鶴首

 保健室にて、如何わしいものを見つけてしまった。
「…………」
 薬棚の上、埃が溜まっていたので掃除しようと椅子に乗って背伸びをしていたら、奥の方に段ボール箱があった。床に立って見上げるだけでは視界に入らない、まるで人の目から隠すように置かれていたその箱を、興味本位で下ろし、広げてみたら、その中に。
 多分、公共の電波に乗せるには凡そ不釣合いな、というよりも確実にピーという音が入るはずの品物が色々と、ごちゃごちゃに。
 これはいったい、なんだろうか。箱を開けたその状態のまま凍りついた綱吉は、先ほどまで使っていたパイプ椅子にゆっくりと腰を下ろし、同時に靴を脱いだ両足を前方に投げ出した。
 膝から腿に至る空間に鎮座させた箱の中では、妖艶なポーズを決めた裸体の女性が綱吉に向かってウィンクしている。
 ビデオ、DVD、雑誌に……兎も角色々だ。
「えっと」
 見てはいけないものを見てしまった、ように思う。まだ混乱している頭で綱吉は考え、これの本来の持ち主をすぐさま脳裏に描き出し、深々と溜息を零した。
 なんてものを学校に持ち込んでいるのだろうか、あの男は。一応此処は未成年ばかりが集う公共施設のはずなのだが。
 ぶらぶらと揺れる段ボール箱の蓋部分を手で外側に押し広げ、入っていたものを試しに手に取ってみる。真っ赤な口紅が印象的な金髪美人は、羞恥心など無関係な格好でビデオのパッケージを飾っていた。
 タイトルは英語で、綱吉の学力では読めない。けれどきっと、あまりろくでもない題名をつけられているのだろう。身体を覆う布がただの飾りでしかない女性の豊満な胸に赤面しつつ、裏を返す。そして綱吉は更に真っ赤になって、慌ててそれを箱に押し込んだ。
「っ!」
 健全な中学二年生男子には些か刺激が強すぎる写真が、裏一面を覆っていた。
「う、わ、あ……」
 しかし気になるのも事実で、綱吉は首を直角に逸らしつつも、目だけは横向けて箱の内側を窺い見る。ちらり、ちらりと見えそうで見えない位置を何度も瞳が往復して、徐々に興奮している自分を意識しつつ綱吉は固く目を閉ざした。
 やっぱり、恥かしい。
「なんだって、こんなものがあるんだよ~」
「俺はお前が何をやってるのかが疑問なんだが」
 そもそも、あの男がこういう猥褻物を学内に持ち込んでいるのが悪いのだ。靴下履きの右足を跳ね上げて床を叩いた綱吉の悲鳴に、相槌を返すわけではなかったろうが、男の、太く低い声が困った様子で重なりあった。
 腰から上を左に捻り、上半身と下半身の向かう方向を九十度すらしていた綱吉は、椅子の上でもうひとつ左足を跳ねさせ、え、と目を瞬かせた。
 熱を持っていた頭が急速に冷めて行き、どきどきしていた心臓が脈拍を落とす。一転して再び凍りついた彼は、ゆっくりと姿勢を戻すついでに視線を前方斜め上に移し変え、其処に佇む人影にひくり、と頬を痙攣させた。
「シャ……マル……」
「なーにやってんだ、小僧」
 上擦った声しか出ず、綱吉は強張った表情で相手の名前を呼んで唾を飲んだ。
 シャマルはいつものようによれよれの白衣をスーツの上から羽織り、ボサボサの髪の毛を掻き回しながら呆れた様子で椅子に座る綱吉を見下ろしている。若干垂れ下がり気味の瞳は、けれど隙無く綱吉を観察していた。
「や、えっと」
 片付けをしていたらたまたま、偶然に。
 視線を泳がせ、俯きそうになった自分を慌てて制して横に向け直した綱吉が、再び赤くなった顔も一緒に隠してぼそぼそ呟く。両手は箱の側面を添えて落とさぬように支えているが、脚は落ち着き無く交互に膝で曲げて、伸ばす仕草を繰り返していた。
 動揺を隠しきれて居ない綱吉に、シャマルは乱雑に右脇の髪を梳き上げて溜息を零す。
「お子様には、ちーっと刺激が強すぎたか?」
