銀無垢

 乾いた風が冷たく頬を刺し、転がされた麦藁の輪が音もなく視界を左から右へと走り抜けていった。
 朽ち果てた十字架を目の前にし、瞼を伏して飛び散る砂粒から瞳を守った彼は、首筋を嬲る己の髪の毛をそっと後ろへ梳き流し小さく首を振る。その細い頸に鈍く煌く銀色のチェーンが、訪れる人など皆無に等しかっただろう寂れた光景と相俟って随分と頼りなく見えた。
「う゛ぉい」
 腕組みをし、今にも崩れ落ちそうな煉瓦積みの壁に凭れ掛かっていた存在が、そんな彼の背中に無作法に声をかける。しかし返事どころか反応さえ無くて、男は面倒くさいとばかりに舌打ちすると、胸の前に置いていた腕を解いて矢張り砂粒にまみれてしまった長い髪を乱暴に掻き回した。
 願掛けは無意味となり最早この長さを保ち続ける意味は失われたのだけれど、ひとたび切ろうとすれば半狂乱的に反対の声を上げる人物が居るお陰で未だに果たせず仕舞いだ。手入れも面倒だし鬱陶しいことこの上ないのだけれど、既に腰の位置よりも毛先が下に行っている期間は数えてみれば嫌になるくらいに長く、あと十年、二十年このままでもどうという事は無いとさえ思えてくるから不思議だ。
 単純に暇潰しに三つ編みをして遊びたいだけなのだろうが、と絶対に自分の断り無しに切ってはならないと尊大に言い放った相手を見やり、男――スクアーロは指に絡んだ細い銀色にもうひとつ舌打ちを繰り出した。
 まったく、どうして自分が。
 ナポリの連中が最近どうにもきな臭い動きをしているという垂れ込みを受け、表立った行動に出られぬ連中の代わりに事を片付けて戻って来たばかりのところを、いきなり予約もなしに捕まえられた。こちらとしては久しぶりの本拠地であり、ゆっくりシャワーを浴びてベッドに寝転がりたかったというのに、問答無用で車のキーを押し付けられて。
 結果が、この様だ。
「う゛ぉぉい」
 さっきよりも幾分声を低くして腹の底から搾り出した声に、だが相手は変わらずに十メートル少々離れた先に佇んだままだ。今は髪を抑えていた手も下ろし、握り締める拳は空を掴んでいる。
 スクアーロは無反応な彼に呆れた様子で肩を竦め、結局のところ彼の申し出を断りきれなかった自分の甘さを笑った。
 指輪の守護者はそろいも揃って彼に何かと世話を焼いて甘やかすし、最強最悪の名を広く知らしめているヴァリアーの内部においても、あの幼い言動と、それに相反する強靭な精神力と包容力にぞっこん惚れ込んでいる連中は存外に多い。何かとトラブルを引き起こしたがる問題児のベルフェゴールでさえ、年下のあの少年の前では意外なことに歳相応の態度を取るのだ。いつだったか、刃物は危ないから必要なとき以外で不用意に扱うなと彼に怒られてからは、人前で滅多やたらと凶器を振り回すことも減っている。尤もこの時はふたりの間で何か裏取引があったようだが、その件に関しては両者ともノーコメントを貫いているので詳しくは知らない。
 再び腕組みをして壁に寄りかかったスクアーロは、彼の肩に抱きつきながら意味深に笑うベルの姿を思い出してついムッと眉間に皺を寄せた。
 基本的にベルが構って欲しがって一方的にちょっかいを出すのだが、彼からすれば幼い子供にじゃれ付かれているのと同じ気持ちらしい。ただ体力的に劣るので、じゃれ合いがそうでないものに発展しかかっているところにも、何度か遭遇した事がある。
「……」 
