魂祭 第一夜(前編)

 畳の上に鮮やかな赤が舞い、その中を金色の鬣が天目指して駆け抜けている。
「へえ、見事だな」
 感心した様子で金髪の青年がその緋色に手を伸ばす。けれど、果たしてその行為が許されるのか否か寸前で躊躇したらしく、触れるかどうかの距離で彼の腕は止まった。
「構いませんよ」
 向かいに座る人物がはにかんだ笑みを浮かべ、どうぞ、と掌を上にして差し出す。許可を得たディーノは、嬉しそうに表情をしまり無くして艶やかな色打ち掛けを膝に引き寄せた。
 布自体も上物だが、刺繍ひとつにしても手が込んでいる。よほどの職人が手をかけたものらしく、縫目ひとつとっても頑丈で美しい。肌触りも申し分なく、中に入れられている綿も薄すぎず、厚過ぎない絶妙具合だった。
 金馬の周囲には浮雲が白く漂い、布の地色を生かした大輪の牡丹が艶やかに咲き誇っていた。それ以外にも色彩鮮やかな花々が無数に咲き乱れる様が描き出された打ち掛けは、ともすれば花嫁衣裳と思える一枚だった。
 ディーノが率直な感想としてそう述べると、向かいの人物はからころと喉を鳴らして楽しげに笑う。どうやら彼と同じ感想を、相手もまた最初に見せられた瞬間抱いたらしい。
「似合うだろうな、って思ったのはいいんだけど、具体的に説明出来なかったんです。目の醒めるような緋色に金色のお馬で、花は牡丹がいいな、とだけ伝えたら、なんだか勘違いされちゃったみたいで」
 伝言を託された相手が、職人に依頼する際にどこかで手違いが発生したらしい。本当は羽織にして欲しかったのに、どこをどう間違ったのか、出来上がったと届けられたのは遠目からでもさぞかし目立つであろう、極彩色豊かな色打ち掛けだった。
「そりゃ、吃驚したろう」
「ほんとうに」
 両手に持った打掛を揺らし、皺にならないよう表面を均してやりながらディーノが言う。相手も即座に同調して頷き、けれど、と前置きして立ち上がった。
 つられて腰を上げようとするディーノを手で制し、彼の後ろへと回り込む。そして再び膝を折って座し、ディーノの脇から白くほっそりとした腕を伸ばして緋色に指を添えた。
 それを見てディーノは自分から両手を解く。押し留めるものが何も無くなった打掛はするりと彼の膝の上を駆け抜け、右肩から背中へと広げられた。
 行き遅れた布の大半がまだ彼の膝に残ったままだったが、彼の背中では金色の馬が今まさに天高く飛翔しようと前脚を掲げていた。太陽は描かれていないが、或いは彼の髪がそれに当たるのかもしれなかった。
「どうだ」
「良かった」
 感想を聞けばそんな返事。首だけを後ろに回したディーノに、嬉しげな声がひとつ弾んだ。
「お前の見立てが良かったんだろうな」
「職人さんのお陰ですよ」
 自分など、貴方に似合うだろう色と模様を思い浮かべただけに過ぎない。こんなにも立派なものに仕上げてくれた人たちに、感謝しなければ。
 謙遜しながら言って、立ち上がろうと引いていく手をディーノが捕まえる。半端に浮き上がった腰の行き場に困った相手は、同じく困った顔で彼に首を傾げた。
「駄目ですよ」
「ちょっとだけ、な?」
 体格は立派な成人男子なのに、世の中のすべてに不安を抱えている子供の顔をして頼み込むディーノに、相手は薄茶色の髪を揺らして首を振った。
「貴方があの人に怒られますよ」
「別に、構いやしないさ」
「ほんとに?」
「……お前が悲しむなら、諦める」
 自分よりもディーノを気遣う声に胸を反らすが、確かめるべくもう一度問われると途端に気弱になってディーノは指の力を緩めた。
 するりと白く細い手が間をすり抜けていく。
