放課後、いつでもおいでと言われている応接室に顔を出してみたら、見事に内部は蛻の空だった。
「見回りかな」
軽い弁当箱と筆記用具以外、殆ど中身の入っていない鞄を胸に抱いて、綱吉は背後の廊下を振り返る。自然と戻ろうとするドアに肩を叩かれ、綱吉は銀のドアノブを押し返しながら人気の無い空間に唇を尖らせた。
約束も何もしていなかったのだから、すれ違いになる可能性もあったのは分かっている。雲雀だって暇ではないのだからと自分に言い聞かせてみるが、いつも好き放題に人を呼び出すくせに、偶に自分から出向いてみたら肩透かしを食らわされて少し割に合わない気がした。
「ちぇー」
帰ってしまおうか、とも思う。視線を戻した室内は相変わらず殺風景で、理路整然と必要なものが並べられ、不要なものは何処にも見当たらない。カーテンの隙間から漏れ入る光は既に夕焼け色に染まっており、日暮れがすっかり早くなっていることを綱吉に教えていた。
ぼうっとしている間にも時間は過ぎ、闇は東の空から徐々に範囲を広げてくるだろう。誰も居ない応接室でひとり過ごす時間と、真っ暗になる前に温かな家に帰り着くのと、果たしてどちらが幸せか。
天秤にかけるまでもない選択肢だが、綱吉は躊躇しながら再び廊下へ視線を巡らせた。
今日は朝からずっと、雲雀の姿を見ていない。
応接室のドアは鍵がかかっていなかったし、微かだが人が此処に在った空気は感じられる。けれど肝心の部屋の主が不在では意味がないと頬を膨らませ、綱吉は口の中に溜めた息を一気に吐き出して廊下と応接室の境界線を大股に跨いだ。
昨日から風紀委員内部はどたばたしている様子で、雲雀もなにやら忙しそうだった。何があったのかまでは教えてくれなかったし、聞いても答えてくれないだろうから敢えて聞かずに過ごしたが、今はそれを後悔している。
胸の中がざわめいて、急速に不安が膨らんでいく。内側から押し潰されてしまいそうな自分を意識して、綱吉は腹に力を込めると後ろ手にドアを閉めた。
バタン、と大きく音を響かせるドアに一瞬だけ竦み、直ぐに強張った肩の力を抜く。改めて部屋の正面を見据えれば、雲雀の執務机が応接セットの向こう側にいつもと変わらぬ姿で鎮座していた。
細く伸びた光が床から壁にぶつかって、ほぼ直角に折れ曲がっている。天井の照明は消されていたが、中は薄暗いものの歩き回るのに苦労させられる明度でもなかった。
綱吉は誰も内部に潜んでいなかったことにまず安堵し、鞄を右手に持ち替えて応接セットへと向かった。
足取りに戸惑いは無く、通い慣れているのがそれだけで分かる。三人まで掛けられるソファの背側に回り込んだ彼は、持ち上げた右手を広げて鞄を落とした。
弁当箱の仕切りが外れたのだろう、微かな物音が他よりも大きく響いて鞄は横倒しにクッションへ寝転がる。視線をそちらへ流した綱吉は、自分の体も一緒にダイブさせようか悩んでから首を横へ振った。
今横になったら、そのまま眠ってしまいそうだった。物凄く眠いわけではないが、寝転がって目を閉じて、眠らずにいる自信はあまりない。
それに今までも何度か、雲雀を待って、待ちくたびれて眠ってしまって、目が覚めたら雲雀の膝に頭が載っていたり、学生服を上に掛けられていたりという出来事もあった。そういうのは起きた時に心臓に悪いから、出来ればもうやりたくない。
当時を思い出して赤くなった頬を擦って、綱吉はがらんどうの雲雀の机前に歩み出た。縁にそっと指を置き、右から左へと滑らせる。
卓上カレンダーに、筆立て。中に入っているのは飾り気の無い機能重視のボールペンや色ペンなどで、数はそう多くない。必要最低限のものが揃っていれば良いらしく、余分なものはすべてそぎ落とす雲雀の性格を象徴していた。
ペン立ての手前に、積み重ねられた書類。重石としての分銅が窓からの陽射しを受け、鈍く輝いていた。
