魂迎 第二夜(後編)

 庭を南北に横断する小川の水量も、最近はめっきり減ってしまった。
 一時期は表面まで全部水没していた飛び石に右足を伸ばし、乾ききった表面に残る熱を草履の裏で受け止める。今や肉厚の石の半分も水量が無い、ただ完全に枯れることだけは無いだろうと綱吉は左手に聳える緑濃い山の斜面を仰ぎ見た。
 その手前には瓦屋根の奥座敷、軒を繋いで隣に茅葺の母屋。前に向き直れば広い砂地の庭と、人工的に整えられた緑が調和する小規模の庭園。
 松の木に囲われたひょうたん型の池には赤い太鼓橋が架かり、水辺では番らしき翡翠が嘴を突きあって戯れていた。雀の子が綱吉の足元近くで水浴びに興じているのも見て取れる、どこまでも穏やかで安らかな一日の風景だった。
 飛び石の上で両足をそろえた綱吉は、景色に見入りながらゆっくりと胸を反り返して背筋を伸ばした。深呼吸を二度繰り返し、目を閉じて瞼の裏に伝わる光の和らぎに口元を綻ばせる。すっかり上機嫌の彼はその姿勢のまま石の上から飛び上がり、玉砂利が敷き詰められた対岸へ着地を果たした。
 先に居た雀が、驚いた様子で翼を広げて走って逃げていく。
 よほど慌てていたのか、翼を使って飛び立つのも忘れている小鳥に目を細めた綱吉がクスクスと声を漏らして笑う。
 心底楽しそうにしている彼を後ろから眺め、雲雀は自分の右側を頻りに気にしながら肩を落とした。綱吉の笑顔は見ていて心が和むが、今現在彼が置かれている状況のお陰で微笑みを浮かべることさえ出来ないでいる自分がとても嫌だった。本当は綱吉の前に出て、川を渡る時にも手を差し伸べてやるのが自分の仕事なのに、それさえさせてもらえない。
 表面上は笑っているが、まだ怒っているのだろう。それを証拠に、伝心でどれだけ呼びかけても綱吉は受け付けてくれず、返事も無いままだ。それもこれも全部この男の所為で、と恨みがましく雲雀が睨んだ先には、彼よりもずっと背の高い金髪の男が、綱吉に負けず劣らずのほんわかしたしまりの無い顔で立っている。
 視線の向かう先は専ら前を行く綱吉で、さっきから「可愛い」だの「良い子」だのと譫言のように繰り返している。
 そんな評価は今更言われるまでもないもので、雲雀は聞く気にもならない。同意を求めて垂れ下がった目で振り返られても返事をせず、雲雀は苛立ちを奥歯で噛み砕いた。
 いや、そもそもディーノがそういう風な目で綱吉を見ること自体に、嫌悪感が募る。あの子は僕のものだと声高に宣言してやりたくてならず、しかし言えば余計に綱吉の機嫌を損ねるのは目に見えていて、雲雀はぐっと堪えてから乱雑に黒髪を掻き毟った。
 結局ディーノは、雲雀に話があるという一点張りで沢田の家までついてきた。雲雀としてはさっさと終わらせたくて、話があるならあの場で聞いて構わなかったのだけれど、折角来たのだから屋根のある場所でゆっくり座りながらの方が良かろうと提案したのは、綱吉だ。
 綱吉の言葉にだけは、逆らえない。確実に綱吉の中には奈々の遺伝子が受け継がれている、この母子は本当にどこまでもそっくりだ。額に手を当てて首を振っていると視線を感じ、指の隙間から覗けば木漏れ日を左肩に受け止めたディーノが見下ろしていた。
「……なに」
「いや。お前も、でっかくなったなって」
「当たり前」
 別れてから十年の歳月が過ぎたのだ、その間一寸も伸びなかったらそちらの方が可笑しい。
