眉睫

「げ」
 唐突に耳に入って来た音――声に、柿本千種は眼鏡の奥に潜む瞳を眇め、小さく息を吐いた。
 視線は上げないが、気配は伝わってくる。恐らく、いや、先ず間違いなく相手は自分が今あげてしまった声にしまったと口を閉じ、その上で手で覆い隠して表情を隠そうと試みているに違いない。周囲に居る客に不審な目を向けられて、若干挙動不審に身を小さくさせて。
 千種はもうひとつ溜息めいた吐息を零し、両手で広げていた本を顔の前で閉じた。そして本棚の、数センチばかり隙間が出来ている空間にそれを押し込んでいく。
 本当はその隣に並べられている本にも目を通したかったのだが、状況的に不可能だろう。少しだけ歪に本を元あった場所に並べた彼は、癖で眼鏡のブリッジを押し上げながら声がした方向にやっと視線を向けた。
 案の定其処には、甘茶色の髪を空に向けて爆発させた少年が、少し引き攣った笑みを浮かべて左足を若干後ろへ引き気味にし、いつでも逃げられる姿勢を作って立っていた。
 身構えるくらいならさっさと逃げ出せばいいものを。左腕を下ろした千種は、僅かに名残惜しげに理路整然と売り物を並べている本棚に視線を流してから彼へ本格的に向き直った。瞬間、びくりと彼の肩が大きく揺れる。
 並盛とも、黒曜とも違う、その両方から程よく近くて商業施設が比較的近距離に集中している地域。電車でふたつ、みっつ先に当たる町の、それなりに大きなフロアを持つ本屋の二階で果たして、自分たちが偶然出会う確率はどれくらいなのか。
 真面目に計算したら天文学的数字になるだろうな、と千種はぼんやり考える。天井から適度に注がれる弱い光を反射した眼鏡が彼を捕らえ、捕まった彼は恐々ながら足を揃えてその場で居住まいを正した。
「……ひ、久しぶり」
 実際は前に会ってからそれ程時間は経過していないが、定型句の挨拶をぎこちなく繰り出した彼に、千種はつまらないなとばかりに肩を竦めて同じ台詞をそのまま彼に投げ返した。足元に置いていた荷物の持ち手を手繰り寄せ、持ち上げる。表面が押し潰されて皺だらけになっていた袋の表面が伸ばされ、購入した店のロゴが大きく前面に押し出された。
 それを素早く読み取った彼が、驚いた風に目を瞬かせて開けた口を慌てて閉じる。
「……なに」
「へ? あ、いや、そういう店にも行くんだな、と」
 変な顔をされる謂れは無くて、千種は少々ムッとした表情を作り彼を見下ろした。その気配の変化を鋭敏に感じ取ったのだろう、彼は口を押さえていた手を外すとそのまま胸の前で両方ともを左右に振り、違うちがう、と弁解を口にした。
 但し内容は、言い訳にしてはお粗末というべきか、普段彼が千種をどう思っているのかが汲み取れる台詞で、千種は今度こそ肉の薄い唇を不機嫌に歪めた。
 持っている袋は、この地域にも最近進出してきた某アパレルメーカーのロゴの入った布袋だ。若者向けに特化したブランドを数年前に立ち上げたばかりで、それが特に都心部の青年に人気が高くファッション雑誌にも度々登場する有名どころだ。綱吉も興味はあるものの、自分には似合いそうに無いシンプルかつ洗練されたデザインが中心の為に敷居が高く感じて、店の前では歩調を緩めるもののいつだって素通りだった。
 背の高い山本に着せたらきっと似合うだろうが、彼はスポーツマンらしく動き易さに特化した服を好むから、頼んでもきっと着てくれないに違いない。
 そんな店のロゴが見えたものだから綱吉は驚いてしまっただけで、別段千種を悪く思っているわけではない。ただ矢張り、ほんの少しではあるけれど、彼らには廃墟のイメージが付きまとうものだから、こういう都心的なファッションに精通しているというのは意外な気がする。
 思ったことが正直に顔に出てしまった綱吉を見詰め、千種はそんなに変だろうかと気になったから偶然入ってみた店を思い出しつつ肩を竦めた。
「今日は、買い物?」
「そう」
「俺も、うん。秋物とか、買いに」
「ふぅん」
 綱吉のことなど興味ないと言いたげな千種の相槌に、綱吉は次に続ける言葉を見失って泳がせた手を胸の前で軽く握った。浮かせた踵で硬い床を踏み、視線を横へ流してこの後どうするか懸命に考える。
 本屋へは、参考書を探しに来た。それは此処のフロア奥にあるのだが、正直あんな根暗な場所に足を向けたくないのが綱吉の本音。それでも行かぬわけにはいかず、憂鬱な気持ちのまま向かう途中に見覚えある帽子が本棚からはみ出ているのに気づき、興味本位で確かめてみたのが、ついさっき。
 まさか本当に本人だとは思っていなくて、油断していた。
 頭上半分をすっぽりと覆い隠すややくすんだ白色の帽子、顎近くまでを覆うタートルネックカットソーは対照的な黒。洗いざらしのジーンズは無論新品ではなく、年代を感じさせる色合いを醸し出しているスリムタイプで、カットソーと相俟って元から細身の彼を余計に細く、そして実際以上に背丈があるように見せていた。
 眼鏡も細身の黒フレームに僅かにブルーを乗せたものをかけて、靴はごつめのベルトが際立つローカットブーツ。アクセサリーはそれこそ帽子と眼鏡以外に目立つものはないが、シンプルにまとめているが故にとても中学生に思えない風貌だった。
