魂迎 第一夜(前編)

 小石がひとつ、跳ねて急な斜面を転がっていった。
 下草は生えず、黄土色よりも少し浅黒い土がむき出しになって覗いている。空は一面濃い藍色に染まり、雲は無いはずなのに星は瞬きを忘れ、月は己の存在さえも恥じて身を隠した。
 風は無く、生温い空気がねっとりと蜷局を巻いている。汗ばんだ肌には絹織りの胴衣が絡みつき、深淵の闇に覆われた世界に於いて異質な明るさを内包するその存在は、深く、ひとつ息を吐いた。
 その傍で蠢く気配があり、ズズズ、という何かを引きずる音が付随する。左手を軽く掲げて中空に在る目に見えぬ気配を愛おしむようにそっと撫で、指先に感じた冷たく硬く、しかし暖かな感触に零れ落ちそうな大きな瞳を静かに細めた。
 静かに頬を寄せ、右手も持ち上げて軽く抱き締める。空気が動き、鈍い輝きがその華奢な身体を守るように渦を作った。
「……」
 この場にはもうひとつ、異なる気配が。
 互いを思いやる雰囲気を匂わす両者と正面向き合う形で佇む、黒い影。僅かに唇を噛み締めて口惜しさを堪えるそれは、爛々と狂気に満ちて瞳の色を失わず、赤黒く濁って滾る溶岩の熱を思わせた。
 素早く右手に印を結び、詞を用いずに呪を放つ。だがそれは対峙するふたりに届くより早く、宙を駆けた何かによって弾き飛ばされ、霧散した。
 周辺を覆い隠す闇の帳が深くなりこそすれ、肝心の目標を穢すに至らない。尚も悔しげに口元を歪めた男に、此処ではない何処かに思いを走らせていた瞳は、漸く、己の四肢に意識を呼び戻した。
 首の角度を戻し、男を静かに見据える。
 琥珀色の、前日までの罪の一切を赦し、新たな命を刻むように促す朝焼けの太陽に似た穏やかな輝きの双眸を、男は憎々しげに睨み返した。
 握り締めた拳を真横へと薙ぎ払い、風を起こし、新たに呪を刻み込んで大気へ解き放つ。けれど何れも結果は先ほどと同じであり、小柄な影を守る強靭な鱗になす術がない。
 到底超えられるものではない実力差があると、予想はしていたけれど。
「あな憎し」
 声色は震えて、舌が歯の裏に引っかかる。けれど呪詛を吐かずには居られず、男は地団太を踏むべく右足を高く持ち上げ、一寸でも外れれば急峻な坂を転げ落ちてしまえる細い大地を強く蹴りつけた。
 男のことばに、闇の中にあっても一点の曇りもない綺麗な琥珀の瞳は、憐れみを瞼の裏側に隠しながら目を細めた。
「憎し、悪し。許すまじ汝を吾は」
「……なぜ?」
 そこまで恨まれる筋合いは無いと言いたげな声を発した紅色の唇に、男は、憤怒に彩られ今や鬼と化した面を上げ、解らないのかと大声で罵りの言葉を返した。
 そのあまりの罵詈雑言ぶりに、華奢な背を包み守る気配が不穏な空気を醸し出し、命令を無視して男の喉仏を食いちぎってしまおうかと画策した。けれど右手ひとつでそれを制され、沈黙の中で変わらない穏やかな瞳は男をじっと見据え続けた。
 どんな呪いの言葉であろうと、蔑み侮辱し、神経を逆撫でしようとする言葉を発せられようと、今や地底深くの湖面にも増して静かに凪いだ心を揺り動かすことなど、誰にも出来ようがなかった。
「認めては下さらないのですか」
「誰が貴様など!」
 淡々と告げる声に、男はしつこいまでに呪詛を放ち、攻撃を繰り返す。しかし何度やっても同じ結果しか見出せず、男は己の力量の浅薄さに絶望し、類稀なる霊力と精神力、そして神さえも従える相手の気高さを切望した。
 ただ男は決してその心を、羨望だとは認めなかった。
