銀輪

 今度の休日、みんなでサイクリングに行きませんか。
 ハルの突飛な発案は、今に始まったことではない。今回もいきなり何を言い出すのかと思いきや、山本は面白そうだなと同調を示し、京子まで楽しそうと手を叩く。獄寺は面倒臭いと言いつつも顔は別に構わない、という表情を作っていて。
 だから、期待に満ちた視線を一斉に向けられ、綱吉も頷くしかなかった。
 この状況で言えるわけがない、嫌だ、なんて。
 違う、嫌なのではない。ただもっと根本的なところで、綱吉に問題があるだけで。
 山本、ハル、京子の三人はさっさと行き先や集合場所、持って行くもの等に話題を移し変えていて、了解の返事をした今、とても言い出せる雰囲気ではない。綱吉は部屋の中心に置いたテーブル前でもぞもぞと、自分の部屋なのに居心地悪そうに身体を揺らす。
 そんな綱吉の横顔を、獄寺は頬杖ついてじっと見ていた。

「十代目」
 サイクリングは来週の日曜日決行となり、めいめい自転車の整備をしておけよ、と約束して解散となったその翌日。
 気が重いと溜息混じりに学校を出た綱吉を、獄寺が走って追いかけて来た。
「んー?」
 陰鬱な気持ちを隠しもせず、どよんと暗い雲を頭に載せた綱吉は息を弾ませて鞄を胸に抱えている獄寺の、一寸だけ明るく陽気な表情を鬱陶しそうに睨み返す。けれど獄寺はやや困った様子は見せるものの、明るい表情は崩さぬまま今日この後予定はあるかと聞いてきた。
 家に帰っても、やることは宿題くらいしかない。部活動をやっているわけでもなし、遊びに行く約束もない。それこそ家の裏口に停めてある、家光の、長年使われた形跡が無い蜘蛛の巣だらけの自転車を掃除するくらいしか。
「なに?」
 剣呑な綱吉の声に臆しもせず、獄寺は晴れ渡る秋の空を思わせる笑顔を浮かべ、俺の家に来ませんか、と綱吉の左手を取った。
 思いがけない誘いに綱吉は困惑するが、先にも確認した通り特別用事も無い。断る理由も思い浮かばず、綱吉はふたつ返事で彼に頷き返す。
「なにか、あるの?」
「はい」
 一日中沈みっぱなしだった気持ちが少しだけ浮上して、獄寺の気遣いに感謝しながら向かった彼のマンション。てっきり部屋でゲームでもするものと思いきや、荷物を置いてまた外に出た獄寺が綱吉に見せたもの。
 マンション横、自転車置き場。
 赤いフレームのまだ真新しい、マウンテンバイク。
「十代目、自転車に乗る練習しましょう!」
 ぐっ、と握り拳を胸の前で作り出した獄寺に対し、綱吉は虚を衝かれて言葉を失った。
「……知ってたの?」
「あれ、違いましたか?」
「あってる、けど」
 そう、綱吉は自転車に、乗れない。
 元々不器用で運動音痴、引っ込み思案の性格で友人も少なく、自転車を使って遠出する機会にも恵まれなかった。駅までは徒歩でいける距離だし、日々生活するのに乗れなくても困らない。けれど中学生にもなって自転車に乗れない、というのは言い出すにも恥かしく、またひとりで乗る練習をするのも格好悪い。
 気づかれないように隠していたのに、ばれていたと知ったら尚更。
「いいよ。俺、日曜は風邪引いたことにするから」
「でも」
 仮病を使ってでも誤魔化すつもりでいたのに、出鼻を挫かれた。
「ひとりだけ留守番は、十代目も淋しいでしょう?」
 下から顔を覗きこまれ、薄暗い駐輪場で綱吉は顔を赤くする。意図しない獄寺の接近に、綱吉は視線を泳がせて彼の胸を押し返した。
 嫌だと言っても、彼はどうせ聞いてくれないに決まっている。
「別に、寂しくなんか」
