聖誕祭

 しんしんと降り注ぐ雪が、遠くエトナ山を真っ白に染め上げている。
 ただ、日もとうに暮れて獣も寝静まるような時間帯であるのと、灰色の雲が重く空を覆い隠している為、昼ならば辛うじて見えた山頂も、今は余程目を凝らさなければ視界に収めるのは難しい。
 彼は夜のしじまにそっと吐息を零し、冷え切った窓辺から眺め下ろす鈍色の風景に目眇めて首を振った。
 向き直った先の室内は照明も最低限にまで絞られ、己の足元を辛うじて照らす程度に落とさされている。その中で唯一、作業場となる重厚な作りの机に置かれたノートパソコンだけが、異様なまでに煌々と明りを灯していた。
「まあ、仕方が無いね」
 ひとりごちた彼は手にしていたカーテンを解放し、落ちるに任せて踵を返す。外から差し込んでいた光は直ぐに途絶え、床に伸びていた薄い影も消え去る。足音を微かに響かせた彼は、自分で呟いた言葉に些かショックを受けた風情で口元を右手で覆い隠すと、浮かせた視線を細めて正面向いていた椅子を斜めにずらした。
 腰を落ち着かせ、背凭れを軋ませて机に向き直る。スクリーンセーバーも稼動していないパソコンは、中断させていた作業画面そのままに彼を待ち構えていた。
 黒い肘置きに右肘を立て、丸めた手の甲に頬を押し当てて彼は退屈そうにその画面に見入る。取り立てて急ぐものでもないが、他にすることもないので中途半端に手をつけていた真っ最中なのだ。だからあまりやる気も起きなくて、どうしたものかと彼は欠伸を噛み殺した。
 あまりに退屈すぎて、このままでは椅子に座ったまま眠ってしまいそうだ。左手で目尻を擦った彼は無造作に脚を組み、頬杖を解いて胸元に両手を絡ませた。人差し指だけを伸ばして先を小突き合わせ、思案気味に闇に染まる天井を見上げてごく短時間だけ目を閉じる。そして数秒後、背筋を伸ばした彼は、預けていた体重を椅子から取り戻して机の上に手を伸ばした。
 ノートパソコンの左側、少しだけ離れた場所を手繰る。程なくして中指が冷たく硬い感触に行き当たり、彼は触覚だけを頼りにそれを手前へと引き寄せた。
 ソーサーに載った、乳白色の陶器製カップだ。図柄は無く、表面が僅かに波立って流線型を描き出している非常にシンプルな形状のそれを右に回し、持ち手を自分の側に向けて指を引っかけ、掲げる。
 だがカップ自体の重みしか感じ取れず、彼は綺麗に整った眉を寄せて口元を不機嫌に歪めた。
「……やれやれ」
 思わず独白が漏れたのは、中身が見事に空だったからだ。そういえば飲み干してしまったのだと、数分前の自分の行動を思い返し、肩を竦める。
 こんなことは珍しいと自分に苦笑し、彼は人差し指一本で支えるカップを揺らした。
 矢張り少しは精神的にこたえているらしい。会えない日など、今や三百六十五日中で半分を越えるというのに。
「仕方が無いとはいえ、ね」
 無理を押してでも会いに行けばよかったか。しかしふたりで納得しあって結んだ協定の意味が、それでは何の意味も持たなくなってしまう。
 ボンゴレであってボンゴレでない組織を立ち上げたのは、ひとつの組織の中で仲良しごっこをするつもりがなかったのと、外からでなければ見えないものを見るためだ。
 結果的に会う時間は減った、声ひとつを聞くだけでも難しくなった。しかし自分が独自に動くことで、彼らが手を拱いて見ているしかなかった現実を覆す力を得たのは、大きな幸いだろう。
 誰であろうとも、あの子を害しようとする存在は認めない。許さない。
 故に選んだ道だ、後悔はしていない。
『ヒバリさんがそう決めたのなら、俺は反対しません。……出来ません』
