往代

「ただいま」
 学校が終わり、友人とも道すがら別れて帰り着いた自宅。その玄関先に珍しく来客がある様子で、エプロン姿の奈々が応対に出ていた。
 訪ねて来ていた人は綱吉にも見覚えがあって、確か三軒隣の奥さんではなかっただろうか。名前までは直ぐに思い出せなかったが、堂々たる横幅とくるくる巻いたパーマヘアは特徴が強すぎる。
 確かあそこの娘さんも似たような体型なんだよな、と思わず苦笑いが浮かんでしまう。ふたりの横をすり抜けた綱吉は、盗み見た自分の母親が頬に手を添えて少々困ったような顔をしているのに気づいた。
 また地区の役員でも押し付けられようとしているのではないか。人が良い奈々は何でもかんでも人の頼みごとを聞いてしまう癖があって、綱吉がまだ小学生時代はPTAの役員も押し付けられていた。あれはあれで楽しかったのよ、と彼女は言うけれど、どう考えてもその仕事は彼女に荷が重すぎた。
 綱吉が帰って来た事で、あちらの主婦も撤退を決めたらしい。それじゃあ、と前置きするのが辛うじて聞き取れた。
 その後も二言、三言何か相談し合っていた様子だが、既に玄関のドアを開けて靴を脱ぐ体勢に入っていた綱吉の耳にまでは届かない。十秒ほど遅れて奈々が戻って来て、綱吉は階段を登る手前で一度彼女を振り返った。
「どうかした?」
 あの女性は話が回りくどく、長ったらしい事でも有名だ。奈々があまり得意とする相手ではないのは分かりきっていて、変に絡まれたのではないかと心配になる。
 顔を上げた彼女は、心持ち顔色も悪く元気がなかった。
「母さん?」
「え? ああ、ごめんなさい。三丁目の窪谷さんが亡くなったそうよ」
 反応が鈍い彼女を再度呼んだ瞬間、我に返った彼女が吃驚した様子で顔を上げた。視界に己の愛息子を見出し、ホッとした様子で息を吐く。
 だが告げられた内容は存外に重苦しい。
「三丁目の?」
 名前を言われても綱吉は即座に何処の家の誰かを思い出せない。奈々ほどご近所づきあいに積極的でもなく、地域の催し物にもあまり参加しないから、それもある意味仕方がないのかもしれないが。
「そう。あるでしょう、交差点の手前の、大きな」
「あったかな……」
 そんな風に言われても、即座に頭には何も思い浮かばない。
 手摺りに左手を預け、綱吉は首を傾ぐ。彼を見上げた奈々も、あまり大声で話す内容ではないので曖昧に笑って誤魔化した。
 ともあれ、地区の人がひとり、亡くなったのだけは間違いない。それは哀しいことで、綱吉もまた沈痛な面持ちを作り出すと爪で手摺りの木目を静かに削った。
 持ち上げた右足の裏が階段を低く叩く。
 その日の夜、いつもより早く夕食の支度を終わらせた奈々は黒い上下という出で立ちでひとり出かけて行って、ひとりで帰って来た。翌日に綱吉が学校に行くべく家を出ようとしたとき、ドアを開けた玄関の外側には左右に小さく盛り塩がされていた。
 通りがかりの道にある地域のお寺には幕が成され、誰も居ない白いテントが大きな門構えの前でひっそりと出番を待っていた。
 けれどそのどれもが綱吉には直接関係の無いことで、だから彼は帰り道に寺の前を通り過ぎた時、何もかもがいつも通りに戻っていたことにさえ気づかなかった。
 哀しいと感じた気持ちさえ、綱吉の中に通り過ぎた一陣の風に等しい。夜眠って、朝目覚めた時にはもう奈々との短い会話は綺麗に忘れ去られ、長い間思い出されることは無かった。

 道を歩いていると、大型重機を載せたトラックが狭い道幅ぎりぎりに通り過ぎようとしていた。
「うわっ」
 道の端まで寄っても青色の鉄板が顔の前すれすれの位置を低速で通過して、電信柱の影に隠れる格好でブロック塀に寄りかかった綱吉は排気ガスを撒き散らすそれの後ろ姿を呆然と見送った。
 首を伸ばし、行き先を確かめる。だが反対側から同じような形状のトラックがもう一台接近しているのに気づいて、大慌てでさっき同様に電信柱を盾にして自分を庇った。足元から振動が登って来て、重低音が頭蓋骨を揺さぶる。
 何故こんな住宅地に、とまだ頭の中に残る音を追い出し、今度こそ道の中央に戻って綱吉は首を振った。
 トラックが二台向かった先は、丁度綱吉が予定していた進行方向にも重なっている。その先に工事現場なんて無かったはずなのに、と鼻の先に残っている気がする排気ガスを手で払いのけ、彼は曖昧な記憶を懸命に辿った。
