長引く残暑の影響で色付きも懸念されていた紅葉だったけれど、昨今の急激な冷え込みのお陰だろう、街路に並ぶ木々にも徐々に赤や黄色の葉が増え始めていた。
風もすっかり冷たくなり、朝晩の冷え込みは特に顕著だ。目覚まし時計に叩き起こされても、布団に包まってベッドの中でうんうん唸る時間も確実に長くなっている。
「う~、さむいっ」
少し前までは半袖でも過ごせるくらいのぽかぽか陽気だったものが、今では長袖を何枚も羽織らなければやっていけない冬の空だ。青く澄み渡る空を憎らしげに見上げ、吐いた息で手を温めた綱吉は紺色のカーディガンの下で身を竦ませた。
ジャケットを着てくるべきだったかと後悔しても、正門を目の前にした現状では遅すぎる。今日一日我慢して、この格好で過ごすしかない。
右肩に担いだ鞄を揺らし、綱吉は重い足取りで残るコンクリートの道を行く。路上では車が何台か走りぬけ、巻き上げられた枯葉がカサカサと音を立てながら彼の足に絡み付いてきた。
無数の落ち葉が、無味乾燥なアスファルトの大地を彩っている。
排水溝が目詰まりを起こす原因にもなるので、この季節は厄介極まりないものながら、赤く鮮やかに色付く紅葉は見目麗しくもあり、見上げるのは楽しい。春先の新緑香る若葉の季節も良いが、散り行く間際の一瞬の儚さにも似た紅葉も好きだった。
前に出した足が、ちょうどそんな緋色に染まった木の葉を踏みしめる。乾いた感触が微かに伝わってきて、あまり体重を預けるのもかわいそうな気がした彼は右足を素早く前に運んだ。
正門では相変わらず、風紀委員が黒い学生服姿で列を作っている。ただ数はさほど多くないので、服装検査などの抜き打ちチェックは無さそうで綱吉は緊張した心を解し、肩の力を抜いた。
両側を駆け抜けていく生徒を尻目に、まだ時間はあるからとのんびり進んでいく。
木枯らし一号の報せがニュースを賑わせたのはつい昨日のようであり、随分と前のようでもある。温暖化云々と騒がれて、確かに夏の暑さは年々激しさを強め、挙句九月に入ってからも夏の天候が空を埋め尽くしていたものの、しっかり季節の移ろいは残されていて、目に見える形で現れるのは嬉しい限りだ。
これからどんどん寒くなって、朝起きるのにも一苦労させられるのかと思うと憂鬱でもあるが、それはそれ。
「今年は雪、どれくらい降るのかな」
細かな筋が走る雲に飾られた大空を見上げ、綱吉は息を吐く。これが白く濁って見えるようになるのも、もうじきだ。
去年は稀に見る大雪で、学校のグラウンドに忍び込んでみんなで雪合戦に興じたのも懐かしい。最後はいつも通りのどたばた騒ぎに落ち着いて、酷い目に遭ったのには違いないが、それでもあんな風に大勢で雪まみれになりながらはしゃぎまわったのは初めてのことだったから、楽しかった。
今年も、積もるくらい降ればいい。そう遠くない未来に思いを馳せながら視線を正面に戻した頃には、学校はもう目の前だった。
「おはようござます」
左右に居並んで強面顔のまま仁王立ちしている風紀委員へ事務的に挨拶をし、軽く頭を下げて中に入る。夏でも冬でも彼らの格好は変わらず、夏場は暑くないかと心配になるが、冬は冬で寒くないのかと聞きたくて仕方が無い。
もっとも、一番聞きたい相手は、夏の盛りではしっかり半袖姿だったけれど。
「なんで学ランなのかなぁ」
並盛中学の規範となるべき風紀委員が、制服をきちんと着用していないのは本末転倒な気がする。
とはいえそんな事、当人を前にしては口が裂けても言えない。綱吉は小声で呟いてから、今の自問を誰かに聞かれてはいないかと挙動不審に周囲を見回してしまった。
脇に挟んでいた鞄を胸に抱き、正門と正面玄関との中間地点でいきなり足を止めたものだから、後ろから来ていた生徒とぶつかりかけて迷惑そうな顔をされてしまった。
綱吉は文句を言われる前に頭を下げて謝罪を示し、他に誰も自分に気にかけている存在が無いのを確かめて安堵の息を漏らす。だが同時に、思い浮かべた姿が其処に無い事に妙な違和感を抱いてしまって、再度注意深く物陰にまで目を凝らした。
