魂迎 第一夜(中編)

 今日も暑い。
 神社の裏手にある井戸から水を汲み上げ、桶と杓子で境内に撒いて回るものの、あっという間に蒸発して乾いてしまう。地表全体から湯気が立ち上っている感じがして、額の汗を拭った綱吉は空っぽになった桶の中に濡れた柄杓を放り込んだ。
「あっち~」
 両手を団扇にして風を呼び込んでも、生温い空気が肌に張り付くだけで気持ち悪いことこの上ない。打ち水で玉砂利が持つ熱を冷まそうとしたのだけれど、失敗だっただろうかと一気に上昇した湿度に舌を出す。
 井戸水を汲みに行った際に確かめたランボも、連日の暑さにかなり参っているらしく可哀想なくらいに枝振りがぐったりしていた。ただ、今の時間に水をやっても日中の陽気に熱せられて湯になってしまい、余計神木の根を傷めかねない。
 日が暮れる前、せめて夕立があれば良いのだけれど、とすっかり弱りきっているランボの頭を撫でてやった綱吉だが、彼らの頭上には陽光を遮る雲さえ疎らだった。
 これでは野良仕事に出ている里の者たちも大変だろう。夏前に雲雀が出した雲読みでは、今年の夏から秋にかけてだと、程よく空気は湿り、風が吹くとされていた。しかしここ数日は熱波が押し寄せ風も少なく、盆地であるが故に熱がこもりやすい並盛の里は、まさしく灼熱地獄に追い遣られていると言っても過言ではない。
 不幸中の幸いでまだ水は枯れていないものの、この陽気が冬の入り口まで続くとしたらどうなるかは、解らない。
 最悪、並盛山の地下水脈にまで手を出さなければならない事になるのか。懸念は晴れず、綱吉は物憂げな表情で桶を両手に抱え込んだ。
 山葵色の着物の袖が少し濡れ、色が濃く変わっている。だがそれも、放っておけば勝手に乾いて元に戻るだろう。使い終えた道具をもと在った場所に戻し、今度は逆さに立てかけていた竹箒を手にして境内へと戻った綱吉は、神社の本堂の影から出た瞬間自分に浴びせられた容赦ない太陽光に目をつぶり、身を竦ませて身体を強張らせた。
 何故だろうか、最近少しだけ、この太陽の陽射しが恐ろしく思えるのだ。
 雲雀に言っても笑われるだけだろうから言わないが、意識するようになったのは夏越しの祓えが終わった辺りからだ。例年ならその辺りから徐々に涼しさが戻って来るのに、また夏が巡ってきたかのような日々に、謂れも無き恐怖心が綱吉の心を締め上げている。
 嫌な予感がするのに、その発生源が解らないから困る。
 そっと左胸に右手を押し当て、綱吉は呼吸を整えながら山にいるはずの雲雀の気配を追って顔を上げた。
 東から照りつける太陽に目を細めながらも、懸命に色濃い緑の中に佇む気配を追い求める。そして微かに捕らえた雲雀の存在に綱吉はホッと息を吐いて、彼の視覚を通して僅かに伝わる水の冷たさに全身の強張りを解いていった。
 指を一本ずつ折り畳んで握ってから広げ、箒の柄で肩を軽く交互に叩く。この程度の暑さでくたばっているようでは、農作業で精を出している人たちに笑われてしまうだろう。もっと身体を鍛えて腕力も身に着け、誰に見せても恥かしくない強靭な身体を手に入れたい。
 しかし見詰めた先の自分の体はいかにも貧相で貧弱で、歳の割にあまり成長の兆しが見当たらない。
 同い年の山本や獄寺はどんどん背丈も伸び、体つきも立派になっているというのに、だ。
 両手で箒を抱いた綱吉は、俯いた視界に見えた参道の石畳に転がっていた石を何気なく蹴り飛ばした。
 小さくて、か弱く、術も全く使えず、ただ無駄に見えなくて良いものまで見えるだけの自分。雲雀が居なければ生きていくことさえ出来なくて、自分で自分を生かすだけの栄養分を作り出すことも出来ず、強引に体内に組み込んだ歯車で心臓を動かしているだけの。
