銀の月、玲瓏の彼方

 日が暮れて、玄関先のライトが自動的にオレンジ色の光をポーチへと落とした。
「あー! ずっりー、それ俺が狙ってたのに!」
「残念。早いもの勝ちだぜ?」
 水谷の叫びに泉が冷たく言い返し、箸で摘んだ鳥のから揚げを口に放り込む。ひとくちで頬張ってしまった彼を前に、最後のひとつを奪われた水谷は涙目で肩を落とした。
 ふたりのやり取りを見ていた栄口が何も言わずに水谷の背中を撫でて慰め、テレビに夢中になっていた田島が腹を抱えて笑い転げる。ばたばたと足で床を蹴りつける彼の騒音に、部長である花井が止めに入ってまた騒ぎ声が部屋に広がる。
 そんな喧し過ぎるリビングの片隅で、ソファに隠れるようにして蹲っていた三橋は、手の中の携帯電話が沈黙したままなのを見てひっそりとため息を零した。
「三橋? どうした、気分でも悪い?」
「ひぃうあ!」
 小さくなりすぎていて姿が見えず、探していたらしい阿部に背中から声をかけられた彼は、途端に手の中のものを跳ね上げて前のめりに床に倒れこんだ。
 危うく落とすところだった白い携帯電話はどうにか両手で受け止めて、薄茶色の髪をふわふわと揺らした三橋は、尺取虫みたいに尻を上に突き出してから身を起こす。恐々振り向いた先に立つ阿部は、そんなに驚かせることをしただろうか、と自分の行動を振り返っているようだった。
「ち、ちが」
「三橋、ジュースもう無い?」
 変な誤解をさせてしまっただろうか。怯えつつ阿部に首を振ろうとした三橋だったが、それより早く阿部の背後から、巣山が丸い顔を覗かせた。
 彼の手には空っぽになった1.5リットル入りペットボトルが握られている。それを肩の横で揺らし、尚且つ背後を振り向いた彼の視線の先には、ぐちゃぐちゃになっている幅広のテーブルがあった。
 オードブルも大半が無くなり、ケーキに至ってはクリームさえ残っていない。積み重ねられた使用済みの皿の間に倒れた紙コップが散乱する状況に、座ったまま背伸びをした三橋は、阿部から巣山に視線を移して首を傾げた。
「れ、れいぞう、こ」
「覗かせてもらったけど、あれが最後だったみたいでさ」
 折り畳んだ携帯電話をズボンのポケットに押し込み、促されて立ち上がった三橋が前に出る。阿部に道を譲られてテーブルに近付いた彼が目にしたのは、見事に空っぽのペットボトルだった。蓋も外されたままで、ブロッコリーだけが残っている皿に首を突っ込む形で転がっている。
 そういえばあまり今日は食べていなかったな、と残り少ないオードブルにも視線を走らせ、三橋はぼんやりと遠くへ意識を傾けた。
 テーブルを挟んで向こう側では、田島を中心にしてテレビ鑑賞に突入しているメンバーの背中が並んでいる。花井は率先して片付けに動いてくれているが、彼ひとりでは追いつかないようで、肩を揉み解しながら台所から戻って来る姿が見て取れた。
「なに、どうした」
 首に角度を持たせてそんな彼を眺めていると、気付いた花井に聞き返されて三橋がどもる。助け舟を出したのは巣山で、彼は手にしていたボトルをテーブルに置いてから飲み物が無くなった旨を部長に報告した。
「もうかよ」
「うん。どうする?」
 終業式の日、その部活後。
 いつの間にか田島を中心にして計画が進められていた、西浦高校野球部忘年会、もといクリスマスパーティー。会場は色々と候補があったものの、結局経費がかからないという理由で三橋家に勝手に決定されていた。
