黄楊

「あー、もう! 時間ないのに!」
 本日の主役を呼びに、ドアをノックしようとしたところで中から聞こえて来た悲鳴。その大音量に思わず仰け反ってしまい、スクアーロは斜めに傾いた体を大慌てで前に倒した。
 出しかけた右手が実に中途半端なところで停止している。己の腰元で軽く握られた手を見下ろし、ドタン、バタン、と大騒ぎをしている室内とを遮る重厚なドアを見上げた彼は、目にかかる前髪を仕方なくその右手で掻き上げた。
 後ろへと流すが、重みに負けて幾らかは額を滑り落ちてくる。払っても、払っても、癖になってしまっているのだろう髪の毛はスクアーロの視界を遠慮なく邪魔して、彼は大仰に舌打ちして黒のロングコートの上から両手を腰に置き、踵の高いブーツで思い切りドアを蹴りつけた。
 ゴンッ、と派手に良い音が響き、一瞬だけ室内からの騒音が止む。急激にシンと静まり返られるのは逆に不気味で、一気に冷えた周囲の空気にスクアーロはしまった、と今頃自分の行為に気付いて足を引いた。
 爪先を保護する目的で、彼のブーツには鉄板が入っている。それは、足を怪我して移動を困難とするのを防ぎ、危険物がゴロゴロと転がっている戦地での行動を楽にする意味合いも兼ねていた。
「う゛お゛い」
 もうノックをしても意味はないだろうと諦め、きっと扉一枚を挟んだ向こう側で硬直している筈の存在に向かって呼びかける。動く気配がして、スクアーロはドアノブに手を伸ばした。
 が、彼が握って横に捻るより先に、内側からドアは開かれた。遠慮がちにゆっくりと、三十センチにも満たない幅を持ったところで停止する。
 隙間から顔を覗かせたボンゴレ十代目こと沢田綱吉は、若干充血した目を半分程広げ、随分と低い位置からスクアーロを仰ぎ見た。
「行くぞ」
「……あと十分、いや五分待って」
「ハア?」
 本日のボンゴレ十代目の予定は、チネーレオ・ファミリーとの懇親会を兼ねた昼食会。その後ボンゴレと取引のある貿易会社の視察に出向き、夕食はヴェルドーネ・ファミリーと市内のレストランで。分刻みで予定は組まれており、移動時間を含めるともうそろそろ出発しないと、間に合わない。
 それは当人にも前々から伝えられており、昨晩も就寝前に嵐の守護者から散々注意されていた筈だ。しかし、半分も見えない現在の沢田綱吉は、とても準備万端とは言い難い顔をしている。
 寝起き、とまではいかないものの、顔はまだ洗っていないだろう、涎の跡が見える。頭は、平時からボサボサで跳ね上がっているものの、寝癖は全く手入れされておらず、櫛が通された様子もない。服装はドアに隠されて見えないが、敢えて見せようとしないところからして、まだパジャマのままと考えるのが無難だ。
 淀みなく連想される綱吉の状況に、スクアーロのこめかみに青筋を浮かべた。
「てンめ……!」
「ごめーん!」
 彼の表情の変化に綱吉の頬がひく、と引き攣ると同時にドアが勢い良く閉ざされようとした。が、スクアーロは咄嗟に腕を伸ばして隙間に機械仕掛けの左手を差込み、綱吉にとっては痛い、スクアーロ本人は全く痛くない音を響かせた。
 右手も使って強引に狭められた空間をこじ開け、足を室内に捻じ込んで綱吉を押し返す。よろめいた彼はドアと壁に挟まれぬように後ろへと逃げ、くるりと踵を返して荒れ放題の部屋を駆け出した。
 ところが、三メートルも行かぬうちに床に散らかしていたシャツに爪先を取られ、つるん、と見事に滑って転んだ。
「うあっ」
 両手を投げ出して顔から床に落ちた彼の情けない姿に、室内に上がり込んだスクアーロは肩で息をし、途中から黒の革手袋を嵌めた手で顔を覆った。