 羨むのではなく、何故自分にその力が宿らなかったのかと、運命を司るものを恨んだ。選ばれたのがどうして自分ではなかったのか、と。
「許さぬ、認めぬ。蛤蜊家などこの世から消え去ってしまえばいい!」
「最早、戻れるものではないのに」
 既に時は動き出した。これまで纏まりを欠き、無用の混乱を招くだけだった多くの霊力者は、一箇所に集約させねばならない。統率する力と、囲う壁が必要だった。
 力あるものが力無きものを圧倒し、踏みにじることが許されてはならない。為政者と結びつき、権力に固執する者は厳しく罰し、私利私欲に走り真に必要とする者たちの声を蔑ろにする行為を見過ごすことは出来ない。
 そうしなければ、自分たちもいずれ「異端」の烙印を押されるだろう――あの鬼達のように。
「彼方と、ここまで相容れないなんて」
「貴方に言われる謂れなどありはせぬ!」
 ジュッ、と空気が焦げる臭いがする。顔を一瞬だけ顰めやるが、毒を含んだ風は一生添い遂げると誓い、守護を約束する鱗によって退けられた。
 案じる気配に、微笑む。
「大事無い」
 有難う、と囁き、呼吸を整える。目の前に在る男は今や修羅の如く怒りに打ち震え、自ら奈落の底へ落ちて行かんばかりの様相を呈していた。
 望めば、それは叶うだろう。そして男は、迷うことなくその道を選び取る。
 止めてやるのが、人としての道理だ。それなのに躊躇してしまうのは、今は違えてしまったけれど、あの頃は確かに一緒に目指した頂きへの道のりで、その苦しさを分け合い、互いを鼓舞して共に進んだという過去が亡骸として目の前に横たわっているからだ。
 何処で決定的に道が逸れたのかはわからない、だが少なくとも、昔の彼はあんなにも暗い眼をしていなかった。
 修行の最中、明らかに先天的な実力差が見え隠れし始めた頃から、何かが狂いだしているのは感じていた。他とはなにかしら違う自分、世界に対して自分が異質だという感覚は常日頃から確かにあって、その世間との感覚のずれが自分たちの心の乖離を招いたのだとしたら、不幸だったとしか言いようが無い。
 救えなかったと、諦めるほかないのか。
「認めない。僕は、私は……」
 考えても詮無いこと、ゆっくりと首を振る。目の前では男が既に人としての形を失い、煮え滾る怨念の炎の塊と化そうとしていた。
「地獄の業火に焼かれようと、修羅の道へ堕ちようと。久遠の時を経て私は必ずこの恨みを晴らしに戻って来る」
 呪詛が続く。聞くに堪えぬ人ならざる声に耳を塞ぎたいが出来ず、ただ俯いて唇を噛む事しか出来ない自分がもどかしい。
 慰めるように背中を撫でる手がある。見なくて良いと言おうとしているのか、前に回ったもう片方の腕が琥珀色の瞳を覆い隠した。
 五指の隙間から透明な涙が溢れ出て、絹の頬を濡らす。複雑な顔をし、いつしか真後ろに立って支えやる青年だけが、塵として消え行こうとする怨嗟の炎を見送った。
 ごめんね、と声にならない声が虚空に響き渡る。懺悔に等しいことばは、果たして届いたか、否か。
 いずれ、また――――
 最後の炎が消える刹那、一陣の風が吹いた。

 蝉時雨が少しだけ遠くなった。
「おはよう御座います、十代目」
「おはよう、獄寺君。……凄い頭、だね」
 土間で奈々の手伝いをしていると、起きたばかりなのだろう、寝癖が酷い獄寺が北側の通路からのっそりと顔を出した。
 毛先が派手に外側へ跳ねていると教えてやると、彼は自分の首裏に手をやって銀髪の現状を確かめ、鬱陶しそうにそれを払いのけた。しかしどれだけ手で押さえても伸ばしても跳ねたそれは元に戻らず、小さく舌打ちした獄寺は綱吉に笑われながら一旦土間へ降り、裏にある井戸に顔を洗いに出て行く。恐らくはついでに頭から水を被り、全身水浸しに近い状態で戻って来ることだろう。
