その日は、いつもより遅めに目が覚めた。
前日に月が明るかったのも手伝い、葦戸を開けっ放しにして廊下側に机を引っ張りだし、遅くまで本を読んでいたのが災いしたらしい。
欠伸を噛み殺して向かった居間には見事に誰も居らず、顔を洗うべく井戸に顔を出したところで丁度米を研いでいる奈々に遭遇した。
「おはよう、隼人君」
「おはよう御座います」
白く濁った液を流して捨て、額に汗を拭う彼女のにこやかな挨拶に返礼して釣瓶に手を伸ばす。ちゃっかり足元で奈々がにこにこと桶を構えて待ち受けており、結局獄寺は二度、井戸から水を引き上げて二度目のそれで顔を洗った。
日々厳しさを増す陽射しは、昼もまだの時間帯なのに旱の時に似てかなり強い。
雲雀が夏前に出した雲読みでは、ここまで気温が上がるという話は無かったという。だが所詮は凡その見当でしかないので、外れるのも致し方ないと皆随分心優しい。
濡れた顎を拭った獄寺は、雫を垂らす銀の前髪を指で弾いて南の空高い位置に移動しようとしている太陽をひとつ睨んだ。放っておいてもこの陽気だから、自然と水気も乾くだろう。睫を伝った雫は目を閉じてやり過ごし、彼は両腕を高く掲げて伸びをした。
「朝ごはん、糒にしちゃったの。竃の上の笊に干してあるから食べちゃっていいわよ」
「すみません、いつも」
背骨が小気味良い音を響かせ、目を閉じて足元から頭に向かって流れて行く気の動きに心地よさを覚える。姿勢を戻す最中に奈々の声が聞こえて、再び頭を下げた彼は踵を返して土間に戻った。
奈々の言葉通り、薄暗い土間の竃上に吊るされた竹製の笊の上には、朝食時に残った米飯が均して干してあった。
夏場は食物が傷みやすいので、余分な水分はさっさと飛ばしてしまって、腐り難くしておかなければならない。朝食時に出遅れたのは獄寺の責任なので、暖かくて柔らかな米が食べたかったなどという贅沢は言えず、彼は背伸びをして笊を外すと中身が零れないように慎重に胸に抱え込んだ。
行儀悪いと知りつつ、居間に向かう道すがら素手で端の方をかき集め、口へ運び入れる。
まだ干されてそう時間が経っていないからだろう、仄かに温もりが残っていた。
囲炉裏の炭はまだ燻っていて、薄い煙が自在鉤の筋を伝って天井に向かって伸びている。鍋は掛けられておらず、代わりに端の方に串で貫いた魚が一尾、頭を下にして残されていた。
獄寺は居間に上がると手にしていた笊を置き、また土間へ下る。竃横に設けられた棚へと向かった彼は、口をもごもごさせながら自分に宛がわれた膳を見つけて引き抜いた。
彼以外の膳は全て裏返しにされており、蓋も外されて別の段に干されている。彼は蓋を開けてその場で中を覗きこみ、小皿に載った御新香と焼き魚用だろう荒塩、青菜を湯掻いたものとを確認した。
暖かな食事は矢張り期待できそうに無い、魚も冷えてきっと固いんだろうなと思うと、急激に食欲が減退するから不思議だ。
とは言え、食べられるだけでも充分ありがたい。奈々に感謝の意を表しつつ、彼は蓋を戻すと両手で膳を大事に抱えて居間へ戻った。
人気は皆無に等しく、物音は自分の呼吸、歩く音と裏手の山に啼く蝉の声くらい。開け放たれた戸口からは常に新鮮な風が吹き込んできて、獄寺の少し長い髪を絶えず揺らしていた。
「頂きます」
座布団を引き寄せて自分の指定席に陣取り、両手を顔の前で重ねて目礼をひとつ。日々の食事に感謝しつつ箸を取り出し、右手に持って糒を集めた皿に差し向けた。
ひとりきりの食事は味気ないもので、喋る相手も居ないので無口だから片付けるのも必然的に早くなる。忙しなく口を動かして食物を噛み砕き、唾液に絡めて飲み込んでまた次を。単調な作業を繰り返すこと十分ばかりで膳は見事に空となり、骨と串だけになった魚が中央に鎮座した。
ご馳走様でした、と食前と同じく一礼をしてから食器を片付け、膳にまとめて立ち上がる。奈々も土間に戻って来ていて、彼が食べ終えるのを待ち、相変わらずの笑顔で片づけを引き受けてくれた。
「そういえば、十代目たちは?」
視線を巡らせたところで見付からないのは分かっているが、行き先くらいは確認しておきたい。井戸に行った際に窺い見た離れもまた無人の様相を呈していたから、屋敷の外に出ているのは間違いないだろう。あと、山本の姿もない。
