深憂

 立春を過ぎ、暦の上ではもう春。
 けれどまだ本当の春到来には程遠い気候が続いていて、曇りがちの空を見上げた綱吉は憂鬱な気持ちで学校への道を踏み出した。
 朝晩の冷え込みは激しいまま、布団を出るのもままならない。それでも惰眠を貪りたがる身体に鞭打って起き上がり、朝食を食べて頭をしゃっきりさせて、制服に袖を通して家を出る。
 吐く息は白く、気まぐれに吹く風は彼の肌を容赦なく刺した。
 棘がある北風に顔を嬲られ、直らない寝癖の頭を持ち上げる。黒い電線に切り取られた空は青色も遠く、雪でも降りそうな重い色をしていた。
「さむっ」
 この数日は寒さも一層厳しさを増し、体調を崩す生徒が続出していた。予防接種をしたとはいえ、体力負けしたのかインフルエンザにかかった生徒も何人か出ている。綱吉のクラスでもそれは同じで、日に日に欠席が多くなり、もうじき二桁の大台に乗ってしまいそうな勢いだ。
 学校全体もお陰でどこか元気が無くて、賑やかな筈の昼休みも日頃の騒々しさが随分と薄れてしまっていた。元気なのは数えるほどで、登校しているクラスメイトの過半数が、休むほどではないけれど風邪を引いている状況。
 鼻をかんだり、くしゃみをしたり。授業中でもコンコンと咳をする声が響いて、集中力も長く続かない。先生も何処と無く調子が悪そうで、保健室だけが大賑わいだ。
「黒川もついに休みか」
 その昼休み、昨日よりも増えた欠席者の机を順番に眺めて山本が呟く。頬杖を崩した綱吉は、言われてみれば、と無人の机に目を向けて顔を顰めた。
 相方がいないからか、京子も元気が無い。体力的な差か、女子の方が若干欠席者は多くて、華やかさを欠いた教室は外が曇り空で暗い所為もあり、重苦しい雰囲気に包まれている。
 山本は数少ない元気な生徒に分類されてぽり、二択だとしたら綱吉もそちら側だろう。
「そういや獄寺も、今日は休みなんだな」
「あー、みたいだね」
 もうひとり、昨日までは確かに元気だった姿が教室には見当たらなくて、山本の不思議そうな声に綱吉は頷いて視線の先を動かした。
 京子の寂しげな背中から、教室後方へ。朝から一度も椅子が引かれていない机は綺麗なままで、両隣と前の席の生徒は登校しているだけに、余計にその空白具合が浮き彫りになって見えた。
 連絡は一切入っていない。元々彼は綱吉以上の遅刻魔で、一時間目の開始に間に合わないと判断したら、潔く諦めて二時間目や三時間目から登校してくるのもザラだった。だから綱吉も、いつもと同じく遅れて登校してくるのだとばかり思っていたが、昼休憩が終わる間際の今になっても、彼は一向に姿を現さなかった。
 山本が疑問に思うのも当然で、綱吉も首を捻ってから姿勢を戻して斜め前に座る山本に目を向ける。何かあったのだろうか、と表情だけで問いかけてみるが、綱吉に何の連絡が来ていないのだから、犬猿の仲たる彼に情報がもたらされているわけがない。
 当たり前だが肩を竦められただけで、山本の態度に苦笑して聞いた相手を間違えたと綱吉も舌を出す。
「携帯に電話してみれば?」
「俺、持ってきてないよ」
 風紀委員に見つかって没収、なんて事態が嫌で、綱吉は日頃から携帯電話は家に置きっ放しだ。それでは意味が無いだろうと笑われるのだが、学校に持ってきてまで使いたいとも思わない。休みの日の待ち合わせで、ちょっとした遅刻やはぐれてしまった場合には便利だが、使い道としてはそれくらいだ。毎日肌身離さず持たなければならないものだとは、どうしても思えない。
