to the Echo

 微かに、僅かに。
 本当に、幽かに。
「ん……」
 夜も遅い時間、未だ太陽は地平の下で眠りに就いている。周囲は深い闇に覆われ、静寂の支配者たる月が窓のカーテン越しに薄い光を投げかける以外、頼るものも無い。
 ライは不意に揺らいだ世界から首を擡げ、沈黙に揺蕩う意識をゆるりと持ち上げた。しかしまどろみに足を取られたままの為に完全には浮上しきれず、未だ夢うつつの境界線に漂い、朧な輪郭に緩く瞬きを繰り返した。
 もぞ、と横たえていた身体を軽く動かして感覚を呼び覚ます。体の下敷きにしていた為に痺れてしまっている左腕以外はどうにかなりそうで、右手をゆっくり丸めては広げ、肘を引いた彼は、自分に覆いかぶさっている毛布の端を探して空中に爪先を向けた。
 露になった肩が冷気に触れ、肌寒さが先に立つ。手繰り寄せた毛布を首まで引っ張り上げ、膝を丸めようとした彼だったが、その膝頭が壁とは違うものにぶつかり、行き場を塞がれて踵がシーツの海を泳いだ。
「どうか、したか」
 起こしてしまったようだ。向かい側から低い声がして、ライは眉を寄せて渋い表情を作る。覚醒の進んだ頭は寝起きだというのに妙に冴えていて、眠りが浅かったのかとぼんやり思った。
 一方の声の主はまだ幾分眠そうで、今し方目を覚ましたばかりだと推察された。太く、けれどしなやかにバネのある腕が下から伸びてきて、暗がりの中でライの存在を確かめようと触れてくる。
「ごめん、起こした」
 喉を撫でようとする指から首を振って逃げ、柔らかな髪を彼の二の腕に押し当てたライが小さな声で呟く。行き場を失った手はそのままライの頭部へと流れ、宥めるようにぽんぽん、と二度優しく叩かれた。
 後ろに回った指が、ライを引き寄せる。
「構わんよ」
 さっきよりは多少はっきりとした口調で彼が囁き、ライを己の胸に抱き込んで肩からまたずり落ちていた毛布を引きあげた。密着した分、彼の体温が直に伝わってくる。寒さは弱まり、むしろ恥かしくて顔が火照るくらいだ。
 居心地は良いけれど照れ臭さも一緒に強まり、ライは額を伏して表情を隠す。
「眠れぬか」
「いや……」
 子供をあやすみたいに背中を毛布の上から撫でられ、ライは視界をシーツで塞いだまま首を横に振った。
 微細な動きにしかならなかったが、伝わったようだ。彼は声もなく苦笑すると、腕を引っ込めて毛布の下にもぐりこませる。
 恐々と視線を持ち上げると、暗闇の中でもはっきりと分かる、燃えるような髪色が目の前で逆向いていた。
「寒いか?」
「ううん」
 重ねて問うて来る声にまたもや首を振り、ライは言い表すのも難しい今の自分の状況に困惑した。
 目が覚めた理由はなんだっただろう、なにかきっかけがあったはずなのにそれが思い出せない。軽く曲げた指の背を唇に押し当てて考え込んだライに、目の前の男は髪と同じ色をした瞳を細めた。
 時計が見えないので現在時刻を確認する術もないが、体感的には真夜中を幾許か過ぎた辺りだろう。日の出までは遠く、朝の到来を告げる鳥の声も聞こえない。虫さえも寝静まり、息を潜めるのは夜行性の獣ばかりか。
 なれどここは屋内、獣の力程度で破壊できる軟弱な建物でもない。命を狙う輩はとうに過ぎ去り、今は平穏無事で、少々退屈な日々の繰り返しだ。
 接近する何かの気配を感じ取ったのではないと推測するが、念の為周囲への警戒は保ち続ける。身にまとう空気を尖らせた彼に気付いたライは、即座に表情を緩めて大丈夫、と囁いた。
「ちがう。そんなんじゃなくて」
 若干舌足らずに言葉を紡ぐが、そこから先を続けられない。巧く説明できないもどかしさからライは爪を噛み、上から降りてきた彼の手に止められた。
「荒れるぞ」
「もとから」
 どうせ水仕事ばかりで、ライの指先は最初からガサガサだ。放っておけば粉が噴き、皹から皮膚が裂けて血が出るのもしょっちゅう。
 最近は彼が調合してくれる塗り薬のお陰で、多少マシにはなっているものの、それでも完全ではない。ただ、雪のように白く陶器のような傷のない綺麗な手というものは、仕事をしていない証拠みたいな気になるので、ガサガサの自分の手をライは嫌いではなかった。
 頑張った自分の勲章みたいに思わなければ、ひとりで生きてなど来られなかった。
「今以上に荒れるのは、我が許さぬ」
 ライの気持ちは一応酌んでくれている彼だけれど、自分から荒れると分かっていることを不必要に行うのは駄目だという。
 それを我侭だと笑えば、それはお主の方だ、と言い返された。
 反論できなくてライは小さく舌を出し、首を窄めて落ちてきた彼の拳を寸前で避ける。