彼女は綺麗に平らげた獄寺の膳に目を細めてから、囲炉裏の片づけを託して彼に背を向ける。
「みんなで神社のお手伝いに行ったわよ」
「神社?」
首を捻った獄寺に、奈々は「ふふ」と意味深な笑みを浮かべて自分の仕事へと戻っていってしまった。
そういえば数日前から、村の男達が夕暮れ時に集まって何か作業をしていたように思う。最初の頃よりは幾分村人とも打ち解けてきているものの、未だお客様状態から脱し切れていない獄寺はその輪に加わることが出来ず、遠巻きに眺めて済ますだけだったから何をしていたのかまでは解らない。
けれど他の三人が出向いているのであれば、今日くらいは声をかけて中に紛れ込むことも出来るだろうか。
「俺が行っても大丈夫ですかね?」
「ん~?」
けれど意気地が足りなくて、遠慮がちに奈々の背中に問いかけると、彼女は膳から獄寺が使った小皿を抜き取り、不思議そうに腰をひねって彼を振り返った。
にこりと笑う姿は、綱吉のそれによく似ている。
「遠慮しないで、行ってらっしゃい。それに今日は吊るし上げるところまでやっちゃうはずだから、男手はあった方が助かるでしょうし」
魚の骨を脇の屑入れに捨てた彼女の言葉に勇気付けられ、獄寺は胸を撫で下ろすと早速草履の鼻緒に足を通して土間へと降り立った。
予想通りにすっかり乾いている銀の髪を横へ梳き流し、軽く乱れていた襟元を直して玄関から表に出ようと足を向ける。果たして彼女が言う、「吊るし上げる」作業が何であるかは考えず、彼は明るい陽射しが照りつける庭先を右へ九十度曲がって小走りに駆け出した。
さわさわと風に揺れる木々の音色は耳に心地よく、覆いかぶさるように響く蝉の鳴き声は元気が有り余って活力を呼び起こす。矢張りたまには屋根の下を飛び出して外に出なければ、体も鈍るし心も腐るな、と疲れた肩を頭上に伸ばして獄寺は沢田家の敷地と神社とを繋ぐ細い小道を一気に駆け抜けた。
草履の裏が擦る感触が土のそれから、敷き詰められた玉砂利へと切り替わる。それまで両側から陽射しを防いでいた樹木の影は後ろへと去り、瞳が焼かれる強力な光を放つ陽光を顔面に浴びた彼は、咄嗟にうっと呻いて足を止め、両手を顔の前に掲げて日除け代わりに重ね合わせた。
広大な敷地を持つ並盛神社は、常日頃は閑散として訪れる人も少なく、どことなく物寂しい空気に包まれていることが多い。けれど季節の節目ごと、なんらかの祭事が行われる時だけは別で、今日もその一環なのだろう、白く光を乱反射する境内の一部に人だかりが出来ていた。
百段を越える石段を苦労の末に登り終えた先、日常と非日常の空間を区切る目安となる赤い鳥居に群がる人の多くはこの暑さ故か上半身が裸の男が多かった。着込んでいる着物の上半分を脱いだものも居れば、最初からこうなるのを予想してか股引姿の男も混ざっている。何人か顔見知りの姿も混じっていて、獄寺は境内東端で足を止めたままこの後どうしようか思案した。
正直言って、彼らが何をしているのか未だよく分からない。奈々は何も説明してくれなかったし、山本は最近忙しいようで何かと屋敷を離れている。元々彼はこの村の人間だから、畑や田圃仕事に手を貸すのは自然の理らしくて、声を掛けられれば二つ返事であちこちを飛びまわっていた。
最初の頃は獄寺も手伝いに参加していたのだけれど、土いじりに慣れていないのが災いして迷惑ばかりかけてしまい、申し訳なさが先立って声をかけるのをやめた。少しずつ覚えていけば良いと皆は笑って許してくれたが、蔓を支える柵を大破させたときは正直消えてしまいたかったくらいだ。
今は沢田の敷地に在る奈々の菜園で、時折彼女に教えを請いながら学ぶ日々だが、当面は里に下りて大仕事に一役買うなんて真似は出来そうにない。
「おーい、獄寺。何やってんだ」
鬼の里では爪弾き、本家の屋敷でも厄介者扱いで、人として人らしく他人と接する機会がこれまで殆どなかったものだから、いざその場になるとどう第一声を放っていいものか分からずに困惑する。そうやって尻込みしているから駄目なのだと、山本は何度も人の背中を遠慮なく叩くのだけれど、俺はお前と違って心の中が繊細に出来ているのだと言い張れば、向こうは一瞬きょとんとした後大笑いだった。