 いったいぜんたい、これがどうして、ボンゴレの次期ボスだというのか。こいつを候補者に選んだのは何処の馬鹿なのか、と言いたい気持ちをぐっと堪え、彼はまだ床でのびている綱吉の襟首を掴んで引っ張った。首が絞まる、と両足をばたつかせたところで解放してやり、尻餅をついて蹲った頭をぐしゃぐしゃにかき回す。そして最後に、丸められた背中を広げた掌で圧すように叩いた。
 落ち込んでいる暇はないのだ、痛がっている余裕さえも。
「さっさとしねーか」
「うぅ……」
 落ちている衣服を順番に拾い、まとめて綱吉に渡す。涙目で頭を下げた彼は、予想通りパジャマ姿のままだった。
 一応着替えようとはしていたらしく、ボタンの上半分は外されて胸元が肌蹴ている。日に焼けない白い柔肌に目をやって慌てて逸らし、スクアーロは彼に、朝食は取ったのかと背中を向けて確認した。
 聞きはしたが、返事は、考えるまでもない。
「雨の小僧が起こしに来たんじゃねーのか」
「その時は、起きたんだよ」
「……ほう?」
 前ボタンをすべて外し、袖から腕を引き抜いた綱吉がスクアーロの後ろで怒鳴りながら飛び上がった。その聞き捨てならない台詞に眉を片方だけ器用に持ち上げたスクアーロが、険しい表情を作り上げて振り返る。
 だが睨みつけてやろうとしたところで、上半身裸になっている彼に気付き、スクアーロはパッと首を前に戻してテーブルに並べられた朝食セットに手を伸ばした。
 後ろでは綱吉が何も知らず、下も脱いで慌しくズボンを履きかえる。靴下を履くべく椅子を寄せて腰を落とした彼は、未だ上に何も羽織っていない。
「さっさと着ろぉ!」
「いったあ!」
 どんなに時間がなくて焦っていても、綱吉の行動はどれも遅い。本人は急いでいるつもりなのだが、どうやらそれは他人が持つ感覚とは大きな隔たりがあるようで、周囲からはモタモタしている風に見えて仕方がない。
 元々堪忍袋の緒が短いスクアーロは、やっと左足に靴下を穿き終えた彼に向かってシュガーポットの蓋を投げつけた。当然避けるものと思っていたが、手元に気を取られていた綱吉はものの見事に一撃を頭部に食らい、椅子から転げ落ちそうになった。
 転がったパールピンクの陶器の蓋が、どうにか砕けることなく絨毯に着地する。ぶつけた箇所に両手を当てた綱吉は、いきなり何をするのかと大きな瞳に涙を溜めて、呆然としているスクアーロを椅子の上から睨みつけた。
「わ……りぃ」
「ひっど。スクアーロってこういう事する人だったんだ」
「待て、大体テメーが二度寝してんのが悪いんだろうが」
 一気に機嫌を損ねた綱吉が膨れっ面で文句を並べ立て、落とした右足分の靴下を拾い上げる。踵を椅子に持ち上げて爪先に黒い布を通した彼の横顔に、スクアーロは咄嗟に言い訳をしようと身を屈めたが、そもそもの原因が綱吉にあるのを思い出して声を荒げた。
 だが綱吉はツーンと鼻を反らせて唇をへの字に曲げ、彼の言い分を弾き返した。
 暴力に訴える方がより悪いのだと言いたげな態度に、生意気な、とスクアーロは臍を噛む。だが実際、このまま口論を続けている時間さえ惜しい。
 時計を見れば、綱吉が最初に求めた時間はとっくに過ぎている。これでよく、五分で支度を済ませると言えたものだ。
 溜息で怒りを誤魔化し、スクアーロはまた視界を邪魔する前髪を梳き挙げて、ティーポットの丸い腹に手を添えた。熱を測るが、何も感じない。つまみを取って持ち上げると、思ったとおりすっかり冷めてしまっている。
 これでは渋かろう、と開ききった茶葉に蓋をして肩を竦め、やっとシャツに袖を通した綱吉を遠巻きに見詰める。小皿に盛られたジャムも表面が硬くなっていて、ふたつに割れていたスコーンの片方を持ち上げた彼は、サワークリームを端に掬って人の朝食を勝手に口へ放り込んだ。
 酸味の利いたクリームを舌で転がし、噛み砕いて飲み込む。振り向いた綱吉が丁度その光景を目撃して、「酷い」と連呼するのをスクアーロは苦い顔で詫びた。