 ただ最近はあまり通っていない道だから、以前と何処か変わった部分もあるのかもしれない。此処でじっとしていても仕方が無いか、と肩を落として息を吐いた綱吉は、気を取り直して持ち上げていた手で頭を掻いた。
 目的地途中で新規に工事が始まっているようなら、どこかでまたすれ違うだろう。結論を先送りにし、彼は腕を下ろすと左右を交互に前後へ振って歩き出した。
 土曜日の午前。とは言え正午に随分と近い時間帯だ。
 陽射しは雲が多いお陰で強すぎず、また弱すぎず。空と雲のコントラストは色鮮やかで、半袖シャツを揺らす風もこの時期にしては随分と穏やかだ。
 履き潰して草臥れた感のあるスニーカーで道端の小石を蹴り上げ、行く末を見守る。住宅地の中を横断する道なので車の通行量は少なめであり、各家の解放された窓からは音楽や掃除機の音が鳴り響いていた。
 中にはもうエアコンのスイッチを起動させている家もあって、道路に面した位置に置かれている室外機が低く唸り声をあげていた。
 それらの雑多な音に耳を傾け、緩やかに傾斜した道を行く。そしてもう少しで交差点のある大通りに到達という地点で、綱吉は唐突に足を止めた。
 進行方向右手に現れた青いシート。ブロック塀と色とりどりの屋根に飾られている区画に置いて、異質としか言い表しようの無い空間が急に彼の目の前に出現したのだ。
「なに、これ」
 シートは四角形に塀の内側を取り囲んでいて、内部を隠している。下から見上げると空まで届きそうなバベルの塔もどきだが、実際には五メートルも無いだろう。更にシートを囲む形で櫓が組まれ、足場が設けられていた。敷地内が全て見えたわけではないが、塀の上にはみ出して先ほどのトラックの一部も視界の中にあった。
 下ろされた重機が周囲の空気を巻き込んで振動している。ヘルメットを被った男性が複数人、忙しなく動き回っていた。
 空っぽだったトラックの荷台には、打ち砕かれた木片が重ねられていく。少し歩いて距離を詰め、更に立ち位置と見える角度も替えれば、シートの隙間から埃を撒き散らして破壊される途中の古い家屋が顔を覗かせた。
 瓦屋根に無残な爪あとが残る。ぽっかり開いた口の中に、嘗てこの家に住んでいた人の面影が感じられた。
 生温い風が綱吉の後ろから流れて行く。
「ここって……」
 確か、と視線を巡らせた綱吉は、思い出したものの在り処を探して更に進んだ。壁沿いに騒音を避け、挙動不審気味にきょろきょろと周囲を見回す。けれど何処にも、彼の記憶が指し示した場所にも、色褪せた思い出のものは見付からなかった。
 しつこいくらいに探したが、無い。最初からそんなもの何処にも無かったのだと言われているようで、記憶違いだろうかと途中から自信が無くなりそうだったが、絶対にここで間違いないと綱吉は首を横へ振った。
「柿の木、切られちゃった?」
 一ヶ月ほど前に奈々から聞いた、短い会話を思い出す。あの時は亡くなった人が誰だか思いだせず、日々蓄積されていく記憶に簡単に埋没して掘り返すことは無かった。
 何故あの時もっとちゃんと話を聞いておかなかったのだろう、後悔してももう遅い。
 綱吉は亡くなった人を知っていた。この家で、猫と一緒に暮らしていた老婆だ。小学校の時にお年寄りの話を聞きにいくという授業があり、その最中に出会った。訪ねていった彼女の家はこの一帯では一番古く、新興住宅地の真っ只中にあってかなり浮いた存在だった。
 あの柿の木は戦争で焼け野原になった時も残っていたんだよ、と伸びのある優しい声で語ってくれた。その柿の木も、あの老婆の暮らした家も、跡形なく消されようとしている。
 青褪めた綱吉の首筋に、じっとりと気持ちが悪い汗が滲んだ。
「な、んで……」
 わざわざ家を訪ね来た、噂話が大好きな主婦の顔が思い浮かぶ。昔からこの家は、広い敷地を目的に地上げ屋まで顔を出していたという。老婆の親族も、普段は世話なんてしないくせに遺産相続の話になると躍起になっていたのだとか。
 無言のうちに玄関に盛り塩をしていた奈々の背中を思い出す。
 自然と息があがって、呼吸が苦しくなる。胸が締め付けられる思いに駆られ、綱吉は自分の左胸を押さえ込んだ。
「どーした、ボンゴレ。こんなとこで」
 ぽん、と軽い調子の声に肩を叩かれる。