「ごめんなさい」
「謝らないでくれ」
「けれど」
「お前が選んだんだ、あいつを」
 だからそんなに自信なさげな顔をして、申し訳なさそうに言わないで欲しい。ディーノの頼みに相手は哀しげに睫を伏し、小さく頷いた。
 背筋をすくっと伸ばし、着物の裾を揺らす。畳に擦るかどうかの瀬戸際で震えた山吹色の長衣にまで視線を落とし、ディーノは恐らくこのまま立ち去るであろう相手が向かう先を想像して、苦々しい気持ちで唇を噛んだ。
 しかし。
「えいっ」
 若葉色の畳を泳ぐ赤を避け、軽い掛け声とともに小さな身体は宙を舞った。
「え――って、おわっ!」
 何事かと膝の上から引き潮のように去っていった緋色を追ったディーノは、鮮やかな山吹が入れ替わりに自分の眼前に飛び込んで来る様に目を剥いた。驚いている暇もなく、彼のがら空きになった膝に勢い良く重い塊が落ちてくる。
 受け止めなければと下半身に力を集めるが、少しばかり落下速度が予想よりも速かった。背中を胸板にぶつけられて肘が鳩尾に入り、これはわざとやっているのかと勘繰りたくなる見事な連続攻撃にディーノは息を詰まらせて苦悶する。胡坐を組んでいたその膝をも押し潰されて、肩に引っ掛けているだけだった打掛がずり下がった。
「あっ、ごめん」
 やった当人はディーノがそこまで無防備だったとは思っていなかったようで、慌てて口元を手で覆い隠して振り返る。跳ね返った毛先から覗く琥珀色の瞳が薄闇の中にあっても綺麗に輝いていて、大粒の宝石に映し出される己の姿にディーノは苦笑をもって返した。
 稀有なる力を持って生まれてきてしまったが為に、周囲に振り回されてばかりでなかなか己を前面に出す事が出来ずにいたこの子を、最初に見つけたのはあの男だ。あの無感情の鉄面皮で、冷酷非道とまで畏れられていた男が、たったひとりの人間に固執していると聞いた時は流石に耳を疑い、何かの冗談だと笑い飛ばした。
 けれど地上に降り立ち、心から安らいでいると分かるあの男を見て、あいつにあんな顔をさせるのがどういう人間なのか俄然興味が沸いた。
 そう、最初はただの、ちょっとした好奇心だった。
 それなのにいつの間にか自分もがこのちっぽけな存在に一喜一憂し、たわいもない言動に喜んだり悲しんだりしている。
「いいのか?」
 膝の上で不安に揺れている瞳を覗き込み、問いかける。ディーノが平気そうだと悟ると、あちらはやっと表情を綻ばせて小さく舌を出した。
「いいんです、これは」
 自分から甘えに行ったのだから、文句は言わせない。堂々と言い切って姿勢を戻し、ディーノの胸板に背中を預けて座椅子代わりにしてしまう。両足を伸ばして畳に投げ出せば、山吹色からはみ出た合計十本の指が可愛らしく踊った。
 ディーノのすぐ目の前にも、癖毛で跳ね返ったまま直らない髪が舞う。彼は両側に広げたまま行き場を失っていた腕を下ろし、そっと、膝の上の存在を大事に抱きかかえた。
「あんなに小さかったのにな」
 昔は膝に載せてもディーノの首の位置まで頭は届かなかったのに、今は肩を余裕で追い越している。それでもまだ全身にすっぽりと包み込める背丈なのが嬉しくて、ディーノはほんの少し力を加えて苦しくない程度に甘えてくる背中を抱き締めた。
「懐かしいですね」
「そうだな」
 こうやって膝に載せて独り占めする機会も、この子があの男を選び取った段階でなくなってしまった。以前は自分が構いたがり屋なのもあって、あの男の膝にいるのを無理矢理奪い取り、いい男がふたりして真剣に殴り合いの喧嘩までやって、間に挟まれたこの子を大泣きさせてしまったこともあったのに。
