魂迎 第三夜(中編)

「――――」
 けれど声にはならず、無音の息が零れただけに終わる。
「ツナ?」
 ただディーノは、反応した。
 上から綱吉の顔を覗き込んで、彼は触れていた手を引き剥がす。惚けた顔をして逆さまに映る彼を見上げた綱吉は、遠ざかる体温にほっとすると同時に一抹の寂しさを胸に抱え、その矛盾に息を呑んだ。
 今自分が、何を――誰を呼ぼうとしたのかが解らない。
「ツナ? どうした、どこか痛いとか?」
 目を丸くし、表面が乾くのも厭わずに瞬きを忘れている綱吉にディーノが呼びかける。なんとか立ち直った獄寺と山本も距離を詰め、無言のまま茫然自失としている綱吉を見守った。
 リボーンが愛用の黄色い頭巾を目深に被り直す。
「あ……え?」
 膝の上で動くものの感触に漸く我に返った綱吉が、瞬きを二度繰り返して首を振った。
 正面に向き直って順番にふたりの顔を眺め、最後に真上にいるディーノを仰ぎ見る。
 心配そうに細められた瞳と中央に寄った眉、南から差し込む光に照らされた金色の髪。整った顔立ちは人間離れしていて、一度見たならきっと忘れないに決まっている。
 それなのに、忘れている気がする。具体的な何かは解らないけれど、覚えていなければならなかった彼に関することを、自分は何処かに落としてきてしまった。
 ディーノに会うのは今日が初めてなのは間違いないのに、ぼんやりと胸に浮かぶこの思いは正しいものだと確信していて、綱吉はそんな自分が分からないともうひとつ首を振った。
 髪の上に降りたディーノの手が、優しく綱吉の跳ね上がった毛を梳る。
「どした?」
 問う声は深く、低く、暖かで柔らかい。
「いえ……ちょっと、ぼーっとしてただけです」
 静かな指の動きを地肌に感じ、綱吉はやや掠れた声で呟き返した。
 視線を前に戻し、自分の震える指を見下ろす。膝の間に座ったリボーンの頭巾が妙に大きく思えて、彼に触れぬようだらりと腕を脇に落とした綱吉は拳を軽く握り、指の背を畳に押し当てた。
 ひんやりとした感触に、漸く生きた心地がしたと息を吐く。
「十代目、本当にお加減が悪いのでしたら」
 君の方がよっぽど顔色が悪い、と茶化したくなる獄寺にまで心配されて、綱吉は視線だけを持ち上げて苦笑した。
「大丈夫」
 肩を揺らして無理に笑い、姿勢を正す。背中に感じるディーノの温かさが優しくて、綱吉は雲雀の膝に座っている時同様の安心を抱いている自分に目を閉じた。
 父親の――家光の膝に似ているのだ。無理にそう自分を納得させ、綱吉は気持ちの置き場を入れ替える。
 綱吉がディーノの胸元を居場所と定めてしまい、獄寺は不満顔を隠しもせず唇を尖らせる。元は綱吉が座っていて今は空席となっている座布団に腰を落ち着けた彼は、邪魔になる前髪を鬱陶しそうに払いのけ、ディーノを目の敵にしながら胡坐を組んだ。
 そのはっきりと拗ねていると分かる態度を山本が軽い調子で笑い、湯飲みを引き寄せたリボーンが中身を飲み干してから空っぽになったそれを空中に掻き消した。小ぶりの湯飲みは直後ぶすっと頬を膨らませていた獄寺の頭上に現れて、無論重力の導きのままに落下したそれは獄寺の頭部を直撃した。
 ゴッ! と実にいい音がして獄寺の額が先程の綱吉同様畳に激突する。横向きに転がった湯飲みには傷ひとつなくて、唖然とする一同を前に犯人であるリボーンだけがニッと口元を歪めて小さく笑った。
「リボーン……」
「それより、山本。お前肝心なこと忘れてないか?」
「俺?」
