奔雲

 ザァッ、と街路樹が大きく右から左へと頭を振り回す。やや色を悪くした葉が何枚か、衝撃に耐えかねて細い筋雲が埋め尽くす空に舞い上がった。
 地表では砂埃が小さく渦を巻き、人の顔目掛けて攻撃を仕掛けてくる。だが細かな砂は目潰しになる前に透明なガラス板に阻まれ、敢え無く撃沈した。
「……」
 ただ汚れは付着し、視界を一部阻害している。自然現象に文句を言うつもりはないがムッとせざるを得ず、愛用の白い帽子から手を下ろした千種は、その指で眼鏡にこびり付いた砂を削り落とした。
 後でちゃんと磨いてやらなければ。往来のど真ん中では流石の彼でも眼鏡を外す気になれず、指の油がレンズに残らないように気を配りながら、特に気になる部位だけを擦って腕を下ろす。
 雲間から覗く太陽はまだ頭上高く、目を細めなければならないまでに眩しい。
 暦上はもう秋だけれど、気温はまだまだ夏の余韻が甚だしい。残暑が尾を引くようになって、どれくらい経つのだろう。人の話では昔の今頃はもっと涼しかったと聞くけれど、そもそもこの国で生まれ育っていない手前、過去を引き合いに出されても千種には分からない。
 いや、過去の記憶というもの自体が極端に乏しいのだ、自分は。振り仰いだ上空では飛行機が轟音と共に東の空へ消えて行くのが見えて、あれは何処へ向かっているのだろうとぼんやり考えながら彼は首を振った。
 脇に抱えている紙袋を持ち直し、一瞬だけ伸ばした背中をまた丸めて歩き出す。足音を立てないようにするのは生来の癖であって、今更直しようが無い。道行く人は皆どこか忙しそうであり、時間に追われて空を見上げることさえも忘れている横顔だった。
 そういえば自分も、少し前までは彼らと同じだった。
 当たり前にそこにあって、変わる事無く、どこでいつ見ても同じ姿をしている。見るに値するものではなくて、ただ漠然と視界の片隅に眺めるだけのものだと、あの頃はどうして思っていたのだろう。
 意識して見上げれば、毎日その顔は違っているのだと直ぐに分かった。晴れの日に雨の日、雲が多い日もあれば澄み切った青空が広がる日もある。そして自分は、どちらかと言えば、雲の少ない快晴が好きなのだと、この歳になって自覚した。
 空の表情の変化は目まぐるしくて、毎日見上げても飽きる事がない。何処かの誰かそのものだと思うようになってからは、尚のこと。
「……」
 一瞬浮かんで消えた姿にまたしても首を振り、さっき擦った所為で若干ずれた眼鏡の位置を人差し指で押して直す。らしくない、と犬にも言われたが全くその通りだと、昨今の自分の体たらくに肩を竦め、緩んでいた足取りを元の速度へ戻すべく右足を前へ繰り出した。
 そこを、また人の横っ面を叩く突風が、いたずら小僧の笑い声を残して駆け抜けて行った。
 反射的に身を竦め、荷物と帽子を同時に庇って顔を風に背ける。近くで女性の悲鳴もあがって、巻き上げられた枯葉が頭上高くへ駆け上がり昼の陽射しに小さな影を刻み込んだ。
 路上に転がっていたゴミも何個か乾いた音を立てて転がり、足元を過ぎ行く。唇にざらついた感触を覚えて唾を吐いた千種は、スカートの裾を直して慌しく去っていく女性の背中を見送ってから、自分の足元にそれまで無かったものが落ちているのに気がついた。
 どこから飛んで来たのか、街路樹を囲うレンガの縁に引っかかって裏返しになっている、紺色の帽子。鍔広のそれは、アメリカかどこかのプロチームのロゴが入った野球帽だ。
 ゴミにしてはまだ綺麗で、また風が吹けば飛んで行ってしまうだろう不安定さをしているそれを何気なく拾い上げると、千種は素早く周囲に視線を巡らせた。
 けれど誰も彼に注意を払う人間はおらず、先と変わらずに急ぎ足で去っていく背中ばかりだ。車のエンジン音が低い地鳴りを起こし、手にした誰のものか分からない帽子で自分を扇いだ千種はどうしたものか、と思案気味に眉間に皺を寄せた。
「あっ」
 だから外に対して注意力が不足していたのだと思う。いつもなら先にこちらが気づいていただろうに、今回は向こうに先に見つけられてしまい、聞こえた声にドキリとして千種はばつが悪そうに振り返った。
 ゆっくりと、真後ろを向く。案の定聞き覚えのある声の主は、人のことを指差しながら、驚き半分、残りは色々と複雑な表情を混ぜ合わせて斜めに首を持ち上げていた。
「……なに」
「いや、それ」
 久方ぶりに遭遇した相手に対して放つ第一声ではないと、それは重々自覚している。けれど他に言いようもなくて、表面上はいつもの仏頂面を保ちながら相手を見返せば、彼は恐る恐るという態度で濃紺の帽子を指差した。
 これ? とマークが入っている面を彼に向けてやると、そう、と頷き返される。
「俺の」
 帽子に向けていた指を自分の顔に向けた彼に、千種はワンテンポ遅れて彼の顔から手元の帽子へ視線を戻した。
