「ビアンキちゅわぁぁぁ~~ん」
真っ昼間の太陽が燦々と地表を照りつける下に、野太い男の裏返った高い声が響き渡る。
直後、げしっ、という何かを足蹴にする音が低い位置に轟いた。
「うわっ」
地面が揺れたわけではないが、空気の震えが足元から伝わってきた綱吉は、思わず身を竦めて持っていた底浅の笊を落としそうになった。窄めた肩と逸らした視線、つい閉じてしまった瞼を恐々と持ち上げる。そうして彼は息をひとつゆっくり吐き出しながら、首の向きを正面へと戻した。
夏の色がそこかしこに溢れる、広い庭の先。直射日光を避けるべく吊るされた軒先の簾が、風で煽られぬようにと何箇所か重石で固定されている。
冬場は寒さを防ぐためにも必要不可欠な板戸も、この季節は熱が篭もって夜も眠れなくなってしまう。だからつい十数日前に、家の男総出で葦戸に交換したばかり。打ち水がされているので土の色は湿って濃く、サラサラと流れる小川の音と赤い太鼓橋が架かる池も風を呼んで涼しげだ。立派に張り出した松の枝には、雲雀渾身の作の釣忍が揺れている。
その、軒先と池のほぼ中間地点辺りに、男がひとり、転がっていた。
傍には紗の薄物で身を包んだ、腰まである長い髪を無造作に低い位置で束ねている女性。世の男が一目見ただけで恋に落ちてしまいそうな艶っぽさを持ち、指先ひとつの動きにしても婀娜な風合いを醸し出す、微笑みは妖しく、それでいて美しい。肩から前に流れてきたひと房の髪をぞんざいに後ろへ流す様も、さながら一枚の錦絵のようだ。
ただし、それもこれも、彼女の額に一対の小ぶりな角がなければ、の話。
「ビアンキちゃんの愛が、痛い……」
「黙れ、この腐れ烏」
妖艶な外見に相反して、男勝りのやや低い、凄みのある声を出した女性が、尚もしつこくすがり付こうとする男の頭を遠慮なしにぽっくりの裏で蹴り飛ばす。頭蓋骨が砕けそうな音が生まれ、遠巻きに眺めていた綱吉はまたしても口元を歪めながら咄嗟に視線を脇へ逸らした。
「ぐあっ」
「リボーン、リボーンってば。ねえ、どこぉ~?」
仰向けに地面に転がされ、硬い地面に後頭部をぶつけた髭面の男が苦悶の表情を浮かべて悲鳴を上げる。しかし女性は一切構おうとせず、急にしおらしい動きで腰を振り、軽く丸めた両手を顔の下に置いて猫なで声を作り別の誰かに呼びかけ始めた。
「またやってたのか……」
騒々しいことといったら、ありゃしない。
重いため息が零れる。どうやら喧嘩は終わったらしい、と肩の力を抜いて緊張を解した綱吉は、同時に痛み出したこめかみに指を置いて静かに首を二度、横に振った。笊の中にある赤い木の実もまた、彼の動きに合わせて竹編みの目地を擦って転がった。
容赦なく照りつける日差しは、一月ばかり前の雨ばかりの日々が遠い昔の出来事だったと言わんばかりだ。雲は少なめで、陽射しも厳しい。これでは稲が暑さに参ってしまわないかというのが目下の心配の種で、聞く話によれば遠い村々では既に旱魃の傾向が見られるという。
草履の裏で地面を擦り、あそこに行くのは嫌だがどうしようか、と綱吉は思案顔でまだ転がったまま起き上がらないシャマルを遠巻きに見下ろした。
まだ彼は綱吉の存在に気づいて居ない様子だが、近づけば足音や気配で鋭敏に察知してくるだろう。彼を避けて屋敷に入るだけなのだが、動きが愚鈍だと常日頃から言われている上にその通りだと自覚もある綱吉が、果たして巧く出来るものか。せめて雲雀が居てくれたならば、と山を降りる途中で別れてしまった相手を思い出し、綱吉は屋敷に覆いかぶさる形で北に広がる緑濃い山を仰ぎ見た。
山頂付近には薄らと雲がかかり、その全貌は見えない。風も吹いているのか木々が揺れる様は分かるのだけれど、枝を擦り合わせる音もまた、綱吉が佇む並盛山の中腹までは聞こえてこなかった。
雲雀は今、どの辺りに居るのだろう。直ぐに追いかけるとは言っていたものの、姿が見えないのは矢張り不安になる。
と。
――どうかした?