「うっ」
 一瞬だけ彼の腕が邪魔をしてシャマルの顔が綱吉の視界から消える。次に見えた時には、彼はにやりと口元を歪めて不敵に笑っており、意地悪い口調も相俟って綱吉は吐き出そうとしていた息を止めて奥歯を強く噛みしめた。
 確かに、内容物は過分に過激な品物ばかりだった。パッと見ただけでは何に使うのか分からない小道具も端に見え隠れしていて、きっとこれは、そういう時に使うモノなのだろうと思うと直視できない。
 水着のグラビアなどは山本も獄寺も普通に持っているし、彼らの家に遊びに行った時に見せてもらったこともある。けれどシャマルの所有するこれらと比較すると、彼らの宝物は酷く安っぽく、陳腐なものに思えてしまえそうだ。
「う……」
 ツィ、と鼻の下を暖かなものが流れ、綱吉は二度瞬きを繰り返してから箱を支える手を片方外した。
 右に傾いた箱を膝だけで安定させ、上唇にまで伝ったそれに指を這わす。拭い取った人差し指を見ると、赤い。
「おいおい」
 あきれ返ったシャマルの声も聞こえて、これはなんだろうと首を傾げた綱吉は、唇の膨らみを越えて口腔に紛れ込んだそれを舌で舐め、鉄錆びた味に顔を顰めた。
 一秒半後、理解する。
「うわぁぁ!」
「って、うお!」
 自分の鼻血に驚いて両足を揃えて高く蹴り上げた綱吉は、弾みで膝に載せていた箱も跳ね除けてしまった。シャマルが僅かに遅れて悲鳴をあげ、両手を伸ばし、空中でひっくり返ろうとしている箱を抱きかかえ飛びかかる。
 両腕を頭上高く掲げた綱吉は、足を上に持ち上げた反動もあって身体を後ろへ傾けた。パイプ椅子の前脚が浮き上がり、後ろに壁となるものが何も無くてぐらりと身体全体が揺れる現実に目を剥く。
 まずい、と思っても咄嗟に反応できない。視界いっぱいに保健室の天井が映し出され、左側に灯る蛍光灯の光を浴びて彼は喉を引き攣らせ、目を閉じた。
 耳の奥がぐわんぐわんと嫌な感じで響き、三半規管が刺激されて気持ちが悪い。腰がビニルの張られた椅子の上を滑って、余計にガクンと綱吉の小さな身体が揺れた。
「ひっ……!」
 恐怖心で心臓が縮み、胃が押し出されて吐き気がする。中空に投げた手は掴むものを求めて足掻いたが、爪先は何かを擦ることもなく手の平を刺すだけに終わった。
 衝撃が来るのを覚悟して腹に力を込め、椅子が脹脛を擦る感触に鳥肌を立てる。人間よりも先に椅子が床に沈み行こうとしているのが感覚として伝わってきて、綱吉は握った拳を再度広げ、空を掴んだ。
 ガシャン、という椅子が倒れる音の他に、何かが床にぶちまけられる音が鼓膜を打つ。
「――――っ!」
 右肩に急激な負荷がかかり、綱吉は関節が外れるかどうかの瀬戸際で悲鳴を飲みこんだ。後ろに行こうとしていた身体を強引に前に引っ張られ、掬い上げられる。
 重力を無視した移動に眩暈がして、目を回しているうちに額が何か温かなものに触れて止まった。
 息を吐けば壁にぶつかり、半分だけ跳ね返って自分の前髪を揺らした。残り半分は薄汚れた白に吸い込まれていく。
「う……」
 まだジンジンする後頭部に呻き、綱吉は硬く目を閉じてから肺の中に沈殿した息をゆっくりと吐き出した。途中で背中をさすられ、少しだけ呼吸が楽になる。ほうっと最後の二酸化炭素を吐き終えると、揺さぶられて居場所が無かった内臓が元の位置へ戻るのが分かってホッとした。
 無意識に目の前に垂れ下がる布に指を絡めてしがみつき、癖のある煙草と香水が交じり合った匂いに居竦まった心臓を解きほぐして寄りかかる。
 今の一瞬で鼻血は止まったようで、ただ舌先に痺れたような感覚だけは残り、喉の奥がひりひり痛んだ。
「吃驚させんな」
 頭の上、というよりは若干後ろ気味の位置から声がして、首の後ろを擽られた。
