甘美

 二月に入った辺りから、学内にはにわかに落ち着き無く、そわそわした人が増えてくる。
「これ、美味しいんですよ」
「ふうん」
 沢田綱吉はある日の放課後、いつものように応接室に用事も無く居座って、本来は校則違反だと没収されてしまう筈の新作菓子の封を開けていた。
 咎めるべき風紀委員長も、この日は機嫌が良いのか見逃す構えだ。綱吉が示した菓子のパッケージに目を向けて、でかでかと目立つ色で書かれた商品名にあまり興味ない様子で相槌を返す。
 どうぞ、と差し出されたスナック菓子を受けとって、口の中へ。しかし数回の咀嚼で事足りる柔らかなそれは、彼の味覚には合わなかったようだ。舌に広がる甘い匂いが何より気に障って、吐き出しこそしないがかなり渋い表情で飲み込む。
 見守っていた綱吉は、ある程度覚悟はしていたものの、彼の反応に落胆めいたものを若干滲ませ、自分の口にも同じものを放り込んだ。
「美味しいのにな」
「君にはそうかもね」
 ポリポリと音を立てて噛み砕いた綱吉の呟きに、雲雀は呆れた口ぶりで言い、もう要らないと掌を彼に向けた。
 味覚は人それぞれで、綱吉の好みが雲雀と完全に合致するなど滅多にない。それは本人も重々承知の上だが、たまには同じものを食べて美味しいと言って欲しくて、綱吉は恨めしげに彼を見上げた。
 雲雀は肉だとステーキよりハンバーグ、パンよりは米飯。唐辛子よりは芥子や山葵が好みで、辛いものもまるで平気。逆に綱吉はその辺が駄目なお子様味覚だ。
「むう……」
 ひとりで食べきるには量の多い袋菓子に顔を顰める。雲雀が拒絶した余波か、自分まで余り美味しく思えなくなってしまって、綱吉はもそもそと事務的に口を動かしては塊を擂り潰し、飲み込んだ。
 指についた粉を舐め、視線を浮かせる。時計の針は五時に至る直前だった。
 最近、少しだけ日暮れが遅くなった気がする。一ヶ月前ならもうとっくに夕暮れも過ぎて闇が東の空から追いかけて来たのに、窓の向こう側には僅かだけれど日の光が残っていた。
「そうだ。ヒバリさん、チョコレートとかは好きですか?」
 舐めた指からぺろりと舌を捲りあげた綱吉が、急に話題を変えた。
「うん、嫌い」
 即答されてしまった。
 聞いた綱吉は苦笑いを浮かべるほか無く、スナック菓子全般が好きでない彼に聞くだけ無駄だったと肩を落とす。
 非常にまどろっこしい方法で、この数日何度も頭の中でシミュレートした質問は、さりげなさを演出するという点では成功を見ただろう。けれどこうも間髪入れず断言されてしまうとは思わず、綱吉は分かっていたけれど些かショックで、口に入れようとしていた菓子を手から落としてしまった。
 膝の上で止まり、慌てて拾って口に放り込む。動揺を誤魔化していやに大袈裟に噛み砕いていると、ソファに並んで座っていた雲雀は少し不信感を抱いたようで、怪訝に綱吉を見詰めた。
 けれどわざと視線は合わせず、見抜かれないように必死に袋菓子に手を伸ばす。ぼりぼり、バリバリと忙しなく口を動かす彼に、雲雀はどうやら完全にあきれ返ったようで、興味を失い、視線を窓辺にずらしていった。
 何処かから廃品回収の音楽が聞こえてくる。グラウンドで活動していた運動部はもう撤収に入ったのか、元気な掛け声は響いてこなかった。
 気付けば最後の一枚になっていて、綱吉はオーバーペースで食べてしまった自分に驚き、口の端にこびりついていた滓を払い落とした。果たして夕食は入るだろうか、胃袋の容積が不安になって制服の上から腹を撫でる。
「それで、チョコレートがどうかしたの?」
 将来メタボリックになるぞ、とリボーンに嫌味を言われそうだ。
 作戦失敗か、とどこか遠い目をしてラストの菓子を唇で咥えた綱吉の耳に、唐突に話題を戻した雲雀が尋ねて来た。
「ぅぶはぁ!」
 予想外。聞かれると思っていなかった綱吉は飲みこもうとしたものを間違って吐いてしまい、盛大に咳き込んで背中を丸めた。細かな屑がテーブルにまで散らばり、気管に入った固形物を吐き出そうと肺が大騒ぎしている。
 聞いている方まで苦しくなってくるような噎せ方に雲雀は表情を歪め、手を伸ばして綱吉の背中をさすってやった。ブレザーの上からでも分かる細い身体が細かく震えており、この反応は自分の質問が原因だろうかと眉間に皺寄せる。
 触れてはいけないことを聞いたつもりはなかったのだが。
「大丈夫?」
「は、ひ……」
 長時間咳き込んだ上、最後にズズ、と鼻を啜ってなんとか落ち着いた綱吉が涙目のまま頷く。まだ若干胸の辺りを気にして時々咳をするが、最初の勢いは影を潜めていた。
 添えたままだった手を、彼が背筋を伸ばすのにあわせて下へ滑らせて落とす。雲雀は行く場所を無くした己の手の処遇に一瞬だけ迷い、目尻に残っていた涙を拭う綱吉を見てから、膝元へ戻した。
「あー、苦しかった」
 喉から胸を撫でた綱吉が、自分でも吃驚した顔をして溜息と一緒に感想を吐き出した。それから、テーブルに散った自分の口から飛び出たものに肩を竦め、雑巾を取ってこようとソファから腰を浮かせる。
 雲雀が彼の動きにあわせて瞳を上下させるが、気付かないフリをして綱吉は廊下へ出て行った。雲雀の質問は、どさくさに紛れてなかったことにしたいらしい。
 釈然としないまま雲雀は腕を組み、顎を撫でて踵を鳴らした。間もなく綱吉が濡れ雑巾を手に戻って来て、汚してしまった箇所を拭いてまたそそくさ片付けに行く。会話を挟む隙を見せない彼の徹底ぶりに、雲雀はふと脳裏を掠めた二月の暦に、嗚呼、とひとり納得顔で頷いた。
「すみません、俺そろそろ帰らないと」
「いいよ。ゴミは捨てておく」
 日が暮れきる前に帰路につきたがった綱吉を見送り、彼がひとりで食べきった菓子の空袋をゴミ箱に放り込む。
 もうそんな時期だったのか、と机上にある小型のカレンダーを指でなぞって雲雀は淡く微笑んだ。
 下校を促す音楽が軽やかに鳴り響く。指でなぞってその日に丸印をつけ、自分も帰ろうと椅子に引っ掛けていた学生服を手に取った。

 どたばたと階段を踏み鳴らし、綱吉は転げるように玄関に飛び込んだ。
「やばっ、やばいよ。遅刻するー」
 ネクタイもろくに結べずに首に引っ掛けただけの状態で、彼は右から爪先を靴に突っ込み、用意されている筈の弁当箱を探して視線を右往左往させた。