 首根っこを捕まえて引っぺがしたベルの、悪びれもしない態度を思い出して余計に腹立たしさが募る。しかも襲われていた方はちっともそうだと気づいていなくて、頼むからもう少し危機感を持ってくれと何度思ったことか。
 黒のスーツに、白いネクタイ。胸ポケットに挿した白い花は、此処に眠るすべての人への鎮魂の祈りか。
 スクアーロは欠伸を噛み殺し、殺風景な景色に視線を投げて臍を噛んだ。
 寂れた村だ、捨てられた住居は荒れるに任せて住む人間は高齢者ばかり。年寄りはやがて土に返り、近いうちにこの山間に張り付くようにして広がっている集落には誰も居なくなる。
 そうなるきっかけとなった、若者がこの地を見捨てて都会へ逃げ出す引き金を作ったのは、他ならぬボンゴレ。
 無論目の前に居る若長が直接手を下したわけではない、人々の記憶の風化も激しい昔のことだ。九代目が着任して直ぐのことであり、八代目が遣り残した仕事のうちのひとつだったと、スクアーロも話にだけ聞かされている。
 当時は引継だなんだと、自分たちの時に負けず劣らずゴタゴタが酷かったらしい。そんな最中の出来事なだけに、当時の幹部ですら覚えていない人間は多いのではなかろうか。些細な事件だった、後に尾を引くようなものだって何も無かった。
 それを、いったいどこから嗅ぎ付けてきたのか。事件当時は生まれてすら居なかったこのボンゴレの名を継ぐ若き男は、同時に引き継いだ記憶のすべてに謝罪をして回る心積もりらしい。
 マフィアの起源はイタリア統一、ガリバルディの時代にまで遡る。彼の将軍が成し得た統一と独立は、しかしこの島国に豊かな環境を齎しはしなかった。富は北へ集中し、南は長い間蔑まれ続けた。己を守るには己自身の力を揮うしか他無く、力無き者を守るにも矢張り力が必要だった。
 決して高圧的な支配に屈せず、力には力でもって抵抗する。声高に叫ばれた権利を求める主張が封じられた時、行き場を失った力は地下へ潜るしかなかった。
 協賛者が無ければ、強い力はただの暴力に過ぎない。行き過ぎた過去の清算を試みるつもりなのかどうかは知らないが、それに振り回される側のことも少しは考えろ、とスクアーロは無理矢理に怒りの矛先を其処へ落とした。
 寂れた寒村に吹く山おろしは、季節に関わらず冷たいままだ。村人の信仰心の拠り所である教会ですら手付かずのまま放置され、白い柵で囲われた墓地も雑草が生えるに任せる状況。崩れかけた壁の補修もままならないようでは、置き去りにされたマリア像もさぞかし哀しかろう。
「ったく」
 今回のボスは類稀なる好事者だ。過去への懺悔など、何の意味があるのか。
 膝を折り、荒れ放題の土に屈みこんだ彼は深々と頭を垂れ、名も知らぬ、当然顔も知らぬ今はいない誰かに向けて両手を結び、祈りを捧げている。
 それはスクアーロにとって馴染み深い胸の前で十字を切る仕草ではなく、彼が生まれ育った国の方式なのだとか。死者を悼むのに国境は関係ないというのがどうやら彼の信念らしく、最初見た時は怪訝に思ったその仕草も、今となってはなんの違和感も抱かなくなってしまった。
 掌を顔の前で合わせ、瞼を閉ざして静寂を保つ。時折吹き荒れる風が揺らす草葉の音しか耳には響かず、暇を持て余すスクアーロはこんなことならば車で待っていればよかったかと後悔を胸に抱いた。
 だが、曲がりなりにも彼は次期ボンゴレであり、たとえこんな辺鄙な場所であろうとひとりきりにするわけにはいかない。彼を失うという事は、ボンゴレの将来を闇に閉ざすことにも直結する。
