率爾

 学校で配布されたプリント、必ず保護者に見せるようにとの先生のお達し。
 奈々が出のいいボールペンでしっかりと書き込んだ、丸印。ちゃんと提出してくるのよ、というにこやかな笑顔と共に返されたプリント。
 翌日、提出するよう求める先生の声に忘れました、との返事。けれど鞄の中にはくしゃくしゃに丸めた問題のプリント。
 その翌日も、持ってきたかどうか確認されて、やはり忘れたと嘘をつく。
 三日目、流石に先生の笑顔もピキピキとヒビが入っているのが分かって、渋々取り出した皺だらけのプリント。
 手で丁寧に伸ばして、丸印が成された項目を確認して先生はにっこり微笑んだ。慰めるように頭を撫でられるが、それがあまりにも同情めいていて綱吉は悲しくなった。
 教室からはクスクスという忍び笑いが聞こえて、結局最後まで提出を渋って粘った綱吉は敗者となった。
 そして迎えた、運命の日。
 仮病を使ってまで学校を休もうとした綱吉は、見抜いたリボーンに尻を蹴り飛ばされてトボトボと学校の門を潜った。

 授業中ではあったが、教室前方の固定スピーカーから呼び出しのアナウンスが流れ、場は一気にざわついた。
「きちゃったよー」
「やだなー、怖い」
 第二学年は順次クラス単位で移動し、保健室へくること。そう淡々と告げて、女性の声はスピーカーから途切れた。
 よりによってこんな日に限って獄寺は休み。狙ってのことかそうでないのかは本人に聞かなければ分からないが、こんな面倒なことしなくていいのに、とプリントを渡された日に愚痴を零していたのを聞いているので、恐らくはわざとだろう。
 こういう時に一人暮らしで保護者の目を気にせずに済むというのは、綱吉にとっては羨ましい限りだ。奈々のにっこり笑顔に隠された鬼の角を思い出し、綱吉は椅子の上で身震いして天を仰いだ。
「ツナ、移動だぜ?」
「あ、うん」
 ぼけーっと他の事を考えて気を紛らわせていたら、クラスメイトの大半はそれぞれ渋々ながら椅子から立ち上がり、前後の扉から別れて廊下に出て行こうとしていた。
 教卓には授業を半端なところで中断させられた数学担当が肩を竦めており、廊下で塊になってのろのろしている生徒を促す為に彼もまた外へ出て行った。
 山本に呼びかけられ、綱吉は頬杖を崩して視点を前に戻す。それからゆっくりと首を巡らせて傍らの山本を見上げ、意気揚々としている彼に苦笑した。
「なんか、嬉しそうだね」
 数人が教室に居残っているのは、何らかの理由でこれから綱吉の身に降りかかる災難を免れた生徒だ。彼らの幸運を恨みながら椅子を引いた綱吉は、随分と楽しげに表情を緩めている山本に呆れながら問いかけた。
 自分が居残り組みでないことは、最後までプリントの提出を粘った所為もあってクラスの全員が知っている。心優しき親友たる山本は、綱吉の嘆きなど知らず、わざわざ呼びに戻って来てくれたらしい。
「ん? だってさー、注射一本でこの冬風邪知らずで過ごせるなら、いいことじゃね?」
 獄寺が山本を呼ぶ時に使う、野球馬鹿という単語が即座に綱吉の脳裏に浮かんで消えた。伸ばした腕を左右交互にストレッチしながら先に歩き出した山本の言葉に、いかにも彼らしいと綱吉は肩を竦める。数歩遅れて彼に続き、廊下に出たところで漸く全員が集合したと、クラス委員が点呼を取って先導して歩き出した。
 前方を行く京子の、ちょっぴり不安げな表情に綱吉は自分と同じだと安堵する。この場合、嬉しがっている山本の方がおかしいんだと傍らを行く相手を睨みつけるが、丸くて大きな瞳では迫力に乏しくて、当の山本には見上げられた程度にしか感じなかったようだ。
「どした?」
「……嫌いだよ、注射なんて」
