光芒

 窓から教室内に流れ込んでいた生温い風が、不意に止んだ。
 それまで鬱陶しく感じても追い払うことも出来ず、項を擽るに任せていた感覚が消えたことに微かな違和感を覚えて、綱吉は伏し続けていた視線をゆっくりと持ち上げた。
「ん……?」
 右手に持ったシャープペンシルの尻で鼻の頭を擦り、物憂げな表情をそのままに視線だけを左へ流すが、さっきまでしつこいくらいに裾を揺らしていた白いカーテンはものの見事に沈黙し、緩い陽射しを受けて長い影を教室の床に伸ばしていた。
 凪の時間が来たのだろう。窓辺に向けた視線を戻さずに外へと向けた彼は、随分と低い位置に迫っている巨大な太陽に目を細めた。
「もうこんな時間か」
 のんびりと問題と睨めっこしている余裕はなかったのだと思い出すが、かと言って直ぐに鈍った頭の機能が活性化されるわけではない。とっくにやる気は失せており、今もぼんやりと誰も居ない空間を眺めていただけだ。
 遠くへ飛ばしていた意識は、しかし風が止むと同時に綱吉の中に戻ってきた。流石にもう帰らなければならない時間帯だが、今日中に提出するように言われている目の前のプリントは、最後の一問が全くの手付かずだった。
 それ以外は正解でないかもしれないものの、必死に計算式と格闘して答えを導き出したのだが。
 消しゴムのかけすぎで一部薄くなった紙を指で小突き、綱吉はその横に残っていた消しカスに息吹きかけて飛ばす。転がっていた黒い小さな塊の行方を最後まで追わず、彼はシャープペンシルを握った腕で頬杖をついた。
 赤焼けた太陽が、カーテンの隙間から教室内をオレンジ色に照らしている。昼過ぎからずっと此処に居た彼は一歩も机から動いておらず、然るに教室の照明もまた、昼の明るさに支えられて不要だった時間の名残をそのままに、スイッチは入っていなかった。
 窓から教室内へと視線を戻し、黒板にチョークで書かれた文字を読み取る。消されもせずに残っているのは、午前中に受けた補習授業の最後の方だ。
 何人か同じ教室で補習を受けていた生徒は、次々に問題を解いて帰って行った。
 綱吉だって最初から不真面目にしていたわけではない。途中までは頑張っていたのだ、それを証拠にプリントも大半は答えの欄が埋まっている。
 ただ最後の一問を前にして、面倒臭さが先に立ったというのか、やる気が急激に減退したというのか。
 とどのつまり、投げ出してしまったのだ。
 勉強は確かに、出来たほうがいいに決まっているが、どう頑張ったところで根本的に頭の構造が変わるわけでもなく、所詮自分はダメダメのままなのだろう。そう思うとやる気は減退して、ペンを取る気力は失せた。
 それに、今日は確か。
「おーい、こら」
 教室と廊下を隔てる壁、そこに穴を開ける扉のうち、前部分。さっきまでは確かに閉まっていたはずのドアが横に引かれて半分ほど開き、その隙間に寄りかかるようにしてひとりの男が立っていた。
 再び吹いた風にカーテンが煽られ、少し遅れて男が羽織る皺だらけの白衣もが裾を広げて翻る。下に着込んでいるのは、チャコールグレーのスーツだ。
 ネクタイは締めておらず、暑さからか襟元はだらしなく開かれて鎖骨が覗いていた。無精髭は不揃いに顎を飾り、ボサボサの髪は癖が強く、見るからに硬そうな黒色をしている。腕組みをする袖からはみ出た手は太く、無骨なイメージを見る側に与えた。
 あれで包帯を巻く手は意外と繊細で器用なんだよな、と相手の顔ではなく胸元に先ず目が行った綱吉の頭に、どことなく疲れた風情の声が落ちた。
「おーい、ボンゴレ。何やってんだ、お前」
 握られていた彼の手が開かれ、指の隙間からチャリ、という微かな金音と共に銀色の物体が零れ落ちる。だが先端を結ぶ大きめの銀の輪が手の中には残されていて、夕焼けの光を薄らと浴びた鍵束は控えめに互いを擦り合わせながらも、己の存在を綱吉に主張した。
 彼がその鍵束を持っている理由もまた、無言のうちに綱吉に示される。
「シャマルこそ」
