遙望

 どん、と聳え立つ正門は、毎週五日、毎朝通り抜けるものに関わらず今日に限って妙に大きく、高い壁として感じられた。
 その向こう側にある校舎もまた、いつも以上に大きく感じられる。錯覚だと分かっていても雰囲気に呑まれてしまって、沢田綱吉はどうしよう、とここにきて後悔に苛まれた。
「来てしまった……」
 日曜日、時は夕刻。
 正直言えば来たくはなかった。けれど今日という日が何故日曜日なのだろうかと、朝からずっと後悔していたのは間違いない。
 嬉しいはずの誕生日が、憂鬱な気持ちのまま終わってしまう。去年が散々だった分、今年は張り切って準備してくれた奈々や、パーティーを盛り上げようと頑張ってくれた皆に申し訳が無いから、表面上は務めて明るく振舞っていたけれど。
 ばれていないつもりだった、巧くやり過ごせると思っていた。
「あー……あぁ」
 撃たれた頭がひりひり痛む。額を手で擦り、もう片手で何故か握っていた鞄を下ろした綱吉は、準備万端とばかりに中に詰め込まれていた学生服にがっくりと項垂れた。
 今日は十月十四日、他ならぬ綱吉の誕生日。
 沢田家で盛大に、前日が誕生日でもあるリボーンの分との共同開催されたパーティーは、果たして今頃どうなっているだろう。主賓の片方が欠けたとしても、すでにノンアルコールで出来上がっている面々は気にせず大騒ぎを続けているだろうし、もう片割れのリボーンが居残っているので特に問題はなさそうだけれど。
 ひょっとしたら死ぬ気弾を撃たれてリビングの窓ガラスを突き破って飛び出していった綱吉でさえ、パーティーの余興のひとつだと思われているかもしれない。
「俺ってそんなに、分かり易いかな」
 部活動があるからだろう、人がひとり通り抜けるだけの隙間を残していた正門を潜り、人目につかない死角に入る。茂みの影でこそこそ制服を着込むのは正直格好悪い以外に表現が見当たらないが、まさかトランクス一枚でこの秋空の下を歩くわけにもいかないから、多少は気を利かせてくれたらしいリボーンの心遣いには感謝すべきだろう。
 スラックスを履いてベルトを締め、藍色のベストに首を通し、鞄の奥に入っていたローファーを履いて、準備完了。空っぽになった鞄のジッパーを閉めて肩に担いだ綱吉は、立ち上がるときに吹いた風に煽られて横に飛びながら目の前に佇む校舎を見上げて溜息を零した。
 ほんの数分前まで、綱吉は自宅にいた。
 家族と仲間が開いてくれた誕生パーティーの主賓席に座って、沢山のプレゼントと祝福の言葉の間に埋もれていた。
 料理は大量に奈々が用意してくれて、ケーキもハルと京子がお気に入りのお店のものを買ってきてくれた。飾りつけは子供たちが頑張ってくれたお陰で、片付けが大変そうだと思えるくらいに派手に、色々と天井からもぶら下がっていた。
 リボーンも終始上機嫌で、自分が祝われているわけではないのに大騒ぎするランボを相手に、いつもながらの手酷い仕打ちを繰り返していた。場は和やかな雰囲気に包まれて、誰も綱吉の穏やかならざる心を知らず、気づかず、笑っている彼が心から楽しんでいると思っていたに違いない。
 ビアンキを見て卒倒する獄寺や、彼女の毒々しい(実際に毒なのだが)料理に対し、持ち込んだ寿司の方が絶対美味しいと張り合おうとする山本、仲良く食べていたはずなのにいつの間にかどのケーキが一番美味しいかで討論を開始していた京子とハル。喧々囂々、騒がしいばかりのやり取りは確かに綱吉にとって楽しいものに違いなく、腹がよじれるくらいに大笑いをしていたのに。
 何気なく山本が漏らした台詞で、綱吉の心は凍りついた。
『そういや今日、日曜だから学校休みじゃんか』
 食事はひと段落したが、それぞれがゲームに興じて騒々しさは静まるところを知らない時だった。
 空っぽになった皿を片付けていた綱吉の横で、ペットボトルに残っていたジュースを飲み干そうとしていた山本が、他愛もない話題のひとつとして提供した内容に、綱吉は取ろうと手を差し伸べていた皿を床へ落とした。幸い割れはしなかったが、いきなり指先から力が抜けた綱吉の呆然とした顔に、居合わせた一同揃って変な顔をしていたように思う。
『俺、今日午前中だけ野球部の練習あったんだけど。風紀委員、いたんだよな』
 一般生徒は皆休日を楽しんで、大会が近い運動部くらいしか登校していない人気の無い校内を、それでもあの遠くからでも目立つ黒の学生服集団は居丈高に闊歩し、周囲に目を光らせていたらしい。
 ご丁寧なことだと肩を竦めて笑いを誘おうとした山本だけれど、肝心の笑わせようとした綱吉が唇を震わせ固まっている様に、何か不味いことを言っただろうかと背後の皆を振り返る。しかし誰も綱吉が何に対して動揺しているのか理解出来ず、首を横に振り返すだけだった。