 もっとも、彼の手は最初からライを叩くつもりではなかったようだ。広げられた指がライの鼻を撫で、人差し指の腹が生意気なことばかり言う唇を縦に塞いだ。いっそ噛んでやろうかと思ったが、子供じみた反抗は馬鹿にされるだけだと思い直す。
 指を押し当てられたまま、瞳だけ上向けて闇の中に彼を見る。この暗さの中でもはっきりと分かる瞳の輝きは、或いは彼が、人ならざる存在であり、むしろ神に近い立場にあるからだろうか。
「どうした?」
「音、したんだ」
 一旦は持ち上げた瞳を再び伏し、力なく頭をベッドに沈めたライから手を外した彼が問う。
 ぽつり返された言葉の意味を咄嗟に理解出来ず、彼が顔を顰めたのは気配だけで分かった。しかしライ自身も、自分で何を言っているのかよく分からなかった。
 聞こえた気がするのだ、音が。
 水の跳ねるような、そんな。
 ごく、幽かに。
「音、か」
 それで目が覚めたのだと言葉足らずの説明を連ねたライに、彼は緩慢に頷いて同じ単語を繰り返した。
 しかしこの場に、水は存在していない。炊事場へは廊下を経なければならないし、飲料水を部屋に持ち込んでもいない。月明かりの中で雨が降っているとも思えず、ライが聞いたような水の跳ねる音が響く環境は、元はライひとりの、一時期はライとコーラルとの、そして今はふたりの寝室には備わっていなかった。
 可能性として最も高いのは、ただの聞き間違い。水と戯れる夢でも見ていたのだろうと一蹴されるとばかりライは思っていたのに、意外なことに目の前の男は、僅かに肩を持ち上げて頭の位置を調整した後、そうか、とライの言い分を認める発言をした。
「……信じるのか?」
 これにはライも驚く。そして彼は、ライが驚いたことに些か不満げに唇を歪めた。
「信じるもなにも、聞いたのは店主であろう」
「そりゃまあ、そうだけど」
 彼が聞いていない音を、ライだけが聞いた――深い眠りから呼び覚ますほどに強く響く水音を。
 だが、それ自体が夢だったのかもしれない。実在しない音を聞いたと主張する方が馬鹿げているし、ライがもし彼の立場なら、空耳だったとして片付ける。
 そう考える方が、楽だから。
 だのに彼は、疑いもせずに信じるというのか。
 余程信用されているのか、それとも何も考えていないただの馬鹿か。どっちも当てはまりそうで、ライは渋い表情のまま彼の上腕に頭を押し付けた。
「店主?」
「うっさい」
 興醒めたから、寝る。もぞもぞと一枚しかない毛布に深く沈みこんで、ライは目を閉じた。
 吐き捨てられたつっけんどんな言葉に、彼は苦笑して紅色の瞳を細める。おやすみ、と掠れた声で囁いて、ライが寒くないようにと少し多めに毛布を譲ってやった。
 背中にも腕を回し、小柄な身体をそっと包み込む。抱き締め返すのは癪な気がして、ライは身動ぎして楽な姿勢を探し出すと彼の太い腕を枕に据えた。
 押し当てた耳から、彼の血流を感じる。目を閉じると余計に身体に響いて、トク、トク、という彼の命の鳴動にライは息を呑んだ。
 目の前からは整った寝息が、あっという間に聞こえ始めた。早いぞ、と心の中で悪態をつきつつ、熟睡していたところを起こしてしまったのは矢張り申し訳なかったな、と侘びることばも同時に思う。
 ライは寝入ってしまった彼の胸元をそっと撫で、肌越しに体温を受け止めながら彼の呼吸を数えた。
 血流、心拍。
 命の音。
 ああ、そうか。分かった気がして、ライは肩の力を抜いた。
「水の、音」
 ぽつり呟き、表情を綻ばせる。
 昔は、いつもひとりきりだった。朝も、昼も、夜も、基本的にずっと、ひとり。
 誰かの心音を聞きながら眠るなんて、無かった。
 跳ねたのは、きっと自分の心臓。
「……ちぇ」
 なんだかんだで、喧嘩も多い。育った環境、培ってきた教養、経験則、信念や理念から意見が正面衝突し合って爆発する機会も、ふたりきりになってからかなり増えた。
 でもそれは、お互いが違う存在なのだから当たり前に起こり得ることだ。その上で相手の事を分かろうとして、別々の場所に居たふたりがひとつになって行く為に必要な事。
 ライがひとりきりだった頃には、絶対に起こりえなかったこと。
 起こし得なかった事。
 おやすみと言うのも、おはようと笑うのも、ひとりの頃は出来なかった。誰かの腕に抱かれて眠るなど、もう二度と無いと思っていた。
 明日の朝は、こいつの好きなものにしてやろう。夕飯も、少しだけ豪勢なものにしよう。特別な日でもなんでもないけれど、ちょっとだけ、いい日になるように。
 瞼を閉ざして闇を呼び込んだライの脳裏に、またひとつ、静かな水音が跳ねて消えた。

2007/12/31 脱稿