魂祭 第二夜(後編)

 その、少し前のこと。
 山本に先導された了平と獄寺は乾いた土埃を巻き上げながら庭を横断し、道場の入り口に辿り着いていた。
 笛の音は屋敷から聞いた時よりもずっとはっきり、鮮明に聞こえる。澄んだ高音は淀みなく安定した曲を奏でているが、その調子は長くこの村に暮らす山本や了平にもあまり馴染みのないものだった。
「雲雀がこれを?」
「だと思うぜ」
「っていうか、雲雀だったし」
 閉め切られた扉を指差した了平の問いに、山本が頭の後ろに両手をやって返す。横でそっぽ向いた獄寺がぼそり言ったのは、先ほど覗いた時の恨みがまだ残っているからだろう。痛みまで蘇ったのか、腹部を頻りに手で撫でさすっていた。
 と、唐突に笛の音が止む。なにやら怒鳴りつける声まで聞こえてきて、即座に顔を見合わせた三人の間にも不穏な空気が流れた。
「なんだ、どうしたのだ」
「十代目!」
「おい、獄寺」
 声は雲雀のもので、何を言っているのかまでは聞き取れないが、怒られているのはまず間違いなく綱吉だ。すべてにおいて綱吉が最優先事項である獄寺にとって、それは許しがたいことであり、彼は途端ぴんと背筋を張ると山本の制止も聞かずに固く閉ざされた扉を両側に勢い良く叩き開いた。
 物凄い音を立て、重い木製の戸を横に弾き飛ばして敷居を踏み越える。二畳ほどある土間の向こうに一段高くなった板間があって、そこにももうひとつ閉め切られた扉が。
 そちらも外側同様閉め切られており、中の様子は窺えない。獄寺は荒々しい足取りで草履を脱ぎ捨てると段差を大股に駆け上がり、いち早く危険を感じ取った山本は了平の胸を押して自分も反対側へ身を翻した。
 素足で床を蹴った獄寺の両手が、こげ茶色に変色した戸を横へずらす。
「うぎゃ!」
 瞬間、内側から飛び出して来た拐に目の前の空気を一刀両断された獄寺が後ろへ大きく仰け反った。
 そう幅のない板間の端を左の踵が行き過ぎ、たたらを踏んで彼は両手を上下左右に振り回して堪えた。だが後方に流れた体重は重力の導きに従い、抵抗も虚しく獄寺の身体はもんどり打って埃っぽい土間へと崩れ落ちていった。周囲に巻き込むものがなかったのが幸いで、山本のお陰で難を逃れた了平は驚きに顔を染めながら、板戸の向こう側で青銀に鈍く輝く拐を構えた雲雀を仰ぎ見た。
「なに、君たち」
 底冷えのする低い声で全員を満遍なく見下ろした彼の問いかけに、山本は倒れたまま動けずにいる獄寺に同情的な視線を向けてから肩を竦め、了平を指差した。当の了平は山本から視線をずらした雲雀と目が合うと、またしても「よう」と陽気に片手をあげて軽い挨拶を彼に送った。
「なにか用?」
「沢田はいるか」
 雲雀の冷たい態度にもまるでへこたれない了平に肩を竦め、拐を袖にしまった雲雀が尋ねる。即座に切り返した了平に、彼は一瞬だけ嫌そうに顔を顰めてまだ目を回している獄寺を一瞥した。
 脇にしゃがみ込んだ山本が、生きているかと聞きながら彼を小突いている。強かと後頭部をぶつけたらしい彼は暫くの間意識を飛ばしていたが、反応がないのをつまらなく思ったらしい山本に脇腹を擽られてやっと飛び起きた。
「何しやがっ……いてて」
 しかし勢い良く起き上がり過ぎて、変なところに力が入ったのだろう。身体全体を襲った鈍痛に悶え苦しみ、のたうち回っているので、当分はまともに会話も出来そうにない。
 一連の彼の所作を笑って、了平がもう一度雲雀に、綱吉の所在を問う。だが雲雀は首を振り、彼らから見えぬように自分の体を壁にして道場内部へ通じる戸も半分以上閉めてしまった。
「あの子なら、今、特訓中だよ」
「なんのだ?」
「神楽」
 ちらりと背後を窺った雲雀の返事に、了平が即座に聞き返す。淡白に告げられた回答に彼は首を捻り、助けを求めるように山本に視線を走らせた。