 利用料金がかさんで奈々に怒られるのも嫌で、通話はせずに専らメール。喋る必要がある時は家の固定電話を使うし、その気になれば幾らでも歩いて会いにいける距離に住んでいるのだから、わざわざ携帯電話に頼る必要は何処にもないのだ。
 ただし、それは綱吉の都合であって、獄寺はまた違う。彼の家には固定の回線が最初から無くて、連絡手段は携帯電話に一存していた。
「山本は?」
「俺も、置いてきた」
 朝方に画面を見たら電池残量が減っていて、充電していたらそのまま忘れてきてしまったと彼は笑う。そのあっけらかんとした様子に綱吉は苦笑し、残るは学校の電話を借りるか、もしくは外の公衆電話か、と考えた。
 けれど自分が、実は獄寺の番号をそらで言えない事実に思い至り、しまった、と苦虫を噛み潰した表情を作って、今度は山本が苦笑する番だった。
 渋い表情で手の上を滑った顎を支えなおした綱吉が親友を睨み、午後の授業開始を伝えるチャイムを聞く。山本は椅子を引いて腰を浮かせ、その本来の持ち主に返却し、教室中央近くの自席へと戻っていった。
 ざわめいた空気の波が少しずつ引いて、余韻を残し消えていく。前方の開けっ放しになっていたドアから入って来た先生の姿を合図に、当番が欠席であった為急遽日直が回って来た京子がいつもより緊張した声で起立、礼の号令を出す頃には、教室はすっかり落ち着きを取り戻した。
 教卓に教材を置いた先生が、出席簿を広げて欠席者の多さに苦い顔をする。
「この分じゃ、学級閉鎖もあるかもな」
 何気なく呟かれた単語に反応してざわめくクラスメイトの中、綱吉はまだ無人の後方の机を見やって、そっと溜息を零した。
「なにかあったのかなあ」
 自問に答える声はない。ぼんやりしながら前方に目線を投げた彼は、気付けば黒板に記された大量のチョークの文字を読み取り、慌てて真っ白いノートを机に広げた。

 放課後を迎える少し手前で小雪がちらつき始めたが、掃除を終えて鞄を片手に靴を履き替えたときにはもう、クラスメイトがはしゃいだ白い妖精の姿は何処にも見えなくなっていた。
 真上を仰げば、重い雲が昼休憩の頃よりもずっと身の丈を低くして綱吉に迫ろうとしている。そのうち本当に落ちてくるのではないか、想像して寒気が走り、綱吉は自分の体を大事に抱き締めると急ぎ足で正門を潜り抜けた。
「……っしゅ!」
 五十メートルも走ると息が切れて、鼻の奥がくすぐったくなり、堪えきれずにくしゃみを零す。落としかけた鞄を捕まえてしっかり握り、鼻の下を指で擦った彼は、今のこれは風邪が原因ではないだろう、と自己判断して今一度戻って来た悪寒に首を振り、肩を上下させて小分けに息を吸って、吐いた。
 白く濁るそれも一瞬で大気に溶けてなくなり、吸い込んだ空気の冷たさに肺が痛む。
 解けかけたマフラーを首に絡め、手袋を嵌めた手でズボンの上から太股をさすって体を揺らす。このまま家に帰ってもどうせいつもと同じ、宿題に追われて子供たちの面倒を押し付けられて、騒がしいままに時間だけが過ぎていく。夕飯までに帰れば特に問題ないのだが、ひとりきりだと寄り道をする気力も沸かなくて、綱吉は後ろの、建物の影に紛れてもう見えない学校を振り返った。
 結局獄寺は最後まで姿を見せず、担任ももう慣れっこなのか触れようともしなかった。