 だけれど、毎朝欠かさず玄関脇に置かれているはずの包みが今日に限って見当たらない。どうしたのか、と左足にも靴を履いて大声で奈々を呼べば、相変わらずのんびりとした返事が見えない台所から響いて、綱吉は早く、ともう一度彼女を急かした。
「も~、毎日毎日。もうちょっと早く起きなさい」
「仕方ないだろー」
 やっとのことで暖簾を押し上げ顔を覗かせた彼女の小言に、分かっているけれどやめられない夜更かしと朝寝坊に舌を出し、綱吉は弁当箱を求めて手を差し出した。が、背中に両手を隠した奈々はにこにこするばかりで、なかなか綱吉が求めるものを渡してくれない。
 彼女の足元には、赤い中華服のイーピンが桜色の頬で目を細め、やはり奈々に倣って背中に手を回して立っていた。
「遅刻しちゃうよ、早くってば」
 その場で地団太を踏んだ綱吉がひとり焦るのに、奈々はイーピンを見下ろして楽しげに笑っている。こんなところで余計な時間を使っている暇はまったく無くて、気ばかりが急いた綱吉はいい加減にしてくれ、と怒鳴るべく両拳を突上げた。腹に力を入れ、鬼の形相を作り出す、寸前に。
「はい、どうぞ」
 にこやかな笑顔と共にふたりから差し出されたもの。
 虚を衝かれて頭上に腕を振り上げたポーズで停止した綱吉がぽかんとし、瞬きを連続させてふたりを見詰める。顔と、手の中のものとを交互に見て、イーピンにも目をやると、早く受け取れとせっついた彼女はその場で飛び上がった。
「遅刻しちゃうわよ?」
「そうだった、って、誰の所為だよ!」
 要らないのかと首を傾げた奈々に怒鳴って、ひったくるように渡されたものを鞄に押し込む。
 弁当箱と、それから、赤い包装紙で飾られた箱がふたつ。右の角にリボンが結ばれ、綺麗にラッピングされているそれを閉めようとしたファスナー越しに見下ろし、複雑な表情をして綱吉は後ろを振り返った。
 もう時間がない。
「行って来ます」
「気をつけてね」
 鞄を左肩に担ぎ、玄関を開ける。ゆっくり礼を言う時間さえ作れない自分が少々情けなくて、綱吉は手を振る奈々とイーピンに頭だけ下げて家を飛び出した。
 完全に余裕がなくなり、全力で走っても果たして間に合うかどうかのタイミング。しかしこういう時に限って障害は待ち構えているのだ。
「つーなさんっ!」
「うわああ!」
 曲がり角を行く直前、先に進行方向から飛び出して来た小柄な少女に綱吉は正面からぶつかりかけて、大慌てでブレーキを掛けた。
「ハル。御免急ぐんだ!」
「えー、そんな事言わないでくださいよぉ」
 お前こそ学校は良いのか、と頬を膨らませる彼女に大声で聞き返し、綱吉は足踏みして緑中の制服姿のハルに目をやった。
 いつものように黒髪を後ろでひとまとめにし、短めのスカートにハイソックス。これで性格がもっとおしとやかであれば文句ないのだが、見た目に反してお転婆でお節介な彼女に綱吉は頻繁に振り回されている。
「なんなんだよ、もう。遅刻しちゃう」
「今日は~、えへへ。ツナさん、何の日か知ってますか~?」
 用があるなら早めに済ませてくれ。刻々と迫り来る始業時間に背中を押され、綱吉はもったいぶった喋り方をするハルに溜息を零した。
「知ってるってば」
 ついさっき、奈々とイーピンから貰ったばかりだ。
「それで~、ハルもちょーっと今年は頑張っちゃったりしたんですよ~」
 苛ついた綱吉の返事は、彼女の右の耳から入って左の耳にそのまま抜けて行ってしまったらしい。両手を胸の前で結んで身体を揺らしたハルは、夢見心地にうっとりと頬を染めた。
 頑張ったのは認める、頑張ってくれたのは嬉しい。けれど今此処で時間を無駄に費やされるのはとても困る。結論だけを先に教えてくれ、もしくはこのまま放置して学校に向かっても良いだろか。心の中で葛藤しつつ、綱吉は奥歯を噛んでのんびり口調を崩さないハルからじりじりと後退した。
「ツナさんの為に、徹夜して作ったんです~!」
 どうぞ、と差し出された足元の紙袋。何が入っているのか、気合充分な大きさに綱吉はゲッと顔を引き攣らせた。
 開いた分の距離を一気に詰め、満面の笑顔で迫られる。見れば三十センチ四方はあろう正方形の紙袋に、同じく四角形の箱が詰め込まれていた。
 底面積は袋と同じくらいで、高さは十センチ以上あるだろうか。中身がもしケーキだとしたら、確かに彼女は頑張っただろう。
 だがこれを、朝の登校前に持ってくる気が知れない。
「ハル、これは?」
「ツナさんの顔にしてみたんです。見てください、ほら、ほら!」
 あまつさえ箱を袋から出してこの場で広げようとする。通りがかりの人に笑われて、綱吉は顔を真っ赤にしてそれだけは阻止した。
「後でちゃんと見るから!」
「はい、約束ですよー」
「ありがと。じゃっ」
 半ば押し付けられるようにして紙袋を受け取り、綱吉は元気一杯に手を振ったハルに背を向けた。もうどんなに急いでも遅刻確定の時間だが、のんびり歩いて行く気にもなれなくて再び全力で駆ける。
 ただ右手に持った袋の中身を揺らすわけにはいかないので、速度は最初よりも若干緩やかだった。
 どうして朝からこうも手間取らされるのか。以前なら考えられない収穫量ではあるものの、もうちょっと皆気を遣って欲しい、と心の中でひたすら愚痴を言って、綱吉は既に封鎖されて端の方だけが小さく開けられている正門を潜り、息を吐いた。
 二月の半ばでまだ寒いというのに、額には汗がびっしょりと玉になって浮かんでいる。ぜいぜいと肩も上下させて呼吸を整えて心臓を宥め、丸めた背中を後ろに倒した綱吉は、提出を求められた生徒手帳を探して鞄を開けた。
「それは?」
「え」
 邪魔になるので足元に下ろした紙袋は、場所が場所なので矢張り目立つ。質問されるのも当然で、筆箱を裏返して底をあさっていた綱吉は声に顔を上げた。
 不機嫌に佇む風紀委員長殿が、臙脂色の腕章を靡かせて綱吉を見下ろしていた。
「うわっ」
 急に目の前に現れないで欲しい、心臓に悪いから。
 声に出さずに心で叫んで、綱吉は咄嗟に紙袋を背後に庇って隠し、半歩後ろに身を引いた。感情が行動と表情に直結して現れ、目を見開いて驚きを前面に出した彼に、雲雀は益々険のある顔つきで早く生徒手帳を出すよう上向かせた掌を差し出した。