 想像していると笑いが止まらなくて手元がお留守になり、奈々に怒られて綱吉は小さく舌を出した。北口からは、獄寺に続いて山本も、やはり眠そうな顔をしながら欠伸を噛み殺して姿を現す。
「おはよーっす」
「おはよう、山本。朝ごはん、もうちょっと待ってね」
 ぼりぼりと乱雑に頭を掻いている山本は、まだ少し寝ぼけているのか寝間着の浴衣が大いに乱れ、肌蹴ている。普段はきっちりと身なりを整える彼なのに、珍しい。
 しかしそういえば獄寺も随分と眠そうだったし、山本ほどではないが帯の結びもかなり緩まっていたように思う。いつも朝食に出てくる時でもきっちりと寝間着から着替えてくる彼だが、そういえば今日は浴衣のままだった。
「眠そうだね」
 井戸へ行くべく土間へ降りてきた山本に、すれ違い様に声をかける。綱吉を振り返った彼は重たい瞼を頻りに擦りながら、一際大きな欠伸を零してああ、と頷いた。
「蚊が五月蝿くてよ~。真ん中に寄ったら、獄寺の奴が」
「てめーが境界線越えてくっからだろ!」
 何処から聞いていたのか、勝手口の前で案の定水浸し状態の獄寺が怒号を上げた。話を中断させられ、揃って顔をあげた綱吉と山本は、片方はそうだっけ? と首を捻り、片方はなんとなく事情を察して曖昧に笑いで場を誤魔化そうとした。
 奈々は呑気に鼻歌を歌いながら味噌をかき回している。
 この季節は板戸もほぼ総じて葦戸と入れ替え、家中の通気を良くして日中の暑さを凌いでいる。このところは幾分涼しくなってきたとはいえまだまだ日中の陽気は納まる気配を知らず、温められた空気は日が暮れてからもなかなか下がらない。蒸し暑さは夏の盛りよりもむしろ増していて、風を求めて夜半でも戸は開けっ放し。
 だから虫除けに、眠るときは蚊帳を吊るす。
 獄寺と山本が言い争っている原因は、この蚊帳だ。
「どうして仲良く出来ないのかな」
 喧々囂々、土間の東西に分かれて口論を始めたふたりを眺め、綱吉は額に手を当てて盛大にため息を零した。
 蚊帳は現在、この沢田家に三つある。これでも数を増やしたのだ、昔はふたつしかなかったのだが山本が退魔師の修行の為に居候するようになって、彼の為にひとつ新調している。残るふたつのうちひとつは、奥座敷で奈々と家光(家光は不在だが)が使用し、もうひとつを綱吉と雲雀が離れで使用中だ。
 問題になるのは、元々山本がひとりで使っていた蚊帳だ。
 彼がひとりであるならば問題はなかったのだが、今は獄寺もまた同じ釜を食う仲間。蚊帳は元々ひとりで使うものではなく、ひと家族くらいならば余裕で布団を並べて眠ることが出来る大きさがある。
 先だって道場及び離れの改築工事を終えたばかりの沢田家には、あまり無駄な出費をする余裕が無い。基本は節制であり、無論蚊帳も例外ではない。
 獄寺がどれだけ嫌がり、山本が渋ろうとも、彼らを奈々と一緒に寝かせるわけにもいかないのだ。そして綱吉と雲雀も、極力自分たちの生活圏に彼らを招き入れたくは無い。
 とどのつまり、残るひと張りは獄寺と山本両者が分け合って仲良く使ってください、と。
 だがふたりの仲の悪さは一朝一夕で改善されるはずもなく、枕を並べて布団を敷こうものなら先に見つけた方が相手の分を外へ放り出し、後から見つけた方がまた自分の布団を戻して相手の布団を外へ。夏の始め頃はこのやり取りが連日続き、取っ組み合いの喧嘩も日課の如く繰り返された。