 久方ぶりに瞼を持ち上げれば、目の前にはダーググリーンと白のストライプ柄ネクタイがぶら下がっていた。綱吉はその両側に垂れる白衣を握り締めていて、鼻先は灰色のワイシャツに押し当てられている。擦ったようで血の染みが出来上がっているのに驚いて、彼は慌てて両手を解放した。
 離れようとするが、背中に腕が回されていて首が後ろに下がっただけで留められる。耳朶にシャマルの髪の毛が霞め、宥めるみたいに背中を上下した手は少し待てば自然と離れていった。
 今更に右肩が痛んで、巧く持ち上がらないのに気付く。顔を顰めて上半身をくねらせていると、綱吉を床に座らせた彼が後ろに回り、ずれた関節を戻してくれた。
「いっ!」
 ごき、と良い音がして一瞬だけ衝撃が走る。堪えきれずに悲鳴をあげた綱吉は、暫く響く痛みに悶え、涙目で恨めしげに倒れた椅子を起こして立ち上がったシャマルを見上げた。
 綱吉の周囲には、彼が放り投げ、シャマルが途中で捕まえるのを諦めた段ボールの中身が散乱し、目も当てられない状態になっていた。
 豊満な体躯を惜しげもなく晒す女性が、あられもない格好をして綱吉を挑発している。なるべく見ないようにしても無理で、手で払って距離を取るくらいしか方法が無かった。
「こら、大事に扱え」
 ぞんざいに押し退けていると、個別に拾い上げていたシャマルが綱吉の手を制して動きを封じ込める。不満顔で睨みつけてやると、それこそ不本意だと言いたげな視線を返されて綱吉は頬を膨らませた。
 傍らに立てられた椅子に肘を立て、床に腰を落としたまま体を横に撓らせて凭れ掛かり、シャマルの動きを見守る。彼はひっくり返した段ボールを小脇に抱え、散らばった品々の無事を確認しながら、ひとつひとつ丁寧に箱へ戻していた。
「スケベ」
「悪いか、こら」
 雑誌ひとつにしたって、壊れ物を扱う細やかさで対処している彼にぼそりと言えば、即座に顔をあげた彼に凄まれてしまった。
 悪びれるどころか、堂々と胸を張って自分が助兵衛だと自慢している素振りさえ窺える。彼がそういう性格なのは知っていたが、改めて認識するとあまりに馬鹿らしくて、綱吉は辟易しながら首を振った。
「興奮して鼻血出してたのはどこのどいつだ」
「なっ! それとこれとは話が別だろ」
 DVDのパッケージを開け、中身に破損がないのを確かめていたシャマルが不遜に言い放って綱吉を狼狽させる。
 確かに女性の裸体を見て逆上せたのは間違いないが、それは不可抗力だ。趣味で集めている人間に言われたくはないと声を荒立てた綱吉を鼻で笑い、シャマルは閉じたケースで綱吉の頭を叩いた。
 痛くは無いが反射的に首を竦めた綱吉は、ケースを押し返す自分の髪の毛の頑丈さを呪いつつ上目遣いに彼を見やる。シャマルは最後の雑誌を拾い上げて埃を払い落とし、段ボールの一番上に載せて蓋を閉めていた。
 綱吉が椅子に乗って、背伸びもしないと届かない棚の上に難なく箱を置き、片腕で押して壁際まで寄せて視界から隠す。けれどきっと、明日にはもう其処に何も無いはずだ。
 綱吉に見つけられたものを、いつまでも同じ場所に秘しておく程彼は愚かではない。隠しているわけだから、一応学校に置いておくには不適切なものだと彼も認識しているのだろう。どうせなら家の、綱吉でも探し出せない場所に置いておけばいいのに、なにをわざわざ保健室に置いてあるのか。
 まさか、此処で使うのか。
 思考が至った結論にハッとして、綱吉は開けた口を手で隠す。けれど息を呑んだその音が聞こえたようで、ポケットから煙草を取り出したシャマルはまだ床で蹲っている綱吉に苦い顔をした。
「ばーか。貸すんだよ」
「ちょっ、人の心読むな!」
 シンプルな思考回路を見抜かれた溜息混じりのひとことに、綱吉は耳朶まで真っ赤にして怒鳴った。