 なんて事をしてくれるんだ、と青褪めた顔に手を置いて落胆の表情を浮かべた綱吉に対し、リボーンはどこまでも自分の調子を崩す事無く保ち続け、げらげらと腹を抱えて笑っている山本へ矛先を移した。
 自分を指差した山本に、深く頷いて返す。
「大事なこと?」
「お前、昨日まで何処行ってたんだ」
 けれど即座に何も浮かばないらしい山本が首を傾げるので、リボーンは若干怒った様子で声を放つ。
 そこまで言われれば、綱吉にもリボーンが彼に何を問うているのかは理解出来た。ディーノを巡る一連の騒ぎの中ですっかり忘れてしまっていたが、山本は大祓の日に呼び出しを受け、本家に出向き、昨晩遅くに戻って来たばかりだった。
 合点のいった山本が、座を改めて口元を引き締める。瞳に力を込めてきりっと澄ました顔を作り出したが、ふと綱吉を抱きかかえているディーノを思い出して伺う視線をリボーンに向けた。
「構わないぞ。こいつも、俺の弟子だ」
「えっ」
 ところがリボーンの返事は予想を遥かに上回る内容であり、寝耳に水の綱吉も驚きを隠せない。
 姿勢を前に倒して首を後ろに向けると、頬を引っ掻いた彼が若干困った風に笑っている顔が斜めに見えた。獄寺や山本でさえ、呆気に取られて開けた口を閉じるに至っていない。
「本当なんですか?」
 だから代表で綱吉が問うと、彼は綱吉ごと下にいるリボーンの姿を視界に収め、一瞬躊躇した後に頷いた。
「弟子っていうか、まあ、昔にちょっと」
 あまり多く喋りすぎると雲雀と義兄弟であるとする設定が崩れてしまうのを危惧し、彼は以前に世話になった事があるのだとだけを言葉少なに告げる。
「じゃあ、ディーノさんも退魔師なんですか」
「あー……うん、違うけど似たようなもん?」
 益々興味惹かれたと目を輝かせる山本に言葉を濁し、ディーノは綱吉の脇腹をすり抜けた手でリボーンを小突いた。
 余計な事を喋るなと釘を刺したのは彼なのに、リボーンが一番余計な事を口走っている。振り向いた彼は大粒の黒目を少しだけ細め、うっかり、と見た目は可愛らしいが彼がやると非常に憎らしい姿勢を作って綱吉の反感を買った。
 だが膝を重ね合わせる三人のやり取りに残る獄寺も山本も気づく様子はなく、まだまだ半人前の粋を脱していない彼らは、唐突に判明した先輩格のディーノに羨望に近い眼差しを送った。
 単純で扱い易いが、こうも簡単に信じ込まれてしまうと逆に嘘をついているのが申し訳なく感じられてならない。苦笑したディーノは、またしても話が中断していると手を振って山本に話の先を促した。
 目を瞬かせた彼は、取り繕うように咳払いをひとつして居住まいを正す。正座を作ったのは自然だった。
「えっと、何から話せば?」
 ただこの場に、山本が何の用事で本家に呼ばれ出向いたかを知らないディーノがいるため、話の出だしを何処に置くかで逡巡を見せる。
「最初からでいーぞ」
 察したリボーンが揃えた両足の踵で綱吉の脛を蹴り飛ばしつつ、気楽に言う。すっかり自分は聞く体勢に入っていて、整理しながら説明しなければならない山本の苦労などどうでも良さそうな構えだ。
 大丈夫だろうかと揺らした瞳で彼を見た綱吉だが、山本は持ち前の天然な明るさを取り戻し、そっか、と相槌を返して自分の膝をひとつ打った。隣にいる獄寺もまた、姿勢を正して背筋を伸ばす。逆にディーノは背中を丸め、綱吉の肩に顎を載せて寄りかかってきた。
 ただ体重は配分してくれているようで、綱吉への負担はそう多くない。
「んじゃ、まず俺が本家に呼ばれた理由なんですけど」