 だが山本もはっきりとした答えは言えず、曖昧に笑って場を濁そうとする。
「なんでまた、神楽なんぞ」
「ヒバリさん、どうかしたんですか」
 渋い顔をして腕を組んだ了平の声を遮り、雲雀の後ろから一際甲高い声が響いた。
 しゃがみ込んだままの獄寺も頭を抱えていた手を下ろし、ぱっと表情を花咲かせて痛みを吹き飛ばしている。まるで犬だな、と見下ろしていた山本は心の中だけで笑い、雲雀に邪魔されて殆ど見えない綱吉に自分もまた、目を向けた。
「なんでもないよ。上は着なさい」
「え? あ……れ、わ!」
「上、って。雲雀、てめー十代目に何してやがったんだ!」
「君が想像していることじゃないよ」
 飛び上がって雲雀の肩越しに明るい茶色の髪を揺らした綱吉は、土間に三人の姿を見つけて明らかに動揺した声を出した。直後にどたばたと床を蹴る音が遠ざかっていく。
 すかさず反応を示した獄寺が握り拳を固くして雲雀に掴みかかろうとするが、寸前で叩き落された上に明らかに見下した視線で言われて顔を赤く染めた。何もしていない山本もまた、ほんのり色付いた頬を掻いて横を向く。
「何をしておったんだ?」
「ごめんなさい、どうかしたんですか?」
 慌てた様子の綱吉の声が、再度質問を繰り出した了平の声に覆いかぶさる。今度はちゃんと通してもらえた綱吉は、雲雀の脇の下から顔を出して一様に赤くなっている獄寺と山本、それからいつもと変わらない了平を順番に見て目を丸くした。
 やや着乱れている水葵色の小袖姿で、額には幾つもの汗が珠になって浮かんでいる。湿り気を帯びた肌は健康的な色合いを強調し、上気した頬は湯気を立て首筋には汗を吸った髪が絡み付いていた。小さめの唇は薄く開かれ、常より上下幅を大きくした肩と一緒に浅い呼吸を繰り返している。
 一見して色々と想像を巡らせてしまいそうな彼の姿に、獄寺も山本も喉を引き攣らせ、どうして良いか解らない顔をして前屈みに姿勢を崩す。だから嫌だったのだと雲雀が眉間に皺を寄せてこめかみに指を押し当て、了平は頭に疑問符を浮かべながら綱吉に向かって先ほど雲雀からもらえなかった答えを求めた。
「えっと、神楽の練習、です、よ?」
 まだ呼吸が整わないらしく息を乱した綱吉の声に、雲雀は露骨に機嫌を悪くして彼の髪の毛を掻き回した。
 首を窄めた綱吉はどうしてそんな事をするのかと雲雀の腕にしがみついて逃げ、唇を尖らせて膝で雲雀の腿を蹴り飛ばす。汗に絡みついた襦袢が小袖から覗き、日に焼けない広い脚が一瞬だけ露になった。
 悲鳴を飲み込んだ獄寺が、完全に土間に腰を落として小さくなる。山本もとてもではないが綱吉を直視できず、雲雀はひとり深々と溜息を零して綱吉を自分の後ろへ押し込んだ。不満を口にする彼の唇を指一本で黙らせて、唯一話が出来そうな了平に向き直る。
「それで、用は」
「ああ、すまん。実はだな」
 すっかり忘れていたと拍子を打った了平が、元々乏しい記憶力を懸命に稼動させて沢田家を訪れた理由を早口に告げた。
 曰く、遊行の旅芸人一座が境内を使わせて欲しがっているのだと。
「神社の?」
「そこで舞台を作って、村人に芸を披露すると言っておった」
 そんな話は初耳だと顔を顰めた雲雀に、落ち着きを取り戻した山本がそういえば、と片手を挙げる。
「聞いてなかったのか」
「何を」
 てっきり昨日の座敷での話ついでにディーノから聞いているとばかり思っていた山本は、雲雀が知らない風なのに少々驚きつつも手短に事のあらましを説明してみせた。
 旅芸人の一座が村の近くまで来ており、近いうちにその一座は並盛にもきっと立ち寄るだろうと話していたことを。盂蘭盆会の時期に村に戻っていたフゥ太に強請られて、綱吉がその時は一緒に見に行くと約束した事までも。
 そこまで言われて雲雀も昨日の一連の出来事に行き当たったようで、嗚呼と頷いて綱吉を振り返る。若干気まずげに顔を伏した綱吉は、余計な事をと山本を睨みつけてから縋る子犬の目を雲雀に向けた。