週の半分くらいは、彼も早朝の門に立っている。毎日居るとは限らないわけで、今日がたまたま居ない日に当たっただけなのに、胸の奥がざわざわする感じに綱吉は息を飲み、心臓の上に右手を重ねた。
自然と姿を探してしまうのは、最早どうしようもない。表面上自分たちの関係は以前のままなにひとつ変わっていなくて、同じ中学校に在籍する先輩と後輩、その程度だ。
守護者とか、マフィアとか。そういうことは表立って公言できるものでもなくて、だから一部を除いて誰も自分たちの本当の関わりを知らない。
そして、もうひとつ。
そんな数少ない面々の中でも、更に的を絞った人物しか知らない事実が、綱吉の中にはある。こちらも大っぴらに言えることではないのだが、けれどもし許されるのであれば声を大にして皆に宣言してしまいたい。
但しそんな事をすれば、何処からともなくトンファーの一撃が襲ってくるだろうけれど。
「今日は、いない、か」
一言一句を区切りながら呟き、肩を落として溜息をつく。姿が見えないだけでこんなに落ち込んでいるようでは、この先どうなるのか。長期間会えなくなる可能性だって無きにしも非ずで、ただ想像したくなくていつも綱吉は考えを後回しにしていた。
振り向けば登校する生徒の中に幾つもの黒が紛れて見えるけれど、風に靡く黒髪の背中は見付からない。
「ちぇ」
小石を蹴り飛ばし、弾まずに沈む動きに溜息を零す。
「よっ、ツナ。教室いかねーの?」
「あ、おはよう。山本」
軽く肩を叩かれ、すれ違い様に顔を覗き込んで来られた綱吉は驚いて身構えたが、相手が良く知る山本だと分かると途端に力を抜き、頬を緩めて笑みを作った。そういえばまだ足を止めたままで、頭上のスピーカーからは急きたてるように予鈴のチャイムが鳴り響いている。
我に返り、時間の経過を思い出して綱吉は慌てた。既に先を行っている山本を追いかけ、鞄を抱いたまま正面玄関を潜り抜けて下駄箱へと。
途中感じた風の匂いに、綱吉は視線を持ち上げた。
しかし足は既に建物内部へと運ばれており、そこには無機質な天井が広がるのみ。
「……?」
なにかに呼ばれた気がするのだが、錯覚だろうか。
「ツナ、急げよー」
「分かってるってば」
靴を履き替えた山本の声に怒鳴り返し、靴を脱いで上履きを手に取る。踏み潰した踵を伸ばしてつま先を床に叩きつけ、荒っぽく下駄箱の扉を閉めて廊下を駆け出した。
風紀委員に見付かりませんように、と心の中で祈りつつ。
片隅では見付かってしまいたい、と相反することを思い浮かべながら。
昼食後直ぐの五時間目は、自習だった。
「やったー!」
学級委員長が授業開始直後に齎した情報に、皆が皆諸手を挙げて歓迎の態度を取る。無論綱吉もご多分に漏れず、満腹感で眠くなる午後一番をかったるい勉強に使わずに済むと思うと、嬉しくて仕方がない。
ただ山本みたいに満面の笑みではしゃぐことは出来なくて、窓辺の机に頬杖つきながら時折窓枠をカタカタ揺らす風の行方に思いを巡らせるばかりだ。
担当教諭は本当に急な用件で休講を決めたらしく、授業の代わりとなる課題のプリントも全く無かった。教科書の、授業中ではやらなかった練習問題をやっておくように、というお達しだけが言い渡されたわけだが、そんなもの何も今やらなくても、宿題として持ち帰ればこの一時間は余裕で昼寝を楽しめる。
欠伸を噛み殺し、最早広げる気も起きない教科書とノートを引き出しに仕舞いこんだ綱吉は、頬杖を崩して右の頬を机に押し当てた。
ひんやりとした感触は最初だけで、後は穏やかな日差しも手伝い、眠気は直ぐに舞い降りてくる。
「十代目は、どうされますか?」
「ん~?」
山本は早速クラスメイトの何人かを引き連れ、今は何処のクラスも使っていない運動場に出て行ってしまった。他の先生に見付かったら怒られるだろうに、サッカーか野球か、兎も角身体を動かしたくて仕方が無いのだろう。