 対する綱吉はといえば、大きめのスニーカーにやや皺が寄ったベージュのコットンパンツ、オフホワイトのカットソーの上に長袖のボーダーシャツを羽織ったかなりラフな出で立ち。街に出るからと本人的には気合を入れたつもりでも、歳相応のセンスが見え隠れする格好だ。ズボンのポケットには無造作に財布が詰め込まれ、そこだけが異様に大きく膨らんでいる。
 視線を手元に落とし、真横へずらしていく綱吉がさっきからずっと黙り込んでいるので、千種もいつまで経っても動けない。
 時間は有限で、やらねばならないことは無尽蔵。道を譲るなりなんなりしてくれればいいのに、綱吉は本棚の隙間にある人ひとりがやっと通れる程度しか幅がない通路の真ん中を塞いでいて、千種は右手に持った袋を揺らし反対側に回り込むか、と首をそちらへずらした。
 その彼が動く仕草に、綱吉が反射的に顔を上げる。立ち去ろうとしている彼に一歩踏み出して、音を発しなかった唇はけれど「待って」と声を紡いだようだ。
 伸ばされた手が千種の握る袋の縁を掠め、彼の動きを阻害する。明らかに迷惑そうな表情を生み出した千種に、綱吉は瞬間的に肩を強張らせて腕を引き、脇を締めて指も硬直させた。
「えぁ、ご、ごめん……」
 気まずい空気がふたりの間に降り立って、角を曲がって顔を覗かせた人がぎょっという顔を作り道を避けていく。千種のみならず他の客にまで迷惑をかけていると思い出した綱吉は、此処が本屋だと思い出して俯き加減に下唇を噛んだ。
 彼が何をしたいのかわからず、千種は大仰に溜息を吐いて袋の柄を握り直す。
「なに」
「いや、その、だから……」
 折角会ったのだし、お茶でも、というのはこの場合変だろうか。それに綱吉自身、参考書及び服を買う目的で此処にきているわけで、それ以外の道楽に使う金銭的余裕は無い。
 二の句が継げない綱吉に、千種は再び向き直って自由の利く左手を持ち上げた。
 俯いている彼の頬に中指の背を押し当て、軽く擦る。力を加えたわけでもないのに、綱吉は自然と視線を上向かせて窓を背にしている千種の顔を見返した。
「……えと、その」
「行く?」
「へ?」
「買い物」
 まだ時間はあるから、とひとつだけの袋を揺らした彼の言葉に、綱吉は直後沈んでいく一方だった表情を急に逆転させ、花開かせた。
 ぱあっと彼の周りまで明るくなった気がして、千種は面食らいつつ自分の今の行動に、自分自身も戸惑いを抱いた。けれど一度言ったことを撤回するわけにもいかず、嬉しそうにしている綱吉から指を引いた彼は、顎をしゃくって本屋での用事は良いのかと彼に逆に問いかけた。
「いいの、いいの!」
 参考書なんてずらっと並んでいる背表紙を見るだけで頭痛がしてくる、とまで豪語して、綱吉は千種の背中を無理矢理両手で押し出し、広めの通路まで彼を促した。そのまま自分が先に立ち、一階へ続くエスカレーターへ一直線に進んでいく。
 次代ボンゴレ後継者が勉強を不得手にしているのは、情報として与えられている。選択の際に重要視されたのはその人格と精神面であり、知力・体力の部分は今後の教育次第でなんとでもなるというのが、ボンゴレ中枢部の出した結論でもあったのだが。先行きは激しく不透明かつ不明瞭で、さぞかしあの黄色いおしゃぶりを持った家庭教師も手を焼いているだろう、と千種は少なからず本来は敵たる存在に同情めいた感情を抱いた。
 そうとは知らぬ綱吉はそそくさと、まるで本屋自体から逃げるように店を飛び出す。それまで冷房が効いて過ごしやすい環境だったのが、自動ドアを抜けた瞬間に眩しい陽射しと陽光に温められた空気が彼らに襲い掛かり、噎せ返る湿度と薄汚れた空気に千種は眼鏡の顔を強く顰めさせた。
 綱吉も油断していた最中に浴びた直射日光に目が眩んだらしく、陽射しを手で遮って肩を上下に動かしている。
「まぶっし……」
 暦は秋に突入したとはいえ、例年になく長引いている残暑は今現在も継続中だ。道行く女性の多くは日傘を使用し、サラリーマン風の男性は上着を脱いで脇に抱えている。まだ半袖でも充分な気温に、綱吉は羽織っていたシャツの前を広げて左右に揺すり風を招きいれようとさえした。
 しかし市街地でそれはやるだけ無駄と知り、彼はそそくさと日陰へ退避を決め込む。
「ボンゴレ」
「あー、うん。分かってる」
 日光を吸収する色として知られる黒を纏っている千種のほうが、体感温度は高いはずだ。それなのに平然として佇む彼を恨めしげに見やり、綱吉は一段暗い影から渋々足を出した。
「何処に行くの?」
 横並びになると身長差が目立つ。これではまるで、似ていない兄弟だ。
 同い年なのにこうも違うものか、と育った環境の違いを思い綱吉は心で舌を出す。問いかけに千種は返事をせず、歩き出す様子もなくて綱吉は唇を浅く噛んでから彼を仰ぎ見た。丁度綱吉を斜めに見下ろしている彼と南西から差し込む光の只中で目が合って、反射したレンズの白さに綱吉は肩を窄めて目を閉じる。
 呆れ加減の声にも、そろそろ聞き慣れてしまえそうだった。
「ボンゴレが」
 行きたいところだなんて。
 千種には、無い。
 この街だって、良くは知らない。必要なものを買い揃えるのに、手っ取り早く店が集まっている近場を目指しただけだ。綱吉が指差した袋の店だって、偶々通り掛っただけで、本当は何処だって良かった。身に着けるものに特別なこだわりは持たない、けれど趣味じゃない服に袖は通したくないから、自分で選んで買うだけのこと。
