汗顔

 どこかからピアノの音がする。朗々と奏でられる楽曲は耳慣れぬ歌だったが、スクアーロは淀みなく響くその音色に耳を傾けながら石柱の影が居並ぶ通路を急ぎ足で歩み抜けた。
 右手には鮮やかな南国の植物が、時節に関わりない顔をして優雅に花弁を広げている。艶やかな色合いは此の地の風土特有のものでもあり、時間が許すのならばゆっくりと鑑賞して回りたいところではあるが、生憎と彼には中庭の噴水を囲む花壇で一息つくだけの余裕も残されていなかった。
 カツカツとブーツの底が叩く足音が気に障るまでに甲高く鳴り渡り、バロック調を演出したかったらしいごてごてした装飾が施された柱の角を曲がったところで彼は一旦足を止めた。肩から胸元に回り込んだ長い銀髪を鬱陶しげに払い除け、目の前に広がる無限に続きそうな長い廊下に舌打ちする。
「ちっ」
 大体どうして、自分がこんな面倒な仕事を引き受けなければならないのか。理不尽さから腹立たしさが募り、元から凶悪だと評される表情を更に怒りに震わせて、彼は荒々しく、それまでの日射しが差し込んで明るい回廊とは一線を画す、分厚い壁に囲まれた薄暗い廊下に足を踏み出した。
 天下に名を轟かせ、聞く者は総じて背筋を凍らせて恐怖に戦くとまで言わしめたヴァリアーの現切り込み隊長を捕まえて、倉庫へ荷物を取りに行ってこいとはどういう了見か。即座に拒否権を発動させたに関わらず、問答無用で持ってくるものをリストアップした紙を丸めて放り投げてきた、黄色のアルコバレーノには心底苛つかされる。
 だが今もボンゴレが健在なのは奴が居てこそだというのは事実であり、悔しい事に奴の存在が無ければ次代ボスは殆ど役立たず同然だというのは覆されざる現実だった。
「くそったれ」
 悔し紛れに壁を蹴りつけ、反動の痛みに奥歯を噛んだスクアーロは、ポケットの中に手を突っ込んで渡されたメモを引っ張り出した。渡された時点で既に皺だらけだったそれを片手で広げ、記された文字を上から順番に読んでいく。
 そして四番目辺りでくしゃくしゃに紙を丸め直し、再びポケットにねじ込んだ。
「あんの糞餓鬼がっ」
 ヴァリアーが命令される側だというのを良いことに、下らない無理難題を押しつけてくる奴だとは思っていたが、今回も案の定だ。絶対にひとりで運び出せる量と大きさではない、そもそも何故今頃からクリスマスツリーなど。
 カレンダーは、万聖節も死者の日もまだ迎えていない。今から聖誕祭を祝う準備を始めるのは、時期尚早ではないか。
 何を考えているのやら、あの糞生意気な子供は。
 再び舌打ちし、スクアーロはどうしたものかと顎を撫でる。黒の革手袋が皮膚に引っかかり、微かな痛みに彼は口元を顰めて奈落の奥にでも繋がっていそうな闇の彼方に目を細めた。
 と、その時。
 ズンドンガラガッシャーっ!!