 決意を告げた日、淋しげに瞳を揺らしていたあの子の表情は今でも脳裏に焼きついている。いつでも、何処であっても一緒に居られた子供の時間の終わりが、あの日だった。
「もう休んだ頃かな」
 一人でいると、どうしても独り言が増える。カップを指に引っ掛けたまま彼は椅子を引いて再び立ち上がり、踵を鳴らした。
 パソコンはそのままに、窓とは反対側の暗さが一層増した空間へ爪先を向ける。薄ら見える輪郭と己の記憶だけを頼りに歩を進め、やがて部屋の角に行き当たった彼は、その手前に設けられたごく小規模のキッチンスペースに持ってきたカップを置いた。
 壁に指を這わせ、スイッチを探す。押せば真上にある円形の小さなランプに火が灯り、にわかに周辺が明るくなった。その暗から明への急激な変化を、瞼を寸前で閉ざす事で直撃を回避した彼は、何度か瞬きをして瞳を慣れさせてから僅かに水を残しているケトルを持ち上げ、シンクの中心部目掛けて傾けた。
 すっかり冷め切っている一度は湯だったものを捨て、冷蔵庫からペットボトルを取り出す。蓋を外して市販されている飲料水を必要な量だけケトル内部へ注ぎ込んだ彼は、手際よく片付けも済ませて薬缶を電子コンロの上に載せた。
 スイッチを入れて、今度は傍らの棚からコーヒー豆を取り出す。
 本当は手間ひまかけてもっとちゃんとしたものが飲みたいのだが、こんな夜更けからそんな贅沢も言っていられない。既に挽かれた豆をペーパーに必要量だけ広げた彼は、それを空っぽのカップを覆う形で被せると、湯が沸くまでの時間を持て余し、短く切り揃えた前髪を指で梳きあげた。
 溜息が同時に漏れて、苦笑を禁じえず、彼はまだ静かなケトルから視線を外して近場の壁を見た。
 吊るされたカレンダー、十二枚綴りも残すところあと一枚になってしまった。年の瀬も迫っているので新しいものを用意しなければならないのは分かっているのだが、面倒くさくてまだ手をつけていない。こんな場所に必要ないだろうとも思うのだが、昨年末に訪れたあの子がひとつくらいは絶対に必要だ、と言い張って新年を迎える直前に無理矢理送りつけてきたものなので、今こうして飾っている。
 だから来年の分は期待できそうに無いのだと自嘲気味に笑って、彼は徐々に騒がしくなりだしたケトルに視線を戻した。
 今日という日につけられた、大きな二重丸は見なかったことにする。花丸印にしようとしているところを慌てて止めたので、一箇所だけ外側に半円が付随しているのはご愛嬌としか言いようが無い。
 そんな、折角あの子がわざわざつけてくれた印も、ついに意味を成さなかった。
 本邸で盛大に催されているクリスマスパーティーを、次期ボスが二年連続で欠席するのは流石に許されなかった。数日前に申し訳無さそうに電話で詫びてくる彼の、哀しげで辛そうな声は、目を閉じれば即座に脳裏で再生できる。
 分かっていたことだ、最初から。だから構わないと、顔が見えないのを良い事にお綺麗な言葉で飾り立ててみたものの、勘の鋭いあの子の事、気付かれなかったとはとても思えない。
 パーティーへの招待状は、届いてはいた。しかし行く気などさらさら無くて、一読しただけで千切って捨てたのは果たしていつだっただろう。
 本格的にカタカタと音を響かせ始めたケトルに肩を竦め、スイッチを切って沈黙するのを待ってから持ち上げて、用意してから随分経つカップにゆっくりと注いでいく。インスタントとは言えそれなりに拘っているので、程なくして良い香りが鼻腔を擽り始めた。