右から左、そして奥へと視線を巡らせ、手は机の縁を叩いてリズムを刻む。書類を前にした雲雀が考え込んでいる時にやる癖のひとつで、気がつけば綱吉にまで伝染していた。
見た目も性格も、育った環境も置かれている状況も、なにひとつ似通ったところがない自分たちなのに、こういう何気ない仕草から近づいているのが照れ臭くて、気恥ずかしいけれど嬉しかった。
「帰って来る、よね」
光の届かない天井付近は手元よりもずっと薄暗く、掲げられた丸時計の文字盤も少々読み取りづらい。目を凝らして分針が動く瞬間を確かめた綱吉は、現在時刻を頭の中で反芻させながら、いつもならもうとっくに巡回を終えているはずだと唇を尖らせた。
下から押し上げるように指を宛がい、パソコンからプリントアウトされたらしい黒文字の記された書類の山を睨む。
矢張り何かあったのだろうか、一時は治まっていた不安がまたむくむくと膨らみだして、綱吉は戸口を振り返ろうとして腰を強かに机へと打ち付けた。
「いったぁ……」
重い机も揺れる勢いでぶつかっており、綱吉は打った箇所に左手を当てて涙目で奥歯を噛んだ。じんじん響く痛みに、腰のみならずその近辺の感覚も揃って麻痺している。前のめりに倒れかけた身体を机に寄りかからせて堪え、浅く腰を机に乗り上げさせると今度は制服の上着が筆立てを掠めた。
突き刺さっていたペンに布が絡み、音を立てて引き倒してしまう。中身が一斉に机上へ溢れ出して、泣きっ面に蜂とはこの事か、と綱吉は臍を噛んで机に向き直った。
綺麗に整えられていた書類も歪んでいて、本気で泣きそうだった。
雲雀に見付かったらきっと怒られる。まだ痛む腰を気にしながらも急いで転がしたペンを拾い上げ、銀色の缶に突き刺していく最中、書類に挟まっていたのが落ちたのだろう、珍しいものを見つけて彼は動きを止めた。
黒いパッケージ、掌サイズで。
表面に白抜きで描かれた文字は、綱吉にも馴染み深い単語だった。
「チョコレート?」
蓋を開けた形跡もある、親指で継ぎ目を押して入り口を広げると皺くちゃの銀紙が顔を覗かせた。
彼が甘いものを好む人だったというのは、知らない。いつもコーヒーはミルクも砂糖も入れないブラックで、紅茶も同じくストレート派。綱吉が好きなスナック菓子にはまるで興味を示さないし、飴玉を舐めている時があっても味は大抵薄荷だ。
応接室に菓子が置かれるようになったのは、綱吉が通いつめるようになって一ヶ月程度してからだったと記憶している。それまでは本当に、ガム一枚さえなかったのに。
「……」
誰かから取り上げたものだろうか、けれど違う気がして綱吉は箱を手に考え込む。
風紀委員長なだけに風紀に厳しく、たとえ綱吉であっても学内で間食しているところを見つけたら容赦なく叩きのめしてくる雲雀が、自ら風紀を破るとは考え難い。けれど誰だって甘いものを食べたいときはあるよね、と自己弁護も兼ねて彼を擁護しつつ、綱吉は興味本位に箱の中身を指で引っ張りだした。
銀紙に包まれた、黒い板チョコレートだった。
全体に細長く、割りやすいように表面には溝が刻み込まれている。うち一箇所だけが欠けて角が凹んでいた。
綱吉の前には、丁度千切るのに好都合な出っ張りが。
昼ごはんを食べてから、ゆうに四時間は経過している。成長期におやつは欠かせないのだけれど、間食厳禁の学内にあってはそれも許されず、空腹感は綱吉の中で理性と喧々囂々の争論を展開しつつあった。
思わず喉を鳴らして唾を飲み、綱吉はチョコレートを箱ごと胸に抱き寄せて素早く後ろを振り返る。大丈夫、ドアはまだ開いていない。
開く気配も、まだ。
自分に宿るという超直感を信じ、綱吉は丸めた背中を伸ばしながら手の中にある黒色の濃い甘味物を見下ろした。無意識に分泌された唾液が口腔を潤し、食欲を刺激している。腹の虫が淋しげに鳴った。
