春、君に咲く

 朝晩の冷え込みは一気に強まり、夕方五時を回ればもう空は薄暗く、迫り来る夜の足音をすぐ背中に感じるようになった。
 七時を過ぎれば外はもう真っ暗で、九時を通り越せば言わずもがな。長引いたミーティングですっかり遅くなってしまい、約束した時間はもう三十分以上前に過ぎ去ってしまった。
「やっべーかな」
 今頃行くのは逆に迷惑になるかもしれない。右肩に担いだ大きな鞄を揺らし、榛名はぼんやりと輝いている外灯の明りに目を細めた。
 閑静な住宅地とでも言うのだろうか、一軒当たりの敷地面積が広い家が見渡す限りに理路整然と並んでいる。榛名家とは段違いの資金力を持つ連中が暮らす一画に彼が目指す場所はあって、しかしそこに住む目当ての人間は、自分の家が一般家庭より幾許か恵まれた環境にあると本気で思っていない。
「あんなでっけー家に住んでて、どこが貧乏なんだか」
 ビクビクとこちらが何かを言うたびに大仰に反応して震え上がり、何事に対してもオーバーリアクションを返す奴の姿を思い浮かべる。途端笑いがこみ上げてきて、榛名は周囲に誰も居ないのを良い事に堪えきれず声を殺して笑った。
 この場に秋丸でも居れば、「思い出し笑いはスケベの証拠」だとでも言い放ちそうだが、実際アイツは充分面白いのだから仕方が無い。それに男はみんなスケベだ、と開き直った彼は大きく揺れた鞄に右膝を襲撃されて慌てて気を引き締めた。
 目指す家はもう目の前にあるが、榛名は電信柱に寄りかかるようにして明りの下に陣取ると、短めのコートのポケットから携帯電話を取り出した。
 首に巻いたマフラーの緩みをついでに直し、邪魔な端を後ろへ放り投げて息を吐く。最近機種交換したばかりのスライド式の液晶画面を見詰め、ボタンを押してメール作成画面を呼び出した。
 パッと液晶が明るく染まり、上から降ってくる電灯のそれよりもずっと眩しい光に榛名は目を細める。新着メールは無かった。遅くなってしまったが、まだ起きているだろうか。
 学校を出る時に一度、遅れることを伝えるメールは入れてある。それに気づいていない可能性もあるが、念の為近くまで来ているとだけ連絡を入れて、五分待って返信が無ければ今日は諦めようと決めた。
 特に用事があるわけではない、しかしなんとなく、そう、なんとなく顔を見たかった。
 夏が終わり、三年が引退した。秋大会も終わって、あと数ヶ月で榛名も最終学年になり、チームの大黒柱としての責任が重く圧し掛かる。引退してしまった加具山の代わりに、投球制限を設けている榛名の前に投げる投手も、出来れば複数枚用意したい。その為に投手向けの練習メニューを組み立てるのが今の彼の仕事であり、今日のミーティングが長引いた原因だった。
 自己に厳しい管理を強いている榛名は、それを他者にも求めようとする。強制こそしないものの、彼の態度は周囲からすればそうは見えないらしく、そこで反発が生まれて退部すると言い出す輩まで現れて大騒ぎだった。
 そんな日がここ数日続いていて、疲れが溜まって来ていたからだろう。なんとなく、会いたくなったのは。
「そ、こ、ま、で、き、て、る」
 言葉に出しながらボタンを押して文字を打ち出し、漢字に変換もせぬまま送信ボタンを押す。紙飛行機が空の彼方に吸い込まれるアニメーションが流れ、待ち受け画面へ自動的に戻った。
 人差し指で押して液晶をスライドさせ、ボタンを隠す。掌サイズの小型端末を胸に押し当てて斜め上を向いた榛名は、一秒後我に返って何をやっているのだろうと自分に苦笑した。
 きついことも言われて、どうやら自分で思っていた以上に落ち込んでいたらしい。額に手をやると、指先の冷たさが存外に心地よかった。手袋も出してこないと、あまり血流が悪くなるのは困るな、そんな事を考えて吐いた息は光の中で白く濁った。
 コートが汚れるのも構わず、電信柱に凭れ掛かって三橋の家が見える位置に居場所を定める。返信は無いだろうかと携帯電話を見下ろすが、バイブ設定にしてあるので届いていたなら震えて、とっくに気づいている。
 苦笑と溜息が同時に出て、榛名は誰か出てこないものかと郵便ポストの上に灯るオレンジ色の丸い明りに目を細めた。
 と、そこへ。
 がちゃり、と乱暴に金属を擦り合わせる音が甲高く響いた。
