夜宮

 コンチキチンの鐘が鳴り、宵闇に赤提灯の光が狐火のように連なって道を明るく照らしている。
 アスファルトで舗装された道とは違う、石畳と砂利の道を行く人の波は途絶えず、急峻な石段を登っていく人の列は切れない。音は上の方から流れてきており、人いきれとざわめきはもっと広範囲に渡って続いている。
 彼は、その石段の始まりに程近い場所に立っていた。
 人出は思っていた以上に多い。夜店は参道に繋がる細い道の両側にびっしりと隙間なく埋まっていて、立ち止まって購入しようとする人が道を塞ぐものだから、歩くのだけでもかなり苦労させられた。履き慣れない下駄の鼻緒が指の股に食い込んで少し痛い、だが足を止めるにしても後ろから続々人が来て背中を押すものだから、歩き進まないわけにもいかなかった。
 幼い手を放さぬよう気を配りつつ、周囲にも視線を巡らせる。無事に見付かるかどうか心配だった待ち合わせの相手は、けれど凛と背筋を伸ばす様が向こうから目に飛び込んできて綱吉を驚かせた。
 瞬間、どこか心もとなげだった彼の瞳はパッと明るく開かれて花を咲かせ、思わず自分が誰の手を引いているのかも忘れて駆け出そうとしていた。けれど右手が後ろに取り残されて、慌てて下向けば大人の足に蹴られる寸前の小さな体躯が必死に綱吉を追いかけている。
「あ、ごめん」
 一瞬でもこの子の存在を頭から消し去っていた自分を恥じ入り、綱吉は歩を緩めて幼子のペースに戻った。その綱吉と目が合った相手は、走ってくるかと思われた彼が急に自分を意識の外にやって下を向き、減速した事に対して怪訝に眉を潜め、首を傾がせた。
「すみません、遅くなっちゃって」
 人の流れに押し出されて石段へ向かいそうになるのを踏みとどまり、苦労の末に端に到達した綱吉が息を弾ませてはにかむ。
 此処に来るだけで既に疲れているのは、人混みの他に着慣れない浴衣の所為もある。素足に下駄も、慣れなければ辛い。
 綱吉の浴衣は、藤色に近い青地に麻の葉模様。細めの帯は芥子色で下駄は桐。おろしたてで、鼻緒は色もくすんでおらず先端も角張って癖がまだついていない。財布の類は袖の中で、少しばかり重そうに歪な形を作っているのが傍目にも分かった。
 背の側の帯に川に鮎柄の団扇を挿し、一応風流を決め込んでいるが、それは母親である奈々の見立てだ。浴衣の模様は濃い目の藍色で染め抜かれており、それが薄茶色の彼の髪と夏場でもあまり日に焼けていない肌によく映える。
「ヒバリさん?」
 息せき切らした綱吉が小さく下げた頭の位置を戻し、返事をしない彼を見上げる。高い位置に吊るされた無数の提灯が零す明りに照らされた彼は、綱吉同様古風な浴衣姿だった。
 背が高い分、幼さが際立つ綱吉よりもずっと見栄えがする。通り過ぎる女性がチラチラと彼を振り返るのが見て取れて、綱吉はそちらに気を取られて後ろから迫っていた人への反応に遅れた。
 端とは言え、此処は参道の途中だ。どん、と勢い良く肩をぶつけられ、よろめいた彼は足元で小さくなっている存在ごと雲雀の側へ押し出された。
「うわっ」
「ああ」
 足元では「ぴぎゃ」とかいう悲鳴も聞こえる。甲高い声に、綱吉は慌てて雲雀の胸元から視線を下へずらした。
 濃い青地に絣柄、灰青色の角帯は腰の低い位置で結ばれて、下駄の鼻緒は太めの黒。綱吉よりはずっとこなれた感じで浴衣を着こなしていた雲雀は、黒髪を夜の風に嬲らせながら綱吉の視線を追いかけて、自分もまた低い位置に目を向けた。
 見覚えがあるような、ないような。
 綱吉の足にしがみつくようにして、身体半分を隠している幼子。もじゃもじゃ頭はどこかのドーナツ店のマスコットキャラに似ている、泣き出す寸前まで行っている目はそれでも気丈に雲雀を睨みつけていて、まるで綱吉を彼から守ろうとしている風にも見えた。
 直接は知らない、けれど綱吉の話に度々出てくる子だろうというのは直ぐに想像がついた。
 名前は確か。
「ランボ、ほらお前も、挨拶」
「綱吉……」
「すみません、どうしてもついてくるって聞かなくて」
 困惑の色を隠さない雲雀に、顔を上げた綱吉がランボの頭を無理矢理押さえつけつつ肩を竦める。困っているのは自分も同じだと言外に告げる表情に、雲雀は沢田家でほんの一時間前に何があったのかを想像し、額を手で覆った。
 奈々に浴衣の着付けをしてもらっている綱吉が夏祭りへ出向くと察したランボが、我が儘を言って聞かなかったのだろう。彼の性格からして、短時間で巧く言いくるめられるとも思えない。
「遅くなるし、俺ひとりじゃないからダメって言ったんですけど」
 後ろへ下がりたがるランボを前に突き出し、綱吉が目尻を下げて瞳を細める。雲雀への警戒を崩さないランボに戸惑っている様子が伝わって来るが、雲雀とてまさかおまけが一緒だとは思っていなかっただけに、落胆は大きい。
 並盛神社の夏祭りは、スリ騒動もあって綱吉がゆっくり楽しめた様子は無かった。雲雀も風紀委員の仕事があったので途中で抜け出せなかったし、それに綱吉の傍にはいつもの連中が居た。だから日を改めて、並盛よりも少し離れた場所にある祭りに行こうと誘ったのだけれど。
 じっとランボを見下ろしてやる。睨みつけたつもりはないが、生まれつき目つきが鋭いお陰で幼子はビクリと過剰なまでの反応を示し、負けじと雲雀を睨み返して綱吉により一層しがみついた。