 ディーノにしてみれば瞬きするだけの時間にも等しい短さだったが、生まれて老いて死ぬ運命にあるこの子にしてみれば、数年という期間はとても長いものだったに違いない。
 この間には様々な出来事が起こり、基本的に介入が許されない立場にあるディーノは傍観者に徹せねばならない苦しみに苛まれ、時には己の立場を忘れそうになったこともあった。
 けれど出来なかった。自分自身に課せられた重荷をかなぐり捨ててまでこの子の為に在ろうとする、その覚悟がディーノには無かった。
 その意識の差が導いた結末が、これだ。
 細い肩に額を埋め、ディーノは顔を伏した。髪の毛に首筋を擽られ、遠くを見ていた琥珀が細められる。
「なあ……」
 低くくぐもった声に自分自身でも驚きながら、ディーノは整った鼻梁を僅かに浮かせた。
「はい」
 返す声は、春に咲く淡い薄紅の花を思わせる唇から、するりと零れ落ちていく。
「俺じゃ、駄目か」
 それは幾度と無く繰り返された問い。そしていつだって、答えは決まっている。
「無理、です」
「どうしてもか」
「どうしても、です」
「俺なら、――俺だったら、お前をもっと、生かしてやれる。お前を、助けることだって出来るかもしれない。このまま俺に、おめおめとお前を失えって言うのか」
 縋りつくディーノの手に掌を重ね、身動ぎひとつせずにただ琥珀は瞼を閉ざし、あらゆる光を遮った。
 脳裏に思い描いているだろう相手を、ディーノは良く知っている。揺ぎ無き信念と確固たる意思を持ち、浮雲の如く漂いながらも決して他者に流されること無く、己の信ずる道をただ一直線に貫き通す。守ると決めたものに対してはいかなる犠牲を払おうと、たとえそれが天より与えられた力であっても、躊躇せずに打ち棄ててでも守り抜く。
 ディーノが持ち得なかったものを、あの男は持っていた。
 だからこの子は、ディーノではなく、あの男を選んだ。
 それだけの事、なのだ。
「お前を……死なせたくないよ」
 神も涙を流せるのだと、まるで他人事のようにディーノは考える。
 触れられた手は暖かく、柔らかい。まるでこの子の心そのもので、だからこそ余計に喪い難いのにそれは叶わない。
「まだ出来上がったばかりじゃないか、ようやく礎が固まったばかりだっていうのに。お前は、どうしてそんなにあっけらかんとしていられる」
 まだ時ではない、逝くには早すぎる。懸命に踏み止まらせようとするディーノの声に、しかし甘茶色の髪の毛は彼の前で横に振れるのみ。
 沢山のものを犠牲にして、大切な人を喪って、奪われて、それでもなお作ると誓ったものが漸く日の目を見て、これからだという時期なのに。か細い糸は実に呆気なく切れようとしている、たったひとつのものを遺す為に。
 ディーノの手を握る手が、その身の腹部へと彼を誘う。触れた瞬間ぴくりと肩を震わせた彼だったが、大人しくされるがままになって帯締めを親指の腹で擦った。
「だって、終わりじゃないから」
 朗らかな笑みを浮かべて明るく言われてしまうと、ディーノも返す言葉が見付からない。ちぇ、と分かりきっていた答えに唇を尖らせた彼に声を立ててまた笑って、踵で畳を叩いたその細い身体を、ディーノは割れ物を扱う手つきで抱き締め直した。
 背筋を伸ばし、耳元に当たる彼の金髪で耳朶を擽らせながらまだくすくすと笑っている顔が見えないのが、少し残念だった。
「なあ、今、幸せか?」
「はい」
 ディーノの質問にも臆面無くきっぱりと言い切って頷く。心底そう思っているからこそ出来ることであり、最早自分がしてやれることは無いと彼は皮肉げに口元を歪めた。
