魂迎 第一夜(後編)

 凄まじい怒号と共に、綱吉の前が急に明るくなった。
 ゴッ! と痛烈な音が続く。更に石畳を転がる不恰好な効果音が。
「ぎゃっ、ごっ、ぐぁ! ぶへっ、んごっ、がひゃ!」
 これは……悲鳴、だろうか。
 綱吉の目の前に白い煙が薄ら二本、青銀の拐の先端から立ち上っている。いったいどれだけの力を込めたのか、渾身の一撃を容赦なく叩き付けた雲雀は即座に綱吉を赤い色打ち掛けの男から奪い去り、最初の二撃に追加で飛び蹴りも食らわせていた。
 並の人間であれば頭蓋骨陥没くらいはしているだろう衝撃だ、思わず身震いしてしまった綱吉は自分を庇って立つ雲雀がいつに無く怒り心頭の様子に安堵すると同時に首を傾げ、鳥居前まで吹っ飛ばされて裏向いている緋色の打ち掛けを見返した。
 薄く砂埃が立ち上がり、景色を灰色に濁らせている。凄まじい音を響かせていたが、果たして無事であろうか。やりすぎではないか、とさっきまで自分がどういう境遇に置かれていたのかも忘れて思わず雲雀に伝心で聞き返した綱吉だったが、返って来たのは、こんな奴は首の骨をへし折るくらいで丁度いい、という実に荒々しい言葉だった。
「はあ……」
 とはいえ、流石にぴくりともしないようでは綱吉も不安になる。雲雀の左腕を両手でぎゅっと握り締めた綱吉は、身体半分を彼の後ろに隠しながら恐々と色打ち掛けの行方を見守った。
 雲雀は右手に握った拐を油断なく構え、未だ気を抜かずに金髪の青年を睨み続ける。
 そんな彼の恐すぎるくらいの顔を見上げ、綱吉はふとある事を思い出した。
 金色の髪、派手な身なりに強靭な四肢と人間離れした容姿。眩い太陽を思わせるあの姿を、過去にどこかで見たことがある、と。
 それもつい最近、垣間見た。しかしいったいいつ、何処で。
 口元に曲げた人差し指の背を押し当てた綱吉が眉間に皺を寄せて記憶を手繰り寄せるが、なかなか巧くいかない。そうしている間に、二度と起き上がらないかと思われた金髪の青年は、綱吉の耳にもはっきりと聞こえる呻き声を上げて右腕を天に向かって伸ばした。
 指を曲げ、虚空を掴む。そのまま勢い任せに上半身を起こした彼は、若干乱れた黄金色の髪を乱暴に掻き毟り、肩からずり落ちた打ち掛けを持ち上げて掛け声ひとつで立ち上がった。
 雲雀に吹き飛ばされた影響は、着物が若干汚れた以外全く見受けられない。
「うそ……」
 相手が人間だとは思っていない綱吉でも、これには驚く。目を見開いて瞬きを忘れていると、全く動じていない雲雀が一歩前に出て綱吉をその場に置き去りにした。
 青年の視界から綱吉を隠し、左腕を真っ直ぐ横へ伸ばして拐を握る指先に力を込める。
 揺れる前髪の隙間から覗く漆黒の瞳に、迷いは一切宿らない。
「あ~……いってぇ。くっそー、てめぇ! なぁにしやがる、いきなり!」
「その台詞、そっくりそのまま返す。あなたこそ、此処で何をしている」
 激昂する青年と、淡々としたまま抑揚に欠ける雲雀。金と黒、あまりに対照的なふたりに綱吉はおろおろするしかなく、行き場に困った手は結局遠慮がちに雲雀の帯を掴んで止まった。
 雲雀の知り合い、なのか。
 それにしては彼の態度はどこか変で、織り目をなぞる形で指を裏返した綱吉は渋色の着物を纏う雲雀の広い背中を視界いっぱいに収め、下唇を噛んだ。
 地面に落ちた時にぶつけただろう頭を振り、髪の乱れを手早く直した青年が空色に近い瞳を眇めそんなふたりを同時に見た。