 万が一にもそんな事になった時、責任はすべてこの場に彼を連れてきたスクアーロに押し付けられるだろう。それは本意ではないし、スクアーロだっておめおめ彼を失うつもりはない。
 三度欠伸を噛み殺しながらも、何処から狙っているかも解らない襲撃者に備えてスクアーロは周囲への警戒を怠らない。鋭い眼光を素早く周囲に投げ放った彼の前方で、漸く気が済んだのか黒と白のコントラストが眩い華奢な体躯がゆっくりと立ち上がった。
「終わったか」
「うん」
 振り向いた顔に問えば、幾分すっきりした様子の彼が頷く。そのままスクアーロの側へ歩み来る彼がいた場所には、麓の町で購入した白を中心にした花束がひとつ置かれていた。
 そんなもので死者の心が慰められるわけがない、この地に眠る人々がどれほどの恐怖に震えながら死んでいったのかを彼は知らない。
 けれど手向けずにいられないのだろう、たとえ己が直接手を下したわけではなくとも、過去のボンゴレが犯した罪は彼の足許に山をなし、これからも蓄積されていく。やがて彼の身体は罪という名の罰に埋もれ、その先は、考えるまい。
 ひとり首を振ったスクアーロに不思議そうな視線を向け、彼は男としてはやや大きすぎる瞳を細めて幾分長く伸びた髪を耳の後ろへと引っ掛けた。
「気は済んだか」
 腕組みを解き、預けていた壁からも背中を浮かせる。質問に彼は一瞬だけ瞳を伏し、それから背後の墓標を振り返った。
「どうかな……」
 自信なさげに呟かれ、スクアーロとしても拍子抜けした表情を浮かべざるを得ない。だが彼にしてみれば、幾ら悔いても、謝罪しても、足りるものではないと考えているのだろう。
 ならばいっそ、意味の無い行為だと諦めてしまえばいいのに。彼は寝る間さえ惜しんで、ボンゴレの爪痕が深い傷となって残っている地を巡り続けている。
 そういう罪滅ぼし的行動を率先してやっている男がいるという話は聞いているし、その男と彼とに僅かながら交流がある話も聞き及んでいる。恐らくその男に影響されたのだろうが、全くもって迷惑極まりない。
「いいのか」
 時間はあまり無いが、もう一度手を合わせるくらいの猶予は残されている。顎をしゃくり、自身は興味も沸かない墓地を示してやったが、彼は自嘲気味に笑って首を横へ振った。
「俺が出来ることは、もう、ないから」
 寂しげに呟く声は聞かなかった振りをして、スクアーロは纏った黒一色のコートの汚れを払い落とすと左袖を捲くり、現在時刻を素早く確認した。
 仰ぎ見た太陽は雲間に隠れ、程なく山の傾斜に隠れて見えなくなる。日暮れは想定していたよりもずっと早そうだ。
 帰りの山道の悪さを思うと、どこかで一泊していった方が安全なのは間違いない。だが彼には明日も予定があったはずだと視線を落とせば、気づいた彼は意味も無く微笑みを浮かべてごめんね、と唐突に囁いた。
「どうした」
「や、なんかずっと不機嫌だし」
 謝罪の意味を問えばそんな返事。細かな傷だらけの指でスクアーロが凭れていた焼け跡の残る煉瓦を指でなぞった彼は、気まぐれに吹いた風に煽られて膨らんだ銀の髪に目を細めた。
 不機嫌そうな顔は生まれつきだ。悪かったな、と愚痴で返してやると彼はやっと声を出して笑う。それでも音量は控えめだから、一応はこの墓地に眠る数多の命に対して遠慮を働かせているのだろう。
 こんな辛気臭い場所は早々に立ち去るに限る。いつまでも立ち止まったままでいる彼の右肩を無作法に押し、スクアーロは自分が先に立って外へ続く小道を歩き出した。