 ならばもう、信じるしかない。
「お前が幸せのままでいられるように、だったら俺が、お前らを守ってやるよ」
 傍に居てやれないのなら、せめて上から見守るくらいはしてやりたい。それくらいなら、あの男だって許してくれるだろう。
「お前らの幸せを、俺が守ってやる」
「ほんとに?」
「ああ」
 疑ってかかっている相手に真顔で頷き、ディーノは誓いを新たにする。
 馬鹿な男だと自分でも思う、人間ひとりにこんなにも入れ込んで、熱をあげて、振り回して、振り回されて。神としての地位も力も何もかも失って構わないと一時でもそう思った、けれど踏み切れなかったのは自分の弱さだ。
 この手が他の男を選び取ったのは当然の報いだろう、けれどそれでも、諦めきれないのだ。
 だからこんなところで、絆を残そうとしている。無理矢理に割り込んで、自分の居場所を、欠片でしかないとしても、手に入れようと躍起になっている。
 惨めだと笑われても構わない、こうでもしなければ自分はきっと、壊れてしまう。
「約束する」
「……じゃあ、お願いしちゃおうかな」
 ディーノの手を強く握り締め、己に押し当てた琥珀は少し淋しげな色を浮かべた。
「代わりに、見守ってください」
「太陽と大地の加護を、誓おう」
 それが出来るのは、他でもないディーノだけだから。
 数秒の逡巡の末に息を吐き、目を閉ざした肩が震えているのをディーノは気づいていた。けれど敢えて何も言わず、最早どうにもならないその体躯を大切に愛おしみ、両腕で支えてやった。
「なあ、もうひとつ、聞いてもいいか」
「はい」
「俺のこと、……少しでも、その」
 閉じている襖の向こうに気配を感じる。本当は横になっていなければならない身体に無理をさせているとディーノも分かっていながら、せめてあと一秒でも長くと祈らずにいられなかった。
 本当は何度も聞く機会はあった、会えさえすればいつだって問うことは出来た。
 ただ怖くて、拒絶されるのが嫌で今まで聞いた事がなくて、ディーノは今でも最後まで口に出せずに迷っている。
「なあ、――」
 名前を呼んで、そして。
「好きですよ」
 問わずして、答えは。
 けれど、振り返ってはくれなかった。
 ディーノは思いも寄らぬ答えに言葉を失い、瞬きも忘れて空色の瞳を見開いた。
 膝の上で悪戯っぽく笑いながら、琥珀は柔らかい光をそこに宿す。
「じゃあ、……あいつは?」
「意地悪ですね」
「そう。知らなかったのか?」
 宙を蹴った踵が、畳に落ちていく。からかう色を含んだ声に低い声で返したディーノは、返されたことばに打ちひしがれながらも妙に清々しい気持ちで、瞼を下ろした。
 抱き締める身体は、暖かい。
「一緒にいられないなら、いっそ――」
 まっすぐに告げた琥珀色の瞳は、今は閉ざされている襖の向こうだけを見ていた。

 ハッとして目を見開いた瞬間、耳に飛び込んできたのは長閑な鳥の囀りだった。
 ディーノは暫くの間最初の姿勢で停止し、何故自分がこんな場所にいるのかを懸命に考える。こんがらがった糸を一本ずつ解していくに従って、徐々に膨れ上がっていた感情は平静さを取り戻し、情けなくも狼狽して泣き叫びたかった自分を堪えた彼はゆるりと首を振って身を起こした。
 額に押し当てた掌は湿っており、手首を中央に据えた視界は玉砂利に覆われた境内を照らし出している。彼は深々と息を吐き出し、肩から力を抜いてその場に座り直した。
 広げた膝の上に両腕を下ろし、緋色の打掛を肩に羽織り直して漫然と目の前の光景を眺める。境内よりもずっと高い位置にいる彼からは、玉砂利の白を越えて眼下に広がる鮮やかな緑が眩しく見えた。
