天陽

 ハンドルを握ると性格が変わる人が居る、という話だけなら耳にした事があった。
 だが、実際そういう人が本当に居る、というのは、自分の目で見るまで信じていなかったのかもしれない。
「ぎぃやぁぁぁぁあぁぃあぉぅぇうぁぇおぃえぅああぁーーーー!!!」
 黒塗りの外車、その助手席。シートベルトでがっちりと身体を固定した上でドアにしがみつき、最早言葉として意味を成していない悲鳴をあげ、沢田綱吉はひたすら、彼の誘いに乗ったことを後悔していた。
 坂道の駆け登る度に車体は上下にバウンドを繰り返し、ありえない動きを展開する運転には吐き気を覚える暇さえない。どこかにしがみついていないと、シートベルトをしているに関わらず腰が浮き、頭が天井にぶつかる勢いだ。
 よくぞこんな運転で免許を取得できたものだと、彼に免許を発行した某国への不信感が増加の一途を辿っていく。日本で免許を取ろうとしたら、一発で不適格と認定されること間違いない。
「ひぃぃぃぃやぁあぁぁぁぁ」
「どーだ、ツナ。楽しいだろ」
「どどどどどこがああぁああああああ」
 常に座席が振動しているので、喋ろうにも舌が震えっ放しで巧く発音できない。不思議なのはそういう状況に陥っているのが助手席の綱吉だけ、という事であり、運転席に座って上機嫌にしている彼は全くそんな素振りさえ見せていなかった。
 これだけでも既に常軌を逸しているのに、運転の荒っぽさも想像を絶するものがある。いかにも、な高級車で迎えに来られて、近所からも注目を浴びてしまい、恥かしさのあまり深く考えないまま乗り込んでしまったのが運の尽きだ
 綱吉の悲鳴が聞こえていないのか、ハンドルを握る彼は高らかに笑いながら、目の前に迫ったカーブに対して右に大きくハンドルを切った。
 同時にクラッチを切り替え、ブレーキとアクセルを絶妙な具合で踏み込んで後輪を激しく滑らせる。アスファルトに黒い筋を刻んで甲高い音を響かせた車体は、一瞬浮いた後部をドスンと着地させると同時に勢いよく前方へ駆け抜けた。
 いったい彼は、何処のレーシングコースを走っているつもりなのか。カーブの多い山道に突入してからは特に運転が乱暴になっている気がして、綱吉は吸った息を吐くことさえ出来ずに涙を堪えて鼻を啜った。
「デデ、ディーノさん、ブレーキ、ブレーキ!」
「お? なんだ、もっとスピード上げて欲しいのか?」
「ちがああう!」
 フロントガラスに灰色の巨大な岩壁が迫り来ているのに、道の形状に沿ってカーブしようとしないディーノに綱吉は怒鳴りつけた。だが、どこをどう思考回路を繋げればそんな回答を導き出せるのか、ディーノは必死の形相の綱吉を他所に、涼しい顔のままハンドルを切って思い切りアクセルを踏み込んだ。
 遊園地の3Gアクションに乗っている気分に陥る。超高速で左へと流れて行く景色に眩暈がして、正面衝突を回避した事に安堵しながらも気持ちは少しも休まらない。下手をすれば自分はこのまま死ぬかもしれない、と綱吉は恐怖に駆られ、前も見ていられなくて身体を捻るとクッションも柔らかな座席にしがみついた。
 膝までシートに乗り上げ、ガコンガコンと容赦なく揺れる車に息を呑む。そのうち車自体が、衝撃に耐えかねて空中分解してしまうのではないか。その前に自分の限界を越えなければいいけれど、と胃袋を逆流しようとする年越し蕎麦を飲み込んで綱吉は硬く目を閉じた。
 大晦日、その遅く。
 家族揃ってコタツに入りながら、年越し番組を見て除夜の鐘を聞いて、新年の挨拶を家族にして布団に潜るつもりでいた綱吉に、一本の電話が入った。
 電話の相手は今、運転席に座っている人物。内容は、これからドライブに行かないか、という誘いだった。
 正直眠かったのだが、着いたら起こしてやるので助手席で寝ていればいいと言われれば、断る理由も消え失せる。行き先等を細かく聞く前に、実はもう前に来ているとまで言われて慌てて飛び出せば、現在崩壊の一途を辿っているこの黒い車が玄関先に停まっていた。