 夜の静寂を切り裂く音に、榛名は丸めていた背中を伸ばして遠くを見る。そうしている間にオレンジの中にもっと明るい色が映し出されて、挙動不審に周囲を見回す小柄な人の姿に彼は即座に罵声を上げた。
「ばっ……お前、なんて格好!」
 慌てて鞄を担ぎ、携帯電話をポケットに押し込んで駆け寄る。唐突に闇から発せられた声にビクッと震えた相手は、しかし穏やかな光の下に榛名の姿を見つけると、途端ふにゃっとだらしなく表情を緩ませた。
 見ている榛名まで脱力してしまう、気の抜けた間抜けな顔。あれは安堵して笑っている時の顔だと気づいたのは、知り合ってから随分経ってからだった。
「三橋」
「はっ、はる、なるな、さ……」
「ばっか。そんな寒い格好で出てくる奴があるか」
 傍に行って、十センチ以上下にある三橋の目を覗き込む。足元へ鞄を下ろしてから素早く首に巻いていたマフラーを解いた彼は、襟の広い長袖シャツ一枚の上にバスタオルを引っ掛けているだけ、という見るからに寒そうな姿の三橋の首へそれを絡ませた。
 触れたタオルは少し湿っていて、それが外気に触れて少しずつ冷えていくのが分かる。下もスウェットのズボン、素足にサンダルという組み合わせで、どう考えてもメールを見た瞬間、何も考えずにそのまま飛び出して来としか思えない。頬は暖かい場所から急に寒い場所へ移動した所為で赤く色付き、林檎のようだ。
 湿った毛先が垂れ下がり、榛名の指に雫が落ちる。
「風呂上り?」
「は、はいっ」
 毛糸のマフラーが湿気るかとも思ったが、それなら新しく買い直せばいい。少なくともこいつが風邪で寝込むよりはダメージが少ないと、小姑のように口煩い後輩を思い出して榛名は渋い顔を作った。
 手で髪を梳いてやると、中心部分はまだ随分濡れていた。
「ちゃんと乾かせよ」
「ど、ライヤーして、た」
 このままでは本当に風邪をひかれそうで、バスタオルを引っぺがして頭に被せてわしゃわしゃ掻き回す。途端、シャンプーだろう、甘い匂いが榛名の鼻腔いっぱいに広がった。
「わっ、ひゃっ」
 上から押さえつけられ、首を窄めた三橋がじたばたと両手両足を振り回して逃げようともがく。だがそれを上回る榛名の力には抗いきれず、やがて体力も尽きたのか大人しくなった。
 赤い顔を俯かせ、手は榛名が巻いてやったマフラーを弄っている。薄茶色の髪の毛は、次第にタオルに水分を奪われてふわふわと綿毛のように膨らんでいった。
 花の香り。自分が使っているものとは違うし、いつもの三橋から香る匂いとも違う。
「シャンプー、変えたか?」
「ちっ、あ、母さんのしか、その」
 相変わらずしどろもどろに単語がぶつ切れ状態の返事が飛んできて、榛名は三橋の頭を覆う手を両側に退けて顔を覗き込む。毛先から香る柔らかな匂いに思わず喉が鳴って、色付いた頬に思わずかぶりつきたくなった。
「ん?」
「俺、の……空っぽだった、から」
 着ているシャツをぎゅっと握り締めた三橋が、それでも懸命に視線を合わせようと努力しつつ呟く。要するに、普段自分が使っている分が無かったので母親のものを代用したらこうなったと、そういう事だろう。
 くん、と鼻を鳴らした榛名が額を覆っている前髪に顔を近づける。
「そか。甘い匂いがする」
 季節は冬に近づき、花は枯れて色を失っていく時期だが、こんな近い場所に満開の花が咲いていた。ならば自分は花の蜜に群がる蜜蜂か。
 美味しそうだ、と率直な感想を呟いて口を開く。三橋が間近で息を吸う気配を敏感に感じ取って視線を上げた、間近で髪同様に色素の薄い大きな瞳に見詰められ、榛名はにっ、と悪戯っぽく笑った。
「ひゃっ」
 いきなり前髪に噛み付かれ、引っ張られた痛みに三橋が悲鳴を上げる。持ち上げた両手で頭を庇い、首を振ったところで榛名は咥えるだけだった髪の毛をすんなり解放した。
 匂いとは違い、こっちはあんまり甘くは無い。
 ならば。
「はる、な、さん?」
「な、三橋」
 ちょん、と曲げた指の背で三橋の唇を小突いて笑う。真っ赤になった三橋はそれだけで全身から湯気を噴出し、身を竦ませてガチガチに固まった。
 ここ数日やさぐれていた気持ちが一瞬で氷解していく。暖かな春を思わせる甘い匂いに包まれて、幸せな気持ちに浸った榛名はゆっくりと目を閉じた。
 少し遅れて、三橋もまた緊張に震えてから瞼を下ろす。
 寒空の下、触れた唇は温かかった。

2007/10/20 脱稿