夕昏

 学内の見回りを終え、雲雀は居残る風紀委員にも今日は解散と伝えて応接室を目指した。
 廊下に連なる窓の外は朱色の夕暮れに染められ、斜めに伸びた影が連続して足元に愛想のない模様を作り出している。そのひとつずつを大股に乗り越えて、彼は目的地の扉を開いた。
 なるべく音を立てないようにするのは元々警戒心が強い自分の癖で、それであの子を度々驚かせてしまうものだから、注意はしているのだが、今回もドアノブを回す手つきは緩慢なくらいにゆっくりだった。
 カチリと肌を通して留め金が外れる感触が伝わり、蝶番が軋まないようにそっと押し開く。出来上がった僅かな隙間から零れ落ちた風に前髪を掬われ、雲雀は怪訝に顔を顰め唇を閉ざした。
「つなよし?」
 出て行くときは確かに窓を閉め、空調を入れていった。しかし額に感じた風は明らかに外から紛れ込む自然の空気で、人工的に生み出された無機質なそれとは大きく色合いが異なっている。扉を潜り抜けてすぐ横の空調設定画面は、案の定電源はオフにされていて、更に灯していった照明まで消されているという徹底振りだった。
 呼びかけに返事はなく、雲雀は本格的に顔を不機嫌にしてわざと踵で強く床を踏んだ。後ろ手にドアを閉め、その音も一緒に響かせる。
「?」
 それでやっと振り返った窓辺の背中は、入り口前に立つ雲雀の姿を視界に収めて最初こそ不思議そうに小首を傾げていたが、暫くしてふっと表情を和らげて淡く微笑んだ。
 薄暗い所為で雲雀からはその笑顔がよく見えなかったが、向こうもきっと同じだろう。現に彼は雲雀の不機嫌さにまるで気付いていなくて、
「おかえりなさい」
 たった一言それだけを言うと、また窓の外に顔を向けてしまった。
「ただいま」
 部屋中央に鎮座するテーブルには、飲み干された紅茶のカップがそのまま残されている。こげ茶色の盆に盛った菓子はほぼ手付かずのままで、また無造作に放置された教科書の下に隠れたノートは綺麗なまでに真っ白だった。
 素っ気無く言い放った雲雀に勘付く様子もなく、綱吉は両手を窓枠に添えて少しだけ上半身を外へ乗り出し、嬲る風に身を任せて髪を揺らしている。
 濃紺のベストをきっちりと着込んでいるので寒くは無かろうが、下に着ている白のシャツは時折大きく膨らんでは体のラインを浮き上がらせて凹み、無数の襞を作って影の濃淡を、まるで一枚の影絵のように浮かび上がらせていた。
 何をしているのかと問えば、なにも、と言葉が返ってくる。
「なにも?」
 宿題もせず、好きなおやつにも手を伸ばさずに、戻って来た雲雀へは一瞥するだけで終わらせたくせに、何もしていないとは。
 思わず声色を強めてしまった雲雀に、彼は肩を竦めて声もなく笑った。やや自嘲気味に、上手に説明できないのがもどかしいとでも言いたげに。
「えーっと……空を、見てました」
 実質何もしていないと同じだけれど、敢えて言うならば空を、外を、ぼんやりと眺めていたのだという。
「空?」
「日が暮れるのが早くなったなー、って」
 夏休みも終わり、次の長期休暇はまだ遠い。しかし確実に日中の時間は短くなってきており、一ヶ月前ならばまだ明るかったこの時間も、今日は既に赤焼けが西の空を埋めていた。
 眼下の運動場で走り回る生徒の影も長い。雲雀は戻る道中の廊下を思い出し、ああ、と頷いて斜めに後ろを振り返った。部屋の明りをつけるかで一瞬迷うが、折角綱吉が自然の日暮れを楽しんでいるのだからと持ち上げかけた腕を下ろした。そのまま肩を落として息を吐き、長めの前髪を梳き揚げる。