 最終的に蚊帳が無ければとても眠れないのはお互い分かっているものだから、綱吉の仲裁もあって蚊帳の中心に境界線を引き、相手側に立ち入らないという条件でふたりは妥協しあった。
 の、だけれど。
「てめーなんざ、一生帰ってこなけりゃ良かったんだよ!」
「んだとこら、やるか?」
 寝起きだから余計に頭に血が上りやすいのか、いつもは飄々と獄寺を受け流す山本も、売り言葉に買い言葉で拳を握り骨を鳴らして彼を威嚇する。
 勿論彼の機嫌が悪いのは、まだ夏の余韻が抜けない蒸し暑さから来る寝苦しさによるものだけではない。彼は昨日まで沢田の家、ならびに並盛の里を離れていたのだ。
 本家からの呼び出し、大至急と言われて大祓えの日に出立してから十日と少し。異例の長期拘束を終えて漸く帰り着いた山本は疲れも絶頂に達しており、陽だまりに干されてふかふかになった布団で早く眠りに就きたかったに違いない。だから彼が居ない間、悠々と蚊帳の中央を占領して寝入っていた獄寺の姿を見た瞬間、堪忍袋の緒が切れた。
 離れに居た綱吉は知る由もないが、かなりの大騒動だったらしい。それこそ命のやり取りに至る可能性も否定しきれない状況の間に立ったのは、喧嘩両成敗が得意なリボーンだ。尤も彼が姿を現したのは、単に夜も更けて草木も眠る時間帯なのに喧しく騒ぎ立てるふたりに痺れを切らしただけなのだろうが。
 兎も角そういった経緯があって、山本も獄寺も寝不足だし、不完全燃焼で機嫌が悪いまま。一触即発の事態は日が昇ってからも続いていて、土間には不穏な空気が漂い続ける。
「前から思ってたが、てめーはきにくわねぇ!」
「奇遇だな、俺もだ」
「こーーらーーーー!」
 本格的に殴り合いが始まりそうな雰囲気に、先に切れたのは綱吉だ。
 奈々もいつしか作業の手を止めて事の成り行きを見守っており、穏やかな笑顔はいつもと変わらないものの、ぴしぴしとなにやら彼女を取り巻く空気が静電気を発している。綱吉はそんな奈々の前に出て彼女の視界を塞ぎ、濡れたままの手を腰に当ててふたりを思い切り睨みつけた。
 此処は喧嘩をする場所ではない、食事をして団欒する場所だ。
「山本! 獄寺君も」
 ふたりを交互に見上げ、出来る限りの眼力を持って二人を威圧する。迫力は雲雀に劣るが、そもそもこのふたりは綱吉が一番の弱点であり、彼に睨まれた彼らは途端に勢いを削がれ、しゅんと項垂れた。
 ただ、お互い相手が悪いという部分は譲ろうとしない。
「だってさー、そもそもこいつが」
「てめーこそ」
「ふたりとも?」
 にっこりという文字を背後に背負った綱吉が、こめかみに青筋を立てて瞳を細めやる。
 彼の背後では奈々が、益々菩薩様のような笑顔に磨きをかけていた。
 どちらかと言えば、綱吉は血みどろの争いを始めようとしていたふたりよりも、背中に感じるただならぬ気配の方が恐ろしい。
「喧嘩するなら、外で。ね?」
 解放されたままの勝手口を指差し、綱吉はふたりいっぺんに視界に収めて可愛らしく小首を傾がせた。
 出来るならば穏便に事を済ませたい、間違っても改心前の鬼子母神を呼び起こすのだけは遠慮願いたいのだ。
 だが尚もしつこく食い下がろうとするふたりの見苦しいばかりの言い訳振りに、最終的に綱吉は匙を投げた。額に手をやり、溜息と同時に首を振る。これは一度、本格的に、お叱りを頂戴した方が彼らの為であろう。
「母さん、俺、神社掃除してくる」
「あら、朝ごはんは?」
「……いらない。あと、好きにして」
 食欲は元々無かったし、今のやり取りで完全に食べる気力は失せた。
