微睡みは時のゆりかご

 朝練への参加は、ちょっときついかな、とは思っていた。
 けれど一日休むとその分仲間に置いていかれる気がしたし、何より負けたようで自分が悔しい。だから根性でベッドから這いずり出て、胃が受け付けないと分かっていても無理矢理に用意されていた朝食を喉に押し込んで家を出た。
 眠そうな顔をしながらも弁当まで用意してくれた母親に礼を言って、自転車に跨り学校への道を急ぐ。
 遅刻寸前ではあったがぎりぎりセーフでグラウンドに到着して、瞑想に始まり、柔軟体操の後は軽いランニングにキャッチボール。その後ポジション別に守備練習をこなして、ここで朝の活動は時間切れ。
 欠席者はおらず、今日も無事に全員が顔を揃えていることにホッとする。すっかり見慣れてしまった顔の中、一際馴染み深いクラスも同じ面々に顔を向けられ、泉はけだるげに息を吐いて肩を落とした。
「いずみー?」
 偶々一番近くにいた田島にその音が聞こえてしまったようで、感情がストレートに顔に出る彼の表情が僅かに曇った。
「どした?」
「大きな声出すな、頼むから」
 飛び跳ねながら身を乗り出して聞いてくる田島に再び溜息を零し、右手で額を押さえる。微熱でもあるのか、指先が暖かい。
 田島の声に片付けを開始していたチームメイトも揃って振り向いて、人の顔を凝視する。一斉に向けられた数多の視線に舌打ちして、泉は苛立ちを隠さぬまま要らぬことを言った相手を睨み付けた。
 頭がガンガンする、声が響くとはまさにこの事か。
「泉、どこか具合悪い?」
 しつこく人の顔を覗き込んでくる田島を払いのけると、今度は主将でもある花井が入れ替わる形で泉の進路を塞ぐ。右手で額を押さえたまま、泉は部内で最も背高の彼を左目だけで見上げた。
 彼は田島とは違って、答えなければ道を譲ってくれないだろう。どうしたものか、と益々気分の悪さが募る中、泉はふらつく右足で乾いた土の地面を削った。
「っ」
「泉?」
「う、お、い、いず……くっ」
「泉、おい、大丈夫か」
 下向いた瞬間、ぐにゃりと視界が歪んで泉は熱っぽい息を吐く。
 ヤバイかもしれない、そう思った頃にはもう瞼が勝手に閉じようとしていて視界は闇に落ち、動揺するチームメイトの声が段々と遠くなる。平気だと言い返したいのに唇は一ミリも動かなくて、本当に見えていたのかどうかも怪しい瞳が最後に映し出したのは、お前の方が倒れそうだと笑いたくなるくらいに顔を青褪めさせた三橋の姿だった。

 消毒薬臭い、というのが第一印象。
 あとはやたらと白いものが多くて眼がチカチカする、というくらいか。
「しっかし、吃驚したぜ」
「寝不足?」
「あー……」
 気を失っていたのはどうやらものの数分だったようで、目を開けると両側に花井と阿部がいて、宇宙人の写真宜しく肩を担がれているところだった。
 自力で歩けると突っぱねたのだが、たまには大人しくしていろと笑われてそれでお終い。強情ぶって身体を揺らし、逃げようと足掻いたらまた頭がくらっと来て一瞬だけ意識が遠くなった。
 後ろをついてきていた田島が、何が楽しいのかこの状況をやたらと羨ましがって、次は俺、と関係が無いのに騒ぎ立てるのも喧しい。
 こんな姿を誰かに見られたら、恥かしいことこの上ない。それなのに運悪く登校してきた浜田にまで遭遇して、来なくてもいいのに何故か彼まで一緒に保健室へ行くこととなった。
 荷物持ちを買って出てくれていた三橋が最後尾につき、ひとりおろおろしながら矢張り顔色が悪いまま心配げに人を見詰めている。大丈夫だと笑って安心させてやれたらよかったのだが、田島と花井の声が異様に頭に響いて気分の悪さは最低で、そんな余裕は何処にも無かった。