「駄目?」
「……きちんと舞えるようになったらね」
「う」
 手痛いところを突かれ、綱吉は渋い顔をして小さく唸る。
「それで、その一座が神社を使いたいと?」
「だ、そうだ」
 益々膨れっ面を作った綱吉の頭を軽く撫でて宥めながら、雲雀は答えを待っている了平に質問の内容を反芻する。深く頷き返されて彼は暫く考え込み、己の顎を撫でて元から細い瞳を更に細めた。
 人差し指で時折唇を叩き、丸めた背を押し当てて、反対の手は曲げた肘へ。沈黙が漂い、どうにか理性が勝った獄寺の吐く妙に長い息だけが場に似つかわしくなく流れた。
「それは、どうしても神社でなければ駄目なのか」
「どういう意味だ」
「他意はない、が」
 並盛神社では遠かろう、と雲雀は手を降ろしながら言った。
 沢田家が隣接する並盛神社へは、急峻な石段を百段以上登らなければならない。他でもない了平が用件を伝えに遣わされたのだって、つまるところは彼が血気盛んで体力も有り余っている若者だからだ。それくらいに神社へ出向くのは重労働であり、年寄りやまだ幼い子供にはかなりきつい行軍となるのは目に見えている。
 それに、一座が場を拵えるとしたらその資材もまた、石段を人力で運び上げるより他に術がない。
 見ていない雲雀には一座の規模がどの程度のものか想像することさえ出来ないが、場合によっては資材を動かすだけでも日が暮れてしまうだろう。
「それもそうだな」
「それに、明日は」
「……ああ、そういえば、そうだった」
 神社で舞いを奉じたところで、観るものはないだろう。揶揄を含んで呟いた雲雀の声に、了平は今思い出した顔で柏手を打った。
 理解し得ない獄寺だけが珍妙な顔を作り、即座に理解出来た山本は緩慢に笑った。綱吉は何か気が滅入る事を同時に思い出したようで、渋い表情で視線を脇へと逸らす。
「なら、広場は?」
「山本?」
「ほら、稲荷の手前の。たまに市が立つ」
 横から声があがり、雲雀と了平、そして綱吉もが一斉に彼を見る。しかし三対六個の目を向けられても彼は臆さず、人差し指を立てて意味もなくくるくると空中を掻き回した。
 村はずれにある稲荷神社の前には、確かに何もない空間があった。子供たちの格好の遊び場であり、行商人が市を立てることもある。村中の人間が集まるには少々手狭な感が否めないが、山の中腹にある神社の境内よりはずっと座も組み易いだろう。
 彼処ならば、村人も誰も文句は言わない筈だ。
「そうだな、それがいいかもしれない」
「だろ?」
 成る程な、と頷く了平に嬉しそうに顔を綻ばせ、山本は白い歯を見せて笑った。
 我ながら妙案だと胸を張る山本に、土間の上で胡坐をかいた獄寺は頬杖ついてそっぽを向いている。それくらい自分でも想像がつくと言いたげな表情であり、指の隙間から銀の髪を零して頻りに頭皮を掻き回していた。
「そういう事でいいか」
「ああ。……いや、すまん。なんだったか」
 雲雀としても、暫くは境内を騒がしくさせたくない。ディーノが社殿で寝起きしているのを知っているのは雲雀とリボーンくらいで、不用意に彼の存在を他に知られるのも出来れば避けたかった。
 誰が言えるだろう、並盛神社に祀られている存在そのものが、ディーノであるなどと。
 村人からすれば、何処から来たかも解らない異人が社殿をねぐらにしているのは不届き極まりない行為に映るだろうし、ディーノからすれば自分の為に設けられた社殿を使うのは当然の権利だと思うだろう。そもそも人間と神が同居するような現状が異常なのだ。頭が痛くなる思いで、雲雀は了平に問うたのだが。
 その了平はというと、にかっと無邪気に笑いながら、今しがた受けたばかりの説明を、綺麗さっぱり忘れ去っている。
「うっそ」
「うむ。極限に忘れた!」