 視線が合った錯覚に綱吉は打ち震え、反射的に半歩下がって左手で口元を覆い隠す。恐いとかそういうものではない、内側まで一瞬で見透かされて丸裸にされた感覚に近く、ゆらりと膝から力が抜けて崩れそうになる。
 支えたのは雲雀の左手で、拐を握ったままのそれが素早く後ろに流されて、振り返りもしないのに綱吉の腕を正確に捕まえた。驚くと同時にほっとした顔を作った綱吉は、殆ど力任せの彼の動きに従って体を前に倒し、雲雀の背中に寄りかかった。
 濃くなった雲雀の匂いに安堵の篭もった息を吐き、綱吉は両手を強く握り締める。油断すれば膝が笑って砕けてしまいそうで、それは雲雀も分かっているのだろう。右腕を前に構えながらも、彼の左手は未だ綱吉の腰を支えたままだった。
 ざり、と砂と石が擦り合う音が走り、青年がゆっくりと起き上がる。眩暈がしたのか身を起こした瞬間だけ前後に大きくふらついたが、額を押さえて直ぐに体勢を立て直し、やや剣呑な空気を放ちながら前髪を後ろへと梳き流した。
 そのあまりにも人間離れした体躯と容貌に綱吉は目を見張り、雰囲気に飲まれそうになって息を呑んだ。
 背は高い、山本よりもずっと。綱吉の背丈と比較すれば、頭ひとつ分以上抜きん出ている。派手な色打ち掛けは肩に羽織っているだけで、ともすれば衣装負けして貧相になってしまいかねないのに、青年の立ち姿は鮮やかな色彩に決して負けていない。中は濃淡の深いうすがき色の着流しで、帯はややくすんだ深緑。派手さの中に渋さを残し、粋を演出しようとしているのが目に見えて分かった。
 けれど何より人目を引くのが、地表を照らす太陽にも負けない鮮やかな金色の髪と空色の瞳。見詰めているだけでも眩くて瞳を焼かれそうで、綱吉は顔を隠すと同時に雲雀の背中に額をおしつけた。
「人の頭をぼかすかと……俺の頭は鞠玉じゃねーぞ!」
「黙れ」
「くっそー、罰当ててやる……」
「やってみればいい」
「俺は単に、十年ぶりの恭弥と感動の再会をだな!」
 握り拳を振り乱して怒鳴る青年の発した言葉に、綱吉はびくりと過剰なまでに反応して背を震わせた。
 何度も、何度も呼ばれたその名前。自分以外の誰かと勘違いしているのに、一向にその間違いに気づきもせずに。しかも抱き締め方は雲雀の腕を思い出させるもので、覚えの無い相手なのに妙な懐かしさまで抱かされて。
 知らないのに知っているようで、心までもが震えている。
「……」
 ぎゅっと無意識に雲雀にしがみついて、彼の存在の確かさで心細さを埋めようとしてしまう。伝わってくる体温が自分のものと同じになるのが嬉しくて、安心できて、綱吉は何故か滲んだ涙を指で払い落とした。
「その名前を、呼ぶな」
 忌々しい、と。
 背後の綱吉に一定の注意を払いつつも、雲雀は棘のある口調で青年を一蹴する。
 驚いたのは綱吉も青年も同じで、額をこすって顔を上げた綱吉は雲雀が一瞬遠くへ行ってしまう錯覚に囚われた。青年もまた目を瞬かせ、顎を撫でながらおや? と首を横に倒す。
 雲雀は右腕の拐を取る手に力を集め、いつでも攻撃に移れる姿勢を崩さない。嫌な緊張感が場を支配して、不安に瞳を揺らした綱吉はだめ、と咄嗟に呟いた。
 けれど聞き入れない雲雀が、更に切れ長の瞳に鋭さを強めて青年を睨みつけた。
「なんでだよ、折角俺がつけてや……あれ。恭弥?」
「だから、その名前で呼ぶなと」