 そして山本はゆっくりと、頭の中を整理しながら語りだした。
 夏越しの祓の日に受け取った呼び出しの文にあったのは、昨今退魔師を狙う不穏な動きがあるという事だった。この段階で既に死者は片手を軽く越え、山本が本家に辿り着いた頃には報せにあった数の倍に膨れあがっていた。被害者の多くは各地の里に定住し、屋敷を構えている連中。狙われるのは退魔師本人だけなのが基本だが、中には一家皆殺しにされたところもあったらしい。
 重苦しい口調で淡々と語る山本の言葉に、綱吉がぎゅっとリボーンを抱き締める。無意識に込められた力に彼は一瞬眉を寄せたが、窺い見た綱吉の顔色があまり優れないのを知って、大人しくされるままになるほうを選んだ。
 ディーノもまた顔を顰め、口元を歪めて眉間に皺を刻む。獄寺もほぼ同様の表情を作っており、座敷には山本の声と庭で遊ぶ鳥の囀りだけが静かに響き渡った。
「俺が本家を出る直前も、火急の報せが入ったとかで騒がしかったから、まだ増えているのかもな」
 ぽつりと呟いた山本の顔はやるせなさに満ちており、苦渋に歪んだ口元は唇を噛み締めすぎて皺が寄っていた。
「なんだって、そんな事」
 吐き捨てるように苦々しく言った獄寺は、山本と視線を合わそうとしない。彼に背を向ける形で身を捻り、畳に置いた自分の右手を睨みつけるばかりだ。
 山本はちらりとそんな彼を盗み見て、首を横に振った。伏した瞳は言うべきかどうかで一瞬迷い、しかし告げなければ話を先に進められないと悟って肩を落とした。
「雲雀には、後で頼むな、ツナ。悪いんだけど」
「あ、……うん。分かった」
 唯一この場に足りない人物の名前を挙げ、山本は綱吉に気が重くなる頼みごとをする。二度も説明するのは彼も嫌だろう、任された伝言に綱吉は了解と頷いた。
 本当は気乗りしない。聞いているだけで今もう泣きそうになっているのに、それを雲雀に伝えなければならないなんて。
 ぶるり、と上半身を震わせる。その肩に落ちたディーノの手が、まるで慰めているみたいに動いて綱吉の強張った筋肉を解していった。顔を寄せた彼にそっと耳打ちされたのは、
「俺が――伝えておく」
 綱吉にだけ、否、綱吉とリボーンにだけ聞こえる声で。
 思わず目を見開いた綱吉に、彼は空色の目を細めて笑顔を作った。
「けど……」
「どうせ、あいつとは話さなきゃいけないことがあるから」
 ついでだから気に病むことはない。そう手短に告げたディーノの言葉は、殺された退魔師たちの痛みを想う綱吉にはありがたい申し出だった。だから綱吉は深く考えないままに頷き、山本から託された依頼をディーノへ丸投げした。
 リボーンは沈黙を保つ。山本は一旦呼吸を整えてから話を再開させた。
「犯人は全て、恐らくだが同じだろうと聞いている。それも複数人。ただ、どういう連中なのかは本家の力をもってしても、まるでつかめていない」
 伸ばした人差し指で畳の地をなぞり、縁に至って掌を裏返す。彼の視線は話している間ずっと指先にばかり向いていて、振り向いた獄寺への反応も鈍かった。
「なんでだよ、そこまで分かっててなんで」
「いないんだ」
 大勢の同胞を失っておきながら、本家は何故犯人検挙に手を打ちあぐねているのか。報せは各地に飛んでいるから、無論退魔師自身も警戒は怠っていないだろう。
 それなのに、そんな警戒は無意味だと嘲笑わんばかりに、犯行は続けられている。
 苛立ちを募らせる獄寺の怒声に、山本は何処までも静かな口調でひとこと、告げた。