 深い山々に囲まれた盆地だ。開かれているのは彼が正面に見詰める南側だけであり、北側には彼が在る山が鎮座していて道を塞いでいる。両翼に裾野を広げる山もまた険しく峰を重ねており、慣れない足で越えるのは至難の業であろう。
 それにこの近隣一帯の山は霊峰として古くから崇められ、禁足の地として定められていた。もし獣を追って道を違えた狩人があったとしても、目に見えぬ不可思議な力が働いて人を寄せ付けない。故に並盛山を中心に据える周辺は以前から、神隠しの山としても有名だった。
 沢田家がここに居を構えて百余年経つが、この家は元々霊山に仕える巫女の家系だった。一旦血脈が途切れたかに思われたそれを盛り返したのが沢田の祖先であり、蛤蜊家にも連なる一連の血筋に当たる。
 ディーノは両腕を頭上高くまで持ち上げて背筋を伸ばし、頬に触れる夏を思わせる熱を含んだ風に息を吐いた。
 暦は既に秋、本来ならもっと涼やかな風が吹いていて可笑しくない季節。しかしディーノの眉間の皺を深くさせる異常気象は一向に収まる気配を見せず、そろそろ地界の人間たちもなにかしら変だと気づき始めている。
 混乱が大きくなりすぎる前に、事を片付けなければならない。しかし主犯は人間だという話だ、星の数ほどいるその人間のうちから、たった一人を見つけ出すのは困難を極める。探す前からお手上げ状態で、ディーノは首の後ろを撫で、肩を落とした。
 並の人間ならば、火烏の力に耐えられない。一秒としないうちに内側から焼かれ、逆に命を奪われるだろう。
 そうなれば火烏は自由の身となり、方々を荒らし回っているはずだ。しかし今のところディーノの耳にはそれらしき報告があがっておらず、各地方へ派遣した眷族からも有益な情報は何一つ伝わってこない。
 彼は難しい顔をし、両肘を立てて左右の指を絡め合わせた。眇めた目で遠くの空に靡く雲と、隠れもせずに地表を照らしている小憎らしい太陽とを見詰める。
 燃え滾る炎の輪郭が二重になって見えるのは、決して彼の錯覚ではない。少しずつ影響は地上に現れている、全てが焼き尽くされる前に手を打たなければ。
 しかし、行方が掴めなければ動きようが無いのが現実というもの。
「あー、くそったれ」
 昨日リボーンにこっぴどく叱られたのが、未だに尾を引いている。
 確かに知らせなかったのはディーノの落ち度だが、今はこの地で他と交わらず、他と関わらずに安穏と過ごしているだけの彼を巻き込むのは気が引けた。出来れば極力関わらせたくなかったのだけれど、最早そうも言っていられない状況が目の前に広がっている。
 地上の人々を愛し、憂い、見守る姿勢にある彼にひと月近く報告せずにいたのを怒られたのは、当然と言えば当然だろう。それで助力を仰げるのであれば、安いものだ。
「しかしな~」
 胡坐を組み直し、足首に左右逆の手を置いて軽く握らせたディーノは、ぶつぶつ愚痴を零しながら鮮やかな金髪を日の光に晒した。
 まさかあんな辺鄙な場所が襲われるとは、思いもしなかった。そもそも火烏の存在は極秘であり、知る人間はごく僅か。封じられている場所も限られた家系の、口伝による継承しか認められず、書物に書き記されて広まった可能性は低い。
 過去に一度、様子を確認する際にディーノは雲雀を同行させたことがある。まだひとりで歩くのもやっとな頃だったので本人が覚えているかは甚だ疑問ではあるが、神威に守れた子供でさえ封じられた火烏から僅かに漏れ出す瘴気に酷く怯え、怖がって近づこうとしなかった。