 犬の趣味と千種の趣味は正反対を地で行くようなもので、彼はごてごてした大きな飾りのついた服を好む。必要最低限の機能を果たしていれば満足の千種とは、根本的に相容れない。
 ちなみに骸の趣味は、千種でも計りかねる部分があった。
「行きたいところへ」
 淡々と告げた千種に、綱吉は目を丸くしてから大慌てで自分を指差した。
 返事をするのさえ面倒で千種は黙って頷くだけで返し、数ミリ下にずれた眼鏡を押し上げる。綱吉は狼狽しながら視線を左右へ走らせて、最終的にはまた千種を見上げ、つき立てたままだった指で頬を掻いた。
 曖昧に笑った彼の額に、千種の指が跳ねる。
「いたっ」
「買い物」
 いくのだろう、と呟いて。
「いく、けど」
 かといって綱吉だって、この街に格別お気に入りの店があるわけではない。予算の範囲内で出来るだけ沢山、安いけれど見栄えのするものを探すだけ。
 そうなると行き先は自動的に限られて、綱吉ひとりではせいぜい全国展開している大型店に引き寄せられてそれで終わりだ。デザインよりも機能性よりも、なにより値段が最優先事項。我ながら情け無いと胸の前で人差し指を付き合わせた彼に、じゃあ、と千種は踵を鳴らした。
「なに?」
「こっち」
 こだわりが無いのなら、そう低い声で囁いた彼に綱吉は頷いて一緒に歩き出した。
 照り返しの強いアスファルトを踏み越え、複雑に入り組んだゼブラを横断し、大多数の人の流れに逆行しながら、少しずつ中心部から外れていく。新しく建てられた店は徐々に減り、ビルも古ぼけたものが増え始める。怪しげな看板を出した店が何件か並んでいて、昼間なのに少し薄暗い空気に綱吉は臆した風に歩調を緩めた。 
 普段歩く場所とは違う、うらびれた感じのする空間。開発の波から置き去りにされた寂れた気配に、綱吉はぐるぐると視線の行く先を動かしながら淀みない足取りで進む千種の背中を懸命に追いかけた。
 たった十分も歩いていないのに、こんなにも街の景色が違うなんて。雑居ビルが肩身狭そうにひしめき合い、閉じているシャッターには落書きも多い。歩いている人の姿は稀で、小奇麗な格好をしている千種と何も知らない少年を気取る綱吉のふたりはこの場所の空気にそぐわず、随分と浮いた存在として人の目には映っただろう。
 道ばたに蹲って嫌な視線を送ってくるまだ若い男の目つきが嫌で、綱吉は慌てて顔を逸らし開きかけていた千種との距離を詰める。しかし逃げようとする綱吉の気配を悟ったのか、男は凹凸の激しいアスファルトに向かって思い切り唾を吐いた。
「っ」
 特に何かされたわけでもないのに、怖い。理由も無く怒りをぶつけられた感覚に鳥肌が立ち、綱吉は空っぽの手で懸命に空気を掻いた。
 秋なのに夏めいた日差しが人を可笑しくしているのか。暑いはずなのに寒気すら覚えた彼の手を、唐突に前から伸びたものが掴み取る。
 一瞬恐怖に悲鳴を上げかけた綱吉は、けれど微かに体が覚えている低い体温に目を見張り、瞬きをして、いつの間にか歩みを止めていた千種の顔を呆然と見上げた。
「……」
 呆気に取られているのは綱吉だけで、彼は高い位置から後方に鋭い視線を差し向けて直後、綱吉に有無も言わせず再び歩き出した。
 無論手は握られたままで、引きずられる格好になった綱吉は前屈みの不恰好さで必死に足を前に繰り出した。危うく転ぶ寸前だったのを堪え、ペースを戻し、千種に合わせてなんとか姿勢を整える。
 その間も、そのあとも、彼は手を放してくれない。
「あ、の」
「迂闊」
「……ごめん」
 隙だらけで襲ってくださいと言わんばかりの、田舎から出てきたばかりの子供みたいな動きをしていたのを怒られた。あんな風に物珍しげに視線を動かしていれば、スリなり置き引きなり、恐喝にだって容易に捕まってしまう。
 言葉少なにきつく叱られ、綱吉はしょぼくれながら、それでもまだ繋がれたままの手ばかりを見ていた。

 連れて行かれた先は、古着屋だった。
 小ぢんまりとしたビルの一階に、道路にまではみ出して店舗が広がっている。中からは陽気なラテン音楽が騒がしく流れ、所狭しと積み上げられた籠やハンガーにこれでもか、というくらいに顔も知らぬ誰かが昔着ていたであろう服が押し込められていた。
 それは一軒だけではなく、似たような店構えの、しかしそれぞれに尖った特徴がある店が一箇所に寄せ集められている感じだ。店員は日本人も居れば、国籍不明の外国人の姿まであった。
「へ、え……」
 派手なペイントの看板、耳を塞ぎたくなる大音響、値踏みするように人の顔をじろじろと見てくる店員たち。そのどれもが綱吉の知る世界から大きく逸脱していて、圧倒された彼は、油断するなと言われていたに関わらずぽかんと口を開けて協調性が皆無の景色に見入ってしまった。
「ボンゴレ」
「あっ、うん」
 手を離した千種がひとつの店の前で足を止め、爪先で色の褪せたアスファルトを削りながら振り返って綱吉を呼ぶ。我に返った彼は急ぎ五歩分は開いていた距離を詰めた。
 店の中は外よりは若干音も絞られ、品物を選ぶのに邪魔になり過ぎない程度に一応の気配りがされていた。あれは客寄せで外に向けてスピーカーを向けているだけだと千種に言われ、なるほどと頷きながら綱吉は照明までもが絞られ気味の店内をぐるりと見回した。
 奥に行くほど光が届かず、暗い。そこに誰か居る気配はあるのだけれど行って確かめる気分にはなれず、綱吉は回れ右をして明るい側に顔を向け、手近なところにあった棚に手を伸ばそうとした。
