a pain in the Neck

「だーっ!」
 抜けるような青空が恨めしいと、唐突に大声を張り上げたライは持ち上げた右足で思い切り地面を蹴り飛ばした。
 振り上げた両腕を、勢いつけて下ろす。勢い余って腰骨にぶつかったそれは跳ね返って、自分で殴りつけた場所にまた当たってやっと止まった。
 吐く息は、澄み切った空に溶けていく。
「やっと、終わった」
 疲れた、と呟けば本当にドッと疲れが二倍、三倍になって押し寄せてくる。左右の肩を交互に叩き、重労働を自分で労った彼は最後の締めとして再び両腕を真っ直ぐ頭上へと持ち上げ、凝り固まった身体を縦に引き伸ばした。
 背筋がボキボキといい音を立てる。無数の骨で形成されている身体が一本の竿になった気分で、思い切り吸い込んだ酸素を一気に吐き出し力を抜いて、ライは漸く清々しい気分で空を見上げた。
 雲は多いが、隙間から覗く青色は濃く、空は高い。時折雲間に隠れる太陽も、風があるのでまた直ぐに光を地表へと投げ放つ。その眩さに目を細め左手で影を作れば、表情は自然と和らいで口元が笑みを形作った。
 空っぽになった巨大な籠を持ち上げ、ひっくり返す。底に溜まっていた水がざっと足元に流れて、あっという間に乾いた地面に吸い込まれていった。他よりも少し色が濃くなった場所を爪先で擦り、籠の向きを戻して後ろを振り返る。其処に並ぶのは、真っ白に洗濯されたシーツの大海原だ。
 物干し竿は合計すると、十本はあるだろうか。数が足りなくて倉庫に放り込んでいた今はもう使っていないボロボロのものまで巻き込んでいるので、かなり壮観だ。強風が吹けば倒れる可能性もあるが、今のところ大気の流れは穏やかなので、大丈夫だろうと楽観的にライは考える。
 居並ぶシーツの下辺からは、ぽたぽたと無数の雫が垂れ下がる。この陽気が続けば午後を回って暫くした頃にはもう乾くだろう、本当は敷布団も含めて全部干したかったのだが、それではさすがに物干し竿が足りない。
 ここ数日は、雨こそ降らないものの、曇り空の日が続いていた。たまにはすっきり晴れた空にお目にかかりたいと願い祈っていた矢先、漸く訪れた晴天。快晴とまではいかなかったものの、たまりに溜まっていた洗濯物を一気に片付けるには申し分ないぽかぽか陽気だ。
 そうして汚れ物を片付けているうちに、つい欲が出て、こうなった。
「店主」
「ん~?」
 籠を両手と膝に挟んで斜めに胸に抱え、風が吹くたびに重そうにはためくシーツを眺めていたら、後ろから声がする。
 特徴のあるその呼び方をする存在は数が限られているし、なにより響きの良い低音は耳にも心地よく、ライは特に何も考えずに返事をして振り返った。音量は小さかったからまだ距離があると油断していたのだけれど、人の気配は構えていた以上に近い場所から流れてきた。
 思わず目を見開いて変な顔をしてしまい、大体距離にして二歩分しか離れていない場所に立ったセイロンに怪訝に見下ろされる。特に何かやましいことがあるわけでもないのに、ばつが悪い気分に陥ってライは頬を膨らませながら即座に彼からそっぽを向いた。
 籠を握る手に力が入り、籐編みのそれがギシギシと音を立てる。鼻先近くに来たシーツからは水と石鹸の匂いがして、噎せそうな空気の濃さにライは窄めた唇から息を吐いてそれを押し返した。
「どうかしたかな?」
「なんでも」
 両手にコップを持って立つセイロンの問いかけに、ぶっきらぼうに言い返して彼に向き直る。今度はちゃんと距離を測り、間違っても額を彼の胸にぶつけない程度に後ろへ重心も移動させた。
 トッ、と爪先で地面を蹴る。踵が乗り上げた小石に内心驚くが顔には出さず、今一度籠を抱きなおしたライに、セイロンは顔を上げて波を立てるシーツの群生に肩を竦めて笑った。
「凄い量だ」
「まーな」
「お陰でこちらは寝不足だ」
「いつまでも惰眠貪ってる方が悪い」
 言いながら欠伸を噛み殺したセイロンにつっけんどんな返事をして、悪者みたいに言われるのは心外だとライはまた頬を膨らませる。
 気持ちよく晴れたのがよほど嬉しかったのか、朝早くからライは宿中をどたばたと走り回っていた。今日は店の定休日だし、あれこれとやらねばならないことが溜まっているのは、セイロンだって理解出来る。しかし心地よい夢の世界にいた仲間の大半を、朝だから起きろという号令のもと、ベッドのシーツを引っぺがして回ったのは少々いただけない。
 思い返したらまた眠気が戻って来たのか、二度目の欠伸を袖で隠したセイロンは、まだ拗ねた様子でいるライに、ほら、と持っていたコップを片方差し出した。
「なに?」
「店主も早朝から働きづめだろうと思ってな」
 言いながら彼が渡したのは、最初色つきのコップかと思いきや、透明なグラスだった。どうりで見覚えがあるようでない筈だ、と引き取った分を自分の前へ持って行ったライは、コップに入っているのだから飲み物なのだろうけれど、とやや怪しげな色をしているそれを見下ろして顔を潜める。