 雲雀を地上に縛り付ける、巨大な錘。それこそが沢田綱吉という存在の正体だ。
 蛤蜊家十代目の資格など、自分にはどこにも無い。妖を滅する術も無く、ただ見守ることしか出来ぬ自分にそんな大役が務まるはずが無い。
 受けるべきではなかった、どうにかして今から返上できないものか。ぐっと握り締めた手に竹のささくれが突き刺さるが、そんな痛みなど小さすぎて綱吉は構いもしなかった。
 願いはひとつだけ。雲雀とふたり、ひっそりこの里で生き、死んでいくこと。
 それが叶うのなら、他に何も要らないのに。
 綱吉の小さく、本当に些細な願いさえ聞き入れられぬまま、彼の与り知らないところで様々な思惑が絡み合い、また反発しあって状況はどんどん先へ動いている。綱吉自身はなかなかそこに追いつけず、後から知らされるばかりで、故に自分が事の中心に在るという自覚が薄い。
 薄いが故に、他人事のように見てしまう。輪の中央に自分が居るはずなのに、その輪を綱吉は外側から眺めているのだ。
 本家で今何が起こっているのかを、綱吉はまるで知らない。退魔師を狙って各地に出没しているという謎の存在の事項もまた、綱吉に直接話は届いていなかった。
 もっともそれは、綱吉が蛤蜊家十代目に内定しているとはいえ、彼本人がまだ退魔師の資格を有していないからなのかもしれないが、それにしても随分と蔑ろにされている気分は否めない。
 山本が持ち帰った情報は、彼の戻りが遅かったためにまだ開示されていない。今現在どういう状況なのか、どう対処していくつもりなのか、犯人の目星はついているのか等々、綱吉は何も知らない。
 昔のように力があれば、と最近はたまに思うことがあった。
 けれどそれは、雲雀の存在そのものを否定しかねない危険な思考だ。
 あの時はああする他無かったし、今も後悔はしていない。広げた小さな手をじっと見詰め、綱吉は溜息を零し空を仰いだ。
 自分がこの先どうしたいのかが、解らない。
 蛤蜊家の十代目となるのか、それとも並盛に残って沢田の家を継ぐのか。退魔師となるのか、それともこのまま曖昧な状態で過ごすのか。
 雲雀といつまで一緒に居られるのかも、解らないというのに。
 箒を握る手に、無意識に力が篭もる。
 それは、――それだけは、嫌だ。
 自分が先に逝ってしまうことは、分かっている。
 死ぬのは怖くない、どうせ遅かれ早かれ誰にでも平等に訪れるものなのだから。
 怖いのは。
「……?」
 俯いて暗くなった視界の影が、濃くなっている。目を瞬かせた綱吉は思考を中断させ、おや、と首を横に倒した。
 なにか、おかしい。変な感じがする、具体的にどこがどう変なのかまでは不明だけれど。
 風がざわめいている。神社の二方向を囲む緑の木々は軒並み総毛だって葉を折り畳み、枝を下げて頭を垂らした。地表を走る気脈が螺旋を描き、何かに呼応して陽炎を作り出している。渦を巻く大気の流れに取り残され、綱吉は煽られた前髪を避けて目元に腕を持ち上げた。
 箒が攫われそうになり、左手で必死に握り締めて胸の中に抱き込む。着物の裾が大きくはためいて布が足に絡みつく、軽量な綱吉は身体を持っていかれないようにと懸命にその場で足を踏ん張らせた。
 ばさばさと布が乱れて綱吉の身体を叩き、顔を上げる事も出来なくて息苦しさに喘いだ綱吉は首を窄め、身を丸めて姿勢を低くした。箒をつっかえ棒代わりにしながら玉砂利が音を立てて転がっていく様に冷や汗をかく、勢い良く境内をかき回しているそれに当たれば、怪我をするだけでは済まないかも知れない。
「なに……?」