「恭弥? 恭弥なのか? あれ、けどそっちも恭弥……あれ?」
 見るからに怒り心頭の雲雀に全く構いもせず、どこまでも自分の調子を崩さない青年が急に眉間に皺を寄せ、若干前屈みになって綱吉と雲雀を交互に眺めた。
 ひっ、と息を吐いてすぐさま綱吉は彼の視線から逃げたが、雲雀の身体を通り越してまで肌で感じ取って寒気がする。
「えーっと……?」
「さっさと天に帰れ。他の連中はどうした」
 立てた右人差し指を空に向かってくるくる回した青年に、いい加減苛々も絶頂に達しようとしている雲雀の声が続く。なんだかそれがいつもの雲雀らしくなくて、後ろで首を傾げた綱吉もまた怪訝に顔を潜めてから青年の発した言葉を、少し冷静になって振り返ってみた。
 唐突に現れた巨大な神気。押し潰されそうになったところを、雲雀が飛ばした彼の防御壁によって救われた。助かったと思いきや、現れ出た正体不明の青年(恐らくは、というよりもまず間違いなくあの強大な神気の持ち主なのだろうが)に「恭弥」と呼ばれて抱き締められた。
 抵抗してもとても敵う相手ではなくて、力が抜けそうになったところを駆けつけた雲雀本人に助けられた。その雲雀は何故か青年に対し、綱吉にした事以上の怒りを抱いていて、険悪な雰囲気が否めない。けれど青年は雲雀の怒りなど何処吹く風で、さっきからやたらと人を指差しながら何かを懸命に考えている。
 雲雀と青年の会話は、まるでかみ合わない。
「黒髪と、そのくそ生意気そうな目つき……やっぱり、お前が恭弥? けどそっちの小さいのも恭弥の匂いがした気がしたんだけど」
「ヒバリさん? あの、あの人って」
 くいっ、と雲雀の袖を掴んで引っ張る。しかし歯を食いしばってまで青年を睨み続ける彼は気づいてくれなくて、頬を膨らませて拗ねていると今度は金髪の青年とまた目が合った。
 瞬間、にっこりと毒気を抜かれる満面の笑みを向けられる。
「――っ!」
 柔らかくて温かみのある、優しい笑顔だ。細められた瞳に長い睫が踊り、日の光を浴びて輝く金髪は艶も深く鮮やか。身に纏うもの全てが洗練されていて、嫌味がない。
 並盛の里とその近辺という狭い生活圏しか持たない綱吉にとっては、一度だけ出かけたことがある都で見た歌舞伎の役者のようだ、というのが青年に対する印象だった。艶やかで、派手だけれど粋があって、御洒落で、立ち姿だけでも人を魅了する雰囲気があり、華々しいけれど少し影がある。近づき難く、しかしいつまでも見詰めていたいと思わせる存在。気づけば胸が時めいて拍動も速まり、落ち着きを失ってそわそわしてしまう。そんな人だ。
 思わず顔を赤くした綱吉に今頃気づいて、雲雀は嘗て無いくらいに嫌そうに顔を歪めると、また前に出て今度は綱吉から青年を隠した。
「うっ、え、あれ?」
「あまりあの男を見るな」
「恭弥はどっち、だ?」
「あなたの目が節穴だという事は、よく分かった」
 牙を剥いて怒鳴った雲雀に、綱吉は驚いて後ろに身を仰け反らせる。反して青年は、確信めいたものを得たからかぱっと顔を輝かせて背後に花さえ咲かせ、瞳をきらきらさせるといきなり両腕を大きく左右へと広げた。
 そして案の定、雲雀に向かってどこまでも嬉しそうに駆け寄ってくる。
「きょうや~~~!」
「寄るな!」
 当然、雲雀は彼の腕を拒絶して、構えていた拐を遠慮の欠片も無しに繰り出した。