彼らの元気さには苦笑させられるばかりで、一応義理で声はかけられたが、元々運動音痴の綱吉が行っても邪魔になるだけだと丁重にお断りした。
残るは獄寺だけで、意気揚々と傍に来て語りかけてくる彼に、綱吉はけだるげな相槌を返して額を机に押し当てた。
「あ……ひょっとして、お休み中でしたか」
「ん~……」
一向に顔をあげようとしない綱吉の、むずがるように首を振る動きを見て獄寺が半歩下がる。声をかけるべきではなかったと思っているようだが、敢えて否定もせず肯定もせず、綱吉は持ち上げた両手を顔の下に挟んで首を少しだけ持ち上げた。
薄茶色の髪が手の甲に絡み、ちくちくと刺さる。鼻で息をしながらもうひとつ首を振り、獄寺が立つ側へ視線を投げると彼は知らぬうちにまた半歩下がっていた。
銀色の髪が窓越しの陽射しを浴びて、きらきら輝いている。その向こうには車座に机を並べ、雑談に花を咲かせている女子の背中が幾つも見えた。
時折ちらちらと視線が投げかけられるのに綱吉は気づいていて、けれど彼女らの話題の中心にいるのはどうせ獄寺なのだろう。山本と並んで女生徒から絶大な支持受ける彼に並ばれると、どうしても綱吉の凡庸さだけが際立ってしまって正直恥かしいのだが、それを言うと獄寺の事だから大袈裟に騒ぐに決まっているので、言ったことはない。
それにしても、自分の周りにはどうしてこうも見た目が派手で、周囲から否応なしに注目を集める人ばかり集まってくるのだろうか。
益々自分の容姿に自信がなくなりそうで、綱吉は重い気持ちのまま上半身を起こした。両手を胸の前でうろうろさせていた獄寺が、ここぞとばかりに身を乗り出して綱吉を覗き込んでくる。
「十代目、あの」
「……ごめん、トイレ」
この自習時間をどう過ごすのか。邪魔だてする山本が外に出て行ったとあって、彼は目を爛々と輝かせながら綱吉とふたりで居られる事を素直に喜んでいる。しかし獄寺が二言目を発するより早く、綱吉は若干重い頭を左手に抱え、右手で彼を制した。
そのまま右手で椅子を引き、立ち上がる。同時に欠伸が零れた。
「お疲れですか?」
「ちょっと、ね」
空になった椅子を机の下に押し込め、声を潜めて問うた獄寺に曖昧な表現で頷き返す。本当はただ眠いだけなのだが、余計な事を言うと無駄に食いついてこられるのでやめておいた。
今はひとり静かにしていたいのだと暗に告げ、保健室行きを勧める彼に苦笑して席を離れる。
保健室に行けば確かにベッドはあるが、シャマルが使用を許してくれるとは思えない。仮病ですらないのだから、それも当然だろう。もっともあの男の場合、本当に具合が悪くても追い出されそうだが。
教室を出て直ぐの男子トイレで所用を済ませ、手を洗ってからハンカチを持っていないのに気づいて肩を竦める。指先に残る水気を払い落として、残った分はズボンに押し付けてドアを抜けると、静まり返った廊下に別クラスの英語の授業が響いていた。
その隣の教室からは、カリカリと黒板にチョークを走らせる音が断続的に聞こえてくる。それ以外は概ね静かで、凛とした空気が一面に漂っていた。
勉強もせず、のらりくらりとしている自分が異端者であるかのように感じられ、綱吉は握り拳を胸に押し当てる。
「……」
教室に戻ろうか、どうしようか。山本たちの様子を見にグラウンドに出てもいいかもしれない、けれどなんだか気分は乗らなくて、綱吉は爪先で廊下をこね回してから力なく溜息を零し、踵を返して教室に背中を向けた。
何処でもいい、どこか静かで、自分が居ても良いと思える場所に行きたかった。
けれどそんな場所が、この学校内の何処にあるというのだろう。
ましてや今は、本来机に向かって勉強しているべき時間帯。図書室にでも行って分厚い専門書を枕にでもしてこようか、とこみ上げる欠伸を噛み殺して綱吉は首を振った。
眠気覚ましに学内をうろうろするのも、悪くないだろう。
「行こ」
自分自身に告げて、歩を進める。目的地は特に決めず、気の向くままに適当に。突き当たった階段で上下どちらに進むかが第一関門で、結局後の苦労は考えないことにして、綱吉は階段をゆっくり下りていった。