 とはいえ記憶に残るディーノは今の姿と寸分変わりなくて、彼が本当に人ではないとも思い知らされる。散々あちこち連れ回され、それこそ犬猫並みの扱いも受けた。人間は手間がかかるな、と眷属に雲雀の世話の大半を押し付けていたくせに、拾って名づけたのが自分だからと父親ぶって大きな顔をするのが気に食わない。
 雲雀の身の回りの世話をしてくれたのは専ら、彼に付き従う髭面の男だった。名前は忘れたが、彼が居なければ今頃雲雀はどこかで腐り落ちていたかもしれない。いくら人の食物を必要とせず、一生餓えない身体になったとしても、それだけで人は生きられないのだから。
 人として基本的なことを教えてくれたのも、全部ディーノの眷属だった。彼らはディーノの奔放な性格を、仕方が無いなと笑いながら許容してしまっている。それも当時の雲雀には意味不明で理解出来なかったのだが、沢田家に引き取られ綱吉と一緒に暮らすようになってからは、ほんの少しだけだが分かるようになった気がした。
 ただ矢張り、自分が受けた無体な仕打ちは許しがたく、故にディーノを父親だとかいうものとして認める気も一切起こらない。
 特に綱吉の実父である家光を指して、本来の父親は彼のような人の事だと教えられてからは、余計に。
 だが彼はあくまでも綱吉の父親であって、雲雀の父親にはなり得なかった。幼い息子と異能の力と肉体を持った子供との関係も、表面上穏やかに見守る姿勢を取っていたものの、内心は複雑だったに違いない。長く並盛を不在にしている沢田家の現当主が、何を捜し求めて各地を放浪しているのか。綱吉や奈々がどう思っているかは知らないが、雲雀はそれとなく理由を気取っていた。
 つくづく自分たちは、二者択一を迫られる人生だ。ひとつを拾うのに、ひとつを諦めなければならない。
 触れようとしたディーノの手を甲で払い落とし、調子よく足を交互に繰り出して距離を広げている綱吉の背中を追う。目を凝らせば辛うじて金色の鎖が自分たちの間に繋がっているのが見えて、安堵すると同時に雲雀は言いようのない不安に駆られた。
 首筋に感じるチリリとした痛みに、感情を誤魔化す。ディーノを置いて自分も川を渡り、足元に意識を向けたところで前方から唐突に綱吉の悲鳴が聞こえた。
「――わっ!」
「ツナ兄、おかえりー!」
 丁度座敷前の庭に差し掛かったところだった綱吉の真横から、歓声をあげて小さな身体が彼に飛びかかったのだ。栗色の髪の毛に水浅葱色の単、飛び出してきたのが綱吉からは死角となっていた座敷の縁側だったことから考えても分かるとおり、素足。
 甲高い声と共に真横から弾丸を打ち込まれ、綱吉はもんどりうってその場に倒れこむ。それでも飛びついてきた存在を下敷きにしないよう、寸前で体を捻って仰向けに転がったのは日頃の修行の成果だろう。
 砂煙が薄く広がり、絶句した雲雀は出しかけで止まっていた足で地面を叩いた。
「おー、痛そう」
 隣ではディーノが呑気にそんな感想を述べていて、我に返った雲雀は大急ぎで綱吉の元へ駆け出して行った。縁台からも、山本と獄寺が揃って驚いた表情のまま身を乗り出している。
「ツナ!」
「十代目、ご無事ですか!」
 口々に叫ぶ彼らだったが、履物がないので縁側から降りるのを躊躇しているのが分かる。その間に雲雀は綱吉のすぐ傍まで駆け寄って、甘茶色の髪の毛を砂埃で汚している綱吉と、その胸に圧し掛かって満足そうに微笑んでいる小柄な少年をひとつの視界に納めた。
 山葵色の袂を地面に広げ、綱吉は後頭部を痛打したからか目を回している。少年はそんな綱吉に甘える仕草で頬擦りすると、近づいて来た雲雀を牽制するかの如く鋭い視線を投げつけてきた。