 雑草が生えて、隙間からやっと石畳が覗く道だ。緑の中に黄色や白の小さな花が咲き乱れ、其処だけを見る限りは穏やかでのんびりとした空気が流れる田舎の一風景に変わりは無い。けれど倒壊寸前まで追い詰められている棄てられた教会を振り返ると視界は一変し、嘗てこの場所で何があったのかを無言のうちに語る銃痕が生々しくスクアーロの前に姿を現す。
 同じものを見詰め、彼もまた息を呑んで沈痛な面持ちで瞳を揺らした。
「テメーの所為じゃねーだろ」
「分かってるけど」
 まるで自分がその場に居合わせた人間だと言わんばかりの表情を不満に思いながら、スクアーロは彼の後頭部をまたしても遠慮などせずに思い切り殴りつけた。小気味のいい音がして首を前に倒した彼が、叩かれた場所を手でさすりながら涙目で振り返る。
「俺の頭は太鼓じゃない!」
「奇遇だな。俺も太鼓持ちになったつもりはない」
 本人は思い切り睨みつけて怒鳴ったつもりだろうが、スクアーロは素早く低い声で切り替えして彼の反論を封じ込めた。
 他の連中のように、スクアーロは彼を甘やかしたりしない。厳しい現実から目をそらしたところで意味など無く、過去に囚われたままでも先に進めない。
 己の歩んだ道程を振り返った時に得たスクアーロなりの結論は、結局のところそれまでの彼の道の誤りだった。
「……むぅ」
「優しい言葉が欲しけりゃ他の奴に頼みな」
 蜂蜜たっぷりのミルクよりも甘い台詞は、望めば彼の守護者ならば幾らでも並べてくれるだろう。聞いているだけで鳥肌が立って全身がむず痒くなる台詞は、嵐の守護者の専売特許だ。
 しかしスクアーロの言葉に彼は首を窄め、冗談ではないと言わんばかりの態度で右足を何も無い宙に蹴り上げた。
 そもそも、今日の運転手に彼は何故スクアーロを指名したのか。確かにスクアーロは、彼を中心とするボンゴレに深く根を下ろす影の実行部隊に属してはいるが、彼個人の護衛役でもないし、守護者でもない。それに、本来ならば表立って姿を現すべきではない存在同士が一緒に居ること自体、問題があるといわれても不思議ではないのに。
 城に帰った後はさぞ周囲が五月蠅かろう。想像してげんなりしながら、スクアーロは叩かれた場所をしきりに気にしている彼に肩を竦めた。
「雨の小僧はどうした」
「山本? えーっと、寝てた」
「嵐のは」
「同じく」
「雲は」
「行方不明」
「霧は」
「知らない」
「晴れ」
「あの人免許持ってない」
「かみな……あれは無理か」
「うん」
 次々に守護者を思い浮かべて列挙していくが、悉く跳ね返されて最後は未だおねしょ癖が治らないと泣いている子供の姿で終わった。思わず頭を抱えたスクアーロに、彼は下手な口笛を吹いて廃墟となった教会の前に停めていた車に寄りかかる。
 最後のふたりが除外された理由は、解る。真ん中のふたりはそもそも城自体にあまり居ないから、こちらも仕方が無かろう。問題は最初のふたりだ。
 ボスの外出に寝ているから対応できないなど、言い訳にしては陳腐すぎて笑う気にもなれない。
「しょうがないよ、ニューヨークから戻ったばっかりで殆ど寝てなかったんだもん」
 体を反転させボンネットに腰を落として座り込んだ彼の言葉に、反射的に頷きかけたスクアーロはしかし、今の今まで完全に失念していたとある情報を脳裏に鮮やかに蘇らせて目を見開いた。
 ニューヨーク、自由の女神を望むホテルの最上階で行われた会合。既に九代目の代理としてマフィア社会に存在感を誇示しつつある若き男もまた、忙しく世界の各地を飛びまわる日々を送っている。島に戻り城で過ごす日は限られ、更に彼本人が自由に使える時間はもっと限定されている。