 絶句する山本を前に、了平は拳を硬く握り締め、自慢できることではないのに何故か誇らしげにしながら堂々と言い放った。
 雲雀が溜息をつきながら顔を手で覆っている。彼に寄りかかっていた綱吉も苦笑しきりで、獄寺などは頬杖から顎を落として首を痛めていた。
 了平がこういう人物だというのは、付き合いが長い手前、分かりきっていたことなのに。彼の記憶力の無さは絶望的で、恐らく今一度丁寧に説明したところで、九十九折の石段を降りている間にまた綺麗さっぱり忘れ去ってくれるに違いない。そうなれば雲雀たちが時間を裂いた意味どころか、了平がわざわざ沢田家まで出向いた必要性も完璧に失われる。
「しゃーねー、行くか」
 腰に手を宛がい、山本が首を鳴らしてからからと笑う。それから段上の雲雀と綱吉を見上げ、ついでだから旅芸人見物も一緒にどうだと彼らを誘った。
 魅力的な誘いに、綱吉が思わず雲雀の横から身を乗り出す。しかし素早く横から伸びた雲雀の腕に邪魔されて、不満顔を露にして踵で床を蹴り飛ばした。
「君は、駄目」
「なんでですか」
 境内の使用に関しては、神域の部類に入るので神官職を兼任している沢田家当主の了解が必要となる。しかし現当主たる家光は長く不在で、その間綱吉が代理を務めていた。
 もっとも彼の判断力はまだ子供の領域を出ない場合が多く、その際は綱吉から全権を委ねられたという名目で、雲雀が代理の代理を務めることもあった。
 というのは表向きで、今現在沢田家の全執権を担っているのはリボーンに他ならないのだが。
 境内の使用を認めない旨の説明は、相手にもよるだろうが、沢田家の人間かもしくは代理人から成されない限り旅芸人一座は納得しないだろう。元々彼らの芸は神々に対してのものであり、そこにおわす神に奉納する目的で発展してきた経緯がある。
 人に見せるものではなく、神を魅せる芸としての誇りを持つ一座であれば、山本や了平の弁だけでは納得しない可能性も高い。
「僕が行くよ」
 仕方が無いと黒髪を掻き上げ、いい加減獄寺に退くよう手で払う仕草をして雲雀が板間を一歩前に出た。
「ヒバリさん」
「君は、明日見苦しい舞を披露しなくて良いように仕上げておくこと」
「あ、あの、俺、すっげー十代目の神楽、楽しみにしてますから!」
 しつこく雲雀の袖を引いて強請る綱吉との会話に割り込み、泥を払いもせずに立ち上がった獄寺がにこやかな笑顔と共に言った。
 しかし通常ならばここで追随してくるはずの山本は呆気に取られて黙り込み、了平は我感せずの様子で力んでいる彼の背中を首傾げつつ見守っている。その異様に静まり返った微妙な空気に、獄寺は踏み出した足をそのままにあれ? と周囲を見回した。
 自分は何か、的外れなことを言ったのだろうか。
 綱吉が神楽の練習をしているのは間違いなく、それは昨日からの話を総合するに、明日のことだ。さぞかし立派な姿を拝見できるだろうと胸躍らせた獄寺だったのだが、綱吉が困った風に頬を引き攣らせてまた雲雀の後ろに戻ってしまって、出しかけていた手のやり場に苦慮した彼は助けを求めて山本に目を向けた。
 苦笑いを返された。
「俺、なんか変なこと言いました?」
「君如きに見せるものじゃないんだよ」
「んだと!」
 袖口から手を通して腕を組んだ雲雀の一言に語気を荒立てた獄寺だったが、まあまあと横から山本が宥める声を発してその場は踏み止まる。代わりに不満を隠しもしない表情を作ると、目が合った綱吉がごめんね、と顔の前で両手を合わせた。
 雲雀が建物の内部奥、否、そのもっと向こう側に広がる並盛山を仰いで瞳を眇める。
「神楽は神域で舞うもの。君たちの為に舞うものじゃない」
 低次元な娯楽と一緒に考えられるのは不愉快だとはっきり言い切り、雲雀は綱吉を道場へ押し返して戸まで閉めてしまった。自分は段差を降りて草履を履き、獄寺を退かして了平を手招く。