「俺が淋しいです」
 それでも決心がつきかねてしどろもどろに言い返せば、真顔の彼はまたずい、と綱吉に顔を近づけてくる。
 照れもせず、遠慮もなく。どうしてこう、彼はずかずかと人の心の中にノックもなしに上がりこんでくるのだろうか。綱吉は本格的に諦めの境地に陥り、絆された自分の負けを認めてマウンテンバイクのハンドルに手を伸ばした。
 こうして行きがかり上自転車に乗る練習を始めてはみたものの、そう簡単に乗れました、と事が解決するわけがない。
 なるべく人が居ないところが良い、と恥が先立って我侭を言った綱吉を獄寺が連れて行ったのは、マンションから十分ほど離れた小さな公園とその脇の道路。中心部から遠ざかった所為か周囲に建物は少なく、なだらかな丘陵の両側には畑が広がり、公園も遊具らしきものはないただの広場だった。
 夕暮れにはまだ少し早く、街灯にも火は灯らない。三輪車に乗った幼稚園児をつれて若い母親が帰っていくのとすれ違って、綱吉は何気なくその背中を目で追いかけた。
 広場は縦長で、仕切りが無いので見通しが良い。ただ周囲の住居は古くからある平屋建てが大半で、人の往来は綱吉が思うよりずっと少なかった。
「どうぞ」
 赤い自転車をその広場の端に停めた獄寺が、綱吉を手招く。導かれるままに座席に座った綱吉だが、ハンドルを握ったところでその次に困ってしまい、横で見ているだけの獄寺に助けを求める視線を送った。
 サドルの高さも、獄寺のサイズに合わせてあるので少し高い。伸ばした爪先が辛うじて地面に届くくらいで、両足で支えて踏ん張っていると太股の筋がのびそうだった。
「あの……」
「乗った事、一度もないんですか?」
「うん」
 ポーズだけは作ったものの、其処から先動き出さないでいる綱吉に首を傾げた彼の問いに、綱吉は消え入りそうな声で頷き返す。
 正直言えば獄寺相手でも恥かしいのだ、こういう自分を曝け出すのは。呆れられるのではないかと思うと、怖い。自転車に乗れないのは自業自得だから諦めもつくが、折角獄寺が好意で練習を提案してくれて、それでも乗れるようにならなかった時の事を考えると膝が竦む。
 獄寺も人に教えるのは初めてのようで、困惑気味に瞳を揺らして頬を掻いた。ひとまず、と咳払いをして自転車が走る原理から説明を開始しようとした彼だったが、話が長くなりそうだと察した綱吉によって強引に会話を中断させられた。
 試しに漕いでみてくださいといわれ、綱吉は恐る恐るペダルに右足を移し変える。途端重心の位置が変わって身体がぐらつき、ハンドルを握る手が汗で滑った。
 支えを失い、音を立てて綱吉はその場で横向きに倒れる。埃が舞い上がり、顔を背けた獄寺は二秒後、半泣き状態の綱吉に慌てて膝を折った。
 よもやここまで酷いとは。一瞬匙を投げたくなった獄寺だが、ここで自分が見放しては一生綱吉は自転車に乗れないままだ、と無駄な義務感に駆られて急ぎ自転車に踏まれている綱吉を抱き起こす。
「大丈夫ですか、十代目」
「……大丈夫に見える?」
 新品のフレームも土埃に汚れて色がくすんでいる。口では拗ねた風に言ってみるものの、綱吉自身も内心ショックを隠せなかった。
「ともかく! ゆっくり、少しずつ練習していきましょう」
 必ず乗れるようになりますから、と根拠も無く言い切って獄寺は自分の胸を叩く。