「あ、えっと」
「委員長」
 手を止めてしまった綱吉が、どう返事をすべきか迷って視線を泳がせる。彼だって袋の中身がどういう意味を持つのか、今日が何日か忘れていなければ直ぐに理解出来たはずだ。
 それを敢えて聞いてくるとは。いや、深読みしすぎだろう。彼は風紀委員なのだから、学校に余計なものを持ち込もうとしている綱吉を見咎めるのは仕事のひとつだ。そう、彼はあくまでも任務に忠実なだけ。
 没収されないにはどう説明したら良いだろう、下手な嘘が見抜かれないように平常心を保つのも大変だ。
 頭の中で色々と弁解をぐるぐるかき混ぜて、結局何も言えないでいるうちに、別の委員が雲雀を呼んだ。後ろを向いた彼は綱吉が反応するのも待たず、手帳へのチェックは他に任せて草壁たちの方に歩いていき、何かひとこと、ふたこと会話を挟んだ末何処かへ行ってしまう。振り返りもしない。
 追求は免れたが、なんだか肩透かしを食らった気分にもなって、綱吉は手持ち無沙汰に拳を握り締めた。
「おい」
「あ、すみません」
 睨むように雲雀の遠ざかっていく背中を見詰めていたら、長ランリーゼントの風紀委員に肩を小突かれ、綱吉は慌てて忘れかけていた生徒手帳を鞄から引っこ抜いた。
 探していた時はなかなか見付からなかったのに、雲雀が居なくなった途端直ぐに視界に飛び込んでくる。勝手極まりない人間心理に辟易して、赤印がでかでかと記されたページを閉じた綱吉は重い足取りで校舎へ入った。
 ハルに貰ったケーキは、流石に教室まで持っていけない。冷蔵庫に入れておかなければ流石に傷んでしまうだろうし、どうしたものかと袋を片手に苦笑して、目に付いた保健室のドアを叩く。迎えてくれたシャマルに軽口を叩かれつつ、彼にケーキを預けて身軽になった綱吉は教室へ急いだ。
 授業はとっくに開始されていて、後ろのドアからこっそり入ろうとして失敗し、見つかって先生に怒られるのもいつものこと。クラスのみんなに笑われて赤くなって、急いで自分の席に着いてテキストを広げる。退屈な授業に耳を傾け、睡魔と格闘して休憩時間を待てば、早々に他学級、他学年の女子が綱吉のクラスに押し寄せた。
 目当ては無論、綱吉などではないが。
 獄寺と山本と、今や学内の女子の人気を二分する彼らの前に、山のようにチョコレートが積み上げられていく。綱吉はといえば、はっきり義理だと分かる小粒のチョコレートを黒川から恵んでもらい、京子からは獄寺たちと同じ包みの、中身にも差が無いチョコレートを貰った。
「相変わらず、凄い量だね」
「ツナにもやろうか?」
 紙袋がふたつでも足りなさそうな山本の収穫に綱吉は苦笑しきりで、上機嫌の彼に手近なところにあったものを差し出されて慌てて首を振る。それは彼が貰ったものなのだから、受け取るわけにはいかない。
 獄寺は終始不機嫌そうにして、女子への対応も愛想ない。にこやかな笑顔で礼を言う山本とは大違いなのだが、そういうつっけんどんなところが格好いいと騒ぐ女子もいるから、あれはあれでサービスになっているのかもしれなかった。
 なんだかんだで、綱吉自身も今日のイベントを楽しんでいる。朝の一件がもうちょっと落ち着いた中で展開させられたら、もっと楽しかったのだろうけれど。
 ハルのケーキは家に帰って、子供たちと分けて食べよう。そういえば彼女は綱吉を模して作ったと言っていたが、本当だろうか。
 ちゃんと見ると約束したけれど、授業だなんだとすっかり忘れたまま放課後を迎えてしまった。登校中に散々走ったから、下手をしたら崩れてしまっているかもしれない。注意したつもりだけれど、何処まで原型を保てているか不安になる。
「十代目、帰りましょう」
 結局紙袋三つでも足りなかった獄寺が、持ち帰るだけでも大変だと両肩にずっしり来る重みを堪えて綱吉を呼んだ。
 一気に全部持ち帰るのは難しくて、二日に分けなければ難しそうだ。山本も似たり寄ったりで、少し前まで彼らは、どちらが貰った個数が多いかを競い合って数えるなんて馬鹿なことをやっていた。
「ごめん、ちょっと保健室に預け物。取って来る」
 ハルが徹夜してまで作ってくれたものを、忘れて帰るのは、幾らなんでも彼女に悪い。先に帰ってくれていて構わない、と山本に僅差で負けて悔しがっている獄寺に手を振り、綱吉は急ぎ足で教室を出た。
 獄寺はついて来ようと一歩前に出かけたが、大きく膨らんだ袋が机に引っかかり、右によろける。その間に綱吉はさっさと角を曲がり、廊下を小走りに駆けて行ってしまった。
「十代目……」
 取り残された獄寺ががっくりと肩を落とし、両手に余る袋の重みに耐え切れずに膝を折った。
 たとえどれだけ女子から好意を寄せられ、甘い菓子に思いを託されようと、獄寺にはそれらを真摯に受け止めるつもりは一切ない。もし受け止めるとしたら、それはどんな女子よりも愛らしい、彼が敬愛して止まないひとりの存在の手から渡されたときだけだ。
 虚しく伸びた獄寺の手が空を掻く。
「何やってんだ、獄寺」
「うっせえ、テメーむかつくからどっか行けよ!」
 大体なんでお前の方が貰っている数が多いのか。教室の床に蹲った獄寺が腹立たしげに怒鳴り、山本は呵々と笑っただけでその怒りを受け流す。
 彼もまた獄寺同様、抱えきれないチョコレートを詰め込んだ袋を左右の手にぶら下げ、揺らしていた。
 しかし遠くを――教室後方の開け放たれたままのドアを見詰めた山本は、まだぷんすかと頭から湯気を立てている獄寺に肩を竦め、苦々しい表情を作った。
「いーじゃねーか、仲良くしようぜー」
「断る!」
「本命からは貰い損ねた同士って事でさ」
「うっせえ! だから黙れつってんだろ、この野球馬鹿!」
 ぐっさり、深々と胸に突き刺さることを言われ、獄寺が余計に大声を張り上げた。直後、ついに涙腺が決壊してぶわっと涙が浮かびあがり、彼は顔を俯かせると、きっともう教室には戻ってこない小柄な少年に奥歯を噛んだ。
 今年も結局、もらえなかった。
「どうしてですか、十代目~~~~」
 その十代目に別の本命がいるからだろう、とは流石にいえない。
 山本は馬鹿みたいに泣きじゃくる彼を前に、どうしたものかと苦笑し、自分もこれくらい正直に感情を表に出せれば苦労しないだろうにな、と獄寺を若干羨ましく思いつつ、頬を掻いた。