 暖かそうなファー付きのジャケットを羽織り、部下を引き連れて立っていたディーノに手を振られ、深夜の初詣に向かおうとしていた近所の人たちの注目を一斉に浴びた綱吉は、あまりの恥ずかしさに逃げ出したくて、つい室内着のままディーノの用意した車に乗り込んでしまったのだ。
 そして今の状況がある。のんびり助手席で寝入るなんて、とても出来たものではない。
 道を照らす明りは眩しいが、そのライトが当たっている場所以外が暗闇なのも恐怖心を倍増させてくれる。気付けばガードレールが目の前だったり、断崖絶壁のすぐ横を猛スピードで走っていたり、ジェットコースターなどの比ではない。
「どど、ど……何処まで行くんですか!?」
 舌を噛みながら大声で叫ぶと、聞こえなかったのかディーノがカーステレオのボリュームを弄る。しかし何故か逆に音量は大きくなって、鼓膜を激しく打つメロディーに綱吉の頭は瞬間、くらっときた。
「んー、もうちょっとかな?」
 ひとりごちるディーノの声が、男性歌手のだみ声に混じって辛うじて聞こえた。
 前方に投げられるライトと、時折忘れた頃に現れる街灯だけでは、綱吉の目で道路標識を捕らえることさえ難しい。制限速度はとっくにオーバーしている、対向車線から飛び出してくる車があれば一発で正面衝突間違いないのだが、幸か不幸か大晦日から元日にかけてのこの時間、他に車の影はひとつとして見付からなかった。
 口から内臓が全部飛び出してしまう。唇を噛み締め、必死に涙を堪えて綱吉は持って行かれそうになる身体を座席に縫い付けた。
 てっきりロマーリオ辺りがついて来るとばかり思っていたのに、それさえない。部下の居ないディーノがどれだけトラブル体質か、知らないわけでもなかろうに。
 それともひょっとして、こちらからは見えないように後ろからついてきてくれているのか。そう信じたいところだが、バックライトの仄かな明りに照らし出された後方にさえ、迫り来る車の姿は見出せなかった。
 こんなことなら、除夜の鐘が鳴り終わるまで起きているのではなかった。後悔しきりだが今更で、歯を食いしばった綱吉は、苦労の末に肺の中に溜まっていた二酸化炭素を吐き出した。
 途端にゴンッ、と下から突き上げる衝撃に見舞われる。気をつけていたのに舌を噛んでしまった彼は、その痛みに悶絶しながら、右手で顎から口元を覆い隠した。
 左手一本で身体を支え、傍らのディーノを窺い見る。
 ステレオから鳴り響く異国の音楽、恐らくはイタリア語なのだろう曲に合わせて鼻歌を歌っており、上機嫌に細められた瞳は実に楽しげだ。気前良くハンドルを右に左に動かして車を操作し、その度に綱吉はシートの上で軽い身体を飛び跳ねさせているのだが、本当に不思議なくらい、ディーノは運転席から殆ど動かない。
 接着剤でも尻に敷いているのかと思いたくなる。
「うえっぷ」
 首を横向けていたらまた気分が悪くなって、こみ上げてきた吐き気を堪えて綱吉はシートの背凭れに顔を押し当てた。
 消臭剤か、もしくは香水か。柑橘系の匂いが鼻腔を伝って脳を直接刺激し、余計に吐き気が強まって綱吉はいっそ気絶してしまいたい気持ちに駆られた。
 本当に、ディーノは運転免許を持っているのだろうか。どうして彼がハンドルを握るのを、その助手席に綱吉が座る事を、彼の部下は何故に許可してしまったのか。
 見送ってくれたロマーリオがハンカチで涙を拭っていた意味が、今ならよく分かる。自分は体のいい人身御供か何かだと言うつもりか、彼らは。帰ったら絶対に、一言文句を言ってやらねば気が済まない。
 もっとも、それまでに無事生きて帰れるかどうかが分からないのだけれど。
 目まぐるしく頭の中で色々な事を考えては消し、綱吉はなるべく車の振動は意識しないよう心がけて生暖かい唾を飲んだ。
 年始早々、ついていない。一年の計は元旦にあり、なんて言葉もあるけれど、今年が今日のような動乱の一年だったらばどうしようか。複雑な思いを抱え、綱吉の気がどんどん滅入っていく中、ディーノは右の急カーブを超過速度で切り抜け、自分のハンドル裁きに歓声をあげていた。
「……」