 事後承諾を求められた三橋は、当日の自分の予定確認もなしに「いいよな?」とだけ言われてかなり狼狽したが、既に計画も最終段階に突入しており、ケーキも予約してしまったと言われては流石に断れない。その日は用事があるとはとても言い出せなくて、結局三橋は分かった、と頷いてしまった。
 メールで伝えると即座に電話がかかってきて、しどろもどろになりながらも時間をかけて事情を説明すると、「仕方が無いな」とだけ言われた。その声があまりにも寂しげだったので、我慢していた涙がそこで零れてまた彼を困らせてしまった。
『仲間は、大事にしろよ』
 それは過去からの教訓なのか、終話直前に言われた言葉に三橋は頷く。
「お、お……おれ」
「ん?」
「買ってくる!」
 頭を掻いていた花井は、傍でもぞもぞと身を揺らした三橋を見た瞬間、伸び上がって叫んだ彼に頭突きをくらうところだった。焦って後ろによろめいて、脛をテーブルの縁にぶつける。電流が走って膝が痺れ、悲鳴を飲み込んだ彼を他所に巣山が怪訝に三橋に聞いた。
「いいのか?」
「うん」
 場所を提供してくれているだけでも有り難いのに、買出しまで任せてしまうのは忍びない。言葉尻にそう含ませた巣山だったが、はっきりとした声で返事をされて、三橋にしては珍しいな、と思いつつもそれ以上は追求しない。
 後ろで聞いていた阿部が自分も一緒に、と言うものの、その申し出も首を振って拒否した三橋は、大丈夫だから、と実に頼りない笑顔を浮かべた。
「俺、コーラがいい!」
 テレビに熱中していた筈なのに、耳聡く聞いていた田島が掛け声一番右手も挙げて叫び、続けて振り返ったほかのメンバーも、思い思いに飲みたいものを口に出す。種類は五つを越えて、流石に覚えきれない三橋がメモを取りに走る間、多すぎると花井から説教を食らった面々は、反省したのかしないのか、喧々囂々の末に二種類にまで飲み物を絞り、戻って来た彼に伝えた。
 それでも律儀にメモを取った三橋は、紙を二つ折りにしてポケットに捻じ込む。重くなるが本当に大丈夫か、と最後まで心配する阿部に手を無視して花井から代金を預かった三橋は、コンビニエンスストアまでなら直ぐだからと、ひとりコートを羽織って外へ出た。
 そうしてオレンジ色の光が照らす玄関を抜けた先で吹き荒ぶ北風に震え上がり、マフラーもしてくればよかったと三橋は身を縮こませて白い息を吐いた。
 街灯がぽつぽつと明りを地上へ落とし、雲の多い空には薄ぼんやりとした月が浮かんでいる。星の瞬きは微かで、見上げながら歩き出した三橋は、足元の石に躓きかけて慌てて注意を前方へ引き戻した。
「さむ……」
 手袋もないので両手はコートのポケットの中だ、握り締めると指の背に預かってきた小銭が触れてじゃらじゃらと音を立てる。
 それでも一年前まで過ごしていた群馬よりはまだ幾分暖かいのだと、今朝の天気予報が告げていた気温を思い出して三橋は微かに口元を綻ばせた。雪が降った、積もった、という連絡は幼馴染からメールで教えてもらっている。また一緒に雪合戦したいな、とも言っていたので、正月に会うのが今から楽しみだ。
「えっと、コンビニ……こっち、近い」
 独り言を呟いて、住宅地の中にぽつりと設けられた公園に足を向ける。銀色の車止めの隙間をぎこちなく進み、時間帯の所為もあるのだろう、誰も居ない広場を三橋はゆっくりと突き進んだ。
 遊具はそう多くなく、砂場は柵に囲まれている。ブランコが風に押されて当て所なく揺れて、薄い影が三橋の足元にまで延びていた。
 昼間ならば冬の寒さにも負けず、子供たちが元気に駆け回っているこの場所も、日が暮れてしまうと物寂しくて薄暗い。不気味さが急に背筋を登ってきて、三橋は知らず立ち止まっていた自分に気付いて慌てて右足を前に出した。