「うぉ!?」
 地響きでも伴いそうな激しい騒音が彼の前方左側から突然甲高く鳴り響き、反動からだろう、石積みの壁に据え付けられた古い木製ドアがひとりでに彼の前に弾け飛んだ。
 ボハッ、と大量の埃が一緒になって溢れ出し、蝶番によって辛うじて壁にぶら下がったドアが激しく揺れ動く。呆気にとられて動けないスクアーロの前までカビっぽい空気が溢れてきて、咄嗟に息を止めた彼は両手を使って慌てて空を横に掻いた。
 彼の起こした空気の流れにより、埃の拡散が加速する。それでもなかなか晴れない埃の多さに唖然とする他ないスクアーロの耳には、未だ何かが崩れ落ちていく物音が断続的に響いていた。
 カンカン、と硬い床に硬いものがぶつかり合う音だ。
「なんだぁ……?」
 ひとつ咳き込んでから声に出して首を傾げ、毛先に絡みついた埃の塊を薙ぎ払って休めていた歩を進める。アルコバレーノに頼まれた用件など一瞬で頭から吹き飛んで、スクアーロは自身の興味が赴くままに風圧で押し開かれたドアの隙間に首を差し込んだ。
 内部は窓がない為か廊下よりもずっと暗く、彼が佇む入り口から僅かに差し込む光だけが唯一の頼りだった。
 目を細めても一メートル先さえろくに見えず、ギイギイ五月蠅いドアを蹴り飛ばして空間を広げた彼は、黴臭い倉庫内部に露骨に顔を顰めて騒音の発生源を探し視線を巡らせた。
 しかし特別怪しいものは見えず、無理に積み上げていたものが勝手に崩れただけだろう、と結論づける。いくら唐突であったからとはいえ物音に心臓を竦ませた自分がかなり悔しくてならず、苛立ちを隠さぬまま彼は後頭部を乱暴に引っ掻いた。
「……ん?」
 そのまま出て行こうとして、けれど変に気に掛かるものを視界の片隅に見つけた彼は羽織ったコートの裾を揺らし、右足を前に突き出した。
 なんだろう。見えはしないのに野性的な本能が、何かが在ると告げている。
「誰かいるのか」
 試しに呼びかけても反応はなく、部屋はシンと静まり返るのみ。けれどそれが余計に彼の疑念を呼び覚まし、スクアーロは幾分明るさを得た倉庫として使われている窓の無い部屋へ左足をも運び入れた。
 彼の長い影が灰色の床にまっすぐに伸びる。それは上に向かうに連れて少しずつ薄れ、やがて完全に闇と同化して暗がりに世界を閉じこめた。奇怪なまでに意識に引っかかる違和感はその先から漂っており、スクアーロは廊下以上に埃っぽい空気を吸って思い切り吐き出した。
「う゛ぉぉい」
 反応が返ってこないのは承知で再び声を張り上げ、壁にぶつかって音が跳ね返ってくるまでの時間を計る。奥行きは深そうだ、恐らく横にも相当広い筈。
 厄介だ、そう思いながらスクアーロは闇に目を凝らした。頬を撫でる髪の感触が嫌で、油断するとすぐ前に来るのを払って更にもう一歩前に踏み出そうとした時だ。
 彼の前方で、黒い影がむくりと起きあがる。
「ん……?」
 これがファンタジー映画であったら、悪魔の手先か何かが召喚されて主人公に襲いかかるのが常套だ。だが此処は映画のセットでもなければ、CG製作の事務所に置かれたパソコン内部でもない。嘲笑めいた表情を途端口元に浮かべたスクアーロは、先程の騒音の発生源であろうその影に残酷な笑みを向け、隙のない動きで背中へと左腕を回した。
 指を丸め、神経をそこへ集約させていく。いつでも斬りかかれるよう、不届きな闖入者を処罰すべく彼は暗殺者としての本能を研ぎ澄ます。
「うぅ……」
 彼の前方では光と闇の境界線に身を置いた黒い影が、頭らしきものを横へ振って呻いた。膨らみは益々大きくなり、身を起こそうとしているのが全体像を見渡せないスクアーロでも分かった。
 上に覆い被さっていた良く分からないものが崩れ、横に滑り落ちていく。埃が都度舞い上がり、嫌そうに顔を顰めてスクアーロは膝を軽く曲げて姿勢を低くした。
 その分彼が遮っていた光が面積を広げ、隠れていたものを薄明かりの下にさらけ出す。
「いっ……たあああうあぁぁぁぎぃやゃぁぁぁぁぁああぁぁぁぁーーーーー!」
「いっ!?」
