宛先不明の道標

 投げたボールが戻ってこない事は、ままあった。
 しょっちゅう、という程ではないが、滅多にない、と表現出来る回数でも無くて。ただ他の連中と比較してみた場合、少し多いかな、というのは自覚していた。
 それが自分自身の性格に起因しているというのも、分かっている。だが、どうしろというのだ。この十七年間、この性格で生き続けてきた自分が、そうそう簡単に自分の根底にあるものを変えられるわけがない。
 だから投げ返されないボールは、無視する事に決めている。うじうじするのは嫌いだし、待たされるのも大嫌いだ。思い通りにならないのなら、さっさと切り捨ててしまった方が良い。
 だから最初、こいつを見た時は正直むかついたし、なんだこいつ、っていうのが第一印象として脳裏に焼き付いている。普段なら一日経たないうちに忘れ去れる人の顔を、翌日になってもその次の日になっても微妙に曖昧な記憶ながら覚えていたのは、我ながらレアなケースとして認めざるを得ない。
 名前まで覚えていたわけじゃない、けれどキーワードならば、いくつか。
 西浦、投手、今のタカヤに投げている奴。ちっさくて、ほそっこくて、軽くて、頼りない。でっかい目、間抜けに開きっぱなしの口。
 どこをどう見ても野球少年って顔じゃなかった。けれど桐青の試合、たまたま知り合いの知り合いに録画していた奴がいて、ツテを頼って見せて貰ったその姿は半端ない程に、野球をしている人間の顔だった。
 なんなんだろう、このギャップは。明らかに球威も無い遅い球、それなのに簡単に三振の山を築いていく。タカヤの力量もあるのだろうが、それ以上に。
 同じマウンドに立つ人間として、興味が湧かなかったと言えば嘘になる。あんな小さく細い体躯のどこに、雨の中条件も悪いグラウンドで九回まで投げ抜く力があったのか。一瞬折れそうになった心を奮い立たせる、あいつの中の何がそうさせているのか。
「榛名、三○五だってさ」
「おー」
 まだ夏大会の予選の最中で、本当は練習に明け暮れたいところだけれど、やっと面倒な授業が終わったから息抜きをしないかと誘われたカラオケ。野球部の先輩が半額割引チケットを何処かから入手してきて、誘われた連中は二つ返事で大急ぎに荷物を抱えて学校を飛び出した。
 あまり夜遅くまでは遊べない、明日も地獄のような練習が早朝から予定されている。夏休みに入れば昼間も練習三昧だから、本当に高校生らしく遊べるのは今日が最後だ。
 無論予選で早々に負けてしまえば、ゆっくり出来る日も多少は増えるかもしれない。けれどそれは是非とも遠慮願いたい未来であり、此処にいる全員が同じ思いだろう。
 だから今日のうちに思いっきり歌って、ストレス発散して、明日からの活力を補うのだ。
 秋丸に部屋番号を教えられ、階段で細長い建物を移動する。丁度俺たちが部屋へ案内される頃に、入れ替わる格好でフロントにやってくる高校生らしき集団が見えた。
 がやがやと騒々しいのは自分たちも変わらない。まだ幼い学生服の一団の中に、微かに記憶に残る薄茶色の髪が見えた気がしたが、今時茶髪なんて珍しいものではなくて、だからあまり気にせずに俺は踊り場から次の段へと足を踏み出した。
 急峻な坂道を演出している階段を上り詰め、言われた部屋へと入る。開け放ったドアから覗く室内は薄暗く、扉すぐ横に置かれた大型テレビには知らない歌手のプロモーションが延々と流されている。中央のテーブルに置かれたメニューに一瞥を加えてからソファの片隅に鞄を置いて、思いっきり尻からクッションに落ちるとスプリングは古いのかあまり弾まなかった。
「はるなー、お前あぶねっ」
 真横にいたチームメイトが笑いながら肩を揺らす。肘が当たる寸前で避けた彼に悪い、と苦笑しながら謝って、改めて部屋の内部を見回した。
 コの字型に配置されたソファに、テレビが一台。ワイヤレスのリモコンが二台で、最後に入ってきた秋丸がドアを閉めると同時に外から響くやかましい三重奏は途絶えた。