 その代わり、明日、欠席者がまた増えるようなら学級閉鎖も視野に入れなければならないとは言っていて、実際具合が悪そうにしていた生徒も少なからず居たので、そうなる可能性は非常に高いだろう。
 綱吉は勉強は嫌いだが、今の学校は好きだ。友人が増えた今、学校に行くのは昔ほど苦痛ではない。
「休みになるのは、やだな」
 鞄の柄を強く握り、ひとりごちる。
 級友の体調が万全な状態に戻るまでの我慢だし、休みになるのは正直なところ嬉しいが、矢張り何も無い平日に、元気なのにひとり家の中で過ごさなければならないのは寂しい。まさか獄寺まで病床に伏しているのかと思うと、鳥肌が立って綱吉はその場で背筋をピンと伸ばした。
 そう、獄寺だ。
 彼が連絡もなしに学校をサボるのは最早常習と化していて、今更誰も気にしないし、昨日まで彼はぴんぴんしていたから、山本でさえ仮病だろうと一笑した。けれど、もし本当に熱を出して倒れていたとしたら、どうする。
 狼少年、という単語が脳裏に浮かんで、綱吉は脂汗を額に浮かべて生温い唾を飲んだ。
 時計を探して周囲に目をやるが、そんなものが道半ばに都合よくあるわけがない。学校を終えて帰宅時間、まだ外は明るい。綱吉は冷や汗を拭うとどうしようかと迷い、足踏みをして四方に伸びる道を右から順番に見詰めた。
 直線は自宅へ、右は公園へ、後方は学校へ。
 左は。
「ああ、もう!」
 右腕だと主張するなら、なにかが起きる前に連絡の一本くらい寄越せというのだ。
 綱吉は腹立たしさから罵声をあげ、握り拳を縦に振って道を左に曲がった。
 ずんずんと進み、覚えている道順を辿って駅前からちょっと外れたマンションを目指す。だがいざ建物を目の前にして、内部に入るには鍵が必要だと思い出して彼は顔を青褪めさせた。
 部屋番号は覚えているので、中に獄寺が居るなら問題なく呼び出せる。だが、もし想像通り熱を出してぶっ倒れているようなら、そもそも応対に出られるわけもない。
 急に不安が押し寄せて来て、綱吉は今更どうすべきか本格的に悩んだ。けれど此処まで来ておいて帰るのも気が引ける、一応生存確認だけはしておこう、と綱吉は恐々壁に埋め込まれたパネルを覗き込んだ。
 右の手袋を外し、口の中で呟きつつ獄寺の部屋の数字を押していく。最後のボタンを押して長く息を吐いて待つが応答は直ぐに無く、ひょっとして遊びに出かけているのだろうかと視線を斜め上に投げて暫く待っていると、忘れた頃に雑音がスピーカーから流れてきた。
 おや、と思いつつ顔を戻してパネルを見下ろす。直後。
『……げほっ、けはっ。は、はい、どちらさま』
 物凄い咳き込みの後に聞きなれた声が流れてきて、綱吉は咄嗟に身を引いて両手で耳を覆った。
 右の耳朶だけが冷たくて、それは片方だけが素手だからだと遅れて思い出す。
「は、ご、獄寺君?」
『十代目?』
 思っていたよりも元気そうな声だが、さっきの咳き込みが気になる。上擦った声で呼ぶと、綱吉の動揺が伝わったのか、インターホンの向こうにいる獄寺までもが素っ頓狂な声を出した。
『じゅうだ、い……うっ、げほっ、げほっ!』
 突然大声を出したからなのか、再び獄寺が激しく咳き込んで、聞いているだけでも気管が苦しくなる。綱吉は顔を歪めると唇を噛み、この状況では彼に何もしてやれない自分を持て余して、中身の少ない通学鞄を抱き締めた。
 断続的に獄寺の咳は続いたが、時間が経てば落ち着いて、けれどまだ苦しそうで、彼は弱々しく細い声で鍵は外したとだけ言った。下まで迎えに出られそうにないから、勝手に入ってくれと、そういう事だろう。