「温いのは嫌だろう、煎れ直してやる」
 それで勘弁しろ、と冷めた紅茶の代わりを用意してやるべく重いポットを手にした彼に、それまでぶーぶーと子供みたいに拗ねていた綱吉は、途端顔を輝かせた。
 非常に分かり易い、扱い易い性格をしている。両手を挙げて喜びを表現した彼に、止まっていないでさっさとネクタイを結べと命じてスクアーロは一度部屋を出た。そして三分もしないうちに新しい茶葉に湯を注いで戻って来たわけだが、どうしてか綱吉はまだネクタイを前に悪戦苦闘している最中だった。
「……テメー」
「ごめん」
 そろそろ我慢も限界に達しようとしているスクアーロが、ポットを置いて綱吉の皺だらけになっているネクタイを強引に引っ張った。
 何をどうすれば、こんなにも手間をかけられるのだろう。いい加減慣れても良い筈なのに未だひとりでは巧く結べない彼に辟易しつつ、仕方なくスクアーロは右の手袋を口で外した。左手分はそのままにして、左右で太さの異なるネクタイの長さを調整して結び目を作っていく。
 目にも留まらぬ早業、とはいかないものの、明らかに手馴れた感がある彼の指の動きに、綱吉は邪魔せぬよう背筋を伸ばして腕も真っ直ぐ身体に添わせた。じっとして身動きせぬよう心がけ、挙句呼吸まで止めたものだから、終わったぞと胸を小突かれたときには酸欠寸前だった。
「ぶはっ」
「何やってんだ」
 ぜいぜいと苦しそうに肩で息をしている綱吉を笑い、テーブルの用意を整えてスクアーロが手招きする。
 深呼吸の末、背面はブラウンのチェック柄、前面はオフホワイトの無地というベストの金ボタンを留めていた綱吉は、身支度があとジャケットひとつで整うというところまで漸く行き着いていた。
 身支度は殆ど終わり、これでやっと空腹ともおさらば出来る。嬉しそうに椅子を移動した彼は、注がれた紅茶に手を伸ばし、暖かな湯気に息を吹きかけた。
「頭は」
「うっ」
 だが傍らに立つスクアーロに手痛いところを指摘され、口の中にあった紅茶を一気に飲み込んでしまった。油断していたので気管に入り、思い切り噎せた綱吉は、まだ残りも大量のカップをテーブルに叩きつけ、そのまま天板に額を押し当てて激しく咳込んだ。
 見ている方まで胸が苦しくなりそうな勢いで、ゲホゲホと連呼して彼は全身を揺らす。折れた膝が最終的に床に落ち、背中を丸めて蹲った彼にスクアーロはもう面倒を見切れないと肩を竦めた。
 それでも放っておくわけにいかず、背中を軽くさすってから左腕を取って無理矢理引き起こす。椅子に座らせ、零れた紅茶は布巾で拭って、冷めて硬いスコーンの乗った皿を彼の前に押し出した。
「ケホっ……あ、りがと……」
 涙の滲んだ目尻を擦り、まだ苦しいのか頻りに胸を撫でている彼の襟元で、またネクタイが歪んでいる様にスクアーロは顔を顰めた。だが今はそこに構っている暇はない。兎も角胃袋に食べ物を詰め込ませて、芸術的な寝癖をどうにかしないと。
 ドライヤーは何処にあっただろうか、考えて視線を巡らせ、スクアーロは分厚い靴底で床を蹴った。
「スクアーロ?」
「大体、テメー、髪長いんだよ」
「……それ、スクアーロにだけは言われたくないかも」
 もそもそと椅子をテーブルに寄せ、手早くブルーベリージャムで表面をコーティングしたスコーンを口に運んだ綱吉が、硬い生地を奥歯で噛み砕きながら反論する。
 綱吉の知る誰よりも髪の毛が長いのは、他ならぬ、只今目の前で綱吉の部屋を家捜ししている彼だ。その辺の女性よりよっぽど長い銀髪は、光に透かすと恨めしくなるくらいにキラキラ輝いて眩しい。獄寺のそれよりも色が薄いのに艶があり、手入れも大変だろうにいつどんな時も癖のないストレートを維持している。
