源氏

 暑い日は何もやる気がしない。
「あっち~……」
 この国特有の高温多湿には、一生慣れそうにない。けれどイタリアも考えてみれば真夏の盛りはこんな陽気だった気がする、あまり覚えていないけれど。
 そういえば現地の様子を伝えるニュースでは、異常気象の連続で日中の気温が四十度を越える日が続いているのだとか、なんだとか言っていた。ならばとだらしなく寝転がっていた床から起き上がり、窓辺の壁につるした湿温計を正面から覗き込む。赤く色をつけられた水銀が細い管の中で背伸びしていた、頭の天辺は三十二度に少し足りないくらい。
 なんだ、涼しいではないか。
 けれど網戸をすり抜けて部屋に入って来た風は見事に生温く、むしろ風なんていう涼やかなイメージを想起させるものとは別次元の代物だった。
 じっとりと肌に絡みつき、粘っこい視線をその場に残して去っていく。途端にドッと全身から汗が噴き出して、表皮を撫でていく汗の雫もまた不快指数を増加させる要因のひとつと化した。
 だるい。
 何もやる気がしない。
 夏季休暇の課題は、概ね片付いた。後は自由研究くらいだが、これも適当に小難しい話でも盛り込んでおけば、担当教諭は読み解く気力を失って適当に点数だけは与えてくれるだろう。いっそイタリア語で書いてやろうかと偏屈虫が蠢いたが、後々面倒なのでやめておく。
 汗で首筋に張り付いた髪を払いのけ、相応に長くなっている後ろ髪を揺らす。
「あちー」
 放っておくと同じ作業の繰り返しとなって鬱陶しいことこの上ない、だから最近は身なり構わず結ぶようにしていた。長さが足りないサイドの髪は前に流れてくるが、項の辺りが空くだけでも随分と体感温度は違う。短いのを無理矢理集めて強引にゴムでひとまとめにしているので、出来上がった束の先は刈り取られた稲穂の、畑に残った茎部分のようでもある。
 指で触れるとツンツンとしていて、皮膚に食い込もうとするので少し痛い。だが背に腹は変えられぬと、冷房を入れない部屋を振り返って溜息を零した。
 結び損ねた髪を耳に引っ掛け、手で風を顔に送り出す。本当は空調を入れても良いのだけれど、この程度の暑さ寒さで文明の利器に頼っているようでは、そんなものが一切ない状況に突然放り込まれた時に体が追いつかない。常に万が一の事を考えて備えておくべきだ、とリボーンに言われたので、仕方なくだ。
 今年の夏はだから、まだ一度も冷房のスイッチを入れていない。暑さ寒さも彼岸までと言うそうだが、カレンダーに記された彼岸にはまだ遠い。
 何か飲もう、ついでに冷蔵庫で一時的にも体を冷やしたい。
 あの鬼家庭教師(自分専属ではないものの)も、この程度ならば妥協して許してくれよう。気温も高ければ湿度も絶好調の窓辺から離れ、背中を温い風に見送られながらキッチンへと向かう。据付のカウンターテーブルを回り込んで薄暗い調理台の横に出ると、壁に手を添えて三つ縦に並んだスイッチのうち真ん中を指で押した。
 途端、カウンター上の蛍光灯が明滅し、乳白色の光を放って停止する。眩く照らし出された床に、けれど影は落ちず、一瞬眉を寄せて目を細めただけでやり過ごした彼は振り向いて反対側にある黒色のドアをあけた。
 保冷機能を高めるために分厚めに作られたドア、けれどそれ程力も必要とせず、すんなりと入り口は開かれた。
 観音開きの右側の内ポケット部分には隙間なくボトルが並び、うちひとつを取り出して素早くドアを閉める。動きに押し出された冷気が頬と首周りを撫でて行き、一瞬だけ汗が引いた彼はふーっと長い息を吐き出した。
 力を入れすぎたのか、ドアは閉まった瞬間に大きな音を立てる。けれど閉まりきらないよりは良いだろうと気にもせず、三歩進んで自動食器洗い機の蓋を開けて中から洗浄済みのグラスをひとつ取り出した。
 逆さを向いていたそれを手の中で半回転させ、飲み口を上に持ち替えてからボトルのキャップを外す。なみなみと注ぎいれた液体は透明度の低い薄く濁ったスポーツドリンクだ。
 ただ水を飲むよりは、汗を流す分電解質を補充した方が良い。冷たい液体を喉に運び入れ、体の内側から渇きを癒すと同時に手近にあったタオルを引っ張って首の後ろに押し当てる。
 汗がスッと引いていくのが分かり、体温も僅かではあるが下がった気がした。
「ふ~……」
 やっと人心地つけたと声に出して息を吐き、天井を仰いで喉元にもタオルを走らせる。髪の生え際に残っていた汗も全部拭ってその臭いに舌を出し、これは洗濯籠行きだなと結論付けてボトルは再び冷蔵庫へ。
 使い終えたコップはシンクの片隅に置き、軽く肩を回す。時計を見れば日はまだ高いものの、夕刻に差し迫ろうとしている時間帯だった。
「あ、そうだ。卵が」
 今晩のメニューは何にしようかと考えて、昼間に全て使い切ってしまった具材を思い出す。夕食に使わずとも、明日の朝食には欠かせない卵が目下冷蔵庫では品切れだ、買いに行かなければと思っていたのもすっかり忘れていた。
 ただ真昼間に外出するのは熱射病の危険と隣り合わせであり、出来れば避けたいと思っていた。そうやってグダグダと時間を潰しているうちに、もうこんな時間というわけだ。
 冷蔵庫の側面にマグネットで留めたカラーの広告を引っ張る。何枚か重ねられているうちの一枚を選び出して、確か……と顎を撫でた彼は別の一枚にも目を通した後、素早く頭の中でふたつある建物の位置関係を描き出した。
「こっちだな」
