踏青

 夏休み、最後の休日。
 どこか行きたい場所があるか、と聞かれたから。
「しっかしな~……今行っても泳げねーぞ」
 他にもっとあるだろう、とぶつくさ言う運転手が緩いカーブに差し掛かって右にハンドルを切った。
 追い越し車線を走る大型トラックが、轟音と共にゆっくりと白い自動車を追い越していく。窓の遥か上まで埋め尽くす黒い影に、綱吉は思わず窓に両手をついて、痛くなるくらいまで首を上に傾けた。
 返事がないことをたいして気にも留めず、ハンドルを真っ直ぐに戻したシャマルがちらりとメーター確認ついでにその綱吉の様子を窺い見る。
 高速道路に入ってからはほぼノンストップで走り続けているので、時々速度感覚がおかしくなりそうだった。今でも百キロ近い速度が出ているのに、それをどんどん大型車が追い越していくので、余計に。
 後ろへと流れる景色はどこまで行っても灰色の防音壁で、面白みが足りないのだろう。最初は大人しく前を向いて座っていた助手席の主は、今やスピードレースでもあるまいに、追い越し、追い越される車の競争に目を輝かせている。
 元々男の子というものは、車や電車が好きだ。自動で動くもの、速度が出るものに興味を持つ子は多い。その好奇心が高じて、大人になってから毎年のように車を買い替える奴までいるくらいだ。
「ねえ、シャマル。あれは追い越せない?」
 こげ茶色のシートの上で腰を弾ませた綱吉が、わくわくという文字を顔に丸出しにして尋ねて来る。いったい何かと彼が指差した方向に目をやれば、さっき自分たちを追い越していった大型トレーラーだ。
 銀色のコンテナをふたつも牽引して、今も追い越し車線を爆走している。両者の距離は相当なものとなり、今も徐々に開きつつある。
「馬鹿言うな」
 あんな速度超過で走って、競り合ってどうする。もし幅寄せでもされようものなら、吹っ飛ぶのはこちらの方だ。長距離トラックの運転手は、全部が全部そうではないが、血の気の多い奴だっている。下手に煽って逆鱗に触れでもしたら、事故を起こす程度ではすまないかもしれないのだ。
 忌々しげに即答したシャマルの渋い横顔に、綱吉は揃えた両膝の上で掌を裏返し、ちぇ、と呟く。同時に右足を蹴り上げて、爪先が狭い車体の壁面を擦った。
「こら、暴れんな」
「だって、狭い」
 四人乗りの丸いフォルムをした車は、相応に年季が入っていて所々に大小の傷が目立った。その外観はまるでミニカーであり、女の子が見たなら両手を胸の前で結んで、その第一声も「可愛い」で決まりだろう。実際、綱吉もこれで迎えにこられたときは、なんてシャマルに似合わない車なのだろう、と思ったくらいだ。
 乗り心地は正直、あまり宜しく無い。さっきの感想にもあった通り、狭いし、振動もそれなりに激しくてしかもシートが若干硬いので尻が痛い。
 シャマルのことだからもっとおしゃれで豪華なスポーツカー、なんていう見栄を張って運転していると思いきや、案外庶民的な車に乗っている。似合わないなと素直な感想を述べれば、五月蝿いと伸びてきた手で拳骨を貰った。
「テメーの頭に合わせてやったんだよ」
 フェラーリの助手席なんざお前には勿体無い、と器用に片腕でハンドルを操作し、前だけを見詰めてシャマルが口角を持ち上げて笑った。
 殴られた箇所に追い討ちでデコピンまで貰い、痛みに薄く涙を滲ませた綱吉は、恨みがましく彼の涼しい横顔を睨みつけて唇を尖らせる。だが都心部を遠く離れ、カーブも多い山の合間に突入した事で防音壁が途切れた頃には、現金なもので彼の機嫌は一気に浮上していた。
 いったい何がそんなに珍しいのか、窓に両手を貼り付けて額まで押し当て、ガラス越しの景色を歓声あげながら眺める様はまるで幼稚園児かなにかだ。とても中学二年生の態度とは思えない。
「面白いか?」
「うん!」
 半ば嫌味のように聞いてみたが、返って来たのは実に元気の良い嬉しそうな声。心底喜んでいると分かる調子に、がっくりと肩を落としたシャマルはしかし二秒後、気を取り直して後ろから接近する車に車列を譲った。
 ウィンカーを出して左側の車線に移動し、ブレーキを踏んでほんの少し速度を落とす。元々カーブの多い地帯で速度制限もされており、彼の行動を不審がる車も無い。安全運転を心がけているのだろう程度の認識で、右ハンドルの国産車は次々とミニカーもどきの左ハンドルを追い抜いていった。
 今度は綱吉も、抜き返せなどという不埒なことは口に出さない。
 綱吉の座る右側座席からだと、追い越していく車と、急峻な崖が景色の殆どだ。