 狐につままれた顔をして、獄寺は振り上げた拳のやり場を失う。
「いない……?」
「ああ。目撃者が、ひとりも、な」
 夜、寝所に入ってから朝が来るまで、何者かが侵入した形跡は無いのに、その家の主は死んでいた。生き残った家人は物音を聞かなかったし、叫び声も聞いていない。寝ずの番をしていた番兵も、侵入者の影を見ていなかった。
 どこから入ったのか、そして何処へ消えたのか。
 退魔師の屋敷には大抵何らかの侵入避けが施されているが、それが発動した様子も一切ないのだという。一家皆殺しにあったのは、家族全員で肩寄せあって川の字に寝ていた家なのだそうだ。流石にこればかりは、目撃者を出さぬまま事を成しえなかったのだろう。
「酷い……」
 かみ合わない奥歯を鳴らし、綱吉が小刻みに全身を震わせる。鳥肌が立った肌をディーノの手が撫でて暖め、彼は最後にそっと、綱吉の肩を抱き締めた。
「目撃者がいないってのは、厄介だな」
 綱吉が顔を伏して言葉を失うのに反し、リボーンは淡々と思うままに所見を述べる。山本は少し疲れた様子で頷き、ディーノの腕の中で小さくなっている綱吉を辛そうに見詰めてから首の後ろを爪で引っ掻いた。
「死因は大きく分けて三つ。ひとつは毒、ひとつは圧死、もうひとつが」
 薄い皮膚に蚯蚓腫れを残し、三本立てた指を顔の前で一本ずつ折っていく。けれど最後のひとつに至ろうとしたところで彼は以前にも増して躊躇を見せ、下唇を噛んで綱吉から顔を逸らした。
「山本?」
「分かってる。……獣に、食い破られていたそうだ」
 想像してしまったのだろう、綱吉がひっと喉を引き攣らせて声にならない悲鳴をあげた。
 特に一家惨殺の現場は酷く、部屋中が血の海と化し、千切れた肉塊がそこかしこに浮かんでいた。天井までを這う血の筋はまるで子供が悪ふざけをして泥で壁に落書きをしているようなもので、腸が散乱し、人は人の形を留めていなかった。
 見開いた目に涙を浮かべ、瞬きを忘れた綱吉が両手で己の口を塞ぐ。こみ上げる吐き気を必死に堪えているのが見て取れて、山本は言うべきではなかったと後悔した。
 耐え切れず、綱吉は胸から上を後ろに捻ってディーノの肩口に顔を埋める。漏れ出る嗚咽は獄寺たちの耳にも届き、沈みきった空気が重く座敷に圧し掛かった。
「ツナ、辛かったら外出ても、いいぞ」
「駄目だ」
 指の背で畳を叩いた山本が、持ち上げた手を返す仕草の最中で提案したのを、リボーンがぴしゃりと叩き落す。反射的に「どうして」と叫んだ獄寺をも睨んだ彼は、ディーノの両腕に抱かれながら涙を零している綱吉の細い背を見上げ、
「お前は蛤蜊家十代目を継ぐ男だ。これくれーのことで心が折れるようじゃ、とてもじゃないが勤まらないぞ」
 現実味が薄い所為でついつい忘れがちになる事実を冷たい声で思い出させられた綱吉は、瞬間全身を硬直させて息を止めた。
 初耳だったディーノが一瞬だけ驚きの表情を形作り、そして直ぐに能面を顔に張り付かせる。震える綱吉を抱き締める腕に無意識に力が入り、締め付けられた苦しさに彼は首を横へ振った。
「……」
 苦々しい顔で山本が自分の掌をきつく握り、獄寺は額に手を置いて項垂れる。
「山本。本家の判断は」
 冷徹なリボーンの追求は止まらない。厳しい目で見上げられ、彼は臆した後硬く目を閉じ、深く長い息を吐いた。
 綱吉は動かない。ディーノの絹よりも柔らかい肌触りをした着物に額を押し付け、布の弛みを指に絡ませ、浅い呼吸を繰り返すだけで精一杯だった。