「なんで」
「だって、痛いじゃん」
 頭の後ろで両腕を組んでのんびり歩いている山本に歩調を合わせ、列の最後尾についた綱吉が頬を膨らませる。
 今日は、インフルエンザの予防接種なのだ。
「でも一瞬だけだろ」
 斜め下を向いて陰鬱な気持ちを堪えきれないでいる綱吉に語りかける山本の声は、底抜けに明るい。
 その一瞬の痛みが嫌なのだ、と主張したところで、山本にどこまで正確に伝わるか、甚だ疑問だ。
 大体、考えてもみろ。あんな細い針が自分の身体を刺すのだ、下手な場所に打たれでもしたらどうする。血管が巧く見つけられずに針を刺したまま抉られでもしたら、それだけで失神してしまう。
 過去に病院で注射の下手な看護師に当たった経験があり、それ以降綱吉はすっかり注射恐怖症だ。注射器の先端、鋭く尖った切っ先を見るだけで気が遠くなる。
 思い返してしまい、悪魔の微笑みで待ち構える白衣の医者を想像して、綱吉は震え上がる全身を抱きしめた。
 ぶるっと背筋に悪寒が走り、折からの冷え込みで気温も低い廊下にいたこともあって、下半身に意識が向いた綱吉は階段を降りる手前に見えた扉に救いを求めた。
「ごめん、山本」
「ん?」
「トイレ寄ってくる」
 もじもじと内股気味に腰を揺らすと、何が目的なのか山本は直ぐに察してくれた。幸いにも後ろに続く生徒は誰もいないので、綱吉の行動を咎める人の目もない。
「早くしろよ」
「先行ってていいよ。追いかけるから」
 がやがやと雑談しながら階段を下りていく集団から離れ、綱吉が慌しく廊下を走ってトイレのドアに手をかける。真後ろについてきた山本の言葉に、ドアを開け際にそう言い返し、待っていなくて良いと首を振った。
 腰に手を当てた彼は、綱吉の表情に一瞬眉を寄せたが、深く考えぬまま「分かった」と頷く。
「ちゃんと来いよ、保健室だからな」
「知ってるよ」
 流石にそこまで耄碌していない。急げよ、という彼の掛け声を背中に浴びて、綱吉は広げた隙間から素早く男子トイレに滑り込んだ。後ろ手にドアを押して閉め、ほうっと長い息を吐く。
 トイレは廊下よりも空気が冷えていた。タイル張りの床は少しだけ濡れていて、壁に並んだ小用の便器が今はなんだか分からないオブジェに見える。
 もう一度身震いして身体を撫でた彼は、いそいそと当初の目的を達成すべく左端の便器に向かって歩き出した。そして事を済ませ、手を洗ってハンカチを持っていない事実に愕然としてから、仕方なく手首を振って軽く水気を切ってからズボンに水分を擦りつける。
「さっむ」
 済ませたばかりだというのにまた催しそうで、綱吉はその場で足踏みをしてトイレを出るべく扉に向かった。が、取っ手を掴んだところではたと気付き、開けるべく込めるはずだった力を変な地点で止めてしまった。
「……そうだ、そうだよ」
 持ち上げた右手で顎を撫でた綱吉はひとりごち、沈黙しているトイレのドアと自分の爪先をひとつの視界に納めた。
 折角ひとりになったのだ。このまま保健室へ向かわなければ、予防接種の注射を回避できるのではないか。
 悪い考えが頭を過ぎり、綱吉の耳元で悪魔が甘美な声で囁きかける。このままフけてしまえ、わざわざ痛い思いをしてまで病気を予防しなくとも、毎日きちんと手洗い嗽をしていれば、そうそうインフルエンザにだってかかりはしない。
 奈々にはちゃんと接種してきたと言えば、深く追求はしてこないだろう。子供たちの予防接種も済んでいる、家の中で感染する危険性は少ないし、クラスのみんなが受けていてくれれば、自分ひとりくらいどうとでも。
「よっし」
 嫌なものは、嫌なのだ。それを無理に捻じ曲げてまで、予防接種をする必要など無い。