 コンクリートで上辺を固め、ネットを張って落石防止を心がけているそんな不恰好な山肌に、へばりつくようにして曲がりくねった緑の樹木が肩を寄せ合っている。雨で崩れたらしい土が流れた形跡や、都心部では見かけることのない珍しい標識。風向きと風速を教える吹流しや、一瞬で視界が遮られて薄暗い中にオレンジが灯る短いトンネル。
 アスファルトに引かれた凹凸は急なカーブを曲がるときの減速用で、通り過ぎるたびにドンドン、とリズム良く下から突上げてくる振動が面白いのか、綱吉はケタケタと声を立てて笑った。
 運転しているシャマルからすれば一瞬でも気が抜けないというのに、ただ座っているだけとはなんてお気楽なんだろうと嫌になる。
 枯れ枝を捻って丸めたような細い円形のハンドルを慎重に操り、こまめにギアチェンジを繰り返しながら、なるべくゆっくりと道を急ぐ。山が多く、道も細く険しい上に曲がりくねっていて、右に行ったかと思えば直ぐに左にハンドルを切り、今度はまた右、左の連続。アクセルを全開にする余裕なんて何処にもなくて、若干苛々してきたシャマルは代わり映えに乏しい景色に大きく舌打ちした。
 聞こえたらしい綱吉が、脂の跡が残るくらいに押し当てていた窓から離れ、振り返る。
「シャマル?」
「あー、なんでもねぇ」
 右手一本でブレが大きいハンドルを支えた彼は、ぶっきらぼうに言い返しながら左手でガシガシと乱暴に髪を掻き毟った。
 そもそも今日、一緒に出かけないかと誘ったのはシャマルだ。夏休み期間中は臨時収入目的で海外を飛びまわっていて、日本に戻って来たのはつい一週間ほど前。その間当然連絡など取り合うはずもなく、いきなりいなくなっていきなり戻って来たことに対し、綱吉からは随分と文句を言われた。
 せめて出国・帰国の日取りくらい教えて欲しかった。海外から届いた絵葉書一枚じゃ状況なんて分からないし、返事も出来ない。せめて電話のひとつくらい寄越せ、云々。
 あまりの剣幕に、お前は俺の母親か何かかと言い返してしまったのは、言葉のあやだ。目をぱちくりと見開き、瞬きをした後、それまで以上のけたたましさで人に殴りかかってきた綱吉は癇癪を起こして泣きじゃくっており、なんとか宥めて落ち着かせるために提案したのが、最後の休日に一緒に遠出をしよう、という話だ。
 行きたいところがあるかと聞いたら、逆に何処へ行ってきたのかと聞き返された。
 仕事の内容には秘匿義務が生じるし、合計すると三つか四つくらいの国境線を跨いでいる。全部を説明するのは無理だし、面倒だったので、絵葉書にあった場所だとだけ告げれば、あれじゃあ解らない、とまた頬を膨らませて拗ねられた。
 だが最終的に青い海原に面したヨットハーバーの写真から、綱吉は単純に、何処かの南の島だと判断したらしかった。
 それで、海。
 しかもバスや自転車で行ける距離ではなくて、本格的な移動が必要なところがいい、という条件つき。それなら電車よりも車の方が移動も便利だしコストも安くつくと判断して、シャマルは車を引っ張りだして来たわけだが。
 前日に電話で伝えられた目的地を地図で調べ、正直なところ、シャマルは大いに後悔した。これは絶対、嫌がらせの分類に入る、と。
 軽々しく約束などすべきではなかったと、しつこいまでに曲がりくねる道に車を走らせてシャマルは溜息をつく。いつまで続くのだろうかと背筋を伸ばして遠くを伺い見るものの、道の先は山の陰に隠れてしまって終わりを見出すのは不可能で。綱吉に頼んで地図を広げてもらうが、肝心の綱吉が、地図が読めなかった。
 完全にお手上げ状態で、時折頭上を抜けていく矢印と地名の看板を頼りに、シャマルは何度か分岐点を越えていった。
 山の中の道は空いていて、すれ違う車の存在も稀。休憩所という名目の空き地で一旦車を降りて、並んで立ちションをしたり、地図を確認したり。太陽の方向で方位を調べるんだ、と頭の上に無数のクエスチョンマークを浮かべている綱吉に彼は懸命に説明して覚えさせようとしたものの、長い間座りっぱなしだった綱吉の脳みそは新しい記憶を皺に刻み込んではくれなかった。
「役に立たない奴だな~」
 心底あきれ返ったシャマルの声に、綱吉は小さくなって項垂れる。
 車高も低く、綱吉でももたれかかれば屋根に腕が伸びるチンクェチェント越しに睨まれ、ちぇ、と詰まらなさそうに口を窄めた彼は、八つ当たり気味にタイヤを蹴り飛ばす。だが空気圧も適度に保たれているそれは容易に凹むものでもなく、むしろ弾き返されてその痛みに彼は呻いた。
 何をやっているのか、と更に呆れた顔のシャマルがボンネットの前を経由して綱吉の元へ歩み寄る。