 そんな禍々しい炎の翼を持つ存在が、どうしてディーノに感知されずに移動を果たせるのか。恐らく器――その資格を有する人間の中に封じられたのだろうが、果たして本当にそんな事が可能なのだろうか。
 無意識に親指の爪を噛んだディーノは、その手で乱暴に自らの髪の毛を掻き毟って低く呻く。
 雲雀がそうではないかと疑った一瞬もあったが、あの様子では違うし、何も知らないままだろう。綱吉は器となる資格を充分兼ね備えているが、こちらも違う。ならば、いったい誰が。
「……」
 脳裏に過ぎった忌々しい過去に、ディーノは渋面を作って舌打ちした。
 それはありえない、あの男はとうの昔に朽ち果てた。己自身が地獄の業火となり、望んで輪廻の世界へと堕ちていったあの男が、再び現世に舞い戻ってくる可能性など、考えたくもない。
 けれど確かめたわけではないのにそうだと決め付けるのは危険すぎる。早計すぎる自分を反省し、ディーノは再び眉間の皺を深くして遠くを睨んだ。
 気に掛かることは他にもある。昨日山本から聞かされた、退魔師を狙う謎の殺人者もそのひとつ。現場を見たわけではないので詳細は解らないが、殺害方法が常軌を逸している上に、徐々に本家に近づいているという話は見逃すことが出来そうにない。
 直接力を揮うことは叶わなくても、あの家を守るのも約束のひとつだ。
「どうすりゃいいんだ」
 使命と、約束。自分はどちらを優先させるか。
 悔しげに臍を噛んだディーノは、遅いながらも確実に近づいてくる人の気配に気づいて顔を上げた。見下ろせば地上から境内に続く石段を登ってくる人の姿がある、村娘が三人ほどだ。
「やべっ」
 見付かるとまずい。ディーノは咄嗟に打掛を引っつかむと長く座ってすっかり暖まってしまった桧皮葺の屋根の上に立ち上がり、下駄を打ち鳴らして地面へと降り立った。そして鳥居を潜り抜けて一直線に石畳の参道を突っ切ってくる若い娘達に悟られぬよう、素早く本殿の後ろ側へと回り込む。
 北側となるそこは日も当たらずに薄暗く、緑の木立に囲まれて静かな中に鳥の声が幾つも交じり合う不可思議な空間を演出していた。
 注連縄が巻かれた、しかし根元近くで真っ二つに折れてしまっている楠がそのままの状態で横たわっている。幹の太さはディーノが両手を広げて抱きついても指先が向かい側で触れ合うことはないほど巨大だが、威風堂々とこの地に根を張って枝を広げていた時分の面影はもうどこにも残されていない。
「そっか。倒れちまってたのか」
 呼びかけても反応がない神木に眦を下げたディーノは、役目を終えて静かに眠っている偉大なる並盛の守護者のひと柱に対し敬愛の意を込めて瞑目した。そして瞼を持ち上げて、嘗て神木だったものの中腹にあった大きめの洞に隠れる毛むくじゃらの小さな存在に目を留めた。
 あちらもディーノが自分に気づいたと察し、びくりと全身を震わせると慌てた様子で洞から抜け出し、山の上へ駆け出して行った。引き止める暇もないほどの素早さであり、呆気に取られた彼は出しかけた手のやり場に困って苦笑した。
 肘を引いて戻す仕草の最中に再び折れた神木の根元に目をやって、其処から芽吹いているまだ若い楠の存在を知る。ならば今の子はこの若芽の、と前方に視線を向けたところで、あの白と黒の斑模様が特徴的な服装の幼子の姿はもう見えない。
 壮年の楠の精霊とは酒飲み仲間だったのだが、いずれはあの子と杯を酌み交わすこともあるだろうか。あったとしても当分先のことになりそうだと肩を竦めたところで、彼の背後に控える本殿から甲高い複数の声が聞こえて来た。
「村の直ぐ近くまで来てるみたいですよ~」
「まだ若い男の人ばっかりだったって」