 明度の増加は、もれなく崩れ落ちた荷物の山に沈んでいた存在にも伝わっていた。片目を開けて苦悶に表情を歪めた存在は、一秒半後、顔の前にぺたりと貼り付いているものに目を見張り、スクアーロが二度驚く凶悪な悲鳴をあげて飛び上がった。
 灰色の粉塵が中空を埋め尽くし、視界を覆われたスクアーロの顔に暗がりが落ちる。
 ゼロコンマ三秒後、スクアーロは身構えていたのも虚しく後頭部を強かと床に打ち付けた上、まだ揺れていたドアに頭頂部を叩かれた。
「いっ……」
 痛い、かなり。
 そして、重い。相当に。
「てえだろうが、何しやがるこの糞チビがっ!」
「うわあぁぁあああ蜘蛛、蜘蛛いやああああぁぁぁぁ!」
 襟首を掴んで引っ張り上げ、同時に自分も身体を起こす。腹から絞り出したスクアーロの罵声を浴びせられた相手は、しかし彼の怒りなど蚊帳の外でひとりパニックに陥り、顔に貼り付いている物体に金切り声を上げ続けた。
 両手を前後左右にばたつかせ、完全に裏返った声には冷静さが微塵も残っていない。投げ出した膝に彼を置いたスクアーロは、いったいこの新米ボス候補がなにをしてコレを蜘蛛だと勘違いしたのかと疑問に思いつつも、いい加減鬱陶しさが先に立ってゲル状の黒色をした物体を引っぺがしてやった。
 かなり古くなっているからか、表面の粘着質が凶悪化している。革手袋にまでべったりと貼り付かれ、感触の気持ち悪さに手首を振ってぶら下がるそれを投げ捨てた彼は、剥がす時に痛かったのか、閉じた目の上を手で覆って鼻を鳴らしている青年に肩を竦めた。
「降りろ」
「え、へ?」
 いつまで座っているつもりだ、と右膝を曲げて下から押し上げてやる。素っ頓狂な声を出した彼は、今の今になってやっとスクアーロがこの場に居るのに気付いたらしく、目を丸くして赤く腫れた瞼を頻りに擦った。
「蜘蛛は?」
 更にこの期に及んでまだそんな事を口にして、周囲を見回す。
「あぁ?」
「や、蜘蛛。こーんな、でっかいのが居たんだって」
「知るか」
 両手を胸の前で横に広げた彼の示すサイズは、どう考えても常識の範囲を逸脱する大きさだった。
 呆れ返ったスクアーロは、手袋に残っていた粘りけのあるゲルを彼――若きボンゴレ後継者たる沢田綱吉の頬に擦りつけてやった。
 触れた指が離れていくのに合わせて貼り付いた皮膚が引っ張られる感覚に綱吉は片目を閉じ、これは何かと問う視線をスクアーロに投げた。
 ジッと見つめてくる琥珀色の瞳に舌打ちして、スクアーロは立てた親指で床にひっくり返っている、恐らくは星形であったろうものを指さしてやる。当然分かっていない綱吉は首を傾げ、スクアーロの膝を降りると上物のスーツが汚れるのも構わずに四つん這いのまま少し進み、恐る恐る形を崩して動かないものに指を押し当てた。
 一度使われた後、捨てられずに律儀に残されていた、クリスマスやらなにやらで窓に貼り付ける飾り、辺りが妥当な線か。綱吉の指先に貼り付いて持ち上げられて、自らの重みで再度床に落ちたそれの感触に、綱吉は漸く納得顔で頷いた。
「あー、じゃあやっぱり此処かあ」
「ぅう゛ぉい」
「ん?」
 ひとり頷いている綱吉に、スクアーロが低い声で唸って躙り寄る。間近から真下に見下して凄んでやるのだが、綱吉はきょとんとした様子でそういえば、と顔の前に滑り落ちてきた彼の長い髪を指に絡めた。
 軽く引っ張られ、前のめりに倒れ掛けたスクアーロはぐっと堪えて踏みとどまる。
「そういえば、スクアーロは此処で何してんの?」
「それはこっちの台詞だ」
 アルコバレーノから持ってこいと頼まれた荷物の中に、ボンゴレ十代目の名前は無かった。しかし考えてみれば、報告書を持って行った先で待ちかまえていたのがあの小生意気な小僧だけだったところからして、既に仕組まれていたと思うべきか。
 あの時のやりとりは思い出すだけでも腹が立つ、思わず臍を噛んだスクアーロに首を傾げたまま、綱吉はややして「まあいいか」とひとりで結論付けてしまった。
「一寸待て!」
「ごめん。今ちょっと、忙しい」
 捜し物があるんだ、と早口に告げて袖で顔を擦った彼が、スクアーロの手をすり抜けて歩き出す。