不安を覚えているのが伝わったのだろうか、意識していなかったのに耳の奥の空気が震え、雲雀の声が直接綱吉の頭に響いた。
「わっ」
予測していなかったことに驚き、思わず半歩下がって声を出してしまった綱吉のぶれた視界に、眩い太陽の光が直接飛び込んでくる。瞳を焼かれてしまう勢いに瞼を閉じ、折れそうになった膝を辛うじて支えて彼は笊を大事に胸の中に仕舞いこんだ。
ビアンキの、リボーンを呼ぶ声が段々と遠くなっていく。
逆に、綱吉、と名前を呼ぶ声がまた近くで聞こえ、彼は左耳を押さえ込むと息を吐き、一瞬乱れた呼吸と心臓を整えた。なんでもないです、と首を振りつつ心の中で返事をしてから視線を上げ、庭先に転がっているはずの男の姿を探す。
けれど、さっきまでそこにいたはずの脂性の髪に無精髭を生やした、みすぼらしく汚らしい男の姿はもう、何処にも見当たらなかった。
「あれ?」
薄墨の袖を揺らし、綱吉は左手を下ろす。首を傾げて視線を左右に動かしても、ビアンキに蹴飛ばされていた男の影は欠片も見出せない。
時間としては一分と過ぎていないはずだ、男が動いた気配も感じなかった。幾らシャマルが苦手で、出来る限り意識の外に置こうとしていたとはいえ、綱吉に知られぬうちに、この短時間で沢田の敷地から姿を消すなど出来るのか。
「よー、ツナ」
「うわぁっ」
何処に行ったのだろう。まだ近くにいるかもしれないと考えるとどうしてもシャマルに対しては注意深く、けれど他に対する警戒心は薄れがちになる。
ついつい背後を疎かにした綱吉の肩を、気楽な調子の声と共に叩く存在があった。
「うおっ?」
これもまた予想外な出来事に、綱吉はその場で飛び上がって驚いた。声をかけた方も綱吉の仰々しい反応に驚いて、引っ込め損ねた手を頭の横で揺らした山本が目を丸くして綱吉を凝視する。
その場でたたらを踏んだ綱吉が、上半身を後ろに引き気味にして強張らせていた頬をゆっくり解いていった。なんだ山本か、と胸撫で下ろし呟かれた言葉に、なんだとはなんだ、と山本は逆に頬を膨らませる。
「あ、いや、ごめん。そういう意味じゃなくて」
機嫌を損ねてしまっただろうかと不安が先走り、大きな目を困った風に下げた綱吉が笊の中の野苺を揺らしながら言葉を捜して視線を泳がせた。
だが山本も、最初からそれ程不機嫌になっていたわけではなかったようで、綱吉がどうしようかと迷っている姿に瞳を細めると、気にしていないからともう一度彼の肩を、今度はゆっくり叩いてやった。
山から吹き降ろす風が地表の砂を吹き飛ばし、裾野へと広がっていく。煽られた前髪の行方を追った綱吉は、眼下遥かに続く緑野に口元を緩めた。
水を湛えた水田が何処までも連なり、合間にある畑にも植物がところ狭しと蔓を伸ばしている。村のほぼ中央に走る川の流れは終始穏やかで、山を越えて彼方へ向かおうとしている鳥の影が一瞬だけ地表を走りぬけた。
「で? どうしたんだ」
「へ?」
急に声を沈めた山本に、綱吉は視線を戻して首を傾げる。何がどうしたのかと、今度は綱吉が瞳で彼に問いかける番となり、ほんの少ししか経っていないのにもう忘れている綱吉の鳥頭ぶりを、山本は苦笑するしかなかった。
「ぼうっとしてただろ」
「あ、ああ」
山本に肩を叩かれたときのことだ。あんなに大袈裟に反応するとは思っていなかったから、何に気を取られていたのか気になったのだろう。肩を竦めた山本の問いに、綱吉は口元に曲げた指の背を押し当てて苦笑いを浮かべた。
あそこに、と今はもう誰も居ない軒先を示す。
「シャマルがいたんだけど、気がついたら居なくなってたから」
「あー、あのおっさんな」
神出鬼没だよな、と相槌を打って頷いた山本は、土がもぐりこんでいる爪の隙間を気にして手元に視線を落としてから後ろを振り返った。