 ふたりをお願いします、と奈々に会釈をして綱吉は踵を返す。実に中途半端なところで放り出される格好となった獄寺及び山本は、同時に目を見張って綱吉の背中に縋る視線を投げかけた。
 しかし彼は振り払うように扉の向こうへと消えてしまい、小さな足音もすぐに聞こえなくなる。
 取り残された山本の、宙に漂うやり場の無い手が虚空を掻いて彼の胸元に戻された。行き場を失った感情の矛先は、自然と怒りに変換されて対峙する獄寺へと向けられる。彼もまた、山本同様に引っ込めた手の置き場に困って硬く拳を作っていたところだった。
 ふたりの視線が交差し、ぶつかり合った場所で火花が散る。
 いっそここで決着をつけようか、そんな空気がふたりの頭上を覆い隠そうとした、その時。
 ぱん、と甲高い乾いた音がひとつ土間に響き渡った。
「隼人君、武君」
 両手を胸の前で叩き合わせた奈々が、どこまでも慈愛に満ちた笑顔を浮かべてふたりに笑いかけている。虚を衝かれて再びぽかんと口を間抜けに開いた彼らは、ビアンキではあるまいに、奈々の頭に巨大な角が生えているのを見た。
「いえ、あ、はい。あの」
「なななななんでしょう」
 ふたり同時に挙動不審におろおろと、わけも無く怯えを放つ。奈々が一歩草履で彼らににじり寄れば、ふたりはその倍の歩数後ろへ下がろうとした。
 雲雀は怒らせれば怖い、綱吉も言わずもがな。
 だがこのふたりですら逆らおうとしない人物が、沢田家に存在していた。
 なんの能力も持ち合わせていないが、特殊な環境と言える沢田家に堂々と居座り、多少の超常現象では動じず、むしろどんと構えて憚らない。ちょっとやそっとでは動揺せずに、それが逆に直ぐ気が動転してしまう綱吉にとって救いとなっている人物。
 肝っ玉が据わっているというべきか、伊達に長くこの特殊環境で日々を過ごしていない。
 奈々の怖さは、綱吉も雲雀も、幼少期から痛いくらいに思い知らされている。
「ふたりとも、今日は夕食まで抜きね?」
「え」
「げっ」
「それから、厠と風呂場の掃除もお願い。厠は勿論両方ね、しっかり綺麗に磨いておいてね。あと畑の畦も崩れてきているから直しておいてくれるかしら、農具も痛んでいるのがあるから修理して使えるようにしておいてね。奥座敷の葦戸がちょっとたてつけ悪くなってたかしら、あと座敷の障子も穴が開いていたから張り替えてくれる? それから竃も煤が溜まってきているからお掃除お願いね。それと……」
 優しい笑顔を崩しもせず、目を細めた奈々が矢継ぎ早に次々と用事をふたりへと押し付けていく。そのどれもが面倒極まりなく、とても一日で終わる仕事量ではないと彼女も分かりきっているだろうに、全く意に介そうとしない。
 段々と顔から血の気が引いていくふたりは顔を引き攣らせ表情を硬直させるが、にじり寄る奈々はまだ言い足りなさそうで、指折り数えながら後何があったかしら、と小声で呟いている。
 綱吉が逃げた理由を、獄寺は今頃理解した。
 この家の大黒柱は、間違いなく彼女なのだ。彼女が飯炊きを放棄した場合、自分たちがどうなるか。楽に飢えて死ねるだろう事は、春先の出来事でも経験済み。
 つまり子供達を太らせるのも、やせ衰えさせるのも、彼女次第という事。過去奈々に逆らい、彼女を怒らせてこの家で無事だった存在は、皆無。
「う、いや、あの……」
「おねがいね?」
 天女の如き笑顔を向けられ、終には獄寺、山本両氏共に観念したらしい。力なく肩を落としたふたりは、日頃の仲の悪さが嘘のように、ほぼ同じ調子で項垂れながら頷いた。
 