「いって~~」
「馬鹿か。馬鹿だろ」
 左足を抱えて片足でぴょんぴょん飛び跳ねる綱吉を眺め、救いようが無いなと肩を落とす彼に涙目で睨む。伸びてきた手はそんな綱吉の頭を優しく撫でて、瞬きの後の涙で少し滲んだ彼の姿は、苦笑しているもののどことなく柔らかさを感じるものだった。
「ん、もう。痛いってば」
 けれど好きなようにさせていれば、そのうち扱いが乱暴になってきて髪が絡んだままの指を持ち上げられて頭皮が引っ張られる。足を下ろして両手で彼の腕を掴み、無体を責めると彼はやや煙草で黄ばんだ歯を見せて笑った。
 最後にぽんぽん、と強めに頭を二回撫でて彼の手は離れる。
「もう行くぞ、乗れ」
 脇をグレーの乗用車が走って行き、綱吉は排気ガスに咳き込む。素早く背を向けたシャマルは運転席前に戻っていて、ドアを開けて中に頭を突っ込んだところで何かを思い出したらしく、口元を手で覆い隠して噎せている綱吉をまた車外から見詰めた。
「お前、後ろ行くか?」
 薄い天井を上から叩いたシャマルの声に、鼻を啜った綱吉は視線だけを持ち上げる。
 後ろ、の指す意味が分からなくて首を捻った彼だったが、親指だけを立てたシャマルが車の上から後部座席方面を示しているのを見て、ああ、と頷いた。
 砂利が敷き詰められた広場全体を視界に入れ、それから後方に聳える鬱蒼とした緑の山々に目を細める。幾重にも折り重なった境界線は焦点をずらせば直ぐに曖昧になってしまって、風が吹けば植物と土と沢を流れる水の匂いが彼を包んだ。
 ぼんやりした輪郭を作るシャマルに首を振り、目を閉じて助手席のドアを開ける。素早く中に乗り込んだ綱吉は、取り残されているシャマルが何か言う前にさっさとシートベルトで身体を座席に固定してしまった。
「いいのか」
 この車が右ハンドルであれば、左側通行の日本の道路でも充分景色を楽しめただろうに。
 フレームに手を置いて車内から問うたシャマルの声に、綱吉ははにかみながら頷いて返す。
「此処が良い」
 運転席の後ろに行けば、確かに彼の言う通り、移り変わりの激しい景観を楽しむのも可能だろう。けれど本当に見たいのは、景色なんかではないのだ。
「そうかー?」
 それが解らないのか、シャマルは素っ頓狂な声を出して首を振り、再度頭を掻いてから運転席へ戻った。キーを回しエンジンをかけ、バックにギアを入れて左肘を座席の上に引っ掛けて上半身を後ろに捻る。
 バックミラーを見るよりも、実際に自分の目で見る方が楽なのだろう。ガクン、と最初に動き出す時の振動でクッションに身を沈めた綱吉は、ゆっくりと左に曲がりながら後退し、やがて硬いアスファルトの道に合流するべく今度は右にハンドルを返す、そのシャマルの手ばかりを見ていた。
 彼が運転慣れしている事は、滅多に車に乗る機会を持たない綱吉でも分かる。実際シャマルは安全運転を心がけて、綱吉がいくら煽ろうと規定速度を越えて走りはしなかった。
「シャマルは、日本で免許取ったの?」
「んなわけあるか」
 真っ直ぐ前を見据えたままギアチェンジを敢行するシャマルが、実に素っ気無く綱吉の質問を否定する。
「国際免許証ってのがあるんだよ。半年だったか、いや一年か? ともかく、頻繁に一回更新しなきゃなんねーから、面倒くさいんだけどな」
「……」
「分かってないだろ」
「うん。なに、それ」
 臆面無く頷いた綱吉が聞き返す。
 道は細かいカーブが連続する峠に差し掛かっていて、少しでも気を緩めれば崖下へ真っ逆さまだ。だからどうしても運転に気を取られ、自然難しい顔を作ったシャマルはなかなか合いの手を綱吉に返してやれない。
 必然的に車内に沈黙が流れ、険しい顔つきをするシャマルに何を感じ取ったのか、綱吉は一瞬表情を翳らせると視線を逸らした。
 浅薄すぎる知識、理解が追いつかない頼りない頭。己の愚鈍さを呆れられたのかと思い、綱吉は膝の上の拳を硬く握り締めた。
 小さな車はカタカタと細かく振動を繰り返し、山道を突き進む。
 すっかり黙りこくってしまった綱吉を右にハンドルを切るついでに盗み見たシャマルは、窓の外ばかりを見ている彼の後頭部にそっと、解らないように吐息を零した。
 華奢な首、細い四肢。何処をどうみても平々凡々の、平均よりも少しレベルの低い男子中学生。
 果たして彼が、あの血生臭い闇世界に君臨する悪名高きマフィアの後継者だと、言ったところで誰が信じるだろう。
 硝煙の臭いが常に付きまとい、気を緩める暇もなく、周囲は常に敵で溢れ返り、報復と復讐の連鎖に縛られ、血で血を洗うような日々。光さえ差し込まない深淵の闇に彩られた暗き世界に、あの琥珀色の瞳は似合わない。