 無論綱吉もそのつもりで、通話を終わらせると急いでガラス張りの扉を押す。
 獄寺の言葉通りロックは外されていて、中に体を滑り込ませるとドアは自動的にまた閉まった。その音に背中を押され、綱吉はエレベータに乗って上階を目指す。途中、誰ともすれ違わなかった。
 夕方なのだからもっと人通りがあっても良さそうなのに、相変わらず人気の乏しいマンションだ。綱吉は鞄を担ぎ直し、自分の身なりを軽くチェックしてエレベータを降りる。壁に囲まれた通路は空気の流れも制限されているからか、寒いけれど吹きっ晒しの外よりは幾分マシだった。
 目当てのドアは直ぐに見付かって、綱吉は遠慮がちにノックをした。が、聞こえていないのか返事は無く、向こう側から人が近付いてくる様子も感じられない。
「……」
 まさか本当に倒れていやしないだろうか。不安に苛まれ、綱吉は思い切ってドアノブに手を伸ばし、握り締めて右に捻った。
 手ごたえは薄く、あっさりとノブは回転する。一瞬空回ったのかと思うくらいに呆気なくて、綱吉は目を見開いて開いていくドアに茫然となった。
 そういえば獄寺は、鍵は開けておく、と言っていた。ならば玄関の鍵も一緒に開けておいたという事なのか。綱吉は紛らわしい彼の説明に憤然としながら地団太を踏み、隙間に身を滑り込ませて後ろ手にドアを閉めた。
 パタンと乾いた音を立て、そう広くない玄関が薄闇に包まれる。マンションだからなのか、こういう構造だからか、戸建ての沢田家の玄関の半分程しかないスペースで綱吉は身の置き場に困り、体を揺すって奥に目を凝らした。
「おーい」
 失礼します、と言うのを忘れた自分に肩を竦め、呼びかけるが返事は無い。綱吉は鞄を先に肩から下ろし、乱雑に脱ぎ捨てられている獄寺の靴を避けて汚れた運動靴を脱いだ。
 端に寄せて揃え、フローリングの床を滑るように進む。照明が消されているので暗さは何処を向いても変わらない、相変わらず飾り気の少ない簡素な佇まいに自然と眉間に皺が寄って、最近掃除をしたのはいつなのだろうか、と靴下を汚す埃に溜息をつく。
 自分も掃除は嫌いなので、ひとり住まいを始めたらゴミ屋敷にしそうだ、と現時点での自室を思い浮かべて苦笑した彼は、どこにも見当たらない獄寺の姿を探してリビングを覗き込んだ。
「獄寺君?」
 本当に風邪を引いて寝込んでいるのだろうか、だとしたら悪い事をした。
 だけれど、ひとりで部屋に閉じこもっているよりは、誰でも、たとえあまり役に立てなくても、傍にいてくれるほうが病人にとってはありがたいし、安心出来るはず。
 色々なことを頭の思い描いては打ち消し、綱吉は向かいの窓から差し込む微かな明りに目を細めた。
 空を覆う暗雲はまた低くなったようで、押し潰されそうな圧迫感に綱吉は拳を作った。このまま行けば夜に雪が降り始めるかもしれない、気温が下がればその分体調を悪化させる人も増えるだろう。
 獄寺もこの寒い中、ひとり孤独に耐えて震えていたのか。綱吉は一向に姿を現さないこの家の主を探し、伏した目を上向けて首を捻った。
 途端、それまで半端な暗さだった室内に灯りが灯され、網膜を焼かれた綱吉の視界が一瞬にして白く染まった。
「う、わっ」
 予想していなかった出来事に、眼の奥がちくちくと痛んで光が激しく明滅する。咄嗟に瞼を閉じたものの、直視してしまっただけになかなか回復しない。
「十代目?」