綱吉の言う人物の姿は、矢張り探しても見付からない。気配を追ってみたものの、既に風に流されてしまったのか尻尾さえ掴み取れなかった。その代わり、とばかりに山本はふたりが立っている場所から少し離れている、屋敷と村とを繋いでいる九十九折の石段に続く大きな山門を指差した。
「なに?」
「や、そういやさっき、獄寺の奴がシャマルとあそこで喋ってたなーって」
先に山本が、指差した方角に自分の目を向け、続いて綱吉が、山本の顔を一度見上げてから同じ方向へ視線を投げた。
紺色の瓦屋根の門は、木漏れ日の最中にあって静かに存在の大きさを誇示している。番らしき鳥が二羽ばかりそこに留まって羽根を休め、嘴で互いを突きあってじゃれあう様が小さく見て取れた。
その下に、黒っぽいものが落ちている。
「ん?」
今朝門を開けに行った時にはなかったものだ。なんだろう、と綱吉も気付いて山本を見上げるが、彼も同じ表情をして頭を掻いている。
里に持って降りるものをあの辺りに積み重ねて、一旦まとめておくことはあるが、そんな話は聞いていない。また、里から届けられた荷物があるとも聞かされてはいない、少なくとも今朝の段階では。
だから最初、ふたりは朝食を終えて各自解散となってから今の時間までに、里から誰かが何かを届けてくれたものだろうか、と考えた。
しかし形は歪で、色も可笑しい。麦の収穫期がそろそろだから、とも思ったのだが様子が違う。結局分からなくて互いに首を傾げるばかりで、近づいて確かめてみるのが一番早いかと山本は結論付けた。
ビアンキの声が尾を引いて山の上に吸い込まれていく。そういえばリボーンの姿も、今朝から見ていない。
「相変わらずだなあ」
彼女が苦手な様子はないものの、しつこいからだろうか、リボーンは以前にも増して姿を見せなくなった。存在は感じ取れるものの、無駄に姿を露にする機会は減ったように感じる。
それは別の意味で、彼の力が必要になるような事項が起きていないことを意味する。雲雀の状態も安定したし、綱吉の具合も回復した。この調子ならば夏越しの祓えを済ませ、精霊会も問題なく迎えられそうだ。
しかしそこに思いが巡ったところで、不意にざわりと綱吉の胸の中に波風が立った。
丸めた拳を左胸にそっと押し当て、一瞬だけ感じた違和感に眉を潜めた彼は吐き出そうとしていた息を飲み込み、足を止める。
「……なに?」
何か黒い、否、赤いものが綱吉の中を通り抜けていった。しかし瞬きの間にそれは掻き消え、跡形も残らない。
急に、無性に喉が渇き、身体中の水分が枯れた錯覚に陥って吐き気に口元を覆う。前のめりに身体を丸め、膝を丸めた綱吉は頭を下に向けて声を殺した。
「おい、大丈夫か?」
山本の心配する声は、しかし綱吉から随分と離れた場所から響いた。
虚ろに澱んだ瞳を振り払い、浮かんだ汗を地に落として綱吉は顔を上げる。門前で蹲った山本が、先ほど見つけた正体不明のものに手を添えて激しく揺さぶっているところだった。
瞬きを繰り返して深呼吸をし、まだ胸の奥底に残るしこりを振り切って綱吉は歩を進めた。番の鳥が山本の声に驚いて、飛び去っていく。西の空へ消えた羽音に首を振り、彼の斜め後ろに立ち位置を定めた綱吉は無言のまま彼の手元を覗きこんだ。
「獄寺君?」
「じゅ……じゅうだい、め……」
「またかよ、お前」
丸くなっていた物体は農作物や奉納品などではなく、野袴に鼠色の胴衣を着込んだ獄寺だった。彼は苦しげに顔を上げて、視界に綱吉の姿を認めると実に弱々しい声で彼を呼んだ。傍らでは呆れ調子の山本が、顔面蒼白に汗びっしょりの獄寺の額に手を置いて熱を測っている。だがそれも無駄な行為だと、本人も分かっているのだろう。
獄寺が抱え込んでいるのは腹であり、綱吉が目を見開いて見守る前で、ぎゅるるるる、という凄まじい音が彼の内部から発せられた。
「そういえば、……居たね。ビアンキ」
どういう状況でこうなったのかは解らないが、想像はつく。獄寺の足元には何冊かの和書が散らばっているので、恐らくそれが、シャマルが沢田家の敷地を訪れた理由だろう。