 洗うのも乾かすのも、寝癖がつかぬようにするのだって非常に手間で、困難が付きまとう。櫛を通すのだって何回にも分けないとならず、面倒くさいことこの上ない。一度興味本位で手伝いを買って出てみたが、手つきが荒っぽいだの、粗雑だ、などと散々文句を言われただけに終わっている。
 取り上げられたヘアブラシには大量の髪の毛が抜けて、或いは千切れて絡まっていたから、あのまま綱吉が手入れを続行させていたら、今頃スクアーロの頭部のどこかには十円禿くらい出来ていただろうか。想像すると噴出してしまって、怪訝な顔で振り向かれた綱吉は慌てて顔を逸らし、誤魔化しに少し温くなった紅茶を口に含んだ。
 胸が一瞬きゅうっと萎んだ後、ゆっくりと綻んでいくのが分かる。ホッとする一瞬とはこの事だろう、とジャムで汚れた手でカップを大事に握りしめていると、やっとドライヤーを発掘したスクアーロが、延長コードと櫛とを一緒にして戻って来た。
 脇にはあまり使われていないヘアムースの瓶も挟まれていて、何をするつもりなのかは一目瞭然。だが彼の動きに合わせて首を巡らせた綱吉は、スコーンを口の中でもごもごやりながら、テーブルの空いたスペースへ持って来たものを並べた彼へ不思議そうに首を傾げた。
 電源を引っ張って確保したスクアーロが、大人しく食べていろと綱吉を指差す。
「人を指差しちゃいけないって教わらなかった?」
「悪いが、今初めて聞いたな」
 育った国も環境も大違いの彼に言うだけ無駄で、しれっと返された綱吉は頬を膨らませると最後の一個に残っていたジャムを全部塗りつけた。目に見えて甘そうな物体が完成して、ドライヤーにスイッチを入れて温度を確認したスクアーロが渋い顔をする。
 構わずに大口を開けてかぶりついた綱吉だったが、後ろから頭を掴まれて目を剥いた。いきなりなにを、と振り向こうとするが五本の指でしっかり握られて固定されており、まるで動かない。
「ふぐぅんぬぬぬ」
「じっとしてろつっただろ」
 負けるものかと変なところで対抗心を燃やし、綱吉が首に力を込めるのを、スクアーロは心底呆れ果てた顔で軽々と受け止めて頭を叩く。軽く表面をブラッシングした後、櫛を置いた手でムースの瓶を掴んで上下に振り、片手で器用に中身を搾り出してそれを綱吉の頭へと塗りこんだ。
 上から押さえつけられる力が倍になり、綱吉は咄嗟に首をすぼめてやり過ごす。地肌を擽る指の感触は右手分のみで、左手はやがて綱吉がそれ以上抵抗しないと知ると肩へ滑り落ちていった。
「そんなのしても、どうせ無駄だって」
「やってみなきゃ解んねーだろ」
 既に諦めきっている綱吉が背中を丸め、唇に残るジャムを舐めた。
「ぐぎっ」
 直後思い切り頭皮が引っ張られ、綱吉は情けない声で首を鳴らした。
 櫛に絡まった髪の毛にスクアーロは舌打ちし、一本ずつ丁寧に指で解してからまた櫛で丁寧に梳いていく。日頃の彼の行動からは考えられない手つきで、綱吉は不思議な気持ちになりながら、暇を持て余してポットに残っていた紅茶をカップに注ぎ足した。
 こんな風にのんびりしている場合ではないのはふたりとも充分分かっているのだが、それでもスクアーロの手は妥協を許さず、最後の一本まで綺麗に梳いてからドライヤーの熱で煽って、跳ね返った綱吉の寝癖を直していった。
 鏡がないのでどうなっているのかまるで分からず、食べるものも飲むものもなくなった綱吉は、仕方なく咥内に残る甘い味を舌で探しつつ、膝に両手をそろえて大人しく座って終わるのを待った。
「俺の髪、長い?」
「量が多いな」
「よく言われる」
 幼少期、散髪屋へ行く度にそう言われたのを思い出す。終わる頃には椅子の周囲に大量の髪の毛が散らばっていて、箒で集めると小さな山が出来たくらいだ。