 落ちた皿を足元に転がしたまま、綱吉は幾度と無く心の中で、今日が日曜日である現実を恨んだ。そして、たとえ話を聞いたところで行動に移れない自分の気の弱さを後悔した。
 沢山プレゼントは貰った、お祝いの言葉も貰った。今までの人生の中で最良の日に数えても申し分ないくらい、充実した一日だった。
 けれど足りない、なにかが。心の中にぽっかりと穴が開いて、そこに隙間風が吹いている。穴を埋めるにはどうすればいいのか本当は分かっているのに、行動を起こせずにいる自分が嫌いだった。
 誰にも気づかれず、見透かされず、上手に誤魔化せているとばかり思っていた。
 まさかこんなにも身近なところで、誰にも告げた事のない綱吉の気持ちを悟っている存在がある事にすら気づかなかった。
 会いたいと、せめてそれさえ叶えば本当に今日という日が訪れたことを感謝できるのに、と、そう強く思っていた時だった。
 リボーンの銃口が火を噴き、復活した綱吉はさりげなく手渡された鞄を引っつかんで、一直線に学校へ向かって走った。玄関からではなく窓から飛び出した彼を仲間は呆気に取られたまま見送ったことだろう、明日会った時にどう言い訳すべきか考えると気が重い。
 それ以上に、一目散に学校に走ってきてしまった正直すぎる自分が、恨めしい。
 どうせなら死ぬ気状態を維持したまま、学内に突入したかった。あの状態の自分ならば、多少恥かしいことも平気でやってのけられるのに、どうしてよりによって正門に入る前に我に返ってしまったのか。
「あ~、もうっ」
 考えれば考えるほど落ち込むばかりで、頭を抱えた綱吉は二度強く地面を蹴り飛ばし、ずり落ちかけた鞄を担ぎ直す。折角此処まで来たのだから覚悟を決めないといけない、何もせずに戻ったらそれこそリボーンからどんな仕打ちを受けるか分かったものではない。
 ただ、リボーンのお仕置きとあの人の機嫌を損ねるのと、どちらが怖いかといえばどっちもどっちだ。
「……」
 想像してどんよりと頭の上に雨雲を広げ、綱吉は踏み固めたばかりの地面に踵で穴を開けた。
 校舎の裏手にある体育館からは、剣道部の練習が聞こえる。野球部は午前中のみで、午後からはサッカー部が使うことになっているのだとか。山本から聞かされている色々な事を思い返しながら、綱吉は重い足取りで校舎へと向かった。
 しかし正面玄関は施錠されていて、扉は押しても引いてもびくともしない。教室を使うような部活が無いからだろう、けれど風紀委員が活動しているのならばどこかは必ず開いているはずだ。
「むー」
 唇を尖らせて呻いた綱吉は、此処から近い別の入り口はどこだっただろうかと首を捻る。
 並盛中は、広い。他の学校に通ったことがないので比較できたものではないのだが、たまに学内に潜り込んで来るハルの言葉を借りるなら、町立レベルの学校としては設備も敷地の広さも、何もかもが段違いらしい。私立の中学に匹敵するのではないか、というのは流石に大袈裟だと思うが、たまに出かける先で見上げる他校の校舎は、確かに並盛中の校舎と比べると随分色もくすんでいるし、古めかしい印象を抱かせた。
 環境は恵まれているのだと思う。その裏にどういう利権が絡み、どういう人が顔を利かせているのかに関しては、想像すまい。
 鞄を胸の前に持ち替えて、綱吉は校舎の大外を回りながら開いている扉を探す。けれど校内は基本的に上履きでなければ入ってはならない規則になっているので、正面玄関以外で立ち入れそうな場所はなかなか見付からなかった。
 気がつけば第一グラウンド近くまで来ていて、綱吉は渋い顔をしながらだだっ広い土のグラウンドを見回す。
 秋晴れの空の下、黄色と赤でチーム分けされたサッカー部が模擬試合をしていた。人が走るたびに砂埃が舞い上がり、それが時折吹く風に流されて綱吉の元へも届けられる。目に入りそうになった砂粒に慌てて瞼を閉ざし、睫を震わせて綱吉は右手で頭を庇った。
「山本の、うそつき」
 風紀委員なんて、どこにもいないではないか。
 まだ校舎外をぐるっと半周しただけなのに、親友を嘘つき呼ばわりして彼は肩を落とした。
 本当に欲しいものは、自分から動かないと手に入らない――それは重々承知している。昔から、いつだって望んでも手に入らないと先に諦めてしまって、遠巻きに眺めることしかしてこなかった。
 京子とだって、リボーンが来なければ一生言葉を交わすこともなかっただろうし、今日みたいに誕生日をみんなと祝ってくれるなんて夢のようだ。
 けれど、これは現実。夢が現実になったのは、自分の足で行動し、自分の言葉で思いを表現したからに他ならない。