 正直なところ、ウザイ。
 睨み合っているふたりを交互に見詰め、やっぱりと綱吉は肩を落として溜息を零す。イーピンだけはどうにか納得してもらったが、爆弾小僧のランボは泣き叫んで大暴れで、ちっとも人の話を聞き入れてくれなかった。いっそリボーンに頼んで黙らせてもらおうかと悪い考えも浮かんだが、それはあまりにも可哀想過ぎる。
 トドメになったのは事情を何も知らない奈々の、「いいじゃない、連れて行ってあげなさいよ」というにこやかな笑顔つきのひとこと。
 綱吉は彼女に、隣町の夏祭りに行って来るとしか説明しなかった。誰と一緒に行くかは、言っても良かったのだが、どうも言うタイミングを逃してしまって結局告げていない。
 だが雰囲気的に、奈々は獄寺や山本といった、いつものメンバーと遊びに行くと想像しているようだった。ランボも彼女と同じ考えだったのだろう、だから知らぬ相手が現れたことに警戒している。
 仕方の無い子だと諦めの境地に入り、綱吉は長い息を吐き出して赤い明り越しに闇夜を仰ぐ。やがて雲雀も綱吉と似た心境に落ち着いたのだろう、ランボから視線を外して力なく肩を竦めると、行こうか、とだけ呟いた。
「はい」
 折角来たのだから、楽しまなければ勿体無い。ふたりきりで、という夢は脆くも崩れ去ったけれど、ふたりだけだとどうしても会話に困ってしまう時が多いので、ランボが混じってくれている方が余計な緊張もしなくて済みそうだ。
 淡く微笑んだ綱吉に同じく口元を緩めて微笑み返した雲雀が先に立ち、人ごみを掻き分けて石段の方へと進み行く。綱吉はランボの手を引いて、背中を見失わないように彼の後を追った。
 すらりと真っ直ぐに伸びた体躯、闇の中でも色を失わない黒髪。長めの襟足から覗く項は普段の洋服姿で見るものとなんら変わりは無い筈なのに、妙な艶っぽさがあって後ろから見上げる綱吉は視線の置き場に困ってしまう。
 手を繋いだランボは足が短いので歩くペースも遅く、どうしてもモタモタしがち。雲雀は時折足を止めて振り返り、綱吉たちとの距離が開きすぎないように気を遣っていたのだが、その実綱吉は俯いてランボに気を向けてばかりだったので彼の行動にはまるで意識が向いていなかった。
 これでは意味がない、と空っぽの両手を見下ろして、雲雀は石段の先の賑わいに気を向ける。何処かに子供を置き去りにしてやろうかとも思うが、それでは綱吉が怒るだろう。何処まで我慢出来るかと前髪を掻き上げて舌打ちしている間に、歩かせるのを諦めてランボを抱きかかえた綱吉が急ぎ足で駆け寄って来た。
「すみません」
「……いや」
 心底申し訳無さそうに頭を下げた綱吉に対し、抱き上げられた子供はそれが嬉しいのか上機嫌に頬を赤く染めて両手を振り回している。時折意味不明な言葉を吐いて、綱吉の髪の毛を引っ張ったり浴衣の襟を崩したりやりたい放題だ。
「……捨てていこうか」
 それなのに辛抱強くランボの悪戯に耐え、大人しくしているように何度も言い含める綱吉には恐れ入る。自分ならば最初の我が儘で一撃死させているに違いない、と雲雀が冷ややかな声で告げたのを受け、遠くの祭囃子に興味を示してはしゃいでいた子供の動きがぴたりと止まった。
 目玉焼きのような目を潤ませて許しを請う子供に、雲雀はどこまでも陰惨な視線を送り続ける。
「ぎぃやぁぁぁぁーーー」
「ちょっ、ランボ。ヒバリさんも!」
 すっかり怯えて動転し、周囲がざわめくばかりの泣き声を掻き鳴らしたランボを抱き締め、綱吉は眉尻を持ち上げて目の前の雲雀を睨みつけた。大人気ない、相手はまだ子供なのに、とすっかり彼はすっかりランボの味方だ。
 大泣きしてじたばたと短い両手両足をばたつかせる牛柄模様の幼子を懸命にあやし、大丈夫だからと何度も口早に告げて落ち着かせる。兄、というよりは父親――むしろ母親の顔に近い綱吉の表情は珍しくあったが、対象者が自分ではないのが癪で、雲雀は憤然としたまま鼻息荒く吐き出すと、踵を返してさっさと歩き出してしまった。
 顔をぐしゃぐしゃにして泣きじゃくるランボの背中を頻りに撫でていた綱吉は、遠ざかろうとする背中に直ぐに気づいたものの、かと言って即座に追いかけることも出来ず、板挟み状態で視線を右往左往させた。
「ヒバリさん、待って。ヒバリさんってば!」
 怒鳴ったことを怒っているのか、それともランボにばかり気を掛けるので拗ねているのか。こういう直接的な態度に表明される彼の感情は珍しく、若干嬉しくもあるけれど、出来ればこういう状況下でないときに見たかったと、思ったところでどうしようもない。綱吉は力なく項垂れると、やっと静かになったランボが近場の屋台をやたら指差すのでそちらに顔を向けた。
 綿菓子。半畳ほどの狭いスペースに所狭しとカラフルなキャラクターものの袋が並び、中央ではドーナツ状の機械が白い靄のようなものを作り出していた。
 バンダナで髪の毛をまとめた若い男性が割り箸を片手にその靄を集めて円を描いており、見る間に綺麗な綿菓子が完成していく。手馴れた作業をそつなくこなしていくその動きに魅入られたのか、ランボの瞳は急激に輝きを取り戻した。
「食べる、ランボさんあれ食べるー」