 コシが強いので癖になるとなかなか元に戻らず、試しに短くしてみたら剣山みたいになって恥かしかったのを思い出す。以後適度に長く、適度に短い髪型を維持して此処まで来た。
 髪の毛は一生のつきあいだから、出来ればもう少し手入れが楽な方法を探したいのだけれど。苦笑してから肩を落とし、俯いたら後ろからまた頭を掴まれて倒された。
 スクアーロの手は途中で離れて行ったが、暫くしてドライヤーの音が止んだのを受け、綱吉はそのまま椅子の背凭れ上辺に後頭部を押し当てた。
 真上に羨ましくなる髪の持ち主を見て、笑う。
「ありがと」
 意外に面倒見の良い彼に目尻を下げ、首を前に戻す勢いを利用して椅子から飛び上がる。慌てて腕を引いたスクアーロを視界の端に流して、綱吉はそそくさと鏡のある場所へ向かった。
「へー……」
 ドレッサーの扉内側に設置された長方形の姿見に映る自分自身を覗き込み、綱吉は右に左に顔の角度を変えながら頻りに自分の髪の毛を弄り回した。指で抓んでは引っ張り、離してくたっとしな垂れる様を物珍しげに、興奮気味に頬を染めて左右反転の世界に見入る。
 ぐしゃぐしゃに掻き回しても逆立ち具合は大人しく、サラサラに流れてストンと肩にまで落ちる。魔法にでもかけられた気分で、映し出される人物は確かに自分なのに、沢田綱吉ではない別人に思えてならない。綱吉は顔を近づけては遠ざけ、顎を撫でて目を細めた。
「う゛お゛い、何呑気に」
「すごいなー……どうやったらこんな風に出来るんだろ」
 今までどの美容師に任せても、あのツンツン頭は直せなかったのに。
 まだ大部分で跳ね返ってはいるけれど、勢いは寝癖が酷かった時の半分以下に萎み、非常に落ち着いている。生まれて初めてかもしれない、こんなに大人しい髪型は。
 鏡に手を置き、真剣に自分の顔を見詰めている綱吉の後ろでは、スクアーロが使った道具と一緒に食器も片付けている。ガチャガチャと五月蝿い音が響き、合間に彼の急かす声が混じった。
「ねえ、スクアーロ。どんな魔法使ったのさ」
「あぁ? ンなわけねーだろ」
 馬鹿なことを言っていないで、ネクタイの緩みを直してジャケットを着ろ。振り返った綱吉の顔も見ずに手袋を嵌めた手で指差さした彼は、そうつっけんどんに言い放ち、食器類をまとめてひとつの盆に載せた。片手で、決して軽くはない筈なのに軽々と持ち上げ、顔の前に流れてきた銀髪を鬱陶しそうに払いのける。
 ドレッサーを閉じた綱吉はふかふかの絨毯まで戻り、なんの変哲もないムースの瓶を手に首を捻るった。自分で使ってみてもこんな変化は生まれなかったのに、彼の手に掛かればこの有様で、魔法でも使ったとしか思えないのに、あっさりと否定されてしまった。
 視界を流れる彼の銀糸は細かい光の粒子を含み、屋内でもきらきら眩い。一本だけ束からはみ出た糸を手繰り寄せようとしたが、指先が触れる前に彼は踵を返し、部屋を出るべく歩き出してしまった。
 盆の上で食器が互いにぶつかり合う音が絶えず響く。綱吉がまだ何か言いたげにしているのも構わず、彼はさっさと用事を済ませるべく部屋の出口へ向かった。呼びかけてももう返事さえしてくれなくて、仕方なく綱吉は膨れっ面を凹ませ、スクアーロが折り畳んで椅子に掛けてくれていた上着を掴み、彼を追って部屋を出た。
 左腕にジャケットを引っ掛け、ネクタイを直す。だが途中でまたわけが分からなくなってしまい、どうしてだか解けてしまった一本の布に様子を窺い見たスクアーロが脱力して肩を落とした。
「別の意味で器用だな」
「ありがと」
「褒めてねえ」
 皮肉に皮肉で返したら怒られて、ショボンと小さくなりながら綱吉は大きい彼の背中を見上げる。ブーツの所為もあるが身長差は悔しいくらいで、背面を覆う銀髪が黒のコートによく映えていた。