 それなのに、背負わせるというのか。
 赤と黒で飾られた、決して褒められるべきものではない歴史を。無数の屍を山として連綿と刻まれ続ける、あの罪に濡れた十字架を。
「ちっ」
 思い返しても忌々しさが募るばかりで、シャマルはつい声に出して舌打ちした。
 脳裏に蘇る、滅多にお目にかかれるものではない老人の姿に心の中で出来る限りの悪態をついた彼は、感情を外に出さないように注意したつもりでいたけれど、両手の人差し指だけが苛立ちを隠さないまま、渋色のハンドルをしつこいくらい叩いた。無意識に奥歯を噛み鳴らし、少しだけ乱暴にアクセルを踏み込んで速度を上げる。
 メーターが大きくぶれて、ガソリンの残量と一緒に現在の速度を確かめようとした彼は、大きく見開かれた琥珀色の瞳が、茫然自失とした様子で自分を見ていることに今頃気づいた。
「……」
 揺れている瞳の色に、シャマルは怪訝に眉を寄せる。
 だがいつまでも彼にばかり注意を払っていられなくて、流されそうになったタイヤの向きを急ぎ修正し、シャマルは前に向き直った。
 綱吉は握り締めた手を一度緩め、今度は履いているズボンの布地ごと更に強く握り締める。巻き込んだ皮膚が抓られて痛いけれど、そんな痛みさえ微細だと思えるくらい、綱吉はシャマルの態度にショックを受けていた。
 苛々と、腹立ちを隠さないで。
 考えてみれば、当たり前だ。彼は長旅の疲れがまだ取れていない、海外をあちこち飛びまわっていたというのは話半分に聞いている、移動距離は相当なものだったろう。毎日ベッドでぐっすり眠れた綱吉とは違う、それにシャマルの放浪は気まぐれな旅行ではない、仕事だ。
 彼がただの保険医ではないのは最初から分かっていたはずだ、影でまだ幾らか仕事を請け負っているのだって知っている。
 それなのに綱吉は、連絡も寄越さずに勝手にと、癇癪を起こして彼を困らせた。疲れているはずの彼に鞭打って車を出させ、遠くへ行きたいと我侭をいった。
 優しくされる資格なんて、自分には無いではないか。振り回してばかりで、いつだって自分主体で物事を考えて、彼が迷惑に感じている可能性を全部否定して見ようとしなかった。
 恥かしい、悔しい。今だってこんなにもイラつかせている彼に、どう詫びていいのか解らない。本当なら今すぐ車の外へ放り出されて、置き去りにされたって全然おかしくないのに。
 唇を噛み締めて声を殺した綱吉が、首を窄めてきつく瞼を閉ざす。下手をすれば簡単に緩んでしまう涙腺を必死の思いで堰き止めて、時間をかけて彼は息を吐き、目を開いた。
 横を見る。相変わらず淡々と、ほんの少しの苛立ちを滲ませながら、シャマルは細かい調整を加えつつハンドルを操作している。
 謝って済む問題ではないかもしれないけれど。
「……ごめん」
 か細い糸を手繰るように、綱吉がぽつり呟く。
「――は?」
 危うく聞きそびれるところだったシャマルが、途端細めていた目を見開いてあんぐりと口を開いた。前振りもなくいきなり告げられた謝罪の文言に、ぽかんとした表情で彼は脇に座る綱吉の顔に向き直る。
 前方への注意がおざなりになり、しかも悪いことに彼の足はブレーキでなくアクセルの上にあった。思わず踏み込んでしまい、エンジンが唸りをあげる。眼前に迫り来る白いガードレールにシャマルは悲鳴を飲み込み、大慌てでブレーキと同時にクラッチを踏んだ。ハンドルを左に切りながら右手でギアをセカンドへ移動させる。流されそうになるハンドルを懸命に握りしめて耐え、引き攣った息を飲み込んだ彼の耳にけたたましい高音が鳴り響いた。
 タイヤが横滑りし、黒い筋を路上へと刻み込む。一瞬だけ立ち上った薄い煙に息を吐き、身体が後ろに引っ張られてシャマルはシートに背骨を深く食い込ませた。助手席の綱吉もまたシートベルトで固定されていない首から上を激しく前後左右に揺さぶられ、ガクンという衝撃と共に右側頭部が窓へ叩きつけられた。
「うっ」
 思わず漏れた呻きに、運転席で首を反り返らせていたシャマルがハッと目を瞬かせて緩みかけていたハンドルを握る手に力をこめた。そして素早く上方へ視線を流し、バックミラーに映る影が無いのを確かめてようやく、安堵の息を吐いて肩の力を抜いていく。
 綱吉もまた、ぶつけた箇所を両手で庇いながらシートに背中を戻し、曲げた膝を持ち上げて靴の踵で座席の縁を擦った。
「あっ……」
 潤んだ視界を閉ざし、荒立つ心臓を必死に宥める。呼吸の間隔は短く、吸い込むよりも吐き出す量の方が若干多い。胸の苦しさに喘いでいると、横から聞こえて来た声に無理矢理顔を上げさせられた。