 拳を作って力強く自分の導き出した結論に頷いた綱吉は、そうと決まれば行動あるのみ、とトイレの戸を開けて静かな廊下に舞い戻った。
 冷え込んだ空気に長く息を吐き出し、両腕を交互にさすって熱を呼び起こす。まだ授業中なので人の気配はなく、遠く他の教室から授業中の声が聞こえてくるだけ。自分のクラスの予防接種はまだ始まったばかりなのだろう、階段を登って戻って来る人の影も無い。
 綱吉は誰かに見付かる可能性がひとまず回避されたことに安堵し、胸を撫で下ろしてホッと表情を緩めた。後は、このままどこかに雲隠れしてしまえばいい。
 とは言ったものの。
「うーん」
 肝心の隠れ場所に困り、綱吉は灰色の天井を見上げて顔を顰めた。
 教室には戻れないし、屋上や校舎の外は寒すぎる。首を向けた窓の外は、晴れ間が覗いているものの一緒に木々も揺れており、相当風が強い様子だ。そんな中で一時間も過ごしたら、本当に風邪を引いてしまう。
 インフルエンザの予防接種を受けたくないが為に逃げるのに、それでは本末転倒だ。
 悩んでいても仕方が無いので、兎も角誰かとすれ違う可能性が高いこの場を離れようと綱吉は何も考えぬまま、階段を登り始めた。触れた手摺りの冷たさに慌てて腕を引き、紺色のセーターの下で身を震わせて二段飛ばしに上を目指す。
 ひとつ上の階には、一年生の教室が並んでいる。昨年過ごした教室を遠目に見て懐かしさに表情を緩めた彼は、この後どうしようかと思い悩み、壁に寄りかかって頭を掻いた。
 此処から別校舎へ移動するには、一年の教室の前を通らなければならない。だがそれだと、ひとりふらふらしている上級生の姿を多数目撃されてしまうことになりかねず、それもあまり宜しくないのではなかろうか。
 となれば必然的に、もうひとつ上に向かって階段を登るほか道は残されていないわけだが。
「屋上は、なあ」
 踊り場から見上げた冬空に向かって呟き、綱吉は指の間を零れた色素の薄い髪の毛に肩を落とした。
 屋外は寒いから遠慮したいのだが、他に誰にも見付からずにここから移動を果たせる場所は思いつかない。もっとも、誰かに見付かりさえしなければそれで良いので、何も扉の向こうに行かずとも、その手前の屋内に居れば風も防げてそう寒くないのではなかろうか。
 それに、他の生徒だって、こんな風の強い日にわざわざ屋上で暇を潰そうという気も起こらないに違いない。埃っぽくて居心地は悪そうだが、この際我侭も言っていられない。
「よし、決めた」
「なにを?」
 脇を締めて気合を入れなおし、綱吉は斜め上の薄暗い踊り場を見上げて気を吐いた。
 その彼の斜め後ろ、若干上方から低い声で問いかけが落ちて来る。思わず、決まっているではないか、と反射的に答えを返そうとしたところで彼は目を瞬かせた。
 人の気配はしなかった。が、覚えのある声の主はそんな綱吉の直感力を軽々と凌駕する実力の持ち主である事を、綱吉は熟知している。彼に常識を当てはめる方が無理なのだと、冷や汗を背中に浮かべた綱吉は口元を強張らせた。
 息を吸い、止めて、音を響かせて吐き出す。一連の動作は淀みなく行われたが、幾分平時よりも時間がかかっていたように思われる。
「えー…………、と」
「なにを、決めたの?」
 掠れる声で間延びした音を放てば、続けざまに問いかけが落ちてきて綱吉の頭を叩いた。
 振り返らずとも分かる、声の主。表面上は穏やかで耳に心地よい低音を響かせているものの、それゆえに底知れぬ不安と恐怖を感じずにいられず、綱吉はカチリと奥歯を噛んで動揺が外に溢れ出すのを押し留めた。
 けれど、むき出しの襟足にも薄らと脂汗が滲むのだけは、止められなかった。