「また、君か」
 あまつさえあっかんべー、と舌まで出され、雲雀は呆れ半分に肩を竦める。
「フゥ太、重い……」
 まだ頭の上には星が舞い散っている綱吉ではあったが、人の気配が近くなったのを受けて意識も少しずつ戻りだしたらしい。首を持ち上げて頭を浮かせ、ぶつけた箇所と地面の間に左手を挟んだ彼が、呻くように胸元に加重している少年を呼んだ。
 雲雀を睨んでいたフゥ太も、浅い呼吸を繰り返す綱吉の胸の動きにハッとして下に向き直り、両手を脇へ落として少しだけだったが体を起こし支えた。腹を擦り合わせるようにして位置を上へ動かし、綱吉に影が落ちるよう覗き込む。
「ごめん、ツナ兄」
「いやだから、謝るより」
 子犬の瞳で上目遣いに謝られても、彼の重みが減るわけではない。身体をずらされた時に巻き込まれた着物の裾がはだけ、薄紅色の裾避けも丸出しになっている。草履も片方脱げて、膝を曲げようとした瞬間上から雲雀の足が落ちてきて綱吉は驚いた。
「ういっ……!」
 いきなり踝を踏まれて動きを途中で止められ、痛みよりも衝撃に綱吉は打ち震えた。だが考えてみれば綱吉が爪先を向けている縁側には獄寺と山本がいて、ふたりして何故か頬を赤く染めて首はそっぽを向けつつも、視線だけはちらちらと様子を窺って綱吉へ投げつけている。綱吉が膝を曲げ切った時、両側に広がった裾がどうなるのかは言わずもがなであり、雲雀が何を気にして暴挙に出たのかを悟った綱吉もまた顔を赤くし、しがみついてくるフゥ太を押し返した。
「え~~」
「重いんだってば」
 退くように促すがフゥ太は抵抗を見せる。首に腕を回して絶対に放すものかとしがみつくが、体型的にまだ綱吉が勝っている分、彼を抱えたまま上半身を起こすのはさしたる苦でもなかった。雲雀も、手助けをするつもりかただの邪魔者排除の為だけか、猫の子を掴むようにフゥ太の襟首を捕まえて引っ張りあげる。
 首が絞まって苦しいとフゥ太が雲雀の足を蹴り、瞬間雲雀は彼を解放した。どすん、と尻から硬い地面に落ちた彼は涙目になって綱吉に泣きつく。
「あ~あ~、もう」
 この三者のやり取りもまた、何も今に始まったことではない。フゥ太が町の塾に預けられて以降は殆ど無かったが、彼が里で家族と共に暮らしていた間は、毎日のように今のやり取りが繰り返されていた。獄寺は知りえないが山本には慣れた光景で、軒を支える柱に寄りかかった彼は懐かしいな、と楽しげに肩を揺らして笑った。
 ただ当人たちにしてみれば笑い事ではなくて、綱吉はまだ痛む後頭部を気にしたまま、さりげなく人の腰に腕を回しているフゥ太の手を叩く。ちぇ、と不満げに舌打ちする声が聞き取れて、フゥ太は大人しく綱吉から離れた。
 雲雀から差し出された手を掴んで立ち上がり、綱吉はすっかり汚れてしまった背中を届く範囲で払う。その肘を雲雀に押されて向こうを向くよう指示され、なんだと思えば帯が外れかけていたらしい。手早く締め直してもらったのはいいが少し窮屈で、自分で指を入れて調整している間にこの場はすっかり馴染んだ穏やかな空気に満たされた。
 強い日差しは相変わらずだけれど、剣呑な様相は薄れる。幼馴染たちの集いを遠巻きに眺め、ディーノは自然に場に溶け込んでいる雲雀に目を細めた。
「ふーん」
「あれ、お客人ですか」
 腕組みをして何度かに分けて頷いていたディーノに、獄寺が気づいて縁側に両手を置いた姿勢で身を乗り出す。山本も首だけを軒下に出して西を向き、そのまま忘れたかった雲雀だけが東を向いた。フゥ太も見知らぬ人の姿に人見知りしたわけではなかろうが綱吉の後ろへ隠れ、ぎゅっと袂を握って放さない。