 足を引きずられながら辿り着いた保健室では、保険医が既に開業準備を整えており、騒ぎながら入って来た大所帯にも驚かずに柔和な笑顔で対応してくれた。
 一目見ただけで病人が誰なのかを把握した保険医に、奥にあるベッドに行くよう指示される。此処から先は流石に自力で立って、泉は靴を脱ぐと片方が裏返っているのも揃えもせず少々消毒薬の匂いが強い、真っ白い清潔なシーツに潜り込んだ。
 鼻の先を撫でた空気は、ひんやりとして火照った身体に気持ちがいい。
「ちょっと熱があるね。朝ごはんは?」
「たべました……」
 渡されて脇に挟んだ体温計が数十秒後に小さな電子音を発し、表示された数値を読み取った保険医がてきぱき動きながら手元のノートにメモを取っていく。
 遠巻きにしながらも、田島は保健室が珍しいのか絶えず首を巡らせてあれはなに、これはなにと騒ぎ立てて喧しいことこの上ない。
 健康優良児の名を欲しいままにしている彼にとっては、保健室など年に一度の健康診断くらいでしか用事が無いのだろう。とはいえ、一応此処に貧血を起こして倒れたチームメイトがいるのだ、少しは自重することも覚えて欲しい。泉は寝転がったベッドの上で、無駄に広くて白いい天井を見上げて奥歯を噛んだ。
「田島、ちょっと黙れ」
「えー」
「黙らないなら先に教室に行ってろ」
 野球部の代表としての顔が出来上がっている花井が、落ち着きの無い主砲を咎めて手で追い払う仕草を取る。浜田は苦笑して頬を膨らませて文句を連発させている田島を宥め、静かにしていないと保険医の鉄槌が下るぞ、と彼を脅していた。
 メモを取る手を止めた保険医が、にっこりと笑顔を振り撒きながら眼鏡のフレームを持ち上げる。照明の加減だろうが良い具合にレンズが光を反射して、言った浜田までもが田島と一緒に震え上がった。
「昨日寝たのは何時?」
 笑顔はそのままにした保険医が、首の後ろで結んだ髪を揺らしてベッドを振り返る。多分その途中で目が合ったのだろう、空いているもうひとつのベッドに腰を下ろしていた三橋が大仰に肩を震わせて飛び上がり、怒られるとでも思ったのか二人分の荷物をお手玉しながら床へ落ちていった。
 振り向いた花井が、渋い顔をして額に指を置き、肩を落とす。荷物と一緒に床に転がった三橋には阿部が手を貸していたが、こちらも田島とは別の意味で落ち着きが無い。
 五月蝿いな、という気持ちは胸の奥底にしまって、泉は胸元までを覆っていた上掛け布団を肩まで持ち上げた。
「昨日……の、さん、じ……?」
 微かな足音を響かせてベッド脇まで来た保険医を見上げ、泉は視線を浮かせて考え込む。意識がある中で時計を見た最後が果たしていつだったか、はっきりと覚えているわけではない。しかし少なくともそれくらいまでは目が覚めていたように思う、半分眠っている状態に近かっただろうが。
 自信なさげな泉のことばに、花井がゲッという顔をして身を引く。聞こえていた残りのメンバーも、皆似たり寄ったりだ。
「そりゃぶっ倒れるの、当たり前だろ」
「なんでー、なんで? ゲーム?」
「ちげーよ」
 浜田に押しとどめられていた田島が再びカーテンの隙間から飛び出して、ベッドに脚に齧りついて聞いてくる。その後ろでは弾き飛ばされた三橋がまたふらふらしていて、泉など全く眼中に無い阿部が何故か右往左往していた。
 彼らの動きをひとまとめに視界に入れ、泉が田島に向かって手を振る。説明するのも面倒くさいのだが、言わないとずっとこの調子なのだろう。