「っ!」
 大仰に全身を震わせ、心臓を口から飛び出す寸前で悲鳴と一緒に飲み込んだ綱吉は、彼の反応に驚き返している真後ろにいつの間にか立っていた存在に怯えた表情を見せた。
 シャマルが、左手を胸元にやったまま戸惑いの色を瞳に宿していた。
「どーした?」
「え、あ……」
 問われ、自分が過剰反応していたことを思い出し、綱吉は胸を撫でて腕を下ろした。息を吐く、濡れたシャツが肌に張り付いてかなり気持ちが悪い。
 吐きそうだと乾いた唇に舌を這わせていると、伸びてきたシャマルの手が断りもなく綱吉の額に触れた。
 他人の体温でさえ気持ち悪くて、綱吉は力なく首を振る。だが彼は手を離そうとはせず、注意深く顔も寄せて綱吉の鼻先に煙草臭い息を吹きかけた。
「顔色、悪いぞ」
「そう、かな」
「ああ」
 太い親指が眉間に押し当てられ、上に向かって流れて行く。顔が引っ張られる気がして、綱吉は口元を歪めつつ相手を見上げた。
 真後ろで、建物の柱でも崩したのだろう。大きな音が響き渡った。
 綱吉の肩が震える。シャマルもまたそちらに目を向けて、綱吉の頭を軽く撫でた。
「知り合いの家か?」
 低い問いかけに辛うじて頷き返し、綱吉はそのまま視線を足元に伏す。「そうか」という相槌の後は言葉が続かず、シャマルは人の頭に手を置いたまま塀越しに壊されていく家の行方を見送った。
 あの老婆の生きた証が、思い出が、記憶が、心無い人々の手で壊されていく。住む者が居なくなった家はただの古い建造物でしかなく、思い出の品も邪魔なゴミでしかないのか。工事現場の人の声が、何を言っているかまでは分からないが聞こえて、俯いている綱吉の頭を撫で続けるシャマルはもう片方の手で自分の唇を引っ掻いた。
 場所を変えるべきか迷い、だが無理に綱吉を動かすのも良くないかと判断してシャマルは彼の頭から手を下ろした。
 だが離れきる前に、心細さからなのか、綱吉が自分からその腕を掴み取った。
「ボンゴレ?」
「なんで、簡単に壊しちゃうんだろう」
 殆ど独り言状態で綱吉は呟き、握る手に力を込める。骨に痛みが走ったシャマルは渋面を作り、綱吉を庇いながら彼を近場の日陰へ誘導した。
 棟木が真っ二つに折れて崩れ落ちていく、その景色も彼は綱吉から隠した。
「どうして簡単に、忘れちゃえるんだろう。死んじゃったら、いなくなったら、それで終わり?」
 無理矢理に立ち位置を変えられ、綱吉の上半身が柳のように揺らぐ。掴み取った彼のジャケットの裾に皺を生み出し、綱吉は顔を上げて彼へ詰め寄った。
 面食らったシャマルが、右腕を咄嗟に後ろへ引く。だがそれを掴んだままでいた綱吉もまた、無条件に彼の腕に引っ張られた。
 鼻筋が彼の胸にぶつかる。汗と煙草と微かな香水の匂いが混じりあい、綱吉は反射的に顔を赤くして彼の胸を突き飛ばした。
 後ろによろめいたシャマルが、それでも踵に力を込めて自分と綱吉を支えきる。腕に背を庇われて、綱吉は熱っぽい息を吐きながら肩を落とした。
「俺は、お前とここの家の人間がどういう関係だったのか、さっぱり解らないが」
 背を撫でる手の動きは優しい。それが哀しくもあって、綱吉はシャマルの上着を握ったまま額を彼に押し付けた。
「だからてんで見当違いの事かもしれないが……なら、お前が、忘れてやらなければいいんじゃないのか」
 肩を抱く手に少しだけ力を込め、囁くように彼は言った。
 胸元の綱吉が微かに肩を強張らせ、ジャケットを握る手の力を強める。
「お前が覚えていてやれば、無くならないんじゃないのか」
 シャマルは今、何処を見ながら喋っているのだろう。急に気になってしまって、綱吉は彼に寄りかかりながら顔を上げた。
 至近距離で視線がぶつかり、虚を衝かれて声を失う。
「ダメか」
 肩にあった手が綱吉の頬を撫で、額に登り、前髪を梳き上げた。綱吉は呆然と彼を見詰めながら、ややして静かに首を横へ振る。
「シャマルも……覚えてる?」
「ああ」
 騒音に負けそうな音量なのに、彼が頷く様ははっきりと綱吉に伝わった。
「覚えておいてやる」
 後頭部を流れた彼の手が、再び綱吉の背に回される。
 引き寄せる力は何よりも頼もしくて、夏の日照り以上の熱を感じながら綱吉は目を閉じた。
 有難うと、そう呟きながら。

2007/6/17 脱稿