 日暮れは、着実にその時間を後ろへずらし始めていた。
 新学期が始まった頃に比べても、放課後の廊下を照らす日の光の量は随分と違っている。無論、太陽が地平線の下に隠れてしまってから闇が押し寄せるまでの短さは相変わらずだけれど、地表に伸びる長い影を踏みながら帰る道程が楽しめるのは、正直嬉しい。
 シャマルに預けてあったケーキは、ちゃんと冷蔵庫に保存されて無事だった。
 彼が途中でつまみ食いでもしていやしないか心配だったが、そんな気持ち悪いケーキなんて頼まれても食べないと言われてホッとして良いのか、怒るべきなのかで綱吉は一瞬迷った。
 実際、箱の中を確かめてみたところ、多少の型崩れはあったけれど原型は留めており、シャマルの言葉通り見た目はあまり、こう言ってはハルに失礼だが、食欲をそそる形状をしていなかった。
 本当に綱吉の顔を模した造詣に仕上げた努力は認めよう、けれどケーキとして目指す方向を間違えている。考えてみれば、食べる時はナイフを入れて小分けにするのだ。自分の顔が切り刻まれるのかと思うと、複雑な気分にもなる。
 黙ってこっそり、自分より先にケーキを見ていたシャマルにも怒る気が起きなくて、冷蔵庫を使わせてもらった礼だけを告げて中身を箱に戻し、綱吉はひとり保健室を出た。夕暮れはまだ西の空に残っていたが、日没まではそう時間も残されていない。急いで帰らないと、家に着く前に完全に世界が闇に落ちてしまう。
 太陽が隠れてしまった後は、寒さも増す。学生服の下に散々着込んでいるものの、それでも冬の凍てついた空気が容赦なく彼の肌を冷たく刺した。
 立春も過ぎ、暦の上ではもう春の筈だが、暖かくなって木々の硬い蕾が綻ぶまで、まだまだ時間がかかる。棚引く雲を鮮やかな朱色に染めた西の空を窓から見上げ、つい足を止めた綱吉は、肩を竦めて小さく笑った。
 春が来たらまたみんなで花見をしよう、当分先の話になるけれど。
 あの人はもう桜は平気だろうか。明日にでも会ったら聞いてみて、ディーノたちにも声をかけて、みんなで集まって盛大なものを企画してみようか。きっとリボーンも反対しない。
 考え始めると止まらなくて、想像しただけで胸が高鳴る。きっと楽しい花見になるに違いない、胸に握った拳を押し当ててひとり笑っていると、他に誰も居ない廊下でカツリと靴音が響いた。
「あ」
 咄嗟に表情を引き締めて手を下ろし、ぶら下げていたケーキ入りの紙袋を後ろへ隠す。
 目の前の階段から降りてきた学生が、動作の合間に物音を立てた綱吉に気付いて横を向いた。最後の一段を降り切り、手摺りに添えていた右手をゆっくりと脇へ戻していく。艶のある黒髪が昼の名残を感じさせる夕暮れに照らされて鈍く輝き、頬に浴びせられる光は彼の色の白さをより強調していた。
 彼が身に纏う黒い学生服が示す意味を知らぬ生徒は、この中学校にはひとりも居ない。特にただ身に着けるだけではなく、肩に羽織って袖を優雅になびかせた着方をする唯一の人物がどういった存在であるかに関しては、学外にも広く知られていた。
 並盛中学風紀委員長、雲雀恭弥。
 よりによってこんなタイミングで会うとは思わず、綱吉は今朝方の出来事も同時に思い浮かべて苦々しい表情を作った。しかし目が合ってしまった以上、挨拶くらいはしておかなければ、後々怖いことにもなりかねない。即座に脳裏に様々な会話のパターンを展開させ、どれもイマイチだと渋っている間に、雲雀は階段前を離れて綱吉の方へ歩み寄ってきた。
 あと一歩半ですれ違える距離で、彼の足が止まった。
「あ、えっと。見回り、お疲れ様……です」
「そうだね」
 背中で紙袋を隠しながら、綱吉は右足の甲で左足の脹脛を擦った。言うと同時に視線が横に流れ、沈黙する印刷室の扉に向かう。ふたり分の影が伸びて床との接点で折れ曲がり、並んでいた。
 角度の所為か、雲雀の影は実際の身長差よりも高い位置から綱吉を見下ろしている。そんなところにまで圧迫感を抱かされ、綱吉は踵を踏み潰した上履きで廊下を叩いた。
「長い時間、応接室に居たから。まだ帰っていない生徒がいるとは思わなかった」
 雲雀は綱吉が見る方角とは逆、窓に顔を向けて呟く。相変わらず抑揚に乏しい、何を考えているのか悟らせない口調に綱吉は首を亀みたいに引っ込め、心の中で舌を出した。
 今から帰るところだったのだと言えば、雲雀は首を正面に戻して綱吉の跳ね上がった髪の毛越しに顔を見詰めてくる。濁らない真っ直ぐな視線を浴びせられ、綱吉は若干の居心地悪さを覚えて、今度は左足で右の脛を撫でた。
「そう、帰るの」
「はい。……あんまり遅くなると、心配す――」
「それは?」
 脳裏に奈々の顔を浮かべ、綱吉が若干しどろもどろな説明を展開させる。けれど皆まで言わせずに雲雀が割って入り、綱吉の太股から角をはみ出している紙袋を指差した。
「えっ」
「朝も、持っていたね」
 ぎくりと綱吉が大仰に反応して、顔を強張らせる。大きく鳴った心臓は、ひょっとしたら雲雀の耳にまで聞こえたかもしれない。
 淡々と質問を重ねる雲雀の声はろくに頭に入らず、綱吉はどう説明しようか、なんて言い訳をしようか、見逃してもらうにはどうすればいいか、朝と同じ状況に追い遣られてだらだらと冷や汗を流した。口を一文字に閉じ、視線は足元に固定されて微動だにしない。若干俯き加減に背中を丸め、指は紙袋の持ち手を弄って紙を縒っているだけのそれを解いていく。
 指の腹に触れる紙の面積が広がっている事実に数秒後気付き、綱吉は慌てて首を後ろにまわして、気まずげに雲雀を下から窺い見た。
 彼からは表情の変化が窺えず、返答に窮したまま綱吉は爪先で廊下の固い床を捏ねた。踵から外れたゴム底がぺたぺたと跳ねて音を立て、土踏まずに潜り込む冷たい空気に寒気がした。
「えっと、その。貰った、んで、す」
「へえ?」
 結局嘘をつくなんて器用な真似が出来ず、綱吉は上目遣いに雲雀のほっそりとした体躯を見詰めて本当のことを言った。
 登校途中でハルから貰った袋を揺らし、何故自分がこんな風に彼に弁解しなければいけないのか、少しだけ不満に思いながら、今朝の顛末を掻い摘んで説明していく。朝寝坊したところから始まって、弁当と一緒に母親達からも貰い、時間がない中でこの巨大ケーキまで押し付けられて、遅刻したところまでをざっと、手短に。