見付かったら、どう言い訳をしようか。でも委員長自らが風紀を乱しているのだから、強く怒られることはない、きっと。
そう考えると身体の底から力が沸いてくる気がして、綱吉は生唾を飲みこむと両手で大事に持った箱を左手一本に移し変え、右手で出っ張っている角形に指を添えた。
そっと力を込め、溝に沿って下に折る。夕日を浴びて少し溶けていたからか、見た目は硬そうなのに表面は柔らかく、さしたる抵抗もないままにチョコレートは大小ふたつに分離を果たした。
大きく残っている側を傾けた箱内部にスライドさせて落とし、小さい方を口の中へ。親指大の黒い板を舌に載せて指先に残る分も舐め取った彼は、幾分幸せに表情を和らげたその一秒後。
「うっ」
苦悶に表情を歪めて床に膝をついた。
舌の上で溶け出したチョコレートが、強烈に。
「に……があっ!」
どろりとした感触が舌の表面全体を覆い尽くし、ねっとりと貼り付いて多少の唾液では剥がせそうにない。口の中に炭の塊を放り込まれたような苦みに、綱吉は腰を打った痛みも忘れて悲鳴をあげた。
吐き出してしまいたい、しかし応接室の床にそれは出来ない、死んでも。かといって我慢して飲み込むのも困難で、綱吉は喉元を両手で押さえながら飲み物を求め視線を後方へ転じた。
長い影が床に伸びていた。
「う」
「ふぅん?」
机の前で蹲る綱吉の二メートルほど向こうに、黒の学生服を肩に羽織らせた青年が、黒髪を揺らして愉しげに目を細めて立っていた。口元には薄い笑みが浮かべられているものの、微妙に右の口端辺りが痙攣しているように見えたのは綱吉の錯覚ではない。
応接室のドアは、閉まっている。けれど気付かぬうちに部屋の照明は灯っていた、綱吉がスイッチを入れた記憶は無い。
手の中にはチョコレートの黒い箱、口の中にはとてもチョコレートとは思えない凶悪に苦い物体。ひょっとして雲雀は、綱吉が盗み食いをするのを承知で嫌がらせ目的にこれを置いていったのだろうか。
涙目で人を斜めに見上げ、声も発せられない綱吉を一頻り眺めた雲雀は、膝を折って机に右肩を寄り掛からせている彼の手に握られているものを確かめて、大体の状況と事情を察したらしい。呆れた様子で息を吐いて、足音も立てずに歩み寄り、軽く腰を屈めて黒色の箱を引き抜く。
綱吉は抵抗せず、箱はするりと雲雀の手に吸い込まれていった。揺れる蓋を閉じた彼は、表面に記された金文字を撫で、顔の前で左右に揺らした。
「食べたの?」
「ぅ……」
聞かずとも姿を見れば分かりそうなものなのに敢えて聞いてくる彼を恨めしげに睨み返し、綱吉は喉を焦がす苦みに益々涙を目尻に貯めて、懸命に口の中を唾で洗い流そうとした。
しかしその唾さえもが、溜まらなく苦いのだ。飲み込むにも勇気が必要で、何度も喉の手前でうえっとなって吐き気と一緒に戻ってくるものだから、次第に綱吉の口の中は黒く濁った唾液でいっぱいになっていった。
口を開けるのもままならない。頬を膨らませて両手で口を覆い、必死に堪えている綱吉に再度溜息を零した雲雀は、手にしたチョコレートの箱で自分の肩を数回叩き、表面を綱吉に向けた。
チョコレート、の文字にばかり気を取られていて、綱吉は全く気付いていなかった。
箱の表に記された九十九パーセントという数字と、その下に線で囲まれた注意文に。
「ぐむ」
素早く文章を読み取った綱吉は、今の自分の状況が雲雀の悪戯などではなく、起こるべくして起きたものだと理解してがっくりと肩を落とした。
チョコレートのくせに苦いなんて、卑怯だ。生まれてこの方甘いチョコレートしか食べて来なかった綱吉にとって、今日の出来事はトラウマにもなりかねない。
そろそろ口を覆って堪えるのも限界で、飲み込むか、雲雀の前で吐き出すかのふたつにひとつ。こんな事になるのなら、人のものを勝手に盗んで食べるんじゃなかったと後悔しても後の祭り。うるうると大粒の瞳を潤ませてごめんなさい、と目で訴えかける綱吉に、雲雀はチョコレートの箱を机に置くと右手をそこに残したまま、ゆっくりと膝を折った。