 なんて呑気なのだろう、この人は。
 頭が痛くなる思いで綱吉は臍を噛み、早く目的地に着いてくれと切に願う。
 家を出てからどれくらいの時間が経過したのか、体内時計も狂いっ放しなのでさっぱり不明。現在時刻も、今どの辺を走っているのかさえ、綱吉に知る術は用意されていなかった。
 ディーノはそもそも、地図を見ていない。ナビも用いていない。走っている道が本当に彼の意図する道であるのかも、夜の闇の中では把握するのさえ難しいのではないか。
 目印になるものがあった試しもない。涙で煙る視界で見える範囲に目を凝らし、綱吉は現在地を知る手立てはないものかと高速で過ぎ去る看板を懸命に読み取ろうとした。
 と。
 ディーノがブレーキを限界ぎりぎりまで踏み込み、凄まじい高音を轟かせ唐突に車は停まった。
「うわっ」
 車体後部がこれまでに無いくらい浮き上がり、一瞬の無重力に綱吉は堪えきれず両手をシートから放してしまった。頭が天井に直撃し、目の前に星が散る。直後に落下に転じた腰がシートの角にぶつかってそのままサイドボードに衝突しかかって、慌てて綱吉は両手を伸ばしてシートを掴み、これを回避した。
 ハンドルから放した両手を持ち上げて背中を反らせたディーノが、そんな綱吉の七転八倒など露知らず、一仕事終えた快感に身を振るわせている。
「ん~……着いた、着いた」
「いったた……」
 清々しい声で言い放った彼に、綱吉の苦悶の声が重なり合う。シートベルトなどまるで役に立たないな、と伸び切ってしまっているベルトを外し、綱吉は痛む頭を振って外に目を向けた。
 座席に向き合う形で蹲っているので、背筋を伸ばさなければ扉の上半分にある窓にまで届かない。ディーノが後部座席に置いたジャケットを取るべく腕を伸ばす、その邪魔にならぬよう席に座り直した綱吉は、目的地の筈なのに何も見えない暗闇に首を傾げた。
 本当に此処が、ディーノが綱吉を連れてきたがった場所なのだろうか。
「此処ですか?」
「そうそう」
 深く頷いてジャケットに袖を通した彼は、金髪を梳き上げると車内のライトを灯して場を急速に明るくさせた。
 突然の明度の変化に瞳が追いつかず、瞬きを繰り返して目尻を擦った綱吉が小さく唸る。それでもなんとか徐々に明るさに慣れて来たかと思った頃、今度は扉が開かれて冬の北風が車内に流れ込んできた。
「さむっ!」
 反射的に両手で身体を抱き締めて、非難の大声を出してしまった綱吉に、薄暗い車外へ出ようとしていたディーノが悪い、と軽い調子で謝罪した。
「ツナも出て来いよ。多分もうじきだから」
 何が、とは言わずにディーノはそれだけを言い残し、ドアを閉めた。
 振動が伝わって、不意に沈黙が舞い降りる。さっきまであんなに騒々しかったのが嘘のようで、少しばかり温度を下げた車内で綱吉はひとり爪を噛んだ。
「おーい」
 前を回って綱吉の真横のドアを叩いたディーノが、外から彼を呼ぶ。今度は指の背に牙を立てた綱吉は、渋々凭れていたシートから身体を起こしてドアロックを外した。
 だが重いドアを開けた途端に流れ込んできた冷風に全身が竦み、ほぼ反射的に扉を引いて閉じてしまう。
 危うく指を挟まれるところだったディーノが吃驚して後ろへ身を傾け、肩を窄めて小さくなっている綱吉に苦笑した。事前連絡も無しにいきなり連れ出して来てしまったから、彼が上着を持ってきていない事を思い出したのだ。
 けれどどうしても驚かせたかったから、先に連絡を入れるわけにもいかなかった。後でちゃんと詫びなければいけないな、と彼は袖から出した腕時計を覗き込んで白い息を吐き、東の空に目を向けた。
「ツーナ」
「やだ、寒いから絶対にヤダ!」
 コンコンとドアをノックして綱吉を呼ぶが、ディーノの我侭にすっかり愛想が尽きている彼は頑として首を縦に振らない。
 その間にも徐々に、東の空と地上とを隔てる境界線に薄らと筋が走っていく。早くしなければ間に合わない、と腹を括った彼は、寒空の下で大きく身体を震わせると、利き腕をドアに引っ掛けて力任せに引っ張った。