 だから今日も、結局はリボーンに背中を押されたどころか蹴り飛ばされた格好だが、行動の第一歩を踏み出した。
「うぅ……」
 問題は、その次の歩みが出ないこと。
「あー、もう!」
 半ばやけくそ気味に叫び、綱吉は空っぽの鞄を頭上へ放り投げた。弧を描いて落ちてくるそれの行方を目で追い、接地する直前にひっ掴んでサッカー部員が奇異の目を向けるのから逃げ、綱吉は猛ダッシュで体育館側へ向かった。
 あそこには校舎と体育館を繋ぐ渡り廊下がある、剣道部の声が聞こえたからきっとそこの扉は開いているに違いない。そこから入って、上履きを取りに正面玄関へ戻って、そして、そして――
 目の前に細い柱で屋根を支えた渡り廊下が見えたところで、綱吉は歩調を緩め、辿り着く寸前で完全に足を止めた。
 急発進したので心臓が喧しく音を立て、煩わしいくらいに息が乱れて喉が痛い。ぜいぜいと喘ぐように息を吸って吐き出した彼は、額に滲んだ汗を拭うことも出来ずに目の前の光景を呆然と見詰めた。
 黒の、詰襟。今時ありえないくらいに古風な出で立ち、朝のセットに一時間くらいはかかりそうなリーゼント、とても中学生に思えない体格と顔立ちのふたり組みが、巡回中なのだろうか、校舎から出て体育館へ向かって歩いていた。
 息を弾ませた綱吉は荒々しく肩を上下させながら、目の前を通り過ぎていく彼らを見詰める。一瞬だけ視線に気づいたらしい片方が綱吉の方を見たが、一応規定の制服をしっかりと着こなし、ネクタイも下手なりに結んでいる彼は検挙の対象外だったようだ。
 一瞥を加えられただけで終わったことに安堵したのか、それとも動けなかった自分にショックを受けたのか、綱吉は瞬きを忘れて暫くその場に立ち続け、けたたましく鳴り響いた背後からの笛の音に頭を押され我に返った。
 振り向けばサッカー部の模擬戦が終わったようで、グラウンドに散っていた部員が一箇所に集まっていくのが小さく見える。自分には関係ないことだったと強張らせた肩を落とした彼は、軽い鞄を握り締めて力なく首を振った。
 ここで怖気づいてどうする。懸命に自分を奮い立たせるけれど、俯いたままの視線はなかなか上に戻らない。
 考えてみれば綱吉は、彼が何処にいるのかを知らない。風紀委員が今日も学校に来ている、という山本の話を聞いただけであって、委員長までもが律儀に登校しているかどうかまでは分かっていないのだ。
 それなのに飛び出してきて、これであの人がいなかったらお笑い草だ。
「俺、馬鹿だな」
 憧れは憧れのまま、胸の中に大切にしまっておけばよかったのだ。どうせ追いかけたところで届くことはない背中だ、その手が綱吉に向かって差し伸べられる可能性は限りなくゼロに近い。
 ただ怖いだけの不良という認識が改まったのは、いつだったのか。気がつけば京子よりもずっと目で追いかける存在になっていた。
 横暴で、身勝手で理不尽なところもあるけれど、誰にも負けないくらい強くて、格好良くて、決して折れない。
 誰にも媚びない、靡かない。いつだってひとり高い場所に佇んでいる、綱吉は見上げる事しか出来ない。誰かに支えて貰わなければ前にもロクに進めない綱吉とは違う、彼はひとりで己の進む道を決められる。そして迷いもせず、自分の決断を信じてどこまでも歩いていくのだろう。
 羨ましいと思った、焦がれるほどに。
 あんな風になりたいと思った、どうすればなれるのか考えた。
 気がつけば、知らず探すようになっていた。
 毎朝遅刻ぎりぎりの時間に学校に駆け込んで、遅刻者チェックで立っている風紀委員の中にいないか探した。昼食は教室ではなく、学校内を歩き回らねば辿り着けない屋上で食べるようになった。放課後、部活にも入っていないのに意味も無く学内をうろついて、暇を持て余しながら時間を潰した。
 単に姿が見られたら、それでいい。喋ったり、近づいたり、触れたり出来なくても構わない。
 今日だって、そう。自分の誕生日、一年に一度しか来ない特別な記念日に。
 遠くからでも構わない、姿を見たかった。
 知らなかった、こんなにも自分は彼の事を。
 後悔はしたくない、死ぬ気になれば何だって出来る。だったら、彼ひとりを探し出す事なんてきっと、造作もない。
「……よしっ」
 何もしないまま同じ場所に留まり続けているくらいなら、その先が真っ暗闇でも、落とし穴が待っているのだとしても、飛び出してしまえ。もしかしたら一片の光を掴めるかもしれないではないか、自分の前に広がる可能性は無限大なのだ。
 弱気な自分は捨てよう、欲しいものを、本当に欲しいものを自分でこの手にする為にも。
