玲瓏

 安全な場所、今の自分たちにとって辛うじて心を休ませられる場所であるこの地下で。
 足音さえ隠すことが出来ない廊下を、ゆっくりと歩く。無機質で飾り気の無い壁ばかりが続き、果てが見えない錯覚に陥りたがる視界の害悪に目を閉じる。
 息苦しいと思うのは我が儘だろうか。疲れた、と特訓を終えてエレベータを降りた先、膝が笑ってついついその場に腰を落としてしまった。
 冷たい壁に背中を預け、首を回して頬をも押し当てる。また熱があがったのかもしれないと、未だ三角巾を外せない左腕を揺らした自分が浮かべた表情は、自嘲を含んだ哀しい笑い顔だった。
 ああ、そうか。
 視線だけを持ち上げて、部分的に穴が開いて配線が顔を覗かせる天井をぼんやりと見詰める。
 四方を白い壁で覆われて、出口さえ見えず、日の光も届かず、使用されない区画には照明さえ灯らず。
「ああ、そっか」
 改めて声に出して呟いた声は広がらず、手元で澱となって形を失い沈んでいった。
 どうして息苦しいのか、哀しいのか。
 自分に力が無いとか、重圧が強すぎて挫けそうになるとか、そういう事じゃない。
 此処は空が遠いからだと、ふと、思った。

 突然飛ばされた十年後の世界。
 リボーンが言うには、正確には十年を経過する直前らしいけれど、そんな細かな事を逐一気にしていられない。
 どうしてこんなことになったのか。この時代の状況を見る限り、何かに呼ばれたとそう解釈してほぼ間違い無さそうだ。
 その、自分たちをこちらへ呼び出したのが誰であるかまでは、まだ分からないけれど。
 訪れて、状況把握も出来ないうちにいきなりつきつけられた現実、未来の自分の死。
 道を捜し求めて、追われて、戦って、逃げて、頼るべきものを見つけたと思えばまた指の間から零れ落ちて。
 今度こそ掴み取ろうとしたものは、けれど不用意に手を伸ばせば薙ぎ払って去っていく背中だ。あの人の人嫌いの性格は重々承知している、むしろ十年後のこの時代でまで自分とあの人との間に何らかの繋がりを維持できていたことは奇跡に近い。
「いっつー……」
 無理をさせすぎた身体は節々が痛み、関節を動かす度に激痛が神経に突き刺さる。立ち上がっている間はまだ歩くことに集中していたので幾分マシだったのだが、一度壁に体重を預けてしゃがみ込んでしまうと、もう暫くは起き上がれそうに無かった。
 吐く息にも熱がこもり、乾いた唇の痛みに指を置く。その肩を微妙に持ち上げる仕草でさえ、苦痛が伴う。
 いつだったかの出来事に似ている、そう、これはザンザスたちとの戦いに備えて特訓を繰り返していた日々と同じだ。
 目まぐるしく状況が変化して日々追いかけるのに必死だからつい忘れがちだけれど、あれもたった数日前までの出来事なのだ。十日と経過していないはずだ、この穴倉生活では太陽の運行が見えないので時間の感覚がどうしても鈍ってしまうものの、指折り数えて確かめれば、それくらい。
 指輪の継承を果たし、後継者として正式に認められ、死んだように眠った。夜が明けて朝が来て、それでいつもと同じ日常が戻って来ると理由もなく信じた。
 そんなはずが無いことは、心のどこかで分かっていた。けれど、信じたかった。
 平凡な中学生に戻って、毎朝睡魔と戦いながら登校して、時には風紀委員に遅刻を咎められて横暴な委員長に追い回されもして。
 獄寺や山本と机を並べて退屈な授業を聞き、ランボの幼稚な悪戯に振り回されて、リボーンの時に容赦ない鉄槌を食らいつつ、奈々の手料理に舌鼓を打って、ハルや京子とも週末に集まって何処かへ遊びに行く。
 そんな、穏やかで長閑な、少しだけ退屈だけれど充実した日々が戻って来るものだと、根拠も無く信じた。
 所詮は夢――簡単に溶け、或いは砕け散る氷のキャンパスに描いた絵空事だったのか。
「くっ……」
 違う、そんな事は無い。