簡単に出来ることならばとっくに出来るようになっている。無意識に握った拳に力をこめていたら、丹色の鳥居前から手を振り、彼を呼ぶ者があった。
視線を持ち上げた獄寺は、眩い陽射しの下で一際目立つ背高の存在をそこに見出した。
「山本」
「こっち来いよ」
振り回した手を自分の側へ倒した彼の動きに、周囲に居た数人も曲げていた腰を伸ばして振り返る。急に十人近い視線を一斉に浴びせられ、思わず身構えてしまった獄寺はびくっ、と大仰に肩を震わせて彼らの失笑を買った。
よくよく見てみれば集まっているのは山本を代表格に、村人の中でも比較的年齢の若い男ばかりだ。笹川の長兄や、綱吉が毛嫌いしている持田の姿もある。
笹川は鍛え上げた自慢の肉体を股引と晒巻きだけで覆い隠し、持田も藍染の着物の上半分を脱いで帯のところで折り返していた。山本もまた持田同様に半身を日の下に晒しており、悔しいかな、どう頑張っても追いつけなさそうな無駄の無い筋肉を獄寺に見せ付ける。
首に巻いていた手拭いの端を持ち上げて汗を拭った彼は、ゆっくりと近づいてくる獄寺に苦笑を浮かべた。
「遅かったな」
「うっせえ」
「どうせまた閉じこもって、本でも読みふけっておったんだろう」
そんな事だからいつまで経っても貧弱なのだ、と言ったのは日に焼けて真っ黒の肌をした了平だ。日に焼けすぎて髪の色はすっかり抜け、獄寺並に白くなってしまっている。
山本以上に引き締まった裸身には、妥協することなく日々修練を重ねて鍛えてきたとう彼の自負がそのまま宿っている。いつだったか彼の家を訪れた際、庭の端に見慣れぬ案山子が壊れかけながら突き立てられているのを見たが、それも彼の修行の一部なのだろう。
痛いところを指摘され、ぐっと言葉に詰まった獄寺が話題を変えるべく首を振る。向いた先の持田と偶然目が合って、不機嫌そうな彼の態度に獄寺はそういえば、と改めて神社の境内をぐるりと見渡した。
いると聞いていた人がふたりばかり、居ない。
「十代目は?」
「ツナ?」
ついでに言えば雲雀の姿も見当たらない。獄寺の疑問に、即座に声を返したのは山本であったが、若干持田がぶすっと鼻を膨らませて拗ねる方が早かった。彼がこの場に居る段階で、綱吉が居ないのは当然の摂理だが。
了平が笑いを堪えつつ持田を振り返るものだから、彼は余計に機嫌を悪くしてその場で地団太を踏んだ。
「怒るな、拗ねるな」
「うっせえな!」
腕組みをして愉快だと笑う了平を睨み返し、玉砂利を蹴って埃を巻き上げた彼の足元では、人の背丈を越える茅の輪が寝転がっている。
この中で一番背が高い山本でも容易に潜り抜けられそうな輪だ、かなり大きい。丁寧に茅を捻って絡めあわせ、縄で縛り上げて作られたそれの太さも、獄寺の太股くらいはあるだろう。
「ツナは、雲雀と一緒に水汲み」
「水?」
「そそ」
山本もまた持田の不貞腐れ具合に白い歯を零した後、完成間近となっている茅の輪の前で膝を折って大事そうにその表面を撫でた。
水など、何処にでもある。井戸の釣瓶を手繰ればこの時期でも冷たい地下水で喉を潤せるし、村を貫く川も澄んで魚が気持ち良さそうに泳いでいる。田圃は一面が緑に覆われて、鴨が隙間を優雅に泳いで虫を食む光景が当たり前のように見られた。
並盛の里は水の里だ。多くの地域が旱魃に憂う中にあっても、この限られた地域だけは雲が空を駆り雨が地を潤す。それは北に聳える並盛山が神の山として特別な力を持っているからだというのが専らの弁だが、果たしてそれだけでこうも降雨に恵まれるものなのだろうか。
蛤蜊家の分家として長くこの地に居を構える沢田家といい、正体不明のリボーンという座敷童といい、獄寺が知らないことはまだまだ沢山この地に眠っている。
「山のな、水。清めの神事用に」
釈然としないままに緑濃い並盛山の山頂付近を見上げた獄寺に、姿勢を低くしたままの山本が言葉を連ねる。了平はまだ持田で遊んでおり、そろそろ堪忍袋の緒が切れた彼が了平に飛びかかって逆に撃退される頃だろう。
他の連中は、巻き込まれては堪らないとふたりから距離を取り、にらみ合う両者の傍には我関せずの山本と獄寺だけが残される。
里の上空では、弧を描きながら鳶が南へと飛び去ろうとしていた。
「清め? なんの」
「おまっ、今日が何の日かも知らねーのかよ!」