「猫」
「ねこぉ?」
「近所の野良猫が、夜中遅くまで喧嘩して騒いでてさ」
「あー……」
 鸚鵡返しに呟く田島の不思議そうにしている頭を撫で、花井がなんとなく理解した、と言わんばかりの態度で頷く。
 何故かその花井と阿部、そして浜田までもが鞄を抱き締めて小さく震えている三橋を同時に見た。見られた側は頭に疑問符を大量に浮かべ、集まる視線から逃げようと挙動不審に視線を泳がせている。そういう行動が猫臭いのだと言っても、きっと本人は最後まで理解出来ないに違いない。
「ふぁ~……」
「はいはい、チャイム鳴るよ。君たちは教室へ行きなさい」
 頭を枕に押し当てると、すかさず眠気が降りてきて泉は大きく口をあけて欠伸を零した。その様子に、取り立てて騒ぐほどの状態では無さそうだと判断した花井は、安心した様子で保険医の言葉に従い、田島の背中を押した。
「午前中はこのまま休んで行きなさい。ただの寝不足みたいだから、少し眠れば午後には良くなるわ」
 ベッドを囲むカーテンを引いた保険医に、泉は目を閉じつつ頷いた。田島が堂々と授業をサボれて羨ましいと騒ぎ立てるが、具合が悪いのだから当然だと花井にまた怒られていた。
 阿部は早々に自分の荷物を持ってベッド際から離れており、最後に残ったのは浜田と、人の荷物をまだ大事に抱え込んでいる三橋だった。
「心配無さそうだな」
「ああ、一眠りしたら元に戻る」
 睡眠不足から来る貧血だなんて、なんて格好悪いんだろう。こんなことで倒れるなんて軟弱な身体はしていないつもりだったのに、結局周囲を騒がせてしまったのが恥かしくてたまらなかった。
 布団で顔の下半分を隠し、笑う浜田を睨んで授業のノートを頼む。三橋にはそのまま荷物を教室に運んでくれるよう頼もうとして、浜田とは逆側に立つ彼を見上げれば、矢張りまだ色の優れない顔をして怯えた風に唇を噛み締めていた。
「みはし?」
「あう、お、あ、えと……」
 名前を呼んでも視線を合わせてくれない。相変わらず呂律の回らない、はっきりと物を言わない口に辟易しながらも、泉は布団から左手を伸ばし、握り締めすぎて硬くなっている彼の右手をそっと撫でた。
「お前が倒れそうな顔して、どうすんだよ」
 横になったからか、気分は若干落ち着いてきている。腹の中をぐるぐる回って油断すると食道を逆流しようとする朝食も、胃の中に居場所を落ち着けてくれたようだ。
 眠ればよくなる、病気ではないのだ。そう言って安心させようとするけれど、構ってやるのが遅かったからか、彼はなかなか信じようとせずに俯いて首をただ横に振った。
 解放された窓から穏やかな風と共に予鈴が鳴り響く。今にも泣き出しそうにしている三橋を向かいから眺めていた浜田も、瞳を上向けてから腕時計の文字盤を確認し、閉じられたカーテンを広げて三橋を呼んだ。
 がやがやとした喋り声はまだ聞こえているから、花井や田島辺りもまだ保健室の片隅にいるのだろう。身長云々という声がしたので、計測器で遊んでいるといったところか。
 顎をしゃくる浜田に促され、漸く顔をあげた三橋が赤い頬を擦って泉を見下ろす。何も泣くほどの事でもないのに、あれやこれやと考えすぎて頭がパンクしてしまったのだろう、鼻を啜った彼にじっと視線を向けられ、泉は苦笑した。
「遅刻するぞ」
「う、うん」
 ぐいっともうひとつ頬を拭った彼に笑いかけ、見えぬ手で背中を押してやる。カーテンの隙間から入り口付近で待っている田島の姿が見えて、そこに三橋の背中が重なり、薄茶色の髪が踊った。