 今度は別の意味で綱吉の腕の中でじたばたと暴れだした幼子に辟易した様子で肩を落とし、綱吉は仕方がないなと彼を地面に下ろして左袖の細い口から中に入れた財布を抜き出した。薄っぺらのそれは、見た目通り中に入っている額面もかなり心細いものの、綿菓子ひとつでランボが大人しくなるのであれば安いものだ。
 だが実際のところ、表示されている額面を読んだ綱吉の目は瞬間、点になった。
 夏祭り特別価格とでも言う気だろうか、明らかに綿菓子の量とは比較にならない金額が設定されている。ランボのついでに自分も、と一瞬考えたものの、これは無理だと残額が財布の中で悲鳴を上げた。
「いらっしゃい」
 しかしランボは既に綿菓子屋の軒下に駆け寄って、コレがいいアレがいいと騒ぎ立てており、今更買わないとはとてもいえる状況ではない。作業の手を休めた男性に笑顔を向けられて、綱吉は財布を手に頬の筋肉を引き攣らせた。
「ひとつだけだからな、ランボ。どれ?」
 状況的に買わざるを得ない環境に置かれてしまい、綱吉は小銭入れを開いて貨幣を指で繰っていく。一際大きな声でランボが「これ!」と飛び上がりながら指差したのは、日曜日の朝からやっている戦隊物の図柄だった。
「はいよ。まいどあり」
 元気が良いランボの声ににこやかな笑みを返し、屋台の奥から前に出て来た男性が高い位置に吊るしていた袋を取り外す。代金と交換で渡すつもりなのか、早くとせっつくランボの手が届かない高さに掲げた彼は、次に綱吉に向かって満面の笑みを浮かべた。
「う……」
 ランボも一緒なのだからと、奈々に小遣いをねだってくるべきだった。後悔しても今更だが、悔やんでも悔やみきれず、綱吉は下唇を軽く噛んで無邪気にはしゃいでいるランボの後頭部をそっと睨みつけた。
 掻き集めた小銭を握り、溜息と共に男性の手元へ。しかし彼は、綱吉の真横から伸びてきた夏目漱石を先に受け取っていた。
「え?」
「まいどっ」
「もうひとつ」
「はい?」
「君の分」
 夏目漱石をポケットに入れるのと引き換えに、男性はランボに水色の袋を手渡す。行き場を失った握り拳を胸元に引いた綱吉は、肩越しに聞こえた声に振り返って瞬きを繰り返した。
「あ、の……」
「要らない?」
 静かに問いかける雲雀の声は耳に心地よく、場所を考えなければそれだけで溶けてしまいそうになる。
 切れ長の瞳を眇め、流し目気味に綱吉を見下ろしている相手は、ふたりを置いてさっさと先に行ってしまったはずの雲雀だった。
「えあ、っと、その……」
「はい、お釣りね」
「いや、釣りはいい。それをもうひとつ」
 綱吉が返事に窮して困っている傍で、ランボはさっさと袋を破いて中身を取り出している。行儀が悪いのは家の中でも外でも変わらなくて、ゴミを投げ捨ててしまわないかを心配している間に、雲雀はさっさと綱吉の分を選んでしまった。
 店の男性は上機嫌に雲雀が指差した袋を取り外して、雲雀へと差し出す。受け取った彼はそのまま綱吉へと横に流した。
 ピンク色の、明らかに女の子向けと分かるキャラクターが描かれた袋を、だ。
「どう、も……」
 奢ってもらったのは嬉しいし、助かったが、もうちょっと考えて選んで欲しかったと綱吉は俯いて赤い顔を隠す。握っていた小銭は掌に金属臭いのが移る前に財布に戻し、袖口に仕舞った彼はさっさと袋を破いて中身だけ取り出した。膨らんでいただけで実はかなりコンパクトだった包装は、ぐしゃぐしゃに丸めて財布と同じく袖口に放り込む。
 不恰好な浴衣の完成だが、近場にゴミ箱がないので仕方がない。
「先に行ったとばっかり」
「置いていかないよ」
 振り返らなかったから、怒って何処かへ行ってしまったものとばかり思っていた。
 元々はざら目で出来ている綿菓子にかぶりつき、顔中砂糖混じりの唾液と鼻水まみれになっているランボの顔を笑って、綱吉が傍らの雲雀を振り返る。食べますか、と差し向けた綿菓子は、甘いものは好きじゃないと簡単に取り下げられてしまった。
 機嫌は戻ったようだと安心し、綱吉は買ってもらった自分の綿菓子に口を寄せる。見た目は柔らかそうなのだが、冷えて固まっているそれはほんの少しだけ甘い歯ごたえがあった。
 だが舌の上で転がせば唾液に絡んで一瞬で溶けて行き、甘ったるい後味だけが残される。歯の隙間にこびり付くようなしつこさは、幼い日に親に連れられて来た境内の屋台で買ったものと何一つ変わっていなかった。
 懐かしい記憶が提灯明りの中に蘇り、顔が自然と綻ぶ。右手を綱吉に差し出し、左手は綿菓子を持って食べるのに夢中のランボを半ば引きずるように、雲雀を先頭にしてふたりと一匹は人ごみの中に姿を隠した。
 先ず先に賽銭を投げて本殿に拝礼し、来た道を戻りつつ参道両側を埋める出店を冷やかす。この頃にはもう綿菓子はとっくに食べ終えていて、境内の片隅に溢れかえっていたゴミ箱にゴミもどうにか捨てられた。
 夕食はちゃんと食べてきたはずなのに香ばしいソースの匂いに惹かれるのか、ランボはあれも食べたい、これも食べたいと騒々しいことこの上ない。ちょっと油断して目を離した一瞬の間に、屋台の角によじ登って涎を垂らしている、なんてこともあった。
 その度に綱吉は冷や汗をかかされ、今日はもう駄目だと言い放って嫌がる彼を屋台から引き剥がす。一方それでランボが大人しくなるのなら、と既に悟りの境地に至っている雲雀がお金を払おうとするものだから、甘やかさなくていいとそちらのフォロー必要で、実に忙しい。