リズム良く身体を上下させながら、十数段の階段を下りて踊り場の窓から射す光に目を細める。右手を翳して日除けにして、次の段差にさしかかる頃にはもう脇へ下ろして、再び爪先立ちで階下を目指す。
ひとつ下の階は三年生の教室が並んでいるのだが、こちらも他同様に静まり返っており、綱吉は疎外感を抱かずにいられなかった。
「ちぇ」
空気を蹴り飛ばす仕草をして最後の一段を飛び降り、誰ともすれ違わない廊下に目を通す。休憩時間はそれこそ耳を塞ぎたくなるくらいの騒がしさなのに、あの喧騒は何処へ消えてしまったのだろう。見回しても何処にも見付からなくて、綱吉は濁った銀色の手摺りに左手を置き、爪先で床に円を描いた。
こんなことなら、大人しく教室に戻ればよかった。すっかり乾いてしまった手で手摺りを強く握り、踵を軸にして身体を反転させる。階段はもうひとつ下の階に続いており、薄暗さを増したそちらに飲み込まれそうになりながら綱吉は足音をわざと響かせ、地上階に降り立った。
だがそちらも、教室がない分人気も失せて、余計に寒々しい。
無意識に両腕で身体を抱き締め、俯いて汚れた上履きに視線を落とす。これもそろそろ持って帰って洗うか、新しいものを買わなければ。春先に購入した時はまだ爪先部分にゆとりがあったのに、今では少しきつい。自分の成長を感じると共に、月日の流れをありありと感じさせられて彼は下唇を口腔に巻き込んで噛んだ。
「なんか、ないかな」
面白いものなんて、学校にそう転がっているものではない。ひとり呟き、その虚しさに自嘲気味に笑ってから彼は背中に回した両手を結んで歩き出した。
窓は北向きで、陽射しは入らない。節電なのか面倒くさいだけなのか、照明の消されている廊下は昼間だというのに夕方を思わせる薄暗さで、試しに触れた窓枠は外気に冷やされて肌を刺した。
壁一枚を隔てた先は、冬の到来を待つ晩秋の気配が濃い。風が吹いているのか木立が揺れており、赤く熟れた色の木の葉が何枚も空を舞ってどこかに消えていった。
「あれ」
行方を目で追って視線を持ち上げ、ついでに窓にもっと顔を密着させた綱吉の視界に、自然界のものとは趣を異にする色が浮かび上がった。
それは覚えのある配色であり、記憶の中の映像と合致する。思い過ぎて幻を見たのかと一瞬思ったが、瞬きをして再確認しても揺れ動く二種類の黒は視界から消えなかった。
「ヒ――いたっ」
思わず名前を呼んで前に出ようとして、そこに窓ガラスが嵌っていることを思い切りぶつけた後で思い出す。勢いをそのまま跳ね返された頭が後ろに傾き、伸ばした腕が虚空を掴んだ。
左足を後ろに退いて倒れるのだけは回避させ、打った額を両手で庇う。じんじんした痛みが頭蓋骨を通して脳にまで響いて、涙目の彼は自分の行動が浅はかだったのにも構わず、悪くない窓に向かって悪態をついた。
「なんでこんなところに窓があるんだよ!」
言われた窓としてみれば、不条理極まりない雑言だ。けれど辛抱強く耐えて聞き流し、窓は先ほどと変わらぬ姿勢で綱吉の前に壁を作り続けた。
右手を下ろし、悔し紛れに透明な板を軽く殴りつけた綱吉は、左右に視線を巡らせ一番近い出口を探した。同時に頭の中で学校の構造を俯瞰して最短ルートを導き出し、咄嗟に右に行きかけた身体を律して左に進路を取った。
体育館に通じる渡り廊下、上履きのまま外に出るのは基本的に禁止されているけれど、構うものかと綱吉は黄土色の乾いた地面に爪先を滑らせる。踏み潰した踵部分から土踏まずまでがはみ出して歩き難いことこの上ないが、今更下履きに履き替えに戻るのも手間だ。
「えっと……」
先ほど自分が頭を直撃させた窓を先ず探して、視線を左に転じる。裏庭にも様々な木が植えられているが、その大半は落葉してしまって枝ぶりは冬前から既に寒そうだ。
足元には掃いてもキリが無さそうなくらいに落ち葉が降り積もっている。赤に黄色、茶色にまだ緑を残しているものもちらほらと混じり、実にカラフルな斑模様だ。歩くたびに音がして、浮いた踵から靴の中に潜り込もうとする不埒な輩までいた。