 呟きはしたが、音は即座に風に流されて耳に届かない。急速に体温が冷えて頭上が翳っていく、しかし苦労して盗み見た空は青く晴れていて、並盛神社だけが世界と切り離された箱庭に思えた。
 上空に立ち上ろうとする気配と、上から落ちてくる何かが和合し合い、互いを強めて渦巻く神気の濃度を高めていくのが分かる。呼吸のひとつにも体力の消費が激しくなり、ぜいぜいと息を吐いた綱吉は幼い喉仏に掌を重ね合わせて温い唾を飲みこんだ。
 足は掬われそうなのに、頭は上からの圧力で押し潰されそうだった。一瞬でも気を抜けばどうなるのか想像も出来なくて、綱吉は必死に状況を読み取ろうと意識を外へと飛ばした。しかし正体のつかめない巨大な力の奔流を感じられるのに、その何かがまるで見えてこない。
 胸の中に沸き出でる幻影は、強烈な金色の光。
「っ……」
 圧迫感に全身が悲鳴をあげる。荷車に轢かれた蛙の亡骸を思い出した、あんな風になるのだろうかと思うとこんな状況なのに可笑しくて、綱吉はつい笑ってしまいそうになる。
 ――ヒバ、リさ……っ
 呼び声に反応が感じられないのは、高密度の神気が綱吉と雲雀の間に張られた繋がりを阻害しているからだ。魂の一部を結合させているふたりの間に割って入れるだけの強力ななにかが、並盛神社に迫っている。
 落ちてくる、と表現すべきなのか。
 上からの圧力は時間を置くごとに強まり、綱吉は箒を持ち続けるのも困難になってその場で膝をついた。広げた掌に参道の石畳が触れ、ざらざらした感触が皮膚に押し付けられる。跳んできた玉砂利の欠片が左肩に当たって、仰け反ってそのまま後ろへ持って行かれそうになった上半身を懸命に立て直した。
 もう一度同じことが起こったら、危険だ。本能が察する警告に汗を垂らし、綱吉は開けたままでいられない瞳を瞼の奥で動かした。
 里にも影響が出ている可能性もある。このままでは拙い。
「なんとか、しないと」
 しかし、どうやって。
 気ばかりが急いても意味を成さない。姿勢を低くしたままぐっと腹に力を込め、彼は臼歯が磨り潰れるくらいに奥歯を噛み締めて首を上げた。
 落ちてくる――否、降りようとしている?
 この感覚は、雲雀山の夜の事を思い出させる。あの時もこんな風に周囲の木々が、乱れ狂う蛟の、竜に変容しようとする神気の渦に巻き込まれて吹き飛ばされ、または押し潰されていった。
 嵐は局地的に、けれど激しく。遠くへと目をやった綱吉は、境内を囲む樹木の多くが枝をしな垂れながらもまるで身体を揺らしていない光景に、僅かながら安堵を覚えた。
 結界が働いている。ならば里に漏れ出る影響は少なかろう、被害が神社の境内のみで済むのなら万々歳だ。
 しかし、肝心の綱吉が境内から動けない。今にも押し潰されてぺしゃんこになる寸前で、どうにか精神をつなぎ止めているだけで。
 ――綱吉!
 そこへ唐突に、頭の中で雲雀の声が弾けた。
「うっ」
 一瞬気を緩めてしまった綱吉は上半身を激しく揺さぶられ、三半規管を狂わされて方向感覚を見失った。ぐわぁん、と頭の上で釣鐘を鳴らされた気分に陥り、胸から迫り上がった吐き気と眩暈に返事が出来ない。
 そうこうしている間にも、綱吉の間近に降りようとしている正体不明の金色は渦の勢いを強め、濃度を増した神気を振り撒き綱吉をそうと知らず押し潰す。ちっぽけな蟻を踏む感覚に近いのだろう、そこに深い感情や感慨、観念は宿りえない。
 雲雀に言わせれば、あれ等の判断基準は面白いか、そうでないか、のふたつにひとつしか存在しない――
「ヒバっ、リさん!」
 よもやこんなところで潰えるとは思ってもみなくて、綱吉は左胸を両手で握り締めると懸命に声を振り絞って彼を呼んだ。
