悪食

 鰯雲が空を細かく切り刻み、斑模様を彩っている。
 秋はすっかり深くなって、冬の一歩手前。テレビでは紅葉で鮮やかに染まった何処かの寺院を映し出していた。
「日本って、やっぱ寒いな」
 コタツでもあればよかったのだが、生憎とあれはリビングで主役を張っており、今はリボーンとビアンキに占領されている。だから仕方なく綱吉の部屋に少し早い暖房を入れて、南国育ちとまではいかないものの、比較的温かな気候で育った彼を迎えることとなった。
「冬になったらもっと寒くなりますよ」
 カレンダーはまだ十一月だ。一応冬の始まりに当たるが、本格的な冬到来はもう少し先のことになる。
 苦笑を返した綱吉は両手に持った盆を部屋中央のテーブルに置き、それから開けっ放しにしてあったドアを閉めた。廊下側から流れ込んでいた冷気は途絶え、天井付近に設置された空調の動く音が低く耳に響く。
「はい、どうぞ」
「お、サンキュ」
 盆から降ろしたカップをディーノの前に置き、自身の分もテーブルへ移し変えて盆は脚に立てかける。一緒に持ってきたクッキーの皿は真ん中に置くと、温かな湯気に仄かな甘い香りが気持ちよく鼻腔を擽った。
「悪いな、急に押しかけたのに」
「いいですよ、いつものことだし」
 乳白色のカップを回し、左手で持ち上げたディーノが向かい側に座った綱吉に礼を言う。彼が前触れも無くやってくるのは毎度の事なので、綱吉としてはもう慣れっこだったのだが、笑い返した途端ディーノが若干渋い顔をしたのは、皮肉と受け取られたからだろう。
 音を立てて紅茶を啜られ、自分の失言に気づいた綱吉が小さく舌を出す。
「すみません、そういうつもりじゃ」
「んー? なにが?」
 小声で詫びた綱吉にとぼけたフリをして受け流し、この話題は終わりだとディーノがカップをソーサーへ戻す。だが下ろす時に指先が滑ったのだろう、ガチャンと大きな音を立てて前方に傾いたカップから薄茶色の液体がソーサーに溢れ出た。
「うわっちゃ」
 零れた量はそう多くない。しかしディーノは非情に気まずい顔をして俯き加減に綱吉を窺い見て、しょんぼりという効果音を背後に背負って大きな背中を小さく丸めた。
 見た目は立派な青年なのに、あまりにも子供っぽい落ち込み具合に綱吉が噴出す。
「大丈夫ですよ、テーブルに零れたわけじゃないですし」
 幸いカップに罅も入っていない、無事だ。だからそう気に病むことはないと年上であるはずのディーノを慰め、綱吉は気を取り直してくれとばかりに目の前のクッキーの皿を彼の側へ押し出した。自分は愛用のマグカップに口をつけ、舌を火傷しないように慎重に、まだ熱いココアを啜る。
 カップの縁を指でなぞり、濡れていた箇所を拭っていた彼は、綱吉が怒っていないことに安堵してからほっと肩の力を抜いた。一緒になって屈託ない笑顔を向けてくる彼に、これではどちらが年上なのか分からないなと綱吉の苦笑を誘った。
「どうぞ」
「おう」
 そうやって正面から笑顔を向けられるのも照れ臭くて、綱吉は誤魔化すみたいにクッキーへ掌を向ける。促されて頷いたディーノは、気落ちしていたのが嘘のように明るい顔をして皿へと手を伸ばした。
 骨ばった、しかししなやかな指先がこげ茶色のチョコチップクッキーをひとつ摘み上げる。
 彼の中指には大きめの指輪、しかし獄寺が好んでつけているものとは違って飾り気も少なく、指に馴染んですっきりした印象を見る側に与えてくれる。形状は非常にシンプルなのだが、ディーノの容姿が一目を引く派手さを孕んでいるので、これくらいが丁度いいのかもしれなかった。
「どうした?」
「へ?」