 ホッと息を吐き、寒さから来るのとは若干違う身の強張りを解く。湿り気を帯びて色を濃くしたコーヒー豆に目を閉じてしばし香りのみを楽しむと、不要となったフィルターごと粉を捨ててカップを手に取った彼は、先ほど辿ったばかりの道程をゆっくりと戻り始めた。
 だが途中、窓から射す薄明かりに照らし出されたシェルフの上部に目が留まり、自然と歩みも鈍ってやがて停まった。
 窓に対する角度の所為だろう、半分だけが切り取られたように光を反射し、残り半分は暗がりの中で沈黙している。薄いガラス板に支えられた写真立ての中で、懐かしい笑顔が満開の花を咲かせて彼を見上げていた。
「……元気にはしているだろう」
 なにせあの子の周囲には、過保護を通り越して過剰保護、と言いたくなるような連中が顔を揃えている。イタリア人とのハーフである男然り、野球からいきなり剣の道に矛先を変えた運動馬鹿然り。
 それ以外でも数えだしたらきりがない。もうちょっと自分を信頼して任せて欲しいのに、といつだったかあの子が愚痴を言っていたのが思い出され、彼は力の無い笑みを口元に浮かべて手の中のカップを揺らした。
 暖かな湯気が立ち上り、睫毛を擽られる。
 クリスマスは駄目だったが、年越しくらいは顔を合わせられるだろう。そう僅かに期待を込め、写真立てから顔を背けて彼は中断させたままの作業に戻ろうと机に向かった。
 部屋の中央を向いている机の右側を回り込み、モニターの明りのお陰で探さなくても済む位置にあったソーサーへカップを置く。湯気の揺らぎが大きくなって、彼の顔の前で掠れて消えた。
 両手が自由になった彼は、その手で椅子を後ろに大きく引いてクッションも柔らかなそれに腰を落とし、床に押し当てた足の裏に力を込めてコマを前に進めた。腹部と机との隙間が狭くなり、パソコンを触るのに丁度良い空間を作り出す。そして置いたばかりのカップを持ち上げ、滑らかな表面を指で撫でながら熱い液体に息を吹きかけた。
「……?」
 そして肉の薄い唇にカップを押し当て、苦味の強いコーヒーをひとくち分啜った彼は、覚えの無いアイコンがモニター右下のタスクバーに増えている事に気付いて顔を顰めた。
 席を離れる前には無かったと記憶している。それは間違いないと自分自身に頷いた彼は、もうひとくち分を咥内に流し込み、カップを置いた。
 カチャン、と軽い音が一瞬だけ室内に漂い、直ぐに消え去る。前髪を掻き上げる仕草を取ってそれが必要ないくらいに短くなっている事実を思い出し、昔からの癖が無意識に出てしまった自分に嘆息しながら、彼は押し応えが殆どないキーを数個同時に押して目的の画面を最前面に呼び出した。
「メール?」
 新着メールがあると告げる画面に、彼が益々訝しげに表情を歪める。
 このパソコンに登録されているのは、ごく一部の人間しか知らないプライベートアドレスだ。しかも送られてくる文面には自動的に二重、三重のチェックがかかるよう設定されており、間違ってもスパムが届くことはありえない。
 お陰で使用頻度は極端に低く、一日中ソフトを立ち上げていても、新着メールの通知機能が一度も作動しない日はしょっちゅうだった。
 反面仕事向けのアドレスには、日本からの報告も含めてひっきりなしに各方面から定期連絡のメールが届いており、そちらはクリックして内容をチェックするのさえ億劫に感じるほど。
 こんな時間にこちらのアドレスにメールを送ってくる人間なんて、ひとりしか思い浮かばない。けれど何故電話ではないのか、彼は首を傾げてコーヒーを啜り、モニター前で考えた。
 だが幾ら考えたところで、あの子本人でないのだから分かるはずがない。彼は頭の中を一周してスタート地点へ戻って来た思考に左腕で頬杖を作り、右手を持ち上げてメールの受信ボタンを押した。