 近くにまで来ているのが分かる、分かるのに見えない。感じない。
 息は乱れ、脈拍は正常さを失っている。全身が焼けるように痛く、飲み込むことが適わなかった唾液が唇の端を伝って顎を濡らした。瞼を開けば眼球が圧力で砕け散る、鼓膜が破れて音さえ聞こえない。人としての感覚が失われていくようで、心さえも粉々に砕かれそうで、綱吉はただひたすら、呪文のように雲雀の名前ばかりを呼び続けた。
 届いて、届いて。此処に居るから。
 助けて、助けて。此処から連れ出して。
 怖い。
 恐い。
 こわい。
 別離はいずれ来るものと諦めさえも抱いていたけれど、こんなにも早く、前触れも無くやってくるのは嫌だ。絶対に。
「っく!」
 ズキン、と心臓が痛む。鳥肌が立ち、全身が戦慄いて綱吉は悲鳴をあげた。
 壊れる。壊れてしまう。
「やっ……だめぇ!」
 みしっ、という音と共に何かが罅割れる感覚が綱吉を襲った。
 違う、違うこれは錯覚だ。恐怖心が綱吉の最も恐れる結末を幻として彼に見せているだけだ。
 しかしこのままでは確実に、幻覚が現実と成り代わる。息を止めた綱吉は体を丸め縮め、自分の胸を庇う体勢を作って蹲った。
 苦しい、恐い。呼び続ける雲雀への声に反応は芳しくなく、涙で滲んだ世界が薄らぼんやりと白く濁って綱吉の前に広がろうとしていた。
 赤い花びらが、一枚。
「…………」
 大輪の花が咲いている。
 目の醒める赤、紅、朱。そのどれにも当てはまらない燃え盛る太陽を思わせる強い光に、眩き金色が花を彩る。例えるならば牡丹か、幾重にも花弁を広げ艶やかでかつ豪奢に。
「う、ぁ……」
 最早呻くことしか出来ない綱吉は、両掌で庇った心臓が徐々に拍動を強め、彼自身のものとは異なる力を外側に滲ませつつある事に遅れて気づいた。
 視線を下向ける、その先で。
「……え――」
 急激な光が。
 青白い、否、蒼色の光が綱吉の手の下から溢れ出し、風も無いのに彼の前髪を掬い上げて頬を撫でた。同時にそれまで綱吉を襲っていた圧迫感は綺麗に消え去り、冷たくも暖かな輝きが柔らかな薄布の如く彼を包み込んだ。
 それはまるで、雲雀の腕に抱かれているような。
「ヒバリ……さん?」
 どくん、と力強く脈打つ己の心臓を見詰め、綱吉は強張っていた表情を緩めるとほっとした様子で安堵の息を漏らした。
 状況はよく分からないものの、もう大丈夫という思いが彼を支配する。雲雀の姿は相変わらず視界の内に入らないが、直ぐ傍に彼が居る安心感が綱吉の心を埋め尽くした。
 蒼空に包まれている感じがする。守られているという実感が、綱吉から恐怖感を払拭した。同時に彼の見た真っ赤な花の存在もつい頭の中から追い出してしまい、だから綱吉はすぐに気付かなかった。
「……ゃ?」
 腕を広げ、自分自身を抱き締めた彼の耳に微かな声が響き渡る。
 秋風に揺れる金色の稲穂にも似た光が、咄嗟に顔を上げた綱吉の眼前いっぱいに広がった。
 瞳が焼ける、と反射的に目を閉じた綱吉の身体が、身構える間も無く何かに思い切り抱き竦められる。事の強引さは雲雀のそれを思わせる、けれど力の込め方、それに腕の肉付きも骨組みも何もかもが彼とはまるで異なった腕が。
「――ぅや」
「え、へ?」
 ぐっ、としゃがみ込んでいた体勢を上に引き上げられ、爪先までもが宙に浮いた。いつの間にか周囲を埋め尽くしていた強大な力の奔流は穏やかな日差しの中に掻き消え、日常の光景が舞い戻ってきている。けれど矢張り最初とは何かが違う空気に鼻を鳴らした彼は、地に足が着かない現状に慌てて喉を引き攣らせた。
「なっ――」
 何が起きている?