村の嫌われ者であるシャマルだが、外から来た獄寺は彼に対する偏見があまりない。むしろ学術に秀で、且つ多数の書籍を手元に置いている彼の存在は、本が好きで暇さえあれば部屋に籠もって読み耽っていることが多い獄寺にとって有り難いものだった。
わざわざ遠くの町に出向いたり、一度読めば充分な内容の書を購入したりするくらいならば、シャマルに頼み込んで貸してもらったほうが安上がりだし効率も良い。それに彼は獄寺の知識の好みを理解しており、最近では読み解きの助言さえ与えながら本を届けてくれる場合もあった。
綱吉も山本も、あまりシャマルに好意を持っていないのは獄寺も理解している。けれど自分の知的探究心を満たしてくれる存在として、獄寺はシャマルを自分の中に認めようとしていた。
「いでで、いってぇ……」
恐らくは獄寺を訪ねて来たシャマルが、リボーンを探して歩き回っていたビアンキに飛びかかっての顛末が、綱吉の見た庭で転がるシャマルなのだろう。獄寺の現状を見る限り、彼女はそれより前に、実弟にリボーンの行き先を問うたに違いない。
「相変わらず、駄目なのな、お前」
「うっせ……いででで」
慰める気は毛頭無さそうな山本の声に、獄寺は頭を撫でようとする彼の手を跳ね除ける。だが動いた所為でまた腹が痛んだらしく、青白い顔色をもっと悪くして彼は呻いた。
すっかり沢田家では日常茶飯事となってしまったやり取りに、綱吉も苦笑を禁じえない。
ともあれ、彼を此処にこのまま置いておくわけにもいかない。誰かが来た時に門前で蹲る存在があったら驚くだろうし、不気味がって寄らずに帰ってしまうのは困る。立てるか、と背中をさすって促した山本の言葉に、獄寺は力なく頷くと深呼吸を三度ばかり繰り返して膝に手を置いた。
ぐっ、と全身に力を込める様が見ていてもはっきり伝わってきて、綱吉まで無意味に力んでしまう。お陰で抱えたままだった笊を押し潰すところで、腕を跳ね返そうとする竹の感触に下を見た彼は慌てて怒らせていた肩を落とした。
指で中央のひとつを小突き、無事だった柔らかな感触に笑みを浮かべる。
なるべく熟していたものを選んで摘んで来たが、一晩置いた方が甘みもいっそう増して美味しくなるので、食べるのは明日になってからだ。今日は神棚の上にでも隠しておこうと両腕で大事に笊を抱き込んだ綱吉だったが、いきなり横から伸びてきた手がそのうちのひとつを掴み取り、引っ込んでいった。
「ああ!」
「ん、甘い」
まだふらつきながらも二本足で立ち、散らばっていた本を拾っている獄寺をもう大丈夫と判断したのだろう。山本も立ち上がっていて、いつの間にやら綱吉の横にちゃっかりと居場所を定めていた。
口に含んで噛んだ瞬間、赤くて甘い汁が飛び出して彼の唇を濡らす。親指の腹でその汁も拭って舐め取った山本に、綱吉は鋭い声を上げて直ぐに拗ねた表情で彼を睨みつけた。
「いいじゃねーか、ひとつくらい」
「よくない。折角明日まで、楽しみに取っておこうと思ってたのに」
ひとつ、と言いながらまた手を伸ばそうとする山本を牽制して笊を遠ざけ、綱吉は素早く彼に背を向けて野苺を庇った。
油断すると直ぐにまた長い腕が伸びてくる。野苺の群生も薮の中にあるので現地にたどり着くまでが大変であり、沢山集めるのは至難の業なのだ。雲雀はあまりこういう甘いものに興味がないので、一緒についてきてくれても基本的に収穫までは手伝ってくれない。
だからこれは全て綱吉が自力で獲得したものであり、いくら山本とはいえつまみ食いされるのは我慢がならなかった。
いつになく険しい目つきを向けてくる彼に、山本も降参の仕草を取って手を引っ込める。分かったよ、と力なく呟いた彼の声が聞こえたのか、それまで話題に混じってこなかった獄寺が不意に顔を上げた。