山本の説明がいまいち理解し兼ねるものだった獄寺が、首を横に傾けて聞き返す。
けれど思いがけない方角から素っ頓狂な声が飛んできて、首をカクンと前に倒した獄寺は、脳を揺さぶられた痛みに耐えながら後ろを振り返った。
持田が、そして了平もが、どことなく唖然とした様子で突っ立っている。
「んだよ、悪いのかよ」
「悪いに決まってんだろーが!」
知らないものは知らないし、誰も教えてくれないのだから知らないままなのも仕方が無いだろう。声を荒立てる持田に怒鳴り返した獄寺は、握り拳を高い位置から膝元まで振り下ろしそれを横に薙ぎ払った。
殴られかけた山本が、了平に見下ろされて苦笑しながら頬を掻いた。この場合、教えなかったほうが悪い、そう年長者の視線が告げている。
「いや、あはは……すまん」
「大体、お前、町に住んでたんだろう。無かったのか?」
「だから何が」
「大祓だよ」
憤然としたままの獄寺が尚も説明を求め、返す言葉は低い位置から。今まで喋っていた連中とは異なる、まだ変声期を迎える前の幼い声に獄寺はぎょっとして己の足元を見た。
いったいいつの間に近づいてきていたのか、山本と獄寺の丁度中間地点に、膝を折った栗毛色の髪をした少年がしゃがんでいる。
「フゥ太?」
山本が驚いた様子で目を丸くし、見上げていた獄寺から反対に首を向けたその少年は、えへへ、と照れ臭そうに笑い顔を作った。一触即発寸前まで行っていた持田や了平もまた、彼の登場で喧嘩は一旦中断として拳を下ろした。
ぴりぴりしていた空気が一気に緩み、ほんわかとした温もりに満たされる。にこにこと目を細めて笑う少年は非常に行儀良く膝に両手を揃えており、自分を取り囲む年嵩の男子にも臆する様子がまるで無かった。
初対面の獄寺以外は、皆顔見知りの様子だ。この村の住人だというのは其処から容易に想像できたが、しかしもう半年近くこの里で暮らしている獄寺が一度もめぐり合っていない人物がまだいたとは。
「戻ってたのか」
けれど記憶を手繰ろうとしていた獄寺の思考を中断する山本の声に、フゥ太と呼ばれた少年は元気いっぱいに深く頷いて返した。
「いつだ? 半年……いや、もっとぶりか」
「一年は経ってないかな。帰って来たのは昨日の夕方、だからみんなに挨拶遅くなっちゃって」
ごめんなさい、と小さく舌を出して詫びる様は、年相応の幼さも相俟って愛嬌がある。
「こんにちは、獄寺のお兄さん。隼人兄ちゃんって呼んで良い?」
名乗った覚えはないが、何かと騒ぎを引き起こす中心にありがちな獄寺である。親が彼のいない間の出来事を語り聞かせている可能性も充分にあって、名前を知っていることに最初は警戒感を抱いたものの、甘えるような上目遣いを突きつけられるととても嫌だとはいえなかった。
聞く話、フゥ太は親元を離れて里から半日ほどかかる町で学んでいるのだそうだ。里にも寺子屋はあるが、そこだけでは満足できなかったフゥ太が自ら志願したらしい。戻ってくるのは正月と夏の間だけで、だから春の終わりに並盛に来た獄寺とは顔を合わせたことが無かったのだ。
よろしく、と互いに頭を下げて挨拶を送りあい、並んで膝を折った獄寺が茅の輪に手を伸ばす。
「んで、これは……?」
「夏越しの大祓えで潜る茅の輪。あの鳥居の内側に吊るして、日が暮れる前頃からみんなで潜り抜けるんだ」
「厄落としだよ」
フゥ太の説明だけでは足りないと、山本が補う。
年に二度、年越しと夏越しの日に茅で作った輪を通って厄を落とす。そうやって息災を祈る行事なのだと言われても、今の今まで一度としてそんな歳時に参加した経験が無い獄寺にはぴんと来るものではなかった。
だが厄落としと聞かされて、そんなものかと鳥居を振り返って曖昧に頷く。
鬼の里には無かったし、獄寺の本家でも厭われていたからもし近所で大祓えが行われていたとしても、誰も連れ出してはくれなかった。だから知らない。
過去を振り返るたびに、自分はなんて淋しい時を過ごして来たのかと思い知らされる。自嘲気味に唇を歪めた獄寺は、そんな思いを振り切るように首を振った。
「けど、これをあそこに吊るすってのは大変じゃないか?」
「だから、丁度良いところに来たなって話だよ」