 誰も客の居ない部屋のテレビと、廊下のスピーカーと、ひとつ下の階のスピーカーと、それぞれ別々の音楽が流れているものだから、混ざり合って気持ち悪い事この上ない。少し肌寒いかと腕をさすっていたら、気を利かせたマネージャーが空調の設定温度をあげてくれた。
「飲み物決めちゃってくださーい?」
 既に仕切り役を買って出ている秋丸が、インターホンを前に準備万端と構えていて、俺は腕を抱いていた手を下ろしてジンジャーエールとだけ言い返した。他の連中も次々にソフトドリンクを列挙し、覚え切れなかったらしい秋丸が指折り数えて二度も確認してから、注文すべくベージュ色の受話器を手に取った。
 総勢八名だ、この部屋だと少々詰め込み過ぎの気もするが文句も言っていられない。
「悪い、トイレ」
「いってらっしゃ~い」
「漏らすなよ?」
 にっ、と意地悪く笑ったキャプテンのひとことに、室内がどっと笑いに包まれる。負けじと俺も白い歯を見せて笑い返し、ご心配なくと手を振って閉められたばかりのドアを引いた。
 窓なんて無い細く狭い通路の、不案内な標識を頼りに男子トイレを探す。各階にひとつずつしかないトイレは女性を優遇しているのか、三階は赤いマークが扉に飾り付けられていた。思わずちっ、と盛大に舌打ちしてしまい、ドアを蹴りそうになって寸前でやめる。
 仕方がないので左右に視線を動かし、先程登ってきたばかりの階段を見つけて爪先をそちらへと向けた。上へ行くか、下へ戻るかで一瞬迷い、結局気まぐれが働いた四階に向かう事にする。
 音の響かない階段を登り、明るい照明と騒がしい音楽が跋扈する狭い空間へと。此処もトイレが女子専用だったら店は俺に喧嘩を売っている、と勝手な被害妄想を拡大させて若干の苛立ちを隠し、下の階でトイレがあった場所を目指した。
 フロアの構造は大体どの階も同じだ、案の定部屋と部屋の間に挟まれた場所に申し訳程度の小さな個室があって、ほっとしたのもつかの間ドアに表示された小さなマークは先客がある事を教えていた。
 再び舌打ちしてしまい、乱雑に掻きむしった前髪を後ろへと流す。誰だよ男子トイレに用事がある奴は、と自分を棚に上げて愚痴りそうになって、俺は今度こそドアを蹴るべく右足を後ろへ引いた。
 そうして勢いをつけて前へ繰り出した爪先は、しかし寸前で目標を見失って空を泳いだ。
 がちゃっ、とドアが開かれる。内開きのドアの先から身体を半分出した相手は、思いがけず近い場所にいた俺の顔を正面から見上げる形となり、こぼれ落ちる寸前まで大きく目を見開き、一緒に間抜けなくらいにぽかんと口を開いて、ひっ、という喉を擦る息を吐いて、吸い込んだ。
 薄茶色の、脱色しているにしては綺麗な色をしている髪の毛が目の前でゆらゆらと頼りなく揺れる。
「あ……」
 驚いたのはこちらも同じだ。まさかこのタイミングで出てくるとは思っていなくて、吃驚させられると同時に不条理な怒りも湧いて出てきて、しかも相手が、洗った手を拭きもせずにドアノブを握っていると知るとゲージは一気に頂点を突き抜けた。
「てめっ、手くらい拭いて出ろ!」
「ひあぅぁっ!」
 日本語にならない悲鳴をあげ、一瞬で泣き顔を作った相手が、癖なのだろうか、反射的に両手で頭を庇ってその場にしゃがみ込んだ。
 支えを失ったドアが不愉快な音をひとつ立て、廊下とトイレの境界線で座り込んでいるそいつの肩にぶつかって止まる。その微かな衝撃にさえびくりと大袈裟に全身を震わせた相手には、覚えがあった。
 だが、どうしてこいつが此処に?
「おい、んなとこ座ってんなよ」
 いや、それ以前に俺はトイレに用があって此処に来たのだ。こいつに用があったわけじゃない。
 当初の目的を思い出した俺は、一向にその場から動こうとしないそいつの、頭に添えられた左手を握った。
 抵抗らしい抵抗もせず、ただ肌が触れあった瞬間だけ強張った表情を上向けたそいつの、既に溢れ出す寸前の涙に面食らう。たいした力も加えていないのに簡単に持ち上がる軽さは、あの時となんら変わりない。いや、むしろあの時よりも少し軽くなっている?