 これでやっと、静かになる。
 三橋の体温が微かに残る指先を丸め、肘を持ち上げた泉は深く長い息を吐いて腕を額に置いた。視界を塞いで力を抜き、時間をかけて呼吸を整えて瞼を下ろす。
 早く行こうぜ、という田島の声。
 走るな、と注意する花井の声。
 高らかに笑う浜田の声。
 それから。
「君、ちょっと待って」
 きっと、いつも通り皆から一歩半遅れた状態で出て行こうとした三橋を止める、保険医の声。
「う、お、お?」
「そう、君」
 ああ、これはきっと、自分が呼ばれたのか確認しようとしてあちこちきょろきょろしながら自身を指差したに違いない。
 三橋の挙動不審ぶり、突飛な思考回路と吃音を疑いたくなる言葉遣いに苛々する事も多いけれど、出会った当初より随分と慣れて来たようにも思う。どうしてそうなる、と言わずにいられないマイナス思考は以前とあまり変わらないが、それでも最近は自分から少しずつであるけれど、喋るようになった。こちらも三橋の性格が大分理解出来るようになって、意思疎通は入学したての頃よりは随分スムーズになった。
 ただそれも見知った、気心の知れた相手に限ったことで、それ以外、例えば他クラスの生徒や教師を前にすると以前の状態に戻ってしまう。今も不安げにしながら、あの大きな目にをもっと見開いて、汗をダラダラ流しているに違いない。
 カーテンに遮られて見えはしないが、想像は出来る。思い浮かべて含み笑いを堪えていると、白いカーテンにふたり分の影が映った。
「君、ちょっと顔色悪いわね。熱、計ってみてくれる?」
「みはしー、どうしたー?」
「うお、お……お?」
 聞こえて来た会話に耳を欹て、泉はおや? と枕の上で首を傾げた。
 なにやら予想していなかった事態に陥りつつある。一旦は廊下に出て行ったメンバーも軒並み戻って来たようで、阿部の声まで聞こえた泉は形の良い眉を顰めて、投手にだけ過保護過ぎる正捕手に溜息をついた。
 世話を焼きたくなる気持ちは、わからないでもない。自分だってそうなのだから。
 ただあまりにも、阿部は過干渉過ぎると思う。あれでは三橋が息苦しいだけだ。
「……ちぇ」
 けれど結局のところ、阿部が羨ましいだけなのかもしれない。額にある腕がいい加減重くなってきて、横へ落とし、もぞもぞと布団に包まった泉は右を下にして寝返りを打って膝を丸めた。
 外野と、内野の中心であるピッチャーズマウンドは、遠い。試合の最中、いや、練習中だってずっと阿部は三橋を見続けて、三橋も阿部に向きっぱなしだ。
 センターからでは、三橋の小さな背中を見守ることしか出来ない。タイムを取って守備陣が集まったところで、外野手の泉はその場に駆けつけることさえ叶わない。
 じりじりと、砂漠の只中で焦がされていく感覚だ、見ている事しか出来ないというのは。
「うーん……やっぱりちょっと熱があるわね」
「そ、う、え……なっ」
「君も、ちょっと休んで行きなさい。ベッドも空いているし。あなたたちは、元気そうだから駄目よ」
「えー」
「三橋! あ、あの俺も頭が」
「阿部、見苦しいぞ」
 花井に肘で小突かれている阿部が思い浮かんで噴出してしまい、外に聞こえやしなかったか冷や冷やしつつ枕に顔を押し当てる。直後に真後ろでカーテンが引かれる音がして、薄目を開ければ狭い領域に三橋の胴体部分が見て取れた。
 苦労性の部長が、居座りたがる阿部と田島を押しやって保険医に頭を下げて出て行く。あいつは将来禿げるんじゃないだろうかと心配になったが、元から丸坊主なので関係ないかもしれない。