 けれど解らないフリをして、綱吉は頬杖を崩して背筋を伸ばした。指でシャープペンシルを転がして机から落下寸前で掴み取った彼は、ほら、とラスト一問を空白のまま残すプリントを縦に構える。
 自分は補習なのだと暗に示し返したのだが、聞いたシャマルは目を白黒させた後、不揃いに髭が生えた顎を左手でゆっくりとなぞった。
「そんなはずねーだろ。補習授業で来てた教師、生徒は全員帰ったつってとっくに引き上げてるぞ」
 夏休み中の補講で、折角の長期休暇を台無しにしたくないのは何も生徒ばかりではない。用事が済んだのなら、冷房もろくに利かない職員室にだって長居したくないだろう。
 だが現に綱吉は、今もこうして提出すべきプリント共々教室に居残っている。見張り役の先生が職員室へ撤退して久しいが、出席をちゃんととっていたのなら課題をクリアして帰って行った生徒の数もきちんと把握していたはずだ。
 完全に忘れ去られているか、どうせできっこないからと見放されたのか。
 どちらにせよ、酷い扱いなのに変わりは無い。
「マジで?」
「おうよ」
 だからこうやって、教室の施錠をして回っているのではないか、と。
 目を見開いて若干くぐもり気味の声を出した綱吉に、シャマルは鷹揚に頷いて壁から離れた。黒光りする革靴の底が教室の薄汚れた床を叩き、夏場の乾いた空気を切り裂いて音を響かせる。綱吉もまた腕を下ろしてプリントを机に戻し、握ったままだったシャープペンシルを持て余して先端でこめかみに近い髪の生え際を擽った。
 机ふたつ分の距離まで詰めてきたシャマルが、今度こそちゃんと自分の顔を見ている綱吉に肩を竦める。歩く最中に白衣のポケットに入れた両手はそのままに、腰を屈めて綱吉の机を逆から覗きこんだ。
 けれど細かな文字は読み取りきれなかったようで、表情は見る間に険しいものに切り替わって行った。
「お前ら、こんなもん勉強させられてんのか」
 中学校の保険医をやっておきながら、その発言はいかがなものか。確かに彼は直接、生徒の勉強を指導することはないので、知らなくてもそれはそれで仕方ないとはいえ。
 少しばかり期待を抱いていただけに、綱吉は落胆を隠せない。
 明らかにそれと分かるため息を零した彼に、シャマルはむっと片方の眉を持ち上げて口元を歪める。
「んだ、その顔は」
「べつに?」
 何が不満なのかと声で問い詰めるが、綱吉は視線を素早く逸らして彼の質問をかわしてしまう。一歩前に出たシャマルは、凄みを利かせた目で十以上も年が離れた子供を大人気なく睨みつけるが、それでも綱吉は肩を震わせて逆に面白がって笑うだけだ。
 変な顔、と指を差されては最早怒る気も失せる。
「ったく。いいから、早く帰れ」
「無理だよ、これ終わらないと」
 もうプリントを渡す先の教師も帰路に着いており、律儀に学校に居残り続ける理由は綱吉の中にもう残っていない。続きをやるなら家でも出来るだろう、とシャマルは言うが、綱吉は頑として椅子から腰を浮かせようとしなかった。
 どこぞの風紀委員長ではないが、そんなにも学校が好きなら今日一晩泊まっていくか、とシャマルが茶化しを入れるものの、それも悪くないと受け流した綱吉に、最後彼は降参だと天を仰いで癖毛の髪を掻き毟った。
「しょーがねーな。んで、どれが解らないんだ?」
「これこれ」
 綱吉が帰らなければ、教室その他の施錠が完了しない。それに生徒ひとりを学内に残したまま帰宅したとPTAに知れたなら、口喧しいのがしゃしゃり出てくるだろうと予想され、一瞬想像したシャマルがげっそりした表情を作ってから溜息と共に綱吉が待ち望んだ台詞を口にした。
 途端、現金にもにこにこと微笑んだ綱吉が、プリントの端を浮かせてシャマルに最後の長文問題を指し示す。
「どれだ?」
 もう一歩前に出て、完全に綱吉と机を挟んで向かい合う位置にたったシャマルが、腰を屈めた程度では見えなかったらしく綱吉からプリントを奪い取って顔に近づける。元から小さい目を更に細めて頭を掻き続ける彼は、そのうち立っているのも面倒になったらしく、踵がぶつかった椅子を引いて向きをひっくり返し、そこに腰を落とした。