 すっかり置き去りにされてしまい、虚しく空を掻いた手の持って行き場に困った彼は闇の中に吸い込まれていく綱吉の背中を睨み、見送り、地団駄を踏んだ。
 いったい、なんだというのか。
 アルコバレーノに不本意ながら命じられて倉庫として使われている古い区画に足を運び、凄まじい騒音に驚いて様子を窺えば、昼過ぎからさっぱり姿を見かけなくなっていた綱吉が埃まみれで床に転がっていた。
 顔に貼り付いていた玩具を剥がしてやって、何をしているのかと聞けば答えにならない答えを言って暗がりに戻っていく。
 せめてライトのひとつでも持ってくれば良いのに、わざわざ闇の中を歩き回って、いったい何を探すというのか。効率が悪いことこの上ないのに、そんな事も分からないのか、彼は。
 いや、違うか。
 ボンゴレのボスの血脈だけが持つと言われている超直感の存在を思い出し、スクアーロは自分の出番はないだろうと踵を返し掛けて。
「あいたっ」
 聞こえていた短い悲鳴に、捩ろうとしていた身体を無理矢理元の状態に戻した。
「……」
 ガタゴトと物音は止まない、きっとさっきもそうやって闇雲に部屋中を歩き回っていたのだろう。
 薄明かりに曝された部屋に転がっている様々なものは、角が丸くて軟らかなものばかりではない。さっき顔に落ちたものがあんな軟体生物めいたものならばまだしも、鋭利なガラスの破片だったなら、どうする。
「………………」
 しばし考え込み、スクアーロは半端に半分だけ開いているドアを振り返った。思い切り蹴りつけ、どうにか壁にしがみついていた蝶番ごと吹っ飛ばして光の差し込む面積を広げた彼は、さっきまでよりも若干闇に慣れた目を険悪に細めて大股に歩き出した。
 倉庫の奥へ向けて。
「う゛おい、こら」
「ん~?」
 遠くに向けて呼びかければ、案外近い場所から真面目に答えるつもりが無さそうな声で返事があった。即座にそちらに首を向けたスクアーロだったが、いつもなら造作なく見つけ出せる人の気配がどうにも微弱で、正確に位置を把握できない。
 それは綱吉がアルコバレーノその他から教わっている、他者に気配を悟られないようにする特訓の成果だとは分かるが、こういう場合は非常に厄介この上ない。せめて懐中電灯を持ってくるなり、固定ライトを設置するなりしてから捜し物をしろと言いたいのに、伸ばした手は空を掻くばかりだ。
 ひょっとして彼は、本当にこの闇の中でも世界が見えているのだろうか。ならば空回りの連続たる自分の行動はさぞかし滑稽だろうと笑いたくなる、同時に激しい怒りも。
 自分が何を危惧しているのかも、彼は知らないのだ。捜し物だって、なにも彼自ら倉庫に出向かずとも、手の空いている誰かに命じれば済むだけなのに、どうして。
 歩く度に床に、木箱に降り積もった埃が雪みたいに舞い上がり、黒一色の彼のコートを汚していく。息苦しいのはきっとこの埃と黴臭さで快適とは言い難い空気の所為だ、そう決めつけてスクアーロは右斜め後方に動く気配を見つけて踵を鳴らした。
「あっ」
 途端に耳朶を打った、成人を迎えた男子としては少し高い声。
「う゛ぉい?」
 振り向いたスクアーロに返される声はない。シン……と重苦しいまでに沈み込む空気、自分自身が吐いて吸う息音しか聞こえない。静寂よりも寂寞、いや、むしろ蕭然としたがらんどうが彼の目の前に転がり落ちた。
 血の気が引く音がスクアーロの背中を駆け抜ける、綱吉の気配は完全に沈黙した。
 見失った。そんな事あり得ないと知りつつも、彼は咄嗟に動けない。指先まで血液が凍り付き、全身が痺れて舌の根がピリピリと痛みを放つ。
「つ……」
 吸った息を吐き出す術が思い出せない、麻痺した神経が全てを空転させる。細い目を見開いて闇を凝視した彼は、今眼前で起きた現実を捕らえきれなくて、自分自身さえ見失いそうで、呼ぼうとした名前さえも忘れて立ち尽くした。
 驚愕に染まった心臓が焦燥感に引きちぎられる。
「なっ!」
「ていっ」
 数秒のインターバル後にやっと息を吐くのに成功したスクアーロの背後で、明るいかけ声がひとつ。
 ぼすっ、と何かがスクアーロの頭に落ちた。