「ぶね~」
 変なところで途切れたシャマルの声に、綱吉は喉元に浮いた汗を拭って二度咳き込む。まだ呼吸が正常に戻らない、息を吸うのってどうすればよかったのだろう、なんて生きていく上で基本的なことさえ分からなくなってしまって、綱吉はつい爪を立てて喉仏を掻き毟った。
 嫌われるのは怖い。ひとりになるのは恐い。置いていかれるのがこわい。
 少し前までは、平気だったのに。ダメダメな奴だと自分を割り切って考えて、どうせ願ったところで何一つ適わないと最初から諦めることに慣れていた自分が遠い。いつからこんな風に我侭になったんだろう、ただ一緒に居るだけじゃ全然足りなくて。
 もっと、もっと欲しいと。
 白色のフィアット500は急カーブの手前、色落ちの激しいガードレール寸前で車体をやや斜めにして停まっていた。
 これが通行の少ない山道で良かったと、思うべきなのかどうかは解らない。ガードレールの向こう側は急峻な崖になっていて、深い緑の樹木に遮られ眼下は遠く、まるで見えない。後続車両は無く、追突事故の危険性は少ないが、このまま此処で停車し続けているわけにもいかず、シャマルは踏み込みすぎて痺れた太股を慰めてクラッチを切り替え、少しだけバックしてから本線に位置を戻した。
 横の綱吉がまだ、ゼイゼイと苦しげに荒い呼吸を繰り返している。
 休憩所は過ぎたばかりで、ゆっくり休める場所には当分めぐり合えそうにない。参ったな、とアクセルをゆっくりと踏み込んだシャマルは、辛そうに顔を顰めている綱吉の額に右手を伸ばし、汗で張り付いている前髪をそっと掬い上げた。
 肌に直接触れる感触に、綱吉は歪めた瞳を持ち上げて彼を見返す。
「どーした」
 微弱な熱を持っている額に中指を置き、軽く押してやってシャマルが聞く。けれど綱吉は胸と喉とを庇ったまま、首を横へ振っただけだった。
 答えられないのか、答えたくないのか。シャマルは肩を落として長い息を吐き出すと、前後を確認してから比較的見通しの良い直線道路の中ほどで、車をガードレールすぐ脇にまで寄せてサイドブレーキを引いた。
 アイドリング中のエンジン音と、空調の低い声だけが車内で鬩ぎあう。そこに綱吉の乱れたままの呼吸音が重なり、シャマルの眉間の皺が自然と深くなった。
 軽く触れるだけの指を広げ直し、頬に場所を移し変える。青褪めて血の気が引いている肌は冷たく強張っていて、綱吉は逃げ出したそうに視線を外したまま首を振り続けた。
「いきなり、どうした」
「……なにも」
「なんでもないって顔じゃねーだろ」
 顔を伏したまま言葉足らずに会話を終わらせようとする綱吉に、シャマルの苛立った声が覆いかぶさる。それがあまりに唐突に勢いあるものだった為に、綱吉は大仰過ぎるくらい肩を震わせて身を丸めた。
 持ち上げた右膝をシャマルの側へ倒し、壁にして自分の身体を抱きかかえる。ビクついた全身はシャマルを拒絶しているようであり、求めているようでもあって、小刻みに震える唇は乾ききって白く濁っていた。
「おい」
「だって!」
 いい加減にしろ、と声を荒立てたシャマルが今度は強引に綱吉の左肩を掴み、無理矢理自分の方へ向けさせた。跳ね上がった前髪の下から現れたのは涙で滲んだ大粒の瞳で、悔しげに上唇を噛み締めた彼の顔をまともに見てしまい、シャマルもまた声を失った。
「だって、シャマルは怒ってる!」
 狭い車内に反響する悲鳴に身を仰け反らせ、シャマルの節くれだった太い指は綱吉から離れていった。
 体温が遠ざかる。暖められた頬から急速に失われていくものが切なくて、綱吉は首を振りながら涙を外へ追い払った。
 確かに、今のシャマルは喜怒哀楽の四つの感情から選べと言われたなら、間違いなく怒りのそれに傾いている。けれどそれは、なにも綱吉だけが悪いわけではない。
 それなのに綱吉はさっきからずっと、自分の一方的な思考の迷路に迷い込んで、勝手に他人の感情を自分の意見に置き換えて答えにしてしまっていた。シャマルの苛立ちが全て自分の所為だと思い込む不安定な気持ちが、どんどん綱吉自身を追い詰めていく。
「なんで俺が怒ってんだよ!」
「怒ってるじゃないか!」
「んなこと勝手に決めつけんな。何が気にいらねーんだ、お前は」
「だって!」
 綱吉の煮え切らない態度がシャマルには火に油を注ぐ結果になっていることに、綱吉自身も気づいていない。もうどうしていいのか分からなくて、ただ息が苦しくて胸が締め付けられる思いで、綱吉は掴みかかってくるシャマルの腕を振り払いながら自分から彼の胸に頭を叩き付けた。