がっ、と獄寺の肩に腕を回した山本が、逃がしはしないと高らかに宣言する。横ではフゥ太が大喜びで手を叩いており、奈々の言っていた男手がある方が助かる、の意味を今頃になって理解した獄寺は、一気に顔を青褪めさせてじたばたと暴れだした。
けれど山本の拘束は容易に外れず、手早く残りの茅を輪に組み込んで完成させた村の男衆は、野太い掛け声に合わせて巨大な輪を縦に起こし、鳥居と合体させる作業に取り掛かった。
獄寺も横から倒れないように支える人員に組み込まれ、両腕に圧し掛かる重みに潰れた悲鳴をあげた。
フゥ太は幼いからと蚊帳の外で、相変わらずにこにこと楽しげに事の成り行きを見守る姿勢だ。
「せーのっ」
了平の号令を合図に、居合わせる全員が一致団結して茅輪を鳥居の内側へ運び入れていく。
地表を焦がす太陽の熱は、日を追うごとに強さを増しつつある。一瞬顔の上を走り抜けた影に目を細めた獄寺は、頭上を旋回している何かに気づいて熱を含んだ息を吐き出した。数秒遅れで山本も不可解な動きをとるそれに気づき、両足を踏ん張らせたまま意識だけは上空彼方へと差し向けた。
影が地平を奔り、泳ぐ。
「わっ」
突如突風が彼らに襲い掛かり、あと少しで固定が完了する茅の輪が大きくぐらついた。慌てて若衆は両腕を突っ張り腰を深く沈めてその場に踏み止まり、上から自分たちを押し潰そうとする重圧を跳ね返した。けれど力が足りない、傾いだ茅は少しずつ地面へと舞い戻ろうとしている。
何故、とこの場に居合わせる全員が疑問に奥歯を噛み、手を抜いている誰かを探そうと懸命になる。血走った目を境内に走らせた男達は、黒の法衣に身を包んだ獄寺ではなく、健康的な肌を惜しげもなく晒しているひとりの青年を見つけて舌を打った。
「てめぇ、こら、山本!」
「何してんだおい、早く手伝え!」
「うあっ、やばい倒れるぞ!」
ぐらりと左右にふらついた茅の輪の影が迫り、全員が顔色をさっと悪くして悲鳴を飲み込む。事の発端となった山本は、けれど掲げた右腕に停まる白い翼の鳥に気を取られていてまるで気づかない。
力仕事は本来不得手の獄寺が、顔を真っ赤にして湯気をたてながら渾身の力で輪を押し上げようと試みる。が、到底ひとりの力ではどうすることも出来ない代物だった。
「危ない!」
フゥ太が後ろに飛びずさりながら叫ぶ、その甲高い声が夏の空を走り抜ける。
ズン――、という重低音に全員の時が停止した。
砂埃が舞い上がり、視界が一瞬白く濁る。塵に遮られた光が拡散して透き通った景観を汚し、地響きに身を竦めた全員が全員、誰かしら怪我を免れないと恐怖して強く目を閉じた。
だけれどいつまで待っても呻き声のひとつも聞こえてこず、代わりに耳朶を打つのは一瞬静まり返った後に蘇った蝉の泣き声ばかり。
じっとりと首筋を撫でた生温い汗と陽気に、勇気ある誰かが唾を飲んで恐々と瞼を持ち上げた。
其処に浮かぶは、黒い影。されど晴れつつある雲の隙間を縫って輝いた青銀の煌きに、居合わせた全員が生唾を飲んで声を失った。
「ヒバリさん!」
彼方からは少年特有の、少しだけ音域の高い呼び声が。
「うあぁ……」
堪えきれなかった持田がどすん、と尻餅をついて腰を抜かす。視線は斜め上一点に集中しており、陽光を背負って地表に影を落とす存在は彼の驚き具合を見返して不機嫌に眉を顰めた。
その動きに触発されたからだろうか、停止していた時が一斉に動き出した。
まず手始めに我に返った了平がハッと息を呑み、自分の手が胸の前で、何も掴まずに空っぽの状態で浮かんでいるのを知って愕然とする。だのに足元にまで広がる視界には落ちたはずの茅の輪は見当たらず、ただ抜け落ちた数本が散らばるのみ。
土埃は徐々に静まり、状況は衆目に晒される。獄寺でさえも腰を抜かしそうになりながら、了平同様行方が解らない茅の輪を探して視線を左右に巡らせた。
玉砂利で凹凸激しい中に、楕円に歪んだ黒い影が伸びている。
「えっ」
駆け寄ってくる小柄な姿に目を奪われていたフゥ太もまた、振り向いて事の状況に目を剥いた。
日の光を反射しただけだろうが、鈍い青を放ったように見える腕が一直線に伸びて崩れ落ちようとしていた茅の輪を支えていた。しかももう片腕は下に伸び、木桶の持ち手をしっかりと握り締めている。
「ヒバリ?」
「さっさとしなよ、重い」
「あ、ああ。すまん」