 やや歪な円形のクッキーを頬張り、食べ屑をボロボロと零しながらディーノが呟く。ぼうっとしていた綱吉は一瞬後我に返り、自分がじっとディーノの手元を見詰めていたことに気づいて慌てた。
 顔を赤くしてしどろもどろに両手を揺らすが、何を言っていいのかが分からず、パクパクと開閉する口は「あ」とか「う」とかといった意味の無い単語を連発するばかりだ。
 顔が熱い、暖房の設定温度を高くしすぎただろうか。
「ツナ?」
「いや、あの、だからその」
 心臓がばくばく音を立て、眩暈がする。ぐるぐると目が回りそうで、冷や汗を額に浮かべた綱吉を前にしたディーノは半分まで減らした(うち三分の一は彼の膝の上で細かな屑になっている)クッキーをまじまじと見詰め、何を勘違いしたのだろう、手首を返して食いさしのそれを綱吉の顔に突きつけた。
 虚を衝かれ、綱吉が目を瞬かせる。
「ほら、食えよ」
 両手を揃って脇へ落とした綱吉の前で、ディーノはにっこりと白い歯を見せながら笑う。少しだけ唾液に濡れた断面をずい、と寄せて来る彼はどうやら、綱吉がクッキーを食べたがっているのだと思い込んだらしい。
 確かにクッキーを啄む彼の手ばかり見ていたのは認めるが、ならばせめて食べかけではなく、新しいものを渡して欲しかったと思う。
 だが、そういう細かな事に拘らないのも、ディーノらしさなのだろうか。
「……いただきます」
 本当は少し気が引けたのだが、折角ディーノが好意でやってくれているのだ。断るのも無粋な気がして、綱吉は静かに息を吐いて心を落ち着かせると、小声で囁いてからテーブルに両手を添えた。床に落としていた腰を僅かに浮かせ、身を乗り出して目を閉じる。
 薄く広げた唇の端にクッキーの角が当たり、巧く前歯の隙間に来るように顔の位置を調整して隙間を広げた。
「ん」
 深く入り過ぎないようにディーノも角度を調整してやり、クッキーの尖っている部分を綱吉の口へと差し入れる。舌の上にざらついた感触を覚えた瞬間、彼は唇を閉ざして厚みのあるそれを二つに噛み砕いた。
 削れた表面から細かな屑が落ち、テーブルに散らばる。いくらかは皿の上に着地したが、大半は透明なガラスのテーブルに崩れ落ちていった。
「どうだ?」
「んふぉ、ひょっふぉふぁっへ」
 考えていた以上に口の中に沢山入ってしまい、細かく砕くのに手間取って巧く発音できない。唾を絡めて柔らかくしてから一気に飲みこんで、綱吉はさっきより幾分冷めてしまったココアで口腔に残っている分も洗い流した。
 口元を拭っていると、ディーノは手元に残った小さな欠片をなんの疑念もなしに口の中に放り込んでいる。
 照れも恥じもせず、実に美味しそうに食べている様に、自分ばかりが恥かしい思いをしているのかと綱吉は肩を落とした。
「どーした、ツナ」
「なんでもありません」
 疲れた顔で溜息を零した綱吉に、指についた細かな屑を舐めながらディーノが聞く。けれど答える気も起きなくて、綱吉は力なく首を振ると新しい一枚を自分の為に手に取った。
 目の前のカップの中では、ココアが弱々しく波を立てている。量はあと半分を切ったくらいだろうか、冷めてしまうとあまり美味しくないので先に飲んでしまうか、残しておくかで綱吉は逡巡する。
 円形のクッキーを半月にして片方を口に入れ、残り片方でカップの縁をなぞる。零れ落ちた欠片が新しい波を呼び、少し考えた後彼はもう半分のクッキーと一緒にカップを口元に運んだ。
 視線を感じて前を向けば、肘を立てて頬杖をついたディーノが笑いながら綱吉を見ている。
「なんですか?」
「いや、なんか、美味そうに食べてるなって」
「ディーノさんこそ」