「ダメです、晩御飯はちゃんと食べてきてもう本当はおなか一杯の筈なんですから」
 折角買ってもらっても、どうせ全部食べきれずに残してしまうのだ。それでは作ってくれた人に申し訳ないし、捨てる他ない食材だって勿体無い。
 騒げば構ってもらえるから、本当はそれが狙いなのだと今もヨーヨー釣りの前でしゃがみ込んでいるランボを眺め、綱吉は雲雀の手から財布を下ろさせた。
 それに、と今一度ランボの小さな背中を見た綱吉は、首を右にやや傾けながら少し呆れた表情で笑った。
「もうそろそろ、かな」
 浴衣に腕時計は不釣合いだから、と奈々に持たされた懐中時計を取り出し、夜なのに随分と明るい境内の傍らで綱吉は現在時刻を確かめる。何が、と聞き返そうとした雲雀だったが、楽しげに笑っている綱吉の方が面白くてついそちらに注意が向いた。
 座っていたランボが立ち上がり、やや千鳥足気味にふたりの方へ戻って来る。声は無い、大人しいものだ。
 様子が可笑しいのには、普段から彼と接触がない雲雀でも直ぐに分かった。
「ツナ~~」
 弱々しい声で綱吉を呼び、短く小さな手を斜め上に差し向ける。さっきまで大騒ぎしていた子と同一人物とは思えない豹変振りに、雲雀は純粋に驚き、綱吉はやっぱりな、という顔をして懐中時計を袖に仕舞った。
 膝を屈めて腕を伸ばし、寄ってきた幼子をしっかりと抱き上げる。
「眠い?」
 祭りの会場はまだまだ賑わいを残しているとはいえ、時間は確かに過ぎ去っていく。綱吉の時計は、間もなく午後十時半を指し示そうとしていた。
 膝の裏から腰に右腕を回してやり、しっかりと支えながら左手で背中をさすってやる。力なく寄りかかってくる小さな体は、綱吉の問いかけにも返事をせずに今にも閉じそうな瞼を、それでも懸命に持ち上げ続けようとしていた。
「いつもはもう、寝てる時間なんです」
 今日は祭りだから興奮して、三十分ほど遅くなったけれど、やっぱり、と。
 いいよ、と耳元で囁いてやった綱吉がその瞬間重くなったランボの身体を優しく抱き、笑った。
 覗き見ればなんとも無邪気なもので、悪戯小僧が一瞬にして天使の寝顔へと早変わりだ。あまりの落差に雲雀も苦笑を禁じえず、常日頃から一緒に生活して彼の面倒も見慣れている綱吉の観察眼にも素直に感服する。
 直球の褒め言葉に綱吉は頬を淡く染め、たいした事ではないとやや卑屈気味に首を振った。
「預かろうか」
「いえ、平気」
 慣れてますから、と安心した様子ですやすやと寝入る赤子を抱え直した綱吉は、出掛かっていた雲雀の両腕に礼を言ってはにかんだ。腕が疲れて来たら代わってください、と甘えるのだけは忘れず、抱き位置を少し上に持ち上げてランボの大きな頭を左肩に乗せて安定を図る。
 血の繋がった弟や妹はひとりも居ないのに、気づけば赤ん坊の扱いにもすっかり慣れてしまった。なんだかんだで面倒見が良く、放っておけない性格をしているものだから損をすることが多い綱吉だけれど、案外そういうところを、見ている人はちゃんと、見ている。
 伸びてきた雲雀の指が綱吉の頬を擽る。肉を押し上げられる感覚に目を細め、なんですかと視線で問いかけても雲雀は曖昧に笑うだけだ。
 人の波は一時期よりかなり減ったが、まだ店じまいには早いと屋台の主人は客寄せに余念がない。
 耳の奥に残る祭囃子の鐘の音は、近隣住民への遠慮からか聞こえなくなって久しいが、まだざわめきは周囲に立ち込めて夜の空気も人の熱気に押されて、むしろ暑いくらいだった。
 襟元に手で風を送り、息を吐く。薄ら浮かんだ汗で額に張り付いた前髪が若干鬱陶しかったが、ランボを抱えたままでは迂闊に手で梳き流すことも出来ず、眉間に細く皺を寄せていたら雲雀の手が代わりにやってくれた。
「ヒバリさん?」
 何故考えていることが分かるのか、と正面から彼を見返す。けれど雲雀は相変わらず微かに笑うばかりで、教えてはくれなかった。
 なんとなくだよ、と誤魔化されるが、釈然としない。
「帰る?」
「そう、ですね」
 引き潮のように去っていく人々の背中を目で追いかけ、綱吉が小声で頷き返す。家のある並盛町までは距離があるので、歩きだと薄暗い帰り道はかなり不安だ。あまり遅くなると奈々も心配するだろうし、ランボも早く布団に寝かせてやりたい。
 楽しい夢でも見ているのだろう、時折むにゃむにゃと口元を綻ばせて笑っている幼子に表情を緩め、明るい参道に目を向けた綱吉は、でも、と傍らの雲雀を伺い見る。
 折角誘ってもらった夏祭り、気合を入れて浴衣で来てはみたものの、蓋を開ければおまけでついてきたランボの面倒だけで手一杯。
 綿菓子を食べ、ランボに輪投げをさせ、籤を引かせ、詣でた後は偶々やっていた猿回しに拍手を送り、猿にちょっかいを出して逆に返り討ちに遭ったランボが泣きじゃくるの必死にあやして。
 遊びつかれた子供が眠るまで、結局綱吉も雲雀も、祭りを楽しむどころではなかった。
 それが少し、口惜しい。
「なら、何かやってから帰る?」
 遅い時間ではあるけれど、まだ屋台は開いている。片づけを始めているところもあるけれど、探せばやっているところはあるだろう。