 そういえば前もトイレだった。変な縁があるなと首を捻ると同時に手を放してやれば、ほっと息を吐いたそいつは人が握ったばかりの手を右手で撫で、着ているシャツに押しつけた。
「あ、の……えと」
「とりあえず、どけ。そこ」
 通行の邪魔だ、と足下を指さして言った俺に、初めて自分が道を塞いでいるのだと気付いたらしい奴は明らかに挙動不審な動きで左右に身体を振り回し、挙げ句俺から向かって右の壁に額からぶつかっていった。
 いい音がした、気のせいか奴のデコから煙が出ている。
「うぁぅ……」
 折角人が起こしてやったのにまた床の上で蹲って、ぶつけたばかりの場所を大事に両手で庇う。笑いたいがそろそろ我慢しているものが限界に近くて、俺はさっきよりも片側に位置を変えた奴の背中を大股に追い越し、薄汚れたタイル張りのトイレに足を踏み込んだ。
 濡れたドアノブは出来れば掴みたくなかったが、まさか扉を全開のまま用を足すわけにもいかない。ドアがちゃんと閉まるのは確認して、俺は鍵を閉めた。
 小用はすぐに終わる。けれど乾燥機も使って洗った手を乾かして、少なくとも一分は時間があった筈だ。その間に奴もいい加減立ち直り、仲間の元へ戻っているに違いない。まさかひとりでカラオケに来るような奴じゃないだろうという勝手な想像のもと、気分も多少すっきりさせて鍵を外し、ドアを開ける。
 ところが奴は、それなりにお気楽な性格をしている俺の思考の斜め上を行っていた。
「あ、は……は、るな、さっ」
 やたらと人の名前を切り刻む奴が、壁に背中を預け、膝を抱えた状態で座り込んでいたのだ。
 トイレの前で。
「ちょっ」
 これには俺も驚く。信じられないと目を瞬かせ、ちょっとだけトイレに舞い戻りたくなった。
「お前……なに、やってんだ」
「うぁ、う……はる、な……さん」
 しかし後ろに出口はない。寸前で踏ん張った俺は、やや震えた声で奴に一歩近づき腰を屈めて膝も一緒に軽く曲げ姿勢を低くした。伸ばした人差し指で小突くまではいかないが猫っ毛の髪の先を擽ってやると、さっきまでよりもずっと大きく見開いた瞳に涙をいっぱいに浮かべ、奴は頻りに上唇と下唇を噛み締めながら嗚咽を零す。
 吐き出される音は声にすらならず、当然言葉にもならない。「あ」とか「う」とか言うばかりで会話にならなくて、俺は心底扱いに困った奴の前で力無く肩を落とした。
 何をどうしたいのかがさっぱり分からない。というか、こいつはいったいいつまで人の進路を塞いでいるつもりなのか。
「あう、お、おれ……み、な」
「ん?」
「かっ……カラオ、っは、はじっ……来、って」
「ん~?」
 視線が泳いだままで、どうにか立ち上がったもののさっきから一秒たりともこいつはジッとしていない。
 見ているだけで段々苛々が募ってきて、だからお前は何が言いたいのかと怒鳴りたくなる。だがそれでは余計にこいつが泣き出しそうで、そもそも高校生なのだから十五には確実になっているだろうに、いい歳をした男がべそべそ泣いているんじゃない、とそっちでも怒りたくなってくる。
 胸の前で握った手をおろおろさせ、爪先で飛び跳ねる姿は何かの小動物めいている。ならば俺は肉食獣か何かか、と相手のペースに飲まれて変な事を考えている自分に気付き、俺は盛大に息を吐いた。
 額に押し当てた手をそのまま後ろへ流し、右目の視界を邪魔する髪の毛を追い払う。その間も相手は下唇を噛み締めてうっ、うっ、と喉を痙攣させたみたいな音を響かせており、縋る視線を俺に浴びせ続けていた。
 此処に来ているという事は、カラオケで歌うのが目的だろう。日時が重なったのは、あちらも終業式と部活を終えて、その帰り道という事か。
 しかしそれだけでは、いつまでもトイレの前に居続ける理由にはならない。また催したのかと思ったが、どうも雰囲気的に違う。
 下ろした手を腰に当て、再び腰を曲げて顔を近づける。迫った分だけ離れようとする奴を正面から睨み付けてやると、すっかり怯えた様子でこいつは視線を横に逸らしていった。
「み、んな……部屋、聞っ……」
「はあ?」
「俺、だ……け先、トイレ」
 切れ切れの単語ばかりだが、なんとなく分かってきた。要するにこいつは、みんなとカラオケに来たのは良いものの、受付をしている間にひとり先にトイレに行ったら、その一緒に来た連中に置いて行かれたのだ。