 綱吉の机に肘を置き、面倒臭そうに薄っぺらの紙を睨みつける。
 視界を半分塞がれて、綱吉にはシャマルの口元から下が見えなくなる。下向いた彼の瞳は左右に忙しなく動き回り、問題文を読んでいるのだというのは分かったが、彼の注意が自分以外に向いてしまってそれが綱吉の機嫌を悪くする。
 元々自分から彼に問題を振ったのに、随分と我が儘なものだ。頭の中の冷静な部分に笑われて、綱吉は何もない空間を手で払い落とした。
「どうした?」
 微かな空気の変動に顔を上げたシャマルに問われたが、まさか理由を言えるわけがなく、綱吉はなんでもない、と素っ気無い口調で会話を一方的に終了させる。彼は綱吉の態度に肩を竦めただけで深く追求はしてこず、また問題用紙へと目線を落としていった。
 眉間に寄った皺は三本、何れも深い。
「まーったく。可愛い子猫ちゃんの頼みだったら、喜んで引き受けるんだがな」
 女好きのタラシ。いかにも彼らしい台詞を吐いたシャマルは、ほれ、と掌を上にして綱吉に差し出す。だから何も言わずに綱吉はそこに、お気に入りのシャープペンシルを載せた。
 細い赤色のペンが太い指の間で反転し、正しい持ち方で握られる。普段は面倒臭がって人の世話もあまり焼きたがらない彼だけれど、粘り強く頼み込めば案外親切で気配りも出来る人だ。
 特に幼い頃から知っている獄寺については、彼の親からもしかしたら頼まれているのかもしれない、割とこまめに気をかけている様子。それを羨ましいとは思わないものの、ずるいな、と思うことは時々、ある。
 それは認めざるを得ない。綱吉だって多感な時期を、父親不在で過ごしてきたのだから。
 平面の机に置いたプリントに、シャマルの見た目に反して綺麗な字が生み出される。ただ縦長に角張った特徴ある数字は、時々他の線が近すぎて交じり合い、読み解くのには苦労させられそうだった。
 カッ、カッ、と小気味のいい音を響かせて、次々と組み立てられていく数式。時折頭の中で計算しているからか筆の歩みは止まるものの、十秒と経たずまた動き出す様は淀みなく、安定している。
 不真面目そうな顔をして、どうして、なかなか。腐っても医者という事か、と肘を立てて左右組んだ指の背に顎を載せた綱吉の前で、シャマルは最後の数字を書き込み終えて長い息を吐き出した。
 ふー、っと肩から力が抜けていくのが見ているだけでも良く分かる。
「出来た?」
「多分な」
 これで不正解だったら洒落にならないと苦笑しつつ、ペンを置いた彼は綱吉に向かって問題用紙ごと押し返す。
 綱吉自身も解けなかった問題だから、導き出された数字が正しいかどうかの判断はつかない。ただ、明らかにひとつ前まで解いたのとは違う人物が書いたのだと、誰が見ても思うこの文字の落差だけは、どうにかしなければならないだろう。
「ありがと」
「ったく、手間取らせやがって。ほれ」
 疲れた、と眉間の皺を解いて肘の位置を机の中央付近まで移動させたシャマルが、下唇を突き出しつつ綱吉に手を差し出した。
「なに?」
「なに、じゃねーだろ」
 またシャープペンシルを貸して欲しいのかといぶかしんだ綱吉だったが、手渡そうとしたところでその手を叩き落とされてしまった。
 小さな痛みに顔を顰め返すと、やや剣呑とした表情のシャマルが怖い目で綱吉を睨んでいる。
 今度は瞳を逸らすことも出来ず、綱吉はぐっと息を呑んで身を硬くした。
「シャマル?」
「礼だよ、礼」
 タダで俺様に中学生レベルの問題を解かせるとは、いい度胸だ。そう言って憚らない彼の態度に、綱吉は程よく脱力して強張っていた肩を落とした。
 偉そうに言わないで欲しい。そもそも、中学生に謝礼を要求する大人なんて、恥かしくないのか。
「いいんだよ。優しくするとすぐ付け上がるからな、お前は」
 頬を膨らませた綱吉の額に指を押し当て、力を加えてシャマルがふんぞり返る。首から上を後ろに傾けた綱吉は、肩甲骨の下辺りに椅子の背凭れが食い込む痛みに歯軋りし、息を吸って腹に溜めて一気に身体を前に倒した。
 押し返されたシャマルが、声を立てて笑う。