 目を開けていても、閉じていても闇。しかし明らかに今までとは異なる闇に視界が閉ざされ、瞬きを繰り返したスクアーロは自分の頭部全体を覆い隠す何かに気を取られ、咄嗟の判断を見誤った。
 首にずっしりと来る重みに片膝が折れる。横に数歩ふらつき、完全に崩れる前に姿勢を立て直した彼は一瞬後また見失った気配に唇を噛んだ。
 ここは背後からの急襲に遅れを取った自身に怒るべきか、気配を完全に消して後ろへ回り込み、悪戯を仕向けてきた存在に怒るべきか。スクアーロは天秤を激しく左右に揺らしながら、ぐるぐる回る頭をやがて爆発させた。
 頚部に絡む銀色の髪の毛が肌に張り付いて、非常に気持ちが悪い。
「なぁにしやがっ」
「ぶっ、すご。やっぱり似合う、似合うよスクアーロ!」
 怒り心頭、怒髪天の勢いで怒鳴り散らそうとした彼を前に、しかしその悪戯の張本人は腹を抱えて、スクアーロを指差してげらげらと涙混じりに笑い出した。
 スクアーロからは何も見えない、しかし笑いすぎて「お腹痛い」と震える声で彼が言うのだけは辛うじて聞き取れた。この暗闇の中、彼の目には景色が見えているのか。疑問は当然であり、スクアーロは声を頼りに綱吉に近づこうとして、漆黒に塗りつぶされた前方から足元に瞳を動かした。
 そして大部分が黒塗りにされた中、狭い視界で自分のブーツが薄明かりの角に行き当たり、半分だけ闇に同化している状況を見つけ出す。
「あぁ?」
 半密閉空間で発せられる声はどれもくぐもって、耳の傍で反響して響く。地で大声の彼は自分自身の音量に辟易しつつ、試しに出した左足を引いてブーツ全体を光の下へ移動させた。
 四角い角が見える、光が届く範囲とそうでない場所との境界線がくっきりと、墨で引いたみたいに綺麗に現れていた。そして靴の形をなぞる鉛色の輪郭が、靴底のすぐ横に伸びている。
 即ち。
 スクアーロはそうと気づかぬまま、彼が蹴り飛ばして開いた戸口の前に立ち位置を戻していたのだ。
「あはっ、あはははは! いい、いい、受ける、これいい! スクアーロ最高!」
 手近な木箱をバンバンと叩いて埃を巻き上げ、それでも笑い止もうとしない綱吉の声が、そろそろ綺麗好きでもあるスクアーロの神経を引き千切りそうだった。
 頭に被せられたものは、横幅が若干広めだがほぼ完全な球状。触れてみると表面はつるつるしていて、外側にだけ縦筋が幾つか走っていた。更に前方と思われる辺りには落ち窪んだ穴があるが、貫通していない為内側にまで光は落ちてこない。
 なんだろうか、この形は。
 なぞり行く指先がなにかを思い出そうとしているのに、脳は反応を拒否しているのか記憶の引き出しを一向に開いてはくれなかった。
 そろそろ酸欠に陥ろうとしている綱吉はひーひーと掠れる声で唸るばかりで、いい加減我慢も限界に来ていたスクアーロはその頭部にはめ込まれた奇怪な物体を、勢い良く両手で真上に引き抜いた。そして急激に明るさを取り戻した視界のほぼ中心で、膝を折って腹部を抱きかかえながら笑いすぎて涙を流している小柄な青年の頭目掛け、今の今まで自分に被せられていたものを思い切り叩き付けた。
「こんの野郎……っ」
「むぎゃ!」
 ずぽっと被せられた勢いに負けて尻餅をついた綱吉に構わず、オレンジ色をした物体を容赦なく彼に押し付ける。ぐりぐりと捻りながら入念に向きを整えたスクアーロは、幾分かすっきりした様子でほくそ笑み、凹んでいる黒い模様の上から両手を外した。
 それは一年に一度日の目を見れば良い、にこやかに作り物の笑顔を浮かべた巨大なかぼちゃだった。
 突如目の前に現れたジャック・オー・ランタンに目を瞬かせ、その異様な光景に半歩ずり下がったスクアーロは、ブーツの踵で床に落ちていた星型の飾りを踏みつけてガクンと姿勢を崩した。
「どわぁ!」
 痛そうな音を響かせて木箱に腰を打ちつけたスクアーロを他所に、スーツを着たジャック・オー・ランタンは、折角スクアーロが整えた顔の向きを斜めに傾け、右手を床に落とし、左手で、恐らくは綱吉の額があるのだろう箇所を撫でた。
 だが間には当然ながら、プラスチック製のかぼちゃ頭が幅を利かせている。
「いってて」