 しかし横から唐突に伸びてきた腕がぬっと綱吉の進路を遮り、その巨木の枝が如き太さに彼は咄嗟に悲鳴をあげた。
「うわぁ!」
 綱吉の声に、別の棚を眺めていた千種も何事かと怪訝に眉を寄せる。彼が見たのは、小柄な綱吉の真横で壁となって立ちはだかっている巨漢の黒人だった。
 スキンヘッド、鼻の下にちょっとだけ伸びた髭、筋骨隆々という表現が的確に当てはまる体躯に接近され、綱吉は慌てふためきながら持ち上げた手を泳がせる。にっこりと笑みを向けられても笑い返すことが出来ないようで、彼は助けを求めて千種の姿を探し回り、視界に眼鏡の青年を見つけ出すと途端に泣き出す寸前まで表情をゆがめた。
 英語で話しかけられているけれど、無論彼が理解出来るはずもなく、どうしたら良いのか解らないと表情が雄弁に語っている。
 千種は溜息の末に自分の買い物は諦め、大股に進んで綱吉の傍へと戻った。そして短く謝罪の言葉を口にして、綱吉の肩を軽く叩きながらなにやら早口で黒人男性に話しかける。
 やり取りは綱吉に全く理解不能なもので、彼は聞きながら頻りに頭の上にクエスチョンマークを浮かべた。やがてふたりの会話がひと段落した時にはもう綱吉の頭はパンク寸前で、ぷすぷすと音を立てながら黒い煙まで吐き出していた。
「英語は?」
「一学期は……五段階評価で二」
 十段階評価ならばきっと三だっただろう、と正直に答えた綱吉はまだ全体的にふらふらと頼りなくゆれていて、そんな事で本当にこの先大丈夫なのだろうか、と千種は他人事ながら心配になった。
「あの人、……なんて?」
「そこの棚は、ボンゴレにはサイズが大きいから」
 海外から輸入した古着の販売を中心にしている店なので、並べている服のサイズも全体的に海外仕様なのだ。縦にも横にも大きい人向けのものは見るだけ無駄だと親切に教えてくれただけなのに、綱吉は見た目に怯えて彼に悪い事をしてしまった。
 しおらしく反省の弁を口にする彼に千種はもうひとつ肩を竦め、店の入り口付近に置いた椅子に座って日光浴に戻った男の大きな背中に苦笑した。
 本当は他にも色々と言われたのだが、敢えて教えることでもない。
「この辺?」
「そう」
 千種が指し示した店の片隅に場所を移動した綱吉の問いに頷き返し、きっとこの店での買い物の方法も知らないのだろうと手近に積んであった籠をひとつ手に取る。
「う……でもやっぱり大きいかも」
「これは?」
 広げたシャツを身体に押し当ててサイズを確かめた彼に別のものを差し出し、足元に持ってきた籠を置く。値札が無いと言う綱吉に、この店は重さで値段が決まるのだと教えると、予想通り彼は大きな目をこぼれ落ちそうなくらいに丸くした。
 店の中は全体的にごちゃごちゃしていて、古着ばかりでなく何に使うのか解らない小物や、アクセサリーも並べられている。買うところまでは行かないが物珍しさに綱吉はやがて店中をあちこち歩き回り、適当に手に取っては棚に戻して店を荒らしていく。小動物めいた動きに別の店員も苦笑いで、次に行った隣の店でも彼の動きは殆ど同じだった。
 千種は何度か通っているので店員とも顔見知りで、中には親しげに話しかけてくる店員もいる。会話は日本語と英語が入り混じって、時に中国語が飛び出し綱吉を面食らわせた。
「良く来るの?」
「たまに」
 馴れ馴れしく肩に触れてくる相手を払いのけ、千種はやや面倒くさそうに綱吉の質問に頷いて返す。言葉が通じないと知りながら向こうは綱吉にも手を振ってにこやかに笑いかけてくれ、照れ臭そうに綱吉が笑い返すと今度はウィンクとセットで投げキッスが飛んできた。
 肩を竦めて苦笑いを浮かべる綱吉の後姿に、千種は手を伸ばして彼の上腕を掴む。
「わっ」
 急に後ろから引っ張られた所為で体勢が崩れ、左から千種へ倒れ掛かった綱吉は何事かと目を剥いて、それから何処と無く憤然としながらさっきまで談笑していた相手を睨んでいる千種に首を傾げた。
 相手は声を立てて笑っている。けたたましく喋り続けている相手の言っている内容は当然不明だけれど、辛うじて聞き取れた単語は「冗談だ」だった。
「なに? なんかあった?」
「ない」
 不機嫌に言い切った彼の表情はとても何も無いとは言い難く、綱吉は首を傾げたまま引きずられる姿勢を真っ直ぐに戻す。
 なにか悪口でも言われたのだろうか。自分も英語が出来れば、こんな風に仲間外れにされたような気分を感じずに済んだだろうに。
 両足をそろえて踏ん張り、それ以上千種の好きにさせずに立ち止まった綱吉の俯いた顔を、千種は複雑な表情で見詰める。教えて欲しそうにしながら、千種が今不機嫌だからと遠慮を働かせて聞かずに過ごそうとしている彼に、果たしてなんと返してやればいいのだろう。
 こんな時どうすれば良いのかなんて、誰も教えてくれなかった。
「程度の低い冗談を」
 あの店には前に、髑髏を連れて行ったことがあった。その時の事をあの店員は覚えていて、だから今回綱吉を連れて行ったことをからかわれた。
 今度は男か、と。
「へえ、クロームと、仲良くやってるんだ」
「……」
 千種は疲れた様子で黙って項垂れた。この場合話の中心は其処ではないのだが、綱吉が深く気にする様子が無いのでそれ以上余計な事は言わずに話を終わらせる。