 そんなに分かり易いのだろうか、自信をなくしかけた綱吉が今にも泣きそうな顔をしてシャマルを睨む。けれど赤くなったままの瞳は照れもあって潤んでおり、迫力とは程遠いところにあった。
 歳相応、とでもいうのか。初心な綱吉の反応を喉の奥で笑い、あまり苛めるのも可哀想かとシャマルは咥えかけた煙草を戻し、いい加減起きろと彼へ手を差し出した。
 素直に応じた綱吉の手を握り、軽い所作でひきあげる。
「いって……」
 さっき外したばかりの右肩がまた痛んで、顔を顰めた綱吉が目尻を下げた。
 つい数分前の事なのにすっかり失念していたシャマルが、しまったという風に口元を歪める。椅子に座り直して制服の上から肩をさすった綱吉は、一寸遅れてから彼に首を振り、大丈夫だと力なく笑んだ。
「けどなあ」
「平気。回るし」
 それでも責任を感じている様子のシャマルに、右肩を大袈裟に回してみせて、ほら、と彼の前で手を広げた。指を順に折り曲げて開き、左右に振ってから膝に戻す。本当は若干痛みがあって、我慢して顔に出さないように気をつけたつもりだったのに、見抜いていたシャマルはその節くれだった手を綱吉の頭に載せると、わしゃわしゃと問答無用で掻き回した。
 そのあまりに無作法で乱暴な仕草に、綱吉はただ俯く。
 優しくされているのとも、気遣われているのとも少し違う。
 拗ねた子供をあやす仕草のそれ、だ。癖のある髪を一頻り撫でたシャマルの手は呆気なく離れ、綱吉から体温を奪っていく。
「貸すって、誰に?」
「そりゃ、決まってるだろ。独り身の寂しい同僚諸君に、若気の至りを有り余らせている連中なんかだな」
「それって……」
「ま、お前さんにゃまだ早い」
 まさか成人指定があるものを未成年にも貸し出しているのか、と言おうとしたのに先に頭を押さえつけられ、言葉を封じられた。
 彼の手が去っても綱吉は軽く背中を丸めた姿勢のまま下を向き、ぐるぐると頭の中でうねるまとまりの無い思考を波立てる。押し寄せてくるばかりの奔流に戸惑うばかりで、その下に隠されているものが何も見えてこない。
 早いだとか遅いだとか、そういう以前に。
 恐らく自分は、彼がああいったものを好むと知っていながら、分かっていなかったのがショックなのだろう。実物を前にして、彼がそういうものに頼って欲求不満を解消している事実に行き当たりって、複雑な気持ちになっているというところか。
 頭の中の冷静な部分がそう結論を導き出し、綱吉は唇を浅く噛む。
「シャマル」
 所詮自分は子供でしかなくて、しかも男で、彼の好きな大人の女性とはおおよそ対極の位置にある存在だ。そんな自分が彼を満足させられているとは到底思えない、最初から勝負なんて目に見えている。
 いや、勝負の舞台にすら登れていない。
 同じテーブルにつくことさえ、あり得ない。
 名前を呼んだのに、その後黙りこくってしまった綱吉のつむじを見下ろしてシャマルは白衣の裾を揺らした。影を背負い込んで暗く沈んでいるのは雰囲気からも伝わってきて、何を落ち込む事があるのだろうかと首を傾げる。
「おーい、小僧」
「……じゃない」
「ん?」
「小僧じゃない!」
 握り締めた拳を振り回して唐突に顔を上げた綱吉が、自分でも驚く音量で怒鳴って椅子を蹴り倒した。
 距離を一瞬で詰めた彼に、シャマルが言葉を詰まらせて目を丸くする。綱吉の背後でパイプ椅子は再び床に激突して、伸び上がった彼は無精髭の目立つシャマルを大粒の瞳でギッと睨みつけた。
 噛み締めた奥歯が痛む。鼻の奥までツンとして、綱吉は呼吸の苦しさから薄く唇を開き、先端から舌を覗かせた。
「こ……」
「子供じゃない!」