 酷い目に遭ったと体を起こしたスクアーロは、ぶつけた頭と腰を気にしながら自分の下敷きになっている髪の毛を引っ張り出した。埃まみれのそれに舌打ちして顔を顰め、改まって目の前のかぼちゃのお化けを凝視する。
 睨みつけた、と表現する方がむしろ正しいか。
 やがて剣呑な色に染まっていた瞳をふっと和らげた彼は、満足げに口元を歪ませると状況に戸惑って畏まったままでいる綱吉の頭を、かぼちゃ頭ごと叩いた。
「いっ」
「よーく似合うじゃねーか、糞ガキ」
「ったぁ……」
 散々笑ってくれたお返しだ、とばかりに両手をばたつかせるだけでろくに抵抗になっていない綱吉の頭を小突き回し、かぼちゃをぐるぐると回転させる。これが内側からだと視界が閉ざされて何も見えないのは経験済みで、慌てふためく綱吉の滑稽さを存分に楽しみながら、スクアーロは靴底に張り付いていた最早ヒトデと化している物体を捨てた。
 最後に手をぽん、と載せて回転を止めてやると、目が回ったのか綱吉の体はふらふらと不安定に揺れ動いている。
「う゛ぉい?」
「きもちわる……」
「って!」
「なーんて」
 両手をかぼちゃの口元に持っていった綱吉の切迫した声に焦れば、即座に両手がパッと開いて花びらみたいに揺れた。見えないがきっと今、綱吉はかぼちゃの中で舌を出しているに違いない。
 思わず握り拳で力いっぱい殴り飛ばしてやりたい気分に駆られ、寸前で堪えたスクアーロはこめかみに浮いた血管をヒクつかせながら、長い時間をかけて吸い込んだ息を吐き出した。
「くっそ」
「スクアーロ?」
 苛立ちを自分の中だけで消化させ、ひとまず脇へ置く。
「大体、なんでテメー、んなとこに」
 いるのか、と問おうとしたところで彼は言葉を切り、かぼちゃを外そうとしている綱吉の頭を押さえ込んだ。
 先手を打たれ、上からの圧迫感に邪魔された綱吉がモガモガ言いながら必死に抵抗を見せる。だが片腕で易々と彼の動きを封じ込めたスクアーロは、そういえば今日はそんな日だったな、と頭の中にカレンダーを描き出した。
 綱吉は此処で何かを探している様子だった。
 という事は、だ。
 スクアーロの中でふたつのことがひとつに繋がった頃合を見計らったかのように、ポケットに入れていた小型端末が小さく震えた。片手が痺れてきたものあり、面倒臭くなっていた彼はまだ諦めない綱吉を自分の胸元に引き寄せ、巨大な頭部ごと彼を抱え込んでコートからヴァリアーの紋章が刻印された端末を引っ張り出した。
 慣れた操作でボタンを押していけば、点灯した端末の画面に短い文章が出現する。
 素早く左から右へ目を通し、ライトを消して再びポケットへと。依然じたばた人の足の上でもがいている存在を見下ろして、スクアーロはやれやれと溜息を零した。
 短文の発信元は、この間抜けなお化け頭ことボンゴレ十代目を守る守護者のひとりだ。
 どうやらまた性懲りも無く、仲間の目を盗んで職場放棄してきたらしい、この馬鹿は。
「う゛ぉい、戻るぞ」
「え? え、や、ちょっとタンマ」
「あぁ? まだ何かあるのか」
 自分だって此処に来た用事を何一つ片付けていないくせに、棚上げしてスクアーロは綱吉の手を引く。しかし踏ん張って拒否を示した綱吉に露骨に嫌そうな顔をして、薄暗い闇を振り返った彼に駄目だ、と肩を竦めながら言った。
「ハロウィンなんざ子供の祭りだ」
「えー、そんなことないってば」
「だったらテメーは今日一日、それ被って過ごせ」
 子供みたいにむくれた声で反論を試みる綱吉を笑い、よく似合っているぞと言ってかぼちゃを撫でてやる。きっと中では頬を膨らませ、初めて彼と遭遇した時からまるで成長しない表情で唇を尖らせているに違いない。
 見えずとも想像できて、スクアーロは押し黙っている綱吉の頭を小突いて彼を床へ下ろした。
 自分が先に立ち上がり、コートのあちこちに張り付いた蜘蛛の巣や埃を払い落とす。しかし綱吉は促しても座り込んだままで、強引に腕を引いて立ち上がらせると、見えないが故かふらつき、肩からぶつかってきた。
 頭に被っているものを外す様子はない。よもや本気で、今日一日それを被って過ごすつもりなのか。
 確かにそうしろ、とスクアーロは言ったが。
