毒味

 秋晴れの空が遠くまで青く伸びている。地表を照らす太陽は夏の陽気さも随分と薄れ、穏やかで優しい。
 朝晩の冷え込みは激しく、上着を羽織っていても肌寒さを覚えるくらいだが、昼間となればその上着に袖を通したままでは汗ばむほど。この寒暖差の厳しさで体調を崩すクラスメイトもちらほらと見受けられるが、馬鹿は風邪を引かないと果たして誰が言ったのか。
 昼休憩前から姿が見えない獄寺を探して、最終的に辿り着いた屋上の重い扉をあけた綱吉は、ふと鼻腔を擽った微かな甘い香りに首を傾げた。
 フルーツ、もしくは花か。違う、もっと本質的に異なる匂いだ。が、あまりに一瞬過ぎてそれが何であるのかまでは分からない。
 暦は冬までもう一歩というところに来ており、色付いたモミジやイチョウが葉を散らせば、世界を彩る自然の色は薄れ、モノクロの世界が空から舞い降りてくるだろう。そんな時期に、花々の軽やかな甘い香りが漂うわけがない。
「んー」
 香ったのはほんの瞬きの間であり、錯覚だっただろうかと綱吉は難しい顔をして首を捻る。そうしているうちにドアノブを持つ握力が弱まり、重い鉄の扉が綱吉を押し返してきた。
「っと、やば」
 薄暗い屋内に戻されそうになった身体を踏ん張って留め、もう一度両手で鉄の板を前に押し出して今度こそ外へ出る。風は無く、ぽかぽかした空気が屋上全体を覆っていた。
 先客の姿は特に見当たらない、昼休みも後半に突入して久しいから、此処で食事をした生徒も早々に退散したのだろう。或いはもう肌寒いからと敬遠したか。
 綱吉自身も、今日は山本とふたり教室で食事を終えた。獄寺が戻ってこなかったのだから仕方が無い、一時間目は確かに、彼は座席にいた筈なのに、気がつけばもう何処にも見当たらなくなっていた。
 放っておけばそのうち戻って来るだろう、鞄も残されたままなのだから早退したわけではないだろうし。山本はそう言っていたが、綱吉としては朝っぱらから鬱陶しいくらいの明るさで「十代目」と尻尾を振ってくる彼が居ないのは、どうにも落ち着かない。居たら居たで邪魔に感じる時もあるのだが、居ないとなると不安になるのは変な感じだ。
「いない、か」
 獄寺が近くに居ると、すぐに分かる。煙草と、脂臭さに誤魔化した火薬の臭いが微かに鼻腔を擽るからだ。しかし後ろで音を響かせて閉じる扉に首を窄めつつ見やった屋上には人っ子ひとり存在せず、綱吉の影だけが夏場よりも若干長く伸びているだけだった。
 外れだったか、と綱吉は落胆して溜息を零す。一応獄寺が立ち寄りそうな場所はすべて回って、最後に此処へ出向いたのだが、予想は悉く外れてしまった。それはそれでなんだか悔しいな、と右親指の爪を噛んだ彼は、吹き抜けた青空に舞う白い煙に目を細めた。
 先ほど感じ取った匂いが再び綱吉の前を行き過ぎる。
「……?」
 瞳を細めやった彼は、いったいどこから匂うのかと視線を巡らせる。見える範囲に何も無いのは確認済みで、綱吉は上履きのままそろりと扉前から足を踏み出した。
 何処から飛んできたのか、枯葉やゴミが各所に散乱している。誰かの昼食だっただろう菓子パンの空き袋が風に煽られ、フェンスの出っ張りに引っかかって揺れていた。
 匂いは風の気まぐれで強くなることもあれば、全く感じないこともある。次第に感覚も慣れてくるのか段々分からなくなりそうで、眉間に皺寄せた綱吉は遠くの空に伸びた白い飛行機雲に気を取られた。
「あ」
 他所を向いていた綱吉の足元で、不意に短い声があがる。
「え?」
 遠くに意識を飛ばしていた綱吉もまた驚き、慌てて下を向いた先で黒い大きな塊を見つけてぎょっとさせられた。咄嗟に飛び上がって後ろに逃げようとするが、着地に失敗して転びそうになった手は斜め下から伸びてきた腕に引っ張られ、逆に前のめりになって崩れ落ちた。
 硬いコンクリートにぶつかる衝撃に怯えが走り、目を瞑って奥歯を噛み締めるが、衝撃はむしろ柔らかく暖かい。但し肘を立ててしまったので、突き刺された側はぐえ、と蛙が潰れた時みたいな声をあげたけれど。
「ご、ごめっ」
 急いで身体を引いて膝立ちになり、上から退く。浮いた両手が行き場を失って右往左往して、鳩尾に入ったらしい獄寺の呻き声に綱吉は目を瞬かせた。仰向けに寝転がっている獄寺の顔の直ぐ傍にはまだ火の点いている煙草が落ちていて、それがもう少しで彼の髪に燃え移る寸前。悲鳴をあげた綱吉は、大慌てで両手を伸ばしそれを脇へ払いのけた。
 白く濁った煙が綱吉の起こした風に薙ぎ払われ、斜めに棚引いてやがて消えた。
 残るは妙に甘ったるい、特有の香り。