 両手で目の部分を含む顔を庇い、部屋の中心に背を向けた綱吉を呼ぶ声がする。
 さっきまで散々咳き込んでつらそうだった雰囲気は掻き消え、元気溢れる日頃の獄寺の声が脳裏に響き、綱吉は途端に「え?」となって目を瞬かせた。
 強く瞼を閉じては開いていくうちに、視力は徐々に戻って来る。まだ僅かに輪郭線がぼやけて見えるものの、色形の判別をつけるのには問題ない程度まで回復させたところで振り向けば、其処に立っていた彼は銀色の髪をいつも以上に白く染めあげていた。
 いや、髪の毛どころではない。顔にも、肩にも、胸元や両手両足にも粉が振られ、全体的に白い。エプロンをつけてはいるがあまり効果は無さそうで、いったい何事かと思っていると鼻の奥が急にむず痒くなった。
「ふ、ふぁ……ふぁっくしょん!」
 細かなものに擽られる感触に堪えきれず、大きなくしゃみが出た。唾も飛んだようで、目の前にいた獄寺が咄嗟に足を引いて後ろへ下がる。しかし彼が動いた所為で余計に粉が舞い、綱吉は三度立て続けにくしゃみを連発させ、最後は息が切れてゼイゼイと肩を上下させた。
 腹筋が急激に動かされて痛い。軟弱な自分の体を罵りつつ額に浮いた汗を拭うと、手を伸ばそうとして粉まみれのそれに気付き、躊躇している獄寺がいた。
 目の前を彼の手が泳ぐ。所々に白い塊が付着したそれは、例えるなら粘土遊びを終えたばかりの子供の指だ。
 何をしていたのだろう、彼は。
「えっと、十代目。その、大丈夫ですか?」
 やや臆した様子で戸惑い気味に瞳を揺らした獄寺が問う。綱吉は喉をさすってケホッ、ともう一度咳き込んでから顔の前で手を横に振り、平気だと乾いた口腔に唾を呼んで飲んだ。
 獄寺は元気そうだ。それどころか若干顔を赤くして、綱吉が懸念していた状況とは程遠い。
 少なくとも風邪で寝込んでいた気配は微塵も無かった。
「獄寺、く、ん……ケホっ。今日、学校」
 どうして休んだのか。まだ痙攣している肺を上から撫でてあやし、綱吉は涙目を拭って姿勢を正した。
 獄寺は腰に巻きつけていたエプロンで手を拭こうとしたが、そこも他に負けず劣らず粉まみれで、触れるのはむしろ逆効果に成りかねない。渋い表情で舌打ちするのが聞こえて、やっと人心地ついたと深呼吸した綱吉は、彼が被っている粉が危ないものでもなんでもなく、ただの小麦粉だと知って安堵の息を漏らした。
 制服の袖に散った細かな粒子を指で掬い取り、捏ねて払う。
「学校、もう終わったんですね」
「うん」
 嗚呼、と緩慢に頷いた獄寺が爪の間に小麦粉の塊を挟んだ指で頬を掻いた。時計を見て、それから曇り空の外へ目を向けて、最後にまた綱吉に向き直る。見下ろされて首肯した綱吉は、今日休んだ理由を彼に問い、予想通り小雪が舞い散り始めた外に目を細めた。
 積もるだろうか、そんな事を考えて身動ぎする獄寺の動きを横目に追う。
 彼は若干照れた顔で苦笑し、単純に寝坊したのだと言った。
「寝坊にしたって……」
「目覚まし、止まってたんで。気付いたらもう昼前だったんです」
 だから面倒くさくて、学校に行くのもやめてしまったのだと。
 連絡を寄越さなかった件で綱吉が頬を膨らませれば、携帯電話を鳴らしたが反応がなかったとの返事。これに関しては自宅に置いてきた綱吉が悪いのか、どうなのか。
 自分にではなく、学校に連絡をすればいいのに。口の中に溜めた息を吐き出してまだ治まらない不満を露にし、どうせ彼のことだから言ったところで聞きはしないだろうと諦める。大仰に肩を落とした綱吉に獄寺は依然として苦笑したままだったが、不意に台所の方からけたたましいベルの音が響き渡って、綱吉共々驚いて飛び上がった。