 早く戻らないと、皆が飲み物に餓えて乾いてしまう。そんな短時間で人間がミイラになるわけがないと分かっていても気が急いて、三橋は乾いた砂が覆う地面を強く踏みしめた。
 その爪先の影が濃くなる。
 ザッ、と吹いた風に樹木が揺れた。
「――っ!」
「大人しくしろ」
 突然背後から伸びた腕に口元と腹部を拘束され、三橋は目を剥いて瞬時に身を硬くした。
 何が起きたのか咄嗟に理解出来ず、一秒後に瞬きを繰り返した彼は完全に竦んでしまった心臓が凍りつく感覚に打ち震え、背中に押し当てられた他者の体温に身を捩った。悲鳴をあげようにも口元は押さえ込まれているので叶わず、かなり上背がある相手なのか抱きすくめられてしまうと踵が浮いて、爪先が砂を削った。
 最近は物騒な事件も多く、咄嗟にニュースで報道していた凄惨な事件を思い出してしまって三橋は震え上がった。まさか自分がその被害者のひとりになるとは夢にも思わず、嫌だ、と彼は大粒の瞳を歪ませて即座に浮かんだ涙に視界を曇らせた。
 遅ればせながら抵抗らしい抵抗を開始して、両足をばたつかせて襲撃者の足を思い切り蹴りつける。その思わぬ反撃にたじろいだ犯人が口を覆っている片手から力を抜いた瞬間、大きく息を吸った三橋は、頑丈だと医者からもお墨付きを貰った白い歯でその指に噛み付いた。
「いっ――てえ!」
 次の瞬間には反対の手からもするりと力が抜けて、三橋の身体は支えを失い膝から崩れ落ちた。顎に噛み付いた感触がまだ残っている、舌先が掠った指は太くしなやかだった。
 そして、聞き覚えのある声に。
「ふえっ、え、うお、ぅあ」
「いってえ……ミハシ、テメー本気で噛んだだろ!」
 膝と両手を砂地に落とした三橋が、頭上から降ってきた怒鳴り声に首から上だけを振り向かせて涙目を見開いた。
 暗がりの中でも至近距離が故によく見える、知っている顔。電灯が遠いので見えづらさは否めないが、絶対に間違えるはずがないと自信を持って言えるその相手に、三橋は驚きを隠せずに身体を裏返してその場で尻餅をついた。
 だって、怖かったのだ。本当に。
「ごめ、ご、ご……」
 最初に声を聞いた時に三橋が気付けていたら、こんなことにはならなかった。狼狽しすぎてまともに声を発せられずにいる彼を見下ろし、榛名は顔を歪めたまま、今しがた噛み付かれた右の中指に息を吹きかけた。
 利き腕で無かっただけ、まだ救いがあると思うべきだろう。なにせ背後からいきなり羽交い絞めにしたわけであり、その点榛名自身にも反省せねばならない点は大きい。
 腰を抜かしたままでいる三橋に、いい加減立つよう促すが首を振られる。本気で泣きそうになっている彼に肩を竦め、参ったなと頭を掻いた榛名は仕方が無いな、と呟いて無事だった左手を彼に差し出した。
「う……」
「あー、もう。悪かったって」
 しかしそれでも立ち上がろうとしない三橋に痺れを切らし、若干苛々した声で謝罪になっていない謝罪を口走った榛名は、今度は両腕を伸ばして三橋の上腕を掴み、強引に彼を真上に引っ張った。
 だが当然足を踏ん張らせていない三橋がひとりで立つことは出来ず、目を丸くしている彼はよろめいて、そのまま榛名の胸元に顔を埋めた。
 空気を含んだ彼の髪がぼふっという音を立て、鼻先が触れたコートに漂う榛名の匂いに、三橋は再び身を硬くする。
「ごめんな」
 背中に回された、今度こそ優しい腕にホッと安堵をしていたら、耳元で囁かれて三橋は咄嗟に顔を上げて首を振った。だが巧く言葉が出てこなくて、結局いつも通り日本語にならない音ばかりを発して、そんな自分が嫌になって俯いて終わり。榛名はそんな三橋の頭を撫でて、そろそろ大丈夫だろうと彼から腕を外した。
