賛助

 カラフルな壁紙に囲まれたその部屋には、軽快だけれど騒がし過ぎない程度の優しいメロディーで溢れていた。
 その曲調を邪魔するように、不器用な手つきで玩具のピアノの音が鳴り響く。
「また、こんなところに」
 ドアを開けたまま、外に流れて行く音符の数々に目を向けた雲雀が呆れた口調で呟いた。
 部屋のほぼ中央に陣取っている人物には、彼の声は届いていない。それどころかドアが開いたのさえ気づいているか怪しかった。
 振り返らない甘茶色の髪は後れ毛が少しだけ長く伸び、毛先が外に向いて跳ねている。櫛を通した形跡も見つけられなくて、後で泣くのは自分だろうにと溜息を零した彼は、後ろ手にドアを閉めると足音を潜めて室内に移動した。
 ピアノの辿々しい音はまだ続いていて、一応頑張って譜面をなぞろうとしているのが分かる。だが彼は中学時代、音楽の成績は下から数えた方が早かったのではなかったか。いや、音楽に限った話でもないけれど。
 それに弾いているのは玩具のピアノだ、いわゆる子供向けの。そんなものにいい大人が真剣に向き合っている姿は眺めているだけでも充分滑稽で、腕組みをした雲雀は扉が閉まる寸前に黄色いものが部屋に紛れ込んだのを視界の端に捕らえつつも、構わずに歩を進めた。
 カツリ、とワザとらしく足音をひとつ響かせ、彼の後ろで立ち止まる。陳腐な音しか出せないモノクロの鍵盤に意識を向けている相手は振り返らず、雲雀は更に溜息を重ねてその場で膝を折った。
 彼に背中を向け、腰を落とす。床に直接座り込むと長い脚を片方曲げて胸元に寄せ、けれど背中は少し後ろへ反り気味に固定した。
 互いに身に纏っているスーツの布が擦れ合う事は無い。敢えてそうなりそうでならない空間を作った雲雀は、膝に片手を置いてもう片手は床に沿えた。
 指先が転がっていた丸いクッションに触れる。引き寄せてみればそれはただのクッションではなく、とあるキャラクターの顔を造詣したものだった。
 部屋を見回してみれば、似たようなものがそこかしこに散らばっている。この部屋の本来の主は雲雀ではなく、また今現在玩具のピアノに躍起になっている彼でもない。日本から連れて来た、元々はこの国の住民である、幼い子供の為に特別に用意された部屋だ。
 ただ彼らがこの国に渡ってきてから数年が経過しており、本来の主も此処にある玩具よりもっと別のものに興味を示すようになっていた。とは言え此処を住処と定めた当初は、あの子供にせがまれた彼が頻繁に時間を過ごした場所でもある。
 そして今は、気持ちが沈みこんだ時などにたまに、彼は誰も居ない時間を狙ってひとり此処に来る。
 ピアノに手を出したのは、今日が初めてではない。
「そこの音はレだよ」
「……」
 音階を外れた歪なメロディーに苦情を出しても、彼は背中を向けたまま振り返らない。雲雀は壁際に置かれたプラスチック製の小さな滑り台に停まった黄色の鳥に目を細め、背中越しに感じ取る他者の体温に苦笑した。
「そこはミ。楽譜読んでる?」
「……ほっといてください」
 また音を間違えた指に肩を震わせ、笑う。ぶっきらぼうな声が鏡にぶつかって跳ね返ってきた。優しい曲がそれに重なる。
 ピアノの音は止んだ。
「終わり?」
「ギャラリーが居ると集中できませんので」
 つまらないと言外に告げた雲雀に、彼は正論めいたことを主張して唇を尖らせた。