 道端で別々の表情をしながら向き合う二人連れに、また違う人物から声がかかる。けれど姿は見えなくて、千種が反応するより先に綱吉はきょろきょろと路上に視線を巡らせた。
「こっちこっちー」
 見つけ出せない綱吉を軽く笑い飛ばし、声は続く。一方で千種は地上ばかりを探している綱吉を他所に首を上向け、近くの薄汚いビルの二階に視線を投げた。
「なに」
「前に探してるつってたレコード、あれ、入荷してたぜ」
 綱吉が見ているのとは明らかに反対方向に向かって低い声を放った彼に、合いの手は即座に返される。びくっと肩を震わせた綱吉が振り返り、千種と同じ角度に視線を持ち上げれば、ビルの窓から身を乗り出す男性と距離はあるものの、目が合った。
 赤いバンダナに無精髭、白いよれよれのタンクトップというくたびれた出で立ちの男性は、綱吉を評して千種が連れて歩くには珍しい子だな、と一方的に言いたいことだけをまくし立てると素早く建物内部に引っ込んでいった。
 どうやらこの街では千種はそれなりに顔が知られていて、綱吉はこの街にはなかなか居ないタイプの人間らしい。
「俺って、変?」
「かなり」
 自分を指差しながら顔を引き攣らせた綱吉に、千種は平然としたまま首肯する。無論千種は綱吉を一般人としてではなく、マフィアの後継者になるべき立場の人間として変だと言ったのだが、言われた本人は言葉足らずの説明を額面どおりの意味と受け取って落ち込んだ。
 右の爪先でアスファルトに穴を掘り、唇を尖らせて下を向く。拗ねてしまった彼に千種は呆れ、ふたつに増えた袋を右手一本に持ち替えるとやおら被っている帽子を外し頭を振った。
 長めの黒髪が空気を含んで横に膨らみ、そして真っ直ぐ下を向く。誤魔化すように体温の残るそれを綱吉の頭に押し被せて、千種はいくよ、と腕に巻いた時計を見てから呟いた。
 片手で不恰好に被せられた白い帽子に、綱吉は虚を衝かれて沈黙する。顔をあげるが帽子に視界が遮られて、千種の膝から下しか見えなかった。
「ぷっ……」
 押し殺した笑いがこみ上げて、綱吉は空っぽの両手で帽子の縁を掴んだまま肩を震わせた。
 見えない。けれど千種が今、どんな顔をしているのか分かる。どうして彼はこうも会話に困ると、無理矢理場を誤魔化して脈絡の無い突飛な行動に出るのだろう。
「おっかし……!」
 彼を知れば知るだけ、距離が狭まれば縮まる程に、その些細な行動にさえ意味があるのだと気付く。
 六道骸の部下、全滅したマフィアの生き残り。襲撃者、獄寺に大怪我を負わせた相手。彼の情報は最初それだけだった。それがすべてだった。
 けれど彼がああまでして骸に付き従う理由を教えられ、少しだけ話をする機会を得て、彼もまた血の通った生身の人間だと知っていくうちに、少しずつ自分の中にあった彼に対する凝りが融けて行くのを感じた。
 ぶっきらぼうで、不器用で、素っ気無くて冷たいけれど、案外仲間思いで、面倒くさがりの癖に面倒見は意外と良かったり。
 育った環境が全く違うから、綱吉が知らない世界を色々と知っている。その全てが決して良いものだとは言い切れないけれど、閉鎖的だった綱吉の世界は彼を通して、思いがけない方向に切れ目を入れられた。
 背を丸めて小刻みに全身を震わせて笑う綱吉に憮然とした面持ちを向け、千種は黒に青の混じった眼鏡のフレームをそっと押し上げた。
 いい加減笑い止んで欲しい。行きたい場所が出来たのだと手短に告げると、やっと帽子を持ち上げた綱吉は目尻の涙を指で拭って深々と息を吐いた。
「レコード?」
「そう」
 もう人の姿はない窓を振り返って綱吉が聞く。間髪いれずに返事をした千種は、また綱吉が意味ありげに口元に笑みを浮かべているのを見て、露骨に嫌そうな表情を作った。
 唇は閉ざしているが、口腔内には今にも噴出されそうな笑いの種がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。少しでも口を開けば一斉に外へ放出されるだろうそれにげんなりした様子で千種は神経質に眼鏡を弄り、いくよ、と綱吉を促して薄汚れた細い道を歩き出した。
 古い町。寂れてどこか物悲しさが漂う、人の記憶からごっそり忘れ去られたようなモノクロの。
 けれど違う。ここだって人は生きている。逞しく、己の道を貫いて。
「なんか、安心、した」
 並盛の商店街で獄寺と戦っている時に見た彼は、無機質なロボットのようだった。
 黒曜ランドで見た彼は、骸のためならば己の命さえ平然と差し出してしまえる危うさがあった。
 今の彼には、日常を生きる匂いを感じる。綱吉たちと何も違わない、毎日をただ懸命に、時に無意味に、足掻きながら苦しみながら、時に笑い時に怒り、時に泣いて過ごす、命の重みと温かみを感じる。
 それが嬉しくて、綱吉ははにかんだ笑みを零した。
 気まずげに視線を泳がせた千種が、「そんな大それたものじゃない」と小さく呟く。黒髪を揺らして歩く彼の背中に綱吉はまたふふ、と含み笑いを漏らしておいていかれないように彼の後ろについていく。そしてふたり辿り着いたのは、灰色の背景に埋没したこれもまた古い外観をした雑居ビルだった。
 一階の店舗部分は閉まっており、板で目張りされた窓には他同様落書きが幅を利かせている。人の顔をデフォルメしたようなものに、落書きした人物の名前らしきロゴが左下に。場所が場所ならば充分アートとして通用するだろうが、寂れた路地に散る原色は余計に町の寒々しさを強調しているようだった。