 なにかひとつ、思い出だけでも。
 促した雲雀に、綱吉の視線は泳ぐ。そうしている間にも人の姿はひとり、またひとりと彼らの周りから消えていく。明りの消えた提灯は、物寂しげに風に揺れるばかりだ。
「あ、じゃあ」
 遠慮がちに、綱吉がランボに固定された腕を懸命に捻って人差し指を立てた。向けられた先は、まだ数人が前で屯している金魚すくい。
「あれ、いいですか?」
 青色の、底が浅い角形の水槽がひとつ鎮座して、手前には客がふたり、奥に店番らしき中年太りの男性がひとり。ラジオからは軽快なリズムに乗って賑やかなDJのコメントが聞こえてくる、屋台骨に吊るされた白色電球は眩く手元を照らし、水槽に空気を送り込むポンプが低い唸り声をあげていた。
 いいよ、と頷いて返してやれば、綱吉は嬉しそうに目を細めて首を窄めた。今度は彼が先頭に立って歩き出し、さほど距離も行かずに目的地に到着する。入れ替わりになる格好で、先客の二人連れは水槽を離れていった。
「ふたりかい?」
「いいや」
 円形の枠に取っ手を付け、輪の中に薄い紙を挟んだだけのポイを手にした男性が、折り畳み椅子に座ったまま尋ねて来る。綱吉が何か言う前に素早く切り返した雲雀は、ほら、と綱吉に両手を差し向けて巨大な荷物を預かる仕草を取った。
 すっかり夢の世界の住人となっているランボを起こさぬよう、そっと腕に抱き直した綱吉は、遠慮がちに下から雲雀を見上げてゆっくりと彼に小さな体躯を引き渡した。
「にゅ……」
 上下の振動を感じたのか、ランボが小さな唇から寝息を零す。幸せそうに微笑んでいる姿は変わらなくて、起きなかった事にまずほっとした綱吉は軽くなった両腕を左右に振って感覚を取り戻し、銀色の小鉢を水面に浮かべた男性に一回いくらかを聞き出した。
「綱吉」
 それは自分の手持ちでも数回は挑戦出来る金額で、最初の綿菓子よりは随分と良心的な値段設定だった。ひょっとすれば店じまい寸前だから、売り残しを減らしたいだけなのかもしれない。袖口に手を入れて財布を抜き取ろうとした綱吉だったが、上から落ちてきた雲雀の声に中腰状態のまま顔だけを持ち上げた。
 ランボを片腕だけで器用に抱いた雲雀が、少し膨らんでいる袖を綱吉に差し出す。
「ヒバリさん?」
「出すよ」
 その中に彼の財布が入っているのは綱吉も知っており、雲雀が何を出すと言っているのか即座に理解した彼は、けれど咄嗟に首を振る。
「けど」
「誘ったのは僕だよ」
 断るのは許さないと語調で伝え、雲雀は袖を横に振った。
 膝をまっすぐに伸ばした綱吉が、仕方がないなと苦笑しながらその腕に手を伸ばす。片腕が塞がっている雲雀の代わりに袖口から手を入れて、注意深く底を探って彼の革の財布を抜き取った。
 二つ折りのそれを広げる。だが実際に其処に納められている貨幣を抜き取るのには勇気がいって、綱吉は上目遣いに彼を見返した。
「好きなだけ。気にしなくていい」
 とても中学生とは思えない金額が入っているのを見てしまうと、この人の正体は本当になんなのか、と思ってしまう。福沢諭吉が少なくとも五人以上居て、羨ましいなと思いつつ綱吉は夏目漱石を選び出して一枚だけ、引き抜こうとした。
 一緒になって札入れに収められていたものが引っ張られ、角を現す。
 四角形、周辺がギザギザで中央部分に少し膨らみがあり、色は銀色。薬剤を密封した包みにも似た。
「っ!」
 全部は見えなかったが一部を見ただけでそれが何であるかを瞬時に悟った綱吉は、慌てて出かかっていたそれを指で財布に押し込めて漱石だけを抜き取り、財布は畳んで雲雀の顔に突き返した。吸い込んだ息は吐き出せなくて、瞬間的に赤くなった顔は白いライトに照らされて余計に赤く色を持つ。
 この人は、なんてものを、なんてところに。
「綱吉?」
「なんでもありません!」
 自由に効く腕で財布を握り、その腕を横にやって顔を出した雲雀が首を捻る。けれど綱吉は荒っぽい口調でそう吐き捨てて、待ち惚けを食らっている屋台の主人に雲雀から借りた千円札を差し出した。
 交換でポイを受け取り、水に浮いていた銀の椀をひとつ引き寄せる。透明な水は静かに細波立っていて、中を泳ぐ金魚は赤の中に黒が混じる配色だった。
 ずっとこうやって狭い場所で泳がされていたからか、少し金魚たちの動きは鈍い。けれど簡単に掬われてなるものか、と揺れる水面越しに綱吉を窺っているのは分かった。
 雲雀はしゃがみ込む綱吉の斜め後ろに立ち、財布を持ったままの手でランボを抱き直す。ぽんぽんと軽く肩を叩いてやれば、鼻をひくつかせた幼子は気持ちよさそうに彼の胸に寄りかかって顔を埋めた。
 椀に少しだけ水を注ぎ入れ、綱吉は下駄の歯を砂利に食い込ませてしっかりと座り直す。足場を固めた綱吉は右手にポイを形良く構えると、悠然と泳ぐ金魚に狙いを定め勢い良く水の中へ薄い紙を差し入れた。
「よっ」
 声だけは威勢が良い。
 しかし水から引き上げられたポイは、ものの見事に中心部分が割けて穴が空き、彼が掬い取ろうとした金魚は尾を揺らしてそそくさと逃げていった。
「えー……」
「はい。残念だったね」
 前払いした料金分だけ、ポイは残っている。捻りはちまきの男性は豪快に笑って、すぐに新しいものと交換してくれた。
 けれど二度目の挑戦も、結果は同じ。