「いっ、てて……」
「ごめん、獄寺君。大丈夫?」
 綱吉を庇って倒れた際に打った後頭部を撫で、痛みを堪えながら獄寺が身を起こす。腹も痛むのだろう、もう片手はベルトの辺りを彷徨っていた。
 身を乗り出して顔を窺えば、直ぐに獄寺は人懐っこい笑みを浮かべて綱吉を安心させようとする。やせ我慢もいいところなのだが、思ったよりもダメージは軽そうで綱吉はホッと胸を撫で下ろした。
 そして思い出し、靴で踏んで残り短くなっていた煙草の火を消す。
 綱吉の上履きの跡が残された吸殻に苦笑し、姿勢を直した獄寺が胸元から携帯灰皿を取り出した。まだ残り火が燻っているそれを摘んでコンクリートに押し当てて捻り、完全に消えたのを確認してから銀色のケースに放り込む。
 綱吉としては、まさかそんなところに居られるとは思っていなくて、油断していた。いつもだったら先に気づいていても可笑しくない距離なのに、そうならなかったのは恐らく、匂いが違ったからだ。
 膝を折り座り直した綱吉は微かに空中に残る花にも似た香りに唇を尖らせ、銀ケースをポケットに仕舞いこんだ獄寺を見上げた。
「十代目?」
「煙草、変えた?」
 大きな丸い瞳に見詰められ、やや頬を赤く染めた獄寺が首を傾げる。サラサラと綺麗な銀の髪が頬を撫でて動き、細かな糸の行く末を見やって綱吉は率直に問うた。
 言われて数秒後、獄寺は納得顔でああ、と頷く。
「変えたわけじゃないですよ」
 さっきから妙に綱吉の気配が尖っているとは感じていたが、まさか其処に拘られていたとは。思いがけない綱吉の指摘に苦笑し、獄寺は携帯灰皿を入れたポケットにもう一度指を差し込んだ。
 出てきたのは、見慣れない鮮やかなパッケージをしたマッチ箱大の紙箱だった。表面に描かれている文字も、英語ではない。色使いも日本らしさが見られず、原色を多用してごてごてしたイメージを抱かせる。
「あの薮医者が海外土産に貰ったらしいんすけど、不味いっつーんで俺に押し付けてきやがったんです」
「シャマルが?」
 開封済みのそれに顔を寄せれば、先ほど嗅いだのに似た甘い香りが少し強めに感じられた。しかし、煙草に美味い不味いの差なんてあるのだろうか、と嫌煙家の綱吉には解らない。それに、この匂いも。
「フレーバー系のは俺も苦手なんすけどね。折角だし、勿体無かったんで」
 試しに吸ってみたが、シャマルが嫌がったのも頷けると獄寺はひとり納得している。
「煙草に違いなんてあるの?」
「え? あ、あー……」
 理解出来ないのは綱吉ばかりで、やや語気を強めた彼に獄寺は手の中で煙草の箱を躍らせながら視線を宙に浮かせた。
 どうやって説明したものか。実際に吸い比べて貰うのが手っ取り早いのは間違いないのだが、近くで煙を吐くと途端に咳き込む綱吉だから、強要できた事ではない。試しにミント系のスーッとするものと、逆に頭にガツンとくるような重いもの等の違いがある、と言って聞かせても、綱吉は納得しかねる表情で益々眉間に皺を寄せてしまう。
 獄寺は苦笑いを浮かべたまま、参ったなと頬を引っ掻いた。
 試しに、
「吸ってみます?」
 箱の蓋を開き、中にまだ沢山残っているフィルターに包まれた煙草を差し出したら、綱吉は憤然とした様子で首を振った。
「ですよね~」
「でも、匂いが色々あるのは、分かった」
 浮かせた腰をストンと落とし、足を横に広げて間に手を置いた綱吉が肩からも力を抜いて呟く。くん、と鼻を一度鳴らして残り香を探す綱吉に笑み、獄寺は煙草をポケットへ戻した。
 彼らの足元では、午後の授業開始を告げるチャイムが鳴り響く。教室へ戻らなければならないのは分かっているのだが、今しがた腰を落としたばかりの綱吉はどうにも立ち上がる気が起こらず、獄寺もそれは同じだった。
「お腹空いてない?」
「俺は平気っす。十代目こそ」
「俺は、食べてきた」
 君を探していたんだよ、と短く告げると、獄寺は申し訳なさそうな、それでいて何処か嬉しそうな顔をする。
 そういう顔は反則だろう、と綱吉は頬を膨らませるが、そうすると余計に彼は照れ臭そうに顔を赤らめるばかりで、綱吉は諦めに近い気持ちで溜息を零し、薄くなりつつある飛行機雲に目を細めた。
「やっぱり、煙草も甘いの?」
 酔いそうなまでの甘ったるい匂いだった。そう、なんとなしに呟いて問うた綱吉に、獄寺は一瞬目を見開いてから破顔した。
「どうでしょうね」
 試してみますか? と彼は背をも前に倒して目を細める。
 疑り深く彼を見返した綱吉もまた、間延びする本鈴のチャイムに背中を押され、静かに目を閉じた。

2007/10/24 脱稿