 読み込みは即座に終わり、案の定、想像通りの名前が受信欄に表示される。但し件名は無い、これは珍しいことだった。
「?」
 いつもならそこには、短くとも用件が何であるのか、端的に示した文章が入力されていた。だが今日のメールはタイトル部分が空っぽで、そこを見ただけでは送り間違いか悪戯かと疑ってしまいそうだ。
「なにかあったのか」
 それとも、と頬杖を崩さぬまま顎を撫でた彼は、椅子の座りを浅くして身を乗り出した。キーボードの上を泳いでいる右手を落とし、人差し指でエンターキーを弾く。
 即座に展開された新規画面に、上半身を傾がせた彼は形の良い眉の間に深い皺を生み出した。
 そこには、たったひとこと。

『いまからいきます』

 平仮名だらけ、句点さえ無い。
 文面を読み取った彼は驚きに表情を染め上げ、生まれつき細い目を限界いっぱいまで見開かせた。
「あの子……」
 つい漏れた声に心を震わせ、口元を手で覆い隠す。この場に誰も居なかったのが幸いした、彼の動揺具合は、一瞬であったけれど、彼を古くから知る面々であってもきっと驚いたに違いないものだった。
 それくらい予想外の内容だったのだ、不意打ちもいいところで、にわかに心拍数を上昇させた心臓の現金さに彼は苦笑し、鼻筋に添えていた人差し指を真下へずり下ろした。
 長い時間をかけて肺の中に残っていた二酸化炭素を吐き出し、新しく酸素を体内に呼び込む。同時に全身の強張りを解いて力を抜き、背中を背凭れに深く預けて彼は、暗がりの中、同じ闇の色をした瞳を翳らせた。
 口元に浮かんだのは、期待してしまった自分自身への嘲笑だった。
「馬鹿なことを」
 それは自分に対してか、それともこんな夜分遅くにメールを送ってきた相手への言葉か。
 コーヒーカップからもうひとくち、冷めつつある黒色の液体を飲んで彼は素早くキーボードに利き腕を走らせる。開いたばかりのメールを閉じて画面から消し去り、苦い味が残る咥内を洗った唾も飲み込んで、窓越しに微かに聞こえる風の声に耳を傾けた。
 物悲しく、哀しい歌声だ。折角の聖誕祭であるに関わらず、賑やかな街の光さえ遠い。
 首を右に傾け、仄暗い中に浮かび上がる柱時計に目をやる。文字盤を飾る金色の針は、間もなく午前零時を告げようとしていた。
 メールにあったデジタルの数字と、そう時間は乖離していない。電脳世界ならば一瞬で到達出来るというのに、現実は残酷だ。どれだけ車を急がせたところで、あの子が在する城と、彼が今座している場所とは、ハイウェイが一切渋滞していないという前提であっても、余裕で三時間は必要な距離がある。
 どう足掻いたところで時間は待ってくれない。今日中に――クリスマスに会う夢は叶わない。
「本当、馬鹿な子」
 けれどそういう単純かつ純粋で、自分の想いに真摯かつ一直線なところに、惹かれたのだろうけれど。
 興味本位で触れて、火傷をしたのはこちらだ。いつの間にか物事の中心にはあの子が居る。気付かぬうちに胸の奥深くにまで潜り込まれてしまった、最早切り抜いて取り出すことさえ不可能。
 そんな事をしたら、自分が先に壊れてしまう。
 彼は目まぐるしかったこの数年間の出来事を思い返し、気付けば隣にいるのが当たり前になっていた存在を脳裏に呼び起こした。
 こちらの姿を見つけた途端、嬉しそうに笑って、転びそうになりながらも駆けてきた小さな体躯。太陽の光を浴びて透ける薄茶色の髪に、強い意志を秘めた琥珀色の大きな瞳、丸くふっくらした頬。手を伸ばせばいつだって届いた過去が、懐かしくもあり、切なくもある。
「本当に」
 馬鹿なのは自分か。