「ねえ」
 声だけが聞こえる、というものは非常に心臓に悪いものだと思い知らされる。正面から出会えていたならば、まだいくらかはマシだったろうに。
 後ろから接近されたら、先に気付いて逃げ出すことも出来やしない。
 どうしよう。どうするのが一番良いのだろう。
 逃げ出そうにも後ろを塞がれては前にしか道は残されず、しかし前方といえば屋上に続く階段があるのみでどの道袋小路だ。時間稼ぎにもならない。
 横に飛び出すか、しかし綱吉と彼の運動神経の差は天秤に載せて比較するまでもなく明白。逃げ切れる可能性は、限りなくゼロ。
 寒気が足元から登ってきて、鳥肌で全身を覆った綱吉の首元に吐息がかかる。距離を詰められたのだろうとは分かったが次に彼が何をするのかは全く予測不可能で、緊張でがちがちになった綱吉は冷や汗を滝のように服の下で流しながら、視線を泳がせて働かない頭で懸命に脱出方法を模索した。
「ねえ、言わないと」
 状況が状況でなかったなら、うっとりと聞き惚れてしまいそうな甘い囁き声。首の後ろから右の耳元にかかる一帯に触れる呼気の熱に背筋を粟立て、綱吉は息を呑んで悲鳴を堪えた。
 硬く目も閉じて、唇を噛み締める。
 直後。
「イッ――」
 がりっ、と右の耳朶に牙を立てられ、綱吉は心臓を竦ませてビクッと全身を硬直させた。
 噛まれた、と思った次の瞬間には柔らかな舌で傷口を舐られる。真後ろで笑う気配が伝わってきて、左目にだけ涙を浮かべた綱吉は咄嗟に胸の前で結んだ指を解き、悪戯を仕掛けてきた相手から右耳を奪い返した。
「咬むよ?」
「噛んでから言わないでください!」
 同時に左足を軸にして身体を反転させた綱吉は、濡れた右耳を掌で押し潰しながら赤い顔で怒鳴った。
 口元に丸めた手の甲を押し当てた雲雀が、実に愉快だといわんばかりの表情で綱吉を見下ろしている。彼の怒号は静か過ぎる廊下に思い切り響き渡り、直後シンと静まり返って、綱吉の赤面具合を深めさせた。
 聞こえていた授業中の声さえも止んで、穴があったら入りたい気分とはこのことか、と彼は地団太を踏んだ末に広げた両手で顔を覆い隠した。
「なにやってるの」
「……聞かないでください」
 呆れた様子で雲雀に重ねて聞かれ、綱吉は緩く首を振りながら彼の質問から逃げた。
 恥かしくて消えてしまいたい。なんでまた、よりによって一番見付かりたくない相手の筆頭格に遭遇するのか。自分の不運さを呪いながら、綱吉は指の隙間から涼しい顔をしている雲雀を見上げた。
 彼は顎に手を置き、綱吉とは違う方向を見ている。何かあるのかと腕を下ろしてそちらを向くが、見事に壁しかなかった。
「確か、今は――」
 何かを考え、思い出そうとしている呟き。彼の意識は僅かだが綱吉から逸れており、逃げ出すならば今しかないと瞬時に判断した綱吉は、上履きの底で白い床を踏みしめて彼の左横から踊り場を抜け出そうとした。
 が、雲雀は後ろにも目があるのだろうか。伸びてきた腕が即座に綱吉の後ろ襟を捕まえて、問答無用で彼を階段側へ引きずり戻した。勢い余って綱吉はバランスを崩し、挙げ句そのタイミングで手を離されたものだから、堪えも利かず、彼は左右の脚を絡ませて床へ倒れこんだ。
 埃が薄く舞い上がり、咄嗟に顔を庇った腕を強かに打った綱吉が、一瞬の溜めを挟んで自分を見舞った衝撃に絶叫した。
「いっ……たあああい!」
 再び大声が反響しながら廊下を突き抜けて行って、自分がいったい何をしたのか、と世の中すべてに対して呪詛を吐きそうになった。
 だが、悪いことは一応、しているのだ。予防注射をばっくれようとしたのは、歓迎すべき事態ではない。
「うぅ……」