 結局選び抜いたのは最初に見た一枚目で、彼はそれだけを折り畳み残りはマグネットの下に戻した。掌大まで小さくしたチラシは後ろポケットへ押し込み、鍵と携帯電話、そして財布だけを手に取って彼は通りすがりの洗面所にタオルを放り投げた。
 靴を履くか、サンダルにするか。一瞬迷ったものの素足という関係もあり、結局は底がやや擦れて減っているサンダルに爪先を捻じ込んで玄関のドアを押し開けた。
 長い影が斜めに伸び、眼下に広がる街は傾き始めた太陽に照らされて斑に染まっている。周囲に人の気配はなく、彼は首を振るとオートロックのドアから手を離しサンダルの履き心地を確かめてから地上へ向かうべく、エレベータホールを目指した。

 暑さに参っているのは、何も自分だけではなかったらしい。
 西日が眩しい中を歩いて辿り着いた先の大型スーパーは、夕食の買出しらしき女性で溢れかえっていた。
 さらには夏休み中の学生も、一時の涼を求めて各所にたむろしている。アイスクリームや缶ジュース一本で、日が暮れきるまでの時間を粘ろうという魂胆が丸見えだ。
 飲食店や服飾、雑貨などの小売店も入った大型の、総合スーパー。郊外型と銘打たれた其処の広い駐車スペースは、八割程度が埋まっていた。自転車の数も多い、道中交通整備する制服姿の警備員も何人か見かけた。
 日は西に傾いているものの、夕焼けが空を染めるにはまだ早い。地表を覆うアスファルトに蓄積された熱は相変わらずで、サンダル越しに指先が焦げる感覚に舌打ちをした獄寺は、さっさと用事を済ませようと心に決めて食品を扱っている店舗を真っ先に目指した。
 いつもなら安い生活用品も此処でついでに購入するのだが、今日はそんな気分ではない。レジも混んでいるだろうし、お買い得品としてチラシに掲載されている品物には主婦が群がっているだろう。必要なものを、必要なだけ。シンプルかつ合理的な考えも、特売の二文字が踊る区画を前に脆くも崩れ去る、そういうものだ。
 日除けのない道を進み、巨大な箱型の建物を見上げる。一時は映画館も入るという話だったのだが、途中で規模を縮小したのだそうだ。最初に計画された通りになっていたなら、わざわざ遠くの街中まで足を運ばずとも充分に遊べるスペースが確保できただろうにと、それだけが残念でならない。
 ただ並盛の風紀を乱す原因となるから、と根強く反対した人物がいるとか、いないとかで、その辺の確証は何もないのだけれど、思い浮かぶ人物がひとりきりというのは苦笑を禁じえなかった。
「しかし、あっちー」
 建物内部への入り口が迫り、漸く日陰が足元に広がりだす。駐輪場の片隅にはプレハブ小屋が建ち、この暑さを見越してアイスクリームを販売していた。色鮮やかな幟が力なく揺れて、周囲はビーチで見るようなパラソルをコンクリートブロックで固定した簡易オープンカフェ状態。椅子は半分程度埋まっていて、雑談に興じる若い女性の集団が目に付いた。
 脇を自転車の女性が通り抜けていく。買いすぎたのか前籠は荷物が満載で、バランスが悪いらしく左右にふらふら揺れる様は実に危なっかしい。
 ぶつかりかけたのを慌てて避けて、しかし避けた先からも別の女性の運転する自転車が突進してくる。けたたましくベルを鳴らされてしまい、通常は歩行者優先だろうと思わず心の中で悪態をついてしまった。
 気分が悪い、帰ろうかとさえ思う。
 けれどこんなところまで出向いておいてUターンするのは癪だし、時間も勿体無い。歩いてきた体力も無駄な消費となってしまう、それは避けたい。
 いつもならばもっと機嫌も悪くなり、相手が一般市民とは言え報復活動にさえ出てしまいたくなるのだけれど、流石に連日の暑さから精神的に参っている部分が前に出た。やる気も失せて、ズボンのベルト部分に隠し持っている小型ボムを取り出す気分にもなれなかった。
「だりー……」
 家政婦でも雇おうか、などと悠長なことを考えながら、人ごみを掻き分けて店へと。エントランスホールは日陰で、やっと生き返ったとばかりに息を吐いた獄寺は、鬱陶しい限りの前髪を梳き上げると解け掛かっていた後ろ髪のゴムを外して束ね直した。
 後れ毛が汗に濡れる、タオルの一枚も持って出てくるべきだった。
 この状態で冷房がガンガンに利いた食品店に入ったら、逆に体温を奪われて体調を崩すかもしれない。夏風邪は極力回避したいのだけれど、と着ているシャツの襟を摘んで引っ張り風を内側に送り込んだ彼は、浅い呼吸を繰り返して落ちてくる前髪を息で吹き飛ばした。
 親子連れが多いのは、夏休みだからというのもあるのだろう。男性の姿は少なく、獄寺と同年代の集団はちらほらと。けれど男子中学生ひとりだけ、というのはほかに見当たらず、しかも彼以外は皆涼みにか、二階にあるゲームコーナーへ遊びに来ただけに見える。日々の生活に添って必要なものを買いに来た獄寺とは、根本的に目的が違う。
 両親に守られ、ぬくぬくと育った、ガキども。
 吐き気がする、と爪先でコンクリートの床を蹴り飛ばす。だが踵が滑って着地に失敗し、あわや後ろ向きに転倒という滑稽な真似をしでかすところだった。
 矢張りどこか調子が悪い。
 人目もある事や、こういう人口密集地域で火を扱うのは危険だから、煙草には手を出していない。けれど無性に吸いたくなって、どこか喫煙コーナーはないかと視線を巡らせる。一本だけ、と自分に言い訳をして灰皿が置かれた区画を捜し求めるものの、見える範囲では見付からずに獄寺は臍を噛んだ。