 どこへ行くにも誰かが付き従い、命を狙われる危険と常時隣り合わせで、心休まる暇さえなく。
 遠い島国から共に渡ってきた仲間と一緒に居る時でさえ緊張を完全に解けずに居る彼を、もどかしく思うことは今までに幾度となくあった。心の底から笑っているところを、思えば一度として見た事が無いようにも思う。
 昔話に花が咲く酒の席で山本はしばしば、昔のアイツは今よりももっと笑って怒って、表情の変化が目まぐるしくて面白かった、と口にする。その時代の彼をスクアーロは勿論知らないわけであり、恐怖に怯える顔ばかりがそういえば記憶に焼きついているな、と自分たちの出会いから今までを軽く振り返った彼は喉の奥で呻いた。
 雨と嵐の守護者は会合に出席するべく北米へ渡り、昨晩戻ったばかりだと聞いている。彼らの戻りはスクアーロよりも早く、既に休んだ後だったから報告を受けただけで本人たちとは直接顔を合わせていない。
 会合の主賓は、大空だったはずだ。それを証拠に、あのタイミングまでスクアーロは二週間近く彼の姿を見ていなかったし、直接声を聞いたのは一ヶ月ぶりくらいだった。廊下の角を曲がったところでいきなり向かいから飛び出して来た男の、体格の割りにやたらと大きな瞳が自分を射抜いた瞬間、大輪の花が咲いたかのように綻んだのは記憶に新しい。
 寝不足なのは、彼も同じだ。最も休むべき存在は、嵐の守護者でも雨の守護者でもなく、ヴァリアーの切り込み隊長であるスクアーロでもなく。今この場で、己とは直接係わり合いの無い死者を悼んでいるボンゴレ十代目――沢田綱吉に他ならない。
「馬鹿が」
「なに、急に」
「テメーがだ」
 吐き捨てるように言ったスクアーロに、綱吉はムッと頬を膨らませて向かいにいる彼の足を蹴りつける。だがバックステップで軽くかわされて、踵を悔しげに地面に打ち付けた綱吉は拳さえも空中に突上げて不公平だ、といきなり喚きだした。
 いったい何が不公平なのかと問えば、兎も角不公平だの一点張り。どこのガキかと呆れかけたところで、前に出かかった彼は自分の履いているスラックスの裾を踏みつけて転んだ。
「うあっ」
 間抜けな悲鳴をあげて両手をばたばたと振り回す。裾を踏んでいる踵を上げればいいものを、反対の足を持ち上げて懸命にバランスを取ろうとしている様は非常に滑稽だ。
 最終的には自分ではどうにも出来ず、彼は平衡感覚を失ったまま右斜め横に崩れていく。地面への激突寸前で膝を折ったスクアーロが胸で彼を受け止めて、けれど踏み堪えるのに足場が悪すぎた。
 衝撃にふたり、団子状態で轍の跡が残る地面へと倒れ込む。
「いっ」
 背中が細いくぼ地に嵌り、肩を打ったスクアーロが短く喉を上擦らせた。ふたり分の体重を受け止めた地面は雨に濡れて乾いたそのままで、凹凸も激しく寝心地は宜しく無い。
 広い空が、痛みを耐えたスクアーロの瞳に大きく描き出される。白く澄み切った雲がまるで無数に干されたシーツのようで、万年雪を抱いた峰を抱える山並みの真っ只中には、何よりも深い蒼が風のない湖面の如く浮かんでいた。
 久方ぶりに見上げた大空に、声を失い彼は瞠目する。
「スクアーロ?」
 呆然と真上を見詰めるままだった彼に影を落とし、綱吉が肘で己の上半身のみを支えながら位置を上にずらしてきた。正面の至近距離から覗き込まれ、一瞬何が起こったのか分からなかったスクアーロは一秒半後に気づき、思い切り表情を引き攣らせて綱吉を後ろへ弾き飛ばした。
