「ただいまー」
学校を終え、授業で出されたてんこもりの宿題を思って憂鬱な気持ちになりながら家のドアを開ける。力の無い呟き程度の声では奥にいる奈々にまで届かなかったのだろう、綱吉を出迎えてくれる人の姿は玄関になかった。
むしろ誰かが三つ指ついて待ち構えている方が恐ろしいか。後ろ手にドアを閉めて吹き荒ぶ木枯らしから逃げ延びた綱吉は、外よりか幾分暖かい屋内の気温にホッと息を吐き、重い荷物を肩から下ろした。
そして靴を脱ごうと前に足を踏み出して、ふと、見慣れない靴が行儀良く並べられていることに気づく。サイズはかなり大きく、横にあるリボーンの靴がまるで玩具のようだった。
「誰か来てる?」
家光の靴だろうかと一瞬考えるが、自分の父親ながらあの人が黒光りする革靴を履いて闊歩するタイプとは思えず、綱吉は首を捻る。どちらかと言えば泥臭いゴム靴の方がお似合いで、ではいったい誰だろうと彼は唇を尖らせた。
踵の減った運動靴を脱ぎ捨て、一度下ろした鞄を再び担いで綱吉は前を向く。台所から誰か顔を出すかと待ってみるが何も起こらなくて、けれどきっと其処にいるはずの奈々に向かい、「ただいま」とさっきより大きめの声で叫ぶと彼は急ぎ階段を駆け上っていった。
今の声でやっと気づいた奈々が、おかえりと言い放ち更に何か続けるが、既に最上段を駆け上がっていた綱吉には聞こえない。慌しく自室のドアを開けて身体を中に滑り込ませてホッと一息つこうとした矢先、伸ばした爪先が予期せぬものにぶつかった。
「お、お帰り」
部屋の中央に置かれたテーブルに向かって、即ち綱吉が立つドアに背中を向ける形で、巨大なものが置かれていた。しかも喋った。
目を丸くした綱吉の反応が芳しくないのを受け、その巨大な置物がやや垂れ下がり気味の目を細める。まるで中世ヨーロッパに刻まれた大理石の彫像めいた整った顔立ちに、照明を浴びてキラキラと輝く金髪、宝石箱から零れ落ちたかのような澄んだ瞳は真っ直ぐ綱吉を射抜いていて、彼を否応無く緊張させた。
「でぃっ、ディーノさん!?」
「よっ」
遠く遥かイタリアの地にいると思っていた人物が、何故自分の部屋にいるのか。予想もしていなかった出来事に目を瞬かせていると、ベッドの上でえんこ座りをしていたリボーンが空気銃をぶっ放してきた。
額を撃たれて後頭部をドアにぶつけ、跳ね返って前のめりに倒れかけたところをディーノに助けられる。膝立ちになった彼に抱えられた綱吉は、頭を前後から挟むような痛みに耐えながら、涙目でそっぽを向いている小憎らしい赤ん坊を睨みつけた。
「リボーン!」
「まあまあ。ツナ、大丈夫か。瘤になってるぞ」
「え、あイタ」
思わず殴りかかろうかとした拳を上から宥められ、注意を逸らして額を小突かれる。途端新たに鈍い痛みが走って、目の前の綺麗な顔をした人に思い切り申し訳なさそうな顔をされてしまった。
傷に触らぬよう、頭を撫でられる。ぐしゃぐしゃに跳ね返った髪の毛をゆっくり押し潰され、促されるままに鞄を抱いてその場に座り込んだ綱吉は、自分よりもかなり上の位置にあるディーノの目を見返して首を右に傾けた。
「でも、なんで?」
訪ねてくる予定は聞いていない、十日ほど前に電話で忙しく世界各地を飛び回っているとしか。日本に立ち寄るのならば先に教えておいて欲しかったと頬を膨らませると、テーブルに寄りかかる形で綱吉に向き直った彼は悪い、と笑いながらその大きな手で綱吉の頭を掻き回した。
人懐っこい笑みが近づいて、機嫌を直してくれとばかりに額に出来た瘤の横にキスが落ちてくる。金髪が頬に当たってくすぐったく、身を捩ると後ろに回された腕に腰を抱かれた。
引き寄せられ、膝と膝がぶつかり合う。
「わっ」
「それにしても、久しぶりだな~、ツナ。元気してたか?」
額へのキスだけでは飽き足りなかったのか、今度は頬擦りまでされて綱吉の心臓が縮んだ。髭は綺麗に剃られているが、ゴリゴリと骨がぶつかり合う感触は正直、痛い。
押し退けて逃げようとすれば逆に強く引き寄せられて胸に抱え込まれ、最終的にはいつものように綱吉が先に力尽きた。
「ディーノさん……」
「あ、そうだ。お土産あるんだけど、ツナ、チョコレートとか好きだよな。あとこれ、紅茶なんだけど平気だったっけ。それからこれなんだけど」
諦めの心境で名前を呼べば、急に思い出したらしくディーノは綱吉を解放してテーブルに手を伸ばす。山積みにされていた箱を、散らかしているのか分別しようとしているのか、兎も角ひとつずつ綱吉の前に並べ替えて説明をする様は非常に楽しそうだ。
子供みたいにはしゃいでいる姿には、見ている綱吉まで楽しい気分になってくる。あちこち忙しく飛び回っている時でも、自分の為に時間を割いて店を巡ってくれたのかと思うと嬉しくてならなかった。
「あんまりツナを甘やかすなよ」