 本格的に泣きが入り、涙目になった綱吉はまだ痛む肘を慰めながら上半身を起こした。
 紺色のセーターが所々灰色に染まってしまっている。その目立つ箇所を軽く撫でて払ってから、繊維に絡みついた埃をひとつずつ丁寧に取り除いていた綱吉は、鼻呼吸の合間にその埃を吸い込んでしまって激しく噎せた。その咳込んだ彼の後頭部を、雲雀の手が叩く。
「二年A組、沢田綱吉」
 酷く事務的に名前を呼ばれ、彼は目尻を袖で擦ってから振り向いた。
「はい」
 なんでしょうか、とこちらも負けじと抑揚に乏しい淡々とした口調で返事をすると、指で立ち上がるように促され、綱吉は渋々と身を起こした。
 ズボンの汚れを払い落とし、並ばない目線を悔しいと思いながら彼を睨む。雲雀はそんな反抗的態度を隠さない綱吉を鼻で笑い飛ばし、丸めた拳のうち、親指だけを外向けに伸ばして足元を――つまりは階下を指し示した。
「君のクラスは、今、予防接種の時間帯だったはずだけど?」
「ぎくっ」
 思わず心の動揺を声に出してしまい、綱吉はズキっと来た心臓に左手を押し当てて上半身を仰け反らせた。
 鋭い。いや、少し考えれば誰にだって分かる。校内放送は学内全体に響いたはずだから、当然雲雀の耳にも入っていただろう。
 浮かせた踵を後ろにずらし、雲雀との距離を広げる。だが大股で一歩出た彼に容易に詰められ、綱吉は上目遣いに彼の様子を窺いながらなんとか言い訳をしようと頭を巡らせた。
 もっとも、こういう状況に追い込まれて妙案が浮かんだ試しは過去一度としてないのだが。
「保健室はそっちじゃないよ」
「うぐ」
 冷淡に指摘され、綱吉は反対の踵を段差に押し当てて唸った。
「だ、って」
 しどろもどろに声を発するが、未だに何も思い浮かばない。
 落ち着き無く視線を足元に走らせ、意味も無く両手を横にかき回す。最終的に背中に回されて指を結び、背伸びをした綱吉は口笛を吹くみたいに唇を窄めてそっぽを向いた。
 雲雀が羽織った学生服の下で肩を揺らす。右腕をゆっくりと持ち上げた彼は、横向いている綱吉の、先ほど彼が噛み付いた耳朶を摘んで思い切り自分の方へと引っ張った。
「いった!」
「いい加減五月蝿いよ」
「いたっ、イタイイタイ痛いです、千切れる!」
 遠慮も手加減も待ったなしで引っ張ったまま歩き出され、おっとっと、と片足で飛び跳ねた綱吉は右に大きく傾いた体勢に苦慮しながら大声で叫んだ。
 最早恥を晒すのを嫌がっている余裕もない。右耳の痛みは羞恥心を軽々と上回って、綱吉は下半身を先に立て直してから人を引きずっている雲雀の右手を掴み取った。
 足を止めて抵抗し、手首を両手で掴んで引き剥がそうと躍起になる。
 痛みから浮いた涙が頬を伝って、噛み締めた奥歯が軋んだ。
 喉を引き攣らせた綱吉の苦悶に満ちた声に、漸く雲雀が指先から力を抜いて耳朶を解放する。今ので少し伸びたのではなかろうか、ひりひりする痛みはそう容易く消えてくれそうになかった。
 綱吉はまたしても転びそうになって堪え、膝を軽く屈めて両手で右耳を庇った。酷い、と吐き捨てるが、雲雀は相変わらずの仏頂面のまま冷たく綱吉を見詰めている。
 彼の片足は階段に差し掛かっており、手を離されるタイミング如何では、綱吉は真っ逆さまに次の踊り場までの十数段を転落していただろう。想像して青褪め、綱吉はなお強く雲雀を睨みつけた。
「なにするんですか」
「予防接種」
 熱を持っている耳朶を撫で、力みすぎたお陰で痛い顎を無理矢理動かして怒鳴るが、雲雀はさらりと受け流して先ほど確認された事項をただ呟くだけ。一瞬きょとんとしてしまった綱吉は、斜め上に向けて雲雀の腕が動くのを見て、咄嗟に後ろへ飛びずさった。
