万障

 開け放った窓から室内に潜り込む風は、本来無色透明の筈なのに若干濁った気配をその身に纏い、人の肌を神経質に撫で回して去っていく。
 高温多湿、しかも今年はなんたら現象の影響とかで例年以上の猛暑が続いていた。だというのに世の中はやれエコだ、やれ省エネだと声高に叫び、そういった世論の影響を受け易い主婦のひとりである奈々は、横暴にも今年のクーラーの使用を夜間の眠る前二時間に限定してしまった。
 それ以外は扇風機、もしくは団扇で過ごせという事らしい。
 彼女の徹底した倹約ぶりは無論家族も揃って巻き込み、お陰様で常日頃から着ぐるみ状態のランボなど早々に音を上げてくれた。普段は黒服姿のリボーンも、最近は甚平姿がすっかり板についている。
 綱吉も勿論例外ではなくて、半袖に膝丈よりも短い短パン姿でどうにか日々を過ごしている。小学生みたいだな、とリボーンに茶化されたが兎に角暑いのだから背に腹は変えられない。
 連日三十度を越える気温、肌を撫でる温い風は鬱陶しいことこの上ない。
 こんな状態で山のように出された夏休み中の宿題が捗るはずがなく、テキストを開いても一行と読み進める気力は沸かず綱吉は机に突っ伏した。ダラダラと首の後ろを汗が流れ落ちていく。
 ただ座っているだけでもこの調子だ、山本のようにとても炎天下で走り回る元気は出ない。彼はどこかおかしいんじゃないのか、と親友を変人扱いしてから、綱吉はゆっくりと上半身を起こして首を振った。傍らに置いていた携帯電話がぶるりとひとつ震え、着信を彼に知らせる。
 蛍光色のライトが鈍く点滅し、のろのろと腕を持ち上げて端末を手に取る。裏返すついでに親指を折り畳まれた隙間へ差し込んで上に跳ね上げれば、抵抗もせずそれは素直に縦長に変形を果たした。更に親指の腹でボタンをふたつほど押せば、届いたばかりのメールが画面上に現れる。
「あれ……」
 椅子を引いて立ち上がり、綱吉は携帯を閉じて机に戻す。入れ替わりに置いていたハンドタオルを取って首筋へ押し当てながら、彼は素早く踵を返して熱波に襲われている部屋を出た。
 廊下も熱が篭もっていて、じめっとした空気に覆われている。蒸し暑いにも程度があるよな、とひとりごちた彼は階段を一段ずつ下ってそのまま玄関に足を落とした。爪先にサンダルを引っ掛け、ドアを開ける。
「あ」
 声は綱吉の耳に間近から響いて、丁度呼び鈴を鳴らそうとしていた姿をその場に見出した綱吉は読みが当たったとほくそ笑んだ。
「いらっしゃい」
 獄寺が左腕を前に掲げた状態で、吃驚した様子を隠しもせずに綱吉を見返している。どうして分かったのかと瞳が問うていて、綱吉は肩を竦め小さく舌を出しながら彼を家に招きいれた。ドアを閉める音が背中に響き、獄寺はお邪魔します、と頭を下げてから平底のビーチサンダルを右から脱ぎにかかった。
 先にさっさとサンダルを脱いで廊下に上がった綱吉は、特に何も言わずに獄寺が自分についてくるものと決め込んで降りたばかりの階段を登っていく。テンポ良くリズムを刻む足音が零れ落ちていって、素足をひんやりとした板敷きの床に置いた獄寺は、その綱吉の小さくなる背中を見上げて慌てて後ろを追いかけた。
 手に持ったコンビニエンスストアの袋がガサガサと音を立てる。中に入れられた円筒形の小さな容器も一緒に揺れて、遠心力で後ろへ飛んでいこうとするそれを腕に留めた彼は、すっかり覚えてしまった綱吉の部屋に遅れて身を滑らせた。
 むっとした熱気が篭もっており、瞬間的に浮かんだ汗に髪が頬へ貼りつく。
「ごめんねー。うち、今、冷房使用禁止で」
 陽射しが床に落ちている窓にカーテンを引き、室内を若干薄暗くさせながら綱吉が肩を竦めて笑った。獄寺は長めの髪を耳に引っ掛けて視界の邪魔にならないように動かし、やや間をおいて息を吐いてから静かに首を振った。
「いえ、こちらこそいきなり」
 押しかけてしまって、と言いかけた獄寺だったが、その最中に綱吉の机に勉強道具一式が広げられているのを見つけてしまい、邪魔をしてしまっただろうかと後悔を胸に呼び込む。彼が何を見ているのか即座に理解した綱吉は、ああ、と頷いてから首を横へ振った。
「大丈夫。全然進んでないし」
 この暑さじゃね、と肩を竦めながら汗を拭う。小さなハンドタオルは既に汗をかなり吸って湿っており、長く伸びた襟足も肌に絡み付いてかなり邪魔そうだ。
 獄寺は持ってきた袋を中央のテーブルに置き、自分の座る場所を確保しようと散らばっているものを脇へ集めていく。綱吉が興味深そうに上から袋の隙間を覗き込むので、彼は笑いながら出してもいいですよ、と言った。