「面白い?」
「そうですね、綺麗」
 首肯した割に雲雀の問いかけとは若干答えの部類がずれていて、一瞬きょとんとした雲雀は、肩越しに振り向いた綱吉のあどけない笑顔に口元を緩め、苦笑した。
「雲の形も面白いんですよ。あれとか、今は形が違っちゃってますけど、さっきまではカブトムシに見えたし」
 浮かせていた踵を下ろし、代わりに右手を持ち上げて綱吉は空の一角を指差す。近づいてくる雲雀への警戒心は皆無で、無邪気な子供そのままに彼はまた別の雲を指で示した。
 綱吉の右斜め後ろで足を止めた雲雀は、彼の肩に胸を置く格好で彼に寄りかかる。感じ取った重みと他者の熱に綱吉は一瞬だけ竦んだのか身を硬くしたが、すぐさま息を吐いて力を抜いて、あれは、と説明の続きをしようと口を開いた。
 その眼前が、いきなり白い影に覆い隠される。
「え?」
 シャッ、と鋭い風切り音が走った。
 目を瞬かせ、急な視界の変化に目を慣らす。息を飲んで呼吸さえ止めてしまった綱吉は、数秒後にやっと、窓にカーテンが引かれたのだと気づいた。下を向けば自分の胸の斜め前に雲雀の腕があり、その先に続く彼の手には布端が握られている。
 見ている前にゆっくり指を解いた彼の動きに合わせ、そして外から吹き込んだ風に煽られ、白い布はゆらゆらと不安定に揺れた。
「ヒバリさん?」
 いきなり、どうして。
 気づけば両腕でがっちりと腰から胸にかけて抱き締められていて、身動きすら取れなくなった綱吉は困惑した。背中に感じる体重は最初の比ではなくて、ぎゅっと拘束してくる腕は痛いくらいだ。
 右肩に顔を埋めた雲雀は、白いシャツから無防備にはみ出ている綱吉の白く細い首筋に軽く歯を立てる。
「んっ……」
 更には音を響かせてきつく吸われ、微かな痛みと熱に綱吉は寸前で声を殺し息を吐いた。
 胸元に回された彼の左手は、ベストの上からでも分かるくらいに明確な意思をもって蠢いている。サッと頬に朱を走らせ、綱吉は慌ててその彼の手を振り払おうとした。
 しかし力で敵う相手ではないし、腕ごと背中から抱き締められているので肘から上さえも持ち上がらない。
「ちょっ、やだ。ヒバリさん、なんで急に!」
 雲雀の右手は、今度はスラックスからシャツの裾を引っ張りだそうとしていて、辛うじて動く手首から先だけで止めようとした綱吉が甲高い悲鳴を上げた。
「いいの? 聞こえるよ、外」
 視界はカーテンで遮られているとはいえ、窓はまだ全開のままだ。耳朶を舐め、柔らかな薄い肉を前歯で浅く噛んだ雲雀の囁きにゾクッとした悪寒めいたものを背中に走らせ、綱吉は慌てて首を横へ振り唇も閉ざした。
 顎のラインを舐めて降りていく雲雀の髪がくすぐったい。胸元を弄る手は緩急をつけて編み目の荒いベストを下のシャツごと掻き乱しており、巻き込まれる皮膚が引き攣るような痛みを放っては綱吉を困らせる。シャツの裾を引き抜くのに成功した雲雀の右手は、今度は断りなくベルトを外そうとしていて、金属がぶつかり合う音に綱吉は待って、と首を振った。
 それが丁度鎖骨の窪みに届こうとしていた雲雀の頭にぶつかって、実に良い音が骨に伝わってきた。顎を打った綱吉は危うく舌を噛むところで、また雲雀も唇に犬歯を刺してしまったのか小さく呻いて首を後ろへと仰け反らせた。