綱吉と視線の高さを揃え、彼の顔に影を落とす。
「苦い?」
聞かれても口を開けられないから答えられない。代わりにコクン、と小さく首肯すれば雲雀の左手がそっと慰めるべく綱吉の髪を撫でた。
柔らかで優しい彼の指使いに、堪えきれなくなった涙が頬を伝った。
「仕方ない子だね、君は」
本当なら怒って然るべきなのだが、状況が切迫しているので今は許してあげる。そう言葉尻に含ませて笑い、彼は耳朶を擽った指で綱吉の顎を持ち上げた。
「ン」
同時に右手で口を覆っていた両手を外されて、一層きつく唇を閉ざした綱吉はゆっくり近づいてくる雲雀の黒髪にもうひとしずく涙を零し、目を閉じた。
そっと重ねられて、合わさりの溝を舌先でなぞられる。
力んで窄められた綱吉の唇に音を響かせて吸い付き、雲雀は上向く綱吉の口角を擽った。弱いけれど繰り返される刺激に少しずつ強張りを解いて、綱吉は緊張から喉を鳴らす。
染み出た露に舌を這わせ、雲雀もまた大人しくされるがままの綱吉に目を細めた。顎を指でなぞり、輪郭を辿って、耐えきれなくなった綱吉が息苦しさに喘いで唇の柵を解き放った瞬間、がっぷりと噛み付いて深く口付ける。
「んっ……!」
息継ぎもさせて貰えず、舌根を伝って喉に落ちた苦みに咳き込みたいのに雲雀がそれを許さない。咥内に荒々しく潜り込んだ彼の舌は唾液の海を泳ぎ、先を丸めて逃げまどう綱吉を追いかけてきつく吸い付いた。
歯の裏まで舐り、僅かな空間に落ちた水滴さえも余すことなく回収し、合わさりを外しもせずに飲み込んで喉を上下させる。間近から獣のような息遣いを感じ取って、もっと違うものを身体の奥底から引き出されているような変な気持ちになりかかり、綱吉は行き場の無い両手で雲雀の学生服を掴んだ。
厚みのある布に皺を走らせ、互いに飲み下しきれずに口端から滴り落ちる生温い液体の感触をひたすら堪える。
「はふっ、んぁ……は……」
ざらりと舌の表面をなぞられ、僅かに残るチョコレートの欠片さえ吸い出されて、最早綱吉は息も絶え絶えの状態に等しい。それなのに雲雀は愉しげに漆黒の瞳を細め、顎に向かって走る黒く汚れた水の伝った跡にまで唇を寄せた。
擽るみたいに下から上に向かって舐められ、最後に音を立てて唇を吸って離れては、また下へ。何度も目の前を行き来する彼の前髪が鼻先を掠め、微かに感じる誰かの血の臭いに綱吉は味が薄れた唾液を嚥下した。
犬みたいに舌を出して浅い呼吸を繰り返していると、笑った雲雀に噛み付かれる。
「っぁ」
「苦かった?」
舌先を擦り合わせたまま囁かれ、ぞくりと綱吉の背中が粟立った。
膝で折って投げ出していた脚を、臑から腿に向かって撫でられて床に縫いつけられる。綱吉は答えられなくて、さっきまでとは色が異なる潤んだ瞳を彼に投げ返した。
悔し紛れに握った彼の学生服を引っ張り、肩から外して床へ落としてやる。白いシャツの襟を広げて反抗的な目をする綱吉の手を取った雲雀は、チョコレートが潜り込んだ中指の爪の隙間をわざと見せつけるように舐めて、最後に軽く噛んで行った。
ビクッと全身を震わせて綱吉が熱っぽい息を吐く。唇を濡らす唾液は、甘い。
「ヒバリさん……」
窓から差し込む光が、床に長く薄い影を落としている。暗がりにふたり蹲って重なり、綱吉は雲雀の名前を切なげに呼んだ。
噛み付かれた舌がじくじくした痛みと、ずくずくする熱を放っている。雲雀を前にして膝を擦り合わせた綱吉に、彼は切れ長の眼をいっそう細めて笑った。
「盗み食いのお仕置きも、しないとね」
耳元の髪を掬い上げて撫でられる。愉しげに囁かれた声に反論も出来ぬまま、綱吉は太股に置かれた雲雀の手に手を重ね、握りしめた。
2007/10/30 脱稿
2008/05/31 一部修正