「いてっ」
しかも入り込もうとするのは何も枯葉ばかりではなく、小石や落ちた枝も同様だ。
不幸にも尖った石に足の裏を刺され、綱吉は短くも甲高い悲鳴をあげて左足を宙に蹴り上げた。
勢い余った上履きが飛んでいく。殆どスリッパ状態だったから無理も無くて、口をぽかんとさせて前方斜め二十五度辺りに落ちていく靴の行方に綱吉は目を瞬かせた。
「うわっちゃー」
やっちゃった、と心の中で舌を出して右足一本で立ち、左足は膝で曲げてバランスを取る。上履きは思った以上に遠くまで飛んでしまって、片足立ちのまま取りにいけるかどうかかなり疑問だった。しかし此処でじっとしているわけにもいかず、何をやっているのだろう、と空回りしている自分自身に呆れながら彼は片足で飛び跳ねながら枯葉に埋もれた上履きを探しに行った。
「よっ、とっとと……」
しかしこの姿勢はなかなか疲れるもので、バランスを取るのに常に前後左右に揺れるものだから右足の負担もかなり大きい。ちょっとでも油断すればあっという間に地面と空が逆さまになってしまうだろう、それは嫌だなと想像をめぐらせて唇を舐めた綱吉は、枯葉に隠されてなかなか見分けがつかない自分の上履きを求め、腰を屈めた。
左足は右足の甲に置いて休憩させ、曲げた膝に両手を置く。これでもぐらぐら揺れるのは止めようがなく、慎重に姿勢を整えて地表に視線を流す。
「あった」
それは立ち位置から一メートルほど左にずれており、手を伸ばせばどうにか届く距離だった。けれどそれは両足でしっかりと踏ん張っている時の話であり、この状態では腕を向けても途中で転ぶのが関の山だ。
けれど右足の疲れももう限界に近い。筋肉がプルプル震えているのが自分でも分かって、綱吉は一瞬の逡巡の末に思い切って左手を空中に投げた。
靴底を上に向けて寝転がっている上履きに向かって、限界まで肩を伸ばす。膝の屈め具合も深くして、身体中のあらゆる腱が悲鳴を上げるのも厭わずにめいっぱい腕を広げるが、あと十数センチというところで指が空を掻き、届かない。
「く、そっ」
苦しげに息を吐いて更に力を込めるが、ぐらぐらと揺れる足場がそもそも不安定過ぎて、一旦堪えて身体を起こす際に後ろ向きによろめいてしまい、余計に距離が開いて綱吉は臍を噛んだ。
これならば最初から、残る力を振り絞って唐傘お化けみたいに一本足で跳び続けるか、靴下が汚れるのを覚悟で普通に歩けば良かった。
無駄なことをしたと綱吉は左の爪先を地面に下ろしかけ、寸前で止める。カサリと葉を掻き分ける音がして、顔を上げれば右斜め前方に黒い影が伸びていた。
「……あ」
「…………」
思わず無言で見詰め合ってしまい、咄嗟に言葉も出なくて綱吉は視線を泳がせる。
そういえば近くにこの人が居るのだったと、靴を拾うのに夢中ですっかり忘れていた当初の目的を思い出して、綱吉は間抜けな案山子状態で両手を震わせた。あたふたと必死に言葉を捜すけれど、この場に最適な台詞なんて何処にもありはしない。段々と混乱する頭に目も回って、焦りばかりが募って額から脂汗が滲み出る。
「いや、あの、その、だから、えっと」
「…………」
もっとも相手にしてみれば、顔を合わせたと思ったら一方的に狼狽し始めたわけであり、彼はしどろもどろになっている綱吉を見て不思議そうに首を傾がせた。そして斜め下に目を向け、草葉に紛れて胴体部分を隠している小汚い上履きを認めて元から細い瞳を眇めた。
「君の?」
「……はい」
膝を伸ばしたまま腰を曲げ、枯葉に好かれている上履きを拾った彼に問われ、綱吉は素直に頷く。情けないやら格好悪いやらで、穴があったら入りたい気分のまま綱吉は近づいてくる彼の足音に耳を澄ませ、もじもじと胸の前で指を絡ませた。
目の前に置かれたスリッパ状になっている上履きに躊躇してから、早くしろとせっつかれて爪先を通す。やっと負担を軽減してもらえた右足が途端力尽きたのか膝で折れ曲がり、左足まで引きずられて綱吉の身体が沈んだ。