 雲雀は終始黙ったままで、綱吉のたどたどしい言葉遣いに時折頷くだけ。相槌は無くて、一方的に自分ばかりが喋るこの状況が居た堪れなくなり、綱吉は何度か途中で舌を噛んだ。鼻の奥までツンとしてきて、格好悪い自分に嫌気が差す。
「そう。良かったね」
「いや、えっと、まあ、そうですね」
 男として、バレンタインに女子から物を贈られるのは嬉しい限りだ。たとえ義理や同情からでも、少なくとも何ももらえないよりは遥かに良い。
 今年は過去最高記録だった、綱吉にとって。良かったね、と雲雀に言われると漸く気持ちも浮上して、綱吉は照れながら頭を掻いた。顔がだらしなく綻び、目尻が自然と垂れ下がる。
 だから彼は、目の前の男が相反して不機嫌に顔を歪めた事実に気付かなかった。
「山本や獄寺君も、凄かったんですよ。あ、そうだ。ヒバリさんもいっぱい貰ったんじゃないですか?」
 ケーキ没収の憂き目には遭わないで済みそうで、綱吉は紙袋を身体の前に移動させて抱きかかえた。右膝を軽く持ち上げて底を支え、斜めにならないよう両手で大事に胸に抱き込む。
 明るい声で問うた綱吉の何気ないひとことに、しかし雲雀は露骨に嫌そうな顔をした。
「どうして?」
 今日初めて彼の表情に変化が見られて、綱吉はしまった、と頬を引き攣らせた。
 雲雀は、その冷酷な性格はあまり褒められたものではないが、見目麗しい容姿は同性の綱吉でも時折見惚れてしまうほどで、実はかなり、ファンが多い。
 彼が群れるのを嫌い、日頃から人を寄せ付けないのも有名なので、獄寺たちのように騒がれたりはしないけれど、遠巻きに彼を見詰める視線は、本人が自覚する以上に多いのだ。そういう姿を見つけるたびに、綱吉は複雑な思いに駆られるわけだが、雲雀に言っても良い事はひとつもないので、ずっと黙っていた。
 それが、うっかり口が滑ってしまった。
「いや、だって。ヒバリさん、結構、なんていうかその」
 今のところ雲雀に告白、なんて勇気のある女子と遭遇した事は無いが、彼の隣に並びたい人は沢山いる。そもそも自分が、孤独でいたがる彼の横にいること自体不思議なわけで、綱吉はどこまで言って良いものか迷い言葉を濁らせた。
 視線が泳ぎ、足が半歩分後ろへ下がる。
「僕が、なに」
「だって」
 けれど雲雀が一歩距離を詰め、結果的に空間は広がるどころか狭まった。
 窓から差し込む光は徐々に弱くなり、空を覆う雲が緋色から藍色へ変化する。明日もきっと晴れだ、そんな事を頭のどこかで考えながら綱吉は紙袋を抱く腕に力を込めた。
 下向けば、四角形の箱に収められた重過ぎるケーキ。
「ヒバリさん、人気あるじゃないですか」
「僕が?」
 紙袋が潰れる音がして、綱吉は慌てて力を抜いた。だが今度は落としそうになって、箱の角を捕まえて胸を前に迫り出す。どうにか落下の危険は回避させたが、その間にまた一歩詰め寄っていた雲雀が目の前に影を作って、よく見えないながら雲雀が怒っている空気を感じ、息を呑んだ。
「僕が、どうだって?」
「だから、ヒバリさんも、人気があるから……」
「貰ってないよ」
 チョコレートの数を人気のバロメータにするなら、雲雀は現在個数ゼロだ。きっぱり言い切った彼に、綱吉は一瞬きょとんと目を丸くしてから勢い良く彼を仰ぎ見た。
 大真面目な表情の彼がそこに居る。思わず「嘘」と呟けば、そう思われるのが不本意だった雲雀に思い切り睨まれた。
「いや、でも」
「僕はずっと、応接室にいたんだけどね」
 朝の遅刻者チェックが終わってから、ずっと。
 ドアに鍵は掛けずに、ひとりで。
 その扉が開けられるのをひたすら待っていたけれど。
 結局最後まで、用事があった風紀委員以外、誰も訪れることは無かった。
「ヒバリさん?」
 若干棘のある物言いをされ、綱吉が怪訝に顔を顰めて彼を呼ぶ。雲雀はその態度にも呆れた様子で溜息を零し、もういい、と一方的に会話を断ち切ってしまった。
 持ち上げた手で綱吉の抱える袋の角を引っ張り、広がった空間から中を覗きこむ。
 丁寧に梱包されたその箱を、大事に庇う綱吉ごと睨みつけ、彼は自分の苛立ちを誤魔化すように足で床を蹴りつけた。
「ヒバリさん」
「早く帰りなよ」
「ちょっと、え、ヒバリさん」
 くるりと身体を反転させた雲雀が一歩前に踏み出し、綱吉をその場に置き去りにする。突然怒り出した彼に驚愕して、綱吉は慌てて声を荒立てた彼に食い下がったが、伸ばした手は完全に拒絶されて叩き落された。
 乾いた音が廊下に響き、綱吉は目を見開いて呆然と彼を見返す。
 雲雀もまた、思った以上に強く叩いてしまったことに驚き、よろけた綱吉に腕を向けかけ、寸前で留めた。
 握り拳を震わせ、言いたいのにいえない感情を心の中で爆発させる。噛み締められた唇が色を悪くしているのを見て、綱吉は悲しい気持ちになりながらもう一度彼を呼んだ。
「なんで……」
 わけが分からない、どうしてこんな仕打ちを受けなければいけないのか。
 好かれていると思っていたのは自分の驕りだったか。心の中をぐちゃぐちゃにかき回されて、綱吉は泣きたい気持ちで雲雀の背中から目を逸らす。
 廊下に伸びた雲雀の影が、爪先の直ぐ前にあった。
 近いのに、遠い。自分たちの距離感を現しているみたいで可笑しくて、綱吉は泣き笑いの表情で紙袋の表面を指でなぞった。
 背を向けた雲雀が、下向かせていた顔を上げ、首を振る。一緒になって影も揺らいで、視界を流れた臙脂色の腕章に目を細めた綱吉は、折角の楽しいイベントの日がこんな風に終わってしまうのを寂しいと感じ、同時にある地点で胸を掠めた凹凸に躓いてそこで思考を止めた。
 バレンタインデーに、他のどの日よりも風紀が乱れそうなこの日に。
 雲雀は学内の見回りもせず、一日中応接室に閉じこもっていた、と。
 本人が言ったその事実の奇妙さに、綱吉は今更ながら目を瞬かせた。
 可笑しいではないか。並盛中学をこよなく愛し、この学校に蔓延る害悪は、如何なる理由であろうとも一切認めず断罪するあの雲雀が、だ。生徒の大半が浮き足立って、おおよそ勉学に不要と思しきものが大量に持ち込まれる今日という日を、大人しくひとりで過ごすだなんて。