 きゃっきゃとはしゃぐ声は姦しく、先ほど石段を登ってくるのが見えた少女たちだとディーノは気配を殺して振り返った。しかし建物が邪魔をして視界に直接姿が入ることは無い、ただ声だけが続いている。
「貴方達も、好きね」
「え~、花ちゃんは気にならないですか?」
「私は別に、どうでもいいわ」
「でも、花ちゃん、今日は随分とおめかししてない?」
「ちょっと、やだ。京子ったら何言ってるのよ!」
 指摘を受け、ほんの少し低めの、落ち着いた声をしていた少女が急に狼狽して怒鳴る。自分が叱られたわけでもないのにディーノまで首を竦めてしまったくらいだから、向き合って言われた残るふたりもさぞかし目を丸くしていることだろう。
「花ちゃん、顔真っ赤です~」
「ハルも!」
 変なこと言わないで、と叫んだ彼女はさぞ顔を真っ赤に染めあげているに違いない。残るふたりが楽しげに笑っていて、実に仲が良い三人を想像してディーノは感慨深く笑みを浮かべた。
 自分たちにもあんな風に、一緒に居るだけで幸せな時代があった。ただディーノたちと彼女達と違うのは、最初、四人だったこと。そしてあの子が、たったひとりを――あの男を、選んだこと。
 気持ちが暗く沈もうとしていて、ディーノは慌てて首を振る。あんな夢を見るから、全部思い出してしまうのだ。
 リボーンに言われた内容も、心に引っかかっている。喉の奥に小骨が刺さったままのような、ちくちくと体の一部が痛むのに手が届かなくてどうしようも出来ない感覚に近い。
 嫌な感じだ、と自分の喉仏に触れて彼は下唇を噛んだ。少女達の笑い声は、今も続いている。
「だいたい、そういう貴方達だってどうなのよ。ハルだって、その小袖、今日初めて見たわ」
「これはですね~、お父さんが奮発して買ってくれたんです~」
「へ~、可愛いね」
「でしょう~? ハルは、この一年で成長した姿を、帰って来たお婆ちゃんにしっかりと見てもらうんです」
 境内に少女達の明るい笑い声が響き渡る。
「もう帰ってきてるかもね。うち、昨日迎え火焚いたし」
「うちもです~。はわわ、じゃあお婆ちゃん、もうこの辺にいるかもしれないですか?」
「まったく、どうせ居ても見えないわよ」
 呆れ声を出した花という名の少女に、ハルと呼ばれた少女がしょんぼりとした声で返す。
「それは、そうかもしれませんけど~」
 よっぽど言い負かされたのが悔しいのか、どんどん飛び跳ねる音まで聞こえて来た。騒々しい足音に京子というらしい少女が益々声を高くして笑い、つられる形で残る三人も揃って腹を抱えたらしい。
 長閑な午前の、穏やかな時間が流れて行くのが分かる。
「精霊会か」
 命を天に返した祖先の魂が戻って来ると伝えられる日だ。同時に地上に這う様々な魑魅魍魎も活気付き、不可解な現象が様々に起こる日でもある。その日が近づくにつれて並盛山に群がる精霊や、悪霊の類も数を増していく。
 ただ今年は、ディーノがいるからだろう、騒々しい目に見えぬものたちの声はあまり聞こえてこなかった。
 参拝を終えた少女達が楽しげにお喋りを続けたまま、境内を来た時と逆の行路で歩き出す。石段を降りる手前で眼下に広がる景色に歓声をあげて、彼女達は去った。
 喧騒は遠ざかり、また静寂が幕を下ろす。
 ディーノは顔を上げた。枝を縦横無尽に伸ばして緑を広げ、積極的に太陽に向かって背伸びをしている木々の隙間からほんの少しだけ光が漏れて、彼の頬を白く濡らした。
「精霊会……」
 ぽつり呟かれた言葉は、風になり空へ消えて行く。
 ざわめきが周囲を包み込んだ。
「あいつも、戻って来てるのかな」