さっきまでよりも若干ではあるが、顔色が正常に戻ろうとしている。ビアンキを見るたびに腹痛を起こしていては身が持たないと思うのだが、こればっかりは綱吉でもどうともしてやれない。しかも獄寺は表面上彼女を嫌っている風に装っているが、実際は言葉で言い表すほど毛嫌いしているわけでもなくて、それが余計に状況をややこしくしている。
ビアンキも長年離れていた弟は大切に思っているようで、自分が原因であるとは知らず、度々腹痛を訴えて倒れる獄寺の身を案じて、体が丈夫になるようにと手料理を拵えてくれることがあった。
だが、忘れてはならない。彼女はあくまでも鬼であり、人ではないことを。
鬼の身体は人間のそれと、見た目は似通っていても大きく異なっている。胃袋の頑丈さも段違い。人間ならば下ごしらえをして充分に加熱し、毒気を取り除いて漸く食べられるようになる食材も、鬼はそのまま平気で噛み砕いて飲み込んでしまう。
人間には毒のある植物も、逆に身体が丈夫になると言って容赦なく食べる。基本構造が違うから本当に鬼にとっては薬効があるのかもしれないが、そんな材料を大量に用いて作られた料理を、果たして人間が食べたらどうなるか。獄寺も半分は鬼の血が混じっているとはいえ、残り半分は人間のそれだ。しかも彼は近年はずっと人間と生活を共にしており、食生活も人間側に傾いている。
どう見ても人間が食べる色、形、匂いをしていないものを前に、ビアンキだけが平然としている様を見せられると、矢張り彼女は人と異なる種族なのだと思い知らされる。
シャマルはそうと知ってなお、彼女の尻を追いかけているのか。
「いや、こっちのこと。それより、何借りたんだ?」
野苺の話には触れず、話題を変えようと山本が獄寺の手の中を覗き込む。綱吉は先に立って屋敷へ向かう道を進みだしており、残るふたりも歩きがてら話を続ける様子だ。
簾を手で押し退け、空気の通り道となるように開け放った玄関から薄暗い屋内へ入る。正面は土間へ続いており、綱吉は草履を脱がずに直接そちらへと向かった。矢張り開けたままの戸口を抜けると、ほんの少しだけ明るさが戻って台所に佇む奈々の背中が見えた。
傍には雲雀が、彼女と何かを挟んで向かい合わせに立っている。
「あれ、ヒバリさん」
もう戻っていたとは知らず、綱吉は純粋に驚きながら歩調を速めた。遅れて入って来た山本と獄寺も、綱吉が嬉しげにあげた高い声を聞いて、朝から姿が見えなかった男が戻って来ていると知った。
「あら、ツー君。お帰り」
弾んだ声をあげた息子を振り返り、奈々がにこやかな笑顔を向ける。彼女にもややだらしない笑みを返した綱吉は、大事に笊を抱えたまま急ぎ雲雀の隣へと向かった。そして何をしていたのかと視線で問いかける。
雲雀は答える代わりに笑みを浮かべ、綱吉が抱える笊の中の野苺に触れた。が、山本のように摘み上げて食べたりはしない。細かな球体が幾つも組み合わさった形をしているそれを弾いて転がしただけで、行為自体に特に意味はなかったようだった。
「茄子?」
奈々の前にある調理台の上にあったのは、濃い紫色の皮を丸く張った大振りの茄子だった。それが合計五つ、仲も良さげに並んでいる。
収穫してきたばかりなのか瑞々しく、表面にも艶があって美味しそうだ。
「どうやって食べようかと思って」
頬に手を添えて笑う奈々が事情を簡潔に説明してくれて、綱吉は納得顔で頷くと同時に雲雀から苺を奪い返す。あまり指で触られると潰れかねなくて、彼は「へえ」と相槌を返しながら急ぎ神棚に笊を掲げた。
綱吉が背伸びをしてやっと手が届く高さに設置されているそこは、彼の秘密の隠し場所だった。
もっとも其処に手が届かないのは奈々くらいで、雲雀にしても山本にしても簡単に隠してあるものを暴けるのだが、昔からそこが、綱吉の大切なものを置いておく場所と決まっていた。今も神棚に隠されたものは、たとえ手が届いても綱吉の許しがなければ取り出してはいけない決まりになっている。