 綱吉はネクタイを諦め、襟の下に通して左右にぶら下げたままジャケットを広げた。左腕から先に通し、続けて右腕も、と思っていたところで各部屋の掃除に回っていた女中とすれ違う。
 会釈した彼女にスクアーロはさっさと手にしていた食器類を預けて、綱吉は進んで片付けを買って出てくれた彼女とスクアーロに同時に頭を下げた。
「行ってらっしゃいませ」
 いつまでもこういう状況に慣れないでいる綱吉に淡く微笑み、彼女はお団子に丸めた髪を包む白い布の端を揺らして去っていく。落ち着いた足取りで遠ざかる背中を見送り、胸に手を当てて撫でた綱吉を怪訝にスクアーロが見下ろした。
「なに?」
「貸せ」
 綱吉の手際の悪さは平均以上で、きっと車で移動中に自力で結ぼうとしても揺れる車内では難しいだろう。酔われても困る。
 気を利かせたつもりで掌を上にして差し出したスクアーだったが、綱吉はきょとんとしたまま彼の手と顔とを交互に見詰めて首をひねった後、何を思ったのか自分の右手をそこに重ねた。
「アホか!」
 即座にスクアーロのツッコミと拳が同時に綱吉の頭に落ちてきて、良い音を響かせた綱吉は反射的に前のめりに倒れた。
 両手で頭を抑え、膝を折って蹲る。
「っつぅ~~~~」
「困るのはテメェだろうが。ったく」
 いいから立て、と乱暴に腕を取られて引き上げられる。部屋でも似たようなことをしたな、と数十分前の出来事を思い返して綱吉は涙目のまま苦笑した。
 泣いているのに笑っている顔を不審に見返されえ、綱吉がまたはにかむ。襟元で揺れるネクタイの片方を掴んで引き抜いたスクアーロが、もうそのままの格好でいるように命じたので、尚更笑いがこみ上げてきた。
「いいの?」
「後でやれ」
 流石に懇親会でノーネクタイなのは憚られるが、移動中くらいは身なりに拘らなくてもよいだろうとの答え。前を向いたまま早口でまくし立てたスクアーロに頷くが、肝心のそのネクタイは未だスクアーロの手の中だ。
 腕を取られ、半ば引きずられた状態で綱吉は車庫のある区画を目指し広大な城内の廊下を行く。甲高い足音がひっきりなしに耳を打って、すれ違う女中たちがふたりを見てクスクス笑う様がよく見えた。
 またやっている、と、そんな風に噂されているのだろう。見た目も中身も貧弱で頼りないことで有名なボンゴレ十代目は、老若男女を問わず庇護欲をそそるらしい。そもそも起こしに行く担当が日々交換制なところからして、可笑しいのだ。
 いつもはその位置にない前髪が、前後左右に大きく揺らめく。視界を邪魔して、時々目に飛び込んでくる毛先に首を振り、その動きにあわせて首を擽る襟足の感触に背筋を粟立てた彼は、無意識に前に伸ばしていた腕を引っ込めてスクアーロから手を取り戻した。
 右手が空っぽになった彼が、足を止めて振り向く。
「どうした」
「あ、いや」
 まさか折角セットしてくれた髪型が慣れない所為でくすぐったいとも言えず、襟足を押さえたまま綱吉が視線を泳がせる。
「やっぱり、俺の髪の毛、ちょっと長い?」
「そう言ったろ」
 部屋で最初に。
 逆立っていた分を下に落としたのだから、額を覆う量も必然的に増えた。視界を邪魔する薄茶色を気にして揃えた指で払い退ける綱吉は、直ぐにまた戻って来てしまう髪の毛を鬱陶しげに扱って、最終的に右手で幾らか掬い、こめかみ横で押さえつけた。
 片手を掲げた状態で、そのうち腕が疲れるのは分かっているが、それまでに癖がついてくれれば良いという気持ちだ。寝癖の目立つ跳ね頭は嫌だが、これはこれで面倒くさい。
「ちょっとは切ったらどうだ」
「そうなんだけどさあ」
 むき出しになった額の左半分を指で小突き、急ぐぞと顎を杓ってスクアーロが足を前に出す。ふわりと風を含んで膨らんだ彼の銀髪もまた邪魔そうなのに、本人はあまり気にする様子がない。
