部分を歩いていた綱吉は、落ちていた小枝に土踏まずを刺されて悲鳴を上げた。
 鳶の鳴き声が頭上から落ちてくる。上を向けば昼の陽射しが燦々と容赦なく照りつけ、短い影が彼の足元で黒い渦となっていた。
「ヒバリさん、何処……」
 完全に足を止めてしまって、もう動く気力さえ残っていなくて、綱吉はじくじくとした痛みに涙を零して子供みたいに鼻を啜った。
 こんなに会いたいのに、会いに来てもくれない。探しているのに、見つけてくれない。
 月の無い雨の夜にひとり、山の中で迷子になって、凍えそうになりながら雲雀を呼び続けた日を思い出す。あの時初めて、雲雀は綱吉の名前を呼んだ。それどころか、あれが初めて聞いた雲雀の声だった。
 魂がどうこうとか、命がどうこうとか、そういうものではなくて。
 綱吉がひとりぼっちだと強く感じた時に、その暗がりから綱吉を引っ張りだして抱き締めてくれたのが雲雀だっただけだ。
 それだけだ、他に理由なんてない。
 雲雀じゃないもうひとりの雲雀など、綱吉は知らない。
「っ……」
 無意識に自分の身体を抱きすくめ、俯いた彼は自身を取り囲む穏やか過ぎる陽気と生温い風に鳥肌を立てた。
 考えたくないのに、頭からこびり付いて離れない。三人で――自分と、雲雀と、ディーノとが笑い合って時を過ごしている光景なんて、綱吉は識らないのに。
「四人――ですよ」