 時間が無条件に、誰の意思にも委ねられずにひとりでに動きすぎていくものだとしたら、その中で足掻き何かを手にするのはその時の中で生きている人の信念次第だ。夢がかなわないと嘆く前に、叶えようとまず動くところから始めなければいけない。
 諦めるには、まだ早い。
「っつぅ……だぁ!」
 右肩を壁に強く押し付け、両手も少し低い位置に添えて力を込める。支えとなる杖の代わりに壁を使い、折れ曲がったままでいる膝をまず伸ばして立ち上がろうと渾身の力を振り絞る。
 けれど身体中のあらゆる器官がちぐはぐな動きをするばかりで、脳から発せられる電気信号も途中で道に迷い正しく指令を各部位に届けられなかったらしい。右膝は辛うじて伸びたが左が追いつかず、逆にカクリと折れて今度は前のめりに廊下に崩れ落ちてしまった。
 積み上げられていた木箱の角が、前に伸びたまま引き戻すのを忘れた右手に掠めた。
 棘でも刺さったのか、鋭い痛みが皮膚に走る。奥歯を噛んで声を堪えた瞬間、受身の体勢さえ取れなかった四肢は呆気なく廊下へ投げ出され、埃が天井近くまで舞い上がった。身体が傾く最中に壁に激突させた肩がまず痛み、僅かに遅れて冷たく硬い床で強かに打ちつけた全身の痛みが襲いかかって来る。三角巾につるしていた腕も外に飛び出し、痺れて動かない。息を吐き出したくても巧く吸い込めず、どうにか成功したと思えば埃の方が多くて激しく噎せた。
 苦しい。
 悔しい。
 こんなところで転んでいる暇なんてないのに、心に体が追いつかない。思いに心が追いつかない。
「っそぉ」
 倒れた時に切ったのか、口の中に血の味がする。吐き出した唾には、矢張り赤いものが混じっていた。
 口元をぞんざいに拭い、右腕一本で上半身を起こす。だが筋肉を構成する無数の繊維が引き千切られる音が体内に響くばかりで、涙で霞む世界が白く濁った。
 泣くな、そう心に叫ぶのに余計涙が止まらなくて、嗚咽が零れる。動かない左腕を引きずりながらそれでも懸命に体を裏返し、再び壁に背中を任せて息を吐く。
 熱はまた上がったように思う、満身創痍とはよく言ったものだ。
 指輪争奪戦の影響も、完全に消えたとは言い難い。緊張の連続で、神経が磨り減る日々。身体が壊れるか、心が壊れるか、果たしてどちらが先だろうと握り締めるのさえ辛い左手を三角巾の内側に戻しながら考える。
 零れ落ちる笑みはどれも歪んでいて、正直なところ、今の自分は笑い方さえ忘れてしまっている気分だった。
「もー……やだ」
 右手で目を覆い、涙を隠す。瞼に触れた布地のごわつきが痛かったが、天井から降り注がれる光を遮るには他に手段がなくてどうしようもなかった。
 神様が居るのだとしたら、どうして自分にばかりこんな境遇を与えるのだろう。あの頃に帰して、とハルではないけれど、泣き叫んでみっともなく運命に対する呪詛を吐き出したかった。
 カン、と甲高いひとつの音。
 嗚呼、本当にどうして。
「……」
「やあ」
 振り向いた先で、何処へ行く途中だったのか、黒いスーツに身を包んだ青年が皮肉に口元を歪めて綱吉を見下ろしていた。
「君はよっぽど、床の上が好きみたいだね」
「スキ、スキ。ツナヨシ、スキ」
 肩の上に停まった鳥が羽根を広げて勝手を言うのを指で弾き飛ばし、彼は綱吉の記憶の中よりも大人びた顔で、記憶の中よりも短い髪の隙間から、記憶の中と何も変わらない人を見下した目をして、記憶の中と同じ口調で言った。
 こんな人は知らないと、突っぱねてしまえたらどれだけ良かったか。
 それでも、姿を見られただけで胸が弾み、自然と頬が色付く。こんな状況の自分を見られたくなくて咄嗟に顔を逸らすのに、あきれ返った彼がこのまま立ち去ってしまわないかと冷や冷やしている。
 会いたい、と願ったときに限って、どうしてこうもタイミングよく現れるのか。
「その様子だと、あの女との特訓の後?」
「……です」