 また耳を引っ張られたら、今度こそ千切れかねない。嫌々と首を振った綱吉に雲雀は諦めたようで、口を閉じたまま嘆息して綱吉を手招いた。
「うぅ」
「なに、ひょっとして注射が嫌で逃げてるの?」
「……」
 しかしズボンを握り締めて渋い顔で立ち竦む綱吉を見上げ、二段目に差し掛かろうとしていた足を戻した雲雀が低く笑った。
 見事に図星を指され、綱吉は幾分引いていた頬の赤みを倍増させて顔を逸らす。
 反論が無いのを肯定と受け取ったのだろう、雲雀は益々口元を意地悪く緩めて綱吉に黒光りする瞳を投げつけた。
「へえ……?」
 それは良い事を聞いた、と表情が語っている。珍しく彼の思うことが読み取れたが、ちっとも嬉しくなくて綱吉は唇を噛み締めた。
「だ、って」
「あんなもの、一瞬で終わるだろう」
「それは、そうだけど」
 握るズボンの皺を深め、綱吉はたどたどしく反論を試みる。雲雀の言うことももっともだけれど、心理的に注射は矢張り恐いし、嫌なのだ。
 あの細く鋭い金属の針が自分の腕に刺さって、血管に液体を押し込むというあのなんとも言い表し難い感触が特に。それから、針を抜く時の痛みも怖い。直前に消毒されてその部分から体温が抜けていく感覚も、また。
 想像するだけで膝が震える。
 本格的に泣き出す寸前まで来ている綱吉の表情に、雲雀は呆れを通り越してどうしたものか、と若干目を丸くした。
 十四歳、中学二年生にもなってまだ、注射一本打つのにこれほど拒絶反応出来る方が珍しいのではなかろうか。
 だが、雲雀としても、綱吉にインフルエンザの予防接種は是が非でも受けてもらわなければ困るのだ。
「なら、一緒にいってあげようか」
 素早く頭の中に思い描いた図に内心ほくそ笑んだ雲雀は、心の内側の悪巧みを隠して綱吉にそう提案する。
「ヒバリさんが?」
「手くらいは握ってあげるよ」
 ほら、と差し出された掌を前に、綱吉は絶対裏で何か画策しているはずの雲雀を疑い深く見下ろした。だが鉄面皮を貫く彼からはなにひとつ情報を汲み取れず、彼に発見された段階で既に結末は見えていると、綱吉は諦めの境地でおずおずと彼の手を握り返す。
 触れあった肌から伝わってくる熱に励まされている気分になって、また泣きたくなった綱吉は空いている手で思い切り目尻を擦った。
 階段を下り、雲雀の先導で保健室へ向かう。クラスメイトとすれ違うかと思ったが誰も居らず、首を傾げている間に目的地へと到着。中を覗きこむと、待ち構えていた数学教諭がやっと顔を出した綱吉に怒り心頭の表情を向けた。
「遅いぞ、沢田。何をやっていたんだ」
「すっ、すみません」
 彼の向こうに座っている白衣の男性は、シャマルとは違う人だった。傍では妙齢の看護師が忙しそうに準備を整えている。
 どうやらなかなかやって来ない綱吉を待って、予防接種は中断していたらしい。山本が、綱吉ならトイレに寄ってから来るとわざわざ伝えてくれていたようで、それが却って災いした形だ。
 横目で雲雀にまで睨まれ、綱吉は胸の前で人差し指をつき合わせて小さくなった。
 この場に雲雀が居るという状況に関しては、数学の先生は見なかったことにしたらしい。一応彼は風紀委員なので、予防接種から逃亡を図った不届きな生徒を連行した、という名目は成り立つが、特に何も言われなかった。
「沢田綱吉君ね」
 看護師がファイルを捲り、クラス名簿で唯一チェックマークが入っていない名前を読み上げる。椅子に座るよう促され、綱吉は終わったら直ぐに戻って来るようにとだけ言い残し出て行った教諭の背中を恨めしげに見送った。
 隣のクラスへの連絡も、任せられてしまった。気が重いと溜息を零すと、傍らに立った雲雀に頭を撫でられる。