 山本は頭の後ろで手を結び、獄寺は呆然と綱吉が消えた暗い道場入り口と、開け放たれたままの明るい屋外とを交互に見やって頬を膨らませ、つまらなさそうに土間の土を蹴り飛ばした。
「拗ねるなって。俺だって、見たことないんだから」
 何度か練習風景を盗み見たことはあったが、当日の本番は結界に阻まれた先で行われる為にどう足掻いても近くで見ることは叶わない。ただ遠く、里から並盛山の頂に灯る微かな光を眺めることくらいしか。
 あの結界を越えられるのは、沢田家直系の血筋か、雲雀やリボーンくらいで。
 では何故雲雀は平気なのかと獄寺が今更な質問を繰り出し、返答に窮して山本は誤魔化すべく彼の背中を押した。
 前によろめき、右足を踏ん張らせて堪えた獄寺が自分の背中をさすりながら山本を睨みつける。その間にも雲雀と了平は敷居を跨いで外に出ており、山本も悪いな、と呟いて彼を追い越して行った。
「獄寺も来るか?」
「……やめとく」
 旅芸人の一座は笹川の屋敷に留まっているとかで、頼めば芸のひとつでも見せてくれるのではなかろうか。童心に帰って言った山本に首を振り、獄寺は依然拗ねた表情のまま眩しい陽射しが照りつける外へと足を運んだ。
 後ろ手に扉を閉め、道場を完全に外部から遮断する。まだ未練がましくその自分で閉めた扉を見詰め続けた彼だが、たいした追求もせずに分かったと頷いた山本たちを見送ると、ひとり踵を返して屋敷へ戻るべく駆け出した。
 差別されているとは思わない、しかし疎外感を抱くなと言われても無理だ。
 年月の差は埋めようが無いし、知ろうにも何を知らないのかさえ自分では解らない状況がもどかしくてならない。なにもかも先に諦めて物分りが良いみたいに振舞う山本が嫌いだった、何故抗おうとしないのかと腹が立つ。
 このまま雲雀に綱吉を譲る気は毛頭ない、しかし今の自分では太刀打ち出来ないのも事実。
 だから強くなりたい、雲雀を上回るくらいに。そして彼よりも誰よりも、自分が綱吉を守りぬけるように。
 遊んでいる暇はない、少しでも集中して自分が得られる限りの力を掴み取るまでは。
 玄関で慌しく草履を脱ぎ、板間を駆けて座敷の中の間へと戻る。少しの距離しか走っていないのに息が乱れ、相変わらずな自分の体力の無さを自嘲気味に笑ってから、獄寺は散らばった呪符を一枚ずつ拾い上げて乾きかけている墨に舌打ちした。
 そういえば、と視線を巡らせるがさっきまで此処にいたディーノの姿が無い。
「……」
 何処へ行ったのだろうか。考えるがまるで想像がつかず、獄寺は首を振って忌々しい年上の存在を頭から追い出し、片付けに専念すべく畳の表面を指でなぞった。
 最後に拾い上げた札は、ディーノが変化させたものだった。
「なんで、嵐の紋なんだよ」
 中央に記されていた炎の紋印を掻き消し、新たに付け加えられた紋印は風の属性。獄寺家に脈々と伝えられる炎の一派とは、凡そ交わることのない力の系統だ。
 ディーノはこれを、獄寺の中に宿る属性の本質だと言った。
 俄かに信じられる話ではない。鬼の里を放逐されて以後、自分の中に宿る絶対的な力だと自負してきたものを根本から否定されたのだ、受け入れ難い告知に獄寺は首を振る。
 昨日今日出会ったばかりの奴に、何が分かるというのか。元々他人に対しては排他的なところがある獄寺は、たとえ雲雀の義兄という触れ込みであっても、早々簡単に彼を信用出来なかった。
 口からでまかせを言ったに決まっている、風なんて中途半端に温いものよりも、自分に最も相応しいのは全てを焼き焦がす強大な炎の筈だと。
 盲目的に、彼はそう信じた。
「ちぇ」
 ただ棄てるには上物の和紙と墨を使っている分勿体無く、横目で呪符を睨んだ彼は、束にしたほかの札の一番下にそれを差し込んだ。ひとまとめにして袖口から中に入れ、作業の続きに取り掛かるべく座卓を前に正座を作る。