 シャマルはいつだって綱吉を小僧だの、坊主だの、茶化した表現しか使わない。名前を呼ぶのは稀で、昔馴染みだからだろうが獄寺が当たり前のように彼に名前を呼び捨てされているのが、本当は少し羨ましかった。
 子ども扱いされるのも、実際に自分がまだ大人と呼ぶに程遠いと理解しているから我慢もした。
 彼が自分に手を出さないのも、子供だからだと。
 真剣な眼差しを間近で見て、シャマルがあまり大きくは無い目を限界まで広げ綱吉を凝視する。瞳が乾いて痛みを訴え、瞬きをしようと筋肉に電流を走らせた直後、無理矢理背伸びをして身長差を埋めた綱吉が彼の唇に噛み付いた。
 上唇にまで届かず、足掻いた前歯が柔らかな肉を咬む。犬歯に突き刺されたシャマルが肩を強張らせる。跳ね上がった右腕が、綱吉を反射的に突き飛ばそうと動いた。
 閉じ損ねた目が至近距離から互いを映し出し、まるで先に瞳を逸らした方が負けみたいに思えて綱吉はもう一度彼に噛み付く。牙を立てた箇所へ最後に慰めで舌を絡ませて離れると、ずっと止めていた呼吸を思い出して胸の中に溜め込んだ息を一気に吐き出す。深呼吸を繰り返してその場で膝を折った彼は、そのままへなへなと力を失って蹲った。
 自分から仕掛けたくせに、押し寄せて来た後悔から並べた膝に顔を埋めて表情を隠してしまう。
 粋がって叫んだところで、なにひとつ、思い通りにならない。
 もっと格好良く決めたかったのに不慣れさが前面に押し出されただけで、彼を噛んだ歯がじんじんと痛んだ。
 顎を撫でたシャマルは、切れて血こそ出なかったものの感覚が他よりも鈍った唇を指でなぞって肩を落とし、ひとり勝手に息巻いて、落ち込んでいる綱吉の前で膝を折った。
「おい、こら」
 軽く握った拳で綱吉の額を小突き、顔を上げるように言う。けれど綱吉は伏したまま首を横へ振り、余計に膝を丸めて小さくなった。
 どこの団子虫なのか、と心の中で悪態をつき、シャマルが苦虫を噛み潰した顔で脂性の髪を掻き上げた。斜めに歪んでいたネクタイを真っ直ぐに戻し、靴の先で踏みつけていた白衣を引っ張って裾を延ばしてからどっかりと床に腰を下ろす。視線は、腰が浮いている綱吉が上になった。
 気配で彼が其処に居場所を定めたのを知り、綱吉が全身を震わせる。足裏をべったりと床に貼り付けた彼は、交差させた腕で頭さえ庇って、嘆き弾に撃たれたわけでもないのに完全な自虐モードに入ってしまっていた。
「こーら」
「だって……どうせ、俺はがきんちょだよ」
 落ち込むなら自分の家に帰って、自分の部屋でしろ。早口にまくし立てたシャマルの声を途中で遮り、綱吉は姿勢を低くしたまま呻くように吐き捨てた。
「は?」
「どうせ、俺はシャマルみたいに大人じゃないよ!」
 しかし理解出来ていない様子の彼に苛立ちが爆発し、綱吉はがばっと勢い任せに首を伸ばして再び怒鳴った。
 思っていた以上に近い位置にいたシャマルが、慌てて身を仰け反らして避ける。しかし天地の法則を無視して跳ね返っていた綱吉の髪の毛が彼の鼻先を掠め、触れ合った呼気に綱吉もまた驚いて中腰で停止した。
 バランスは数秒で崩れ、膝が床に落ちる。
 何故か分からないが急に泣きたくなって、綱吉は力の抜けた下半身を横に広げて姿勢を崩した。
 ひっく、としゃくりをあげると途端に大粒の涙が目尻に浮かび上がって、自分が情けなくて、格好悪くて、綱吉はわけが分からないままボロボロと零れていく雫を懸命に指で拭い取った。それなのに次から次へと涙は溢れ出して止まらず、溜息をついたシャマルが擦るな、と手を掴んで無理矢理引き剥がすまで綱吉は声を殺して泣きじゃくった。
「泣くな、おい」
「だって、わかんなっ……」
 自分がどうして今、こんな風にみっともなく泣いているのか、その理由が分からない。ただイラついて、腹立たしくて、それでいて哀しくて、虚しくて。