 最近は喫煙者の肩身が異様に狭い。実際に煙草を吸う人間よりも、近くで副流煙を吸わされる非喫煙者の方が発ガン率が高いというのは、禁煙社会に大きな追い風となっている。それは否定できない。
 だから最近は、なるべく綱吉の傍では吸わないよう心がけている。ただ一定時間を越えると我慢ならなくなって、ライターに手を伸ばすのは最早依存症以外の何者でもない。
 なにかに依存するのは、自分が弱い証拠だ。
 胸ポケットを探って煙草に指を押し当てたところで、動きが止まる。一瞬頭の中が真っ白になったのは、丁度通り掛かった店の前から流れてきた冷えた空気に体温を持ち去られたからだけではない。
 何かが足にぶつかった、前ばかりを見ていた彼はその時まで自分に迫るものがあったことにも全く気づかなかった。
「え……?」
「ふぇっ」
 太股の辺りまで高さのある、柔らかいとも硬いとも判断がつかないもの。下向けば音がして、目で見て確かめるよりも先に感じた悪寒に背筋が震えた。
 一瞬周囲のざわめきが止み、静寂が舞い降りる。首裏を伝った汗が襟の内側から背中の産毛を撫でて、背骨の窪みに寄り添って落ちていく動きがやたらとリアルに感じられた。一秒が一分にも思えて、乾いた咥内に足りない唾を求めて唇を閉ざす。
「ふっ……びぇぇぇぇゃぁぁぁあぁぁ~~~~!」
 直後。
 鼓膜が破れそうなまでの高音域の泣き声が、獄寺の足元から彼目掛けて一直線に襲ってきた。
「うぉわっ!」
 反射的に後ろへよろめき、数歩の距離を取ろうと無意識に足が動く。けれど持ち上げた膝は下の方から何かに引っ張られて思うように高い位置までいかず、何かと思って胸の前に横倒しにしていた腕を取り払って下向けば、何処かの牛小僧並に大きな目を涙でいっぱいにさせた子供が、人のズボンをしっかりと握り締めていた。
 状況が読み取れない、そもそもこの子供は誰だ?
 まるで心当たりがないし、泣かせるような真似をした覚えもない。けれど自分のズボンを掴んでいる子供は現に大泣きしているし、取り囲む人の波は急速に彼から距離を取って輪を作り出す。
 見世物じゃないぞ、と怒鳴りたかったけれど、そんな事をすれば余計に観衆は増えかねない。
「まぁま~~~~~~!!」
 子供の泣き声は治まるどころか時間を追うごとに酷くなって、叫ぶ台詞は意味不明のものからはっきりと誰を探しているのかを示すものに切り替わった。
 普通に考えて、迷子だろう、この子は。泣き声に混じって母親を呼んでいるから、どこかではぐれて探し回っているうちに獄寺にぶつかった、と考えるのが妥当か。別に獄寺を選んだのではなく、其処に居たのが自分だったから、という理由にもならない理由で絡まれたらしい。
 冗談にも程がある。
 だが周囲に人垣を作る群衆はそんな獄寺の都合など一切考えず、中学生が小さい子を泣かせたとひそひそ話を開始する。彼に集まる視線は棘を含み、人から侮蔑的な視線を投げられるのに慣らされているとはいえ、獄寺にはかなりきつい状況だった。
 ともかく、まずこの子を泣きやませなければ。
 獄寺は両方の足を地面にしっかりと植え付けると、やや前屈みになって子供の頭をそっと撫でる。自分には姉しかいないので小さい子の相手など殆どしたことがないに等しく、だから幼子への対応を真似るとしたら真っ先に思い浮かべるのは明るい髪色をしたあの人だ。
 彼はいつも、どうしていただろう。ランボを相手にして泣かせた時、そんなに怖い顔をしていたら余計に怖がらせるだけだと怒られた日を思い出す。
 あの時彼は、そう、泣きじゃくるランボを抱きかかえて笑いかけていた。
 正直意識して笑うのは難しい、そうでなくとも獄寺は常から目つきが悪いと周囲に怖がられている。だが背に腹は替えられぬと、彼は少しだけ腰を屈め、目を真っ赤に泣き腫らしている子に顔を近づけた。
「ど……どうした?」
 我ながら陳腐だと思う台詞しか出てこない。笑い方もどこかぎこちなく、変に引きつってしまっていただろう。だがそれまで怒気を膨らませるばかりだった獄寺の気配が緩んだのを敏感に察した幼子は、ひっく、としゃくりをあげてから零れた涙をぐいっと手の甲で拭い取った。
 まだぐずぐずと鼻を鳴らしはするものの、最初の時のような大声は止まった。それどころか、見本にした人物が良かったのか、幼子は獄寺につられて生え揃わない彼に見せた。
 にっ、と笑いかけてくる顔には愛嬌がある。何処かの牛小僧とは天と地ほどの差だな、と冷や汗を拭いつつ獄寺は黒髪を撫でた手を下ろした。
「で。お前、誰」
 膝を曲げ、やや前傾気味の態度が悪い座り方で子供の顔を覗き込む。
 泣きじゃくっている間に、耳以外の穴は全て水浸しになった顔。鼻水と涎で口の周りから顎に至るまでがぐしゃぐしゃで、頬も興奮した所為か赤く染まっている。着ている服は水色の半袖シャツに膝小僧が覗く長さのズボンでこちらはモスグリーン。靴はシャツと同色で、マジックテープで着脱するタイプだった。
 獄寺の視線を間近に受け、一応泣きやみはしたが状況がまだ完全に飲み込めていない様子の子供はぐじっと鼻の下を擦って大きな目を丸くした。
「う?」
 汚れたままのその手を口に咥え、幼子が首を傾げる。獄寺は反射的に涎まみれのそれを引きずり出してしまい、また泣く寸前まで顔を歪めるのに慌てた。
「だー、もう! お前、親はどうしたんだよ」