 そしてどの部屋に皆がいるのかが分からなくて、動けない。
「バカかお前」
 そんなもの、ドアの隙間から中を覗き込むなりして確かめれば良いものを。あきれかえった俺の言葉に、しかし奴はまた派手に怯えて涙の粒を新しくした。
 どうやら、それは既に実行済みらしい。そして見事に違う連中の部屋を引き当ててしまい、中に居た連中に睨まれでもしたのだろう。
「携帯は?」
「かばっ、ん……に。栄口くん、が」
 トイレに行くのに邪魔だから、チームメイトに託した鞄の中に入れたままだったという事か。しかも仲間も、探しに来ないところからしてトイレから戻ってくるのを単純に待っているのか、それとも本気で置き去りにしたのか。
 タカヤの携帯番号は知っているが、今日一緒に来ているかどうかも分からない。目の前のこいつに確認すれば良いだけの話だが、こいつの為にわざわざタカヤを呼ぶのも癪に障る。それに俺だって、携帯電話はカラオケルームに置いた鞄の中だ。
「あー、もう。めんどくせっ」
 ごちゃごちゃ考えるのは昔から苦手なのだ、だからそれでよく喧嘩もしたし、トラブルも起こした。こらえ性がないという評価は外れていないと自分でも思う、だからといって辛抱強い俺は俺じゃない。
 いつまでもこいつに構っていたら、自分の貴重な時間がどんどん無駄になってしまう。俺は部屋に戻りたい、カラオケを歌いに来たのだから一曲も歌わずに帰るなんて御免被る。しかしこいつは、俺が立ち去っても結局、この場所に居続けるのだろう。それはそれで、他の客にとっても迷惑に違いなく。
 大体こいつ、この前桐青に投げ勝った投手だろう。あのマウンドでの堂々とした居直りっぷりは何処へ消えたのか、影も形も見当たらない。
 乱暴に後頭部を掻きむしっていたら、大粒の涙目で見上げられて、視線が重なり合いそうになった瞬間サッと顔を逸らされる。話をする時は相手の顔を見てするのだと、小さい頃に教わらなかったのだろうか。
「お前」
 面倒な事は嫌いだ、面倒ごとに巻き込まれるのも嫌いだ。
 だが周囲が面倒ごとに巻き込まれて大騒ぎしているのを見るのは、結構好きだ。
 意地悪い考えが浮かんで、俺は思わず口角を持ち上げて笑う。なにやら不穏な空気を感じたからか、奴はびくっ、と全身を痙攣させて腰を引き、逃げ場がないと分かっていながら俺との距離を広げようと藻掻いた。
 土色に汚れたスニーカーが、薄汚れた床を擦る不愉快な音が微かに。
 西浦、タカヤの進学した高校。そのタカヤに投げる投手。
 まるで興味がないと言えば嘘になる。だから面白いと思った、こんな偶然はきっと二度と無いだろうから。
「こいよ」
 ほら、と広げた手を差し出してやる。
 怯えきった子ウサギは、赤く泣き腫らした大きな目で、詐欺師っぽいとまで言われた俺の笑顔を不思議そうに見返した。

「榛名、おっそーい」
「お先歌ってるぜー」
「って、誰?」
 ひとつ階段を下って三○五号室のドアを開けた俺を待ちかまえていたのは、既にソフトドリンクで酔っぱらっているチームメイトの大合唱だった。
 備え付けのタンバリンを叩く高音、大音響でスピーカーから鳴り響く音楽、だみ声の熱唱。マイクを握って力一杯腹から声を振り絞って高音域を歌っている先輩に一瞥を加え、俺は場所を空けてくれるように手を横に振って入り口近くに居た秋丸に合図を送った。
 想像していた、トイレに行った割に戻りが遅かった俺への下品なツッコミは一切無かった。代わりに膝で分厚い曲目リストを広げていた面々の注目は、俺を壁にして後ろに隠れている小さな存在に向けられた。
 一斉に十を超える瞳に見つめられたからだろう、ひっ、と喉を上擦らせたこいつは人の背中にしがみついて背骨に額を押し当て、若干汗くさい俺のシャツに鼻筋を埋めた。触れてくる手は震えていて、対人恐怖症かなにかかと勘ぐってしまいそうになる。
 そのくせマウンドの上では一人前に振る舞っていたのだから、人間というものは分からない。
 俺は左手を後ろに回し、顔をあげられないでいるこいつの猫っ毛を撫でてから、それこそ本物の猫を捕まえる時みたいに首根っこを掴んで前に引きずり出す。
「うぁう、あ、お……お、お」
「誰? その子」