 風が吹く。街中特有の埃っぽい乾いた空気に、最大まで広げられたサイズを調整するベルトが揺れた。
「ふぅん」
 持ち主を自分で探す手間は省けた。けれど、どう考えても彼に帽子は似合わない。
 いつだって重力に逆らって爆発した髪の毛をしているし、それにこの帽子のこのサイズでは、きっと彼の頭には大きすぎる。
 しかし返してと言われた以上、返さねばなるまい。千種はなんとなく悔しい気持ちを隠し、手を差し出す彼を無視して表替えした帽子を彼の頭に、勢いつけて押し付けた。鍔を持つ指先に圧力を感じる、押し潰そうとした髪の毛が布地の中で反発しているのだろう。
「わっ」
 勢い負けして下向いた彼が、千種の手を離れた帽子を今度は自分で調整しようと手をあげる。だがそれよりも早く、またビルの谷間を走る突風が単に被せていただけのそれを彼から奪い取った。
 高く、高く空へ舞い上がる。
 風に攫われる、とはよく言ったものだ。咄嗟に腕を伸ばして奪い返そうとした彼だったが、背伸びをしても届かない。指先ぎりぎりのところをすり抜けていく帽子の行方に瞳を細めた千種もまた、彼が諦めかかった瞬間腕を伸ばし、彼の後方で一瞬だけ落下に転じたタイミングを狙い下向いている鍔を中指の先で引っ掻いた。
 掴み取るところまではいかない、しかしバランスを崩されて方向性を見失った帽子は、風の揚力をも失って街路の端へとふらふら落ちていった。
 前のめりになった千種の肘が、まだ頭上を指している彼の腕に当たる。そのまま胸をもぶつけ合わせる格好になって、傍目には抱き合っている風にも見えたかもしれなかった。
 実際、ぶつかられた衝撃で後ろに倒れ掛かった彼の背中を、素早く下ろした腕で千種が支えたものだから、あながちその表現も間違いではないかもしれないが。
「いつっ」
 踵がレンガに乗り上げて、角で土踏まずを打ったらしい。胸元で小さく悲鳴が発せられ、千種は後ろに下がりながら彼の背を解放した。その向こう側では野球帽が、最初に千種が見つけた時よりも若干左よりの地点に着地を果たす。
 やっぱり、という思いで視線を下方へ流せば、同じく俯いた綱吉のやや赤くなった耳朶と、跳ね上がった蜂蜜色の髪の毛が大きく瞳に映し出された。向こう側を走る車が照り返した陽光に瞼を閉ざし、靴の裏でアスファルトを削る。素早く身を屈めた彼は街路樹の影に落ちた自分の帽子を拾い上げると、また元気よく爆発する髪の毛を隠した。
 振り向いた彼の唇はへの字に歪んでいて、赤く染まった頬が恥かしげに膨らんでいる。
「……なに」
 いかにも拗ねている、という表情の彼に冷ややかな視線を投げやれば、今度こそ風に飛ばされるものか、と帽子をぎゅっと押さえ込んだ彼が恥かしげに視線を横へ流した。
「っていうか、なんで居るのかな」
「……ボンゴレこそ」
 公道を歩くのに許可が必要だなんて知らなかったと言えば、恨めしげな目線で睨まれて肩を竦める。ビル風はその間も止まず、ガサガサと挟み持った紙袋の端が煽られて喧しく音を立てた。帽子を奪われぬように踏ん張る彼もまた、砂埃が目に痛いようで唇も硬く引き結んで懸命に耐えている。
「サイズ、合ってない」
「分かってる!」
 緩すぎるから直ぐに風に持っていかれるのだと指摘したら、余計拗ねた声で怒鳴り返された。いったい何がしたいのか理解できなくて、気分屋の大空に溜息を零した千種は、不意に先ほど見下ろした彼の立ち姿と、記憶にある姿との若干の相違点を思い出した。
 嗚呼、と納得顔で頷く。
「なに」
「寝癖?」
「っ!」
 問えば彼はぐっと息を詰まらせて、見上げる視線を逸らして黙り込んだ。
 元々髪の毛は跳ねているのだから、今更多少の寝癖を気にしたところで意味などなかろうに。そういう年頃なのだろうか、と彼と全く同年代の筈の千種はやれやれと息を吐いた。
「どうせ……って、わっ!」
 ぶつぶつと口の中で文句を言い続けている彼は本格的に拗ねだして、ちっとも視線を合わせようとしない。それが意味も無く悔しくて、千種は無造作に広げた手を彼が懸命に庇う帽子へと伸ばした。
 むんずと掴み、真上に引っ張る。
 当然彼も抵抗を示すものの、力負けする気は毛頭ない。強引に奪い取った帽子を追って顔を上げた彼の目に、果たして千種はどんな風に映ったのだろう。
 陽光を背負う形で佇む千種は、右手で彼の野球帽を、左手で自分が愛用する白の帽子を同時に掴んでいた。そして片方を奪い取ると同時に、片方を彼へ――沢田綱吉の頭に捻じ込んだ。
 開いた彼の口が即座に閉ざされて、舌を噛んだのか低い呻き声が微かに。勢いを付けすぎた所為で目深になったニット帽の下で、唇を震わせた彼が一緒に肩をも震わせる。
 顔は殆ど見えないけれど、きっと、熟れた林檎よりもずっと赤い。
「今日は、風、強いから」
 貸しておく、と交代に千種が野球帽を被って。
 案の定大きすぎた帽子は直ぐに風に攫われた。

2007/8/27 脱稿