 綱吉は握り拳を胸に押し当て意気込むと、風紀委員が通った開けっ放しのドアの前まで急ぎ移動した。校舎内は土足厳禁だから、見付かった時に怒られないようにローファーを脱ぐ。しかしその脱いだ靴の始末に困って、綱吉は左右揃えて右手に持ったまま視線を泳がせた。
 靴箱なんてもの、当然ない。しかしこれを手に持ったまま歩き回るのも少々骨だ、例え正面玄関に行くまでの短時間であっても。
「うーん」
 靴下越しに感じるひやりとした床の硬さに肩を竦め、目の前に続く長い廊下の最奥へ視線を投げた彼は結局、肩からぶら下がっている鞄の中にそれを押し込める事に決めた。
 最初に入っていた時と違って、グラウンドを横断した後なので裏面には当然、細かな砂粒が付着している。払い落としても全て除去するのは不可能で、家に帰ったら鞄も洗わなければいけないと肩を落として開けたファスナーを閉めた。
 少しだけ重みを増した鞄を担ぎ直し、先ず何処を目指すかを考える。応接室に進路を取るのが無難だろうが、それでは正面切って彼と向き合わなければならなくなる。そもそも、会いたいという動機はあるにしても、会わねばならない理由はないのだ。
 自分の誕生日だから会いに来ました、だなんて言えるわけがない。冷たい目で見られて鼻で笑われるのが関の山だろう、それとも無言のままトンファーで一撃に伏されるか。
 ならば偶然の出会いを装って彼に接近するのが妥当なところ、しかしそんな都合の良いシチュエーションがそうそう転がっているわけもない。
 考えが浅はかなのだ、詰まるところ自分は。思いあまって飛び出してきたは良いが、勢いだけでどうにもならない事だって世の中には沢山ある。死ぬ気になっても攻略できない現実に直面して、綱吉は泣きたい気持ちで唇を噛んだ。
 そう、それに雲雀が学内にいるかどうかという根本的問題だって、まだ解決していない。
 学校大好きな彼の事だ、他の風紀委員が出てきているのに彼だけが不在というのは考えにくい。だとしても、応接室に引きこもられていたら完全にお手上げ。
 どう思考を巡らせても其処に行き着いて、綱吉は呻く。
 だが決めたのだ、絶対に探し出してやるのだと。
 脇に挟んだ鞄を肘で殴り、綱吉はもう一度意気込みを新たにして右の爪先で冷たい床を蹴り飛ばした。ワックスのお陰で滑りの良い表面に足を掬われないように注意しながら、なるべく急ぎ足で。
 休日の学校は、当たり前だが人がいないので静かだ。運動部のかけ声も、分厚い壁を隔ててしまうと窓が開いていない限り殆ど聞こえてこない。
「っと、あれ、玄関ってどっちだっけ」
 体育の授業以外では通る事のない廊下は、一緒に移動するクラスメイトの姿がないのも手伝って見覚えがあるようで、無かった。元から注意力散漫と言われているだけに方角もあやふやで、どちらに進めば何処に辿り着けるのか思い出せない。
 本当に一年半もここに通っていたのかと、自分でも唖然とする。いくら校舎が広いとはいえ、この記憶力の無さは絶望するに値する。乱暴に髪を掻きむしった綱吉は、とりあえずまっすぐ進む事にしようと二方向に伸びる曲がり角を前にして頷いた。
 正面玄関からは遠ざかっている気がする、こっちに進むと特別教室ではなかっただろうかと曖昧な記憶を頼りに、鞄を大事に抱いて歩く綱吉とすれ違う人の影はない。
 ふと立ち止まって窓ガラス越しに見た景色は、夏の盛りよりも少し色を暗く、濃くした緑の樹木が並んでいた。幅広の葉はあと一ヶ月と少しすれば更に色を変え、枝から落ちて大地に沈むのだろう。寒々とした裸の木々を思い浮かべ、綱吉は寒くない筈なのにぶるっと大きく身を震わせた。
 グラウンドに伸びる校舎の影は長い。日暮れは確実に迫っている、一日のうち昼は段々と短くなろうとしていた。早くしなければ、帰ってしまうかもしれない。
 現にさっきまで縦横無尽に運動場を走り回っていたサッカー部は片づけを開始していて、時計を持ってこなかった事を悔やみながら綱吉は視線を背後に投げた。
 明かりの消えた教室、夕闇に落ちようとしている廊下、薄暗い足許と心細さを募らせる材料だけは沢山転がっている。彼はそれらを振り切るように瞼を閉ざし、まだ時間はあるからと自分に言い聞かせて走り出した。
 転んだって構わない、その痛みで少しでも焦燥感が薄れるのなら。
「くっ……」
 家から学校まで死ぬ気のダッシュ、正門から校舎手前までも全力疾走、そして廊下でも、見付かったら怒鳴られるだけでは済まないだろう速度で駆け抜ける。顔の向きは前に固定して、瞳だけは動かして周囲にも注意を向けて、あの黒髪が風に揺れていないかどうかを探して。