「あ、アイス」
「この前買ったら美味かったんで、十代目にもと思って」
 取り出した円形の箱は掌サイズで、見慣れないパッケージは新製品の証拠だろう。そういえばテレビでも宣伝していたような、と表面に汗を掻いているアイスを机に並べ、綱吉は嬉しそうに表情を綻ばせた。
「どっちにします?」
 アイスには二種類の味があり、横並びになった箱の蓋を指差しながら獄寺が問う。綱吉はと言うと袋に手を突っ込んで、底に沈んでしまったプラスチック製のスプーンを探していた。ガサガサと騒々しく袋を動かしつつ、視線を脇へ流した彼は獄寺の顔から指先へ向き直って首を捻った。
 どちらも同じくらい美味しそうで、食べてみたい。けれどそれは我が儘過ぎるので、片方に絞らなければ。
 どうしよう、と眉目を顰めた綱吉に、獄寺が肩を震わせて笑う。
「十代目のお好きな方で」
 自分の好みは二の次に置いてしまう彼の態度に、綱吉は唇を窄めて尖らせた。漸く見付かったスプーンを中指と人差し指とで挟み持ち、袋から引き抜くべく腕を真上に引っ張り上げる。
 だが汗でビニルが肌に密着し、掴みも甘かった所為でスプーンは外に出たものの綱吉の指の間からすっぽ抜け、テーブルの上で一度跳ねて床へと落ちていった。
「あっ」
 ふたりがほぼ同時に声を発し、行方を追いかけて視線を上から下へとずらしていく。そして双方共に床に沈んだ透明のスプーンを拾うべく身体を前に傾けて、意図せずして綱吉の指先に獄寺のそれが覆い被さった。
「え」
「あ」
 お互い、相手が動くものとは考えていなかった行動の帰結に目を見張る。
 風が吹いて、窓を覆っていたカーテンが裾を大きく膨らませた。一瞬だけ明るさが室内に戻って来て、床の上で変に頭をつき合わせていた彼らは揃ってどうしよう、と戸惑いに瞳を揺り動かす。
 重なり合った指先から熱が伝わり、噎せ返る室内の熱気とは原因が違う熱が綱吉の背中を伝った。口腔内が乾いて唾を飲めば、その動きが腕を通して獄寺にまで届く。
 彼もまた息を潜め、瞬きも忘れて己の右手が伏す先を見詰めていた。
「あ……」
 何か言わなければ、変に思われてしまうかもしれない。けれど何を言えば良いのだろう、分からなくて綱吉は早鐘を打つ心臓に重ねて唾を飲み、下唇を浅く噛んだ。
 せめて獄寺が先に動いてくれたなら。下に敷かれているだけに彼の手を跳ね除けるわけにもいかず、綱吉は困窮しきった表情で視線を足元に落とした。
 ふっ、と空気が流れて彼の頬を撫でる。
「十代目」
 それは獄寺が声を発したからに他ならず、綱吉は弾かれたように顔を上げて正面に来ていた彼の顔を見返した。
 床の上で重なり合っていたものが、指先だけから手の甲全体を覆い尽くされる。手首をしっかりと握られ、どきりと跳ねた心臓に竦んだ綱吉は肩を強張らせて緊張に奥歯をカチリと鳴らした。
「ご……くでら、く……」
 舌が震え、巧く言葉が紡げない。その間も獄寺は綱吉の左手を床に縫いつけたまま僅かに身を乗り出して、彼の鼻先に熱い息を吹きかけた。
 夏の太陽よりも燃え滾った瞳が、綱吉を射抜く。避けられなくて、彼は一層肩に力を入れてぎゅっと瞼を閉ざした。
 どきどきと音を立てる心臓が五月蝿くて、胸にスピーカーを付けられた気分に陥る。アイスが溶けてしまう、と思うのに動けなくて、綱吉は自分の唇に掛かる他者の吐息に喉を鳴らした。
 獄寺の気配が、近い。
「――――」
 薄く唇を開き、その瞬間を待つ。左手を握る獄寺の指に力が篭もり、彼も緊張しているのだと分かって何故か安堵した。
「じゅ……」
「ツッくーん、誰か来てるのー?」
「っ!!」
 直後。
 ずべしゃ、と背中から床に転がった獄寺が後頭部をテーブルの角にぶつけて悶絶した。
「えっ、あ、うわっ、ご、ごめん! 獄寺君ごめん大丈夫!?」
 奈々の声に咄嗟に彼の胸を思い切り突き飛ばした綱吉は、直後我に返って気が動転したまま腰を浮かせ、前後左右を慌しく振り返りながらその場で足踏みをした。
 どうしよう、と苦しげに呻いている獄寺に手を伸ばしかけるが、奈々の声はその間も階下から響き続ける。彼はじたばたと床を踏み鳴らすと、半ばやけくそ気味に悪態をつき、閉めていたドアをあけて廊下へと飛び出していった。
 一瞬で見えなくなった背中に、獄寺は力尽きて完全に床に倒れこむ。
「そりゃないぜ……」
 折角いい雰囲気だったのに、と一瞬で台無しになった空気に咽び泣き、獄寺はぷっくり膨れたたんこぶをそっと両手で包み込んだ。

2007/6/24 脱稿