 銀の髪は獄寺ですっかり見慣れた節があるが、太陽光よりも眩しく稲穂よりも柔らかな金色の髪色は彼らも初めて目にするのだろう。一様に驚きを隠せない表情をしているし、獄寺に至っては人と異なるものを気取ったらしく瞬時に眉間に皺を寄せて綱吉に向き直った。
 警戒心を露にするのは、彼の生まれ育ちによるものだろう。山本は逆に呑気なくらいで、少し他の人たちとは違うなと感じつつも、特に牙を向くような真似しない。
 だがもし何かが起これば瞬時に反応できるよう、心を構えやるのだけは忘れていない。
 静まり返った空気に、ディーノが緋色の打掛の下で肩を竦める。金色の刺繍で模られた牡丹の花が華麗に揺らめき、特別な力を持たないフゥ太だけが彼の外見を純粋な目で見詰めていた。
「お客さんっていうか、うん、まあ」
 そんなところ、と微妙に言葉を濁してはっきりしない綱吉の返事に、獄寺は袖の中の呪符を素早く確かめる。だが制したのは、それまで動かなかった雲雀だった。
「無駄だよ。君たち程度でなんとかなる相手じゃない」
「え、なに」
「そういえばさっき、リボーンさんが、屋敷から出るなとかなんとか……」
 事情の説明をせぬままそんな事を言われても、はいそうですか、と割り切れる人間はそうそういない。大きく身を乗り出した山本に対して、獄寺は記憶の端に引っかかるものを見つけたのか難しい顔をして顎に指を置いた。
「そういや、言ってたな」
 獄寺と山本、ふたり一緒に奈々に言い付かった仕事をしていた最中だ。獄寺は障子の張替え、山本は葦戸の修理を担当して互いに互いを罵りあいながら忙しく手を動かしていた時、急に強い神気を感じた。
 押し潰されそうな気配にふたりは口論をやめ、懸命に耐える。自分たちでこうなのだから一般人の奈々は台所で倒れているのではないかと危惧していた矢先、唐突に現れたリボーンがふたりに術を施して去っていった。奈々も大丈夫、但し念の為に屋敷の敷地からは出るな、川は越えるな、と伝えて。
 フゥ太が来たのはその後で、彼も石段を登る直前に奇妙な空気の揺らぎを感じたという。果たしてそれが何に起因するものかフゥ太の弁だけでは分からなかったが、後から確かめたところ山全体を覆う結界が決壊寸前まで揺らいでいたらしい。
 それだけ、ディーノの神気が巨大で厖大だったのだ。
「…………」
 顔を見合わせて頷いたふたりに、ディーノは冷や汗を流して一瞬遠い目をする。口元も若干引き攣っていて、強張った彼の表情に綱吉は首を傾げた。
「ディーノさん?」
「え? あ、なに?」
 試しに呼びかけてみれば、意識が外向いていたのだと分かるくらいに動揺した返事が。取り繕う笑顔を不思議そうに見詰め返す綱吉に、ディーノは言葉を捜して視線を泳がせながら自分の頬を引っ掻いた。
 綱吉の袖を引いたフゥ太が、彼の腰に寄りかかったまま首だけを前に出す。
「ツナ兄、この人、だあれ?」
 顔が全く似ていないしから、ディーノと雲雀が擬似的な親子関係にあると直ぐに分かる人はまずいないだろう。それに、ディーノの姿は何処からどう見ても二十台前半。中に着ている着物が渋色でなければ、もっと若く見えたかもしれない。
 まだ雲雀の兄、ならば説明もしやすいのだが。果たして本当のことを包み隠さず教えてよいものか。
 ちらりと雲雀を盗み見れば、彼は相変わらずそっぽを向いたまま自分は関係ないと態度で表明している。地面を踏みしめる踵が時々左右に揺れ、穴を作っているところからして、機嫌が直ったとは言い難い。