 限界まで伸ばしたシートベルトが、それでも長さが足りなくて肩に食い込んでくる。肉が圧迫されて骨に刺さるのに、綱吉は構わずに彼の両腕を取ると顔を伏したまま何度も彼の胸板に頭を打ちつけた。
「おい……?」
 虚を衝かれたシャマルが瞬きを繰り返す。力任せにしがみついてくる両手は、払いのけるのは簡単だ。けれどこれまでにないくらいに震えている背中が切なくて、懸命に声を殺している彼の、心の中では荒波立てて道に迷っている思いが哀しくて、出来なかった。
 呼びかけにも応答しない。後ろから来た車がクラクションをひとつ鳴らし、二車線しかない道の片側を埋めているチンクェチェントに悪態をついて去っていった。
 両肩を外側から抱かれる。綱吉はシャマルの手が触れた瞬間だけ身体を強張らせ、奥歯を噛み締めてから目を閉じた。
「だって……俺。おれ、は、……うれしかったけどっ」
 息が詰まって巧く吐き出せない。言葉が喉に引っかかり、舌の上で絡まっていく。
「でも、シャマル、はっ」
 細切れに刻まれた言葉のひとつひとつを拾い上げ、パズルを組み立てるみたいにかみ合わせていく。灰色だったキャンパスに少しずつ色が足されていって、輪郭の無い抽象画がゆっくりと顔を出した。
 ぐちゃぐちゃに、それこそ滅茶苦茶に色を組み合わせられた、見るに耐えない不細工な絵なのに、バチカン美術館に飾られているどの絵画よりも美しく輝いて、あまつさえ見ているだけで優しい気持ちが浮かび、笑みさえ零れてくる。
 言葉足らずのこの子は、ずっとひとりで考えて、悩んでいたのだ。
「ばーか」
 けれどそれも、仕方が無い。この子はまだ子供で、幼くて、経験も足りないし人の心を先読みする技量さえ持ち合わせていない。
 自分の心には素直で、けれどそれを前面に押し出してはいけないと分かってくる微妙な年頃の、難しい時期だ。自分と他人の境界線に敏感になって、他人にどう思われているか不安でならず、嫌われるのを極端に怖がり、臆病になって一歩が踏み出せない。温かな触れ合いを求めて無鉄砲に走り出すくせに、欲しがった腕の中に自分が居ていいのかでまた不安になる。
 心細いのに、それを表現する言葉を持ち合わせない。
「俺が、なんだって?」
 ひっく、としゃくりをあげて鼻を大きな音と共に啜った綱吉の額を小突く。丸めた指の背で押され、喉を反らした綱吉は一緒に息も詰まらせて涙で頬を濡らした。
 これでは先日の、電話でのやり取りの繰り返しだ。感情を爆発させた上でそれを自分で落ち着かせることが出来ず、結局夜中であったに関わらずシャマルはわざわざ綱吉の家の前まで走らねばならなかった。寂しい思いをさせてしまっていたのだと思ったからこそ、会えなかった時間の埋め合わせも兼ねて今日の予定を立てたのに。
 一緒に居るのに、隣に居るのに、――遠い。
「や、だぁ……」
「あのな」
 嫌々と駄々っ子の如く首を振る綱吉の頭を強引に抱き込み、動きを封じ込める。おろしたてのスーツに涙の染みが出来上がるが、文句を言う気にはならなかった。
 最初は抵抗を見せた綱吉も、少しずつ力を強めるシャマルに最後は白旗を上げ、体重を預けて寄りかかる。邪魔になるシートベルトはシャマルの分だけが外され、彼は運転席と助手席の間にある溝を跨ぐ形で右側に身を乗り出していた。
 宥めるべく背を撫でて動く彼の腕の温もりが、呼吸を邪魔していた重たいものを少しずつ溶かしていく。
「悪い。俺も……ちげーよ、俺は別に怒ってるとかそんなんじゃなくてだな」
 言おうとしたら急に言い訳がましく思えてきて、シャマルは一旦視線を上向けてから間を置いて言葉を吐き出した。
 お互い超能力者でもないのだから、思っていることは当然、言わなければ伝わらない。けれどこの近さにいて、察してくれるだろう、感じてくれるだろうという甘えが先に立ってしまい、語り合うという最も肝心な部分を置き去りにしてしまった。
 こんなに傷つき易い心を持った子が、マフィアなんていう歴史の暗部に足を踏み込もうとしているのが口惜しいのだ。普段は離れていても久方ぶりに本職に戻れば、その汚さを否応無しに目の当たりにさせられる。
 血飛沫に染まったスーツはもう着られない。どんな上等なクリーニング店に出しても、染みこんだ血の臭いだけはどうにかなるものじゃない。だから、どうせ痕に残すなら、自分を想って泣いてくれるような涙の方がずっといい。
「うそっ、だ」
「嘘言って得することじゃねーだろ。いい加減黙らねーと、その口塞ぐぞ」