 迷子なのだから分かるわけがないのだが、あまりの腹立たしさにそれも忘れて低い声で問いかける。一瞬きょとんとしたその子は、今度は反対側へ指は咥えずに首を傾けた。
「はぐれちゃったみたいだね」
 そこへ、不意に。
 聞き覚えのある声が後方から、――否、獄寺の右肩上から落ちてきた。
「――へ?」
「君、お母さんは?」
 ぽかんとした獄寺が間抜けに口を開いたまま振り返る。しかし斜め上からの光の為に影が濃すぎてよく見えず、彼は何度もしつこく瞬きを繰り返して聞こえてくる声に意識を委ねた。
 子供は既に獄寺ではなく、新たに声をかけてきた存在に注視している。人なつっこい笑みは、何よりも子供に好かれるこの人だからこそ導き出されたものだろう。
「まま、いない」
「……」
 言葉通りに受け止めるなら、この子の母親は死別するか離別したかで側に居ない、此処に一緒に来たのは母親ではない、と取れる。実際獄寺も最初そう思いこんで、見開いた目をすぐに細めある種の同情めいた感情をこの子に投げようとした。
 けれど獄寺の背後で軽く曲げた膝に両手を添えていた人物は、すっと背筋を伸ばして足の裏でしっかり地面を踏みしめると、そっか、と相槌を軽く返しただけだった。
 まだしゃがみ込んでいる獄寺の脇をすり抜け、子供の隣へと居場所を変える。
「じゅ……」
 いったいいつから、この人は此処にいたのだろう。そしてどこから、見ていたのだろう。
 目を丸くしたまま動けないで居る獄寺を振り返った彼は、明るい茶色の髪を夕暮れに染まりつつある日射しに差し出して、黄金色の穂をその場に波打たせた。
「十代目……」
 茫然自失となっている獄寺を蚊帳の外に、十代目こと沢田綱吉はハーフパンツから覗く膝小僧に両手を置いて再び腰をかがめると、子供の目線に顔を近づけてにこりと優しい笑顔を作り出した。
 あどけなさの残る柔らかな表情は、獄寺でなくてもつい見惚れるほど。見知らぬ人への警戒感を僅かに残していた子供にとっても、彼の笑顔は毒のないものとして実に簡単に受け入れられてしまった。
 濡れた手を伸ばし袖を掴んでくる子供の仕草も、綱吉は不快感も露にせず自然と受け止めている。常日頃から癇癪持ちのランボで鍛えられているのだろう、ちょっとやそっとでは動じない雰囲気が彼にはあった。
 思わず綱吉の足先から頭の先を順繰りに眺めてしまった獄寺は、不意に横を向いた綱吉と目が合ってどきりと心臓を跳ね上げた。
「じゅっ」
「やっぱり迷子みたいだね。どこではぐれたのか、覚えてるかなー……」
 甘えるように綱吉との距離を詰めてくる子供の頭を撫でてやりつつ、綱吉は獄寺の動揺も知らずに視線を浮かせて顎を掻く。
「まま、どこ?」
 くいっ、と掴んだままだった綱吉の袖を引っ張って子供が少し気弱な声で問いかける。だが今日初対面のこの子の母親を、獄寺や綱吉が知るわけもない。きっと探しているだろうに、このショッピングセンターは広すぎる。
 けれど迷子センターなんてものは此処にはなくて、呼び出してもらえるかどうかも解らない。途方に暮れかかる獄寺は額に手を当てて天井を仰ぎ、綱吉もしゅん、と小さくなる子供の髪を優しく梳いてやりながらどうしようか、と口の中でだけで小さく呟いた。
 膝を伸ばした綱吉が遠くを見詰め、丁度目に入った西日に目を眇める。彼の動きを追いかけて首を巡らせた獄寺もまた、ずっと落とし続けていた腰を持ち上げ、ズボンを軽く叩きながら背筋を伸ばし立ち上がった。
 すると、何をどう感じ取ったのだろう。幼子は途端に不安げに眉を寄せ、瞳を潤ませながら獄寺の太股へ再びしがみついてきた。
「うおわっ?」
「ん?」
 あんなにも綱吉に懐いていたのに、何故いきなり俺に来るのか。大仰に驚き、後ろに飛びずさろうとして子供の存在を思い出し踏み止まった獄寺の声に、意識を他所にやっていた綱吉が不思議そうに振り返る。そして獄寺の右脚をしっかり捕まえている子供の必死な様子に、思わずといった感じで苦笑を零した。
「すっかり、気に入られちゃったみたいだね」
「えっ」
 目を丸くした獄寺にまた笑って、綱吉は少し雑に伸びかかっている自分の髪をゆっくりと掻き上げた。汗を含んだそれを後ろへと流して首を振り、胸の中に残っていた息を全部吐き出してから、三度腰を屈めて子供の顔を覗き込む。
「君、名前は?」
「なまえ?」
「そう。お母さんの名前も分かるかな」
「ヒロはヒロ。まま……は、まま」
 綱吉の質問の意図を正確に把握仕切れて居ない様子ではあったが、聞いた事には一通り答えるだけの判断力は備わっているらしい。ただ内容は矢張り年相応の幼児らしい回答であり、聞いた瞬間獄寺はドッと疲れが押し寄せて頭を深く垂らした。
 それでは解らないではないか、とついつい文句が口を突いて出ようとした彼だが、
「そっか。ヒロ君か」
 流石は扱いに慣れていると貫禄を見せた綱吉が、笑顔を絶やす事無く良い子だね、とヒロの頭を撫でて褒めてやる。するとこの子は若干照れ臭そうに頬を染めて体を揺らした。
「あの、十代目」
「とにかく、このまま放っておくわけにいかないし。探してあげないとね」
「は、あ……」
「ヒロ君は、ママが何処にいるか覚えてる?」
 解らないから迷子なのだろう、といいそうになったのを我慢し、獄寺は自分の口を手で覆って綱吉とヒロとの会話に耳を傾けた。