 いい年をした男が何を拗ねているのか。理由は大体分かっているのだが敢えて口には出さず、雲雀は代わりに何度目か知れないため息を零して掴んでいたクッションを遠くへ投げ捨てた。
 色鮮やかなカーペットの上で跳ね、横倒しに転んで裏側が上になる。滑り台の上で毛繕いしていた鳥がピィと小さく一度啼いて、彼の突然の行動を咎めているようだった。
「誰に言われて来たんですかー?」
 視線を持ち上げて黒髪の隙間から鳥の様子を窺っていると、背中にどん、と衝撃を受けて押されるままに胸が膝に当たる。思わず目を見張った雲雀は、振り向こうと首を半分捻ったところで彼の不満げな声を聞いた。
 動きを止め、そして前に向き直る。背中に感じる体重はそのままだ。
「誰って?」
「どうせ、獄寺君辺りでしょう」
 未だ腫れ物に触るような扱いをしてくる右腕候補のひとりの名前を呟き、皮肉げに唇を歪める。声の調子だけで雲雀には彼の今の表情が予想できて、どうしたものかなと肘を膝に突き立てて頬杖をついた。
 ぐいぐいと強弱をつけて、彼は体重を人に押し付けてくる。そのまま潰れてしまえといわんばかりの動作だが、膝と肘がつっかえ棒代わりになっていて、雲雀はさしたるダメージも受けずに彼の攻撃を受け流した。
「どうして僕が、あの馬鹿の言う事を聞かなければいけないの」
 キャンキャン喧しく吠え立てるばかりの男の頼みなど、耳を貸すのも嫌だと雲雀は素っ気無い調子で言い返す。彼は背中を押す力を一旦緩め、それもそうか、と呟いてまた人の背中に凭れかかってきた。
 今度は押しては来ず、ただ寄りかかるだけ。
「下手なピアノが聞こえただけだよ」
「この部屋、防音なんですけど」
 自分は扉をしっかりと閉めておいたはずだが、と記憶の片隅に追い遣られていた十数分前の出来事を振り返り、彼は首を傾けて雲雀の背中に頬を押し当てる。鳥の鳴き声がまた聞こえて、続けて羽根を広げて空気を掻く音がした。
 雲雀が腕を伸ばす、だがその指を素通りした鳥は中空を滑って別の地点に着地した。
「う……」
 呻き声が真後ろからして、今度こそ雲雀は振り返る。
 姿勢が崩れないように肩で支えてやりながら転じた視線の先には、甘茶色をした髪の上でのんびりと鎮座する鳥の姿があった。
「ツナヨシ、ゲンキナイ」
 羽根をパタパタさせながら安定出来る居場所を探り、細い脚を曲げて完全に座り込んでしまった鳥が歌う。
 支えなしで座り直した彼が、ややばつが悪そうに肩を竦める仕草を取った。上目遣いに自分の頭を窺い見ているが、彼には鳥の姿は見えないだろう。
「ツナヨシ、ゲンキナイ」
「元気だよ」
「ゲンキナイ」
 誰が教え込んだのかは知らないが、気づけば色々な言葉を拾い集めては人前で披露するのを止めない鳥。日本で雲雀に懐いて以降、こんな場所にまで着いてきてしまったそれは、常日頃から無口無愛想な雲雀の代弁者ともなっていた。
 言い返した綱吉だったが、鳥にまで強がっていると否定されて大仰に肩を落とす。雲雀が笑うのを横目で睨んで、蓋を閉じた玩具のピアノを撫でた。
「ツナヨシ、ゲンキナイ。ヒバリ、ゲンキナイ」
「っ」
 丸めた拳を口の前に置いて笑っていた雲雀が、次の瞬間噴出きして首を前に倒した。顎が親指の骨にぶつかって痛そうな音を立てる、綱吉は驚きに目を見開いて慌てた様子で雲雀に大丈夫かと声をかけた。
 頭の上の鳥が、同じ台詞を繰り返しながら綱吉の頭上を飛び立つ。
「ヒバード!?」
「ヒバリ、ゲンキナイ。ツナヨシ、ゲンキナイ」