 我を張らず、会いに行けばよかったのだ。
 カップに手を伸ばしかけた彼は、しかし指先がソーサーの縁に触れたところで思い直し、ノートパソコンの左手奥へと進路を変えた。モニターが放つ光は前方にしか広がらず、背面は闇に落ちている。その中を手探りで、確かこの辺りに置いたはずだと彼は数時間前の記憶を辿った。
 そしてさほど苦労することもなく、彼の薬指は探していたものに行き当たった。爪先が触れた角を上から押し、斜めに傾けて転がす。掌に載るほどの大きさしかない立方体は、表面を綺麗に覆っている包装紙に皺を寄せながら呆気なくコーヒーカップの手前まで引き寄せられた。
 奇跡を神に祈るなどという真似はしない、そんな愚かしいこと。
 けれどもし、叶うのなら。
「無駄になってしまったかな」
 液晶画面が放つ光を横から浴びて陰影も濃く視界に現れた箱を左手で小突き、右肘は机に置いて広げた掌に頬を預ける。
 あと数分でクリスマスは終わり、日常が舞い戻る。部下の浮かれ気分は今日一日限定で見逃したが、日付を跨げば許しはしない。自分も、調子を戻さなければ。
 白い包装紙に覆われた箱に目を細め、彼は顎を引いて背筋を伸ばすと、先ほど閉じたばかりのメール画面を呼び出して文面を広げた。
 どんなに急いだところで、間に合うわけがない。それでも自分の為に、少しはあの子が焦ってくれたのであれば嬉しいとさえ感じている。
 平仮名ばかりで実にたどたどしい文章を、触れられぬものと知りながらモニターに指を添わせてなぞった彼は、空いている手でコーヒーカップを探し、擦れ合って音を響かせたソーサーに下を向いた。
 指を引っ掛けてカップを持ち上げ、口元へ運ぶ。思っていた以上に冷めていたそれに、つい習慣で息を吹きかけてしまった自分を笑ってから、彼は唇を押し当てて残っていた液体を飲み干そうと傾けた。
 低く、微かに。
 カタカタと、机に置きっぱなしにしていたソーサーと天板が震えて音を立てた。
「……?」
 背中から急に圧迫感めいたものを感じ取り、彼は唇を濡らしたコーヒーをそのままに眉目を顰めやる。細い隙間を縫って咥内に侵入を果たした液体を喉へ送り出し、なんだろうか、と怪訝に瞳だけを上向けて机上に残していた右手を握り締めた。
 何処から――――
 素早く頭を切り換えて臨戦態勢に入った彼は、カップを握る左手はそのままに右腕へ意識を集中させる。
 どんな時でも所持している愛用の武器を即座に取り出せるように身構えつつ、注意深く耳殻の奥を刺激する音にならない波長に神経を傾けて、そして。

 ドゴォォォォォォォっ!!!!!!

 凄まじい爆発が彼の部屋の窓を突き破り、勢いそのままに反対側の壁に直撃した。
「――っ!」
 濛々と煙が立ちこめ、衝撃で部屋どころか屋敷全体が地鳴りを伴って激しく揺れる。爆風に煽られた黒髪が一斉に逆立ち、まさか背後から来るとは思っておらず、予想外の出来事に目を剥いた彼は、危うく口をつけている最中だったコーヒーを顔面に浴びるところだった。
 指を滑った陶器製のカップが床に落ちて砕け散り、暴風に薙ぎ払われた椅子が片足を浮かせて彼の姿勢を大きく崩す。咄嗟に手を伸ばして机上にあった白い包装紙の箱だけを掴み取った彼は、両足を踏ん張らせて椅子から転がるように降り、舞い散る無数の書類が即席の紙吹雪となる中、姿勢を低くしてトンファーを引き抜いた。
 舞い上がった埃が視界を著しく阻害している。尚且つ巨大な穴が空いた窓からは冬の冷気が一斉に流れ込み、下半分を引き千切られたカーテンが煽られて頼りなく揺れ動いていた。