 顔を浮かせて見上げると、気づいた保険医に睡眠の邪魔をした事を詫びられてしまった。
「いえ、べつに……」
 騒がしいのは日頃から慣れていると言えば、彼女はからからと笑って楽しそうだという感想ひとつで片付けてしまった。確かに退屈はしないと同意して、ベッドに転がされた三橋の情けない姿に苦笑する。
「微熱って、どれくらい」
「さ、さんじゅうな……など、と」
「三十七度三分。野球部大変ね、朝早くから」
 部活に熱心なのは構わないが、ちゃんと食事と睡眠は摂るように強く言われ、布団の上から肩を叩かれた三橋が身を硬くする。
 慣れない相手に触れられるのは、まだ緊張するのだろう。ガチガチになっている彼に落ち着けと笑いかけてやり、泉は枕ごと動いて三橋が寝転ぶベッド側に身を寄せた。
 保険医が乾いた足音と共に遠ざかっていく。姿がカーテンの向こうに消えるのを待って、三橋はやっと溜めていた息を吐いて赤い顔を布団に隠した。
「しんどいか?」
「へ……い、きっ」
 やや上擦った声で返した三橋は、両手で引っ張り上げた布団を頭の先まで被せてから、もぞりと動いて身体を丸めた。
 芋虫みたいに動いて、ごく僅かに、泉が居るベッドに近づく。
「三橋?」
「うあ、う……ご、め」
「謝る事じゃないだろ」
 何に対しても悪い方向に考えたがる三橋に肩を竦め、泉は目尻を下げるともうひと段階ベッドサイドへ身体を寄せた。あと十数センチずれれば仕切りもないベッドから床へ真っ逆さまに転落出来る位置に横たわって、身体の下敷きにしていた肩を揺らす。
 三橋は時折ちらちらと布団から目を出して泉の行動を観察しながらも、視線が合いそうだと分かると寸前でサッと布団を被ってしまう。何をやっているのかと泉は笑みを噛み殺し、シーツの皺を深くして浮かせた右手を伸ばし、三橋を覆っている綿入りの上掛け布団の端を掴んだ。
 軽く引っ張ると、ふわふわの髪の毛を巻き込まれた三橋が視線を持ち上げ、おずおずと泉を見返した。
「俺と一緒なの、いや?」
「……っ!」
 我ながら意地悪な質問だと思う。けれど問わずに居られなくて、理由があるとするならそれはきっと、体調不良から来る孤独感が原因だろう。元気であれば、三橋を苦しめるような、こんな事は絶対に口にしたりしない。
 気弱になっているのだと、自分でも良く分かる。そしてこの状況に甘えている自分を、泉は理解している。
 ことばを止められなかった泉に、三橋は一瞬驚きに目を見開き、答えに窮して視線を泳がせた。
 三橋が「嫌」と言う筈がないというのを、泉は勿論知っている。彼は他人に嫌われるのを異常に怖がっており、故に嫌われない為に誰も嫌わないでいようという考え方の持ち主である事も、皆声には出さないものの既に部の全員が独自に悟っている様子だ。
 誰もお前を嫌ったりしない、そう声を大にして言ってやりたいのに、彼はその言葉を頑なに認めようとしない。嫌いじゃないという気持ちは受け入れられても、好きという感情を許容できるスペースが、彼の中にはまだ無いのだ。
 阿部のあからさまな言動も、その辺に起因しているのだろう。焦っても良いことが無いのは泉だって百も承知だ。
「……い、ずみ、くん」
「ん?」
「ね、ねこ」
「猫?」
 急に話が飛んで、猫とはいったいなんだっただろうかと枕の上で頭をずらし、泉は真っ白い天井を見上げた。
「け、んか……してっ」
「ああ」
 泉が寝不足で倒れるきっかけとなった、野良猫の喧嘩の事を言いたいらしい。思い至り、泉はまたひとりでぐるぐる考え込んでいたらしい三橋に笑って、大丈夫、と囁く。