「おい、テメー」
「スクアーロ、見えない」
 本気か、と言いかけた彼を遮り、押し返された綱吉が逆に彼の腕にしがみついてくる。
 声には挑発的な、それでいて人をからかう調子が含まれている。かぼちゃの下で舌を出している綱吉の顔が思い浮かんで、スクアーロはとことん茶化してくる綱吉に頭の血管が切れそうになった。
「う゛ぉぉい」
「見えないから、歩けない。歩けないから、戻れない」
 握り拳を震わせて凄むが、端から見えてはいない綱吉は何処吹く風とそっぽを向いている。
 下手に笑いを誘うかぼちゃ頭を被っているだけに、今の綱吉は人の神経を通常の二倍以上逆撫でしてくれる。沸点は低いがそれなりに我慢強い(あくまでも同僚その他と比べてだが)スクアーロといえど、そろそろ堪忍袋の尾が切れそうだ。
 血管が隆起した握り拳を戦慄かせ、スクアーロは腹の底で様々なものをぐしゃぐしゃに丸め、潰し、踏みつけ、理性でもって投げ捨てた。相手は子供だ、ガキだ、そう呪文の如く心の中で繰り返し呟いて自分に暗示をかけ、最後に肩から力を抜いて綱吉の頭を抱き寄せる。
「分かった」
 ならば、仕方あるまい。
 低く静かな、冷たいが深い声に綱吉はかぼちゃの中で目線を持ち上げる。
 悔しいかな、こういう時に限ってスクアーロの顔が見えない。
「ほんとに?」
「ああ、歩けないんじゃしょうがねぇ」
 歩かなくていいぞ、と妙に聞き分けが良い言葉に裏があるなど考えもせず、綱吉は額面通りの意味と受け取って素直に喜んだ。胸の前で両手を叩き合わせ、爪先を揃えて床を蹴り、ぴょん、と軽い動作で飛び上がる。
 そして、彼の足は床に戻ることはなかった。
「へ?」
「よーし、じゃあいくか」
「スクアー……ロ?」
「ぁんだ」
 ひょいっと持ち上げられた綱吉は、背高の彼の肩に、さながら荷物の如く担がれていた。
 腰の位置で体を二つ折りにしているので、頭が下を向いてかぼちゃが落ちそうになる。慌てて両手で抱えていると、綱吉が逃げようとして暴れていると勘違いした彼は首を捻り、後頭部を綱吉の肘にぶつけた。
「う゛ぉい、暴れんじゃねえ」
「いや、って、だからちょっと待って!」
「駄目だ」
 この姿勢は頭に血が上る、それにスクアーロのコートの肩には金具が取り付けられていて、それが腹に食い込んで痛いのだ。
 必死に引き止めようと綱吉は右手を引いてスクアーロの頭を押したが、髪の毛に滑った指が彼の頬を引っ掻いてしまい、そのまま彼の口に突っ込んで反撃とばかりに噛み付かれた。
「いだぁ!」
「だから暴れんじゃねー」
 ごりっ、と骨まで響く痛みに裏返った声で悲鳴をあげた綱吉の指を吐き出し、両腕でがっちりと綱吉の細腰を抱え込んだスクアーロは、ちっとも大人しくならない綱吉に梃子摺りながらなんとか埃臭いじめじめした倉庫から、薄暗さは残るものの多少換気の良い廊下へと足を戻した。
 直後綱吉が膝蹴りすべく足を高く持ち上げ、しかしバランスが中途半端に悪かったためにスクアーロでも支えきれず、胸も反り返して頭をあげようとしていた綱吉の体はずるりと光沢あるコートの表面を滑った。
「うおっ」
「ぎゃ!」
 そのままズルズル滑り落ちていこうとする綱吉の体を、寸前でスクアーロは抱え直した。
 咄嗟だったから加減は出来ず、それこそ背骨が折れそうなくらいの力で綱吉は抱き締められる。彼の肩に爪を立てて堪えた彼は、息苦しさ以外の理由から心臓を強張らせた。
 スクアーロもまた、綱吉に見えないところで表情を青褪めさせて、一瞬止まった呼吸を冷や汗と一緒に飲みこんだ。
 かぼちゃの内側でぜぃはぁと乱れた呼吸をどうにか落ち着けやった綱吉は、膝をついたスクアーロに合わせて両脚を投げ出し、彼のコートに顔を押し付けた。
「うぉい」
「やだ、歩かない」
 締め付けを緩められて、今度は詫びの代わりに背中を撫でられる。少しだけ呼吸が楽になったものの頑として首を縦に振らない綱吉に、スクアーロは聞こえるように舌打ちした。
 だからか、綱吉はムキになって益々力を込めて彼のコートを握り締める。自分で言ったのだから最後まで責任を持て、と言わんばかりの綱吉の態度に再度舌打ちし、スクアーロは前方に見える曲がり角を思い切り睨みつけた。