先程まで男数人がかりで持ち上げていたものを、ひとり片手で受け止めた男が、黒髪を風に嬲らせながら不機嫌な声で言い放った。
呆気に取られたままだった了平が慌てて腕を伸ばし、彼の脇から倒れ行こうとしている茅を支え直す。雲雀の足元で、衝撃に揺れた桶の水が波立って雫が散った。
「ヒバリさん、みんな!」
「ツナ兄!」
同じく桶を両手で抱えた綱吉が、日に透ける甘茶色の髪を振り乱して駆け寄ろうとしたのを、横からフゥ太が声を飛ばして邪魔をする。一斉に雲雀の両脇を固めて鳥居に茅の輪を括りつける作業を再開させた男達も、背後に気を取られてどうにも集中力が続かなかった。
あろう事か、三つ目の桶が何の支えも無いままにふらふらと地表近くを走り回っていた。
「げっ」
「なんだ、あれは」
持田がまたしても白目を剥いて驚き、了平も唖然としながら動き回る桶の動きを目で追った。獄寺だけが、見知らぬ子供が綱吉の後を追いかけつつ、神木の精霊であるランボに追い回されて逃げる姿を捉えていた。
つまりは、あの辮髪の子供もまた、精霊の類だ。
「うわ、フゥ太。危ない、こぼれ……ランボ! イーピン苛めちゃだめ!」
足元を駆けずり回る桶に向かって怒鳴りつけ、自分の分は頭の上に掲げた綱吉が抱きつこうと駆け寄って来たフゥ太から汲んで来た水を庇う。しかし弾みで中身がいくばくか溢れ出し、水滴が熱せられた参道の石畳を濡らした。
漸く苦心の末に茅の輪が、鳥居の朱の中に円を描いて固定を完了させる。身軽に上部の手綱を取った了平が着地して埃を叩き落し、参道に伸びた影の重なり具合に満足そうに頷いた。彼の傍では、疲れたと言って持田が再び座り込んで肩で息をしている。雲雀ひとりが涼しい顔をして、掌の茅屑を払い落としていた。
「すまんな、ヒバリ。助かった」
きらきらと陽光を反射する桶を手に、フゥ太とランボのどちらを優先させるべきかで困っている綱吉を振り返っていた雲雀の肩を、了平が軽く叩く。
「ところで、お前、いつからあんなにも怪力になったんだ?」
「……」
頭に巻いた鉢巻を外した了平の不躾な質問に、雲雀は視線だけを脇へ流して無言を貫く。答えてやる義理はないとでも言いたげな視線だったのだが、浴びせられた本人は気にする様子も無く無視されたことを怒る様子も無い。
むしろ、それだけの腕力があるのならもっと有効活用すべきだ云々と、誰も聴いちゃ居ない話しを延々と開始して持田にさえ呆れられる始末だ。
握り拳を天に突き立てて力説する様はなかなか決まっているが、聴衆が皆無なのに本人が気づくのは、果たしていつであろうか。
溜息を零した雲雀が、桶を握り直して持田同様へばって蹲っている獄寺の銀の髪に目を細めた。
「なにがあったの」
「ってー……あいつが悪い!」
崩れ落ちようとしている茅の輪が見えたので、思わず飛び出してみたものの、そんな状況に追い遣られた理由が雲雀にはさっぱり解らない。起こすのに人力が必要なのは毎年恒例行事なので獄寺以外は全員知っていたはずだ、今までにこんな事故は起こらなかったのだから。
それなのに何故急に、と疑問が拭えない雲雀に向かって、頭を乱雑にかきむしった獄寺が自分の右手前方に思い切り人差し指を突きつけた。
両手に握った紙を広げた山本が、顎に指を置いて考え事に集中して立っている。空から風を起こし急降下してきた鳥の姿は消え、獄寺以外の人間には山本が持っている紙が何処から現れたのかも解らない。
獄寺に怒鳴られても平然として気づかず、眉間に皺寄せて時折なにやらぶつぶつと呟く山本の様子は、ちょっとばかり異様だ。
逃げ回った所為で大分水量が減ってしまった桶を、辮髪の子供――イーピンから受け取った綱吉もまた雲雀の傍に寄ろうとして、近くに持田の姿を見つけて頬を引き攣らせる。目が合った瞬間に顔をそらされて、当の持田は己の涙で地面にのの字を書いた。
身軽になったイーピンは、これまで追い回された分のお返しだとばかりに、牛柄模様のランボを逆に追いかけて強烈な蹴りを食らわせている。ただその光景は、獄寺と綱吉くらいにしか見えていない。微笑ましいのだが笑うに笑えず、視界の端へふたりを追いやって獄寺はそれとなく、綱吉と持田の間に立ち位置を変えた。
「山本?」