 そもそもあの喧嘩自体が、雌猫の奪い合いだ。朝、自転車に乗って走り出す直前、傷だらけになってはいたが近所をよくうろついている雄猫の影を見たから、縄張りはどうやら守り通せたのだろう。あの様子ならば、恋人ならぬ恋猫も奪われずに済んだに違いない。
「だいじょーぶそうだった」
 布団から覗かせた両手を胸元に置き、泉がぽそりと言う。同じく天井を見上げた三橋が、途端にふにゃっと力の抜けた顔で笑って、つられて泉も表情を和らげた。
「心配した?」
「うん」
 自分が倒れたのを気に病んで発熱したのではなかったのかと思うと、それは残念でならないが、三橋のそういう単純且つ純粋な気持ちは、大切にしてやりたいと思う。泉は瞼を伏し、表に出していた両腕を引っ込めて布団に潜り込んだ。
 睡魔は少しずつ彼の意識に帳を下ろす。けれど完全に眠れないのは、隣に居る三橋が未だ落ち着き無くしているからだ。
「眠れない?」
 掠れる声で問えば、枕に顔を突っ伏した三橋の薄茶色の髪の毛が縦に揺れた。
 枕が変わると眠れない、という話は良く聞く。三橋の場合、環境が変わると眠れない、というのは十分あり得そうだ。春の合宿でも、皆が枕投げに勤しむ中ひとり場を外れていたし、寝不足で辛そうにしている姿も見かけているから。
 リラックス出来る場所が、彼には少ないのだろう。布団に包まれると無条件で眠くなるくらいの図太さがあっても良いのに、彼くらいのマウンド度胸があるのなら。
「変な奴」
 大胆だと思えばナイーブで、繊細かと思えば時に剛胆で。肝が据わっているくせに、臆病で、目立たなくて地味な奴なのに、ピッチャーズマウンドに立つ自分に固執する。
 そのアンバランスさ、危うさが。
「う……?」
「三橋、手」
 ほら、と布団どころかベッドからもはみ出た手を空中に泳がせ、泉は三橋の前で腕を振った。
 不思議そうにしていた彼も、ゆらゆらと水にたゆたう木の葉みたいに揺らぐ泉の手首から先を見つめた末、誘われているのだと気付いておずおずと左手を伸ばしてきた。
 握りしめる。細く、儚く、けれど彼の体格に比べれば大きめの、平たい、そして投げすぎで胼胝が出来て潰れた痕が残る、手。
 この手を守ってやれたら、と思う。縄張りを、大切な存在を、寝る間も惜しんで守り抜いたあの野良猫みたいに。背中に刻まれた傷が勲章であるが如く、一夜明けた朝に何事も無かった顔をして、平然と、悠然と塀を横切っていったみたいに。
「えへ、へ」
「ふふ」
 なんだか照れくさくて、むず痒くて、笑っている三橋に赤い顔で笑い返して泉は目を細めた。
「俺も。大丈夫だから、さ」
 眠って、休んで、起きた頃にはいつもの自分に戻っている。三橋を変に不安にさせたり、怯えさせたりもしない。縛り付けるような真似も、背中を向けてひとりぼっちにするようなことも、しないから。
 背中を見守ってやる事しか出来ないけれど、だったら、目を逸らさずにまっすぐなお前を、いつまでも見つめ続けていてやるよ。
 だから、安心していい。
「い、ずみ、くん?」
「…………」
 閉ざされた瞼は呼んでも開かず、微かに耳を打つ寝息に三橋は目を瞬かせ、握られたままの己の左手を枕の端から見下ろした。
 空中に浮かんで不安定で、気を抜けば直ぐに緩んで解けてしまいそうな、お互いの手。触れあった温もりに三橋は戸惑いを瞳に浮かべ、唇を一文字に引き結んだ。
 自分から、泉がそうしてくれたように握り返し、顔を伏す。
「お、おやす、み」
 返事はない。けれど掌を通して伝わる熱が、ほんの少しだけ暖かさを増した気がした。

2007/12/10 脱稿