 結局は慣れだろうか。明日にはまた爆発しているだろう自分の頭を想像し、綱吉はどうしようかと指の隙間からはみ出る毛先を揺らした。
 小さくなる背中を慌てて追いかけ、早足で石畳を駆ける。途中で面倒くさくなって結局手は直ぐに身体の脇へ戻され、一歩一歩を刻むたびに髪の毛は前後に大きく跳ね上がって綱吉の目の前を踊った。
 そうこうしているうちに、目的地までは後僅か。薄暗い通路を抜けて狭い区画を抜けた先、ふたりの前に白壁に囲われた、緑に覆われた庭が唐突に現れた。
 そのあまりの変わりように驚き足を止めた彼へ、即座に距離を狭め、綱吉は彼の右腕に突撃を仕掛けた。だが背後からの気配にも鋭敏な彼は、振り返ることなくひらりと横にかわしてくれて、おっとっと、と足踏みした綱吉は悔しげに地団太を踏んだ。
「ばーか」
「あー、もう! って、そうだ」
 くるりと反転して人を嘲笑うスクアーロをねめつけた綱吉だったが、アーチ状の天井にまで届く緑樹に覆われた一画に佇む彼を見て、妙案を思いついたと手を叩いた。
 今までどの散髪屋の、どの理髪師に頼んでも直らなかった癖毛が、たとえ今日だけだとしても勢いを弱めたのだ。今まで幾度繰り返してきたか分からない失敗に敢えて挑戦するとしたら、少しでも成功率が高い方に賭けたいではないか。
 拍子木を打った綱吉を不思議そうに見やり、スクアーロが待ちくたびれていた運転手に手を挙げて合図を送る。サングラスをかけた強面顔の男は、やっと来た綱吉にやれやれと肩を竦め、運転席のドアを開けた。
 一方の綱吉は、自分の後方で準備が整いつつある車の事などまるでかまけず、他に意識を向けていたスクアーロを指差して、気付いた彼に手を叩き落されていた。
「いって……。もう。なら、さ。スクアーロ、切ってよ」
「ハァ?」
「器用そうだし。あ、でも左手の仕込み刀では止めてよね」
「テメー、俺の剣をなんだと思ってやがる」
「だって切れ味良いじゃない、あれ」
 髪の毛どころか首までばっさりやられそうだ、と茶化してから綱吉は彼の返事も待たずに手を伸ばす。今度は不意打ちに成功した指先が、逃げ遅れたスクアーロの髪の毛をひと束掴み取った。
 指に絡め、軽く引っ張る。
「なにを」
「その代わり、俺がスクアーロの髪、切ってあげる」
「……遠慮しておく」
 綱吉の不器用具合も一級品だ。
 渋い顔で低い声を出し、スクアーロは上機嫌に笑っている綱吉の頭に握ったままだったネクタイを落とした。後ろでは車庫を外から隔離するシャッターがゆっくりと音を響かせて上に開き、足元から光が差し込んでふたりの影を濃くしていった。
「遠慮しなくても」
「単にテメーが弄りたいだけだろうが」
「そうとも言う」
 早く行けと言わんばかりの態度でスクアーロが手を振り、綱吉を追い払う。その彼の後ろ、綱吉にとっては正面から、本日の護衛を兼ねる同伴者たる獄寺と山本が、遅まきながら連絡を受けたのだろう、今頃になって息せき切らして現れた。
「十代目!」
「ツナ、お前おっせーぞ」
「ごめん、ごめん。じゃあ、行って来ます」
 指の隙間から銀糸を解くが、最後まで絡まった一本がタイミング合わずに抜けてしまった。微かな痛みにスクアーロは顔を顰め、不機嫌そうなその表情に綱吉がまた笑う。
 普段と雰囲気が違う綱吉を獄寺と山本が一頻り不思議がった後、ふたりは時間が押しているからと彼を浚って強引に車へ押し込んだ。機関銃程度ではびくともしない装甲をした、見た目はただの高級車のエンジンが地鳴りを伴う唸り声を上げ、排気ガスがスクアーロ自慢の髪の毛を煽る。
 車の窓が開く。運転席後部座席から頭を出した綱吉が、嫌に風に靡く髪の毛を片手で押さえつけて叫んだ。
「帰ったら、約束だからね!」
「うっせえ。さっさと行ってこい、馬鹿」
「はーい、いってきまーす」