 水に浮く椀が、虚しそうに水面を漂った。
「うぅ」
 ざっ、と水音を響かせて引き抜いたプラスチックの輪は全身水浸しとなり、破れた紙の欠片が巻き付いている。見るも無惨な姿に綱吉は泣き出しそうな顔をして、金魚すくいの店主は腹がよじれるまで笑い、雲雀は肩を竦めて溜息を零した。
 悔しげに唇を噛んだ綱吉が、乱暴な動きで男性に破れて使い物にならなくなったポイを差し出す。彼は新しいものを綱吉に差し出しながら、手首を捻って「こうやるんだよ」と熟達の動きを見せてくれた。
「へえ?」
「一気に全部水に浸けちまうのは、よくねぇな」
 綱吉が不器用なのを見抜いたのだろう、彼ならば多少教えても根こそぎ金魚を掬い上げては行かないと判断したのか。それとも単に遅い時間、丁度良い暇つぶしだと見定めたのか。熱心に見入る綱吉に気をよくした男性は、商売道具だというのにポイをひとつ使って実際に水の中の赤色を浚ってみせた。
 素早い動きを目で追った綱吉が、薄い紙の上で跳ねた小さな金魚に歓声を上げる。見る限りは簡単そうなのだけれど、実際やるとなると勝手は違うもの。けれどお手本を見せられた事で俄然やる気を取り戻した綱吉は、少々着崩れて来ている浴衣の袖をまくり上げて気合いを入れ直し、手にした新しいポイを構えて真剣に泳ぐ金魚に意識を向けた。
 集中しているのが傍目からも伝わってくる。せめて一匹くらいは掬わせてやりたいところだが、とまだ余裕のある財布の中身が何処まで減るか想像し、雲雀は彼の邪魔にならないところでもうひとつ溜息を零した。
 けれど。
「あ、やった!」
 嬉しげな声が直後足下から上空に駆け上っていって、余所見をしていた雲雀は慌ててランボの頭越しに綱吉の手元を覗き見た。
 彼の右手には、右上部分が若干凹んで破れ掛かっているポイが。左手には赤い物体を中央に泳がせた、銀の鉢が。
 雲雀を仰ぎ見る綱吉の表情は上機嫌に弾み、頬も紅色に染まっている。開きっぱなしの口元からは白い歯が零れて、たった一匹の金魚を掬い上げただけだというのに、世界最大の魚を釣り上げたような喜びようだった。
「やるじゃないか、兄ちゃん」
 綱吉の笑顔に触発されたのか、屋台の男性も嬉しげに眉尻を下げる。雲雀は肩から力が抜けて、正直なにがそんなに嬉しいのかよく分からなかったものの、綱吉が喜んでいるのでその結果だけで十分かと気持ちを切り替えた。
 その雲雀に、いきなり綱吉が未使用のポイを差し向ける。
「なに?」
「ヒバリさんも」
 やってみませんか、と。
 怪訝に顔を顰めた雲雀に、綱吉は更に腕を伸ばしてオレンジ色のそれを握らせようとした。
 記憶によればそれは前払いした分の最後の一本で、雲雀としては全部綱吉にやらせるつもりでいただけに、予想外な事に面食らう。だが既に綱吉はその気が固まっているらしく、皺の寄った浴衣を手で伸ばしながら立ち上がって、眠りこけているランボを一方的に奪い去って行った。
「ね?」
 満面の笑みで近くから言われても、雲雀は細い目をより細めるばかりですぐには動けない。
「どうする? やめとくかい?」
 一匹だけで満足してしまった綱吉の代わりに、雲雀が。ここで一匹も掬えなかったなら自分の沽券に関わると、本当はやりたくない気持ちが先走った雲雀であったが、期待に満ちた綱吉の眼差しと妙に意地の悪い目つきを作った男に、彼は広げた手で長めの前髪を梳きあげると受け取ったポイを顔の前に構えて袖を捲った。
 わーい、と素直に喜ぶ綱吉の声が聞こえる。
 気楽なものだ、と心の中で綱吉に肩を竦める。けれど彼が望むからと、やったこともない金魚すくいをさも得意だと言わんばかりの態度で挑戦しようとしている自分もまた、十二分に失笑ものだ。
 綱吉が唯一掬い上げた殊勲賞の赤い金魚が、一匹だけ淋しげに銀の中を泳いでいる。対する広大な水槽を漂う金魚は端の方に集まって群れを成し、新たな捕獲者の影に怯えていた。
「ヒバリさん、あれ」
 先ほどの雲雀の立ち位置と交代した綱吉が、半歩前に出て身を乗り出してくる。彼の膝が雲雀の肘にぶつかって、振り向いた雲雀は、綱吉の指が水槽で群れ立つ金魚とは逆の方向を指しているのを見た。
 二秒遅れて雲雀がそちらに顔を向け直す。水槽の底に差し込まれたポンプの近く、コポコポと細かい泡が途切れなく浮かび上がるその一角に一匹だけ、他の群れとは交わらずにのうのうと泳ぐ黒い塊があった。
 長めの尾ひれ、大きな目。綱吉が掬い上げた赤い金魚は細身だったが、こちらは腹もでっぷりと膨らんでいて全体的に丸い。
「ヒバリさんみたい」
 クスクスと声を漏らして笑う綱吉に、言われた雲雀は思わず嫌な顔を作ってしまう。
 いったい何処が、と聞き返したいところだが、見た目が黒いところと、群れから外れて一匹だけで泳いでいるところが似ていると言いたいのだろう。綱吉の思いつきそうなことだ、と緊張気味だった肩から力を抜いた雲雀は、少しだけ居場所を右にずらして、その綱吉が見つけた出目金へとポイを差し向けた。
 それは難しいよ、と屋台の男がにやりと口元を歪ませて笑う。綱吉は自分が挑戦していた時以上に緊張と興奮で呼吸を止め、眠るランボを胸にきつく抱き締めた。