 こんなに必死になっている自分に腹の底から笑いたくて、泣きたくなって、ごちゃ混ぜの気持ちを振り絞って、綱吉は。
 走った。
 いつもは見付かりたくないところで彼に発見された。遅刻確定の時間に裏門近くの壁を乗り越えようとした時も、弁当を忘れて購買へ走っていた時の廊下でも、授業をさぼって昼寝をしようと屋上に出た先でも、何故か。
 探していない時に限って、彼との遭遇率は高かった。
 会いたい時には居ないくせに、不意を衝いて人が油断しきっている時に後ろに立っていたりする。
「はっ……んあ、つ……」
 あがる息、破れそうな胸、耳に五月蠅い心臓、飲み込んでも止まらない唾、震える足、力を失って折れたまま伸びない膝。身体中のあらゆるパーツが悲鳴をあげて、綱吉は駆け上った階段の途中でついに足を止めた。
 銀色の手すりに右腕を預け、寄り掛かる。前のめりになるとそのまま座り込んでしまいそうで、ギリギリ堪えて背筋を逸らす。凸凹が目立つ階段の裏に上階の窓から差し込んだオレンジ色の夕日が当たり、長い影が天地逆になって綱吉の上に伸びていた。
 敢えて応接室の前は避けて通らなかった、彼が其処に居ても居なくても、会えなければ意味がないから。
 今日という日最大の忘れ物は、応接室の中になんて無い。
「く、っそぉ……!」
 太陽は西に傾く、東の空からは藍色の帳がゆっくりと下ろされようとしている。一番星が輝くまで、残り時間はいかほどか。
 涙を浮かべたがる目を閉ざし、悲しみ、怒り、混ざり合った声で叫んで綱吉は残る階段を登り切った。踊り場のカーブを大外に回って、残り半分も一足飛びに超えて乳白色の床を赤く染める窓を前に肩を上下に揺らした。
 顎のラインを伝った汗の冷たさに息を飲み、呼吸を整えて立ち尽くす。明日もきっと良い天気だと、どうでも良いことをぼんやりと考えている自分が不思議でならなかった。
 自分の呼吸音だけが聞こえる廊下、誰ともすれ違わない校舎。不気味なくらいに不安を煽る寂しい空間なのにそう思わないのは、この場所の何処かに彼が居ると本能的に悟っているからだ。
 口腔に溜まった唾液を飲み干し、綱吉は拍動を強める心臓をそっと撫でた。
 まだタイムリミットじゃない、諦めるのは早い。今日は終わっていない、例え日が沈んでしまったとしても。
「あと、残ってるのは……」
 一年から三年までの教室が連なる本校舎は全部回った、実験室なんかが入っている特別教室棟も。
 汗ばんだ肌に貼り付くシャツの気持ち悪さに舌打ちし、Vネックのベストを引っ張って間に空気を送り込む。日が沈めば気温が下がって寒くなるのは分かっていても脱いでしまいたくて、すっかり裏が真っ黒になった靴下で彼は廊下を蹴った。
 目指すのは、特別教室棟とは反対側。音楽室、そして図書室などが入った第二校舎だ。
 特別教室棟とは違い、後から増築された建物は本校舎と直接廊下で繋がっていない。非常に見晴らしの良い、そして雨の日は極力通りたくない、屋根はあるけれど壁は胸の丈くらいまでしかない吹きっ晒しの通路が唯一の橋渡しだった。
 綱吉もあちらには週に一度くらいしか用事がないので、好んで足を向ける場所ではなかった。ましてや図書室など、安眠目的以外で訪れる機会はほとんど無い。
 教室棟よりも更に人気が失せる場所など、探すだけ無駄な気もする。けれど他に縋るものがなくて、綱吉はすぐ気弱になる心を奮い立たせて歩き出した。
 ひたひたと濡れたような足音が小さく響き渡る。汗を含んだ靴下が廊下に接する度に貼り付いては引きはがされて、その感触は非常に気持ちが悪かった。上履きを履いてくるべきだったと後悔しても今更遅すぎて、鞄の中のローファーを取り出したい気持ちに駆られながら綱吉は、渡り廊下へと続く重い鉄の扉の前で足を止めた。
「閉まってる」
 手を伸ばして指で触れると、ひんやりした金属の感触が伝わってきた。体温を奪われる感覚に慌てて肘を引っ込め、片側開きのそれを前にしばし躊躇する。
 鍵は内側、つまり綱吉の側にある。縦になっているものを横に倒すだけで簡単にロック出来てしまう、サムターン式のものだ。
 見下ろしたつまみは、縦を向いている。
 つまり、扉自体は施錠されていない。
「誰か、通った?」
 少なくとも綱吉は通っていない、まだ。だから彼以外の誰かが此処を通った可能性は高い。もっとも、昨日に宿直が施錠し忘れた可能性も、否定は出来ないが。
 ただ、あの人が支配するこの学校に限って、そんな失態は起こりえない気もする。どちらにせよ目の前の扉が通行可能なのは間違いなく、綱吉にはそれだけで十分だった。
 持ち手の片方がずり下がっていた鞄を直し、よし、と腹筋に力を込める。脇を締めて意気込んで、彼は右手を丸いドアノブに添えた。左手は正面の扉に押し当て、ノブを回すと同時に身体全体を使って分厚い鉄板を向こう側へ押し出す。