天然の甘みを持つ果物は、子供たちにとっては大事なおやつだ。元々食が細い――本来は食べずとも良い綱吉が好んで食べたがるもののひとつが、ああいった果物類なので、山本もこれでもう手は出せないなと肩を竦めて潔く諦める。自分で採ってくるにも注意深く薮を進んで小さな実を捜す苦労は計り知れず、そういう細かな作業が苦手と自負している山本は、庭の柿の木が実るのを大人しく待つことにした。
手のやり場を失った雲雀が、卓上の茄子を徐に指で転がす。反対側へ落ちそうになったそれは、奈々の手がしっかりと受け止めた。
五つだから、ひとり、ひとつずつ。食べ応えが期待できそうな今夜のおかずに、成長期ともあって食欲旺盛な男子は思わず生唾を飲んだ。
「俺、俺田楽がいい!」
「えー、焼き茄子だって。暑いのに熱い物食べるのー?」
涎を溢れさせた山本が一番に手を挙げて声を放ち、神棚から振り返った綱吉が途端に批判の声をあげる。
今日一日の疲れを取り、明日への活力となる夕飯のおかずは子供たちにとっても何よりの楽しみであり、食べることに特別執心しない雲雀は騒ぎだしたふたりについていけないと肩を竦めると、山本の後ろで、勢いに面食らって置いていかれている獄寺に苦笑した。
それから視線を下にずらし、彼が大事に抱えている本に顔を顰める。
「あれ、か」
都から離れ、山にも囲まれて外界から閉ざされているこの村で、そう容易く和書が手に入るとは思わない。手段は幾つかあるものの、最近の獄寺の行動を見る限り誰に頼っているのかは一目瞭然だ。
雲雀としては、あまりあの男との接点を多く持っては欲しくない。そもそもシャマルが何を狙ってこの里にやってきて、住み着いたのか。事情を知るのは恐らく雲雀と、リボーンくらいだろう。正体を気取っているだけなら、ビアンキも其処に含まれる。
今のところ、綱吉にちょっかいを出すにしても手を抜いているのか、様子を見ているだけなのか、こちら側に深入りしてくる様子は無い。もしかしたら雲雀の勘繰りすぎの可能性も否定できないものの、用心するに越した事はない相手なのは確かだ。
先日の騒動では傍観者を決め込み、雲雀に助言さえしてきたあの男。何を考えているのか、未だによく分からない。
だからこそ不気味だと、雲雀は思う。
「天狗道に引きずり込まれても、知らないよ」
深入りしない方が良いと伝えるべきか、否か。判断に逡巡してひとりごちた雲雀は、夕飯のおかずで取っ組み合いの喧嘩にまで発展しそうな雰囲気の綱吉と山本に溜息を零し、土間から居間へ上がるべく草履を脱いだ。
奈々はじゃれあっているふたりを楽しげに見詰め、最後に手を叩いて両方作りましょうか、と豪語する。それで騒ぎはひと段落するかと思えば、今度は一番大きい茄子を誰が取るかでまた口論が始まった。
雲雀は食べることに、興味がない。
沢田の家に引き取られるまでは、食膳というものを知らなかったくらいだ。食べる必要がない生活と肉体にすっかり慣らされてしまい、人間らしい日々とは凡そ無縁だった影響は存外に大きい。
だから山本が食べる事の固執する気持ちは半分も分からないし、綱吉が大勢で車座になって食事をするのが楽しみだと言うのも、あまり理解出来ない。とはいえ、綱吉が皆と食べたいと願うのであれば、自分はそうするまでだ。
ただ、茄子の大きさくらいどうだって良いだろう、とは思う。
長い前髪を梳きあげ、後ろへと流す。白い灰が積もった囲炉裏の端に突き刺した金属製の細長い箸を
引き抜き、中央の金輪の周囲を掘り下げてやれば、今朝使った炭の残り火がまだ僅かに燻って赤くなっているのが見て取れた。
焼き茄子にするにしても、田楽にするにしても、火は必要不可欠。炭を足しておいてやるか、と白くなっている欠片を小突いて考えているところで、脇を衣擦れの音が通り過ぎていった。
視線を持ち上げ、斜め後ろを向く。丁度獄寺も居間にあがり、間借りしている部屋へ戻ろうというのだろう、北の廊下へ歩み行こうとする背中が見えた。