 ぼろぼろと零しながらも一所懸命に食べている辺り、よっぽどだと思うのだが。カップを下ろして一息ついた綱吉の言葉に、彼は今頃になって膝の上がクッキー屑でいっぱいになっていることに気づいたようだ。
 慌てて腰から下は動かさぬよう上半身だけをめいいっぱい横に倒し、腕を伸ばしてゴミ箱を掴み取る。だが斜め下からゴミ箱の縁を握ったので、バランスを崩した屑入れは見事に彼の顔目掛けて転倒した。
 中に入れてあったゴミが一斉に散乱し、ディーノが悲鳴をあげる。
「うわあ」
「ああ、もう!」
 今朝が回収日だったので、中身はそう多くない。昨日のうちに不要物はまとめて捨てた後だったから良かったものの、一日ずれていたらと思うと綱吉はゾッとした。ディーノが訪ねて来たのが今日でよかったと、こんなどうでもいいところでしみじみと感じてしまう。
 膝の上の屑も盛大に床に散らばらせたディーノは、片づけようとしていたゴミを逆に散乱させて自身も床に倒れ伏すという、実に散々な状態で綱吉に肩を揺さぶられた。
「大丈夫ですか?」
「うう、いってえ……」
 しかも倒れた時に顎を打ったらしい。綱吉が膝をついて傍に行けば、涙目の彼に情けない声を出されてしまった。
 手早く彼の綺麗な金髪に被さっている紙ごみを取り除き、立てたゴミ箱に放り込んでいく。ディーノも痛みを堪えつつ起き上がるが、床に打ち付けた顎は赤く染まっていてかなり可哀想だった。
 カーペットに飛び散ったクッキー屑は、後で掃除機をかけるしかなさそうだ。手作業で集めていたら、余計に欠片を細かくしてカーペットの毛足に絡みつき、取れなくなってしまう。
 昨日まとめて掃除したばかりなのに、と心の中で嘆息して顔をあげると、目の前の男はいい年をしてしゅんと耳を垂れて落ち込んでいた。
 片付けの手伝いをして余計にゴミを散らかしてしまう、というのは以前にもあったこと。今回は言われる前に大人しくしていようと、一応学習はしてくれたらしい。
 ただ、あんまりにも身を小さくして畏まっているので、それが可哀想でもあり、可愛くもあり、綱吉は口元に手を当てて笑いを噛み殺した。
「ツナ?」
「あ、いえ。すみません」
 こんな大男をして、可愛いもなにもないだろうに。押し隠せない笑みに目尻を下げた綱吉に、ディーノは唇をへの字に曲げて拗ねてみせた。
 その顔がまた幼くて、綱吉は今度こそ声を立てて笑った。
「笑うなよー」
「だって、ディーノさん、その顔……っ」
 げらげらと腹まで抱えて床に転がった綱吉の身体を、ディーノが半泣きの声で叩いて引っ張りあげる。これでは子供の喧嘩だと思うのだが、彼は構わずに綱吉の華奢な体躯を胸に抱え込むと、笑うなと言いつつ脇腹に手をやって擽り始めた。
 これには堪らず綱吉も身を捻り、逃げようともがくが叶わない。背後から羽交い絞めにされて動きを封じられ、涙ながらに許しを請うが、ディーノは柔らかい髪を襟足に押し当てても来て、偶然吹きかけられた吐息に綱吉は心臓を竦めた。
 跳ね上げた踵が床を打ち、止まる。息さえも一緒に止めて声を堪えた綱吉の変化に数秒遅れで気づいたディーノは、膝の上で縮めこまっている綱吉の震えに慌てて両手を広げた。
「あ、悪い……」
 そこで謝られると余計に顔を合わせづらい。それにこのまま彼の膝から大人しく降りるのも癪な気がして、綱吉は赤くなった頬の熱を持て余しながら離れていく彼の手を逆に掴み取った。
 一瞬痙攣した彼の指先が、しかしややしてから静かに綱吉の胸元へ戻って来る。
「なに、嫌じゃねーの?」