しかしリボーンは不満そうで、明らかに機嫌が悪い声で言い放つのに対してディーノはどこまでも陽気だ。
「えー、いいじゃねーかこれくらい。可愛い弟分なんだしよ」
リボーンにも土産はあるぞ、と問題点はそこじゃないだろうと綱吉も思わず突っ込みたくなることを言い返し、手にしていた丸い物体を彼へ向けて放り投げる。受け取らずに落下するに任せたリボーンは、愛弟子のどこまでも締まりの無い顔に肩を竦めた。
「まったく、お前はどこまでもツナに甘いな」
「それほどでも」
「褒めてないぞ」
鼻の下をだらしなく伸ばして照れたディーノに冷たく言い放ち、リボーンはレオンを帽子に載せるとベッドから飛び降りた。
ディーノの土産には見向きもしない、どこか拗ねている感じもする。淀みない足取りは綱吉の横をすり抜け、閉まっているドアノブに飛び上がって廊下への道筋を開いた。
出て行く直前、室内に残るふたりの顔を同時に見やって、彼はこれ見よがしに溜息さえ零しさえする。
「ツナは甘やかすと、すぐ調子に乗るからな」
「そんな事ないだろ」
「ツナ、お前もだぞ」
「え、なにが?」
自分には関係ないと踏んでいた綱吉までもが槍玉にあげられ、話半分しか聞いていなかった彼は驚いてリボーンを振り返った。しかし彼は呆れた様子で肩を窄めただけで、それ以上何も言わずに出て行ってしまった。
静かに扉は閉められ、首を傾げたまま綱吉はディーノに向き直る。
「えっと……」
会話に躓いてしまって、何を言えば良いのか咄嗟に思い浮かばない。困惑した表情で頬を掻いた綱吉は、改めて其処に座すディーノを見上げた。
黒に近い紺のスーツに、ほぼ同色のネクタイ。普段のTシャツにジーンズといったラフな格好とは違い、上から下までかっちりと固めている。本当に仕事の最中に立ち寄ったのだろう様子が窺えて、なんだか申し訳なさが先に立って綱吉は膝を揃えた。
床に落とすだけだった右手を持ち上げ、ディーノへと伸ばす。けれど触れる直前に躊躇した指先は微かに痙攣を起こし、綱吉の胸元へ戻ってしまった。
「ツナ?」
「いや、その、なんていうか。変な話、ですけど。ホッとしたっていうか」
無事でよかった、なんて。
そんな思いを胸に抱くこと自体、馬鹿馬鹿しいと笑って済ますべきなのに。
綱吉はディーノの仕事内容を具体的に聞いた事が無い、ただ想像するばかりだが、世界を股に駆けるビジネスマンという職柄ではないのだけは理解している。そこにある程度の危険が伴うことも。
「ツナ?」
「忙しい、ですか?」
「そ、だな。ちょっと今、ごたごたしてる」
ディーノ自身も知られたくないのか、綱吉が問わない限り自分からは何も言わない。今もどういう事情であちこちを駆けずり回っているのか、言い辛そうに表情を曇らせるので綱吉は触れずに終わらせた。
胸元の手を膝に落とす。上に被せられたディーノの手の大きさと暖かさに綱吉は目を見張り、直後安堵しきった表情で頬を緩めた。
「なんか、嬉しい」
「ツナ?」
「忙しくても、ディーノさんが俺のこと、忘れないで居てくれたのが」
状況がゴタゴタしているというのは、ディーノが言うのだから本当だろう。彼自らが足を向けなければならないような事態にあるという事は、綱吉が想像し得ない逼迫さがそこにあって然るべきだ。しかしそういう状況下であっても、ディーノが綱吉の為に何か土産になるものを探してくれたというのは、純粋に、申し訳ないと思うと同時に、胸が苦しくなる程の嬉しさだった。
唇から滑り落ちた本音に照れ臭そうにし、綱吉がぎこちなく笑う。正面からディーノを見返せなくて赤い顔で俯いていたら、優しく髪を梳く手に誘われて結局上向かせられてしまった。
「俺も、あんま人の事言えないかもな」
「ディーノさん?」
「ツナに土産持って行くんだっつってお前をダシに使って、会いに来てるわけだから」
土産なんて宅配便で送ればいいのだ、わざわざ日本に降り立って直接届けに来る理由なんて、他に無い。
会いたかったから、会いに来た。土産はただの口実だ、けれど本心をありのままに説明するには少し、自分たちの周囲には障害が多すぎる。
「ツナの顔が見たかった、それだけだ」
けれど今、この場には邪魔になる存在は居ない。堂々と胸の内を明らかにして微笑んで、彼は綱吉の額に額を小突き合わせた。
リボーンは彼をしてそれを甘いと言ったが、ディーノからしてみれば、大切だからこそ甘やかすのは当然だった。甘やかすからこそ、出来れば自分にも存分に甘えて欲しい、とも。
にっ、と白い歯を見せて悪戯っぽく笑われる。一瞬きょとんとした綱吉は、二秒後に赤い顔を下向けてディーノのスーツに指を絡めた。
「じゃあ。じゃあ……また、会いに来て下さい」
「分かった」
ボスっと彼の胸に顔を埋め、くぐもった声で綱吉が言う。その背を優しく抱きとめて、ディーノは静かに響きのある声で頷いた。
2007/10/25 脱稿