「他の事でも考えて気を紛らわせておけば、痛みも感じないだろうに」
「そうは言っても、そんな直ぐに、無理です」
 ぐしゃぐしゃと髪の毛を掻きまわされ、その間に左袖を捲くられて腕を露出させられる。ピンセットで摘まれた消毒薬で表皮を撫でられ、その冷たさに思わず声が出た。
「ひゃっ」
「そんなに緊張しなくても、大丈夫よ」
 ガチガチに震えているのが伝わってしまったらしく、看護師の女性は笑いながら湿った綿を綱吉から外した。
 左上腕外側、その昔判子注射をされて大泣きした記憶が蘇る。あの時もかなり痛かったんだよな、と思い返せば背筋が震えて、出来るなら椅子を蹴り倒してこの場から即座に逃げ出したかった。
 だが左側には医者、右側には雲雀が立ちはだかって綱吉の進路を塞いでいる。観念しろと物言わぬ雲雀の視線が告げていて、綱吉は下唇を突き出して頬を膨らませた。
「恐かったら余所見してくれていて良いからね」
 中学生男子が震え上がっているのが面白いのか、四十代半ばだろうか、丸い眼鏡をかけた白衣の医者に言われて綱吉は益々顔を赤くして遠くを見た。こうなれば破れかぶれ、どうにでもなれ、とさえ思うものの、左手首を掬い取られて腕を浮かされ、間近に注射器を構えられると勝手に身体が竦んで息が止まった。
 吸い込んだ空気を吐き出せず、頬が硬直する。恐怖からぞわぞわと全身の産毛が逆立っていくのが分かって、綱吉は目尻に浮かんだ涙を引っ込めようと右を向いて瞼をきつく閉ざした。
 その頬を、顎の輪郭を、雲雀の指が優しくなぞっていく。
「直ぐだからね」
 慣れている様子で医者が言い、聞こえないふりをして綱吉は雲雀の指が顎を持ち上げる感覚だけに意識を集中させた。
 顎に力を入れて堪えているので、自然と唇を突き出す事になる。硬く目も閉じているので、そんな表情をしている綱吉を前にして雲雀が今どんな顔をしているのかは、彼にはまるで見えない。
「…………」
 浅く息を吐いた雲雀が一瞬触れていた綱吉から手を離すと、指の数を増やして右の耳朶から頬のラインをなぞっていった。
 スッと綱吉の顎が持ち上げられる。疑問を感じる間もなく促されるままに上を向いた綱吉が、他人の気配を鼻先数センチに感じ取った直後。
「きゃっ」
 少し離れた場所にいたはずの看護師が、可愛らしい声をあげた。
「――ンぅ!?」
 構えられた細い針が無抵抗の綱吉の左腕を突き刺す直前。上向かされた彼は、雲雀の吐息を閉ざした唇に感じ取った。
 重ねられた柔らかな暖かさに、即座に綱吉は目を剥く。睫毛が触れあう程の至近距離に、綺麗な雲雀の顔がある現実に彼は頭を混乱させた。
 反射的に噛み締めていた唇に更に力を入れてしまい、雲雀の肉の薄い唇までも巻き込んでしまって綱吉は余計パニックに陥る。ぷすっと勢い良く刺し抜かれた針の事など、すっかり頭の中から抜け落ちてしまっていた。
 時間にして、数秒、いや、十数秒――だった、だろう。
「あのぉ……」
 顎を支える雲雀の指が綱吉の華奢な首筋を撫でた時。
 最初こそ目を見開いて雲雀の整った容貌を凝視してしまった綱吉であるが、次第に恥ずかしさが先に立って首を引っ込めて目を閉じて、甘く噛んでくる彼の唇の感触に背筋を震わせていた頃。
 使い終えた注射針を銀色のプレートに戻した丸眼鏡の医師が、苦笑いと共にいつまでもキスを続けるふたりへ申し訳なさそうに声をかけた。
「お取り込み中申し訳ないんだけど、終わりましたよ?」
「んぁ……って、うわああああぁぁぁぁぁああぁあうえぉぁぅぁぉぇあうぃぇああっ!」
 最早日本語として形を成していない絶叫をあげ、綱吉が雲雀を突き飛ばして、反動で自分は医者の側へ椅子から転げ落ちる。