 自分が子供であるのが悔しいと思うくらいに、彼が好きなのだと自覚させられて、それが痛い。
 どんなに背伸びをしても、無理をしても、成熟した女性の魅力に勝てるわけがない。並べられたら、考えるまでもなくシャマルは綱吉ではなく、赤い口紅で唇を彩った女性の手を取るだろう。
 敵わないのは最初から承知していた、それでも矢張り、哀しい。
 同時に、勝てない勝負に挑もうとしていた自分が虚しくて、苦しくて仕方が無い。
 感情を制御できず、隠せず、馬鹿みたいに泣いて彼を困らせるような子供の自分が嫌いだった。けれど止めようにも止められなくて、わんわん声をあげて泣き続けていると、呆れた表情を見せていたシャマルが不意に真面目な顔をして、横に伸ばした親指で綱吉の涙を交互に拭い取っていった。
「確かに俺は、ガキは嫌いだが」
 指の腹を湿らせ、それを縦に置き換えて綱吉の唇に押し当てる。問答無用で黙らせられて、綱吉は喉の奥で空気を震わせた。
 ゆっくりと瞬きをして、残っていた涙を頬に落とす。琥珀色の輝きが戻った瞳にシャマルは意味深に笑い、指を真下へずらして彼の顎を取った。
「シャマル?」
 くいっ、と抓まれて持ち上げられ、視線が斜めを向いた綱吉が怪訝に眉間へ皺を寄せた。
 彼の親指が、綱吉の細い顎を撫でる。
 寄せられた彼の唇に目尻を拭われ、舌先で頬を舐められる。柔らかで温い感触に綱吉は背筋を震わせ、膝の上から左手を滑らせた。
 中指の背が床を叩き、次いで爪先が冷たい表面を削る。一旦後ろへ流れてから前に戻ったそれは、手の平を上にしてその場に留まり、薬指を痙攣させて空気を掻き回した。
 甘くも無いだろうに、飴玉を転がすみたいに綱吉の頬を右、続けて左側も同じように舐めて涙の跡を上書きして、離れていく。けれど身を引くかと思えばそうではなくて、綱吉が呆然としたまま抵抗を忘れている様をまた笑った彼は、下向こうとしていた綱吉の顔を持ち上げた。
 琥珀を正面に見詰め、不遜な笑みを目元に浮かべる。
「俺様好みに育てる、っつー楽しみはあるわけだ」
 きょとんとしながら瞬きした綱吉を他所に置いて、彼はその薄く開いた桜色の唇に顔を寄せた。
 ち、と鳥が囀る音を残し、触れるだけのキスを落として位置を上にずらす。
「……っ」
「動くなよ」
 途端、肩を強張らせて震え上がった綱吉が咄嗟に逃げようともがくのを、シャマルは先手を打って低い声ひとつで制し、鼻の下に僅かに残る鼻血をも舐め取った。鼻の頭に噛み付いて、先ほどの仕返しもしっかりと忘れない。
 がりっ歯が擦る感触に背筋を粟立て、綱吉は無意識に彼の腕を取り、袖を握り締めた。硬く閉じた目は痛みに怯えてなのか、それともあまりに近すぎる彼を見返す勇気が無いからなのか、自己判断できぬまま彼は再び舌先で唇を擽られ、深く口付けられた。
 ちょろちょろと表面を撫でる舌が、きつく引き結んだ唇を解くように促す。最初は頑なに拒んでいた綱吉も、空いていた手を首裏に添えられて産毛をさすられると鳥肌が立ち、膝が震えて全身から力が抜けて行った。
 抵抗など彼の前では無意味で、薄目を開ければ深い闇色の瞳が自分を覗き込んでいる。
「っ!」
 目が合ったのが分かり、笑われるのが怖くて身を竦ませた一瞬に緩んだところを狙われ、呆気なく閂が外される。潜り込んできた熱に口腔を舐られ、苦い煙草の匂いが鼻腔を内側から刺激する。熱が蕩け、甘い痺れが綱吉の下肢から脳天を突き抜けた。
 怯み、背筋が凍る。床の上で膝が跳ねて、シャマルの腕に爪を立てた彼はかぶりを振ったが、首の後ろを拘束されている所為で逃れられない。そうしている間にどんどんと奥へ侵食されて、逃げようとした舌を呆気なく絡め取られる。
「んぅ……」