「うあっ」
咄嗟に腕を前方に投げ出して、空っぽの空を掻きむしる。けれどそんな場所に支えるものなどない、半ば絶望に浸りかけていたところに、急激な力が加えられて手首が軋んだ。
血管が圧迫されて指先が反り返る。何が起きたのか即座に理解できなくて明滅する瞳に力を込めた綱吉は、己に降りかかる濃い影に気付いて閉ざしていた唇を大きく広げた。
「ヒ、――いだっ!」
名前を呼ぼうとして、姿勢が後ろに崩れていたのをすっかり忘れていた。
支えてくれるものとばかり思っていた人は、しかし綱吉の期待を裏切って一旦は強く握った人の手首をするりと流し、逆に肩を押して地面へ転がした。挙げ句の果てには、何を考えているのだろう、ゆっくりと自身も膝を折って後頭部を直撃させた綱吉にのし掛かってきた。
いくら枯れ葉が積もっているとはいえ、その下は踏み固められた地面だ。落ち葉のクッションはまるで役に立たず、痛打した頭部を嘆いていたところに覆い被さられて綱吉は涙目を見開き、人の胸元に頭を置いて体重を預けてくる存在に悲鳴をあげた。
「ひ、ヒバリさん!?」
「五月蠅いよ」
「いや、ちょっ……待って、心の準備が」
「五月蠅い」
大声で名前を呼ぶと胸の上の雲雀が身動ぎして剣呑な口調で言う。綱吉の心臓は一瞬にして破裂寸前まで拍動を増し、もの凄い勢いで全身の血管に血液を送り込んだ。寒さなどもう感じられず、耳の後ろまで真っ赤になっている彼を下敷きにし、雲雀は眠たげに大きな欠伸を零した。
珍しい隙のある彼の表情に、ひとり動転していた綱吉も彼の様子がいつもと少し違う事に気付く。
「ヒバリさん……?」
「枕は黙ってて」
「……まくら、ですか」
いったい自分は何を想像していたのだろう。恥ずかしくなって、綱吉は唇を閉じて上を向いた。
押し倒されたかと思えば上に倒れ込まれ、ふたり重なり合って裏庭の枯れ葉の海にたゆたっている。木立の隙間から覗く空をぼんやり眺め、重いばかりの雲雀の肩に触れた綱吉は、彼が羽織る学生服の背中のあちこちに引っかかる枯れ葉の存在を知って眉を顰めた。
そういえば窓から見かけた時の彼は、座ったり立ったり、落ち着き無く動いてはいなかったか。
ひょっとして、彼は。
「ヒバリさん、あの、重いです」
身動ぎすれば地面と背中に挟まれた無数の枯れ葉が細かく砕ける感触、大地は最初こそ冷たかったものの、今はほんのりと包み込むような暖かさを宿している。
綱吉は寝入ろうとしている彼の肩を軽く叩いて注意を引き寄せ、半分閉じている瞼の向こうに潜む黒真珠の瞳に笑いかけた。
「……そう」
きちんと聞こえて、理解して貰えたかは甚だ怪しかったが、雲雀は綱吉が若干苦しそうにしているのを見て小さく相槌を打つと、両側に零していた腕に僅かな力を加え、上半身を持ち上げた。
ふたりの間に隙間が出来て、風が流れていく。雲間に隠れていた日射しが木漏れ日となって、ふたりを優しく照らした。
「ヒバリさん、寝場所探してました?」
「うるさい……」
屋上は風が強いから、もうそろそろ昼寝をするには向かなくなっている。そうでなくとも冬に近づこうとしているこの季節、屋外での昼寝はもう限界だろう。
枯れ葉の絨毯は、一見すればとても柔らかそうだけれど。
跳ね上げた爪先から上履きが脱げ落ちる。左腕を綱吉の胸元に残して右側にずれた雲雀は、今度は広げられた綱吉の腕を枕にして目を閉じた。薄く開いた唇がなにか音を紡いだが、それは間近にいる綱吉の耳にしか届かない。
「……ちぇ」
赤い顔をして、綱吉は首に力を込めて頭を浮かせた。
投げ出されている雲雀の右腕にそっと載せて、息を吐いて肩から力を抜いていく。
外の昼寝は、きっと今日が最後だ。
「おやすみなさい」
枯れ葉の下にある地面は固い。
けれど、君は。
貴方は。
暖かくて、柔らかいから。
「起きるまで、此処にいてあげます」
既に寝息を立てている雲雀に、囁かれた返事をして。
忘れていた眠気に襲われて、綱吉も静かに目を閉じた。
2007/11/26 脱稿