 顔をあげて額で額を小突き、間近から目を覗き込んで言う。まだ逃げたがる腰を無理矢理引き寄せて乱暴な口調で言い放つと、凄みを利かせ過ぎたのか綱吉は瞬きを忘れて呆然と人の顔を見詰め返した。
 揺らいだ瞳に微かな恐怖が宿っていて、失敗したかとシャマルは心の中で舌を出す。だが言ってしまった以上は撤回も出来なくて、次どう動こうか考えている間に、唇を戦慄かせた綱吉がふるり、と全身を震わせた。
「シャマ……」
「喋ったな?」
 舌先が前歯の裏側に引っかかって発音が半端に止まってしまった綱吉の、零れ落ちそうな大きな瞳を正面から覗き込んでシャマルが笑う。
 黙れと命じられたばかりなのに簡単に覆してしまい、一秒遅れで気づいた綱吉は喉元に見えない圧迫感を感じて息を止めた。
 奥歯がかみ合わなくてカチカチと嫌な音を立てる。竦みあがった心臓が逃げ場を探して右往左往して、泳いだ視線は天井を一周した後正面に戻って闇に落ちた。
「ン――」
 睫同士がぶつかるくらいの至近距離に、眇められたシャマルの細い瞳が熱を持って疼いている。
 前に回った彼の手が、胸の前で結ばれていた綱吉の両手首を捕まえる。右手で左手首、左手で右手首。逃げられないように拘束して、もとより密室状態の車内で逃げ場なんてないのだけれど。
 じっと瞬きもせずに見詰めてくる視線が怖くて、けれど逸らすことも出来なくて綱吉は触れ合った唇から流れてくる熱に涙を零した。
 堪えきれずに瞼を下ろす。力が緩んだ瞬間に下唇に浅く歯を立てられ、後ろに首を引けば追いかけて舌で口腔をこじ開けられた。
 粘ついた水音が頭の後ろから耳に向かって響いていって、閉じようとした唇に挟まれたシャマルの舌が不満げに前歯を削る。逃れたくても後ろは固いシートで占領されていて思うように行かなくて、綱吉は小さく首を振りながら懸命に内側へ潜り込もうとする彼の舌を押し返した。
「んくっ……ゥ、ぁふ……」
 水を弾きながら離れていくシャマルの、赤く濡れた舌先をまともに見てしまって綱吉は赤面する。透明な雫がふたりの間でつむじ風を起こして、飲み下した唾液の味など分かるわけもなく、己も濡れた唇を持て余して綱吉は居心地悪げにシートの端を指で押し潰した。
 伸びてきた彼の手が濡れた顎をなぞり、水気を拭い取っていく。その、一見乱暴に見えてその実慎重かつ丁寧な仕草に、綱吉は音を響かせながら息を吸って吐き出し、窺う視線を横からシャマルに投げかけた。
 向こうもまた、少し先走りすぎた感のある行為に照れているようで、いつも通りの顔をしているのにどこか気まずげだった。
 お互い赤い顔を隠し、前と横を向いて視線を交わさない。こんなところでこんな事をするつもりなんて最初から毛頭無かっただけに、無駄にエネルギーを消費する喧嘩を続ける気も起こらなくて、シャマルはやや乱雑に自分の前髪を掻きむしった。
「あー……ったく。行くぞ」
 予定外に時間を食ってしまった、このままでは昼食の時間帯までに目的地にたどり着けない。
 手首に近い掌でハンドルを殴りつけた彼は、またしても綱吉がビクッと肩を強張らせるのも構わずに再びアクセルを踏みしめてブレーキを解放した。唸りをあげてエンジンに熱が走り、点滅していたハザードからは火が消える。バックミラーで後方を確認し、シャマルはまだ湿っている唇に舌を滑らせて潤いを補った。
 横からその一部始終を見てしまった綱吉は、途端に頭から湯気を立てて反対に首を差し向ける。少し曇っている窓から覗く景色は緑が大半を埋め尽くしていて、躙り寄って見上げた空は遙か彼方。
 掌を添え、冷たい硝子に額を押し当てる。
 ふたりはその後も、ずっと無言だった。
 けれどほんの少しだけ、車内を流れる空気は暖かかった。

 潮風が頬を撫でる。ただ決して優しいとは言えない触れ方は、どことなく長時間運転席に座り続けた彼の手つきを思わせた。
「ん~~……やっとかよ」
 大きく伸びをした後袖を捲り、手首に巻いた時計の文字盤を読み取ったシャマルがひとりごちる。助手席のドアを閉めた綱吉はそんな彼の背中をボンネット越しに眺め、気まずそうに唇を噛んだ。
 結局あの後ふたりは全く会話をしなくて、言葉を交わしたとしても、道が正しいかどうか、トイレ休憩をしたいかどうか、喉は渇いていないか、そんな事務的な内容ばかりだった。
 元々多弁ではない上に年齢差も大きくて、共通の話題には毎回困るくらいだ。一緒に居てもひと言も喋らない日だって、今までに何度と無くあった。
「……」