 今は余計な茶々を入れないほうが良いだろう、子供の扱いに慣れている綱吉に全部任せてしまったほうがはるかに事の運びも早い。自分よりと年若い者の扱いは、年長者に囲まれて育った獄寺は教わってこなかった。それに、嘗て自分がされたような扱いをこの子にすれば、ヒロはまた泣き崩れてさっきの騒ぎどころではなくなってしまう。
 つくづく自分は荒んだ幼少期を過ごしたものだ、と生温い風に身を任せて獄寺は目を閉じた。
「んーと、んーと、あっち」
「覚えてんじゃねーか!」
 だが我慢していたのもつかの間、数秒間迷った末に最初に飛び出て来た自動ドアの方角を指差したヒロに、獄寺は地団太を踏んで怒鳴り声をあげてしまった。
「ちょっ、獄寺君!」
「うぅ……」
 途端大きな目を涙で一杯にしたヒロと、目尻を持ち上げて怒りを露にする綱吉と、ふたり同時に全く異なる視線で見詰められて獄寺はしまった、と激しく後悔した。
 両手を広げて顔の前で盾とし、違うのだと弁明して首を振るが巧く伝わらない。
 綱吉はやがて諦めたのか、呆れた溜息を零してヒロの前で膝を折り、しゃくりをあげつつも涙が漸く落ち着こうとしているこの子の両脇へと手を差し入れた。
 何をするのかと見守る獄寺の前で、彼はその小さな体躯を軽々と持ち上げる。ランボより軽いか、という彼の独白が微かに聞こえた。
「獄寺君、ちょっと」
「はい?」
「屈んで?」
「はい?」
「屈め?」
 にっこり、という擬音が綱吉の後ろに見える。但し言葉通りの華やかな明るい色ではなく、不気味に黒々しい渦を巻いた擬音が、獄寺には見えた。
 滅多に聞く事の無い、綱吉の命令形。表情はあくまでも笑顔のままだが、とてもそうとは思えない雰囲気を背後に漂わせた彼に獄寺はダラダラと脂汗を全身から噴出した。
「はっ、はい、すみません十代目!」
 なにより目が笑っていない。普段柔和で低姿勢な彼だから余計に恐ろしく、獄寺はびしっと背筋を伸ばして敬礼のポーズをとると言われた通りに綱吉の前で片膝を立てる形で身を屈めた。ついでに頭も下げて綱吉の冷たい視線から逃げる、するとその平らにした首の裏側にどすん、と何かが落ちてきた。
「ぐえ」
「ん、ちょっと勢い乗せすぎたかな」
 上半身が折れ曲がり、コンクリート製の床に危うく顔面を落とすところだった。頚椎が圧迫されて気道も塞がれ、一瞬だけ呼吸困難に陥った獄寺に対し綱吉の口調はどこまでも平静だ。
 絶対わざとやっている、と獄寺は奥歯を噛んで上から圧し掛かってくる正体不明の物体を押し返す。しかし彼の薄暗い視界を尚も左右から狭めようとするものがあって、当て所なくブラブラと揺れるそれは他ならぬ人の足だった。
「いいよ、立って。ゆっくりね」
 ヒロを獄寺の肩に乗せた綱吉が、落とさないようにと注意を払いつつ獄寺を指揮する。従わないわけにはいかなくて、獄寺は揺れるヒロの足を左右ともに捕まえるとぐらつく首を懸命に支えながら腹筋に力をこめて一気に立ち上がった。
「きゃっ」
 一際甲高い歓声があがり、視界が急に高い位置へ移動したヒロがパチパチと手を叩く。
 天井までの高さは充分にあるので、ヒロの頭が擦れてぶつかる、という心配はない。楽しげにはしゃいでいる幼子の様子には綱吉も満足げで、ただひとり重い荷物を担がされた獄寺だけがどこか不満顔だ。隠しもしない。
「いてっ。こら、引っ張んな」
 日本社会も最近は髪の色を染める行為に偏見が少なくなってきているし、外国人も多数入国しているものの、生まれながらの銀髪は身近ではまだまだ珍しい。格段に良くなった見晴らしの次は、自分を担いでいる獄寺の髪の毛に興味を持ったらしいヒロが、幼児特有の遠慮のない攻撃を彼に繰り出してくる。
 引っ張られれば当然頭皮は痛いわけで、しかも何本かが犠牲になって毟り取られた。獄寺は見え難い真上に瞳を動かして、落とさぬよう力は加減しつつもヒロごと体を揺らす。きゃっきゃとはしゃぐ声は無邪気で、悪気がないと分かるから余計に厄介だった。
 見守る綱吉は口元を手で覆い隠し、一応は獄寺に遠慮を見せてはいるが、クスクスと笑みを零している。細められた瞳に見上げられるのはまんざら悪い気はしないので、仕方がないかと諦めの境地に突入した獄寺は、今度はぺちぺちと広げた手で人の頭を叩きだしたヒロの太股を悪戯返しとして擽ってやった。
 身をよじって逃げたがるヒロだが、足を押さえつけられているので適わない。落ちそうなくらいに背を仰け反らせるが子供特有の身体の柔らかさが幸いして最悪の事態は引き起こされず、むしろそれを楽しがっている様子も見受けられて、一瞬肝が冷えた獄寺はあからさまな安堵の息を漏らした。
 頭にしがみつく重みにも、少しずつ身体が慣れていく。なんとか歩き回るのに不具合を感じずに済むようになるのを待ってから、ふたりはヒロが指差して示した自動ドアの向こうを先ず目指した。
「この子のお母さん、いませんかー?」
「ヒロ君のおかあさん、いませんか~?」
 迷子本人は自覚症状も薄く、動き回る獄寺に合わせて切り替わる視界の変化を楽しんでいる様子。声を張り上げ、衆目に晒されるのにも照れる暇なくヒロの母親を探すふたりなどそ知らぬ顔で、あちこちに視線を向けては、あっち、こっち、と忙しなく指示を出す。
 その度に獄寺は、そっちに母親を見つけたのかと方向転換して人ごみを避けて道を急ぐものの、辿り着いた先には天井からバルーンが吊り下げられているだけだったり、キャラクターのポップが設置されているだけだったりと、すっかり三歳児に振り回されている。最初は笑っていた綱吉も次第に疲れて来たのか段々と覇気がなくなり、声も最初の頃よりは随分と精彩を欠くようになっていった。