 危ないからと身を乗り出す綱吉を獄寺が引っ張り、車内に戻して強化ガラスの窓が自動的に閉ざされる。それでも彼は車体後部の窓からスクアーロに顔を向け、黒塗りのそれが豆粒ほどの大きさになるまでずっと、手を振り続けていた。
「馬鹿じゃねーのか、ガキじゃあるまいし」
 ゆっくり閉じていくガレージの扉を内側から睨みつけ、その場にひとり残されたスクアーロが悪態をついてぼそりと零す。乱暴に顔に被さる髪の毛を掻き毟って、長く伸びた前髪を人差し指にくるくると巻きつけた。
 暫くじっと見詰め、思い浮かんだ内容に、馬鹿らしいと首を振って打ち消す。
 さっさと戻って自分の仕事をしよう。山本に頼まれて、代わりに起きてこない綱吉の様子を見に行った所為で、すっかり自分まで出遅れてしまった。
 視界に踊る銀を受け流し、シャッターが完全に閉ざされたのを待って歩き出す。
「……散髪用の鋏なんざ持ってねーぞ」
 馬鹿らしい、そう思いながら無意識に呟く。
 不機嫌に眉間に皺を寄せた彼は、けれどどこか楽しげに口元を歪めた。

 録画ボタンがレヴィの手で止められ、いい加減にしろという声で我に返り、スクアーロは掴んでいたベルの外向きに跳ねた金髪を脇へ追い遣った。
 頭を振り回された彼は引っ張られた頭皮に痛みを訴えるが、耳を傾けたりはしない。いつの間にかひっくり返っていたソファと床の間にブーツの爪先を差込み、蹴り上げて起こした彼は、立ち上った埃に顔を思い切り顰め、目にかかる前髪を横へ薙ぎ払った。
 床の上で蹲り、咳込んだベルが斜めにずれていた王冠の位置を気にしつつ立ち上がる。レヴィはさっさと退散しており、無碍に扱われる銀髪に笑った彼は、どうやっても正面に戻って来るひと束を気にしているスクアーロを下から覗きこんだ。
 愛用のナイフを腰にちらつかせ、横に引いた口から薄く白い歯を覗かせていやらしく笑いかける。
「長いねー、それ。邪魔そうだから切ってあげよっか」
 自分の事は棚に上げた彼の台詞に、手を止めたスクアーロがやや睡眠不足で血色の悪い顔を凄ませ、途端に瞳に力を取り戻して彼を睨み返した。
 ベルは「怖い、こわい」ととても本気で思っているとは考えられない口調で彼の怒りをやり過ごし、喧嘩はさっきの分で飽きたと早々と背を向ける。
「俺も切ってもらわないとなー」
「誰に」
 鮮やかな金色を指で抓み上げた彼の呟きに、背を向け合ったままスクアーロが問いかけた。
 だがその声が思いの外大きく室内に響いてしまい、若干上擦って掠れてしまった己の声色に驚いた彼は、持ち上げた左手で口元を覆い隠し、すぐに外した。
 後ろでベルが肩を揺らし、笑う気配がする。
「それ、俺に言わせちゃっていいのー?」
「うっせえ」
 約束は前髪だけ、だった。それもとびっきり長く伸ばしておいて、先の一センチか二センチ程度を切らせるだけの。
 最初の頃は緊張の所為で手が震えて、斜めに思い切りばっさりやられた事もあった。だが、互いに正面顔向け合っていたからだろう、鋏を入れる位置を指示してやると、彼も少しずつではあったが手つきに慣れが含まれていった。
 そのうち見ているだけだったベルが羨ましがって、俺も、と手を挙げて彼を困らせた。やがて彼以外に鋏を入れられるのは嫌だと我侭を言い張り、余計に彼を困らせては一日中束縛することもあって。
 だが、なんだかんだでお互い、楽しんでいたのだ。
 最後に言葉を交わしたのはいつだっただろう。前髪は伸びる一方だ。
「邪魔だねー、ほんと」
「黙れつってんだろ」
「いーのー? 黙っても」
 意味ありげなベルの声に息を呑み、スクアーロが踵で強く床を蹴り飛ばした。
「なら一生喋ってろ」
 突っ慳貪に言い放ち、前髪を梳き上げる。
 目の前に開けたふたりの世界で、同時に灰色が淡く滲んだ。

2008/03/05 脱稿