 綱吉がドアロックをし忘れていたのが幸いした。元からそう腕力もなく、しかも長時間乱暴な運転に晒され続けていた彼の体力も限界で、堪えきれなかった綱吉は塞ごうとしていたドアごと無理矢理に外に引きずり出された。
 踏ん張りが利かない上半身が、開いたドアの下へ崩れ落ちていく。
「うわぁ!」
「おっと」
 自力では支えきれなくて、迫り来る砂利の大地に綱吉が悲鳴をあげる。だが激突する寸前にふわりと身体が浮く感じがして、三半規管が大きく揺さぶられた。
 吐き気が舞い戻ってきて、綱吉の頭の中で大きく手を振って彼を出迎えている。涙目で必死に堪えた彼は、薄く瞼を持ち上げて、苦虫を噛み潰した表情で自分を抱きかかえているディーノを睨みつけた。
 迫力の無い顔で怒られても怖くはなくて、ディーノは乾いた笑いを浮かべつつ彼を一旦地面へと下ろす。ただ、長時間同じ姿勢で為か膝が伸びない綱吉は、ふらついて車に凭れ掛かると、そのままずるずる腰を抜かして座り込んでしまった。
 脱いだ上着を綱吉の肩にかけてやりながら、ディーノは立てないで居る綱吉に首を傾げた。
「どした?」
「……誰の所為だと」
 暗にディーノを批判しながら、綱吉が右手を伸ばす。求められるがままディーノはその手を取って、先ほど同様力任せに綱吉を引っ張りあげた。
「っつ」
 肩が抜けそうな感覚を堪え、綱吉は顔を顰めてディーノに凭れ掛かった。額が彼のシャツにぶつかり、オーデコロンの微かな香りが喉の奥に流れて行く。
 触れ合った箇所から熱が伝わって、ほのかに暖かい。着せられた上着のお陰もあってさっきよりは幾分寒さも薄らいでおり、綱吉はホッとした様子で息を整えて顔を上げた。
「ディーノさん?」
 だが、てっきり自分を見下ろしているものとばかり思っていた彼が、予想に反して別の方向に顔を向けていたのが気に障り、綱吉は途端に頬を膨らませると彼の足を思い切り踏みつけてやった。
「いでっ」
 瞬時に飛び上がったディーノが片足立ちで痛がるが、見事なまでにそっぽを向いて綱吉は彼から離れた。
 吐く息が白い、目の前が一瞬濁って見えなくなるくらいに。
「あれ」
 そしてその白さが、はっきりと白いと感じられるくらいに、周囲が薄明るく輝き始めていることに綱吉は目を見開いた。
 先ほどディーノが見ていた方角に、真っ白い光が満ち溢れようとしていた。
 山の輪郭線をなぞるように、少しずつ、けれど確実な歩みで、ゆっくりと。
 やがて軒を連ねる山並みの頂を越えて、静かに太陽が顔を覗かせる。
「うわ……」
 感嘆詞が零れ、他に言葉は浮かばず、綱吉は表れ出ようとしている陽光に目を細め立ち竦んだ。
「どーだ、凄いだろ」
 痛みから回復し、意気揚々と声を高くしたディーノが、突っ立っている綱吉の背後から両腕を広げて抱きついてくる。背中に体重を預けられて膝が僅かに沈んだが、綱吉は彼に全くかまける事無く、魅入られたように日の出の光景に見入り続けた。
 オレンジ色の鮮やかな輝きが、地表を遍く照らし出す。毎日繰り返される出来事なのに、今日という日が特別だからか、輝きも一層増して鮮やかに感じられた。
 穏やかな気持ちが胸の奥底から湧き上がって、綱吉は長い間止めていた息を久方ぶりに吐き出した。
「凄い……」
「だろ?」
 ぽつりと呟けば、肩越しに人の顔を覗き込んできたディーノが得意げに言い放つ。
 彼が何故、真夜中に人を連れ出して道を急いだのかが漸く分かった。
 乱暴な運転は未だ腹立たしいけれど、それを相殺して余りあるほどの感動が、綱吉の胸の中に温かな灯火となって息づいている。
 綱吉はほぅっと息を吐いて、首を振った。
 そういえば、どたばたしすぎていてすっかり忘れていた事を思い出したのだ。
「ディーノさん」
 寒いからだろう、綱吉にしがみついて離れないディーノに向かって、前を見たままその名を呼ぶ。
「ん?」
「あけましておめでとうございます」
 まだ言ってなかったですよね、と首を窄めて舌を出して笑って。
 振り向いた先には、太陽にも負けないくらいの笑顔があった。

2007/12/17 脱稿