 それ以上に獄寺は、ヒロを肩に担ぎ上げたままだ。その方が目立つだろうから、という単純理由で綱吉に肩車をさせられているのだが、こんなことならさっさと床に下ろして自分の足で歩かせた方が格段に良い。
 また、ヒロが指し示した食料品を主に扱っている店舗は、ぐるりと一周して人々に呼びかけたものの反応は皆無だった。念の為にともう一周、更に棚で区切られた中央部分にも足を運んでみたが、物珍しげに見上げられたり、迷子を探すのを手伝って偉いわね、みたいな事を言われたりしただけで、ヒロの母親と名乗り出る女性はついに現れなかった。
 もしかしたらあちらも、居なくなった子供を捜してあちこち動き回っているのだろうか。
「サービスセンターとか、行って見ようか」
 先にそちらに足を向けるべきだったと後悔しつつ、冷房の効いたスーパーの出入り口付近で綱吉は疲れた顔をしている獄寺を見上げた。
「……そう、っすね」
 はしゃいでいたヒロも段々と静かになって、今では獄寺の頭に寄りかかりっきりだ。
 最初にこの子が獄寺と衝突してから、もうかれこれ三十分は経過している。体感時間なので、ひょっとすればもっと経っているのかもしれない。
 綱吉や獄寺の抱く不安が伝染してしまったらしく、また時折鼻をぐずつかせては懸命に泣くものかと唇を噛んで堪える様は、見ていてもかなり心が締め付けられる。なんとか母親の元に返してやりたいのだが、と綱吉は伸ばした手で震えているヒロの背中を撫でさすりつつ、自分もまた上唇を浅く噛んだ。
 低い声で同意を示した獄寺が、ずり落ちかけていたヒロを担ぎ直してしっかりと身体を支え持つ。大丈夫、と自分に言い聞かせて意気込む様は、気弱になりがちな綱吉の目には随分と頼もしく映った。
 いつも綱吉にはへらへらと笑いかけ、山本相手には直ぐにムキになり、どこか世間ずれしていてピリピリした空気を身に纏い、鋭い視線は遠くばかりを見てその横顔は怖い。血気盛んで綱吉の為ならば例え火の中水の中、自分の命や身体も考えずに猪突猛進していく姿は勢い良く燃えさかる炎のようであり、いつか力尽きて消えてしまうのではないかという恐怖心を綱吉に抱かせる。
 死んでも守り抜く、なんていわれても嬉しくないと、伝えても伝わりきらないのがいつももどかしかった。
「十代目?」
 そんな、見ていて人に不安を呼び起こす存在であった獄寺が、今は妙にしっかりした存在に思える。胸の中が少し暖かく感じられて、俯き加減に思いを馳せていた綱吉は、完全に足が止まっていることを不思議に思った獄寺に呼ばれて慌てて顔をあげた。
「ごめんごめん。行こう」
 ぼんやりしている場合ではなかったと思い出し、小さく舌を出して詫びてから彼を追いかける。
 移動中も獄寺は周囲へ呼びかけを続け、声を枯らした。最後の希望を託して訪れた総合案内センターでも、ヒロの親は姿を見せていないとカウンターに座っていた女性は素っ気無い。
 本当に、いったいこの子の親は何処へ行ってしまったのだろう。かれこれ一時間近くは経過しているというのに、と今は獄寺の肩から下りてしょんぼりと俯いているヒロを案じながら綱吉は奥歯を噛んだ。
 捨てて行った、なんて考えが一瞬脳裏を過ぎり首を振って否定する。
 こんなに可愛い子を捨てていく親なんて居るはずがない、そう信じたくて握り締めた拳は、感情が伝わったわけではあるまいに、下から伸びたヒロの手に覆われて震えが止まった。
「まま、どこ? ひろ、おうちかえりたい」
 心細げに繋いでくる手が逆に震えており、空いている手は唇の隙間に差し込んで生え揃わない歯で噛み締めている。
 夕暮れは西の空を朱色に染め上げ、家路に急ぐ人の姿は増えつつある。閑散とした後方を振り返った綱吉は、小さな身体で懸命に孤独に耐えている手を強く握り返した。
 けれど、大丈夫と、そう根拠もない事を告げる勇気だけは出なくて。
「心配ない、ちゃんと帰してやるから」
「え――」
 綱吉が言い損ねた言葉を、獄寺が呟く。
 ヒロと一緒になって見上げた先では、視線を合わすことなく前をじっと見据えた獄寺が、強い意志を秘めた瞳をゆっくりと和らげながら微笑みを形作ろうとしていた。
 元々綺麗で整った顔立ちをしている人だとは思っていたが、今まで知っていた、綱吉が見てきた獄寺とは異なる雰囲気に、綱吉の胸が一度だけ高鳴った。
「だから、もうちょっと我慢な?」
 良い子に出来るな、と膝を曲げてしゃがみ込んだ獄寺が、ヒロの顔を覗き込みながら白い歯を見せる。
「うん!」
 その笑顔に安心したのだろう、ヒロもまた弱気を振り払って力いっぱい大きく頷いて返した。
 大丈夫そうだと安心し、綱吉は跳ねた心臓を撫で下ろしてカウンターの女性に、もし迷子を探して人が来たら教えて欲しい、と言付ける。約束をしたのだからなんとしてでもヒロの母親を見つけ出してやりたくて、今一度人が集まる場所を訪ね歩こうと決意新たに一歩を踏み出しかけた、そんなとき。
「ああ、いたいた。君たちー」
 綱吉から向かって右手で急に声があがった。
 低いややしゃがれた声の男性が、右手をぶんぶんと振り回して走ってくる。最初は誰を呼んでいるのか分からなくて顔を見合わせた綱吉と獄寺だったが、後ろを見ても他に誰もいないのを確かめてから代表の綱吉が自分に向かって指差すと、相手は大きく頷いて返してきた。
