a great Distance

「……ライ、どうしたのその顔」
 食堂の仕事もひと段落し、手伝ってくれていたメンバーにもまかない料理を出してその片付けも終わった時間。午後を過ぎる頃から急激に不機嫌さを増したライのしかめっ面を、ずっと気にしていたのだろう。リシェルが指で小突きながら問いかけた。
 普段は客が使うテーブルのひとつに腰を下ろし、右肘を立てて頬杖をついているライはものの見事に怒っている、というのが見ているだけでも分かる表情をしていた。ぶすっと膨れた頬、険のある目つき、への字に曲がった口。床に置いた足のうち右側はさっきからトントンと神経質に音を刻んでいて、聞いているほうも神経が磨り減って苛々度が勝手に上がっていく始末。
 よくそんな調子で料理が出来たものだと、遠巻きに見詰めるリシェル以外の仲間たちは一様に思ったに違いない。
 ただその点、プロ意識が高いライなので問題はなかったのだが、一旦仕事が終わってしまうと彼の不機嫌の度合いは急激に悪化した。しかも原因が誰にも解らないというのだから、厄介極まりない。
「うるせぇ、触んな」
 ぱしっ、とリシェルの手を叩き落したライが仏頂面で言い放ち、頬杖を崩して今度は左手に顔を寄りかからせた。
 叩かれたリシェルは一瞬の痛みに顔を顰めてから、彼に負けない不満顔を作って腰に両手を押し当てる。トレードマークのウサギの帽子の下からは勝気な瞳が覗き、挑戦的な色を濃くしていた。
「なによ、折角人が心配してあげてるのに」
「誰も頼んでないだろ」
 お節介が過ぎるんだよ、と膨れっ面を崩さずにライが言い放ち、リシェルが額面通りに意味を受け取って歯軋りを繰り返す。握り拳を悔しそうに上下に振り回して地団太を踏んだ彼女は、年頃の少女にしては荒っぽい足取りで弟をはじめとする仲間達の方まで戻ってきた。
 ふたりが本格的に衝突しあうのだけは回避されて、皆は一様にホッと胸を撫で下ろす。特にリシェルは一度キレると見境がなくなるので、弟のルシアンにしてみれば冷や冷やものだっただろう。まだ憤慨している彼女をどうにか宥めようと、姉思いの弟は懸命に彼女の機嫌取りに奔走した。
 ライはまだひとり、テーブルで不機嫌に輪をかけた顔をしてそっぽを向いている。
 彼が何故あんなにも怒っているのかが分からなければ、リシェルの二の舞になるのは目に見えているので誰も腫れ物に触れようとしない。放っておけばそのうち落ち着くだろうとはアロエリの言葉で、いい加減彼の突発的な癇癪にも慣れて来た面々は顔を突き合わせて深く頷いた。
 そういえば、とそのアロエリが輪に加わっているメンバーの顔を右から順に見ていって首を捻る。
「セイロンはどうしたんだ?」
 瞬間。
 ばんっ、と床がぶち抜けたのではないかと思われる地鳴りを伴った轟音が響き、全員が肩を竦めて首を窄めた。
 地震かと思われたが音は一瞬で収まって、揺れも起こらない。木目が立派な天井に目を向けていた何人かのうち、最初に食堂中央に視線を戻したリビエルが成る程、と嘆息した。
 両手をテーブルにつきたて、椅子を蹴倒したライが前傾姿勢気味に立ち上がっていた。
「ライ?」
「散歩してくる!」
 リシェル以上に荒っぽい足取りで去っていく背中を、一同は何も言わずに静かに見送った。やがて扉は開いて、閉められ、静寂が場を支配する。
 その場に居合わせた全員が、ライの不機嫌の原因は分からずとも、彼を不機嫌にした張本人が誰であるかを理解した。
「あの人ですか」
 代表でシンゲンが呟き、皆が皆疲れた顔で肩を落とす。
 なんにせよ、緊張の原因は取り払われた。後は、当人のみぞ知る。

 苛々する。
 自分は自分、他人は他人。分かっている、これがただの八つ当たりである事くらいは。
 乱暴に開け放ったドア、反動で閉まるに任せてそのままライは数歩前に出て段差を一気に飛び降りた。