「本家は、……近隣に在するものは全員、宗家に撤収せよと。本家で迎え撃つつもりらしい。ただ、俺は」
 各地に点在しているから各個撃破を免れないのだというのが、現在本家に君臨する老人の弁だった。九代目の姿はついぞ見ることもなく、声を聞くことさえ無かったと山本は続ける。今現在の蛤蜊家を実際に動かしているのは古老数名であり、九代目の意思は最早そこに介在しないと見て取るべきだろう。
 それが口惜しいと、山本は下唇を噛み締める。
「命が惜しい連中は、早々に本家の指示に従った。俺は、そういうの気に入らなかったから、振り払って出てきてやったけど」
 山本が疲れていたのは、本家から並盛までの旅の行程が辛かっただけではない。むしろ精神面での衝撃が大きかったのだろう、滅多なことでは激高しない彼が今朝あんなにも苛々していた理由が分かった気がして、綱吉と獄寺は言葉を呑んだ。
 しかしはたと何かに考え至った獄寺が、己の口元を手で覆い隠し怪訝に顔を顰めやる。憤怒とも取れるその顔色をして、荒々しく彼は拳を膝に打ちつけた。
「ちょっと待てよ!」
 静まり返った室内に雷撃の如き声を放った彼は、荒々しく肩で息をすると同時に寝かせていた膝を縦にして山本に向けて身を乗り出した。
 言葉を止めた彼へ、怒りが納まらない獄寺が目尻を吊り上げて睨み付ける。
「それじゃ、十代目はどうなるんだ!」
 退魔師に本家への避難指示が出ていたという話は、沢田家には一切伝わっていない。最悪、山本がいなければこの職にある人々が襲われている事実さえ伝えられなかった可能性は高い。
 確かに、今現在この家に在る綱吉、雲雀、獄寺は正式な退魔師として認められてはいない。未だ一人前としてのとして承認を、本家から得ていないのは疑いようの無い事実だ。
 だが、だからと言って今回の件に無関係ではいられない。沢田家自体が、代々続く退魔師の家系なのだから。
「俺も……本家の上の連中に聞いたよ。答えが戻って来るのに、三日も待たされたけどな」
 正座を崩し、右膝を横にして左膝は立てた山本が、その胸の前まで来た己の脚に寄りかかりながら呟く。
「本家は、なんて」
 間をおこうとする山本に対し、気が急いている獄寺がせっついて先を促す。両手をつけて四つん這い状態にさえなっている彼の必死な様子に、顔を上げた綱吉は姿勢を戻して肩にあったディーノの手を押し返した。
 話の途中ながら心配そうに綱吉を窺う彼に、平気だとまだ若干顔色が悪いまま首を振る。
「蛤蜊家十代目の名に相応しい技量の持ち主ならば、今回の件、本家の介添え無しでも乗り越えられるだろう――だってさ」
「なっ!」
 ぽつり力なく零された山本のことばに、獄寺が絶句する。
 リボーンは瞬間的に厳しい目つきを作り、綱吉は最早驚くにも値しないと自嘲気味に口元を歪めた。その代わりにディーノが、リボーン同様に険しい表情をして唇を強く噛む。
 山本は特に、直接その場に在って言葉を受け取ったのだ。その落胆振りは他の比ではなく、言うと同時に額を膝頭に押し当てて顔を伏してしまった。丸められた背が彼を小さく見せ、かける言葉を持たない綱吉は悔しげに拳を硬くした。
「んだよ……なんだよそれ! そんな、それじゃまるで本家は十代目を」
「言うな」
 膝立ちになった獄寺が手を広げ腕を振り回し、山本に言ったところで意味は無いと本当は分かっていながら、怒りをぶちまける。
 対する山本は低い声で感情を押し殺し、静かに怒りながらもどうにも出来ない現実に苦悩する。