「くっ……」
 気圧の差でもあるのだろうか、扉は綱吉の力では僅かな隙間を作る程度しか開かない。これでは通り抜けるどころか腕を通すのがやっとで、後ろへ滑りたがる靴下でなんとか踏ん張りを利かせ、綱吉は左肩から扉にぶつかっていった。
 細めた瞳には鉛色の扉とは違う光が差し込み、額を撫でる風が乱暴に前髪を掻き回す。急激な明度の差に視界が翳り、更に力を込める為にも綱吉は瞼をきつく閉ざした。鼻から吸った息を肺の中にため込んで、口から一気に吐き出す動作の最中に曲げた膝をも一気に伸ばす。
 ギ……と重い音が肌を通して直接脳に届いた。全身を包み込む風は夏の蒸し暑さとも冬の冷徹さとも違う、柔らかい、心が少しくすぐったくなるような甘さを綱吉にもたらす。強く煽られた髪の毛が浮き上がって、身体ごと持って行かれそうになった綱吉はドアノブから外した右手をも自動的に閉まろうとする扉に添えて、窄めた首を伸ばした。
 それまで壁に覆われた薄暗く狭い場所から、急に明るく開けた世界が目の前に広がる。遠くへと伸びる雲が淡い紅色に染まっていて、それよりも少し濃い色が地表を埋める町並みを照らしていた。
「わっ!」
 思わず景色に見とれ、綱吉は前に倒れたがる上半身と廊下側に残っている両脚のバランスを崩した。滑り止めのない靴下がついに耐えきれず、つるっと床から跳ね上がる。
 一気に身体が斜めに沈む、流れる風に押された扉が容赦なく綱吉の身体を押し潰そうと戻ってきた。このままでは挟まれる、綱吉は咄嗟に腰を捻って鞄を背中側の仕切りに押し当て、左手でドアノブを、右手で扉側面を捕まえて曲げた膝でドアを叩いた。
 完全に倒れるまではいかず、ギリギリ残った体勢にホッと息を吐く。油断したらすぐこれだ、リボーンに見られていたらきっと今頃大目玉で、綱吉は一瞬で跳ね上がった心拍数を戻しながら今度こそ両脚でしっかりと立ち上がった。
 もう転ばないように注意しながら、慎重に境界線を跨ぐ。綱吉の代わりに挟まれて潰れてしまった鞄に左手を伸ばして、相変わらず吹き荒れる風を全身に浴びて、彼は。
 距離にして五メートルもない渡り廊下に佇むひとりの影を見た。
「え――」
 風の通り道に当たる壁のない通路で、長めの黒髪を好き勝手嬲らせながら暮れゆこうとする太陽とオレンジ色に照らされる並盛の町を眺めている。
 黒のスラックスに綱吉が着ているのと同じ紺色のベスト、大きく開いたVネックから覗くネクタイの結び目は綺麗な台形、白磁めいた肌は仄かに色付いて妙な色香があった。
 綱吉は声を失い、扉を押し開いたままの手をゆっくりと脇へ下ろした。瞬間扉自身の重みと風の圧力により、彼がすり抜けたばかりのドアは勢い良く、傍にいた綱吉が飛び上がって驚くくらいの轟音を響かせて閉まった。
「ひっ」
 不意打ち過ぎて心臓が縮んだ。鞄を胸に抱きしめて着地した綱吉は、跳ね返りもせずに沈黙したドアに気を取られ横を向く。今の音で雲雀が、彼の存在に気付かないわけはないのに。
「びっくりした……」
 せめてひと言断ってから閉まってくれよ、と物言わぬ扉相手に愚痴を零して胸を撫で下ろした綱吉は、は~と息を吐いて脱力しながら頭を掻いた。この一瞬だけは完全に雲雀の事を頭から消えていて、横向きだった姿勢を戻す最中、下から持ち上げていった視界が正面に向くにつれて、中央部にほっそりとした影を捉えていく現実に目を丸くした。
 片手は渡り廊下の右側、下半分を目隠しする程度の低い壁の上に添えている。綱吉に対して横向いていた筈の彼が、夕日を左半身に浴びながら綱吉を見ていた。
 斜めに流れては戻る黒い前髪さえもが、薄く色付いている。皺が走る白いシャツにもまた、鮮やかな夕焼け色が落ちていた。
「ひ……」
「今日は、日曜だよ」
 胸に抱えたままだった鞄をもっと強く抱きしめて、綱吉は上擦った声をあげた。しかし舌が痺れて名前を全部呼べず、代わりに雲雀が手摺りに置いた手を僅かに綱吉側へ移動させて言った。
 半歩、前に出る。
 ふたりの距離が、十数センチばかり狭まった。
「あ、ああ、はい、はい。知ってます、今日は日曜日ですよね!」
「授業は無かったと思うけど?」
 稀に成績が悪すぎる綱吉は休日にも補習、補講で学校に呼び出されている。それを指して言っているのだろう、僅かに左側へ首を倒した雲雀の言葉に、綱吉は彼が例え些細であっても自分の事を知っていてくれた事に頬を緩めた。
 彼の中に、ちょっとでも自分の存在が宿っているのが、嬉しくてならない。
「そ、そうですね、無いです、はい」
「ふぅん」