 カウンターの端よりも少し先、間隔にして二メートルほどの距離を残して、紺色の制服に身を包んだ警備員らしき男性は、息せき切らせて足を止めた。長袖長ズボン姿で全力疾走してきたからだろう、全身汗だくで呼吸もかなり乱れている。全身からは湯気が立ち上っている感じすらして、綱吉は思わず半歩下がって左肩を獄寺にぶつけてしまった。
「あの、なんスか」
「いや~、良かった。その子が、迷子だね」
「はあ……」
 肩で息をしながら顔を上げた男性は、帽子の下も汗まみれだった。何をそんなに急いで走ってくる必要があったのだろう、と怪訝な表情をしているのが見えたのだろう、彼は曖昧に相槌を返した綱吉に向かって、また「良かった」と繰り返してから袖で顎の汗を拭い姿勢を戻した。
 新たに現れた見知らぬ人が怖いのか、ヒロは獄寺の足に抱きついて後ろに回り込み、顔を隠した。ぎゅっ、と左右の足を爪まで立てて握られて、微かな痛みに苦笑した獄寺は迂闊に足を動かすわけにもいかなくて、困った風にカウンターへ寄りかかった。
「俺達に、何か用でしょうか」
「うん、いや、そうだね。君たちというか、その迷子の子に……」
 獄寺が動けないので、綱吉が替わりにさっき広げた距離を詰めて質問を繰り出す。警備員とはいえ油断ならないと身構えていたのだが、汗を拭きつつ視線を落とした彼はだらしなく目尻を下げるものだから、なんだか拍子抜けてしまって、綱吉は用件を早く言えとせっついた。
 ヒロは益々怖がって獄寺の膝裏に潜り込み、小さくなって余計にしがみつく腕に力をこめる。膝を砕かれそうだ、と小声で綱吉に苦笑するので、綱吉は肩を竦めて振り返ってからおいで、とヒロに両腕を差し出した。
 抱き上げてやると、今度は綱吉の胸に顔を埋めてあげようともしない。警備員の男性は非常に残念がった上で、漸く引いてきた汗を拭う手を休めて自分が走って来た方角を顎でしゃくった。
「いや、ね。一時間くらい前だったかな、女の人がひとり貧血で倒れちゃってさ。ついさっき意識取り戻したんだけど、今度は子供がいないって騒ぎ出しちゃって」
 よくよく見れば好々爺っぽい男性が、唇を窄めるという妙に特徴ある喋り方で事情を説明する。帽子を取ってそれで風を扇いだりもするのだが、大分薄い髪の毛は汗で湿って肌に貼り付いているので、まるで海中で揺れるワカメだ。
 綱吉はヒロを抱いたまま、カウンターに凭れかかっている獄寺を振り返る。
 一時間ほど前。ヒロが迷子になって獄寺に遭遇した時間と、ほぼ一致する。
 貧血で倒れ、救護室に運ばれていたのだとしたら、店の中を散々歩き回っても見付からず、サービスセンターにも姿を見せていない理由も説明がつく。
「あの、その人は今どこに」
「また倒れられでもしたら、困るからね、救護室で休んでもらってるよ」
 事情を詳しく聞いてみると、突然別のことに気を取られて走り出したヒロを、母親は追いかけようとしたらしい。けれど不意に襲われた眩暈にその場で昏倒してしまい、周囲は騒ぎに。彼女が救護室へ運ばれていることも知らず、後ろから追いかけてきているとばかり思っていたヒロは、しかし足を止めて振り返った先で知る顔が無いことに気づいて気が動転した。
 探さなければならないという使命に駆られたものの、幼すぎてどうすることも出来ず、あちこち走り回っている間に自動ドアの前にいた獄寺と偶然ぶつかった。
 警備員のこの男性は、偶々獄寺たちがヒロの親を探して歩き回っている最中に、呼びかける声を聞いていたらしい。意識を取り戻した女性が、子供の姿が見えないとパニックに陥っていると同僚から聞いて、綱吉たちを探し回って漸く見つけ出した、と。
 訪ねていった先の救護室で、ベッドに寝かされていた女性を見た瞬間、ヒロは綱吉の腕から飛び降りて「ママ」と叫びながら走っていった。
 あちらも涙を浮かべながら体を起こし、駆け寄って来た我が子をいとおしげに抱き締める。
 周囲が感動の再会のおこぼれに預かって涙さえ浮かべる人が居る中で、獄寺だけが少し複雑そうな顔をしていたのを、綱吉だけが見ていた。

「良かったね」
 救護室からショッピングセンターの裏手に出た綱吉が、前を行く獄寺の背中に呼びかける。
 けれど彼は振り向かず、斜めから差し込む西日を浴びて銀髪を赤く染めながら左右に肩を揺らすだけだった。
「獄寺君?」
「……え? あ、ああ。すみません、ボーっと」
 していたので、と言いかけた彼の声が途中で途切れる。それは振り向こうとした先で、動かした肩が思いがけず近くに居た綱吉の額にぶつかったからだ。
 寄りかかってきた彼にそれ以上先に体を動かすことが出来ず、獄寺は袖を通して感じた、少し汗ばんだ綱吉の体温を感じ取って口を噤む。
 綱吉の手が、獄寺の脇腹でたるんでいたシャツを握った。密着する互いの体の間に熱がこもり、新しい汗が滲み出る。
「十代目?」
「俺さ、獄寺君って、子供嫌いなんだってずっと思ってた」
 ランボの扱いは雑だし、乱暴だし、口は悪くて汚いし、直ぐに邪魔者扱いするし。
 聞かされるほうは思わずムッとしてしまう表現だったが、綱吉の声は段々と笑いを含むものに切り替わっていった。
「そんな事ないっすよ。俺、子供は大好きっすから」
「うそだ~」
 前にフゥ太のランキングで酷い目に遭ったのを思い出したのか、膨れっ面で前に向き直った彼の素っ気無い声に綱吉が我慢しきれず、ケラケラと笑い出す。