「えっ、あ、ごめんなさっ」
 好き勝手されているのは綱吉なのに、つい反射で謝ってしまう。
 苦しいくらいに首を右後ろに回し、彼の黒髪を捜せば簡単に見つかって、近すぎる距離に今度は眩暈がした。
「んぅ……」
 落ちてきた唇に唇を塞がれ、閉じる間もなく侵入を果たした舌に掻き乱される。
 胸元にあった手が上を向いて、顎を支えられた。身体は前向いたままという姿勢は苦しくて、身動ぎしたら右手の拘束も緩くなる。だから綱吉は自分から、雲雀に頭を寄せて繋がりを深めると同時に、彼に肩を預けて斜めに体勢を作り直した。
 今度は自分から彼に寄りかかり、身を任せる。ベルトが外れると同時にホックまで指で弾かれてしまい、ファスナーを下ろす音には流石に赤くなって俯いたけれど。
「ヒバリさん、ちょっ……」
「なに」
「いきなり、そんな。此処で?」
 せめてソファに行きたい、と雲雀の背後にある応接セットを盗み見た綱吉だが、押し返そうとして彼の胸に置いたままの手は簡単に下ろされてしまい、困惑に揺れる視界はキスを落とす彼の影で直ぐに埋まった。
 背中を向けている窓を隠すカーテンは、気まぐれに吹く風で時折綱吉の肩辺りまで捲れ上がる。これでは外から見えてしまいかねず、落ち着かない様子で綱吉は雲雀の手を握り返した。
 しかし動きを押し留めることは出来ず、逆に自分の手で熱を持った前に触れさせられて、綱吉は全身に鳥肌を立てた。
「やっ!」
「声」
「う……やだ、こんな」
 気づかないうちに煽られた熱は大きくなっていて、信じられないと首を振る。しかも雲雀は反対側から自分を押し付けてきて、両側に挟まれた綱吉は居た堪れない気持ちに苛まれながら睫を伏して雲雀の胸に顔を埋めた。
 勝手に呼吸が荒くなり、吐く息に熱が宿る。頬に感じる雲雀の心音も平時より速まっているのが分かって、耳に届く彼の呼気も綱吉同様に乱れ始めていた。
「ふっ、ぅ……ン」
 綱吉が触れた肩を押し返し、上向くように促す雲雀に大人しく従って、先に視線だけを持ち上げれば扇情的な目で見詰め返される。黒髪に隠れがちの彼の瞳が何を求めているのか、言われなくても分かってしまって、綱吉は背筋を伸ばしながら彼の唇に自分から噛み付いていった。
 濡れた音が互いの咥内を行き来して、伸ばした舌先に噛み付かれ背筋に電流が走る。溢れ出した唾液が交じり合って顎を伝い落ちて行って、腰に回った雲雀の腕がぐっと強く綱吉の体を引き寄せた。
 置き去りにされた手が行き場を失い、熱に挟まれて綱吉は手首を引き攣らせた。意地悪く笑う雲雀の気配が読み取れて、視線を斜めに流した彼は風に揺らめき続けるカーテンの行方を気にして居心地悪げに身をくねらせる。
「ヒバリさん、ソファ……」
「だめ」
 何をそんなに、この場所に執着することがあるのだろう。分からなくて綱吉は、煽られる薄い布に背中を撫でられながら緊張した息を吐く。状況の所為でいつもよりずっと過敏になっている彼に笑み、雲雀もまた布越しの空へ不遜な態度を向けた。
「君は」
 膝を軽く曲げて綱吉を追いたて、口元では首の肉が薄い部分に食らいつき痕を残して。
「僕だけ見ていれば、いいんだよ」
「……ヒバリさん?」
「いいね?」
 そっと諭すように囁きかけて密やかに笑う。
 一瞬沈黙した綱吉は、間を置いてから小さく噴きだし、そして目を閉じ頷いた。

2007/8/27 脱稿