 試しに顔を近づけてみれば、微妙に青臭い。色もかなり濃い緑色をしていて、夏場のため池で偶に発生する青粉を思わせた。
 あれが発生すると周囲が臭くて堪らないんだよな、と今年は幸い見かけなかった現象を思い出し、うえっ、と苦い顔をしてライは舌を出す。一足先にグラスに口をつけていたセイロンそんなライの考えている内容など知らず、失敬な、と飲む前から不味いものを食べた顔をしている彼の額を小突いた。
「……で、何コレ」
「青野菜を潰して濾したものに色々足しておる」
「凄い色してんだけど」
「青野菜と言ったであろう」
 つまりは、葉物野菜を中心に使っているから、こんな色になるらしい。中身が零れない程度にコップを斜めに傾けてみたところ、いったい何が入っているのか、液体のはずなのに微妙な粘り気を感じてライは背中に冷や汗を流した。
 顔に近づけると一層匂いは強まり、色々と料理に挑戦して様々なものを口に入れてきているライではあるが、これを飲み干すのには勇気が要るな、と味のない唾を飲みこんだ。
 好き嫌いはないし、野菜も勿論好きでよく食べるけれど、こういう調理の方法は試したことがなかったな、と見るからに不味そうな液体を前に尻込みしてしまう。
 見上げたセイロンは平然とした顔をして、むしろ美味そうにコップの中身を飲み干していた。どろりとした液体を赤い唇の中に吸い込ませ、飲み終えると同時に指で口端に残った分を拭い取る。一連の動きに乱れは無くて、見た目と匂いで味を判断しようとしているライは、渋い顔のままセイロンのグラスに残る微小な固形物に唇を歪めた。
 やっぱり、美味しく無さそうだ。
 けれどこれだけの量を擂粉木で潰し、汁を絞り出したのだとしたら、それはそれで相当な労力だ。折角セイロンが自分の為に用意してくれたものを無碍にするのは忍びない、しかし飲み干す自信も無い。
「……美味いの?」
「さて」
 恐る恐る聞けばそんな返事。どこまでも涼しい顔をしているセイロンを恨めしげに睨みつけ、雲間に隠れた太陽にちぇ、と悪態をついてからライは潔く、むしろ諦めに近い気持ちでコップを口に押し当てた。
 生温い液体を、そっと口腔に招き入れる。
「んぐ……」
 前言撤回。
 美味しく無さそう、のレベルではない。
 これは、――不味い。明らかに。
「ぶはっ、げへがほっ、くひゃーっ!」
 ひとくち飲んだところでライは咳き込み、気道を遡って鼻に来た強烈な青臭さに涙目になって膝を抱えた。逆さまになったコップからは残る大半の液体が零れ落ち、地面を汚す。飛び散った液体が洗濯したてのシーツに痕を作って、余計泣きそうになったライは楽しげに目を細めて顔半分を扇子で隠しているセイロンに向け、空っぽになったグラスを投げつけた。
「危ないではないか」
 それを楽々と受け止めた彼は、台詞とは裏腹に楽しげな表情を崩さない。
 矢張り相当、眠っていたところを叩き起こされたのが悔しかったのか。しかしなんていう程度の低い嫌がらせなのだろう、憤慨してやまないライだったが、力めば一部胃の中に入ってしまった液体が逆流してきて、痛烈な臭気に吐き気を堪えるのがやっとの状態だった。
 扇子を折り畳んだセイロンが、片手でコップをひとまとめに持ち変える。とても同じものを飲んだふたりとは思えない反応の違いだが、ある程度は予想していたのだろう、彼は悪びれもせず目尻を下げて笑みを噛み殺した。
「勿体無いことをする」
 食べ物は粗末に扱ってはいけないと教わらなかったか。非常に道徳的なことを言い放つ彼だが、ライにしてみれば今飲まされたものは到底人が口にするものではない。
「失敬な。これでも歴史ある我がシルターンの健康食なのだぞ」
「うそっ……だ!」
「嘘ではないぞ」
 ちなみにこれが原材料だ、と懐から出したセイロンが見せてくれたものは、見事に青々とした、その辺に生えていそうな葉っぱだった。
 殺人的な不味さだ、と色が変わってしまっている舌を出してライは汗を拭う。シーツの隙間を流れる風は気持ち良いのだが、如何せん胃袋の中が悲惨な状態になっていて、何か口直しになるものが欲しくてならない。
「店主の口には、合わなかったかな」
「合うか!」
 平気な顔をして飲み干せるお前の方がおかしいんだ、と拳を突きつけて怒鳴れば、大仰に肩を竦めたセイロンが失笑するのが見えた。馬鹿にされた気分で、悔しい事この上ない。
 だが、不味いものは不味いのだ。苦虫を噛み潰した顔をしておえっ、と食道を登ってきた気泡を吐き出す。まだ涙が止まらなくて、乱暴に手の甲で拭っていたら横から伸びた手に止められた。
 何をするのか、と睨み返すべく顔を上げる。
 雲間から太陽が覗き、ライの周囲にも光が戻った。風に舞い上がったシーツが、我先にと競い合いながら脚を上げて中空でダンスを踊る。
 見開いたライの目に影が落ちて、また直ぐに遠ざかった。
「……やっぱ、不味い」
 赤くなった顔を籠で隠す。そしてセイロンが何か言う前に、ライは一目散に裏口に向かって走っていった。

2007/8/28 脱稿