「まー、お前の場合、出世払いでもいいけどな」
 机に対して斜めに座り直し、引っ込めかけた腕で綱吉の元気良く逆立った髪の毛ごと頭を撫でた彼は、やがて声を潜めて笑い止み、妙にしみじみとした声に切り替えて言った。
 強引に俯かされた所為で机ばかりが目につくが、どうにか上目遣いに見た彼の表情は、綱吉を慈しむような、淋しげとも捉えられそうな、複雑な顔だった。
「痛いってば、シャマル」
 髪の隙間から覗いた彼の表情に一度唇を噛み締め、綱吉は額が机にこすり付けられそうなくらいに容赦ない彼の腕を振り払う。
 彼は悪い悪い、と言うけれど、少しも悪びれた様子はなく、綱吉が一瞬盗み見た表情は欠片も残っていない。目の錯覚だったのだろうかと思えるくらいに鮮やかな変わり身の早さに、綱吉は胸の中でだけ吐息を零し、乱れた髪の毛を手早く整えた。
「出世なんか、しないよ」
 時期ボンゴレ十代目の椅子を目の前にしておきながら、尚もそこに座るのを拒む色を含む綱吉の声をひとり聞く男は、仕方のない奴だと言いたげな目を細めてもう一度、今度は優しい手つきで綱吉のぐしゃぐしゃな頭を撫でた。
「そうは言ってもなぁ」
 確約された未来を、果たしていつまで拒否し続けられるか。綱吉が優しい子であるからこそ、彼にしか出来ないからこそ、敢えてその椅子に彼が自らの意思で座る日が来ることを、シャマルは知っている。
 大勢の仲間を守るために、誰かを今以上に傷つけてしまわぬように、と。
 けれどシャマルは、その椅子を取り囲む輪に入れない。
 あくまでも傍観者としての立場を貫けなければ、シャマル自身の命さえ、危うい。
 いつかこの小さな命は、彼の手を離れて去っていく。予想される未来は決して覆らない、その覚悟もあったはずなのに、とても簡単なことひとつで足元が呆気なく揺らいでしまう。
 昼の太陽よりもなお眩しい瞳で見詰められれば、血の結束だの誇り高き精神だの、全部どうでも良くなってしまえそうだった。
「だから、出世払いなんか、出来ない」
 長い間を置いて繋がった言葉に、シャマルは苦笑以外なにも出来ない。そうか、と相槌を打っても後に続ける言葉が何も浮かんで来ず、ただ若いゆえの無知、無謀さは凶悪だな、等の感想を胸の内に忍ばせる。
 それが逆に、綱吉にはシャマルが間に受けていない、真剣に聞いてくれていない風に映ったのだろう。
 彼は不意に両手を机に叩きつけ、頭上にあったシャマルの手ごと身体を浮かせた。
 上半身を仰け反らせたシャマルの、一瞬見開かれた瞳をきつく睨みつける。噛み締めた奥歯は痛いくらいで、歪んだ唇が悔しげに音にならない声を発した。
 昼の名残を色濃く含んだ生温い風が、教室を左から右へ掻き回し、白を揺らして慌しく去っていく。
 悪戯な妖精は互いに目配せをして、何も見ていませんよ、と笑っているようだった。
 一瞬で離れていった唇に、シャマルは怒った表情を見せる綱吉を呆然と見返す。憤懣やるかたなしの様相に、漏れたのは何故か心底楽しそうな笑い声だった。
「笑うなよ!」
 ただ触れるだけのキスを、稚拙だと思われたと勘違いしたのか。更に憤った綱吉が頭の先から湯気を立てて拳を上下に振り乱した。
 危うく殴られるところだったシャマルは、寸前で避けてその手を掴む。だが綱吉は直ぐに動きをとめなくて、ガタガタとふたりの間に挟まれた机が彼らを咎めるように床を踏み鳴らした。
「こら、ボンゴレ。落ち着けって、おい」
「五月蝿いな、どうせ俺は男で、がきんちょで、馬鹿で、ダメツナだよ!」
「誰もんなこと言ってないだろう」
 今日の鍵閉め担当がシャマルだったから、わざと一問残して巡回を待っていたとか。
 彼が本当に姿を見せて、自分に構ってくれたことが飛び上がりたくなるくらいに嬉しかったとか。
 けれど矢張り、距離を置いた扱いを受けるのが哀しかったとか。
 言いたくても、言わなければ伝わらないと知っていても、どうしても言えなかった沢山の感情が綱吉を中心に渦を巻く。それは小規模な嵐となって正面からシャマルにぶつかって行って、このままでは受け流しきれないと悟った彼は逆に、自分から渦の中心に身を投げた。