 綱吉、雲雀、そしてディーノへと視線を順番に流していった山本と獄寺も聞きたそうな顔をしているから、名前くらいは教えても良いだろうが。
 ――きっと、父親とか言ったら怒るんだろうなぁ……
 自分が説明してよいものなのかどうかも判断がつかず、綱吉は苦笑したまま頬を掻いた。
「えーっと、まあ、その。なんていうか」
 一番雲雀を刺激せず、的確にディーノを説明できることばは無いものか。懸命に普段使わない頭を振り絞って考えてみるが、いきなり妙案が落ちてくるわけもなく、曖昧に笑って場を誤魔化すことしか出来なかった。
 心底困っているのが伝わったのだろう、無言を貫く雲雀が今になって漸く、仕方が無いという素振りで溜息を零し腕組みを解いた。
 適当に誤魔化すから話をあわせるよう伝心で告げられ、綱吉はほっとする。けれどそれで大丈夫なのかという不安はまだ残っていて、ディーノ窺い見ると丁度目が合ってにこりと微笑まれてしまった。
 反射的に顔が赤くなり、熱が走る。その笑顔は実に罪深いと、綱吉は未だ正面から見ると照れてしまう自分が恥かしくなった。
 ディーノはぐるりとこの場に居合わせた全員の顔を順繰りに見て行き、最後に向き直った雲雀に視点をあわせた。緩く組ませた腕に色打ち掛けの緋色を絡みつかせ、いきなり安心した、と呟く。
「ん?」
 聞き取れなかったらしい山本が一層縁側から身を乗り出し、その下にいる獄寺の背中に膝が当たった。
 邪魔だ、と払いのけようとした獄寺が牙を覗かせ、彼を牽制すべく腕を持ち上げる。ただその手は次の瞬間、見事に空振った。
「恭弥にもこんなに、友達が出来てたんだな~」
 妙に感慨深げに笑顔で呟かれたディーノの台詞に、五人全員が凍りついた。
「へ?」
「は?」
「うわぁぁぁ……」
「なに? なに?」
 山本、獄寺は目を丸くし、綱吉は両手で頭を抱えて蹲る。
 綱吉に懐いているとはいえ、そこまで深く係わり合いがあるわけではないフゥ太は、よく分からないと頭に疑問符を浮かべて周囲の項垂れ具合に怪訝な顔をした。
 そして、雲雀は。
 どす黒い怒りの霊気を立ち上らせ、青銀の拐をディーノの喉元につきつけていた。
 いったいいつの間に移動したのか、綱吉の後ろにいたはずの彼が今は前にいる。忽然と姿を消して現れた彼の早業に、ディーノも目を丸くして落ち着け、と雲雀に掌を向けた。
 が。
「誰と誰が友達だって……?」
 雲雀は前言撤回を要求して憚らない。目は完全に据わっており、怒りに頭の血管が既に何本かぶち切れている。
「あっれ~……違うの?」
 後ろへ、後ろへと追い詰められていくディーノが頬を引き攣らせて綱吉に助けを求めるが、綱吉にだってもう止める手立ては無い。折角荒波立てずに解決する方法を模索していたというのに、全部台無しだ。
 額に手を置いて盛大に溜息を吐き、肩を落とす綱吉を見て我に返った山本が、一瞬躊躇した後に素足のまま縁側を降りてふたりの間に割って入る。
「まあ、まあ落ち着けって雲雀」
「五月蝿い。なんなら君から咬み殺そうか」
 剣呑な雲雀の怒りの矛先が、ディーノから山本へ移り変わる。拐の先端を喉元に押し当てられ、山本もディーノと似たり寄ったりの仕草を取って半歩後ろへ後退した。
 すっかり勢いに呑まれてしまっている感のある獄寺が、縁側で柱に寄りかかりながら綱吉に視線を送るが、綱吉だって止める手立てを持たない。項垂れたまま首を振るほかなくて、ひとり状況を飲み込めないフゥ太だけが平然と彼らの一触即発な事態にわくわくと目を輝かせていた。