若干ふらついて足取りが危ういのだが、雲雀には原因は分からない。ただビアンキが居着くようになってからそういう動きをする機会が増えていたから、今回も彼女絡みだろうと勝手に想像して結論づけた。
「綱吉」
まだ口論を止めないでいる綱吉を呼び、いい加減無駄な争いは止めるように諫めた雲雀は、炭を補充すべくまた土間を目指した。入れ替わりに山本が、下駄を脱いで居間へと上がり込む。
「そんなに食べたいのなら、僕のをあげるから」
「えー……でもなぁ」
別に食い意地が張っているわけではないのだ、と唇を尖らせてぶつぶつ零す綱吉の頭を撫でてやり、雲雀は竈横に無造作に積み上げられている真っ黒の炭をひとつ抜き取った。頂上の一本も反対の手に持って、互いをぶつけ合わせる。
カン、と金属の棒で叩いたような固い、そして耳に心地よい音がひとつ響いて消えた。
「あれ、おーい。獄寺、なんか落としたぞ」
これでいいか、と屈めた膝を伸ばした雲雀の背後では、居間の片隅に落ちていた紙を見つけた山本が、今まさに角を曲がって通路に姿を消そうとしていた獄寺の背中に呼びかけていた。
雲雀が譲ると言った茄子を前に、綱吉は指を銜えて頬を膨らませる。皆で一緒に食べるから食事は美味しいのであって、そうでなければ綱吉だって本来必要のない食事する意味が無い。日常生きるだけの生命力は全て雲雀から供給されており、食べて消化してもそれは栄養として身体に巡らないのだから。
だから雲雀が食べないというのなら、自分も食べたくない。けれどどうせ食べるなら大きい方が良いに決まっている、と子供の理屈を並べて葛藤する綱吉に、奈々はにこやかな笑顔を絶やすことなく五つ並べた茄子を、大きさ順に左から縦に並べていった。
何をしているのか、と側に戻ってきた雲雀も彼女の手元を覗き込む。
「ん? 俺?」
「そうそう。お前のだろ、これ」
一方居間では、足を止めて半歩戻った獄寺が山本の言葉に首を傾げた。心当たりがないという表情を浮かべる彼に、けれど他に思い当たる人物が居ないと山本も囲炉裏に向かおうとしていた足を方向転換させ、床に裏向けに落ちていた紙の端をつまみ上げた。
獄寺も、言われたら気になるもの。和書はしっかり糸で固定されていて破れた形跡はないのだが、もしかしたら間に挟んであったものが落ちたのかもしれない。なるべく丁寧に本の無事を確認した獄寺は、表に返した紙を前に硬直している山本の元へと早足で戻っていった。
そして上背のある彼が瞬きも忘れ、目を見開いて凝視している紙に描かれた内容に自分も目を落とし。
固まった。
「うっ」
「すげ……」
両者共に顔を赤く染め、けれど目は逸らせないらしく、固唾を呑んで紙に墨で鮮やかに描き出された場面を見つめ続けた。
心持ち、持っている山本の手が震えている。振動はそのまま紙にも伝わって、ぶるぶると落ち着きなく揺れる薄い一枚の紙が余計にふたりの興奮を煽り、扱いに困る汗が首の裏側を伝っていった。
「ツー君は、やっぱり大きいのが良い?」
「う~ん……」
落ちない程度に指で茄子を転がしながら、奈々が綱吉に問いかける。
まだ其処にこだわるのか、と似たもの母子を一度に視界に納め、雲雀はそっと知られぬように溜息を零した。
綱吉は頬に指を当て、可愛らしく小首を捻って真剣に考え込んでいる。奈々の笑顔は相変わらずで、楽しげに息子の決断を待っている様子が伺えた。
左手で小振りな茄子を突っつき、綱吉はもうひとつ唸って眉間に皺を刻む。だから何をそんなに迷う事があるのだろうか、と見守っているだけの雲雀が先に疲れてきそうだった。
だが今茶々を入れてしまえば、綱吉は怒るし拗ねるのだ。放っておけば良いか、と肩を落として結論づけた雲雀は、まだ居間に居残っている獄寺と、一緒に何かを覗き込んでいる山本の存在を知って片方の眉を持ち上げた。
てっきりもう獄寺は自室に引っ込んだものと思っていただけに、そしてどうにも様子がおかしいふたりに疑問符が頭に浮かぶ。