 雲雀は乾ききっていた唇にそっと舌を這わせて潤いを補充すると、同じく乾いていた咥内に唾を呼び込んで飲み、地上のことなど知らぬ顔を貫いている黒が水面近くまで浮き上がってくるのを辛抱強く待った。
 本当に、彼に付き合っていると自分がどんどん自分らしくなくなっていく。
 薄ら笑みが漏れ、だがそれを楽しんでいる自分を否定せず、雲雀は素早く銀の鉢に跳ね上げた水を呼び込んだ。
「わっ」
 飛沫が後ろまで行ったらしい、綱吉の驚いた声がして彼の下駄の歯が石畳を擦る。気配からして後ろによろめいたらしい彼を気にして、雲雀は腰を浮かせて振り返ろうとした。右手に握っていたポイは指から力が抜けた所為で水に落ち、濡れた面を半分から全体に広げて沈んでいった。
 銀の鉢の中で、黒が笑う。
「つなよし?」
「あ、平気……です」
 怖い顔をして半身を翻している雲雀に、綱吉は一瞬声を詰まらせてから呼吸を整え、息苦しさに顔を歪ませているランボの為にも腕の力を抜いた。
「まだやるかい?」
 顔を突き合わせて向き合っているふたりを他所に、金魚掬いの店主は朗らかな様相を崩さずにふたり分の戦果を手元に引き寄せて問いかけてくる。その緊張感のなさが面白おかしくて、綱吉は真剣な表情をしている雲雀を前に思わず噴出して笑ってしまった。
「あの、あ、……いいです、もう」
 今度は怒っている顔を作って無言を貫く雲雀に、綱吉は一頻り笑ってから苦しげに息を吐きつつ待ちぼうけを食らっている店主にそれだけを言い返した。
 袋は別々にするかと更に聞かれ、首を横に振ったのは雲雀だった。大きな目を素早く瞬きさせた綱吉の反論は許さず、透明な袋に入った赤と黒を押し付けた彼は、代わりに全く動かないランボを奪っていった。
 今日はもう店じまい、と笑う金魚すくい屋の店主に見送られ、神社を抜けて参道へ戻る。
 ここから並盛まで、歩いて行くには距離がありすぎるので、石段を降りる手前からランボは雲雀の背中に場所を移された。その間彼は特に何も言わず、だから会話の糸口をつかめなくて綱吉は腰の後ろで横に結ばれた、ランボを支える彼の手ばかりを見ていた。
 鼻緒ずれで足が少し痛い。本当ならあの背中は自分のものなのに、と明りも消えて物寂しい道にカランコロン、と下駄の音が響き渡る。
 左手に持った金魚の袋は、はちきれんばかりに水を入れられて中には赤色と黒色の宝石が、近づきつつ遠ざかりつつ、同じ空間を泳いでいた。どちらかと言えば黒の出目金は中央付近でじっとしていて、小柄な赤い金魚がその周辺を恐々と、けれど興味津々に泳ぎ回っている感じが近い。
 そんなところまで似通わなくてもいいのにな、と腕を持ち上げて街灯の光越しに膨張する袋の中を覗き見た綱吉が笑う。
「なに?」
 その声が聞こえたのだろう、蛾が戯れる電柱の下で雲雀が不意に足を止めた。
 地域的にはもう並盛町に入っている。月明かりは遠く、家々の灯も消えて周囲は見慣れた光景であるに関わらずひっそりと静まり返り、違う世界に迷い込んだ気分にさせられた。
 仄暗い光に晒された雲雀が、ずり落ちかけたランボの位置を戻しながら首を捻り綱吉を見る。
「なんでも、ない、ですよ」
「そう?」
 久方ぶりに見た彼の瞳は、この闇の中でも際立つ黒さの中に芯の強い輝きを内包している。今はその瞳に自分だけが映し出されているのかと思うと、胸がどきりと跳ねて綱吉の中から冷静さは急激に失せていった。
 微妙に途切れ途切れの言い回しで言葉を返すが、掲げたままだった金魚袋には雲雀も流石に気づく。開いていた距離を狭めた彼は、綱吉の反対側から楕円に湾曲する水の中を覗き込んだ。
 目が合ったらしい赤い金魚が驚いて逃げ、飄々と構えている出目金の後ろに素早く隠れてしまった。
「……君が居る」
 逃げ足の速さ、大きいものの後ろに回り込むその態度。怖がりなのに興味があるのか、尾びれを動かしながら時折様子を窺ってくる感じが伝わる仕草に、雲雀もまた口元を緩めやった。
「ほっといてください」
 自分が思っていたことを雲雀にまで言われ、綱吉は頬を大きく膨らませて右足で強く地面を蹴った。
 そうやって子供みたいに拗ねて怒るものだから、雲雀はいよいよ声を立てて笑い出し、眠っていたランボも声に気づいてぼんやりした眼を持ち上げた。
 だが覚醒には至っていない様子で、放っておけばまた項垂れて雲雀の肩に寄りかかり、穏やかな寝息を復活させる。動いた彼に先に気づいた綱吉は、丸めた拳を胸の高さで停止されて緊張を露にしたが、また眠ったらしいランボの様子にホッと胸を撫で下ろした。
 直接肌を触れ合わせている雲雀もまたランボの意識が浮上気味だったのには気づいていたようで、笑い声はその瞬間ぴたりと止まった。
 ふたりして息を潜め、ランボが本格的に起き出さないのを確認してから息を吐く。タイミングが見事に揃って、顔を上げた綱吉は肩を竦めて笑みを零した。
「帰りましょう」
「ああ」
 夜ももう遅い。まだ眠くは無いが、本当なら綱吉だってこの時間は、ゲームに熱中していない限りもうベッドの中に寝転がっている。
 奈々はまだ起きているだろうか、リボーンはもう眠ったか。素足に下駄だったので足の裏はほんの少し埃っぽく、汗もかいているので眠る前に出来ればシャワーだけでも浴びたい。それは雲雀とて同じだろう。