 マネージャーが身を乗り出し、眼鏡を指で摘んだ秋丸もまた無理矢理俺の横に並ばせられたこいつに顔を近づけ、しげしげと観察を開始した。俺は踵で開けっ放しだったドアを閉め、まだひとり歌に熱中している先輩の集中力のすごさに辟易しながら、秋丸が引っ込めた足の分だけ空いた空間を歩き出した。
 まだ入り口で右往左往しているそいつにも、こっちへ来るよう手招く。奴の動きに合わせて秋丸の首が左から右へと動いていくのが面白い。そういえば秋丸も、こいつとは初対面ではなかった。
「榛名、その子って確か」
「おう、桐青に勝った投手」
「ひぅぁ!」
「えー? じゃあ、えっと……何処だっけ」
 桐青が負けたというニュースは早々に部内に駆け巡ったが、桐青に勝った新設野球部の名前までは知名度の低さも相まってしっかり伝わりきっていなかった。口元に指を押し当てて考え込む奴を肘で小突き、俺は出来上がったスペースに腰を落とす。 
 隣に居た奴が気を利かせて更に幅を寄せてくれたので、なんとかこいつの――名前は、なんだっただろう、ともかくタカヤの投手も座るだけのスペースは確保された。
 トイレの前でこいつと遭遇して、仲間が入った部屋番号が分からないと泣かれて、俺が取った行動。つまり、こいつの仲間を捜すのではなく。
「でも、そのピッチャーがなんで?」
「落ちてたから拾ってきた」
「なんだよそれー」
「君、三橋君……だよね?」
「はっ……ひ!」
 笑いながら俺にジンジャーエールのグラスを手渡してくれた奴と喋っている間に、秋丸が身を寄せて俺の横に控えめに座った奴を呼んだ。
 三橋……ミハシ。そういえばそんな名前だったように思う。
 ドッキーン、という擬音が目に見えそうな反応をしたミハシに、秋丸はやっぱりと持ち上げた眼鏡を直して笑う。
「榛名に無理矢理連れて来られたとかじゃ、ないよね?」
「失礼な奴だな」
 さらりと人を極悪人みたいに言った秋丸に、汗を掻いたグラスごと腕を振り向ける。雫が散ってミハシの鼻の頭に落ちたようで、唇を尖らせた俺と秋丸の間でミハシは両手を使って勢い良く顔を擦った。
 それでは顔が赤く腫れて痛いだろうに、我を見失っているのか全く止める気配がない。あまりの挙動不審な動きに歌っている奴以外の注目がまたミハシに集まって、ひょっとして連れてきたのは失敗だったろうかと一抹の不安に駆られた。
「おい、お前。なにやってんだよ」
 グラスをテーブルに置き、濡れた手で奴の手首を強引に顔から引きはがす。下から現れた顔は、擦りすぎたから真っ赤だった。
「ち……ち、が……はる、なさっ……わ、わるく……な、なっ、な……!」
 自分でついてきたかったから、一緒に来たのだと懸命に、しどろもどろに伝えようとしている。いつの間にか次の曲のイントロが始まって、歌い終えた奴が汗を拭っているというのに俺たちは暫く惚けたみたいに動けなくて、それまでミハシの存在など眼中に無かったキャプテンひとりが変な顔をしていた。
「おーい、始まってんぞ」
 次は誰だ、と既に一番の歌詞が色つきで流れ出している画面を指さし、メンバーがひとり増えているのにも構わず暢気に言い放つ。それに我に返った別の奴が、大急ぎでテーブルに転がっていたマイクを拾った。
 膝に載せっぱなしだった曲リストが音を立てて床に崩れ落ちる。出だしに失敗した歌に戸惑いながら、必死にリズムを頭の中に刻んで歌い出した声に俺は息を吐き、まだ俺を庇おうとするミハシの頭を撫でた。
 柔らかな髪の毛が指の股を擽って、面白い。
「ぉ、う……お、俺」
「けど、まさかひとりでカラオケ来たわけじゃないだろう?」
「あー、なんかはぐれたって」
「はあ?」
 素っ頓狂な声で目を丸くした秋丸にまたびびったミハシは、少しだけ俺の方へと場所を移動させて肩をぶつけてきた。
 普段は人の良い秋丸の方が目つきも悪い俺よりも年下にも懐かれるというのに、この差はなんだろうか。いつもと逆の状態に少しだけ気が良くなる。
「だから、一緒に来た連中の部屋が分かんないらしくってさ」
 バカだろう、こいつ。そう言ってミハシを指さして笑う俺に、秋丸はじっとミハシの顔を見てから額に手を当て、あからさまに脱力感を表現した溜息を吐き出した。
「それでなんで、探してやらないんだよ」
「めんどくせーじゃん」
 大体俺は、此処に歌を歌いたくて来たのだ。ミハシの部活仲間を捜してやるために来たわけではない。