いつもなら綱吉に真っ先に気づく男が、今は手元しか見ていない。心持ち顔色が悪く、夏の陽気に導かれたのとは異なる汗を額に浮かべている。戦慄く唇もまた紫に澱んでおり、心配げにもう一度綱吉が名前を呼ぶことによって、彼はやっと顔を上げた。
目を瞬かせ、皆が自分を注視していることにまず驚く。
「え、あ、なに。どうかした?」
「どうかした、じゃねーよ。この馬鹿!」
座ったままの持田が腹立たしげに拳を地面に叩きつけ、偶々尖った石に皮膚を突き刺されてまた悲鳴を上げる。こそこそと雲雀の方へ移動を果たした綱吉は、水が入った重い桶のひとつを雲雀へと託して息を吐いた。
「……え?」
「だから、お前がいきなり手ぇ離したから」
分かっていない様子の山本に、獄寺が肩を竦めつつ持田の言葉を補う。
急に現れた式神に気を取られたのもある意味仕方が無いかもしれないが、こちらは全員で力を合わせてひとつのことに取り掛かり中だったのだ。もし雲雀が寸前で現れなければ、誰かしら押し潰されて怪我をしていてもおかしくない。
突き刺さる十近い視線に、やっとことの状況と自分の失態を理解した山本は、悪い、と小さく呟いて頭を下げた。
とはいえ、元々里の者からも信任厚く好かれている山本のこと、素直な謝罪を受けて皆は「しょうがないな」と口々に告げて不問にする勢いだ。肩を回した了平が先頭を切って手を叩き、一仕事終えた疲れを癒そうと居合わせる全員に声かけていった。
ただ綱吉を筆頭に、沢田家に関わる四人は首を振って揃って誘いを断った。久方ぶりに帰郷したフゥ太などは、綱吉から離れ難い様子で頻りに一緒に行こうと手を引っ張るのだけれど、彼はごめんな、と可愛い弟分の頭を撫でるだけに留めた。
「ちぇー。どうして僕の兄分がツナ兄じゃないんだろう」
「いや、それは……」
昨年末から顔を合わせる毎に言われる小言に苦笑し、綱吉は脇でそっぽ向いている雲雀の横顔を見上げてフゥ太に早く行くよう促す。了平たちはとっくに茅の輪が結び付けられた鳥居を越えて里へ通じる石段を降り始めており、動きに合わせて一寸ずつ彼らの姿は視界から消え行こうとしていた。
「夜になったらまたおいで」
「うん、絶対だからね!」
しつこいくらいに念を押し、振り切れそうなくらいに腕を振ってフゥ太もまた去っていく。後片付けを任された面々も使い残した茅を束ねると一礼して去って行って、最後には綱吉と雲雀、獄寺と山本だけが残された。
いや、ランボとイーピンも居るのだが。
「あの、十代目。この子は」
「うん? 獄寺君は会った事無かったっけ」
神社の裏手に根を下ろす鳳仙花の精霊なのだという。普段は照れ屋なのが災いして人前には滅多に現れないが、ランボ同様綱吉には懐いており、今日も偶々水汲みの途中で会ったので一緒に来たのだという。イーピンが最初抱えていた桶は、雲雀が茅を支える時に投げ出したものだったらしい。
ランボとは良い遊び友達なのだが、大体いつもランボが余計なちょっかいを出してイーピンを怒らせ、最後は撃退される展開なのだとか。現に今も、最初は桶を死守すべく逃げるばかりだったイーピンは、身軽になった途端ランボに殴る蹴るとやられた分の十倍くらいはやり返している。地面に倒れ伏したランボは、大声で泣き叫びながら綱吉の足元に逃げ込んだ。
浅黄色に蓮の花を散らした着物の裾を捲りあげられ、慌てて手で押さえた綱吉がランボに怒鳴りつける。思わず目を覆いつつも指の隙間から凝視してしまった獄寺を他所に、一旦は意識をこちら側へ戻した山本はまた、元は式神だった紙を広げて文面を食い入るように睨んでいた。
「本家からか」
「あ? ああ……そんなところだ」
紙の端に見慣れた、蛤蜊家の押印を見つけた雲雀が、内容は詮索せぬままに静かに問いかける。我に返った山本は曖昧に言葉を濁しつつ、しかし否定はせず、慌てた様子で紙を折り畳んで懐にしまった。
首を傾げた綱吉の頭に手を載せ、ごめんな、と呟く。
「やまもと?」
「わりー、招集だ。今夜の大祓、参加できそうにない」
「随分と急だな」
「ああ。……よく分かんないけど」
ぐしゃぐしゃと綱吉の頭を掻き回した山本の言葉に、三人は一斉に息を呑む。
「退魔師だけを狙う輩が、現れたらしい」
この中で正式に、本家に退魔師としての認定を受けているのは山本一人だけだ。ただ彼の階級はまだ低く、大事の仕事はあまり回って来ない。