 ちらりと盗み見た彼の横顔は、引き締まった表情で前だけを見据えている。視線に気づいて瞳だけが横を向いたが、その頃にはもう綱吉は自分の足元に顔を落としていた。
 交互に繰り出される桐の下駄。浴衣とワンセットで奈々に買ってもらったものだが、絵柄と色は自分で選んだ。出来るだけ子供っぽくならないようにしたつもりだったのに、濃い目の絣柄の雲雀と並ぶとどうしても幼さが際立つ。麻の葉柄は地味な分類に入るのだが、その柄自体が大きめな上に下地との色差もはっきりとして目立つので、子供っぽいといわれれば、否定できない。
「どうかした?」
 キィ、という金音が聞こえて顔を上げる。一軒の家の前に佇んだ雲雀は、左手で背中のランボを支え、右手で鉄製の柵を押し開こうとしているところだった。
 白くぼやけた光が彼の横顔を照らしている。ライトの下にある門柱に埋め込まれた表札には、沢田の名前がしっかりと書き込まれていた。
 もう着いてしまったのかと、周囲の景色をまるで見ていなかった自分にまず驚き、綱吉は答えに窮して曖昧に笑いながら首を軽く横倒しにした。
 時計を見ていないので正確な時間は分からないが、家の明りは見える限り全て消えており、玄関前のポーチを照らす照明だけが細く残されているのみ。鍵は持って出て来たので、扉が閉まっていてもチェーンがされていなければ中に入ることは出来る。
 綱吉は雲雀が開けてくれた門の隙間を通り抜け、振り返った。
 両手を真っ直ぐ前に差し出す。前に倣えの姿勢を取った彼に、雲雀は身体を斜めに向けてぐっすり眠っているランボを引き渡した。膝を軽く曲げて抱え易い高さまで姿勢を低くしてやり、万が一落としても大丈夫なよう、綱吉の手の下に広げた掌を上に向けて構える。
 だが心配は杞憂に終わり、スッと背筋を伸ばした彼は門柵越しに綱吉の顔を見下ろした。
 ちっとも目を覚まさないランボの頬を小突いた綱吉もまた、ワンテンポ遅れて雲雀を見上げる。
 伸ばされた手に頬を撫でられ、くすぐったさに首を竦ませたところで額に触れるだけのキスが落ちた。
「ん」
 耳の下、首の付け根より上の部分を指でなぞられる。たいした意図はないだろう雲雀の手の動きに、しかし綱吉は鋭敏な反応を返して目を閉じた。少し唇を突き出す形で上向けば、しっとりと笑んだ雲雀がそこに吸い付いてくる。
 無意識にランボを抱く腕に力が入り、爪先が浮いて膝が門柵に当たった。
 風さえも吹かない深夜に、ふたりの間にだけ水の音が跳ねる。
 電球の明りに引き寄せられた金魚が二匹、寄り添うように袋の中で片側に集まっていた。
「あ、の……」
 先に唇が、そして僅かに遅れて雲雀の手が綱吉から離れていく。
 去り難いのは綱吉も雲雀も同じで、けれどこうしていてはいつまで経っても互いに眠れないし、ランボも布団に寝かせてやれない。スウスウと気持ちよさげに綱吉の腕の中で丸くなっている幼子に一瞬視線を落とした綱吉は、直ぐには雲雀に目線を戻せなくて左の門柱へと流してしまった。
「なに」
 どこかで虫が鳴いている。静かに、草の陰から遠慮がちに誰かを呼ぶ声に目を閉じ、綱吉は濡れている唇を浅く噛んだ。
「すこし、その……あがって、いきませんか」
 我知らず顔が赤く染まっていき、綱吉はぐずりたがる鼻を啜って痺れた舌を懸命に操り、音を吐き出した。
 甘茶色の髪が擽る項を、雲雀はじっと見詰めた。白かった肌は連日の炎天下で少しだけ黒くなっていたが、それを上回る赤色に彼はふっと気配を和らげる。
「あがるだけ?」
「……っ」
 憂いを含んだ声で問い返せば、息と呑んだ綱吉が瞬時に顔を上げて真っ赤なそれを雲雀に向ける。見開いた瞳は瞬きを忘れて彼を凝視しているが、紅色に染まった頬は興奮と緊張を同時に表現していて、雲雀を喜ばせた。
 意地の悪い質問だったかと思うが、綱吉の反応があまりにもストレートすぎて尚更可笑しい。
「と、と……とま、っ……」
「やめておくよ」
 しどろもどろに紡ごうとした言葉は、けれど最後まで行かずに彼の声に冷やされた。
「え?」
「いるんだろう、赤ん坊」
 顔を上げた綱吉が見た先の雲雀は、綱吉の背後に控える家屋の二階部分を見上げていた。
 ベランダの向こう側にある窓、カーテンが引かれて明りは消えているが、その向こうが誰の部屋なのか雲雀が知らぬわけがない。
 ひっそりと寝静まっているあの部屋で、綱吉と誰が共同生活を送っているのかも。
 二階部分を顎でしゃくった雲雀の言葉に、綱吉は唇を閉ざす。沈黙で肯定を表現し、綱吉はまた視線を左右に泳がせた。
 雲雀が肩を揺らす。
「今度」
 腕は身体と同じく柵の外へと。
 けれど胸の高さほどしかない門を乗り越えて上半身を傾がせた彼は、綱吉の右の耳朶にそっと唇を寄せて甘い息を吹き込んだ。
「泊まりにおいで」
 今日の代わりに、と囁いて。
 ボッ、と綱吉の頭が活火山宜しく火を噴いて煙を立てる。雲雀は笑って、真っ赤になっている彼の鼻の頭にもキスを落とした。
「おやすみ」
 最後に舌の先でキスをした部分を舐めて、彼は踵を返し闇の中に姿を隠す。足音は響かず、一瞬にして気配さえ掻き消した彼の背中をいつまでも思い浮かべ、綱吉は赤い顔を半分手で覆った。
 腕の中のランボが寝返りを打ち、右側頭部が胸に当たる。
 今夜はどうやら、眠れそうにない。

2007/7/26 脱稿