 彼ならば率先して風紀取締りという名目で、チョコレートの没収に勤しんでもおかしくない。むしろそうであってこそ彼らしいといえるだろう。だから、違和感が強く残る。
 そういえば彼は朝の段階でも、綱吉のこの紙袋の中身に言及しておきながら、没収措置は取らなかった。
 見逃されたと言ってもいい。
 歩き出そうとする雲雀の背中を改めて見詰める。夕焼けを横から浴びている所為か、彼の肌は少しだけ色付いて見えた。
「ヒバリさん、ひょっとして」
 鍵のかかっていない応接室で、もし彼が誰かを一日中待っていたとしたら。
 彼が待っていたのは、果たして誰か。
 そんなこと、考えるまでもなく。
 ひとりしかいないではないか。
「俺が……俺の事、待ってたんですか?」
「っ!」
 僅かに綱吉の声が上擦り、踏み出した足を横に捻った雲雀が嘗て無いほど大きく羽織った学生服を揺らした。
 彼のこんな姿は見たことがなくて、何も無いところで転びそうになった雲雀の後姿に綱吉は背筋を粟立てる。言った瞬間に自分でも恥かしくなってカーッと頬に熱が走り、無意識のうちにケーキ箱を抱き締めていた。
 珍しく内面の動揺を表に出した雲雀が、数秒の間を置いて額にやった手を下ろして振り返る。いつもの冷ややかな、能面めいた無表情さを気取っているものの、矢張り頬骨の辺りに朱みが差していて、綱吉の指摘が図星だと雄弁に語っていた。
「……だったら?」
 低い声。主に彼が不機嫌の極みに達しようとしている時に発せられる声色に、綱吉がびくりと心臓を縮めこませる。滅多にない彼の姿を見られて喜んでいる場合ではなかったのを思い出し、綱吉は右を見て左を見て、最後にまた雲雀へ視線を戻した。
 腕の力が益々強まり、返す言葉に困って彼は踵を潰した上履きを左足側だけ後ろへ持ち上げた。
「だ、って」
 前に出ようとするが、靴から足がすっぽ抜けるだけで終わる。廊下に触れた薄汚れた靴下に気付いて慌てて足を戻し、綱吉は数日前の自分たちのやり取りを思い返して言いよどんだ。
 完全に振り向いた雲雀が、眉間に皺寄せて口をへの字に曲げる。
「だって、ヒバリさんが、言ったんじゃないですか」
 ぎゅっと、箱が潰れるのも構わずに両腕で身体を抱いた綱吉が、下を向いたまま苦虫を噛み潰した表情で吐き捨てた。
 今でもその日の事を頭で反芻させると、心がちくちくと針に刺されたみたいに痛む。
「僕が? なにを」
 そのことに気付かない雲雀が、尚も凄んだ表情で綱吉に再度近付こうと試みた。けれど今度は綱吉が、伸ばされたその手を払いのける。
「要らないって、ヒバリさんが自分でそう言ったんじゃないですか!」
 怒鳴るつもりはなかったのに、想いは綱吉が考えていた以上に深く大きかったらしい。喉を震わせて吐き出された罵声に、雲雀は一瞬だけ怯んだように上半身を後ろへ傾がせた。
 腕と一緒に向かって来た四角い紙袋を仰け反って避けた雲雀が、生まれつき細い目を少しだけ大きくして右の眉を持ち上げた。怒り肩を息吐いて落とした綱吉を静かに見守り、過去へ記憶を飛ばしてからこめかみに指を置く。天井付近を漂った彼の視点が綱吉に戻ったところで、口を開いた。
「言った覚えは無いよ」
「言いました!」
 この期に及んでとぼけるつもりなのか。腹立たしさを募らせた綱吉が地団太を踏んで、手首に吊るした箱の中身が何であるのかも忘れて腕を振り回す。
 正面から向けられる怒号に、雲雀もまた機嫌を損ねて眉間の皺を深くした。
「言ってないよ」
 尚も強く主張して、綱吉を睨みつける。普段ならばこれで彼は呆気なく折れるのに、今日ばかりは違っていて、益々ムキになった彼に牙を向けられた。
「言った、言いました。要らないって、嫌いだって言った!」
 やがて睨み合いからかぶりを振った綱吉が、目尻に浮かんだ涙を弾き飛ばして叫ぶ。他に誰も居ないのか、それとも言い争うふたりに遠慮して道を変えたのか、人通りが途切れた廊下で綱吉の声が夕闇に溶けた。
 雲雀が、千切れた綱吉の涙に瞬きを連続させる。
「チョコレートは嫌いだって、そう言ったじゃないですか!」
 先に我に返った雲雀が、思い当たる節に行き着いて口を片手で覆った。
 ぎりぎりと奥歯を噛み締める綱吉の瞳が、夕焼けに染まって琥珀から若干赤みを帯びた飴色へ変化する。艶がかったその彩をしばし呆然と見下ろした雲雀は、やがて急速に冷静さを取り戻して逆に綱吉の反感を買った。
「ヒバリさん!」
「ああ。……言った、ね」
 激高する綱吉の声に反比例して、雲雀の涼やかな声が朗々と廊下に流れて行く。
「そうです、言ったんで――え?」
 唐突に主張を翻した雲雀に、綱吉も虚を衝かれて目を白黒させた。揺さぶっていた拳を止めるが、慣性の法則で紙袋はまだ振り子状態で綱吉の腕を引きずる。下向いて静止するそれに促されるままに肩を真下へ落とした彼は、ぽかんと間抜けに口を開き、微妙に苦い顔をしている雲雀を見上げた。
「え?」
 もうひとつ声を出し、綱吉が反対に首を倒す。雲雀は苦笑して、手を下ろすと肘を軽く曲げて腰に添えた。
「言った――けど、要らないとは、言ってない」
「だから」
「嫌いだ、となら」
 まだ認めないのか、と綱吉が反論を試みたのを遮り、雲雀が早口に残りの言葉を紡いだ。
 綱吉が大きな目を丸くしてから、瞬きを二度連続させ、考え込む素振りを見せた。丸めた拳を顎に押し当て、思案気味に瞳を揺らす。そう言われてみれば、とどこかで齟齬が発生しているこの状況を漸く冷静に眺め、難しい顔をして上唇を口腔に巻き込み、前歯で噛み締めた。
 嫌い、と、要らない、とでは意味が大きく異なる。
 けれど其処にバレンタインデーという特別なイベントが重なって、綱吉は両者の間にある大きな違いを頭の中で完全に取り払ってしまった。
 チョコレートは嫌い。イコール、バレンタインデーにチョコレートは要らない、と。
 目の前にかかっていた黒い靄が一気に晴れていく。彼は自分の勝手な思い込みと勘違いに恥かしくなって、顔を夕日よりも赤く染め、頭の先から湯気を立てた。
「う……」
 理解出来たとその表情を見て察した雲雀が、大仰に肩を落として溜息を零す。腰にやっていた腕を外し、居た堪れない顔で俯いた綱吉の頭を二度、柔らかい仕草で撫でた。