「もー……なんでこうなるんだよ」
「修行が足らねーからだぞ」
「え?」
 急に間近で声が響き、綱吉は手を下ろして顔をあげた。
「いてっ!」
「ぐっ」
「うあ!」
 三者三様、またしても喧嘩に発展しかかっていた場の空気を破り、ディーノ、雲雀、山本がこめかみ付近を押さえて短い声を発した。
 綱吉の見上げる前で、細長くよく撓り、尚且つ頑丈で硬い撥が宙を舞う。くるりと一回転して着地した赤ん坊は愛用の黄色い頭巾を片手で押さえてずれを予防し、立ち上がっても綱吉の膝にまでしか届かない身の丈で背筋を伸ばして各自頭を押さえている面々を仰ぎ見た。
 どうしてだろう、見た目は幼く小さいのに、空恐ろしいくらいに感じる威圧感は超大だ。
「リボーン」
「お前ら、ここでおっぱじめるつもりなら、俺から相手になるぞ」
 握った身の丈よりも長い撥を三人に差し向け、高らかに宣言する様は堂に入っていて綱吉も口を挟む隙間が無い。殴られた方は相当痛かったようで、山本などは涙目になりながら姿勢を真っ直ぐに戻した。
「いってー……ひでぇよ、俺、なんにもしてねーじゃん」
 仲裁に入ろうとしただけなのに巻き込まれた形の山本の不満は解らないでもないが、基本的にリボーンの方針は、喧嘩両成敗。騒ぎを起こした全員が揃って罰を受けるというものだ。
 ならば見ているだけだった綱吉や獄寺も殴られていなければおかしいのだが、リボーンはそのことにまでは言及せず、山本以上の激痛に苦しんでいる雲雀とディーノに視点の中心を移し変え、撥で肩を何度か叩いた。
 にんまりと横に伸びている口は、どちらかと言えば楽しんでいる風でもある。いや、実際楽しんでいるのだろう。
 一文字に唇を引いたリボーンに、ディーノが恨みがましい視線を送って頭を撫でさする。指の隙間から金色の髪が束になって溢れ出し、精悍に整った顔を歪めて、
「ひでぇ……相変わらず容赦ねぇな、リボーン」
 やや左肩を下に傾けた状態で愚痴った彼に、綱吉は目を丸くする。
 彼がリボーンと知り合いだと知っているのは、この場では当事者以外だと雲雀くらい。山本たちも一様に驚いた顔をしていて、そもそもリボーンとは初見のフゥ太は益々状況が飲み込めず口元をへの字に曲げて肩を怒らせた。
「ツナ兄、ぼく、帰るね」
「え? あ、フゥ太。どうしたんだよ」
 相手をしてもらえそうにない状況だというのだけは、彼の年齢でも分かったのだろう。強く綱吉の袖を引いて自分に注意を促すと、頬を膨らませて拗ねているとはっきり分かる顔と声で彼は言った。
 折角訪ねてきてくれたのに、まともに応じてやっていなかったことを今頃思い出し綱吉も焦る。ゆっくりしていけばいいのに、と取り繕う台詞を連ねてはみたが、ディーノとリボーンがこの場に出てきている段階でそれは確実に無理だ。
 両手を広げてなんとかフゥ太の曲がってしまった機嫌を直そうとするものの、焦れば焦るほど自分たちに余裕が無いのが伝わってしまう。
「ああ、そうだ。フゥ太、昼ご飯食べていけよ。母さんに言えばひとりくらい」
「ううん。僕、あさってには戻らないといけないから、今日は家で母さんたちと食べるよ」
「そっか……」
 今は町で居候生活を送っているフゥ太にとって、今は年に二度しか与えられない久方ぶりの帰郷の時。まだ母親恋しい年齢である彼にとっては、少しでも長く両親と一緒にいたいだろう。
 そんな貴重な時間を割いてわざわざ出向いてくれたのに、ろくに話も出来なかった。