 炎の強化、それは即ちこの時代の指輪と匣を使っての戦いにおいて、より強力な力を手にすることに他ならない。
 炎の精度や強度は個々人によって違ってくる、限界が低いものも居れば、予想を超える強大な炎を身に宿す存在も居る。そして紛う事無く、ブラッド・オブ・ボンゴレの継承者である綱吉は後者に分類される、筈だった。
 けれど戦闘時に見せた一瞬の鋭い閃光は彼方へと消え去り、鬼教官の異名をとるラル・ミルチの特訓でもなかなか思うとおりの力を発現できずにいた。
 弛んでいるだとか、本気になっていないだとか、やる気が無いのか、とか。
 色々怒られるし、真剣にやらないのならやっても無駄とも言われて、都度そんな事は無いと否定するけれど、最近ではかなり匙を投げられているように思う。
 出来るときと出来ないときの格差が激しい、むらが大きすぎる。心が安定していないからだと指摘されて、否定出来なかった。
 気を張るな、力を抜け、自分ひとりで抱え込むな、もっと正直に。リボーンにも散々言われているけれど、一向に成長の兆しは見えてこない。それが余計に落ち込みを加速させ、炎を弱めてしまうと分かっていても。
 堂々巡りの袋小路、出口は見付からず、未だ大空は遠い。
 羽音がして視線を動かす。雲雀の指から逃げて宙を泳いだ鳥が、まだ鋭い目つきをしている彼から逃げて綱吉の側へと飛んできたのだ。
 柔らかな黄色い翼を器用に折り畳み、バランスを取りながら減速して、最終的に俯き加減の綱吉の頭の上へと。着地する瞬間に折り畳まれた脚に髪の毛が絡まり、引っ張られて少し痛かった。
「うわ、また」
 つい先日だ、此処に来たばかりの頃にもこんな風に頭に乗っかられたことがある。あの時は散々人の髪の毛を啄ばんで引っ張られて、今よりずっと痛い思いをさせられた。記憶が蘇って綱吉は青褪め、自由の利く右手でなんとか追い払おうと試みた。
 けれどまたしても雲雀の鳥は、羽を広げて一瞬だけ浮き上がって人の手を避け、同じ場所に着地する。引っ張られた頭皮の痛みに、綱吉は涙を新たにさせられた。
「なんで、俺ばっかり」
「巣なんじゃないの」
 恨めしげに唇を尖らせれば、雲雀が軽やかな調子で綱吉をからかう。確かに彼の言葉通り、もしこの鳥が十年前にも雲雀の肩にいたあの鳥であるならば、綱吉の爆発した頭を第二の巣として頻繁に羽根を休めに来ていたけれど。
「よっぽど居心地が良いみたいだね」
「俺は、嬉しくないです」
 喋るだけでも喉に熱が走り、ひりひりと痛む。けれど思わずムッとしながら言い返してしまって、綱吉は尖らせた唇を引っ込めると慌てて肩を強張らせ、熱せられた唾を飲みこんだ。
「……っゥ」
 胃袋を焼く感覚に声が漏れて、聞いた雲雀の顔が少しだけ険しくなった。
 伸びてきた手が額に落ち、鳥を退かせて前髪を梳きあげる。触れた指先の冷たさについ安堵して、目を閉じると途端に堪えていたはずの涙が勝手に零れていった。
 頬を濡らしたひと滴を、雲雀の指がそっとなぞり、追いかけていく。遅れてついてきた掌が左の頬を包み込んで、冷たいけれど暖かい感触に背筋が震えた。
 目を開けば、いつの間にか彼は膝を折り、しゃがみ込んでいる綱吉と視線の高さを揃えている。じっと人の目を直視するのは、十年の時を経ても変わっていない。
 それでも時々、不安になるのだ。
 この人は果たして、本当に、自分の知っている雲雀恭弥なのだろうか、と。
 だから視線が泳ぐ。視界の中には常に居て欲しいのに、こうやって顔を突き合わせて逃げ場を塞がれた状態に置かれると、彼の黒く澄んだ瞳を見返せない。
 下唇を噛んで俯き、瞳も伏した綱吉の態度に、再び肩へ鳥を乗せた雲雀が溜息をそれと分かるように零した。
「僕が怖い?」
 囁かれる、そんな問いかけ。
「え……」
「君はずっと、僕の顔を見ないね」