なにをやっているのだろうか。硬直したまま指一本も動かそうとしないふたりは、互いの頭をつき合わせる格好で、山本の手の中にあるものを見つめている。
「でけえよな、これ……」
「てか、でかすぎだろ」
乾いた声で小さく呟いた獄寺に、山本も同調を示しつつこれはあり得ない、と冷や汗を隠さない。
獄寺はこんなものをシャマルに頼んでいないから、彼が冗談で紛れ込ませたのか、本当に偶然本の間に挟まっていたのか、それは分からない。だが確実にこれは、獄寺の所有物でもなければ山本のものでもなく、ましてや雲雀や綱吉、奈々のものでもないだろう。
そもそもこんな日の高いうちから、こんな絵を開けっぴろげに人が集まる居間に置いておく馬鹿が何処にいるのか。
こういうものがある、という話は聞き及んでいたし、色々と想像をした事もあった。実際それとなく描写した絵や黄表紙本も見た経験はあって、いずれ自分たちもそこに描かれている事に手を出すようになるのだろう、という淡い期待を抱いては夢に見た日もある。
だが、これは。
あまりにも。
「でかい、よな」
「だよ、な……?」
話を聞き、文字を読み、絵を眺め、想像はしても、現実に目にしたわけでも経験したわけでもない。
誰かと大きさを比べた事もない。
「……あの、さ」
「言うな」
恐る恐る下から山本の顔を覗き込んだ獄寺に、山本は聞かれる前に内容を察して首を振る。
そこへ、奈々の明るい笑い声。
「ちょっ、母さん」
「えー、でもこれくらいはあるでしょう?」
「…………」
雲雀には分からない。いったいなにが、どうして、親子の話題がその方向に流れて行ったのかが。
最初は確かに、夕食に使う茄子のどれを誰に供するかという内容だった筈だ。それが今は、どうだ。奈々が三番目の大きさの茄子を手に小首を捻っており、綱吉は違うと連呼して丸めた拳で空を叩いている。
あまつさえ巻き込んで欲しくない雲雀に向かって、そんな事ないでしょう、と同意を求めてくる始末だ。
「それで、本当のところ、どうなの?」
「ですから」
いきり立つ綱吉に引き続き、奈々までもが雲雀に意見を求めて来て困る。これから調理して食べるものを振り回している姿は、土と太陽と水の恵みによって、苦労の末花を咲かせて実を付けた植物への感謝の気持ちを欠かさない普段の彼女と比較するに、明らかに異質だ。
雲雀は頭を抱え込んだ。聞かないで欲しい、そんな事。
「だから! こんなに小さくないってば!」
「え~? でもこれくらいが平均じゃない?」
やり玉にあげられた雲雀が益々呆れ具合に拍車をかけて、むしろ今すぐこの場から逃げ出したくて、力無く首を振る。
台所の騒ぎに顔を上げた獄寺と山本もまた、自分たちの身体で覆い隠した紙の上の出来事に溜息を零し、それから視線を僅かにずらして各人の股座に目をやった。
今は袴で隠されている己を思い出し、それから改めて達者な筆遣いで事の有様を躍動的に表した紙を見つめる。
大きく足を広げた艶っぽい女性が、恰幅のよい男性に組み敷かれた図。
いわゆる春画だ、それも相当に際どい。
恍惚に染まった女の縦筋に狙いを定めている男のそれが、現実にはあり得ない程の大きさをしている。誇張表現であろうとは想像に難くないが、もし本当にこんな大きさの人間が居たとしたら、自信喪失も甚だしく。
冷や汗を静かに拭い、そんなわけないよな、とふたりは何も語らずに頷き合った。
が。
「だから! ヒバリさんのはこれくらいあるんだってば!」
卓上に残っていた長さもあり、胴回りも立派な一番大きい茄子を掴み取った綱吉が、頭上高くに掲げて叫ぶ。
瞬間、雲雀は頭の痛みに耐えかねて膝を折った。
「あらぁ……」
反して奈々の顔は、うっすら紅色に染まった後何故か嬉しげに綻んでいく。
遠巻きに綱吉と奈々のやりとりを見送った山本と獄寺は、黙って春画から目を逸らしそれぞれ俯いてとぼとぼと部屋へ帰っていった。
2007/8/5 脱稿