「ごめんな、フゥ太。行く時は見送りにいくから」
「うん! それとね、今、村の近くまで旅芸人の一座が来てるらしいんだ」
 彼が里を出て行くと、次に戻って来るのは正月だ。月日の流れは速いが、思い返せばとても長い。この元気で明るい声が半年も聞けなくなるのかと思うと、唐突に寂しさがこみあげてきた。
 しんみりしてしまった綱吉を感じたのか、フゥ太が急に話題を変える。音を響かせて手を叩いた彼は、それを伝えるのが訪問の目的だったのだと明るい顔を作って綱吉に向かって身を乗り出した。
「旅芸人?」
「あー、それ、俺も聞いた」
 急に言われて面食らった綱吉の後ろで、気を取り直した山本が手を腰に当てて頷く。そういえば彼は昨日まで里を離れていたのだったと思い出し、改めてフゥ太を見返すと彼は大きな瞳を眩しいくらいに輝かせ、期待の眼差しで綱吉を見上げていた。
 腰帯にしがみつかれる。ただでさえ一度緩んで簡単に締め直しただけなのに、また解けそうで綱吉は苦い顔をしながらフゥ太が離れてくれるのを優先して、一緒に見に行こうという懇願に分かったよ、と頷いた。
「やったー!」
 旅芸人の一座が近くを巡業しているのなら、並盛にもやってくるに違いない。既に近隣に噂が広まっているくらいだから、あちらも進路を並盛に向けているのだろう。
 もしフゥ太が里にいる間に興行があるようなら、思い出のひとつに刻むのも悪くない。
「きっとだからね!」
 忘れないでね、と何度も強く念押ししてフゥ太は忙しく走り去った。
 小さな爆弾が慌しく駆け抜けて行った感じだ、正面からぶつかり合っていてはいずれ綱吉の方が先に倒される。
 またしても緩んでしまった帯を自分で手直し、綱吉は肩の力を抜いて息を吐いた。
「旅芸人か、どんなのだろう」
「さーな。俺も道すがらの話に聞いただけだから、芸までは」
 娯楽の少ない田舎にとって、旅芸人の巡業は貴重だった。自分たちだけでも季節の折々に際して色々とやったりするが、芸を生業として生きている人たちにはやはり敵うものではない。年に数回、片手でも余るくらいしかない楽しみがこの時期に重なるとは夢にも思っていなくて、綱吉はフゥ太に負けないくらいに瞳を輝かせた。
 縁側に戻り腰を下ろした山本が、足裏に張り付いた砂を落として頬杖をついた。左膝の上に横倒しにした右足の先が横にいた獄寺に当たって、彼はあっちへ行けと彼の踝を頻りに叩く。だが間にリボーンが割り込んで行き、出した手で危うく赤ん坊の丸みがある柔らかな頬を叩いてしまうところだった彼は、寸前で気づいて肘を引き避けた。
 冷や汗を拭っているのは、先ほどの天誅を見ているからだろう。リボーンと正面からぶつかり合う勇気は、残念ながら獄寺には無かった。
 曲げた人差し指の背を唇に押し当て、綱吉は以前里を訪れた一座の技を思い出す。目を見張る曲芸に拍手喝采を送ったのはまだ記憶に鮮やかで、思い出すだけでも胸が躍り気が逸った。
 その綱吉の頭を、真上から伸びた腕が押し潰す。
「ぐむ」
 跳ね返った甘茶色の髪の毛を存分にへこませ、かき回して去っていく背中。黒髪が温い風に煽られて流れ、すれ違う気配に綱吉は息を呑んだ。
「ヒバリさん?」
 何処へ行くというのか、全員を意識の外へ追い遣った彼は澱みの無い足取りで庭を東に向かって歩いていく。思わず振り返って呼びかけた綱吉に、彼は剣呑な目つきを後方へ流した。
 子供が見れば即座に泣き出しそうなくらいに鋭く尖った視線に、綱吉も背筋を粟立てる。
「なに」
「え……」