 ドガッ! という実に気味のいい音を響かせ、下から痛烈な一撃を顎に食らった青年の体が、緋色の軌跡を残しながら空へと登って落ちて行く。咄嗟に綱吉は顔を両手で覆って背中を向けた。硬いものが石畳に落ちる音が響き、立ち上った砂埃に咳き込む。
 荒い息を吐く雲雀の憎々しげな気配はまだ治まっていなくて、いったいこのふたりの間に何があったのかと綱吉は泣きそうになった。
「綱吉、帰るよ」
「え、あ、ちょっ」
 その手を乱暴につかまれ、綱吉は肩を痙攣させて足に力をこめた。その場に踏み止まり抵抗を示して、振り向いた先でまだ倒れている青年を気にしながら雲雀を仰ぎ見る。
 いいのか、と青褪めた表情で問いかけるが雲雀は不機嫌に顔を顰めるだけだ。
「いいんだよ」
「けどっ」
 今更思い出すだなんて滑稽すぎるが、青年が呼び続けている恭弥という人物は、雲雀のことだ。
 綱吉は日頃から雲雀を下の名前で呼ばないから直ぐに頭の中で繋がらなかったけれど、考えてみれば青年の姿に見覚えがあるのも当然で、綱吉は過去に幾度か、雲雀の記憶にある青年を垣間見ている。
 餓死寸前の雲雀を拾い、育てた存在。
 命の恩人で、名付け親。
 雲雀が極端に嫌っていて、話に出すだけでも彼は不機嫌になるから詳しくは知らない。けれどこのふたつは間違いない事実で、だから余計に綱吉は彼を放っておけなかった。ふたりの間にどういう確執があるのかは分からないが、雲雀が綱吉の命の恩人である以上、その雲雀を保護した彼もまた、綱吉にしてみれば命の恩人に当たるのだから。
「綱吉!」
「大丈夫ですか!」
 雲雀の手を振り解き、綱吉は臆そうとする心を奮い立たせてまだ寝転がっている青年の元へ駆け寄った。
 後ろから盛大な舌打ちが聞こえる。後で絶対怒られるだろうな、と冷や汗が流れるがそれよりもやることがある、と綱吉は頭を振って一旦雲雀を意識の外へと追い出した。
 青年は雲雀に殴られた顎を赤く腫れあがらせ、仰向けに倒れていた。起き上がろうとするものの四肢への力加減が巧くいかないのかちぐはぐに腕と足を動かしており、さながら陸に揚げられた魚だ。呻き声めいたものも聞こえてきて、草履の裏で温かな石畳を蹴った綱吉は彼の左側に膝をついた。
 両手をその膝の前に置き、身を屈めて上から青年を覗き込む。
 綱吉の身体が影を作り出し、眩いばかりだった青年の光が僅かだが薄れる。長めの髪を方形の石に広げた青年は、苦しげに二度息を吐いて硬く閉ざしていた瞼をゆっくりと押し開いた。
 色を濃くした水色の瞳がふたつ揃い、綱吉の心配そうな姿を映し出す。
 雲雀の闇よりも深い黒の瞳は、凪いだ地底湖を覗き込んだ時のような色合いをしているが、彼の瞳はさながら太陽が天頂にある時の雲ひとつ無い青空に近い。雲雀のそれが穏やかで安らげる色合いをしているのだとしたら、彼の色は希望に溢れて高揚する気持ちを表現していると言い換えられよう。
 漸く焦点が定まって自分をしっかりと見据えてた青年に、綱吉は良かった、と胸を撫で下ろした。
 いくら雲雀が嫌っているとはいえ、育ての親を無碍にあつかうのはやはり宜しく無い。折角訪ねて来てくれた相手を、ろくに話もせずに追い返すような態度だって、なんだか拗ねているみたいに思えていつもの雲雀らしくなかった。
 そう、雲雀らしくない。
 綱吉以外の人間とはあまり交流を持とうとせず、一線置いた上で表面上の付き合いだけに留める傾向にある彼だけれど、こんな風に感情を前面に押し出して誰かを追い払おうとすることは、なかった。あるとすればシャマルくらいだが、それだって雲雀は荒ぶる感情を極力自分の内側だけに押し留め、処理していた。