「言うな、獄寺。ツナが聞いてる」
「けど!」
 綱吉を後継者に選んだのは、現在病に伏している九代目ひとりの判断だった。
 彼の長子であり、後継者最有力候補と目される人物は、随分昔に出奔して以降行方知れずのまま。その為に九代目を支える長老部の人間は我の子を、むしろ自分自身を、と名乗りを上げては悉く首を横に振られ続けていたらしい。
 それは九代目が病に伏せるようになってからも続いて、最近やっと彼が重い口を開いて告げた名前は、誰も予想していなかった、片田舎に隠棲するまだ幼い少年だった。
 本家の老人達が反発するのは、致し方ない事ともいえよう。
 実際本家に出向いた際の綱吉に対する扱いは酷いの一言に尽きるし、黒い思惑渦巻くあの場所に、綱吉だって好んで出入りしたいとは到底思わない。その後の対応だって、そうだ。
 今は和解してこうやって席を並べているけれど、獄寺は元々本家から送られた、本人でさえそうと知らされていなかった刺客だった。彼への処遇も本家は結局有耶無耶にしてしまって、帰る場所も持たない彼は今もこうして沢田家に居候し続けている。
 本家へは雲雀が、綱吉の代筆という形で書状にて説明を求めているが、その回答も未だ得られていない。それどころか以後一切の連絡は途絶え、彼らが綱吉をどうしたいのかずっと分からず仕舞いだった。
 だからある程度、綱吉も予測していた。自分が本家に望まれていない存在だと察するのに、材料は十分あったから。
 ただそれでも、生きていたいのだ。
「いい、山本。気持ちは嬉しいけど」
 覚悟は出来ているから、と微かな声で綱吉はリボーンを抱いたまま体を前に倒し、続けてくれと懇願する。
 躊躇する瞳に見返されるが、彼も覚悟を決めたのだろう。鉛よりも重いため息をひとつ吐き出して、乱暴に短い髪の毛を掻き上げた。
「本家はツナを、……見捨てた。奴らの考えていることは直接聞けなかったが、大体分かる。もし此処でツナが斃れるようならば、最初から十代目の資格など無かったのだと話をすり替えちまうつもりなんだ。そして、もしツナが無事にその正体不明の殺し屋を葬れたなら、それはそれで、本家は自分の手を煩わされる事もなくて、万々歳ってわけだ」
 本家に退魔師を集めているのも、今や何の力も無くただ権力に見苦しくしがみついている老獪を守らせる為。迎え撃つ準備を進めているように思わせておいて、蛤蜊家の中心を担う連中は高みの見物を決め込んでいる。
 彼らは其処で、殺し屋が綱吉を殺してくれるのを待っているのだ。
「ん。でも、その連中が此処を通るかどうかなんて、解らないだろう?」
 素朴な疑問を感じ取ったディーノが、この場の空気にそぐわない少し高い声で言った。前に出ようとして傾けた身体が背に当たり、綱吉もまた身を屈める。
 彼の疑問は尤もだった。
 そもそも、犯人の目星は全くついていないというのが本家の回答だ。目撃者がいないのも、恐らく嘘ではないだろう。しかし山本の弁だけを聞いていると、まるで本家が綱吉を殺したいが為だけに今回の事件を仕組んだようもに思えてくる。
 犯人が解らないのに、犯人が並盛を狙うという確信めいたものは何処からやってくるのか。
 問われ、山本は立てていた膝を横に倒し下に敷いていた座布団を引っこ抜いた。そしてリボーンが飲み干した後獄寺の頭に落とした湯飲みを拾い、彼らの中心に並べていく。
 何をしたいのか直ぐに意図を察しきれないまま、獄寺は山本に言われるままに元は綱吉が座っていた座布団を手渡した。山本は綿の薄いそれを小さく畳み、広がらないように上から押し潰す。