 一秒ごとに状況が目まぐるしく変化し、理解が追いつかない。目に見える世界は変わっていないのに確かに並盛神社は一種異様な気配に包まれていて、けれどそれが結界を侵すような邪悪なものではないから余計にややこしい。
 意を決して瞼を持ち上げれば、日の光を浴びて輝く金色の近さに綱吉は目を見張った。その下には彼が知るどの赤よりもはっきりとした緋の打掛が。
 綱吉からは見えないけれど、綿の入った打掛には色とりどりの花が咲き乱れ、右の袂から裾にかけて一際目立つ大振りの牡丹。背面には金色の馬が天を駆ける刺繍が施され、絢爛豪華極まりない。
 肌触りは絹に近いが、綱吉が知っている絹よりももっと柔らかく艶があって、心地よい。胸元に置いたままだった腕は間に挟まれて、手の甲が幾度と無くその派手な色打ち掛けを擦った。痛くはないし、布目に引っかかることも無い。この世の織物なのかと疑いたくなるが、いつまでもこうしている訳にいかなくて綱吉は必死に身を捩り拘束から逃れようと試みた。
 けれど抵抗すればする程、強固に彼を縛り付ける腕は容赦ない力を加えて来た。
「でかくなったな~、可愛くなったな~~。見違えて直ぐにわかんなかったぞー、きょ~や~」
 ぐい、と背中を抱かれたかと思えば左の頬に温かみを感じた。頬擦りされているのだと気づいたのは二秒後で、全く知らないその体温に綱吉は背筋が粟立ち寒気さえ覚えて全身に鳥肌を立てた。
 ひっ、と悲鳴を飲み込むが相手はお構いなしに綱吉に抱きついて離れない。
「あー、もう。こんなに可愛くなってるとは思わなかった~、見違えたぞ恭弥。って、あれ、お前確か黒髪じゃなかったっけか。んー……でもいっか、今のがずっと可愛いし、俺は好きだな~」
 ぐいぐいと綱吉を自分の側へと引っ張り、頬を寄せて隙あらば額に口付けが落ちてくる。手で押し返してやりたいところだが力負けして適わず、綱吉は懸命に嫌悪感を噛み殺しながら、記憶の片隅に引っかかっている違和感の正体を懸命に探った。
 そもそも綱吉の名前は沢田綱吉であって、この正体不明の異人が呼ぶ名前ではない。人違いだ、と叫ぼうとしたけれどがばっ、と胸に頭を埋め込まれて呼吸さえ難しくなり、しかも後頭部を抱き込む力はこちらの身体の貧弱さを完全無視の容赦なさで、せめてもの抵抗と爪を立てて腕を引っ掻いてやったのにこれもまた笑いながら「照れるな」と一蹴されてしまった。
「やめっ、ちが……!」
 逃げ出したいのに巧くいかず、じたばたと足を交互に振り回して蹴り飛ばすが、こちらもまるで通用しない。膝で蹴ってもぴくりともせず、無駄な体力の浪費を招いただけで、直ぐに息が上がってしまった綱吉の背中から腰に大きな手が降りて行った。
 撫でる手は優しい。仕草がどことなく雲雀のそれを思わせて、つい気が緩みかけた彼は慌てて首を横へ振って否定した。
 全然違う、まるで別人。それなのに微妙な部分が記憶の中、そして身体が覚えている雲雀を思い出させて綱吉は混乱した。こんな人とは会ったためしも無いのに、懐かしさに似た感覚さえも胸の奥から押し寄せて来るのだ。
「はなし、てっ」
「照れるなって~」
「照れてなんか、……ちょっ、やだ!」
 違うと言っているのに何故聞いてくれないのか。人違いだと突っぱねてもまるで聞く耳持たない相手は、腰に回した腕に力を込めて一層綱吉を引き寄せると、背筋に浮いた窪みにツ……と細くしなやかな指を這わせた。
 ぞわっ、と悪寒めいた感覚が走り抜けていき、一緒に力が抜けて行く。どうしてよりによって其処に触れるのかと、恨み言を言いたくなって綱吉は必死に声を殺した。
「や……ヒバリさん、たすっ……」
「ん~、やわらけー。いい匂いしてるなー」
 首の後ろもがっちりと固定され、頭を振るのさえ不可能な状態にさせられている。出来るのは拳を握り締めて耐えることだけで、肩口に顔を埋めて人の匂いに鼻を鳴らしている男への悪寒と嫌悪と、それ以外の感情にまぜこぜになりながら綱吉は心の中で必死に雲雀を呼んだ。
 こんな風に自分に触れていいのは彼だけなのに、彼以外の存在に触れられて反応しかかっている自分の浅ましさに吐き気がする。
「はなっ……!」
 最後の力を振り絞り、肩の窪地に鼻筋を埋めた男が衿元へ顔を動かした瞬間、綱吉は叫んだ。
「さっさと――」
 その声に覆いかぶさるようにして。
「はなれろ、この色呆けが!」