 駒鳥の声が響き、生温い空気が遮るもののない縁側から座敷へと流れ込んで獄寺を包んだ。
 煌々と地表を照らす太陽に一瞥を加え、忌々しげに舌打ちを繰り返してから呼吸を整える。背筋を真っ直ぐに伸ばして筆を取った彼は、くどいくらいに己が信じる炎の紋印を記し続けた。
 

 音はなく、しかし静寂が場を埋め尽くしているのかといえばそうではない。
 汗が散り、荒く乱れた呼気が微かに空間に流れてゆく。熱が篭もり息苦しさも漂う場で、けれど指先ひとつにしても意識を細く向けながら、彼は水の流れにも似た動きで古来より伝わる型をなぞり続けていた。
 手にする扇を鈴に見立て、手首を振って聞こえぬ音を奏でながら巧みに足を運び、体を使って円を描いていく。
 進む方向に迷うことは無い、幼少期から繰り返し覚え込まされ舞い続けてきたものだからこそ、目を閉じたままでも自然と身体が覚えこんでいる道筋を辿り、舞を形作っていった。
 時折足の裏全体で床を叩き、音を響かせ、扇を持つ手を上下に激しく揺さぶって玉の汗を飛ばす。唇は乾いて度々舌で舐めて潤いを補いながら、悲鳴を上げそうになる体を鼓舞して滑らかな動きを実践して行く。
 だが。
「うあっ」
 それまで一切の歪みが無かったものが、ある瞬間唐突に途切れて彼は甲高い悲鳴をあげた。
 右足が左足の動きを追い越し、爪先が踝に引っかかってしまったのだ。
 膝をぐらつかせ、数秒間は堪えるが最終的に持ち堪えられずに両手を床について倒れこんでしまう。髪の先から散った汗がこげ茶色の床に水玉模様を作り出し、ぜいぜいと肩で息をした彼は悔しげに拳で床を叩いた。
「あー、もう!」
 悔しげに顔を歪めて唇を噛んだ彼が、肺の中に残っていた息を全部吐き出すついでに罵声を張り上げた。
 もうひとつ拳で床を殴りつけて跳ね返された痛みに涙目を作り、手首に絡みつく襦袢の袂で額の汗を拭って起き上がる。全身は既に汗ぐっしょりで、吐く息ひとつにも熱が宿っている。
 手にした扇を広げて風を作るが、むしろ暑さを増長させるだけに終わって彼は舌を出した。元からかなり緩い衿元を更に広げ、おおよそ人に見せるには憚られる格好をした彼は、薄ら紅色に染まった肌を惜しげなく晒して首の裏に流れる汗をも指で弾き飛ばした。
 雲雀に命じられた居残り練習は、集中力との勝負だ。最後まで舞い切るのにどうしても途中で気が緩み、手足の動きがちぐはぐになってしまう箇所がある。そこを通り越しさえすれば終わりは目の前だというのに、何度やっても同じ箇所で躓いてしまって、彼はその度に悔しげに臍を噛んだ。
「なんでかなー、もう」
 どすん、と床に腰を落として脚を前に投げ出し、左右に広げて間に両手を置く。折り畳んだ扇を中央に配した彼は、そのまま背中を丸めて団子虫のように小さくなった。
 右に体勢を崩し、横向きに倒れる。頬が床に触れて微かな冷たさが心地よかったのか、ほっとした様子で目を閉じて彼は両腕も揃えて床に投げ出した。
 上気した頬を膨らませて、息を吐いて凹ませる。もぞもぞ芋虫みたいに伸ばした体をまた縮めた彼は、持ち上げた左手で木目をなぞっては途中で止め、また同じ仕草を繰り返して溜息を零した。
「あーあ」
 今度は盛大に音を響かせながら仰向けに寝転がり、大の字を作って何も無い天井を見上げている。表情は膨れっ面そのままで、巧く舞えない自分への苛立ちが如実に感じられた。
 だから、隠れて見守るだけにするつもりだったのに、ついつい噴き出して自ら音を発してしまった。
「ん?」
 他に誰もいないと思い込んでいたからこそ両手両足を広げてあられもない姿を披露していた彼は、一瞬眉を寄せると慎重に周囲の気配を窺って首を持ち上げた。
 そうして巡らせた視線の先で、締め切られた戸口に凭れ掛かったディーノを見つけ出して瞬きをひとつ。