 軽い身体は簡単に宙に舞い、尻餅をついた彼の涙目にスクアーロは二度自分の心臓を握りつぶした。
「ばっ、何しやがる!」
「いったた……それはこっちの台詞だよ」
 強かに打った尻を庇って膝立ちになった彼に言われ、それもそうだと納得するが動揺を悟られるのが嫌で、スクアーロはわざと大きく響くように舌打ちし、綱吉に背を向けた。
 盛大に土埃を浴びた綱吉はそんな彼に思い切りイーっ、と口を横に引いて舌を出し、立ち上がると両手を使って全身の汚れを叩き落していった。
 だが哀しいかな、背中にまで届かない。
「くっ、ふぬ……!」
 鼻息荒く、顔を赤くして妙なところで力んでいる綱吉に今度こそ呆れ返り、スクアーロは自分も起き上がると上着なのだから脱げばいいだろう、と立ち上がっていた襟を直してやりながら告げる。
 そうは言いつつも彼の手は自然と綱吉の背中に伸びていて、刺激しないように布地だけを撫でて砂粒を落としてやるところからして、ひょっとして自分も他の連中と何も違わないのではないか、と思えてきた。
 そんな事は無いと首を横に振っていると、怪訝な表情で綱吉に見上げられる。
「……なんだ」
「ついてる」
 不機嫌に問えば彼の指がスクアーロの細い髪の間に潜り込み、絡まっていた枯葉を摘んで去っていった。
 どうりでさっきから、髪が擽る耳の後ろがちくちくと痛む筈だ。綱吉の指先から落とされた色も失せて硬くなった葉の成れの果てを見送り、スクアーロは絡むものが何も無い綱吉の髪を逆に梳き上げた。
 触れた額に、白粉を薄く塗った形跡が見える。よくよく注意して見詰めれば、彼の顔色が人工的に作られたものだという事くらい容易に気づけたというのに。
「寝てないのか」
 掌全体で額を、そのまま左の頬を撫でられ、問う声の低さに綱吉は小さく肩を震わせて視線を泳がせた。
「ちょっとは寝たよ」
「嘘だな」
「本当だよ」
 手を添えたまま首を振られ、引き剥がされそうになるのを堪えてスクアーロは綱吉の鼻梁に親指を添えた。そのまま下へずらせば唇に当たり、黙れと上から押さえつけると視線だけが持ち上がる。
 スクアーロは何も言わなかったし、綱吉も口を塞がれているので何もいえなかった。
 ただ交差した視線がお互いの胸の内を雄弁に語っていて、背を丸めたスクアーロが触れた一瞬は太陽さえ雲間に隠れて光を薄めた。
 押し当てたままだった己の親指の爪に口付けた彼が、姿勢をゆっくりと戻す。同時に彼の手も下へ落ちて行って、解放された綱吉は不満げに高い位置にあるスクアーロをねめつけた。
「ケチ」
「そんなに欲しけりゃ、ルッスーリアにでも頼め」
「それは、ちょっと……」
 廊下ですれ違うだけでも投げキッスを飛ばしてくる筋肉質の大男を思い出し、スクアーロ本人も言うんじゃなかったと、綱吉と一緒になってげっそりした表情で下を向いた。
 直後綱吉が先に堪えきれず噴き出し、引きずられる格好でスクアーロも声を立てて笑った。
 腹を抱え背中を丸め、膝を折って腹筋が引き攣って苦しいと涙ぐむ綱吉と、額に手を当てて僅かに背を反らせながら上を向いて笑うスクアーロの声が谷間に響き、大空へ吸い込まれていく。
「どこかに泊まっていくか」
「ううん、戻るよ。無理させて悪いけど」
 車の運転席、ハンドルに両手を添えたスクアーロの問いかけに、運転席の真後ろに座った綱吉はシートベルトを調整しながら首を振った。