 不機嫌に問われ、咄嗟に言葉が出てこない。心臓が竦んでしまってドクドクと脈が速くなるのが分かる、早くしなければ雲雀は返事を待たずに行ってしまうというのに、綱吉の頭は完全に混乱に陥って思考回路は麻痺してしまった。
 開いた口を閉じることさえ出来ず、瞬きを忘れた瞳で雲雀を凝視する。言葉で伝わらないのなら目で訴えてやれといわんばかりで、少しの間ふたりの間に重い沈黙が流れた。
 綱吉だけでなく、山本に獄寺、ディーノやリボーンも彼を注視している。ここで綱吉を無視して先へ進めば、非難されるのは彼の方だ。
 雲雀はやがてはっきりと分かるほどに肩を落とし、乱暴に前髪を梳き上げて後ろへ追いやった。面倒くさいという態度に獄寺はむっとするが、綱吉は妥協してくれた雲雀にほっと胸を撫で下ろす。
「禊だよ」
「はい?」
「君だって、遊んでいる暇なんてないだろう」
 いきなり槍玉にあげられ、綱吉は理解出来ない頭を捻らせた。
 別段遊んでいるつもりはないのだが、何かやっておかなければならない事があっただろうか。雲雀の言う禊は身を清めて神事に備えることであり、そういえば彼は今朝からずっと山に引き篭もりっぱなしだった。
 ディーノの来訪で下山を余儀なくされただけで、彼が並盛山に向かった用事は実はまだ、終わっていない。
 不思議そうにしている綱吉を見て、雲雀は再度、大仰に溜息を零した。そして綱吉の理解の悪い頭に、リボーンの撥が唸りをあげた。
「いでっ!」
 いきなり何をするのか、と両手で後頭部を支えて振り返る。咄嗟の事に目玉が飛び出してしまうところで、大粒の涙を目尻に浮かべた彼の悲鳴に、獄寺は慌てふためき、山本は馬鹿だなと綱吉を笑う。
 きょとんとしているのはディーノで、大丈夫かと綱吉を撫でてやろうと腕を伸ばせば、真正面から雲雀の眼力に圧倒され思わず苦笑いを浮かべた。
「雲雀の言う通りだぞ。ツナ、お前明後日が何の日か忘れてねーだろうな」
「明後日?」
 禊はお前も必要なんだとも告げられ、綱吉は顎に指を押し当て考え込む。何かあっただろうか、と眉間に深い皺を刻んでまで思い出そうと試みるが、なかなか思い当たる節に出会えない。
 様子を見守る雲雀の諦めた表情にも焦りが募り、待って、行かないでと手を振るが呆気なく無視されてしまった。
「天舞台の掃除、してくるよ」
「あーーー!」
 そこまで言われて漸く思い出した綱吉に、雲雀とリボーンが向ける目は冷たい。
「てん、ぶ……なんだそれ?」
「えー、あ、嘘! 明後日!?」
「……綱吉、本当に」
「忘れてたんだな」
 てっきり冗談だと思っていた雲雀だが、本気で忘れていたらしき綱吉の態度に一種の絶望を覚えて頭を抱え込んだ。
 リボーンの鉄槌が再び綱吉の頭を襲い、何がなんだか分かっていない獄寺が山本に助けを求めるが、彼もまたあまり詳しくは知らないようで声を立てて笑うだけ。まずい時期に来ちゃったのかな、とディーノも苦笑を禁じえない。
「え~~、やばい、どうしよう。俺、そんな、いきなりは無理だよ」
「死ぬ気で練習するしかないな」
「はは。なんか良くわかんねーけど、頑張れよ、ツナ」
「十代目、自分がお手伝いできることならなんでも仰ってくださいね!」
「……もう行くよ?」
 綱吉が右往左往し、山本の笑い声が響き渡る。リボーンの容赦ないひとことに、獄寺がぐっと拳を作って宣言した。
 雲雀が疲れきった様で首を振り、一同を眺めてディーノが微笑む。
「うん、なんか」
 いいな、と。
 懐かしい気持ちを呼び起こされて、彼は唇を噛んだ。

2007/9/12 脱稿