「な、なに?」
「うわ、やべっ」
 音の正体が分からない綱吉は慌ててきょろきょろと周囲を見回し、思い当たる節がある獄寺は焦って身体を反転させた。
 足音響かせてリビングを駆け抜けた獄寺を追いかけ、綱吉もシステムキッチンの裏側を覗き込む。そこも獄寺同様粉まみれで、挙句様々な食材が取り留めなく散らばっていた。
 正直、汚い。野菜の屑や何が入っていたのか分からないパッケージが散乱した台所は、足の踏み場にも困るほどで、綱吉は中に入るのを躊躇して膝を折り、身を低くしている獄寺を遠くから窺い見た。
 彼はどうやら、備え付けのオーブンを覗き込んでいるらしい。
 音は既に止んでいて、発生源は今獄寺の手の中に。なんてことはない、黄色いレモンの形をしたキッチンタイマーだ。
「獄寺君?」
「は、はい!」
「……なにやってんの」
 真剣な顔をしてオーブンの中身を睨んでいる彼に問えば、彼は照れ臭そうに相好を崩して髪の毛に絡み付いている小麦粉を払い落とした。
「いえ、昼に目が醒めたとき、妙にピザが食べたいなって思って」
「はあ?」
 素っ頓狂な声を出し、綱吉は目を忙しく瞬かせた。
 獄寺曰く、惰眠を貪る中でイタリア時代の夢を見た。何処かの田舎料理を出す店にいて、イタリアの家庭料理を前に座っている夢だったのだが、いざ食べ始めようとした直前に目が覚めてしまった。
 物凄くおいしそうで、夢と分かっているけれど食べ損ねた気分で憂鬱になり、だから余計にピザだけでも食べたくなった。
 けれどデリバリーで頼んでみたら、自分が思っていたものと少し違っていて、不満が残る。それならばいっそ自分で、自分が食べたいように作ろう、と。
 そうして材料を買い揃え、粉から生地を捏ねて作り始めたところ、夢中になって時間が過ぎるのも忘れていた。そこへ綱吉が訪ねて来たので慌てて応対に出ようとしたら、滑って転んで、使い切れずに放置していた小麦粉の袋をひっくり返し、頭から盛大に中身を被ってしまった。
 インターホン越しに彼が酷く咳き込んでいたのはそういう理由で、綱吉の心配していたことはなにひとつ成立していなかった。獄寺は元気で、微熱さえなく綱吉の前で笑っている。
「ピザ。そう、ピザね……」
 彼の実姉を思い出し、綱吉の視線が宙を泳ぐ。
「俺は姉貴みたいなのは作りませんってば」
 何を想像したのか即座に理解した獄寺が、エプロンの粉を払って立ち上がる。彼の言葉を証明するかのように、オーブンからは香ばしい匂いが漂い始めていた。
 焼き上がりまでもう少し掛かりそうだと彼が呟く。途端に昼休憩後から何も食べていない綱吉の腹の虫が無情にもぐー、と鳴った。
 一瞬ふたりの間に奇妙な空気が流れ、獄寺が噴出すと同時に綱吉は真っ赤になって後ろを向く。
「そうだ、十代目。どうせなら食べて行きませんか? 俺ひとりじゃ、食べ切れませんから」
 いったいどれだけ作ったのか、悲惨なことになっている台所を見回して綱吉は魅惑的な誘い文句を述べた彼を恨めしげに睨みつける。
 しんしんと空から舞い降りる粉雪は白く、空はゆっくりと雲の色を濃くして闇に落ち行こうとしている。
「……食べる」
 ぼそりと返した途端、獄寺は心底嬉しそうにはにかんだ。
 雪はまだしばらく、止みそうにない。

2008/02/20 脱稿