 落ち尽きなく両手で持った鞄を上下に揺らして、綱吉は逸る気持ちを懸命に抑えながら身を乗り出した。
 嬉しくて、嬉しすぎてどうしようもなかった。冷静な判断力など何処かへ飛んでいってしまって、今がどういう状況なのかも忘れ、雲雀が怪訝な表情を作り直すのにも反応が遅れた。
「それで?」
「え?」
 雲雀が首の向きをまっすぐに戻す。同じくまっすぐに綱吉を射抜く瞳がすっと眇められ、影になっている彼の右半身が怪しく動いた。
 瞬きをした綱吉も、前傾姿勢だったのを直して息を吐いた。吸い込んだ空気は冷たい棘となって彼の喉を刺し、チリッとした痛みに綱吉は唇を震わせた。
「え――」
「休みの学校に、何の用?」
 場合によっては、容赦しない。そう言外に告げた雲雀は、背中からトンファーの柄をちらつかせている。あれに殴られる痛みは綱吉も体感済みで、鈍い輝きが瞳を焼いた瞬間、彼は全身の血の気が引く音を聞いた。
 そうなのだ、綱吉が日曜日の学校に潜り込んだ理由は他ならぬ、雲雀に会う事。しかしそんな理由で彼が納得してくれるだろうか、何故会いたかったのかその理由まで問いつめられでもしたら、誤魔化しきれる自信はない。
 つまり綱吉は、雲雀の質問に答えられない。
「え……、と」
 急に狼狽して視線を左右に泳がせた彼は、雲雀の目にどう映っただろう。元から切れ長の瞳が更に鋭利に細められ、盗み見た綱吉は鞄を盾に悲鳴をあげた。
「言えないの?」
 風気委員長として不法侵入は認めがたい。今や綱吉は完全に雲雀にとっての排除対象と化していた、言えない理由での侵入ならば強制的に学校内から駆逐するだけだ、と。
 折角目的は叶ったのに、こんな終わり方は悲惨すぎる。全体を露わにしたトンファーが跳ね返す煌めきに目を閉じ、綱吉は肩を丸めて必死に言い訳を、無い頭をひねって考える。
 欲しがらなければ良かったのか、望むべきではなかったか。違う、願うのも望むのも本人の自由だ。ただ手が届くか、手を伸ばすかどうか、それだけが。
「わ……」
 雲雀が距離を詰める、靴の裏が風に運ばれた砂利を踏む。残酷な笑みを薄く浮かべる雲雀はこんな時でも綺麗で、綱吉は泣きたい気持ちのまま懸命にことばを探した。
 楽しげに唇を歪めた雲雀が右手を高く掲げる、影が綱吉に落ちて彼の視界の半分を薄闇に染めた。
「じゃあ、ね……」
「忘れ物したんです!」
 冷たい別れの言葉を告げた雲雀の声を遮り、恐怖が勝った綱吉はなりふり構わず思いついた言葉を叫んだ。
 勢い良く振り下ろされようとしていたトンファーが、完全に身を竦ませて小さくなった綱吉の、その肩を打つ直前で止まる。
 夕映えの風が吹いた。
「わ、わ、忘れ物して! それで、俺、おれ、探しに」
「……へえ?」
 死にものぐるいで呂律の回らない舌で言い訳を連ねる綱吉は、攻撃が来ない事に安堵しながらも緊張は解けず、視線を揺らしながら一旦離れたトンファーの行方を追った。
 雲雀の爪先がすぐ前にあった、背後には壁、ドアは閉まったまま。逃げ場は封じられている、ここは三階だから飛び降りるのも不可能だ。
「忘れ物なんて、明日でもいいんじゃない?」
 昨日もあったのに、敢えて日曜日の夕方を選んで取りに来るなんておかしくはないか。雲雀の追求は止まず、トンファーもまだ綱吉の視界に入る位置でちらつかせている。
 これで見逃して貰えるとは思っていなかったが案の定で、綱吉は扉へ押し当てた背中に冷たい汗を流した。
 鞄の底が胸に当たって痛い、中に入っている靴が表面に浮き上がって腕に食い込んでいる。もぞもぞ足を動かしたら踵が扉と渡り廊下の継ぎ目の段差に当たって、急に感触が変わった事に彼は喉を上擦らせた。
 頬を引き攣らせた綱吉に、雲雀は顔を顰めて視線を下に移した。制服からはみ出ている灰色に汚れた靴下を穿いた爪先に、彼は露骨に眉を寄せて改めて綱吉を見つめる。視線が一直線にぶつかって、綱吉は咄嗟に茹で蛸より赤い顔を鞄に伏した。
 雲雀の疑問ももっともだ。けれど綱吉にしてみれば、今日で無ければダメなのだ。今日でなければ意味がない。
 十月十四日だから、特別なのだ。
「今日、じゃないと、ダメ、なんです」
「そう」
 ぶつ切りの単語を並べ立て、綱吉は俯いたまま首を振る。すると雲雀は漸く納得したのか、トンファーを引いて下限が地平線とキスをした太陽に視線を投げた。ふたりの間に流れる凍えた空気が緩んだのを感じ、綱吉もまた雲雀と同じものを見る。
 鮮やかに朱色に染まる西の空はどこまでも深く、広く、美しかった。
 何故雲雀が此処にいたのか、彼が最初に何を見ていたのかを一瞬で理解し、綱吉は風に攫われた髪を片手で押さえて深呼吸を繰り返した。