 凄まじい騒音をまき散らし、脚を倒れた椅子に残したまま上半身を床に横たえた彼に頬を掻いて、人の良い顔をしたその医者はひたすら苦笑いを浮かべ続けた。
 此処に至って初めて、綱吉は己の左腕に小さな赤い粒が浮かんでいるのに気付く。横から妙ににこやかな笑顔を浮かべた看護師にガーゼを手渡され、彼は耳の先まで真っ赤になりながら有り難く分厚いそれを頂戴した。
 いつ注射針を打たれたのか、それさえ気付かなかった。
「……ひどい……」
「なにが」
 逃げるように保健室を出て、扉を閉めて綱吉がガーゼの上から左腕を揉みつつ、呟く。
 横に立って聞いていた雲雀が、涼しい顔をして問い返した。
「だって、だってあの先生、うちの近所の内科の先生なのに! ああああもう、恥ずかしくてあの病院もう行けない!」
 まったく、なんて事をしてくれたのだ、この男は。
 憤りを隠しもせずに左手で顔を覆った綱吉に対し、しれっとした表情を崩さない雲雀は先に立って歩き出しており、まるで聞く耳を持たない。
「ヒバリさん、聞いてるんですか!」
「聞こえてはいるよ」
 その態度に苛立ちを募らせた綱吉の声に、それはつまり聞いてないのではないのかとツッコミを入れたくなる返事をして、彼はちらりと綱吉を振り返った。
 意地悪な、いつも通りの彼らしい笑みを浮かべて。
 ぐっと息を詰まらせ、綱吉は言おうとしていた言葉を飲み込んで彼を追いかけて駆け出す。あの場に学校関係者が居なかったのが不幸中の幸いだ、もしクラスメイトに目撃されでもしたら、不登校になるところだった。
「痛くなかっただろう?」
「……そうですね」
 でも別の場所が今とても痛いのですが、と嫌みを返してそっぽを向き、綱吉は追いついた雲雀の背中に頭突きを食らわせた。
 衝撃に羽織っているだけの学生服が揺れ、綱吉の真横を腕章が留められた袖が通り抜けていく。視界の端で臙脂色のそれを見送った綱吉は、照れくささを懸命に誤魔化して、そういえば、と話題を唐突に切り替えた。
 彼の上着を掴んだまま、顔を上げる。
「そうだ。ヒバリさんこそ、予防接種、ちゃんとしたんですよね?」
 嫌がる綱吉を無理矢理保健室まで引っ張っていったくらいだ、全校生徒の模範として、当然風気委員長殿はインフルエンザワクチンを接種しているに違いない。
 だが肩越しに振り返った彼は、黒髪の向こうに隠れがちの瞳を通常以上に細めると、何故そんな事を聞くのかという顔をして首を振った。
 横へ。
「……はい?」
「そんなものしなくても、僕は風邪をひかないよ」
「いや、そうじゃなくて」
「それに」
 なんだか、ものの三十分程前に、どこかの誰かさんも似たような事を考えてはいなかったか。こめかみの辺りに鈍痛を覚え、綱吉は雲雀の上着から手を離した。
 前に出た彼が、くるりと反転させて綱吉に笑いかける。
「それに?」
「熱を出したら、君が看病してくれるんだろう?」
 ちゃんと予防接種したのだから、伝染る事はないだろうし、なんて。
 長い時間一緒にいると考え方まで似通うようになる、という話を聞くけれど。
「ええっと、それって、つまり?」
「期待してるよ」
 空中に指を向けてくるくる回した綱吉の質問に、答えになっていない答えを返して、雲雀は黒の学生服を翻した。
 頭上で、授業終了を告げるチャイムが高らかと鳴り響く。
「ちょっ、ええ!? 待って、ヒバリさん。それってなんか狡い!」
 不公平だと叫んでも、あの人が聞く耳を持ってくれる筈が無く。
 虚しく響いた綱吉の叫び声は、にわかに騒がしくなった廊下に紛れ、残らなかった。
 

2007/12/09 脱稿