 着地の際に衝撃が膝に来るが、構うことなくつんのめった体勢を利用してそのまま足を前へと繰り出す。散歩してくると言って出て来た手前、その辺をうろうろして煮え滾っているこの頭も冷やしてから戻ることにしよう。
「ん~」
 大きく腕を伸ばして背筋を反らせ、雲が多いものの晴れ渡った空を仰ぐ。吸い込んだ空気は澄んでいて心地よく、体の節々までしみこんでしゃきっとした気持ちにさせてくれた。微かに水の匂いが混じっているのは、北西から吹く風が湖を抜けて山の表面を滑り落ちてきているからだろう。
 雨雲の気配は無い、この様子では明日も快晴に恵まれそうだ。
「洗濯物、溜まってきてたよな」
 食堂の忙しさにかまけて他の様々なことは二の次になってしまっている現実を思い出す。しっかりしなくては、と左肩に手を置いてぐるぐると回し、骨を鳴らしてライは低く唸った。気分転換にいいかもしれない、疲れるがその方が余計な事も考えずに夜も眠れるだろう。
 反対の肩も同じように回して、彼は自分の考えに頷いた。今日の自由時間はそれにしよう、真っ白になったシーツが風にはためく様を見れば、この荒んだ気持ちも多少は癒えるかもしれない。
 決まったなら行動は早いに限る。ライは踵を軸にして進行方向を右に直角に変更させ、駆け出すようにして表口から裏口へと向かった。そうして上気した頬に息弾ませて角を曲がったところで、彼の足は急激なブレーキをかけられた。土埃が数十センチに渡って地表を走っていく。
「おや」
 さっきから姿が見えないと思っていた人物が、鍛錬を終えて一息ついていたところなのか、上半身をむき出しにして井戸の傍に佇んでいた。
 彼の足元には水を湛えた桶が、手元には濡れたタオルが握られている。いつもは隙間なくきっちりと着込んでいる着物も、帯の位置で裏返って彼の腰から足元に向かって布を撓ませていた。
 むき出しの筋肉はしっかりと鍛えられていて、余分なものは綺麗にそぎ落とされている。発達した上腕筋は太く、ライの二倍近くありそうだ。
 彼はライをその場に認めた瞬間は僅かに細い目を見開き、それから直ぐにどこか困ったような目つきを作って眉尻を下げた。口元には自嘲気味な笑みが薄らと浮かべられ、それが余計にライの癪に障る。
「んだよ」
「いや、別に」
 何か言いたそうな顔をしているのに、はぐらかして視線をそらしてしまう。やりきれない気持ちに駆られ、ライは悪態をつきながら彼の方へずかずかと歩み寄った。
 その脛を、何も言わずに蹴り飛ばす。
「った」
「言いたいことがあるなら、言えよ」
 自分の思いを相手にする、その為に口という器官はあるのだから。
 ぶっきらぼうに唇を尖らせて言ったライに、膝を持ち上げて足首に触れたセイロンが肩を竦める。笑う気配が微かに伝わって、ライは剣呑な瞳のまま彼を睨みつけた。
「言いたいことがあるのは、御主ではないのか」
 だがセイロンの瞳は苛立ちを募らせるライの、本人が見えていない部分を見透かして言葉を紡ぎだす。正面から涼やかな、それでいてどこか冷めた色をしている紅色に見詰められ、ライは息を呑んでから気まずげに顔を横向けた。
「うっせぇ」
「ライ」
「どうせ小さいよ、俺は!」
「……は?」
 セイロン自身も、何故ライが不機嫌なのか理由が解らないでいる。台所でちょっとした会話を交えた直後から急に彼は怒り出して、セイロンは自分の行動をいくら顧みても原因がつかみ出せなかった。
 今もまた、彼の突然の癇癪に戸惑いを隠せない。
「ライ?」
 そこまで彼の気に障ることを言った覚えは無い、けれど実際問題、目の前のライは憤慨甚だしい。眉根を寄せて顔を顰めやったセイロンに、ライは更に乱暴な足取りで彼の背中側へと回りこんだ。
 首を巡らせたセイロンの視線を横っ面に感じながら、ライはぐっと腹に力を込める。
「うおぉっ!?」
 セイロンの素っ頓狂な悲鳴が周囲に響き渡り、大声に驚いた鳥が枝を打って東の空へと飛び去っていった。
 むき出しの彼の背中に、ライの靴跡がくっきりと刻まれる。僅かに赤みを帯び、そして土がところどころこびり付いた背中を空に向け、セイロンは井戸の縁に両腕を引っ掛けてぎりぎりのところで踏み止まっていた。