 ビルの中に入っている店舗を記した看板も、罅割れているか外されているかのどちらか。辛うじて段ボールに書いたような札が五階部分に残されていて、問う視線を向けると千種は黙って綱吉に頷き返した。
「えーっと……」
 築三十年は経過している外見、建物の外壁には大きなひびも見える。
 建築基準法は満たしているのだろうか、誰かが捨てて行ったゴミ袋が見え隠れする奥への細い通路には照明すら灯っていない。
 つい尻込みしてしまった綱吉を置いて、千種は一歩前に進み出た。そしてやおら綱吉を振り返り、別に、と一旦言葉を切る。
「ついてこなくても」
 見るからに不気味で怪しげな建物を前に、綱吉が臆しているのを察したのだろう。相変わらず感情の篭もらない淡々とした口調で言われ、綱吉はつい反発心を起こしてムッと頬を膨らませた。
「べ、べつに!」
 怖がっているわけではないのだと語気を強めて主張しても、元から表情が淡白で人間的な感情にも希薄な千種には通じない。前に出した右足を強くアスファルトに叩きつけて意気込んでみせても、彼はふぅんと涼しい顔で受け流すだけだ。
「なら、いいけど」
 さらりと言われ、背を向けられる。彼は何度も此処に足を向けたことがあるようで、全く迷いもせずにずんずん奥へと進んでいった。
 入り口が狭いので通路に差し込む光は限られている。いつの間にか太陽は西へ大きく傾きだしていて、オレンジ色の光を浴びて長く伸びた影が余計にビル内部を薄暗く演出していた。
 電球は壊れているのかと思いきや、蛍光灯が嵌められているはずの空間には何も無かった。切れた後、交換するのが面倒で外されたままかなにかだろう。
 物陰から今にも何かが飛び出して来そうだと肩を窄めて進む綱吉はそれこそ忍び足で、平然と前を行く千種の背中を恨めしげに睨んでからぶつかりかけた鼻先を慌てて引っ込めた。
 ただ止めきれなかった右の足先が千種の踵にぶつかり、中に入っている鉄板の硬い感触に綱吉は顔を顰める。ふたり分の戦果が入った袋を揺らし、千種は緊張に唇を噛んだ綱吉を無視して通路最奥に設置されたエレベータのボタンを押した。
 階段は見当たらない、本当に限られた土地で最大限に敷地を置こうとした結果だろう。薄闇の中に辛うじて停止中の階層を教えるボタンが薄緑に光っており、綱吉は蛍火のようなそれが濁った数字の裏で点灯位置を左にずらしていく様をぼんやりと眺めた。
 地上階に到達したと報せるポーンという音が聞こえたのは錯覚で、安全に不安を抱きたくなる軋んだ音の余韻を残し鉄製の扉は重苦しく左右へと開かれる。内部は四人も乗ればいっぱいになる半畳ほどもない狭さで、たった二人でも肩がぶつかるような機体の小ささに綱吉は眩暈を覚えた。
 中は流石に照明がついていて、通路と比べると明るさは段違いだった。千種が先に躊躇も無く乗り込んでしまって、引くに引けず綱吉も閉じかけた扉の隙間から強引に内部へ体を滑り込ませた。
「こんなとこに……」
 本当に営業している店なんてあるのだろうか。思わず呟いた綱吉の素朴な疑問に、最上階のボタンを押した千種がそのままの姿勢で振り向く。
「一般人は、まず知らない」
 看板は表に店名を示すだけで、広告も出さなければ宣伝もしない。
 ただマニアは何処からか所在を聞きつけて、やってくる、千種のように。世間ではなかなか出回らない、手に入りにくいものを専門に取り扱っているから、店側もあまり客が集まりすぎては困る。
 だから、一般人を避ける意味も込めてこんなところに店を構えているのだと。
 千種が低い声で言い終えた瞬間だった。
「――あ?」
 ガンっ、とふたりの足元が揺れた。
 一瞬踵が浮き上がり、全身が空中に投げ出される。直後重力に引かれた二人の体はつるつるの床板に落ち、前後左右に激しく揺さぶられた。
「う、あ、あ、あ゛」
 喉が巧く震えず、呂律の回らない舌では意味の無い音だけしか刻めない。不安定にぐらぐらと地面が揺れる感覚に綱吉は今度こそ本当に目を回し、捕まるものを探して両手を空中に振り回した。
「――――っ」
 千種もまた片手を壁につき、袋を投げ捨てて自分を支えようと丹田に力を込める。けれど横からぶつかってきた綱吉の衝撃を堪えきれず、彼らはもみくちゃの団子状態のまま壁を伝って床に転がった。
 既に安定感を失っていた綱吉は前触れも無く訪れた上下の揺れに吐き気さえ催して、恐怖に竦んだ身体は凝り固まって一塊の凶器と化す。曲げたままの彼の肘にこめかみを殴られた千種は、かけていた眼鏡を弾き飛ばされて低く呻いた。その声さえ、綱吉の耳には届かない。
「な、な、な――なに!?」
 更に追い討ちをかけるように、明滅を繰り返していたエレベータの照明がぷつりと消えた。
 元々密室状態の鉄の籠、人工的に生み出される光が途絶えた途端夜よりも深く暗い闇が訪れ、瞼を開いていても閉じていても同じ何も見えない状態に綱吉は悲鳴をあげた。
 我武者羅に両手を振り回し、支えに出来るものを懸命に探す。ばたついた足は逃げ出そうとしているようだが、既に床に転がっている状態では単にもがいているだけに等しく、太股を蹴られた千種は同時にぶつけた後頭部を撫でて横倒しになっていた身体を起こした。