その彼までもが、召集されるその意味。
蝉の声が不意に止んで、嫌な沈黙が神社の境内を覆い隠した。
「それって、妖とかではなくて?」
「人間、みたいだ。ただ……うん、やっぱりまだ、分からない」
「怨恨の線は考えられないのかよ」
「それもまだ、解らない。けど既に十人近く、襲われているらしい」
色を無くした綱吉が、唇を震わせて雲雀に体を寄せる。触れたところから流れ込んでくる水の気配は冷たくて心地よいが、余計に体温を奪われて行きそうで怖くなった。
吐き出した息がころころと音を立て足元を転がり、凪いだ桶の水に融けて行く。
「犯人の目星はまだついていない、か」
「どうかな。その辺は何も書かれてない」
注意しろと警告を発するだけではなく、至急本家まで来られたし、と告げる文面。逼迫した様子が窺えて、雲雀は視線を伏せると曲げた指を上唇へと押し当てた。
細めた黒水晶の瞳が地を泳ぎ、曲げた関節が前歯に行き当たる。綱吉が彼の襟元を引っ張っても雲雀は反応しなかった。
「いや、……まさかな」
独り言を呟き、腕を下ろして南の空に輝く太陽を見上げる。黒い髪の隙間から見える光は、普段見上げるそれと何も変わってはいない。
いないはずだ。
けれど。
「精霊会には戻れるのか」
「んー、多分。妖相手じゃないなら遠地に派遣されることもないと思う」
「ヒバリさん?」
「綱吉、祓えの儀」
「え、いいって」
状況が追いつかない獄寺を置いて、短い会話が幼馴染三人の間で繰り広げられる。雲雀の言葉に綱吉は頷いて、山本は半歩下がって手を顔の前で横に振った。しかし逆に一歩前に出た綱吉が、足元に置いていた水に手を差し伸べて澄んだそれを僅かに掬い上げた。
なにをするのかと思えば、彼は瞑目してなにやら仰々しい文言を早口に呟き、太陽の光を吸い込んだ水を山本目掛けて降り注いだ。
「はい、くぐってくぐって」
反射的に顔を横向けて水の直撃を回避した山本の背中を押し、綱吉は歩き出す。押し出された山本は最初抵抗してみせたが、無駄だと直ぐに悟って先ほど吊るし上げたばかりの茅の輪を大股で潜り抜けた。
緑に両脇を支えられた石段を眼下に、前方遥かには穏やかな丘陵線が広がって白い雲がゆったりと空を漂う。
山の緑、田圃の緑、畑の緑。
それぞれ同じ緑でありながら、少しずつ色が違い、混ざり合い、互いを強調しては引き立てて、風に靡き、水のせせらぎに身を任せ、時に逆らい、協和しあって、季節の節目を無事迎えられたことを喜んでいる。
「なんか、まだそんな気分じゃないんだけどなぁ」
「え?」
「夏越し」
「ああ」
山本の言葉に綱吉が顔を上げ、雲雀は微かに笑んで頷いて返す。
「だが、そうも言っていられない」
「くっそー。精霊会までは騒々しいのが多いから忙しいってのに」
悔しげに地団太を踏んだ山本の叫びに、綱吉も雲雀も苦笑を禁じえない。
すっかり蚊帳の外に慣れてしまった獄寺でも、精霊会くらいは分かる。盂蘭盆会の別称であり、祖霊が年に一度地上に戻って来る日のことだ。期間にしてあと半月後、それまでは地獄の道も開き易いと言われ、様々な魑魅魍魎が跋扈することとなる。
実際、並盛山を取り巻く環境下でも出現の報告は多く、その度に綱吉と雲雀が一緒になって野を、山を駆け回る日々だ。
無論ふたりだけの仕事ではなく、手が空けば山本も、獄寺も出向いて悪さをする前に駆逐して回っている。
正直山本が抜けるのは痛い、手が足りなくなる可能性は否定できない。しかし放っておけば数ばかりがどんどん増えていき、並盛山の結界が侵されてしまう。それは忌避すべき事態であり、明日からはもっと忙しくなると綱吉は腹を括った。
力んでいるのが伝わったのか、傍らの雲雀が宥めるように彼の髪を優しく梳き流す。
眼下に見下ろす光景は何処までも長閑で、穏やかで、いつまでも見詰めていたくなる柔らかさに満ち溢れている。厳しい夏の日差しも、冬になれば降り積もる雪も、五月蝿いばかりの蝉の声も、物音ひとつ響かない雪原の闇さえも。
この村の、この村に在るもの全て、何もかもが、愛おしい。
綱吉は目を閉じた。自分の左胸にそっと掌を重ね、確かに響く音色に耳を傾けて心を唄う。
どうか、どうか、永遠なれ。
願いと祈りと誓いをこめて、綱吉は並盛の景色を瞼の裏に焼き付けた。
2007/8/8 脱稿