 何も間違った事は言っていないと主張する俺に、秋丸は更なる溜息を零して首を振る。間に挟まれているミハシは、自分が喧嘩の原因と分かっているのだろう、おろおろと俺と秋丸の顔を交互に見ながらまた泣き出す寸前まで顔を歪めていた。
「別にさー、いいじゃん。そんな細かい事気にし無くってもさ」
 助け船を出したのはマネージャーで、にこやかな笑顔と共に彼女は俺たちにリストを二冊重ねて手渡した。
 受け取ったのは良いが、予想外の重さに肘が垂直に落下する。そのまま身体が前に倒れて行きそうになり、慌てて腹筋に力を込めたら背中に何かが当たった。
 姿勢を戻しつつ振り向くと、左横に座っているミハシがやたら不安そうな顔で俺を見ているのに気付く。体勢を崩しかけた俺を支えようとしたのか、半端に広げた手が宙を泳いで引っ込んで行った。
「……ほら」
 なんだか色々と調子を狂わせる男だ。
 ちゃんと支えてくれたわけではないので礼を言うことも出来ず、俺はやや気まずい空気を感じながらマネージャーから回ってきた厚さ三センチは優に超える曲リストを渡してやる。
 ミハシはまた挙動不審に視線をあちこちに飛ばした後、俺が腕を引っ込めずに苛々しているのを悟って、たっぷり三十秒後にやっとそれを受け取った。揃えた膝に下ろし、使い込まれて角が破れたビニールに包まれた表紙を怖々と捲る。
 だがミハシの手は其処で止まって、以後動かない。まるで凍り付いたみたいに全身硬直させて、瞬きの回数さえ減らしているミハシを横から眺めていたら、急に視界に黒い物体が割り込んできた。
「うあっ」
「リモコン。入れろよ、榛名も」
 一曲歌い終えた奴に言われ、俺は不意を衝かれた驚きを隠しながら頷いてリモコンを受け取る。画面下にあるカラオケ本体の表示を見れば、残り予約曲数は三曲ばかりで、盗み見た腕時計は最初に部屋に入ってから二十分近く経過している事を教えてくれた。
 二時間のつもりで来ているから、思いっきりタイムロスだ。俺は逸る気持ちを押し止めつつ、十八番にしているバンドの曲を探そうとページを捲っていく。
 だが隣で全く動かないミハシが気になって仕方が無く、どうしたのかと肩を揺らして肘をぶつけると、ミハシはこれまた大仰に反応し、菱形に口を開いた変な顔で俺を見上げた。
「……んだよ」
「お、お……かっ、カラオ、ケ……は、はじ、はじ……っ」
「はあ?」
 単語ぶつ切りトークに俺ばかりでなく、居合わせている面々も揃って眉を顰める。只でさえ大音響で音楽が流れている中、上擦ったミハシの声は全部を聞き取るのが困難であり、理解は難解を示した。
 よくこんな奴を相手に、あのタカヤがキレる事無くつきあえるな、と思わず感心する。
「……あー、分かった。この子、カラオケに来るのが初めてだから、どうしたらいいのか分からないんだ」
 そこへ、ミハシの台詞を何度も口の中で繰り返し呟いていたマネージャーが、唐突に両手を叩いて嬉しそうに甲高い声をあげる。ミハシも沈めていた顔を持ち上げ、ほんの少し表情を明るくして頷いた。
 俺を含む男子連中は、微妙に取り残され気味だ。
 マネージャーもミハシも、俺たちが生きているのとは別次元の生き物ではないのかとさえ思う。試しに秋丸に、分かったか? と目線で問いかけてみたが、奴も眼鏡を押し上げながら引きつった顔で首を振った。横へ。
「お、お……おお!」
「やった、正解? そうじゃないかと思ったんだー」
 握り拳を上下に振るミハシと、楽しげに声を立てて笑うマネージャーの声が、熱唱中の先輩の声を置き去りにして室内に響き渡る。女三人姦しいとは聞くが、男と女ひとりずつでも十分やかましい。
 いや、それよりも。
 俺が見つけて、俺が連れてきたのに、俺を放ってあそこのふたりで盛り上がっているのが、妙にむかついた。
 腰を浮かせ、俺の足を超えてマネージャーの側へ身を乗り出すミハシの首根っこを思わず掴んで、無理矢理ソファへと座らせる。借りてきた猫みたいに大人しくなったミハシは、俺が若干不機嫌なのを悟ってか両膝に両手を揃えて畏まり、ちらちらと窺う視線を投げては逸らし、投げては外す繰り返しだ。
 まっすぐに伸びた肘が小刻みに震えているのを視界の端に見て、俺はページを捲る手を止める。無造作に右を上にして脚を組んで本に角度をつけ、無駄に曲目が登録されている歌手の名前を指でなぞった。
 秋丸にリモコンごとリストを譲ったミハシが、俺の横顔をジッと見ているのを感じる。