「じゃあ、行こうか」
「……はい?」
「忘れ物、取りに」
 こんな辺鄙な場所にある渡り廊下まで来たのだから、綱吉が探し求めるのはその先の図書室辺りだと想像を巡らせたのだろう。雲雀が妙な気を利かせて綱吉を促し、逆にそんなつもりは毛頭無かった綱吉は焦りに身を躍らせた。
 今更違います、なんて言えない。けれど態度は言葉にするより先に真実を表明していて、風を切るくらいに頭を左右に振り回した彼に、雲雀は唇をへの字に曲げて不快感を露わにした。
「なに」
「ち、ちがっ。あの、だからその、も……もう、見付かったんです!」
 意味もなく指が空を掻き回し、これ以上退けないというのに綱吉は背中を扉に押し当てて彼との距離を広げようと足掻いた。だがそれが気に入らなかったらしい雲雀に睨まれ、益々詰め寄られた綱吉は完全に裏返った声で叫んだ。
 咄嗟に、嘘だけれど本当の事を。
 虚を衝かれた雲雀が声を失い、綱吉の頭の左脇に手を置く。間近で風とは違う空気が動く気配に綱吉は身を竦ませ、下唇を噛んだ。
「見付かった?」
「は……い」
 探していたもの――探していた人は、見付かった。今日に置き忘れるところだった、雲雀に会いたいという思いは昇華された。
 ただそれを説明する言葉を綱吉は持ち合わせていなくて、涙で潤んだ瞳をどうにか持ち上げ、目の前で壁を作っている雲雀を見上げる。彼は夕焼けの濃い影に輪郭を浮き上がらせ、綱吉をじっと見つめていた。
「探してたんだろう?」
「でも、もう見付かったんです」
 だから綱吉には、この先に進む理由がない。
 至近距離で浴びる彼の吐息に心臓が落ち着きを失って、次第に冷えていく夕方の風も寒いとも感じなかった。ゆっくりと鮮やかさを強める夕日と、迫り来る夜の闇。昔の人が言った逢魔が時が足音を立てて近づいていて、綱吉は赤い顔のまままた俯こうとした。
 けれど雲雀の指がそれを邪魔する。人差し指で顎を下から押し上げられ、無理矢理に上向かされた綱吉はそこで意味ありげに笑っている雲雀を見た。
「ヒバリさん」
「本当に?」
 辛うじて開く唇で名を刻めば、彼はもう一段階綱吉に顔を近づけて問うた。低く、耳の奥に残って甘く響く声で。
 綱吉に落ちる影が濃くなる。壁に置いていたのは最初掌だけだったのが、今や雲雀は肘を折って小手全体を鉄製の扉に押し当てていた。吐く息は肌を掠めて睫毛を擽り、綱吉を日の当たる世界から覆い隠そうとしているようでもある。
 綱吉は呆然と、何を考えているのかまるで読めない相手を見上げる事しか出来なかった。
「ほんと……です」
「なにを」
 辿々しい声で告げる。重ね合わせられた雲雀の問いに、綱吉は息を止めた。
「さがしていたの?」
 顎の下にある彼の人差し指が、薄い皮一枚しかない綱吉の喉を擽る。未だ成長途中の幼い喉仏に触れられる恐怖心に肩を強張らせ、綱吉は視線を泳がせても貰えずに見開いた瞳を彼に向け続けた。
 意地悪く笑んだ口元が、綱吉の鼻先を擽った。
「今日」
 唇が触れるギリギリの距離、綱吉の視界が近すぎる彼の顔に埋まって滲む。
「ひば……」
「十四歳、おめでとう」
 喉から外れた指が今度は綱吉の頬を撫で、雲雀は名を言いかけて半端な状態で停止した綱吉を笑った。
 いったい。
 いつ、から。
 気付いていたのか。
 彼の手が茫然自失とする綱吉の、今度は前髪を梳きあげて隠れがちになっていた大粒の瞳を露わにさせる。今にもこぼれ落ちそうな至極の宝石に瞳を眇めた彼は、綱吉が何も言えずにいるのを利用して広い額に触れるだけのキスを落とした。
 柔らかな熱が触れて、離れていく。忘れていた瞬きを取り戻し、綱吉は今何が起こったのか状況理解が追いつかない頭をそのままに、彼のベストに指を這わせた。
 握りしめる、雲雀はその手を振り払わなかった。
「いつから……」
 震える声はしっかりと音になっていたかも分からない。けれど雲雀には届いていた。
 いつから綱吉の嘘に気付いていたのか。いつから、綱吉が日曜日の学校に足を運んだ理由に気付いていたのか。いつから綱吉の気持ちに気付いていたのか。
 いつから彼は、綱吉を――
 全てが混ざり込んで、けれどひと言でしか問えなかった綱吉に雲雀は淡く微笑む。
 夕焼けを浴びて鮮やかに全身を染め上げた彼が、綱吉の耳朶を愛おしみながら撫でて壁に密着していた綱吉の首裏を捕まえた。親指で襟足を擽られ、綱吉はくすぐったさに産毛を逆立てながら背中を浮かせる。
 雲雀の声が綱吉の喉を撫でた。
「君が」
 気付く前から。
 しっとりとした夜闇にふたりの影が融けていく。
 安心をくれる暖かな熱に、綱吉はそっと、目を閉じた。

2007/10/12 脱稿