 ここまで露骨に誰かを毛嫌いする雲雀を見たのは、長い付き合いがある綱吉でも初めてのこと。
「う~……いってぇ」
「すみません、ヒバリさんが。いつもはあんな風じゃないのに」
 両腕に体重を乗せて更に彼の方へ身を寄せる。後方では距離を置いた雲雀が腕組みし、見るのも嫌だと言いたげな態度でそっぽを向いている。その辺りもいつもの彼らしくなくて、試しに伝心で何をそんなに怒っているのか聞いてみたが、返事はなかった。
 本当にわけがわからない。青年に向き直り、綱吉は赤くなっている彼の顎にそっと手を伸ばした。
 恐々指で触れてみる、その感触が痛かったのか彼は一瞬だけ瞼を閉ざして息を止めたが、綱吉に己を害する意図が無いと直ぐに悟って空色の瞳を瞬かせた。
「平気ですか?」
 なるべく刺激しないように傷口を撫でてやる。雲雀にやる時と同じ要領で、呼吸を整えて相手の生命の流れに自分の脈を合わせてやれば、触れ合った箇所から温かな熱が生じて青年は僅かに驚いた顔をした。
 見る間に傷が癒え痛みが引いていく。顎どころか最初に受けた打撃の傷までもが綺麗に消え失せていくのが分かり、上半身を起こして地面に座った彼は傍でしゃがみ込んでいる綱吉を丸く見開いた瞳で見詰めた。
「まだどこか、悪いところはありますか?」
「頭」
「ヒバリさんに聞いてません!」
 背筋をしゃんと伸ばした綱吉の問いかけに、後ろの雲雀があんまりなことを言い放つ。呆然としている青年は無反応で、憤慨した綱吉が怒鳴っている間に持ち上げた手で、不意に彼の甘茶色をした髪を撫でた。
 触れられた感触に首を捻り、綱吉が振り向く。
「お前」
「はい?」
 茫然自失とした表情の青年に間近からじっと見られ、綱吉は不思議そうに首を傾けた。膝に預けていた右手も取られ、きつく握られる。
 雲雀よりも大きく、逞しい手だ。最初に握られた時は驚いて肩を震わせてしまったが、それ以上してくる様子もなくて綱吉は力を抜く。なんですか、と視線で問いかけても反応はなく、後ろの雲雀の様子も段々と雲行きが怪しくなってきて綱吉は冷や汗を掻いた。
 放して欲しいと頼むにしても、特に何かされたわけではない。振り払うのも悪い気がするし、そもそも其処までする理由が雲雀に睨まれているから、では説得力に著しく欠けるというもの。
「あの」
「――?」
「え?」
 どうかしたのか、と問おうとした矢先、青年は不意に口を開いて誰かの名前を呼んだ。
 恭弥ではなく、綱吉でもなく、全く別の、聞いた事も無いような知らない名前を。
「……違いますよ?」
 怪訝に眉を寄せて返せば、青年は明らかに落胆めいた表情を作って視線を落とした。手は相変わらず握られたままだったけれど、よくよく注意してみれば微かに震えているようでもあって、綱吉は余計分からなくなり頭に疑問符を幾つも浮かべた。
「いや、悪い。なんでもない」
 誰かと勘違いをしたのだろうか。つくづく早とちりに多い人だな、と綱吉は肩を竦めて小さく笑った。
 雲雀と自分とでは似ても似つかない容姿をしているのに、間違えて飛びついてきたくらいだ。その雲雀には、頭が悪いと容赦なく断言された。
 綱吉も大概馬鹿と謗られる知力しか持ち合わせていないけれど、山本と獄寺を取り違えて呼んだりはしない。よっぽど気が焦っていたのか、興奮していたのか、どちらかだろう。