 感じていた体温が遠ざかり、冬の寒さが戻って来る。鼻を啜って口から息を吐き、それから三橋は、何故彼が此処にいるのかという疑問に行き当たって首を傾げた。
「だってよー」
 途端に唇を窄めて子供っぽく拗ねた表情を作った榛名が、自分でも説明するのが照れ臭いのか、頬をほんのり赤く染めて指で引っ掻いた。
 分からない三橋が、益々不思議そうに距離を詰めてくる。しょっちゅうぐるぐると、どうでもいいことに頭を捻らせては自分で勝手に結論付けて落ち込んでしまうくせに、こういう時だけ日頃豊かな想像力を発揮できないらしい。
 横目で三橋を見て溜息を零し、榛名は腕を下ろした。
「だから、さ」
 日頃から時間がない自分たちは、望んでもなかなか思うように会えない。そんな中で巡ってきた折角のクリスマスなのに、顔も見る事無く終わらせるのはつまらなくて、三橋が西浦の野球部員とパーティーがあると知っていながら、つい足を向けてしまったのだ。
 本当は、一緒に何処かへ行こうという話もしていた。
 時間も限られているし、あまり遠くへはいけない。せいぜい近場の、けれどあまり知り合いに遭遇しそうにない、イルミネーションでも綺麗な場所へ行くくらいしか出来ないけれど、という話を電話でしていたのに、数日後突然駄目になったと知らされ、実は言葉に表現できないくらいにショックだった。
 ただ三橋の事情も分からないではないので、自分は部のイベントを欠席したのだからお前も、とは言えなかった。
 そして、ひとり寂しく過ごすのも味気なくて、つい、近くまで様子を見に来てしまった。
 我ながら女々しい性格をしていると思う、そう嘯いた榛名に、静かに聴いていた三橋は途端首をすっぽ抜けそうなくらい横に振り回した。
「そ、そんな、お、俺……っ」
「あー、いい。無理に喋んな」
 握り拳を落ち着き無く上下に揺らしてひょこひょこ飛び跳ねる姿に、榛名は笑いを堪えながら三橋の頭を押さえつける。柔らかい髪の毛が指を擽って、ぐしゃぐしゃにかき回してやると、三橋は呻きながら下唇を噛んだ。
「はるな、さん」
「ん?」
「重い……」
 言われて気付く、思い切り潰していたことを。
 榛名は慌てて腕を退かし、誤魔化すべく苦笑いを浮かべて三橋の背中を強く叩いた。
 目から星を散らした三橋が、叩かれた箇所に左手を這わせて涙目で榛名を睨む。とはいえ迫力に乏しく、悪い、と謝られるといつまでも怒っていられなくて、逆に照れ臭くなったのか彼は俯いてコートを握り締めた。
 傾いたポケットの中身が本人にだけ聞こえる音を立て、ハッと顔をあげた三橋は榛名から視線を逸らし、自分が入って来たとは逆の公園入り口に顔を向けた。
「どした?」
「わ、忘れ、てた!」
 そういえば買い物を頼まれていたのだ、その為に家を出たというのに。
 慌てて携帯電話を取り出すと、メールの着信が入っている。緑色のランプに急かされて画面を開けば、差出人は案の定、阿部だった。
 横から榛名に覗き込まれ、右往左往しつつ三橋は文面を広げる。一言短く、迷子を心配する内容が打ち込まれていた。
「ぶっ」
 お前は己の生活圏で迷子になるのか、と想像した榛名が噴出して三橋は赤くなる。
 頬を膨らませて拗ね、メール画面の右上に小さく出ている現在時刻を見る。家を出た頃からかなり数字は進んでしまっていた、いい加減用事を済ませて戻らないと、本気で阿部が探しにきそうだ。
「何処まで行くんだ?」