 息を吸おうとして失敗した雲雀がひたすら噎せている。騒々しく咳を繰り返す彼と、高らかに歌いながら天井近くまで飛びあがった鳥の行方を交互に見詰め、綱吉は雲雀の背中に手を置いて軽く撫でさすってやった。
 黒髪からはみ出ている耳が、淡い紅色に染まっている。
「あの、ヒバリさん?」
「ツナヨシゲンキナイ、ヒバリ、ゲンキナイ」
 肩から顔を覗き込もうとすると、雲雀は即座に反対に首を捻って逃げてしまう。視線は一度も絡まないけれど、綱吉にも今雲雀がどんな表情をしているのか楽に想像できて、それが可笑しかった。
 呼吸が落ち着いた雲雀から手を離し、腹を抱えて丸くなる。溢れ出てくる笑いに声は抑えきれず、綱吉は全身を震わせて数日振りに思い切り笑った。
 まだほんのりと朱色を肌に残す雲雀もまた、表情を緩めて笑いすぎて苦しいと訴える彼に若干複雑な笑みを浮かべる。
「あー、もう。なんか、おっかしいの」
 この国に来てから、そろそろ四年。いい加減慣れて来たかと思っていたら、そうではなかった。
 取り返しのつかないミスなどない、とフォローに徹してくれた仲間のお陰で事なきを得たけれど、罪悪感と責任感は彼の行動を縛り付ける。日を追うごとに笑わなくなっていく彼を、本当は皆分かっている。
 けれどどうすれば一番良いのか、その答えが出なくて気持ちを空振りさせてばかりで。
 仲間に心配をかけて、無理ばかりさせている自分に彼も気づくから、堂々巡りの思考回路は袋小路に行き詰まり、暗く重い方へ気持ちは流れて澱になる。
 抜け出そうともがけばもがくほど、両手両足に蔦が絡み付いて彼をもっと暗く深い場所へ引きずり込もうとする。逃げ出すのも容易ではなくて、ではどうすればよいのかといえば、それも答えが出ない。
 何もかも投げ出してしまえるほど彼は強くなく、何もかも引き受けてしまえるほど彼は弱くない。見守ることしか出来ない仲間たちの歯痒さも分かるだけに、身動きの取れない自分に風穴を開けてくれる存在はどうしても欲しかった。
「俺、そんなに元気ないように見えました?」
「なかっただろう」
「そうですね」
 カラコロと喉を鳴らして笑い、綱吉が問う。雲雀の愛想がない返事に涙を拭って頷き、彼はジャングルジムに着地した鳥の姿を探し出した。
「でも、もう元気ですよ」
「みたいだね」
「ツナヨシ、ゲンキ」
 久方ぶりに声を立てて笑った。笑えた。
 笑うのがこんなに気持ちがいいものだと思わなかった。なにより、彼が自分を気にかけてくれていたことが嬉しい。
「ヒバリさんは?」
「ヒバリ、ゲンキ」
「五月蝿いよ」
 いったいどちらに対していったのか、ぶっきらぼうにそっぽを向いてしまった彼に綱吉がまた笑う。
 赤みの戻った耳朶が、嬉しくて堪らない。
「ツナヨシゲンキ、ヒバリ、ゲンキ」
「そうなんですか?」
 わざと意地悪に問うと、雲雀はいきなり立ちあがって大股に歩き出した。
「ヒバリさん?」
「五月蝿いね。だから、――そういう事だよ」
 一瞬泳いだ視線が天井を這い、それから綱吉に真っ直ぐ向けられる。思わずどきりと心臓が跳ねて、綱吉は後を追うことも出来ずにその場で呆然となった。
 鳥が、置いていかれそうな現実に気づき羽根を広げる。
「え……と?」
 視界を黄色の点が流れていって、遅れて扉が閉ざされた。
 けれど開いた風穴は、まだ塞がらない。
「だから……あれ?」
 人に見せられないくらいに顔が赤くなる。両手で押さえた頬は、火傷しそうなくらいに熱を帯びていた。

2007/6/16 脱稿