 風がそよぎ、鳥が囀る。水音は絶えず響き、轟音と共に砕け散る滝壺の飛沫は遠く離れた池辺にまで到達する勢いだ。
 しかし一時に比べると水量が減っているのは明白であり、雲雀は切れ長の瞳を細め滝の流れに逆らい視線を上空へと持ち上げた。
 緑に埋め尽くされた頭上から零れ落ちる陽の光は眩い。もう暦の上では夏を過ぎ、秋に到達している。それなのに夏の余韻を色濃く残す陽射しはむしろ日を追うごとに勢いを増すばかりで、近隣から聞こえ来る降雨不足による旱魃の被害は相当なものになろうとしていた。
 此処まで雲読みの予測が外れたことなど、この十年一度も無い。
 雲雀は右手を硬く握りこみ、何も無い中空に強く叩き付けた。
 苛立ちが焦燥感を募らせる、結果を出したときはこれで間違いないと疑いようも無かったものが、今は脆く崩れ落ちて砂の上に書いた文字にも等しいものと成り果てている。幸い並盛は本格的な夏が来る前に大量に降った雨と、もとより豊かな地下水脈に支えられて大きな被害は出ていないが、かといって里だけが無事ならばそれで良いわけでもない。
 何かが可笑しい。
 違和感は常に、雲雀の背中――首の裏側にちりちりと張り付いている。
 それがいったいいつからなのかは、本人も解らない。けれど気付いた時にはもう、産毛を炒るような熱がそこにまとわり着いて、どうやっても剥がれないのだ。
 握った拳を振り解いた雲雀は、今もまた曖昧な熱を放つ首筋に手を回し、汗を拭って骨の窪みに指を添えた。こうして触れて暫くすると、感覚は遠ざかって何事も無い状態に戻るのだが、放っておくとまたいつの間にか、太陽がその部分だけを照らして肌を焦がしている感覚に陥いる。
 あまり心地よいものでもなくて、雲雀は首を振り、跳んできた飛沫に額を濡らした。汗を吸って湿気ている前髪を梳き上げ、息を吐く。
 思い当たる節が全く無いわけではない、だが可能性は皆無の筈だ。間違っても、あってはならないことなのだから。
 幼き日に垣間見た光景は、数少ない記憶のひとつとして今も瞼の裏に焼きついている。それだけ強烈な印象を与えたあれが、野に解き放たれることなど。
「……いや、どうだか」
 但し全く不安材料が無いわけではなくて、それが余計に雲雀を苛立たせている。否応無しに呼び起こされる過去、沢田の家に引き取られる以前の自分は極力思い出したくもないのだけれど、そうも言っていられなくて彼は臍を噛んだ。
 目の醒める鮮やかな金色の髪が、非常に恨めしい。
 憎々しげに顔を歪めた雲雀は、悔し紛れに地団太を踏むと乱暴に髪をかき回して腕を下ろした。深く息を吐き出し、怒らせた肩をも落として呼吸を整える。そして今一度、緑の隙間から晴れ渡る蒼空を仰いだ。
 風は無い、ただ水の音だけが。
「……――?」
 ちり、と今度は首裏だけではなく全身を焦がす感覚。直後にくらり、と頭が揺れて雲雀は思わずその場で膝をつきそうになった。
「なん、だ?」
 額に広げた手を置き、痺れた舌で辛うじて声を紡ぐ。
 まさか、と雲雀は一瞬で過ぎ去った懐かしくもあり、忌々しくもある気配を追って山の麓に通じる獣道を振り返った。曲げた脚を伸ばし、急に蘇った風にざわめく空気の変化を感じ取って乾いた唇を舐める。
 心の中までもが不穏に細波立ち、見開いた目を閉じるのも忘れた彼は震える拳を膝に叩きつけた。
「あの……馬鹿っ」
 心底忌まわしげに言葉を吐き、草鞋の裏で地を蹴って走り出す。騒々しい足音は一瞬にして消え失せ、後にはただ流れ落ちる水の音だけが虚空に響き渡った。