 砕け散った強化ガラスが細かい破片となって床に散らばり、窓枠を構成していた材木がその上に転がっている。捲れ上がった絨毯には、飛び込んできたものが高速で擦れたからか、黒く焦げた跡が筋を成して壁へと一直線に伸びていた。
 部屋の中央にあったテーブルに、ソファまでもが木っ端微塵にされて無残な姿を晒し、ひとり掛けのソファだけが辛うじて、天地をひっくり返しながらもとの位置から随分と離れた場所に寝そべっていた。
「……」
 何が起こったのか、咄嗟に理解出来ない。黒髪を汚す埃を手で払いのけた彼は、右腕にトンファーを構えると注意深く立ち上がり、左に握っていた箱はシャツの胸ポケットに押し込んだ。
 風に嬲られ、前髪が大きく膨らんで視界を邪魔する。室内で過ごしていたので当然彼は上着を羽織っておらず、肌寒さは否めなかった。
 浅く息を吐き、舌なめずりして乾いた唇を潤す。注意深く壁際にめり込んでいる正体不明の物体を凝視した彼は、カラリと音を立てて崩れた壁材に眉を寄せた。
 動いている。
「う……」
 低い、掠れた呻き声。
「――!」
 瞬間、彼は最初に屋敷が破壊された時の数倍驚いた顔をして、もう少しで握り締めていたトンファーを床に落とすところだった。
 その声には覚えがある。いや、覚えがありすぎて空耳かと自分を疑ってしまったくらいだ。
「っつつ……たー、失敗したあ!」
 後頭部を右手で抑えながら、ガラガラと身に降りかかる石材木材ガラス片その他諸々を押し退けて起き上がる、華奢な体躯。今しがた弾丸となって外から飛び込んできたというのに、さしたるダメージを受けているようにも思えないのは、その身を包み込んで強化を施していた炎の加護に他ならない。
 けれど、流石に全ての衝撃は吸収仕切れなかったようで、身に着けた衣服はあちこち擦り切れてボロボロで、尚且つ所々に焦げ跡が見受けられた。
 付け加えて頭の上には白く降り積もるものが残っており、闇の中でもまだ薄い色合いの茶髪には霜まで降りている。
 積み重なり山となって壁を占領している瓦礫に下半身を埋め、毛糸の手袋を嵌めた手で首を振る姿を前に、彼は呆然と、真冬の夜風を浴びて立ち尽くした。
「――な」
「あっ」
「なにをしているんだ、君は!」
 そしてあるタイミングではたと我に返り、思い切り怒鳴りつけてしまったのは、横向いた視線と直線上で目が合って、途端嬉しそうに表情を綻ばされたからだ。
 ビクッと両肩を震わせて乗り出しかけていた身を後ろに引かれ、彼はガラにも無く声を荒立てた自分に苛立ちながら瓦礫の山に鎮座する存在に奥歯を噛む。
 気のせいか、頭が痛い。
「ひ、ばりさん……?」
「ともかく、……降りておいで」
 心細そうに名前を呼ばれ、雲雀は深いため息を吐いて頂上の綱吉を手招く。心底呆れ果てている様子は暗いながらも見えているだろうに、彼の言葉に綱吉は再びパッと表情を花開かせ、いそいそと瓦礫に埋まっていた下半身を引っ張りだした。
 積み重なっているものを崩し、踏み潰し、半ば転げ落ちるようにして床へと降りて来た綱吉が、両手を広げて雲雀へと飛びつこうとする。だが当の雲雀は一歩半分のステップで彼を避け、すれ違い様に埃まみれ以外の理由で真っ白になっている綱吉の頭を殴り飛ばした。
 トンファーを使わなかったのが、ぎりぎりの彼の優しさだ。
「ぷぎゃ」
 みっともない悲鳴をひとつあげ、床に撃沈した綱吉が二度目の痛みに頭を抱えて蹲る。手袋を嵌めたままの手を包む袖部分が極端に焦げており、彼がどうやって此処まで来たのかは一目瞭然だった。
 握り拳を震わせた雲雀に、足元で小さくなっている綱吉が涙目を向ける。何をするのか、と語らずとも瞳が彼の行動を咎めているが、それはこちらの台詞だと言いたい気持ちをぐっと堪え、雲雀は風に乱された前髪を後ろへと流した。