「うわっ」
 直後に悲鳴をひとつあげて飛び起き、両足を襦袢の中に引き込んで露になっていた太股を隠す。首から上を紅葉よりも真っ赤に染めて肩を窄めて小さくなった彼は、上目遣いに恨めしげな視線を投げてきてディーノの苦笑を誘った。
「怒るなって」
「いつから覗いてたんですか!」
「んー……転ぶ前?」
 頬を膨らませて拗ねる彼に手を振り、呵々と笑ってディーノは前に出る。腿を床に押し付けて座り込んでいる彼の傍まで行き、膝を折ってそこに両肘を置いた。頬杖をついて背を若干前のめりに倒せば、視線は直線上で交差した。
 屈託のないディーノの笑みに、彼はまだ少し不満げではあったものの、いつまでも怒っているのは馬鹿らしいと考えを変えたのだろう。照れ臭そうに頬を掻いてから、足の裏で蹴り飛ばしていた扇を拾って腰を浮かせた。
「大変そうだな」
 汗を含んで湿った髪の毛に手を伸ばし、軽く梳いてやる。指が触れたところから温かみが零れてきて、ディーノは彼が生きている証拠でもあるぬくもりに瞳を眇めた。
 扇を右手に握った彼が、擽ったそうに首を振る。
「でも、今は俺しかいないから」
 本来は家光の仕事であったが、彼が長く不在である為神事の多くは彼が代行している。まだ幼く、不慣れな点も多々あるのに、一家の代表としての重責を負わされて心労は果たしていかばかりか。
 取り除いてやれたらばいいのに、そう思いながらディーノは表情を翳らせた。
 違うのは分かっている、けれど揺らいでしまう。
『あー、もう!』
 鈴を手に蝶の如く軽やかに舞っていた動きが止まり、面白くなさそうに呟く声が頭に響く。危うく転ぶ寸前だった自分の足を睨みつけ、肩を落として盛大なため息を零して首を振っている。
『どうして、同じ場所で躓くんだろ』
 時には本当に転び、膝小僧をすりむいていた。
 何度練習し、何度繰り返しても、必ずと言って良いほど同じ箇所で失敗して動きを中断させる。そこを過ぎれば終わりまであと少しだというのに、気が緩むのか度々途切れる舞に、本人も、楽を奏でている側も疲れが隠せない。
 そんな自分の体たらくぶりを嫌って、泣きながら逃げ出したこともあると聞いた。
 同じ仕草、同じ舞。
 おなじ、におい。
「そっか」
 健気に言い切った彼の頬をそっと包み込み、撫でてやる。触れられるのが好きなのか、嬉しがった彼は扇を膝元に置くと自分から首を傾けてディーノの掌に擦り寄ってきた。
 幼くあどけない表情、しかし瞳に宿る芯の強さ。鮮やかな琥珀色の、なにものにも穢される事のない至高の宝玉。
 そこに映し出されるものが自分だけであればいいと、何度願っただろう。
 その心が彩る存在が自分だけであればいいと、何度祈ったことだろう。
 山本の言葉が蘇る。けれどディーノには解らない。どうして一番でなくても平気でいられるのか。
 解らない。
 自分がどうしたいのかさえも。
「ディーノさん?」
「なあ、ツナ。聞いていい?」
 喉から頬にかかる一帯に手を添えたまま黙り込んだディーノに、彼が小首を傾げてその手を重ねあわせた。表情の優れないディーノを案ずる表情を浮かべた彼に寄りかかり、我ながらみっともないと思いながらディーノは微かに震える声で問うた。
 伏せられた瞳、しな垂れる金色の髪を下に見て、彼はなんだろうかと目を瞬かせた。
「なんですか?」
「あのさ、ツナ」
 掌を返し、彼の手を握り締めて床に縫い付ける。逃れられないように縛るのは簡単だ、けれどそれでは心まで手に入らない。
 欲しいのは思いだ、思い出ではない。
 だからディーノは首を振った。顔を上げ、正面から彼を見詰めて唇を噛む。
「ツナは、俺のこと……好き?」
 掌の下で、小さな身体が小さく跳ねた。

2007/12/15 脱稿
2008/2/16 一部加筆修正