「コンビ、ニ……そこ、の」
 表情を整えた榛名に聞かれ、おずおず右手を伸ばして公園出口から若干西側を指差す。促されて視線をそちらに流した榛名は、続けて買い物の内容を聞き出し、一緒に行ってやるよと屈託無く笑った。
「でも」
「なに、俺と一緒にいたくねーの?」
 即答できなかった三橋を見下ろし、ポケットに両手を突っ込んだ榛名が胸を反り返す。
「ち、ちがっ」
「じゃ、決まり。な?」
 そんなつもりで言ったのではない、と声を高くした三橋の態度を見越していたのだろう。にっと意地悪く歯を見せて笑った榛名が、きょとんとしている三橋の背中を強引に押して歩き出した。
 三橋的には、買い物に彼を付き合わせるのは申し訳ない気持ちが先に立っていた。放っておくとまた堂々巡りの袋小路に頭を突っ込んでしまうと判断した榛名の勝手さに負けて、三橋は少々申し訳無さそうに、けれどそれを上回って嬉しそうに、榛名の横に並んだ。
 コンビニエンスストアは公園を出て直ぐの場所にあり、持ってきたメモに書かれていた飲み物も無事店頭に並んでいた。両手でペットボトル二本を抱えた三橋がレジに向かう間、榛名は菓子コーナーを覗き込んでなにやら物色している。先に買い物を済ませた三橋が店を出たところで待っていると、遅れて会計を済ませた榛名が白い袋から黒っぽい箱を取り出して三橋の前に突き出した。
「悪いな。プレゼント、用意できなかったんだ」
 跳ね返った前髪を押し潰すように差し出された箱は、季節限定を謳ったチョコレートだった。
 三橋が受け取り、顔の前で包装に書かれている文句を読んでいる間、榛名は三橋の手からペットボトルの入ったビニル袋を奪い取る。吃驚した三橋が奪い返そうとするが、手の届かない高さにまで掲げられて、叶わない。
「持ってやるよ」
 重いだろうし、と諭されると強く言い返せない。唇を尖らせたて一応拗ねてみせた三橋は、両手で大事に買ってもらったチョコレートを抱くと、ふとある事に気付いてにわかに表情を青褪めさせた。
「はっ、榛名さん!」
「ん?」
「おれ、お……おお、うお、お……」
 前触れも無く急に焦りだした三橋に、今度こそ怪訝に榛名は眉を寄せた。何か買い忘れたものでもあるのだろうかと首を捻るが、それにしてはどうも様子が変すぎる。
 どうしたのかと問えば、三橋は余計に慌てた様子で両手を振り回した。ぐるぐる目を回している様は見ている分には楽しいが、ちっとも会話が進まない。
 なんなんだろうか、と口をへの字に曲げた榛名が北風に前髪を揺らした時、俯いた三橋がチョコレートを握り締めたまま「ごめんなさい」と呟いた。
 蚊の鳴くような、細い声。危うく聞き逃すところで、榛名は二秒後に漸く気付いて瞬きを繰り返す。何故そこで謝るのか、と問い返すが、三橋は同じ単語を並べ立てるばかり。
 榛名は苛立ちを隠さぬまま、乱暴に自分の髪の毛を掻き毟った。
 盛大なため息が聞こえたのだろう、三橋はいつも以上に大仰に肩を窄めて小さくなり、涙を堪えては俯いて唇を噛み締めている。
「ったく」
 言ってくれなければ分からないことの方が、世の中には多いのだ。俺はエスパーじゃないぞ、と心の中で悪態をついた榛名は、いったい何が原因なのかを探るべく、自分の行動と三橋の言動とを一通り振り返った。
 食いしん坊の三橋が、チョコレートを嫌がる筈はない。実際嬉しがっていたから、それは違う。無理矢理荷物を持ってやると奪い取ったのも、そんなに悪いことではないだろう。最後は頷いて任せてくれたではないか、だからこれも違う。
 なら、あとはなんだ?