 こんな風に膝に抱くのは、小さな子供扱いされているみたいだと言って綱吉はいつも嫌がる。それなのに今日は珍しく大人しいので、綱吉に掴まれた手の指を雑多に動かしながらディーノは肩越しに彼の顔を覗き込んだ。
 しかし直前でぷいっと横を向かれ、耳朶から首筋にかかるラインが見えただけに終わる。いつもより格段に赤い、桜色に染まった肌が照れ隠しだとは直ぐに分かったが、からかうとまた綱吉は拗ねるのでディーノは黙ったまま膝上で丸くなっている綱吉の身体を抱き締めた。
 薄い肩に顎を載せ、頭を寄りかからせる。ふわふわした髪の毛が互いに絡みつき、金茶色が窓に差し込む西日に照らされた。
 綱吉は分厚いディーノの手を両手で弄りまわし、端から順に折ってはまた広げていく。好きに遊ばせて貰いながらも、時折擽ったいのか肩を揺らして動くディーノに頬を膨らませ、綱吉は徐々に落ち着いていく体温と心音に安堵しながら、力を抜いて背後の彼に凭れ掛かった。
 頬を摺り寄せると、微かに甘い菓子の匂いがする。
「まだ食べるか?」
 匂いにつられて口が動き、咀嚼する動きを見せたのがディーノにも伝わったらしい。
「……ん」
 問われて深く考えぬまま綱吉は頷き、歯の隙間に残っていたクッキー滓を舌に転がした。
 後ろに座っているディーノが身体を前に倒し、綱吉も一緒になって前に身体を傾がせる。上から加わる圧力に息苦しさを覚え、眉間に皺を寄せたのはほんの一瞬だった。
 すぐにディーノは伸ばした腕を戻して肘を引き、手にしたクッキーを綱吉の鼻先へと差し出す。未だ彼の手はディーノの右手を弄り倒しており、今度は丸く拳にしたそれをぎゅっと押し潰しながら首だけを横に擡げた。
 口を開け、ぱくりとくらいつく。
 落とさぬよう唇でしっかり支えているのを確かめると、ディーノはクッキーから手を離した。しかし口からはみ出ている方が容積も大きい、バランスを取り損ねて綱吉は折角貰ったばかりのクッキーを落としかけ、慌てて下唇に力を込めた。
 綱吉が首も上向きに傾けたのに合わせ、こげ茶色の円盤が不安定に揺れ動く。
「ん」
 落ちてしまう。咄嗟に口を薄くあけて舌でクッキーを跳ね上げ、深く咥え直そうとした綱吉の目の前に影が落ち、鮮やかな空色が綱吉を覆った。
「ふぐっ」
 何かと思えばそれは真上に覆いかぶさるディーノその人であり、綱吉が片側を食んでいるクッキーのその反対側に軽く牙を立てている。
 驚きのあまり変な風に息を吸い込んでしまい、くぐもった声が零れて綱吉は目を見開く。そんな彼にディーノは悪戯っぽく笑ってみせて、そっと下から上へ力を込めて間に挟まれていたクッキーをふたつに割り砕いた。
 咥えていた面積にもよるのだろう、綱吉の側に残された分が少しだけ、小さい。
「むぐ……」
「もーらい」
 素早く舌を繰ってクッキーを頬張ったディーノが楽しげに笑う。一方の綱吉は自分の取り分が少なかったのもあって、不満顔しきりだ。
「ひどい、ですよ」
 口の端に残った滓を指で拭い、舐め取ってから綱吉がボソリと言い返す。剣呑な目つきで睨まれても、ディーノはまるで気にした様子が無く上機嫌に綱吉の肩を叩いて抱き込む。そしてもう一枚手に取ると、今度は自分の口にぱくりと三分の一を含ませた。
 ほら、という態度で綱吉に向けて外に出ている先端を揺らしてみせる。
「……子供じゃないんですから」
 なにもこんな食べ難い方法で食べさせてくれなくてもいいのに。
 ぶつぶつと文句を言いつつも、待ち構えているディーノの楽しげな眼差しには抗いきれない。
「もう」
 仕方が無いな、と肩を竦める。だが表情はどこか嬉しげに、目を閉じた綱吉はディーノに向かって伸び上がった。

2007/11/19 脱稿