 ざらりとした感触が表面を襲い、心臓が縮まって一瞬止まった。
 覆い被さるシャマルを押し退けようという気持ちは起こらず、ただ彼にしがみつく。あやす仕草で後頭部をゆっくりと撫でられてホッとして、同じタイミングで舌を吸われて全身が戦慄いた。
 粘膜を舐め取られ、掬われる。水音が咥内に細波を起こし、溢れ出た唾液が洪水を起こす。合わさりが解けた部分から溢れ出して顎を濡らし、それをシャマルの指が余すところ無く拭い取って行った。
 幼い喉仏を小分けに揺らし、ぼうっとする頭がまるで自分の一部ではない気がして綱吉は侵蝕する他者に歯を立てる。表面を削り、息苦しさに喘いで口を大きく開いた。
「……はっ」
 溢れ出た唾液はもう指一本では対処できなくて、飲み込むのも難しい。新鮮な酸素を求めて赤く色付いた唇を開閉させていると、僅かに身を引いたシャマルが自身の指を舐めて綱吉の顎に噛み付いた。
 喉を仰け反らせ、綱吉が首を振る。しかし彼は構いもせずに顔の輪郭を舌先で擽り、さっきから少しも落ち着かない彼の咽頭を弄ってその下にある窪みに口付けた。
 濡れた音が響き、綱吉の全身がカーッと赤く染まる。
 制服の襟を広げて胸元に顔を埋めている彼に今更気付いて、綱吉は咄嗟に膝を跳ね上げて彼の顎を狙った。いや、本人にそのつもりはなかったのだが、生憎と場所が悪く、結果的にはそう成らざるを得なかった。
「うぎっ」
 思い切り自分で舌を噛んだシャマルが呻き、痛みに悶絶して綱吉を解放する。がんっ、と膝頭に走った衝撃に驚いて身を竦ませた彼は、制服の上着を両手で抱き締めてから目を瞬き、顔の下半分を両手で覆っている髭面の男から慌てて距離を取った。
 どきどきと心臓の音が身体中に響き渡り、体の細部まで走る血管が破裂しそうな勢いだ。左胸に手を添えると拍動は今にも鼓膜を突き破りそうで、左右の膝を捏ねた綱吉は自身を庇う盾代わりに腿を起こした。
 拭い損ねた雫が顎を伝って袖に落ち、染み込んだ布がそこだけ色を変える。慌てて袖で口元を何度も擦って水分を移し変えると、若干傷ついた顔をしたシャマルが手を下ろして綱吉の手首を取った。
「……っ」
 真剣な眼差しがどこか怖くて居竦まり、綱吉はひく、と頬を強張らせて反対側に身体を引っ張る。
 けれど、力勝負だとどうやっても敵わない。抵抗は無意味と改めて教えられ、逃げ場を失った彼の身体はすっぽりとシャマルの腕に納まってしまった。
「シャマ……」
 名前を呼ぼうとしたら呂律が回りきらず、途中で途切れる。上向かせた瞳で見たシャマルからは感情が読み取れず、ただゆっくりと再び近付いてくる彼に、綱吉はぎゅっと瞼を閉ざして動ける範囲で身体を丸めた。
 鼻先に吐息を感じ、余計に身を強張らせる。
 彼が怖いわけではない。怖いのは、自分がどうなってしまうか分からないことだ。
 今まで彼とキスを交わした経験ならあるが、それは挨拶に近い戯れの延長線上に近かった。あんな風に触れ合ったのは初めてで、自分が違うなにかに作り変えられてしまう感覚に綱吉は打ち震える。
 シャマルの影に視界を覆われて、世界が闇に落ちる。噛み締めた唇は痛いくらいで、一秒がいやに長く感じられて綱吉は膝を浮かせた。
 ちゅ、という軽い音が。
 予想していた場所――よりも随分と上から聞こえて、瞼を持ち上げた綱吉は視線を泳がせた。
 身を引いたシャマルを見上げ、取り戻した明るさに瞬きして今しがた触れられた場所に指を置く。前髪に隠れ気味の額、眉間のちょうど真上辺りだ。
「…………」
「ま、今のお前さんにゃこれくらいが丁度良いな」
 なんだか釈然としないでいると、肩を竦めたシャマルが白衣を翻して立ち上がった。
 目の前をくすんだ白が流れていき、サラサラと空気がそよぐ。綱吉は額から眉間、鼻筋に指を落として最後にまだ濡れている唇を撫で、立てた爪で表皮を引っ掻いた。