 お前の方がよっぽど無理をしているくせに、と言いはせずにスクアーロは間を置いて首肯し、突き刺したキーを捻ってエンジンを起動させた。足元から登ってくる振動を意味も無く数え、空調の向きを確認してから彼はバックミラーに映る姿を探す。
 上着を脱いだ彼はそれを逆さまにし、肩から胸元に向けて羽織って布団代わりにしていた。
「少し寝ろ」
「そうする。ごめんね、スクアーロだって疲れてるのに、俺ばっかり」
「……」
「今日を逃すと体が空くのが次、いつになるか解んなかったから。居てくれてよかった」
 あの角でぶつかったのが貴方で良かったと、心の底から安堵した様子で呟き、鏡の中の彼は瞼を閉ざした。
 スクアーロは踏みかけたアクセルから足を下ろし、ギアをニュートラルに戻してシートベルトのボタンを押した。ひゅっ、という乾いた音を耳に残し自動的にそれはベルトポケットへ吸い込まれていく。銀色の金具を退かせて腰を浮かせた彼は、右の膝を座席に押し上げて緩い傾斜のついた背凭れに手を置いた。
「……ん?」
 眠ろうとしていた矢先に物音を立てられ、綱吉はもぞりと身体を揺らし右の瞼だけを持ち上げた。
「スクアーロ?」
「Buona notte」
 そう広くも無いが決して狭くも無い車内で身体を伸ばし、後ろのシートにもう片手を添えたスクアーロが、無理矢理な姿勢のまま綱吉の耳元でそっと囁く。吹きかけられる息に身を竦ませた彼は同時に持ち上げていた瞼を閉ざし、だからその瞬間の彼がどんな顔をしていたのか見ることは叶わなかった。
 冷たくて硬いものとばかり思っていたのに、思いの外柔らかな唇の濡れた感触に背筋が粟立ち、綱吉は座ったまま全身の産毛を逆立ててシートに横倒しにしていた拳を握り締めた。彼が身を引くのに合わせて揺れ動く銀の髪のカーテンだけが辛うじて見て取れて、綱吉は下向いたまま運転席へ戻ろうとする彼のその長い髪を、思わず掴み取っていた。
 当然予想していなかった彼は頭皮を容赦なく引っ張られ、激しい非難の声に綱吉は肩を竦めて赤い顔を膝に隠す。
「なにしやがっ……」
 不意打ちに怒声をあげかけて、スクアーロは耳朶の先まで真っ赤になっている綱吉に気づいてばつが悪そうに横を向いた。舌打ちついでにぶつくさと、聞こえない文句を口にしては自分でも何故あんな真似をしたのか解らないと髪を掻き毟っている。
「スクアーロ」
 運転席に戻るに戻れず、視線をただ車内に当て所なく走らせる彼を綱吉が呼んだ。
 右手で口元から顔の下半分を覆い隠し、解いた左手の指で中空を彷徨っている彼の真っ直ぐな毛先を、今度は強くなりすぎないように引っ張って自分の側に引き寄せる。
 どうしよう、そう消え入りそうな声で呟かれるのが聞こえ、スクアーロはされるままになりながら表情の大部分が見えない綱吉に目を細めた。
「分かってるよ、寝ないとまずいってことくらい。でも」
 明日も早くから予定がある、今日は晩餐会までに出来れば帰りたい。ゆっくりバスタブに肩まで浸かって、ふかふかの柔らかな布団に包まれて、夢も見ないくらいに深い眠りに就くのが今の綱吉に課せられた最重要項目と分かっていても。
 指にスクアーロの髪を絡ませ、手繰り寄せて綱吉は顔をあげた。
 僅かに熱を帯びた瞳が薄暗い車内にあって、妙に琥珀の色合いを強めて輝いていた。
「おい……?」
「どうしよう、眠れなくなった」
 ぐっ、と毛先握る拳に力を込められる。
 スクアーロは一瞬呆気に取られて目を丸くし、それから数秒間をおいて。
「知るか」
 低く笑って、長い髪に綱吉を隠した。

2007/9/30 脱稿