 掴んでいた綱吉の手を解放し、広げた腕で身体全部を抱きとめる。
「やだ……!」
「うっせぇ。大人しく抱き締められてろ」
 反射的に叫んで突き飛ばそうとした綱吉の腕も封じ込め、椅子を蹴り倒したシャマルは誰のものか知らぬそれが崩れ落ちて床に跳ねた様を見送ってから、深々と実にわざとらしい溜息を零した。
 息を止めた綱吉が、ピクリと肩を震わせて抵抗を小さくする。
「ったくお前は」
 身長差がある所為で視線は絡まない。もとより綱吉は彼の、少々タバコ臭いスーツに顔を埋める格好のため、顔を上げることさえ出来なかったのだけれど。
 ただ聞こえてくる彼の呼吸音、ことば、そして震える心臓の声が、ほんの少しだけ、彼が緊張しているのだと綱吉に知らせた。
「お前の所為で全部、台無しだ」
「シャマル?」
「まったくよー。俺に、ボンゴレを敵に回せってのか?」
 あの強大で、鉄壁で、王者として彼の島に君臨する者達全てを、敵に回して。
 奪い去り、守りきれるのか、自分は。ひとりきりで。
 不可能だと諫める声はやまない。けれど抱きしめた、この未来に怯えて震える小さな身体を、どうやって手放せると言うのだろう。
 身動ぎした綱吉の腕が、皺にまみれたシャマルの白衣ごと彼の上着を握りしめる。爪を立て、新しい皺が刻まれるのも構わずに、力任せに懸命に、自分からは絶対に放すものかという意志を込めて。
 いじらしいまでに、必死に。
 この細い腕が守り抜こうとしたものを、自分もまた、彼も含めて全て、守り抜けるだろうか。
「シャマル、苦しい」
 押さえ付けすぎたのだろう、首から上の自由は完全に封じ込められた綱吉が、腕を少し緩めてシャマルの背を叩く。くぐもって響いた声はいつも聞く音階よりも少し低くて、物珍しさからもうちょっと聞いてみたい気になった彼は綱吉の願いを聞き入れる事なく、視線を浮かせて彼をそのまま胸に押し込めた。
 じたばたと、今度は拳を作って人の背骨を殴りつける仕草が、また子供じみていて面白い。
 ああ、そうだ。この子はまだ、子供なのだ。
 将来を大人が勝手に決めて良いものではない、選ぶのはいつだって彼自身であるべきで、道筋を照らす手伝いはしてやれても、彼は敢えて明かりが届かない暗き道を行く日だってあるだろう。
 彼自身が帚星の如き光芒となって、闇夜を照らす日だって、また。
 ボンゴレが敵になるのではない。敵がボンゴレなのではない。
 彼を傷つけようとするもの全てが、敵。彼を守ろうとするものこそが、真の彼の願い。
 それくらいなら、自分は。
「てめーは、本当に」
 息苦しさを訴える綱吉に構わず、シャマルは綱吉の頭を更に力を込めて抱きしめる。いい加減諦めた様子の綱吉もまた、全身から力を抜いて少しでも楽な体勢を取る事に決めたようだ。
 それでも手は、白衣から離れない。
「変な奴だ」
「悪かったな!」
 そもそもあんたみたいな奴を好きになる物好きな人間は、この世で自分ひとりくらいだ。顔を真っ赤にして勢い任せに言い放った綱吉に、きょとんとした様子で聞いたシャマルは、たっぷり五秒という時間をかけ、ゆっくりと顎髭が生える下側から上に向かって顔を赤く染めていった。
 面と向かって言われると、この歳でも、照れるものなのか。
 彼が言葉を詰まらせて絶句している側で、言うつもりはなかった綱吉もまた、口を金魚のようにパクパクさせて耳の先から首の付け根まで真っ赤にさせていた。
 急に解放された身体を持て余し気味に、綱吉は両手で頬を隠しその場にしゃがみ込む。
 腰をぶつけた椅子ががたがたとやかましく音を立てた。
「お前なぁ、自分で言って恥ずかしがるなよ」
 天井を彷徨う視線をおろしもせず、シャマルが髭を撫でて呟く。蹲ったままの綱吉は、もう嫌だと言わんばかりに首を振って声にならない呻き声をあげた。
 

 例え百の魂が彼を憎もうとも。
 譬え千の言葉が彼を蔑もうとも。
 喩え万の怒りが彼を貫こうとも。

 自分だけは――――

2007/7/15 脱稿