「つなよし」
「はい」
「なにをしているの?」
「はい?」
 恨みがましく人を睨んでいる綱吉の視線を横へ払い、ひとまずトンファーを片付けた雲雀が低い声で問う。だが意味が分からなかったようで、綱吉は大粒の瞳を丸くしながら首を傾がせた。
 今更に自分の格好が物凄いことになっていると知って、もう役立たずのコートをいそいそと脱ぎ捨てる。毛羽立った表面には雪がこびり付いており、繊維が焦げている箇所に指を置いた彼は、ボロボロに崩れていく袖にしまった、と渋い顔を作った。
「だから」
「メールはしましたよ」
「来ていたね」
 上目遣いにねめつけてくる綱吉に肩を竦め、凍ってしまっている毛先を解してやり、冷え切っている頬も撫でた雲雀が淡々と言い返す。
「だったら……」
「方法が、無茶苦茶だ」
「でも、でも! これが一番速かったんです」
 膨れっ面で文句ばかりを零すものの、触れられるのが嬉しいのか全面的に雲雀に甘えて寄りかかりつつ、綱吉は未だ両手を覆っている手袋を握り締めた。
 理屈はわからないでもない。ハイウェイを規定速度オーバーで駆け抜けても、三時間の距離だ。物理的なこの問題を解決するには、島の外郭を周回している道を使わずに、最短距離となる直線コースを、車に引けを取らない速度で駆け抜ける他手段が無い。
 そして綱吉には、己の身ひとつならばこの問題を打破できる力がある。
 だからといって、本当に実行するのは馬鹿だ。
「君って子は……」
「だって」
 他に表現が思いつかず、馬鹿な子だと呟けば、全面的に体重を寄りかからせてきた綱吉が雲雀の背中に腕を回してしがみつく。既に外気と同等の温度になっている室内では、薄着の雲雀も、コートを脱いでしまった綱吉もお互いに寒い。
 辛うじて無事だった壁際の時計が、あと数十秒後の午前零時の到達を告げるべく待ち構えていた。
「今日中に、どうしても会いたかったんです」
 雲雀の胸元に顔を押し当て、表情を隠した綱吉が呟く。
 窓際で崩壊を免れた窓が、カタカタと音を立てて揺れた。
 一際冷たい風が吹き込み、鳥肌を立てた綱吉が尚も強く雲雀にしがみつく。高速で高度もある空をひとり、地図もなくコンパスも持たずに飛び出して来たこの子の我武者羅な無鉄砲さに苦笑して、雲雀は仕方が無さそうに彼を抱き締め返した。
 すっぽりと覆い隠せてしまうくらいの、小柄な身体だ。成長期でもあまり伸びなかった身長を彼は気にしているが、あの頃より少しだけ大人びた表情が年月の経過を教えてくれる。
 それでも、いつまで経っても雲雀の中の綱吉は変わらない。
 空を駆って目的地に、望む時間内に辿り着けたものの、最後の詰めが甘くて減速が間に合わずに壁をぶち抜いてしまったところなど、特に。
「馬鹿な子」
「ほっといてください」
 重ねて言うと、今度こそ本気で拗ねたらしい綱吉がムッとした声を出す。身動ぎして腕の中から抜け出そうともがく彼への拘束を強め、雲雀は心の底から穏やかな表情で綱吉の頬に頬を寄せた。
 まだ間に合う、今日という日に。
 だから。
「メリー・クリスマス、綱吉」
 会いたかった気持ちは同じだと、言葉に想いを載せてそう囁く。
 耳朶を擽る吐息に目を丸くした綱吉は、直後、嬉しげに、そしてどこか照れくさそうに笑った。
「メリー・クリスマス、ヒバリさん」
 子供みたいにはしゃいだ声をあげ、雲雀の首にしがみつく。
 床に伸びた薄い影が重なり合い、時を告げる鐘の音が、静かに聖夜に幕を引いた。

2007/12/12 脱稿