「こ、子供あつか――」
「だってしょーがねーだろ。まだお子様なんだから」
 片膝を引いて立ち上がろうとした綱吉の額を指で弾き、彼が痛みで声を失うのを見てシャマルは呵々と笑った。
 アダルトビデオのパッケージ如きで興奮して鼻血を出すような子供が、どんなに背伸びをしたところで大人にはほど遠い。見た目年齢ではなく、精神的な部分も。直ぐに癇癪を起こして泣き喚くようでは、未熟だと言われても反論出来ない。
 指折り数えて列挙され、綱吉はむすっと頬を膨らませて視線を横に流した。全くもって彼の言う通りで、子供だと言われて怒るのはまだまだ子供だからだ、と最後を締め括られると、もう項垂れることくらいしか出来なかった。
 こんなことではいずれ、彼に飽きられる。いや、既に呆れられているから同じか。ぐるぐると再び床の上で沈殿した思考を掻き回していたら、目の前に立った彼が両腕を伸ばして綱吉の脇を支えた。
 ぐっと力を込められ、訳が分からぬまま真上に引きずりあげられる。
「うわっ、シャマル!」
 両脚が宙に浮いて、素足が何もない空間を蹴った。巻き込まれた空気がシャマルの白衣を揺らし、綱吉は掴むものを探して彼のネクタイを問答無用で引っ張った。
 一瞬の息苦しささえ彼は高らかに笑い飛ばし、綱吉を抱え込んだ。腰を抱いて自分の肩へ寄り掛からせ、辛うじて届く顎の少し上に触れるだけのキスを、態とらしく音を立ててまで落とす。
 批判の声をあげた綱吉を無視し、くるりと身体を反転させて空間を遮るカーテンを巻き込み、その華奢な体躯をベッドへ投げた。
 折り畳まれた上掛け布団を背中に感じ、綱吉は目を閉じて衝撃をやり過ごす。一緒になってクッションに沈んだシャマルが、息を詰まらせた綱吉の顔横に両手を置いて、ほんの少し煙草臭い息を吐いた。
「無理して、急いで大人になんかなるな」
 ふと潜められた彼の声に綱吉は驚き、返す言葉をなくして彼をただ見上げた。
 真上にのし掛かり、僅かな空間を残して佇む彼が一瞬だけ哀しげに顔を歪め、泣きそうに表情を曇らせた気がした。けれど綱吉が瞬きをした刹那にはもう、シャマルはいつものような飄々として、内心を悟らせない嫌みな笑みを口元に浮かべてさえいて、綱吉を困惑させる。
「シャマル……?」
 右手を持ち上げて彼のネクタイを握れば、そのまま引き寄せられた彼が綱吉のこめかみに触れるだけの口づけを贈る。触れた肌が無精髭に擦られてほんの少しだけ痛み、けれどそれがむしろ彼らしく思えて綱吉は息を吐くと同時に笑った。
 緩んだ空気にシャマルも薄い笑みを零し、今度は位置を下にずらして頬骨に唇を押し当てた。
「ゆっくり……待っててやるから」
 聞こえるか否かの囁きを零し、今一度触れるだけのキスを贈って離れていく。
 髪を梳く手はいつになく優しくて、心地よい。目を閉じれば尚更深く、いつもは遠い彼の心を感じ取れる気がして、綱吉は力を抜くと消毒薬の匂いがこびり付いたシーツに身を沈め、口元をほころばせた。
「そんな事言われたら、俺」
「いいさ」
 両腕を拡げた綱吉の横に腰を落とし、彼が嘯く。
「言ったろ。俺好みに育ててやるって」
 頬を小突く指が唇を擽り、そこにまた口づけが落ちて、綱吉は腕を上へ持ち上げた。
 彼の首を抱き、力を込める。
 今はまだ、届かないけれど。
 必ず。
 ゆっくりでもいい。
 貴方と肩を並べられるように。
「期待してる」
「それは俺の台詞だろ」
「そう?」
「ああ」
 小さく舌を出して笑うと、それさえも掬われて、声を奪われる。
 いつか、きっと。
 いつまでも、ずっと。
 こんな風に、貴方の隣で笑っていられたら――

2008/02/14 脱稿