紡ぎし時は糸車の如く

 遠くの空で烏が啼いている。七つの子が山で待っているから、帰り道を急いでいるのだろうか。
 教室の窓から覗く空は夕暮れにまだ少し早いが、あと一時間もすれば西の空は鮮やかなオレンジ色に染まりだすだろう。季節の移ろいを如実に感じ取って、叶はすっかり片付いた机の中に肩を竦めて荷物が満載の鞄に手を伸ばした。
 下敷きになっていた日報が現れ、一緒に拾い上げる。片手でそれらをひとつに抱え、冷たい風を教室内に流し込んでいる窓を閉めようと彼は椅子を引いて立ち上がった。
 振り向けば白いカーテンが揺れている。窓が開いている箇所は明白で、ただそれだけの事なのに表情を緩ませた叶は椅子の位置を戻し、机と机の間にある細い通路に身を躍らせた。しかし風に膨らんだカーテンが勢いを失って凹んでいくに従って、後ろに隠れていた人物の姿を視界に収めた彼は、僅かに驚いたように目を見開き、言葉を失って薄く開けた唇を閉じるのを忘れた。
 どうにも他人を常に睨みつけていると見られる猫目を思い切り広げ、叶は出しかけた足を慎重に下ろして動きを止める。また膨らんだカーテンに遮られて白くなった視界にあっても、絶対に見間違えないと自信を持って言い切れる相手に息を呑んだ。
「み、……廉?」
 どうして彼が教室に残っているのか。もうとっくに授業は終わっている、叶が居残っていたのは彼が日直だからで、日誌に連絡事項を記入するという作業があったからだ。
 待っていてくれと頼んだ覚えは無い、そもそも今日は一度も会話を交わしていなかった。
 目が合ったのは何度かあったが、それはクラスメイトとして同じ教室に居れば誰にでも起こり得ることだ。今現在、ふたりの関係は非常に微妙なものと化している。周囲が三橋を指して贔屓されていると言い張るようになったのは、果たしていつの事だったろう。
 机に突っ伏し、無防備に目を閉じて寝息を立てている。両腕を枕にして、一定間隔で上下運動を繰り返す背中にオレンジ色の陽射しが伸びていた。
 いつから眠っているのだろう、ひょっとして授業中からか。
 理事長の孫という立場から野球部内でまず周囲から浮き、余波でクラスメイトからも敬遠されてしまっている彼には友人らしい友人も居なくて、指を折ればきっと叶の名前の次が出てこないに違いない。その叶が今の今まで気づかなかったのだから、他の生徒が誰も彼を起こさないのもある意味、仕方ないのかもしれなかった。
 誰も、この世に生まれてくる環境は選べないのに。
 浅く唇を噛み締め、叶は拳を握ると自分にまで被さろうとするカーテンを払いのけた。大股で歩みを再開させ、右手に日誌を持ち替える。縦に構え、顔の前から九十度に折り曲げた肘を振り下ろした。
 ごっ! といい音が響く。
「ぴぎゃ!」
 瞬間ガタガタと五月蝿く椅子を鳴らして飛び上がった三橋が、教科書やノートが広げられたままの机に両手を突き立てて目を白黒させた。高速で瞬きを繰り返し、瞼が閉じては開くその音さえ聞こえてきそうな様に叶の方が吃驚させられる。
 薄っぺらな日誌を手にしたまま唖然と見詰める彼にたっぷり十数秒後気づいて、三橋は菱形に口を広げたままビクッと後ろに下がった。膝が椅子にぶつかり、また音がする。
「しゅっ……か、かのう君?」
「お前さー」
 言いかけたのを途中で言い直し、三橋があきれかえる叶を見つめ返す。状況が理解出来ていないのだろう、叶の背後に広がる無人の教室にも目を向けてやっと、彼は既に放課後に突入しているのだと悟った。
 わたわたと両手を意味もなく振り回し、赤みを増した光を横っ面に浴びて口を開閉させる。慌しく身体は動き回るのに頭の回転は追いつかないのか、やがて泳ぎ回っていた視線は手元に落ちて叶から離れていった。
 会話に行き詰まり、お互いに何も言わぬまま向かい合うだけの時間が過ぎる。同じく視線を下へずらした叶は、開かれたまま放置されている三橋のノートが珍しくびっしりと数式に埋まっている事に気がついた。
 三年生になって夏も過ぎ、秋ももうじき終わる。部活動を引退した自分たちは、外部の高校を受験しない限り、エスカレーター式の私立中学に在籍しているという特権のもとで受験勉強から解放される。無論全く勉強をしなくて良いわけではないが、少なくとも三橋は、赤点ばかりであっても退学処分にさせられる事はないだろうに。