 背中に少しだけ傾いたエレベータの壁を感じる。或いは自分の体が傾いているからそう感じるだけなのか、この闇の中では判断もつかない。だが揺れは少しずつ収まろうとしていて、何が起こったのか考える頭は即座に天変地異を思い浮かべた。
 けれどそれにしては少し妙で、だからこの場合単純に故障だろうと思考を切り替える。
「なに、なに、なにこれ、なに? なんなの?」
 暗がりから聞こえる声を頼りに腕を伸ばせば、かすかに暖かいものに指先が触れる。千種は落とした眼鏡を探そうとした手を諦め、もう片腕も伸ばして手探りに綱吉の位置を測った。
 けれど床面に沿って少しずつ動かしていた彼の右手は目標に到達するより先に、動物的直感を働かせた綱吉の両手によって捕縛されていた。
 明らかにパニックを起こしている声は断続的に狭い空間に響いている、視覚が奪われている分余計に声に込められた感情の波は強く現れて千種の耳に響いた。
 狼狽する綱吉の手は、果たしてそれが千種の手だと正しく認識しているのか、力任せにぎゅっと握ってくる。その骨が砕かれる痛みに千種は顔を引き攣らせ、奥歯を噛み締めて苦悶の声を押し殺した。
「なんだよ、なんなんだよこれぇ!」
 裏返った綱吉の声が密閉空間に沈んでいく。直後にまたぐらりと地面が揺らぐ感覚に見舞われ、喉に息を詰まらせた彼は激しく咳き込み身体を前に倒した。
 柔らかな彼の髪が顎に触れ、千種は自分たちの距離を簡単に推測する。
 外で――否、この小さな箱が今どういう状況に置かれているのかはまるで解らない。ただ、地震が起こったのならば、この程度の衝撃では恐らく済むまい。
 ならば故障、機器の整備不良は疑うべくもないだろう。このビルが建てられてからの年数を考えれば、生命線を繋いでいる部品に寿命がきていてもなんら不思議ではない。
 その細い身体の何処にそんな力が宿っているのか、火事場の馬鹿力も馬鹿にならないなと千種はそろそろ痺れて感覚が遠ざかりつつある右手に苦笑する。こんな状況に置かれても冷静で居られるのは、きっと目の前の綱吉が予想外にパニックを起こしているからだ。
 片方が慌てていると、もう片方は冷静になれる。浮かんだ笑みを飲み込んだ千種は、息を吐いて力を抜くと、前準備もなく掴まれたままの右腕を後ろの壁に叩き付けた。
「――っ!」
 強かに打ちつけた手の甲の痛み、衝撃に驚いて離れていく綱吉の手。強制的に引きずられた彼の体躯は無造作に広げられたままだった千種の膝の間に割り込んで、それ以上進まないところで停まった。右胸に綱吉のタックルを食らった千種は、肋骨にまで響くダメージに一瞬息を飲む。近くなった他者の気配に綱吉は闇の中で目を見開いた。
 自分を庇おうとした綱吉の左手が思いがけず千種の胸を突いて、彼は漸く其処にある自分以外の存在を思い出したらしい。
「あ……」
 瞬きをしても何も見えないままだが、触れた先で呼吸に合わせて動く心臓の気配を感じ取る。安定したリズムを刻む命の拍動を直接感じ、綱吉は折り重なり合う自分たちの鼓動が少しずつひとつになろうとしている現実に息を吐いた。
 暖かで、柔らかな存在に、深く安堵する。
「ボンゴレ?」
 窺う千種の声は近い。どうせ目を開いたところで何も見えないのだと諦めの境地に入った彼は、深呼吸の末に瞼を下ろして意識しながら身体の強張りを解いていった。
「……ごめん」
 掠れる声で呟き頭を垂れた彼の背に、無造作に千種の腕が回される。最初は意図してそうしたわけではないのだろう、腕同士が触れあった瞬間、確かに彼はびくりと空気を震わせて動きを止めた。
 けれど綱吉が何も言わず、むしろ自分から彼の胸に己を預けて来た事で、行き場を失いかけた彼の腕は無言のまま下へ落ちていった。広げられた掌に洗いざらしのシャツの上から背を撫でられて、その心地よさに綱吉はほんの少し唇を解いて笑みを作った。
 千種は綱吉を胸に抱いたまま背中の位置を上にずらし、エレベータの壁に本格的に寄り掛かった。音は聞こない、お互いの呼吸する音ばかりがやけに大きく耳に響く。
「どう……なる、かな」
「さあ」
 不安げに睫毛を揺らした綱吉の呟きに、千種は手の動きを止めずに曖昧に答えをはぐらかす。
 異常が発生した事はビルの管理人に通報が行っているだろうし、そのうち救助が来るだろう。心配なのは、昨今なにかと騒がれ報道されている、エレベータ事故の件だ。
 最初の衝撃から推察するに、ワイヤーが切れたのかもしれないと何気なく千種が呟いた途端、綱吉はがばっと顔を上げて、身をせり出した。
 だが初期位置が近すぎて、綱吉の口が音を発する前に、彼の額が千種の顎に激突した。
「っ……」
「ごめ、ん」
 後頭部を壁にまで衝突させて二重苦を体験させられた彼に、綱吉は声を潜め首を窄める。見えないと距離感が掴めなくて、せめて自分がぶつけてしまった部位を撫でてやろうと手を持ち上げた綱吉だったが、狙いは外れ彼の髪の生え際を指が掠った。
 親指が耳朶に触れる。思い掛けず柔らかな肌触りに綱吉は言葉を途切れさせ、それから何かが足りないとしつこく彼の耳元に指を這わせた。擽ったかったのか、千種が頭を振る。
「……なに」
 本当は綱吉の手も払い除けたかったようだが、下手に動くと思っているのとは違う行動に結びついてしまいそうで、千種は結局綱吉のやりたいようにさせた。だから調子に乗ったわけではないが、綱吉は指のせを撫でる彼の黒髪をも一緒に弄って、其処に足りないものをゆっくりと思い出した。