 腕だけで体を支えているので、プルプルと筋肉が痙攣を起こしている。彼の真下では井戸がぽっかりと暗い口を広げており、指先が削り落とした石の破片が随分と時間をかけて水面まで落ちていった。
 両腕は肩幅以上に横へ広げられ、顎からは汗が滴り落ちる。歯を食いしばって転落だけは阻止したセイロンは、急激に上昇した心拍数をまず平常値まで戻すべく乱れた呼吸を整え、ゆっくりと腕立て伏せで体を戻す時の要領で上半身を持ち上げ、最後は足も肩幅まで広げて踏ん張りを利かせどうにか無事に地上へ生還を果たした。
 折角汗を拭ったばかりだというのに、ドッと溢れ出して彼の全身を容赦なく濡らしている。上腕が痺れていう事を聞かず、彼は手を広げては閉じて感覚を取り戻しながら後ろにいるライを振り返った。
「危ないではないか!」
 いきなり背中を、蹴られたのだ。運が悪ければ、そして相手がセイロンでなかったら、井戸の底へ真っ逆さまに落ちていたかもしれない。その危険性くらいライだって分かっているだろうに。
 声を荒立てた彼にライは一瞬泣き出しそうな所まで顔を歪める。そんなにきつく言ったつもりは無いのに、調子が狂わされてセイロンは困った様子で頭を掻いた。
「店主……」
 声にも弱気が伝染して、掠れ気味の音量にしかならない。下ろした腕でライの頬に触れようとした彼だったが、ぷいっと俯き加減のままそっぽを向かれてしまい、そのまま脇へと落ちていく。
 と、唐突にそのライが顔を上げた。同時に両腕も斜め上へと伸ばし、セイロンの腰から背中に向けて回す。汗臭いだろうに構いもせず彼は、ぎゅっと腕に力を込めてセイロンに抱きついた。
 胸元に青銀の髪を埋められ、突飛過ぎるライの行動に面食らったセイロンが次の挙動に移れずに、跳ね上げた右手の行き場に困って広げた自分の掌に見入った。
「ライ?」
「うっさい。黙ってろ」
 台所で、棚の上にある調味料を取ろうとした。けれど背伸びをしても、棚の奥の方に押し込んでいたそれに指は届いても掴むところまでいかなくて、逆に指が引っかかる度にもっと奥に潜ってしまう。
 台座を使えば事は簡単に解決するのに、それもなんだか悔しくて、背伸びを繰り返して腕も肩が外れる寸前まで必死に伸ばしていた。そうしたら、急に背中が厚みある何かにぶつかった。
 持ち上げた腕に重なるように、真っ直ぐに長い腕が伸びてくる。ライが苦労しても届かなかった場所に難なく到達した彼の指は、ライの頬を慈しむようにして撫でてから当たり前のように調味料を置いて遠ざかっていった。
 悔しいではないか、そんな風にされてしまっては。
 どんなに背伸びをしても、彼がしゃがんでくれなければその顔に届かない。肩にぶつかった胸板の頑丈さが恨めしい。
 今だって、額がどうにか肩甲骨に触れるかどうかだ。
 悔しい。負けているだなんて思いたくもない。
 ぐっと奥歯を噛んで理不尽な自分の感情を押し殺していると、額にセイロンの手が下りてきて瞳を隠している前髪を後ろへと梳き流して行った。つられて顔を上げると、首を前に倒した彼が陽光を背中に負ぶっていて、目を閉じた瞬間にその瞳のすぐ脇に口付けが落ちてきた。
「セイロン?」
「まあ、なんだ。これで機嫌を直してはくれぬか」
 瞼を持ち上げれば彼はまだそこにいて、自分の頭ではこれが限界だと笑っている。
 頭に触れる手が優しくて、くすぐったくて、ライは首を振って彼の手を払い落とした。それから背中に回した腕を解き、肩へと移動させる。セイロンの視線がそちらに向くのを待って、真下に向けて力を込めた。
 促されるままに彼は膝を折り、先ほど落ちかけた井戸の縁に腰を落とす。
 視線の高さが逆転した。
「ライ?」
「たまには、……お前が背伸び、しろ」
 言って、顔を寄せる。
 セイロンは笑いながら、仕方が無い子だと言ってライの手を握り返した。

2007/6/25 脱稿