「だって、……だって」
 雲雀は何も言わなかった。あの日以後も普段と変わりない態度を取り続けていたから、綱吉は考えないことにした。
 どうせ貰っても嬉しくないのであれば、要らないだろうとひとりで結論付けた。雲雀は欲しがる素振りを見せなかったし、忘れているか気付いていないのだと思って、綱吉もあれ以降話題に挙げもしなかった。
 そもそもチョコレートの好き、嫌いの質問だって別の質問に混ぜ込み、悟らせないようにしていたわけだから、この段階で既にふたりの間で齟齬は生じていたのだ。
 雲雀は、綱吉の質問の意図からこの日を思い出し、綱吉は雲雀の返答で、この日を頭から削除した。
「俺の、なんか。嬉しくないんじゃないかって、だって」
 嫌いなものを貰って、喜ぶ人はいない。
「別に、チョコレートに拘らなくても良いと思うけど?」
「それは、そうかもしれないけど」
 チョコレートを贈るのは日本発祥の文化で、元々のバレンタインとは無関係だ。だから贈るものは、花でもなんでも、チョコレート以外でも殊更問題があるわけではない。
 言及すれば綱吉は口篭もり、益々下を向いて皺だらけの紙袋を握り締めた。
 雲雀が暖かい綱吉の髪を擽り、感触を楽しんでからゆっくりと腕を引く。名残惜しんだ指先が彼の髪を数本絡め、頭皮を引っ張られた綱吉は僅かに表情を歪めてから夕焼け色に横顔を染めた雲雀を見上げた。
「ヒバリさんは、……えっと、その。欲しかった、ですか」
 何を、とは言わず。
 誰から、とも言わず。
 若干しどろもどろに問うて、綱吉は自分でも野暮なことを、と暮れなずむ並盛町に目を向ける。落ち着き無く両手は紙袋を握り、音を立て、浮いた踵が小分けに床を叩いた。
 この質問は雲雀にも意外だったらしく、彼はほんの少し目を見開いてから静かに眇め、遠く彼方から響いた帰宅を促す校内放送に肩を竦めた。軽く曲げた人差し指を下唇に宛がい、薄ら微笑んでから綱吉の持つ紙袋を見詰める。
「それ、がね」
「これですか?」
「そう」
 空いていた手を伸ばし、指し示した雲雀に綱吉が紙袋を軽く持ち上げる。膝の前でバウンドしたそれの中身は、激しくシェイクされた結果、目も当てられぬ有様になっているのだが、箱の外からでは分からない。
 形が崩れて重心が最初とは違う場所に移動しているのも気付かず、綱吉は大判の紙袋を自分も覗き込んで、不思議そうな目を雲雀に流した。
 彼が些か自嘲気味に笑っているのが見て取れて、首を傾げる。
「こう、自分で言うのもかなりみっともないけれど。朝に見た時に、ひょっとして僕に、かと思ったから」
 瞳を泳がせ綱吉から外した雲雀が、顎を頻りに指で擦りつつ言い難そうに告げ、はにかんだ。
 手元から顔を上げた綱吉が、きょとんとしてから再び紙袋を見る。今度は頬を指で掻く雲雀を前に、綱吉は暫く考え込んで朝の出来事を頭の中で再生し始めた。
 奈々とイーピンから出かける間際にチョコレートをもらい、道中でハルからケーキを受け取り、遅刻して雲雀に呼び止められて。彼は紙袋の中身を綱吉に問うたが、綱吉は咄嗟にそれを隠そうとして不審な動きをしてみせた。
 その後雲雀は別の風紀委員に呼ばれて場を離れ、戻ってこず。綱吉も以後すっかり忘れて、山本と獄寺目当てに詰め掛ける女子の軍勢に気圧されながら一日を過ごした。
 雲雀が勘違いをしたのなら、あの段階しか考えられない。
 数日前に、妙に気を持たせる言い方で雲雀に好き嫌いを聞いた綱吉が、当日に大きな紙袋を持って現れた。
「う……」
 何も知らされなかった雲雀が間違えるのも当然だろう、たとえ綱吉にそんなつもりがなかろうと。
「欲しかったかどうか、と聞かれたら、そうだね。少し……期待したかな」
 一年に一度しか来ない特別な日だからこそ、日頃の気持ちを確かめる意味も込めて、なにか、なんでもいい、欲しかった。
 とはいえ、お互いに空回りしてしまったわけだから、笑い話にもならない結末だ。けれどそういう年があっても良い、雲雀は言ってもう一度綱吉の頭を撫でて離れた。
 踵を返し、背を向ける。
「ヒバリさん?」
「もう日が暮れる、気をつけてお帰り」
 言われてみれば確かに、とっくに放課後は過ぎてグラウンドに人影はない。照明の消えた廊下は薄暗く、雲雀が降りてきた階段にある蛍光灯だけがぼんやりとした明るさを残して狭い空間を照らしていた。
 長く伸びていた影もいつの間にか薄まり、殆ど見分けがつかない。太陽は半分以上が地平線に沈み、窓から覗く景色はまるで赤と黒に縁取られた影絵だ。
 朗々と響く声で言われ、綱吉はひくりと喉を鳴らして呼気を震わせた。
 雲雀の後姿はいつもと何も違わないのに、普段彼から感じる覇気が今は遠い。その理由は最早語る言葉を必要としないほど明白で、綱吉は些細なすれ違いの所為で、こんな風に自分たちが一日を締めくくらなければならない事に泣きたくなった。
 声に出せば暗に要求しているみたいで、雲雀は口にしなかったのだろう。綱吉にとってはあの日の応接室での会話で、バレンタインデーは当日が来る前に終わってしまっていた。
 ちょっとだけ、お互いに言葉が足りなかった。
 雲雀の足音と、綱吉が息を吸って吐く音だけが静まり返った廊下に反響し、消えていく。遠ざかる雲雀の姿に、人工の光を浴びた影が付きまとって、綱吉は吐き出そうとしていた二酸化炭素を喉の手前で押し留めた。
 ぎゅっと握り締めた紙袋、そこから右手だけを自由にしてポケットを探る。ジャケット、ズボン、下に着込んだシャツの胸ポケットも必死に掻き回して何か無いかと躍起になるが、こういう時に限って何も入っていなかった。
 いつもなら飴玉のひとつくらい紛れ込んでいるのに、本当に、今日に限って。
 皺だらけのハンカチをジャケットに押し込み、綱吉はまた小さくなった雲雀の背中に目尻を熱くした。
 こんな風に今日を終わりたくない。二月十四日が単なるカレンダー上に記された、誰かが勝手に作った記念日でしかなくて、他の日とさして代わり映えのしない、平々凡々な日常のうちの一日でしかなくても。
 明日になればまた普段と変わらない自分たちに戻ると分かっていても、知っていても。
 このままでは帰れない。
「ヒバリさん、待って。ヒバ――っ!」