「えっと、確か……ディーノ、さん、ですよね」
「さん付けしてやるような奴じゃないよ、綱吉」
「……」
 どこまでも棘のある雲雀の声に後頭部を殴られ、綱吉はどうしたものか、と苦笑いを浮かべる。
 毛嫌いしている、という程度の嫌い方ではない気がしてきた。これまでディーノの名前を呼ぶだけでも不機嫌になっていたことを思えば、当然の反応なのかもしれないが。よもや此処までとは。
「あ……ああ、うん。そう」
「俺は、沢田綱吉っていいます」
「あ、お前が」
 よく見れば雲雀とはまるで別人の、知りもしない子供に名前を呼ばれてディーノは一瞬だけどきりと表情を強張らせた。しかし次に綱吉が名乗りを上げた瞬間、頬の硬直を緩ませ、成る程なとひとり納得する様子を見せた。
 綱吉が首を傾げる。誰かから自分の事を聞いていたのだろうか、と瞳を泳がせるが、盗み見た雲雀も怪訝な顔をしており、どうやら彼がディーノに綱吉の話をしたわけでもなさそうだ。
「そっか、お前が。どうりで」
 似ているはずだ、と石畳に座りなおしたディーノがひとりごちる。益々わけが分からなくて綱吉が唇をへの字に曲げると、彼は声を立てて笑い、陽光に鮮やかな金髪を煌かせてこっちのこと、と話題を誤魔化してしまった。
 顔を見合わせた綱吉と雲雀を横から目を眇めて眺め、胡坐を組んだ脚を軽く崩してそこに肘をたてる。これで煙管でも持っていればどこぞの道楽息子に見えなくも無い寛いだ風貌に、綱吉は未だに彼に片手を取られたままだというのを思い出した。
 握られている掌は暖かく、心がほっこりと和らぐものが流れ込んでくる。日々を天空から見守ってくれているお天道様の輝きにも似ていて、綱吉は自分の右手を見詰めてからおずおずと彼の顔を下から見上げた。
「あの、手」
 治療は終わっているのだし、そろそろ放してくれてもいいのに。背中に突き刺さる雲雀の視線もいい加減限界に近づいているし、これ以上彼を怒らせるのは避けたい。だがディーノはお構い無しでからからと愉快そうに笑うと、放すどころか逆に綱吉の腕を強く引っ張り、体勢を崩した彼を胸へと招き入れた。
「わっ」
 予想していなかっただけに綱吉の上半身は簡単に傾いて、待ち構えていたディーノの分厚い胸板に左手から落ちていく。雲雀以上に着崩しが激しい彼の肌に直接頬が当たり、焼けるような熱さに綱吉は反射的に悲鳴をあげた。
 自由の利く腕で押し退けて逃げようとしたのに、素早くがっちり両手で背中を拘束されて動けない。
「えっ、えええ!?」
 しかもディーノは無遠慮に綱吉の体を膝ごと引っ張り上げ、崩した胡坐の上に移動させてしまう。体格が大きい分、すっぽりと綱吉を抱え込んでしまった彼の打ち掛けが踝を擽った。
 背後で、非常に不穏な空気の揺らぎを感じる。
「ん~……それにしても、すっげー良い匂い。お前、良い子だなー」
「ちょっ、ええ、待って。やっ……」
 首筋に鼻を埋められ、くんくんとそれこそ犬みたいに匂いを嗅がれる。耳朶に触れる柔らかな髪がくすぐったい上に、調子に乗ったディーノが舌を伸ばして薄い皮膚を軽く舐めてきたものだから、思わず上擦った声をあげてしまった綱吉は直後はっとして、後方に渦巻く黒い気配に身の毛を弥立てた。
 ズゴゴゴ、という地鳴りが聞こえてくるようでもある。それなのにディーノはちっとも構わずに綱吉をぎゅむっときつく抱き締め、嬉しそうに目を細めて笑っている。