『用意できなかったんだ』
「あ……」
 コンビニエンスストアの横を、高速でトラックが駆け抜けていく。煽られた大気が風となってふたりを包み、持ち上げた手で目元を庇った榛名はそのままずらして口を覆い、今しがた自分が言った台詞の内容を思い返して唖然となった。
 まさか、それが理由だというのか。
「……三橋」
「は、いっ」
「帰ろう」
 強請ったつもりはないのだ。ただ、時間に余裕が無くて買いにいけなくて、こんな何処にでも置いてあるような安いもので済ませようとした事を詫びたかっただけなのに。
 元々会う約束もしていなくて、強引に押しかけたのは榛名だ。連絡もしていない、会えないのにわざわざプレゼントを用意するほうがどうかしている。
 けれど三橋は、そうは考えない。
 難儀な性格をしている、本当に。耳の後ろに掛かる髪を掻き上げた榛名は、斜め上に広がる空を見上げ目を細めると、押しても動こうとしない三橋にその手を差し出した。
 右手には、二本のペットボトルが入った袋。
「はる、なさ……」
「お前んちまで、繋いでいい?」
「ふえっ」
「だってお前、いつも嫌がるじゃん」
 いくら周囲が薄暗いとはいえ、まだ時間は早いので人目は当然ある。それを踏まえて、榛名は意地悪く笑って三橋の前で左手を揺らした。
 吃驚した様子の三橋が、手の中のチョコレートと榛名の手と、そして榛名の顔とを順番に見上げて目を丸くする。
「な、んで?」
「クリスマスプレゼント」
「う?」
「お前から、俺への」
 日頃、少ない時間をやりくりして顔を合わせる機会を作っても、大抵の場合、会えなかった間に起きた出来事を報告し合うだけで終わってしまう。抱き締めるのはいつも榛名からで、三橋は何度経験しても初めての時みたいにカチコチに凝り固まって、自分から動いてくれない。
 それはそれで、毎回新鮮で楽しいが、不満がまるで無かったわけではない。
「ダメか?」
 どうせ三橋だから、断れないだろう。それを分かった上で問うのはずるいと思うけれど、どうしようもない。
 断られたくない、今日くらいは。
「う、……ぉ」
 開かれた三橋の手。背丈の割に大きい掌に、胼胝だらけの指。世間一般的には決して綺麗とは言い難いその手が、彼の誇りだ。
 投げることに関しての執着心は、榛名を遥かに上回る。その根性、最早病気とさえ形容出来る投球馬鹿が、榛名にとっても今や誇りであり、絶対に負けたくない存在のひとりだ。
 おずおずと差し出された手、榛名の中指にそっと触れて、直ぐに怖気づいて引っ込められる。けれどまた、矢張り恐る恐るながら伸びてきて、珍しく辛抱強く、榛名は彼を待った。
「別に壊れやしねーよ」
 お前の握力で潰されるほど、やわではない。
 尊大に言い放って、榛名は笑いながらやっと指の間に絡んだ指を自分から握り締めた。
 携帯電話が鳴っている。自分かと思いきやそうではなく、首を傾げていると三橋がチョコレートを持った左手を慌てふためかせてコートのポケットを探ろうとしていた。しかし鳴っている電話が右のポケットの中の為、身体を捻ってもなかなか巧くいかない。
「どーせ、タカヤだろ」
「あ、っべくん」
「……てか、あそこに居るしな」
 榛名はまだ鳴り止まない電話に悪戦苦闘している三橋から視線を外し、痛いくらいに突き刺さる怨念に肩を竦めて斜め前方を見やった。
 対向車線の向こう側にある電信柱の影で、どす黒いオーラを放つ阿部が、自分の携帯電話を握りつぶしそうな勢いで人を睨んでいた。
「うお、わ」
「んじゃ、行くか」
 わざと見せびらかすように繋いだままの左手を上下に揺らし、榛名は三橋を揺さぶって引っ張った。
 途端に前方から瘴気めいたものが飛んでくるが、何処吹く風と受け流し榛名は笑う。
「おーっす、タカヤ。なにしてんだ、そんなところで」
「あんたこそ、人んちのエース捕まえて何やってんだ。離れろ!」
「やーだね、これは三橋のクリスマスプレゼントなんだから」
「はあ? って、三橋、本当か!」
「う、うお、お……おぉぅ」
「ほーら、みろ。嘘じゃねーだろ?」
「待て、三橋。騙されるな、こいつはとんでもない極悪人だぞ」
「おいおい、ちょっとそれは聞き捨てならねーな、タカヤ。仮にも俺は、お前の偉大なる先輩様だぞ?」
「今更先輩風吹かせてんじゃねー、俺は絶対認めないからな!」
「あべ、くっ……は、はるなさんもっ」
 阿部の怒鳴り声に榛名のしれっとした声が重なり、間に三橋のおろおろする声が混じって、騒がしいことこの上ない。
 けれどそれでも、繋いだ手はしっかりと互いの体温を確かめ合い、離れることは決してなくて。
 来年も、その次も、そのまた次も。時が続く限りこうしていられるようにと。
 玲瓏なる北風に祈りを込めて。
 三橋は、笑った。

2007/12/14 脱稿