 駆け出そうとして、綱吉は前を向いたまま叫んだ。しかし焦っていたからか、右足と左足が同時に前に出ようとして、左の爪先が右の踝に引っかかった。
 しまった、と目を剥いた時には目の前を弾かれた紙袋が舞い、腕から抜けて前方へ飛んでいく。慌てて右手を伸ばして捕まえようとしたら、余計にバランスが崩れて綱吉の身体は一直線に床へダイブしていった。
 走ろうとしていた勢いも相俟って、顔から廊下に滑り、激突する。埃が舞い上がり、目の前が白く濁って星が散った。最初に顎を打った後に鼻が擦られ、皮が捲れたのかひりひりと痛む。
「綱吉!」
 慌てた雲雀の声が聞こえ、近付く足音がそこに付随する。暗がりの中で、裏返ってぺしゃんこに潰れてしまった紙袋と角がはみ出た箱を確かめ、綱吉は苦痛に低く呻いて顔を手で覆った。
 左手を支えにして身を起こすが、立ち上がれなくて膝を横倒しにその場で蹲る。ぺたんと腰を落とすと、ズボンを通して床の冷たさが身に沁みた。
「いったあ……」
 鼻のみならず、前歯も強打した。口の中が切れているのか苦い味が舌に広がって、泣きっ面に蜂とはこの事かと綱吉は降って来た影に目を閉じた。
 元々薄暗かった視界が余計に暗くなる。少し弾んだ息を前髪越しの額に感じ、戻って来てくれた雲雀に嬉しい反面、恥かしさと申し訳なさが募って綱吉は顔を上げられない。
 小さく痛いと呻けば、心配そうに雲雀の手が伸び、遠慮がちにその頬に触れた。
「見せて」
 上を向くように促されるが、綱吉は首を横に振るのみ。鼻から口元を覆った手もそのままに、姿勢を低くして雲雀を拒む。
 彼は困った様子で綱吉に倣って膝を折り、視線の高さを揃えようとした。しかし完全に座り込んでいる綱吉とは、元からの身長差の所為もあって膝を床に押し当てる程度では巧くいかず、彼は背中を丸めて屈み、綱吉との距離を僅かに狭めた。
 いっそう視界が闇に落ち、目を凝らさなければ互いも見えない。
「つなよし」
「鼻、痛い」
 下を向かれたままでは傷の具合も確かめられない。名を呼んで顎に手を添えた雲雀に、綱吉はけれど矢張り従わず、手で口を塞いだままだからだろう、若干くぐもった声で言った。
 どうやっても自分から上向いてくれない綱吉に、雲雀が仕方ないという様子で肩を落とし吐息を零す。それまで片膝立てた状態でいたのを、両方揃えて廊下に落とし、左手を真っ直ぐ下に向けて掌を冷たい床に押し当てた。
 背中をより丸め、綱吉の顔を覗き込もうと身を寄せる。
 邪魔になる綱吉の前髪を梳き上げるべく、右手を一旦引いた彼に。
 綱吉はそれまで全く動かさなかった左手をも伸ばし、床の上で身体を跳ね上げて彼の首にしがみついた。
 ゴッ、と痛い音がふたりの間を駆け抜ける。
「いっ……」
 呻いたのは雲雀だった。
 一瞬だけ触れた唇の感触にも雲雀は驚いたが、直後に己を見舞った額への衝撃に先ず声を失い、目の前を散った星に顔を歪める。綱吉も、勢い余って頭がぶつかったのは予想外だったようで、打った鼻と額を左右の手で互い違いに抑えながら涙目を隠した。
 くらくらする頭を冷たい指で撫で、寄り掛かる綱吉を後ろへ押し返し、黒髪を梳いた雲雀が肺の中に溜め込んだ二酸化炭素を一気に吐き出す。発した声は思った以上に怒気を孕み、低かった。
「君は、……何がしたいの」
 人を呼び止めたかと思えばひとり派手に躓いて倒れるし、怪我をしていないか確かめるから顔を見せろと言えば嫌がるし。仕方なく覗き込んだら反撃を食らって、雲雀は少し濡れた唇を指でなぞり綱吉の額から手をおろさせた。
 細い手首を掴んで逃げられないように拘束し、睨みつける。
「だっ……だって」
「だって、は聞き飽きた」
「だって、俺、今なんにも持ってない」
 さっきから繰り返される綱吉の言い訳にそろそろ嫌気が差してきて、冷たくあしらおうとした雲雀の耳に半泣きの声が津波を起こした。
 他所向けた首を正面に返し、綱吉を凝視する。儚い人工灯の蛍火が最早唯一の光源であり、雲雀の影を前面に浴びて、綱吉はそれでもなお強く輝く琥珀の瞳を潤ませた。
「俺がヒバリさんにあげられるの」
 探したけれど、見付からなかった。なにもなかった。
 今手元にあるものは、自分自身くらい。それだけしか、ない。
 だから。
 迷いつつ、時折瞳を揺らして最後に俯いた綱吉が尻すぼみに声を弱めた。
 虚を衝かれた雲雀が返事に窮している間に、益々彼は身を縮めこませて膝を抱え丸くなる。再度己の唇に指を押し当てた雲雀は、日が沈む寸前の最後の輝きを西の地平に感じ取り、肩の力を抜いて腕を下ろした。
 同時に垂直に立てていた身体を斜めに傾け、低い位置にある綱吉の頭を額で小突く。
 先ほどぶつけ合ったばかりの場所は微かに痛んだが、それ以上に凍えていた心を暖める炎が感じられた。
「ヒバリさん?」
 額をあわせあったまま、お陰で今度こそ上を向けない綱吉が彼を呼ぶ。
「足りないよ」
「え?」
 冷えていた空気が温む。棘を含んでいた雲雀の声が、春を告げる鳥の歌声に似て麗らかに響いた。
 スッと身を引いた雲雀の顔を至近距離から見詰め、綱吉が主語を欠いた彼の言葉に首を傾ぐ。何が、と問おうとした先で彼が眇めた目で笑うのが見えて、綱吉は咄嗟に頬に朱を走らせ狼狽した。
「や、ええ!?」
「足りないよ、全然」
 僕は一日待ちぼうけを食らったんだから、今の一瞬だけで帳尻を合わせようだなんて、調子が良すぎるだろう?
 淀みなく、前もって準備していた台詞のように一息でまくし立てた雲雀に、綱吉は目を白黒させて膝の上で両手を泳がせた。
「そんな、そんな事言われても」
「足りない」
 上擦った声で綱吉が反論するが、ぴしゃりと封じ込めて雲雀は受け付けてくれない。綱吉は心底弱りきった顔をして、赤く熟れた頬を伏して蚊の泣く声で言葉を紡いだ。
 目尻を下げた雲雀が、楽しげに表情を綻ばせる。
「……目、ちゃんと閉じてくださいよ」
「了解」
 若干不満気味に言い放った綱吉だけれど、顔を上げた彼はそこで大人しく言う通り瞼を閉ざした雲雀にはにかんだ笑みを浮かべ、嬉しそうに背筋を伸ばす。
 日暮れ時に交わしたキスは、チョコレートなんかよりもずっと、ずっと、甘くて苦い味がした。

2008/02/11 脱稿