 額で彼の背中を押し出して、綱吉はシャツを握っていた手も放した。ひとつに重なっていた影がふたつに別たれ、その後ろに別の影がふたつ、短いものと長いものが横に並んだ。
「有難うございました」
 綱吉と獄寺に向かって深々と頭を下げたのは、長い髪の女性。まだ若く、ほっそりとした体躯で、貧血後から回復しきれていないのか顔色は優れない。
 あまり直射日光の下にいない方が良いのではないかと綱吉に危惧されても彼女は首を振り、横で不思議そうにしているヒロの手をしっかりと握り締めてもう一度頭を下げた。
「うちの子が、とんだご迷惑を」
「いえ、いいんです。こっちも暇が潰れた……っていうのは、変か。迷惑じゃなかったですよ、俺、小さい子好きですから」
 まだ向こうを向いたままの獄寺に変わり、綱吉がやや首を斜めに傾けながら言葉を返した。恐縮しきりの彼女に出来るだけ安堵を与えてやれるように気を配りながら、君も何か言えと肘で獄寺の脇を小突く。
 けれどまだ獄寺はそっぽ向いたままで、仕方が無いなと肩を竦めた綱吉は、母親の横で行儀よく立っているヒロに小さく手を振った。
 彼女を真似て綱吉にもぺこりと大きな頭を下げたヒロだったが、獄寺がなかなかこちらを向いてくれないのが気になるようで、少し淋しげにも見える。いつまでも意地を張るものじゃない、と尚も強く脇腹を突っついた綱吉から跳んで逃げた彼は、ちぇ、と息を吐いて不満そうに唇を尖らせると、渋々、仕方が無く、という態度を前面に押し出して振り返った。
 長めの髪の毛がふわりと浮き上がり、そして顔の輪郭に沿って落ちていく。途端パッと顔を輝かせたヒロは、母親に何かひとこと、ふたこと告げてその手を放した。
 駆け寄ってくる。そして思い切り、地面を蹴り飛ばした。
「うわっ」
 最初にぶつかってきた時同様に、獄寺に向かって。だが今度は相手をしっかりと選び、彼が受け止めてくれるものと信じて飛びかかっていった。
 反射的に両腕を前に掲げた彼が、その胸に小さな体をキャッチして尻餅をつく。しっかりとヒロを庇って自分だけが痛いように、綱吉も巻き込まぬように位置を計算した上で雑草がところどころ顔を出すアスファルトの上に倒れた彼は、いきなり何をするのか、と怒鳴り声をあげかかって、また寸前で飲み込んだ。
 全力で甘えてくるヒロに、目尻を下げる。しょうがねーなー、と面倒くさそうに愚痴を零すくせに、その表情はどことなく嬉しげだった。
「あのね、あのね。おにいちゃん、ありがと!」
 獄寺たちのお陰で母親と再会できたのは、母親からも言われて理解しているらしい。むしろ一緒に遊んでくれたことへの礼の気もするが、大差ないので深く考えないでおく。
 腰の後ろで手を結んだ綱吉は、押し潰している獄寺だけでなく横に居る自分にも笑顔を振り撒くヒロに笑顔で返した。
 けれど。
「それでね、あのね! ヒロね、おっきくなったらね! おにいちゃんの、およめさんになってあげる!」
 無邪気とあどけなさが同居した、満面の笑みで。
 テレビを見ていて覚えたのだろうか、ませた態度で頬を染めてから、獄寺の左頬にちゅ、と音を立ててキスをして。
 どこかで、烏が鳴いた。
「……は?」
「ヒロミちゃーん、帰るわよー」
「は~い。おにいちゃん、ばいばーい」
 母親に呼ばれ、ヒロは振り返ると勢いつけて獄寺の上から飛び降り、両手を振って走り出した。母親にも遠慮なく飛びかかり、受け止めた側は苦笑禁じえない表情でまた一礼をして去っていった。
 残されたふたりの影が、オレンジ色の中に浮き上がる。烏がもう一度、鳴いた。
「ヒロ……ミ?」
 まだ生温い感触が残っている頬に手を押し当て、獄寺が今しがた聞いた、ヒロの母親が言い放ったあの子の名前を繰り返す。
 ゆらり、と綱吉の影が陽炎の如く波だった。
「……へ~?」
 ヒロ。
 ヒロミ。
 確かにあのくらいの年齢だと体格的な性差も無いに等しく、更に着ている服がボーイッシュだったので、まるで気づかなかった。綱吉は最初から男の子だと決め付けていたし、獄寺もそれに追随していた。
 いや、ひょっとすれば彼は最初から気づいていたのだろうか。
「ふ~ん。およめさん、か~」
 まだ地面に直接座り込んでいる獄寺を、冷ややかな目で見下ろす。
 呆然としていた彼は、不穏な空気を読み取ってびくりと肩を揺らし、恐々と顔を上げた。
 西日を浴びた綱吉の顔には影が濃く、全体が見て取れない。しかし口調からして不機嫌であるのは間違いなくて、獄寺は慌てて手の甲で左頬を赤くなるまで擦った。擦りすぎでひりひりするのも構わず、足がもつれそうになりながら起き上がって、両手を返して綱吉に迫る。
 だが一歩早く綱吉は彼を避け、手を後ろで結んだまま歩き出した。
「そっかー、獄寺君モテモテだねぇ。守備範囲広いなー、すごいな~」
「ちょっ、待ってください十代目。誤解です、誤解!」
「なにが~? あの子、きっと大きくなったら凄い美人になるよ、お母さん綺麗な人だったし。良かったね、今からなら光源氏になれるかも」
「なんなんですか、それは! ていうか、俺は十代目一筋ですからぁ!」
「あ、牛乳買ってきてって頼まれてたんだ。じゃあね、獄寺君。幸せにね~」
「じゅうだいめ~~~~~~!!」
 涙目の獄寺の声が、だだっ広い空き地にこだまする。
 羽音を立てた烏が、やれやれといった様子で彼方へと飛び去っていった。

2007/8/13 脱稿