「これが、本家」
 そして完成した珍妙な図形を前に、山本がやおら座布団のひとつを指差して言い放った。
「それで、これが並盛」
 本家とされた座布団の、山本から向かって左下に指が移る。其処にも畳まれた座布団が置かれていた。
 座ったままでは届かないのだろう、彼は湯飲みを持つと起き上がり、ふたつの座布団を越えて南の廊下側へ場所を移動した。そこで再び膝を折り、頭の中で図形を描きながらとある一点に湯飲みを置く。
 並盛と称された座布団からは遠く、本家から考えればもっと遠い。
「ここが、正確じゃないけど、大体この辺が最初の被害者が出た場所だ」
 方角にすれば南、綱吉は見た事が無い海に近い場所だと山本が付け足す。
 一瞬ディーノの表情が翳るが、気づきもせず山本は膝で歩いて湯のみを次の地点に持って行った。最初から幾分北西にずれている。
「ここが二人目、三人目が出た地点。次の被害者の屋敷はちょっと解らないけれど、ここからそう離れていない」
 淡々と説明を展開する山本に、綱吉も獄寺も、リボーンさえも余計な言葉を挟まずに固唾を飲んで聞き入る。呼吸を整えたディーノは滲み出た汗をそうと知られぬように拭い、既に先へ、先へ進んでいる山本が最初に示した地点を見据えた。
 ――まさか……?
 胸の内に過ぎる疑念に唇を舐める。
 ――だが、違う。死因が圧死や毒殺だというのなら、あれとは異なるはずだ。
 考えを巡らせるディーノを他所に、山本は次第に湯飲みの位置を北上させていった。そして最後に留めたのは、並盛を表す座布団より若干南東よりの地点。
 山をふたつばかり越えた先だ。
「もうそんなに近くに……」
 唖然とする獄寺の呟きが皆の思いを代表していた。湯飲みの位置、並盛の里、そして本家がぴたりと直線で結ばれる。
 本家の老い耄れが言っていたことは、この事だったのだ。犯人たちの進路は真っ直ぐではないものの、着実に蛤蜊家本家へと向かっている。そして道中にはここ並盛が、巨大な壁となって立ちはだかっているのだ。
 ただ並盛は三方を山に囲まれた袋小路状の盆地だから、無論立ち寄らない可能性は否定しきれない。けれど沢田の名前は近隣に知れ渡っている事もあって、向こうが見逃してくれる確率は低いと想定される。
 宗家の思惑が見え隠れする現実に、綱吉は暗い気持ちで力なく首を振った。
「ツナ……」
 視界を揺れ動く甘茶色の髪に、ディーノの声が被さる。肩から胸元に下ろされた彼の腕を握り、綱吉は俯いたまま今一度強く下唇を噛み締めた。
 もっと力があったならば、――今も自由に力を使えたならば、好き勝手言われることも無かったのに。
 広げた掌を見詰める。無数の皺が刻まれた、けれど傷らしい傷も見当たらない綺麗な手だ。
 目を凝らせばそこに、決して他人の目に触れることのない金色の鎖が細く伸びているのが分かる。鎖の端は畳の上を這い、壁をすり抜け、北へと一直線に伸びていた。
 繋がっている、その証。
 ――ヒバリさん……
 少し前に、これが千切れる寸前にまで至るという事件があった。
 粉々に砕けて自分の中へ戻ろうとして、結界に阻まれて霧散したものたち。雨の夜闇に散った蛍火の図が生々しく蘇って、綱吉は切れた唇から滲み出た血の味に嗚咽を誤魔化した。
 失いたくない。だから今も縛り付けている。
 雲雀からの返事は無い。重苦しい空気が漂う中、なんら解決策も対応策も見出せぬまま彼らは一様に瞳を伏し、座敷を後にしたのだった。