「お前、歌は?」
「ふへ?」
「好きな歌手とか、いねーのかよ」
「お、おお、お、俺?」
「他に誰がいるんだよ」
 既に目的の曲を選んでリモコンを押した秋丸の姿がミハシの後ろに見えて、つい舌打ちしてしまう。こうしている間にも順番待ちの曲は増えていって、いつまで経ってもマイクを握れない。
 しかしミハシを置いてひとり曲を選ぶ気にもなれないでいる自分を意識して、苛々が止まらない。
 乱雑に髪の毛を掻きむしった俺に、ミハシは肩を窄めて握った拳を交互に見下ろす。そのはっきりしない態度が苛つくのだと、本当は怒鳴りつけてやりたいところだが、マネージャーの視線があるので懸命に我慢した俺は正直、偉いと思う。
 いつもは積極的にこのバンドの歌を選ぶのに、調子が乗らなくて俺は指を素通りさせた。数頁分をまとめて捲り、聞いたこともない歌手の名前を順繰りに、見るともなしに眺めていく。
 横から紙面を覗き込むミハシの癖毛が視界をちらちらと、薄暗い照明の下でも明るく輝いて揺れていた。
「……あ」
 そうして更にページを進めていった時だ。急にミハシが身を引いて肩をぴくりと反応させた。漏れた声は思わずといった調子をそのまま表していて、俺は次のページを呼び込もうとしていた指を半端に止めた。
 指先を滑った紙が音もなく空気を押し出す。
「なに?」
「う、あ……あう、な、なんでも」
 確かにこいつは今反応したのに、俺が尋ねると途端に挙動不審に陥って首を横へ振る。だけれど明らかに動揺が見える態度に、俺は口をへの字に曲げてミハシから膝元の紙面に視線を移した。
 ミハシが見ていたページ。知っている歌手と、そうでない名前が半々の。
 その左端、ミハシに近い位置。最近売り出し中、人気上昇中のバンドの名前があった。試しにそこに指を置くと、横目で見ていたミハシがびくっ、と分かりやすい反応を示す。だから俺は思わず、声もなく笑ってしまった。
「で、どれ?」
「ふぇ……?」
「だーから。どれなら歌えるのかって聞いてんだよ」
 紙面から浮かせた指でミハシの顎を小突き、選べ、と広げたリストを押し出す。前屈みに俺の前で頭を下げたミハシの色素が薄い髪の毛が綿帽子みたいにふわふわと揺れて、触った時の柔らかさが急に思い出された。
 今触ったら、また泣くだろうか。必死の様子で斜めになっている曲名に目を走らせているミハシを見下ろし、ぼんやりと考える。
「榛名、リモコン」
「サンキュ」
 思考を中断させる秋丸の声に、ハッと我に返って一瞬遅れで差し出されたものを受け取る。ミハシにぶつけないように注意しながら色々ごちゃごちゃ機能がついているボタンを避けて数字の並ぶ場所に左手人差し指を置き、顔を上げたミハシの指の下にある文字を素早く読み取った。
 知らない……いや、知っているが歌った事はない曲だ。ドラマか何かの主題歌だったように思う、コンビニで流れているのを何度か耳にした記憶もある。
「これ?」
 確認すると、ミハシは赤く上気した顔でカクカク首を縦に振り回す。若干焦点の合わない目が気持ち悪いが、動き方が独特なので見ている分には面白い。実際さっきから歌っている奴以外、みんなして俺とミハシのやりとりに注目している。
「っと、お前リモコンの使い方も知らねーとか?」
「うっ」
 指し示された曲の数字をリモコンに打ち込もうとして、はたと気付いた俺が聞く。瞬間、図星だったらしいミハシが急激に顔色を悪くして明後日の方角に視線を投げた。堪えきれなかったらしいメンバーの笑い声があちこちから低く響いて、必死にモニターに映る歌詞を追いかけている奴がなんだか滑稽だった。
 カラオケに来た筈なのに、これではミハシのワンマンショーだ。
 実践してやるから見て覚えろと告げ、ミハシに見えるように手を低い位置に置いてリモコンを操る。曲名の隣にある番号を打ち込んで送信ボタンを押すだけなのだが、そんな簡単な事にさえミハシは逐一吃驚して、大仰に頷いては感心した様子で俺の手元を眺めていた。
 どこの小学生だよと笑いたい気持ちをおさえ、ミハシの選んだ曲を予約してから漸く俺も、自分の歌いたい曲を選び出す。テーブルにリモコンを戻して機嫌良く紙を捲っていく俺に、ミハシは居心地が良いのか悪いのか、肩幅に広げた膝の間に両手を置いてずっと俺の顔ばかり見ていた。
「ミハシ、これ知ってるか?」