 よく見れば三橋の顔には疲れが覗き、目の下に薄くだが隈も見える。怪訝に顔を顰めた叶に距離を詰めて見詰められ、三橋は大慌てで教科書類を閉じるとまとめて鞄へ詰め込み始めた。
 逃げられる。咄嗟に感じ取った叶は、騒音を撒き散らしながら必死に荷物を片付けて机の前から去ろうとする彼へ腕を伸ばし、大きく揺れる鞄を持つ手を後ろから封じ込めた。
「ひゃうっ」
「待てよ、廉」
 あからさま過ぎる彼の動揺ぶりに、ひとつの懸念が沸き起こる。そんな事、彼の祖父が許すとは到底思えない。けれど叶は、三橋の頑固すぎるまでの一途な一徹さを充分過ぎるくらいに知っている。
 絶対に無い、なんて、言いきれない。
「しゅうちゃ……かのう、くんっ」
「苗字で呼ばなくたっていいだろ」
 振り返る三橋の顔が今にも泣き出しそうになっていて、叶はつい乱暴に言い放ち、力を入れすぎていた指先を緩めた。叶の握力は平均より高い、案の定細い三橋の手首は痛々しいくらいに叶の指の形に赤く染まっていた。
「けど」
「誰もいないんだから」
 離れていく叶の手を見送って顔を上げた三橋の、躊躇する声を無理矢理遮って言葉を重ねる。言い訳がましく聞こえてしまうのが自分でも嫌で、彼は膨れっ面を作ると開いたスペースに身を捻じ込んで窓を閉めた。
 ふたりの間に流れていた空気が途端に停滞し、音もなく足元へ沈んでいく。居心地悪そうに踵で脛を掻いた叶の、ものを言いたげな視線から三橋はずっと逃げたままだ。
 こんな風にぎこちなくなってしまったのは、いつからだろう。気がつけば三橋は叶を君付けの苗字で呼び、最初は抵抗していた叶も次第に周囲の空気に押されて彼を敬遠するようになった。
 ひとりぼっちでぼんやり空を眺めながら時間を過ごしている彼の背中を見るのが正直辛くて、叶は自分から彼に背を向けた。
 けれど心のどこかで、三橋だけは絶対に自分に目を逸らさないと思い込んではいなかったか。
「……鍵、閉めちゃうから。帰ろう」
 もっと他に言いたい事はあったのに、聞いてはいけないものとして心に枷をつける。聞いて、もし推測が当たっていたらどうする。否定されなかったら、どうすればいい。
 行くなと叫ぶのは簡単だ、しかし彼がひとりで考え、悩みぬいた末に決めた事を自分が止めて良いのか。
 震える唇で告げると、三橋はワンテンポ遅れて頷く。
「日誌、職員室に出してくるな」
 先ほど良い音を響かせたノートを肩の前で揺らし、叶が言えば三橋はもうひとつ頷く。教室の鍵は閉めてしまうので廊下までは一緒に出て、階段に向かう道程をふたり縦に並んで歩いた。
 肩がぶつかり合うことはない、視線が絡むことさえも。
 長く伸びた叶の影を、三橋が追いかける。ふたり分の足音が、低く、小さく、微かに、重なりもせず。
「……っ」
 堪え切れなくなって叶は唇を噛んだ。日誌の表面を窪ませて、思い切り音を立てて右足を振り下ろした。
 背後に居た三橋がビクッと震え、苛立ちを隠さない叶にあたふたと首を振り回す。
「廉!」
「はいぃ!」
「手!」
「ふへ?」
 小学生の頃、遊びに来た廉とよく手を繋いで一緒に帰った。
 中学生になったばかりの頃も、この辺りの地理に詳しくない三橋がはぐれないように、手を繋いで帰った。
 考えが甘いのは重々承知だ、絶対なんて絶対にありえない。それでも、あの頃の自分たちは、お互いにお互いが絶対だった。
「かのうく……」
「修、って呼べよ」
 言い切って、間誤付いている三橋の手を強引に掴み取る。指を絡ませて痛くない程度に強く握り、叶は再び前に向き直って歩き出した。
 引っ張られる形で、三橋が遅れてついてくる。
 繋がった影が、廊下を渡っていく。
「修ちゃん」
「んだよ」
「ふへ、へへ」
 呼ばれて振り向けば、甘ったるい顔をして三橋が笑っている。ただ呼んだだけだと言われて、面食らってから叶も静かに笑った。
 今が絶対なんてことはありえない、今がこのまま続くなんて事も。
 でも、それでも、今だけは。
「ゆっくり帰ろう」

 今だけは。

 
2007/10/20 脱稿