 しかし初日はペダルに片足を乗せ、残る片足でバランスとって立つ練習だけで終わってしまった。二日目は獄寺に後ろからサドルを支えられた状態で、両足をペダルに乗るところまで。三日目で漸く漕ぐところまで進んだが、獄寺の補助無しでは三秒と経たずに綱吉は地面に寝転がる。四日目、いい加減へこたれそうになった綱吉だったが、なんとかよろよろと蛇行しつつ三メートルほどは進めるようになった。
 ただし、どうやっても真っ直ぐ進めないのだ。これでは公道を走るのは危険極まりなく、ふたりの間にも諦めムードが漂い始める。
 所詮自分には挑戦するだけ無駄な行為だったのだと、数日ですっかりボロボロになってしまった獄寺の自転車を爪先で蹴り飛ばした綱吉に、獄寺は一か八かと、公園を出て外の道を走ってみないかと提案した。
「……無理だって」
「車は来ませんし、大丈夫ですよ」
 赤焼けた陽射しを浴び、銀色の髪を金色に染めた獄寺が綱吉ごと自転車を強引に広場の外へと押し出す。その道はなだらかとはいえ下り坂で、勢いつけば一瞬で速度があがるのは目に見えて明らかだった。
 連日の特訓でどうにか乗れるところまでは来たものの、走るには程遠い綱吉にとって、怖いことこの上ない。絶対に手を離さないでくれと獄寺にしつこく頼み込み、恐々サドルに腰を落ち着けた綱吉は、丁度暮れかかる西の空が正面にきている様に目を細めた。
 恐怖心はあるけれど、不思議と心は落ち着いている。淡いオレンジ色が靡く雲から顔を半分だけ覗かせていて、眩しいけれど気持ちの良い明るさだった。
「行きますよ」
「は、放さないでよ!?」
「分かってますって」
 そっとアスファルトから爪先を離し、ざらついたペダルに靴の裏を押し当てる。ゆっくり慎重に、体重を前へ押し出す感じで踏み込めば、身体が覚えたタイミングで二輪車は静かに前へ動き出した。
 ギ……とチェーンがギアに絡む感覚が肌を伝って綱吉の心臓を打つ。少しずつ、少しずつ、確実に、ゆっくりと。自分に自己暗示をかけながら、綱吉は乾いた唇を舐めて唾を飲み、背中に獄寺の気配を確かめながら下り坂のスタートラインに向かってハンドルを握り締めた。
 一歩漕ぐ毎に心臓がどきどきと脈打つ。緊張で全身の筋肉は強張り、表情も硬い。夏も過ぎたのに掌どころか背中まで汗びっしょりで、吐く息は熱が篭もり自然呼吸も早く、間隔も短くなる。
「十代目、前、しっかり見ていてくださいね」
 獄寺の声は真後ろから。
 彼が居なければ自転車に乗ることすらなかっただろう、最初から諦めてはいけないと教えられた気がして、いくら感謝しても足りないくらいだ。
 出来るなら日曜にみんなと、いや、こんなにも自分に親身になってくれた獄寺と、彼の為にも走りたい。
 切に願い、綱吉はハンドルを握る手に力をこめた。
 教えられた通り姿勢はやや前屈みに、左右均等に体重を配分して、前輪と後輪が一直線に並ぶように。余計な力はかけない、ペダルを踏み込むのは遅すぎても良くない。ひとつずつ順繰りに記憶を辿り、丁寧に体の隅々まで命令を送り出して綱吉は吸った息を吐いた。
 顔を上げる。前髪を擽るように、正面から風が吹いた。
「あ……――」
 丘陵線の向こう、遠く彼方に海が見える。沈み行こうとする太陽が空と海の両方で輝き、棚引く雲が目の醒める朱色に染まって蒼と交じり合い不可思議で美しい文様を描き出していた。
 思わずペダルを強く踏み込み、反動でサドルから腰を持ち上げる。自分が自転車の上にいるのも忘れて背筋を伸ばした綱吉は、数秒後思い出して真後ろにいる獄寺にも教えてやろうと振り返り、そして。
 後方でひらひらと手を振り、見送る姿勢を作っている彼に、悲鳴をあげた。
 

2007/8/29 脱稿