「眼鏡は?」
 いつもかけているものが、今はない。
「さっき、肘鉄食らった」
「え、嘘」
 この場にはふたりしか居合わせていないから、千種が自分で自分に攻撃をしかけたのでない限り、それをやったのは綱吉以外にあり得ない。でも覚えが無くて、本当に自分が彼を殴ったのかとたじろいでいると、闇の中で千種が笑いながら頷く気配がする。
 それが妙に悔しくて、綱吉は唇を尖らせた。
「なに」
「だって、なんか」
 普段笑わないし、眼鏡だって外さない千種が、今は綱吉の目の前で素顔で笑っているのに、停電の所為でまるで見えない。
 こんなに近くにいるのに。
「…………」
 千種は黙った。実直すぎる綱吉の言葉に、答えに窮しているようでもある。対する綱吉は思った以上に柔らかくて滑りの良い彼の髪に指先を絡め、身動ぎして不安定だった足場を整えようと腰を浮かせた。
 それが悪かったわけではなかろうが、沈黙を保っていたエレベータがまた前触れなくガンッ、と強く揺れて片側に――千種が背中を預けている側に傾きを大きくした。
「うっ」
 危うく舌を噛むところだった綱吉が呻き、瞼をきつく閉ざして引っ張られる感覚に肩を震わせる。持ち上がった両腕で自然綱吉を抱えた千種は、のし掛かる体重に耐えて跳ね上がった心臓の音を懸命に誤魔化した。
 本当にこの鉄箱を支えているワイヤーが切れかけているのか。何本もある筈のそれが全部切れたらどうなるか、ふたり同時に同じ想像をしたらしい。ただ綱吉の方がより如実に恐怖に身を竦ませ、目の前の千種にしがみつく。
「恐い?」
「あた、りっ……まえ!」
 触れた肩は震えていて、そっと慰めるように肌を撫でる千種の手が綱吉を抱き寄せる。
 乱暴に吐き出された綱吉の熱が鼻先を掠め、手探りで触れた彼の頭にはまだ千種が貸した帽子があった。中指のささくれが布目に引っかかり、髪に触れようとした爪先はから回って布に絡んだ。
 腕を落とす仕草に引きずられ、支えを持たない帽子が落ちていく。ふわりと空気を含んで膨らんだ綱吉の髪が千種の額を優しく擽った。
 行き場のない綱吉の両手が、千種の黒いカットソーを握りしめる。
「けど、でも」
 死ぬかも知れない恐怖は過去に何度も経験した。でもそれは、どれも自分の起こしたリアクションに関わる出来事で。
 こんな風に間接的に、何かに巻き込まれて自分ではどうしようもない状況に置かれた事はなくて。
 心臓は今にも止まりそうなくらいに震えているし、本当はもっと騒いで、泣いて、無駄かもしれないと思いながらも外に助けを求めて叫んでいただろう。
 そうしないのは、多分。
 此処に確かな温もりがあるから。安心できる暖かさがあるから。
 掠めた柔らかさに綱吉は一瞬竦んだ後、自分を引き寄せる力に身を委ねて微笑んだ。
 大丈夫。恐くない。
 囁いて、目を閉じる。
 音は聞こえない、自分たちが呼吸する音でさえ。
 触れあった熱は疑いようのない現実で、恐怖に打ち震える互いを慰める精神安定剤であり、一度覚えてしまうと二度と手放せない中毒性の高い麻薬でもあって。
「ん、っ……」
 鼻から漏れ出た甘い声に誘われて舌を伸ばし、柔らかな蜜を吸ってもっと、と強請って捕まえた腕を縛り付ける。逃れられない熱に浮かされて、今を忘れて貪り合って。
 見えないからこそ。
 自分を忘れて、欲しがって、求め合って。
「んぅ、ゥ――っ」
 耳朶を擽る艶を含んだ声に煽られて、噛み付いてこの場限りの痕を残す。
 触れあった舌のざらつき、絡みついた唾液の苦さ、今が幻でないと傷を刻んで。
 確かめ合ったこの熱が偽りでなければいいのにと。ただ切に、願った。

 何らかの力が働いたのだろう。郊外の古いビルのエレベータ事故は、新聞の角にも載らない、事件とも呼べない出来事として処理された。
 ただ、綱吉が十数分間エレベータに閉じこめられたというニュースはどこからともなく流れたらしく、翌日登校した綱吉を待ち受けていたのは獄寺からの質問攻めだった。
 日頃立ち寄らないような地域で、どうして。いったい何の用事があってそんな場所に出向いたのか。
 誰かと一緒だったと聞いたが、いったいそれは誰なのか。自分の知る相手なのか、それとも知らない相手なのか。
 綱吉が事件にあったのはその“誰か”の所為だと決めつけている獄寺の険ある顔つきに苦笑し、綱吉は事故に遭った事さえも全て否定した。そう、綱吉はその日秋物の服を買いに出たが、結局何も買わずにひとりで街を歩き回って、ひとりで家に帰った。誰とも会わなかったし、獄寺の言う地域にも行かなかった。
 全ては夢、全ては無かった事。綱吉は彼の熱を知らず、彼もまた、綱吉の熱を知らない。
「本当ですか?」
「俺が君に嘘ついたことある?」
 さらりと嘘を舌に載せた綱吉に、獄寺は尻尾を振ってそれもそうですね、と実に簡単に頷いて嘘を信じ込む。そんな彼に心の中でだけ謝って、綱吉はまだ少し痛みが残る左肩を制服の上から撫でた。
 近づけたと思ったのに、今度は逆に近すぎて、また分からなくなってしまった相手を思う。
 曲げた指の背で下唇を押し上げ、綱吉は鞄を倒し椅子に腰を落とした。
 見上げた窓の外は一面の曇り空。今日の天気にも似た色をした彼の心が織りなす言葉を、綱吉はまだ、知らない。

2007/9/20 脱稿