 ただ綱吉の背に回すだけだった両腕のうち、左腕の位置を少し下げる。残る右腕は上げて互い違いになるように綱吉を支えたスクアーロは、人の首が絞まるのも厭わずにしがみついてくる駄々っ子に溜息を零した。
「何処連れてかれても文句言うなよ」
 握れば簡単に折れそうな肩を抱き、慎重に、けれど一気に立ち上がる。唐突に足場が無くなった綱吉は、その瞬間殊更強くスクアーロに縋り付き、カボチャの頭に首をゴキっとやられた彼はやや遠い目をしながら綱吉を抱え直した。
 落とさぬよう安定する位置を探し、右肩に綱吉の頭を載せる。そしてふと、耳元で微かな空気の震えを感じて怪訝に眉を寄せた。
 綱吉が、声を殺して笑っていた。
「ぁんだ?」
 瞳だけを横に動かし、綱吉の細く白い首を視界に収めたスクアーロが問う。綱吉は丸めた拳を喉元に押し当て、彼に見えない場所で目を細めた。
「どこ連れてかれるのかなーっ、て」
 どうせ執務室だというのは分かっているけれど、意地悪をして聞いてみる。カボチャの首から僅かに見えるスクアーロの銀の髪は、相変わらず悔しくなるくらいにサラサラだった。
 そのスクアーロからの返事はない、歩き出そうとしていた動きも止まった。
「スクアーロ?」
「うっせえ! いいから黙って抱えられてろ」
「ええーー、なにそれ。おーぼーだ!」
「うっせえつってだろ、塞ぐぞ!」
「いいよ?」
「――!」
 かぼちゃ頭越しでもガンガン響く彼の声までもが、綱吉のやや低い声の後で不意に止まる。
 綱吉を抱える手の力強さは変わらないけれど、少しだけ緊張した様子で震える指先が脇腹を撫でていった。
 くすぐったさに身を捩り、綱吉は彼の首に腕を絡ませたまま、触り心地が良い銀髪を気まぐれに指で梳いた。
「スクアーロ」
「……なんだ」
「今、真っ赤でしょ」
 クスクスと堪えきれない笑みを零し、綱吉が見えないけれど想像できる彼を闇の中から見つめた。
「だーれがっ」
 即座に彼は反論して怒鳴るけれど、いつもより少しだけトーンが上擦っているのは直ぐに分かって、綱吉は益々声を高くして笑い、銀髪を指に巻き付けて軽く引っ張ってやった。
 からかいすぎただろうか。怒ったのか、スクアーロは一度綱吉の身体を上下に乱暴に揺すって、すっかり忘れていた歩みを再開させた。
 ただ落ちぬよう背中と腰はしっかりと支えられて、綱吉の爪先は宙を蹴る。
「ね、スクアーロ。どうなのさ」
「うっせぇ。黙ってろ」
「だって、見えないんだからしょうがないじゃん。教えてくれたって良いじゃないか」
 ケタケタ笑いながら両脚をばたつかせ、人ひとりを抱えて歩くスクアーロをひたすら邪魔しながら綱吉が食い下がる。いい加減にしろ、と怒鳴られても見えない所為で恐くない。すっかり気が大きくなっている綱吉に、スクアーロは怒りのやり場に迷いながら側頭部で思い切りカボチャを殴りつけた。
 衝撃が増幅され、綱吉の頭が激しく揺れる。本気で吐き気を催しそうになり、綱吉は一瞬押し黙った。
「テメーこそ」
 自分もぶつけた頭が痛かったのか、スクアーロは歩を緩めて綱吉の背を撫でる。革手袋越しの暖かさに綱吉は息を呑んだ。
「どう、なんだよ」
「スクアーロ?」
「ああ、もううるせえ! 黙れ、糞餓鬼」
「多分、一緒」
 声が潜められたかと思ったらまたすぐに怒鳴られて、ギャップの大きさに驚いて笑いながら、綱吉は彼の頸に巻いた両手にそっと力を込めた。
 肌を寄せて、しがみつく。
 自分にしか聞こえないくらいの小声で囁いたことばは、届いただろうか。
「……いくぞ」
「はーい」
 低い、いつもの、ただ少し硬い、彼の声。
 安定したリズムを刻む落ち着いた歩みが、心地よい。
「かぼちゃ、被ってて良かった」
「なんか言ったか?」
「んーん? なーんにも」
 綱吉が楽しげに笑って、足を揺らして時々スクアーロの邪魔をして、落ちそうになって庇われて、怒られて拗ねて。
 赤い顔を、お互い、相手にだけは隠して。
 ふたり。
 声を揃え、笑った。

 
2007/10/29 脱稿