 丁度広げたページに現れたロック歌手の名前を爪で削る。大音響に頭がパンク寸前なのか、ぐらぐらと頭を揺らしていたミハシが途端に息を吹き返し、目を激しく瞬かせて俺の手元を覗きこんだ。
「三橋君って、なんか、子犬みたい」
 率直なマネージャーの感想に顔をあげた当人は不思議そうな顔をして、それが余計に面白い。聞いていた両側を埋める仲間が一斉に腹を抱えて笑い出す、冗談抜きでちょっとこいつが、うちの高校にきていれば良かったのにとさえ思った。
 実際、四六時中一緒に居たら苛ついて蹴り飛ばしてしまいそうだけれど。
 俺も自分が歌いたい曲を見つけて、予約を入れて、けれど順番まで当分ありそうで。回ってきたタンバリンをそのままミハシにスルーしたら、玩具を与えられた子供みたいに嬉しそうな顔をする。右手に持ってかしゃかしゃと振り回し、音が鳴るのを喜ぶ様は小学生を通り越して幼稚園児だ。
 たった一歳しか違わない筈なのに、なんて幼い。
「次、誰~?」
 歌い終えた奴がマイクを振り回して叫ぶ。気がつけば結構な時間が過ぎていて、いつの間にかもうミハシが入れた(実際には俺が入れてやった)曲のタイトルがモニターにでかでかと出現していた。
 注文して届いていたフライドポテトを分けて貰い、ハムスターみたいに口いっぱいに頬張っていたミハシの脇を肘で小突く。何のことだか分からない様子のこいつは、口の中がまだ食い物だらけなので喋るに喋れず、両手で顔の下半分を押さえて懸命に咀嚼を繰り返した。
 その間にスピーカーからイントロ部分が流れだし、回ってきたマイクがミハシの手に渡される。問答無用で握らされたそれを前にして、けれどミハシは、どうすればいいのか分からない顔で俺とマイクとモニター、そして部屋中をぐるりと見回した。
 シンと静まり返った中に、軽妙なドラムの音だけが響いている。
「う、あ……ぁ、え……お、ぉ……」
「三橋君?」
 様子がおかしいのは、この場に居合わせた全員が感じていた。
 今にも泣き出しそうな顔、不安で青ざめた肌色にマイクを握る手は小刻みに震えている。ギター、ベースがドラムに重なってリズムを刻み、モニターには白から青へ移り変わる日本語が流れ出すのにミハシはマイクを握りしめたまま直立不動で其処に立ち尽くした。
 部屋中の視線を一斉に浴びて、余計に緊張でがちがちになっている。マウンドの上では数百、或いは数千の視線を浴び続けるのに、どうしてこいつは。
 背番号1を背負った背中が、雨の中孤独に佇む画が思い浮かんだ。俺は、あんな風に投げられない。
「――くっ」
「榛名?」
「マイク!」
 座り心地の悪いソファから勢い良く立ち上がった俺は、ふたつあるマイクのもうひとつに腕を伸ばした。テーブルを占領する白い皿を押し退け、紙布巾の下に埋もれていたそれを引っ張り出してスイッチを入れる。
 確かめるべく丸まった先端を殴ったら、もの凄い音がしてキーンと甲高いハウリングが室内に襲いかかった。
 反射的に両耳を押さえたチームメイトを無視し、惚けているミハシの横に並んで、俺は腹一杯に息を吸い込んだ。
 歌詞は丁度前半のさび部分、最初の盛り上がりを見せるシャウトにさしかかろうとしていた。俺は歌詞に素早く目を走らせ、記憶の中にある歌声とタイミングを合わせて、そして。
 ミハシの手を掴み、一緒にして頭上に腕を掲げあげて叫んだ。
「――――!」
 目を丸くしたミハシが半身を引っ張り上げられ、右足を浮かせる。泳いだ爪先が俺の靴を踏んだが構わずに俺は、続く歌詞を素早く拾い上げた。若干のリズムやテンポの狂いは気にしない、ただ思いのままに腹の底から声を張り上げ、歌うだけ。
 俺を見上げたミハシが瞬きして、左手で握ったマイクに俺から解放された右手を添える。モニターを、そして俺の顔をじっと見た奴は調子よく歌い続ける俺のウィンクに、へらっ、と締まりのない……けれど心の底からだと分かる笑みを浮かべた。
 一緒に、と。
 やがてぼそぼそと、そのうちに少しずつ大きくミハシの声がマイクに拾われ、雑音めいた伴奏の中に響き始める。殆ど俺の声がメインだったけれど、時折ハモりあう俺たちの声に、いつしか手拍子が合わさり、邪魔しない程度のタンバリンが秋丸からも奏でられて。
 俺たちは笑いながら、顔を見合わせて最後まで歌いきったのだった。

多分続く。

2007/9/16 脱稿