「あー、もうお前、本当良い子だ~。恭弥もお前みたいに素直で可愛かったら良かったのに……どこで間違えたんだろ。今からでも遅くないから、お前、俺の息子になんね?」
「いや、ですからちょっと……はなっ」
 気のせいだろうか、さっきもこんなやり取りをした覚えが。
 あの時は、確か。
「あー、もうお前、可愛すぎ。やわらけ~、いいにおい~」
「うぇあぅぁ、やだ、どこ触って!」
 もぞ、と動いたディーノの手が綱吉の細い腰を撫で、下へ降りていく。本人は安定が悪い綱吉の体勢を整えてやろうとしたのかもしれないが、丸みのある尻を大きな掌で掴まれて綱吉は一際甲高い悲鳴をあげた。
 ぶちっ、という何かが切れる音がした。
「貴様……今日こそ殺す!」
「うぉわっ、恭弥、あぶねーだろうが!」
 雲雀の怒号が奔り、それまでディーノが綱吉ごと座っていた場所に青銀の残影を刻んで拐が叩き込まれた。
 寸前で避けたディーノが、緋色の打ち掛けを翻して綱吉を抱えて距離を取り、着地する。その仕草はどこまでも優雅で悠然としており、片腕で支えられた綱吉はいったいいつ、彼が立ち上がって後方へ跳んだのかさえ分からなかった。
 目を瞬かせ、すぐ間近にある整ったディーノの顔を凝視する。
 そうだった。彼は人の外見を模してはいるものの、中身はまるで異なる存在なのだ。
 最初に感じ取った強烈な神気を思い出すと、鳥肌が立って寒気が舞い戻ってくる。今は幾分彼も控えてくれているが、肌が触れ合う場所はまだ焦げ付くように熱く、痛い。
「大丈夫か?」
 じっと見ていたからだろう、視線に気づいたディーノは気遣う声を発して綱吉の頬を指で擽った。
 指の背に巻き込まれた頬の肉が持ち上がり、一緒になって綱吉の視線も持ち上がる。
 見詰める先のディーノは太陽を背負って眩しく、自然と目を細めた綱吉の表情の変化に、彼は不安を感じていると勘違いしたのだろう。もう一度大丈夫、と囁いて脇腹から腰に回している腕に力を込めた。
 身長差がありすぎて、綱吉の爪先は地についていない。不安定さが怖くて伸ばした手でディーノの衿を握り締めると、真っ二つに敷石を割り砕いた雲雀からどす黒いものが立ち上るのが見えた。
 伝心で、そんな男に抱きつくんじゃない、と怒られる。
 ――俺が悪いわけじゃないのに~~~~!
 だってこうしていなければ、いくらディーノが担いでくれているとはいえ身体は重力に引っ張られて下にずり落ちていく。そもそも今こうしているのだって、雲雀が問答無用でいきなり綱吉ごとディーノに殴りかかってきたからだ。
「恭弥、危ないだろ。それしまえって」
「黙れ。綱吉を放してさっさと帰れ」
 取り付く島も無いとはこの事か。お互い、まるで聞く耳持とうとしない。
 血の繋がりはなかろうと、このふたりは確かに、どこか、似ている。
「帰れって、折角尋ねて来た親に向かってその態度はないだろー」
「誰が親だ、誰が!」
「俺、俺だって」
「頼んだ覚えはない!」
 自分を指差して主張するディーノと、突っぱね続ける雲雀。意見の一致は永遠にやって来ないだろう喧々囂々としたやり取りに、綱吉は遠い目をして溜息をついた。
 もうどっちでもいいからと投げやりの気分で痛むこめかみに指を置く。
 遠い空高く、鳶がのんびりと円を描いて飛び去っていった。

2007/9/4 脱稿