 有り難うのことばくらい、言うべきなのだろう。けれどなかなか顔を上げられず、ましてや彼を正面から見上げる勇気がわいてこなくて、綱吉は俯いたまま塗装をやり直したとおぼしき表面の凹凸ばかり見ていた。
 そこへ、不意に。
 鼻に馴染んだ匂いがうっすらと流れてくる。
「あ……」
 顔を上げ、綱吉は車にもたれ掛かりながら背を向けている男を見やる。彼はいつの間にか取り出した煙草を一本咥え、慣れた手つきでライターの火を起こし白い紙を赤く燻らせていた。
 立ち上る煙の一部が潮風に押され、助手席外に佇む綱吉の鼻腔にも届く。
 そう言えば、今日彼が煙草を吸うところを見るのはこれが初めてだ。
 シャマルと獄寺は師弟揃ってニコチン中毒で、特にシャマルは一日でひと箱以上を吸い潰すヘビースモーカーだ。その彼が、三時間以上一本の煙草も口にせずに車を走らせ続けていた。
 綱吉は目を瞬かせると、そうだ、とひらめいて腰を屈め開きっぱなしだったドアから車内を覗き見た。
 運転席の右、助手席との間にある備え付けの灰皿を引っ張り出す。中身は綺麗に空っぽで、保健室の机にある吸い殻だらけの灰皿の持ち主とはとても思えない状況だった。
 けれど顔を寄せ、鼻をヒクつかせながら注視してみれば、最近水で洗ったばかりの形跡が微かに残されている。隅の方には洗い落とし損ねたとおぼしき灰の欠片が残っていて、注意深く観察しなければ分からないくらいに薄くだが、煙草特有の匂いも車内に残っていた。
 更には運転席の足下、助手席に座っているだけでは見えない位置に、消臭剤のボトルまで置かれている。微かな石けんの匂いはそこから漂っていて、シャマルが背を向けている間に手にとって見てみれば、パッケージはまだ開封したてで中身も大量に残っていた。
 正直言って、綱吉は煙草の匂いがあまり好きではない。耐えられない程ではないけれど、四六時中あの脂臭さに晒されるのは正直御免だと思っている。
 シャマルは、それを知っている。
 彼が普段乗っているのはもっと色も形も、排気量も派手なスポーツカーだ。けれど常日頃から乗り回しているという事は、とどのつまり、それだけ煙草の匂いも消しても消しきれない程に染みついてしまっていること。
 今日、わざわざ滅多に乗らないフィアットを選んだ理由。
「ずっと……吸ってなかったね、そういえば」
 胸の中に灯る仄かな温もりを大事に抱きしめ、綱吉は余所向いたままのシャマルに問いかけた。
 小声だったから聞き取りづらかったのかもしれない。眉を寄せた彼が半身を翻して綱吉に振り返る、銜えた煙草は既に半分ほどの長さになっていた。
「んあ?」
「煙草」
 なんだ、と言いたげな視線を受け、綱吉がボンネットに寄りかかり人差し指で彼を指し示す。言われて気付いたらしい彼は、ポケットの四角い膨らみを手で押さえてから、きまりが悪い顔をして灰色の煙を吐き出した。
「俺は……運転するときは、吸わないんだよ」
 取り繕った言い訳に、綱吉が目を細める。
 そんな筈が無い事くらい、つきあい自体もう一年を超えるのだ、とっくに気付いている。それでも尚、本音を隠して誤魔化し通そうとする彼に、笑みがこぼれた。
 大事にされているのだと、今更ながら思い知る。
「シャマル」
 潮風が髪を揺らし、襟を揺らす。玩具みたいな外観の車をなぞりながら彼の前へと移動すれば、久しぶりに彼の、煙草が染みついた特有の匂いが鼻腔を擽った。
 まだ吸える部分を残した煙草を足下に落とし、爪先で火をもみ消した彼が目を細めた綱吉を不思議そうに見下ろした。後ろで手を結んだ綱吉は、彼のまだ真新しい、匂いさえ染みついていないジャケットに無言のまま寄りかかった。
 体重を預け、額を押し当て、彼の匂いを吸い込んで、自分の匂いを吐き出す。
「どした?」
「ううん」
 なんでもない、と身を寄せたまま首を振る。控えめに手を伸ばして上着の裾を掴むと、遅れて持ち上がった彼の手が、遠慮がちに綱吉の肩を抱いた。
「……ありがと」
「なんだよ、気持ち悪いな。急に改まって」
「そう?」
 言わなければ伝わらないと思ったから、口に出して言ったのに。照れくさそうに空に視線を流したシャマルの動きに笑って、綱吉は今度こそ彼の背中に腕を回し、きつく抱きしめた。
 身長差が悔しいけれど、今はどうせ、背伸びをしたって届かない。それにこの身長差は、今の自分たちでしか味わう事は出来ないのだ。
「シャマル」
「ん~?」
 言葉にしなければ伝わらない事くらい、分かっている。
 それでも。
「……やっぱ、なんでもない」
 だいすき、と心の中で囁く。
 この想いだけはきっと、彼に届くと信じて。

2007/9/1 脱稿