 頬を撫でる手は優しい。顔を上げようとした綱吉は、けれど首を持ち上げても視線を上向けることが出来ず、今度は右へと流して返事にする言葉を必死に捜した。
 気づかれていたことに対する後ろめたさが、余計に彼を見返す勇気を奪っていく。そういえば彼は昔から、変なところで勘が鋭かった。いつだって他人の事など我関せずの態度なのに、ある一瞬だけ急に土足で人の心の中に踏み込んで来る。避けきれないその鋭さに、綱吉は何度傷つけられただろうか。
 遠慮を知らない彼の直球過ぎる想いは、時に綱吉の首を絞めて動きを封じた。沢山泣かされたし、沢山喧嘩もして、怒ったり笑ったり、忙しかった。
 膝を曲げて身体に密着させ、肩も窄めて背中を丸める。首を振って雲雀の手から逃げて、綱吉は身を縮めて卵のように自分を守る殻を作った。
「わかっ、……な」
 搾り出す声は掠れ、巧く音にならない。
 同じ人の筈なのに、違う。
 柔らかく、そして少し神経質気味に髪を撫でる仕草も変わらないままなのに、触れる手の大きさや指の太さ、皮膚の感触が記憶の中の彼と一致しない。
 苦しい。
「綱吉」
 呼ぶ声の暖かさも、少し癖のある発音も変わらないのに、記憶の彼の声と少しだけ音程が違う。
「俺、もう……っ」
 自分が解らない。自分が今居る場所がいつの時代の、何処であるのか、本当に自分は自分なのかさえ見失いそうで。
 怖いのは、自分が好きな人が十年経った先でも、十年前と同じように自分を好きなままでいてくれているのかが解らないこと。十年後の自分も、今と変わらずに彼を好きなまま時を過ごしたのかという事。
 この十年の歳月を自分がどう過ごしたのかが、全く解らないこと。
 十年の時の中で、彼を裏切ったり傷つけたりしなかったか、それさえも何も知らないこと。
 優しくされる自信が無い。優しくしてもらえる保証もない。自分ばかりが彼を好きなままで居るのではないかと、想いを通じ合わせる前のあの苦しかった片恋の時間が蘇るから。
 優しい彼が自分を傷つけない為に嘘をついているのならば、その嘘を見抜けてしまえる自分が怖い。
 十年前の自分を思い出せないように、今の雲雀にとってみれば綱吉は、ひょっとすれば、忘れてしまいたい記憶の一ページなのかもしれない。
 そう思うと顔を上げられない。
 なおも膝を寄せてそこに顔を伏せたがった綱吉は、けれど寸前ですぼめようとした肩を逆に強引に奪われた。ぐっ、と肩鎖関節を左右に広げられ、後ろを塞ぐ壁に容赦なく叩きつけられる。背中の上半分を痛打した衝撃に肋骨が震え、脊髄が揺れ動き、肺が圧迫されて息が詰まった。胃袋が萎縮して、消化されていなかった昼の食べ残りが食道を逆流しようとして弁に押し留められる。うっ、と吐き出した息の苦さに涙が滲んで、鼻の奥がつんとして舌の根が痺れた。
 何に囚われたのかも解らないまま、ただ痛みと衝撃だけをやり過ごす。目を閉じていた綱吉の瞼に何かが吹きかかり、耳朶を僅かな風が撫でていった。
「ゥ――」
 肩にあった圧力が消え失せる。けれど完全に解放されたわけではなく、むしろ逆で、肩を滑り落ちたものが上腕を抱え込んで背中へと回される。
 今度は引き寄せられた。壁にぶち当たった反動で前に傾いだ上半身を拘束して、腰部と頸部を斜めに交差して支えながら、綱吉の小さな身体を閉じこめる。
 鼻先を掠めた匂いは、男性特有の汗と体臭が入り交じった独特のものだった。
 彼と重なり、けれどぶれる、積み重ねた年輪を思わせる、懐かしさに胸を締め付けるような。
 そんな匂いに抱きしめられた。
「はなしっ……」
「断る」
「放して!」
「いやだ」
「放して、ヒバリさん!」
「放さない!」
 静まりかえった廊下に響き渡る、大凡彼らしくもない怒号に綱吉の呼吸が止まる。
 瞬きを忘れた双眸から溢れ出した涙が止まらなくて、震える唇を閉じる事も出来ないまま綱吉は呆然と、僅かに緩んだ彼の腕の中から顔を上げた。
 苦虫をかみつぶしたような、悔しさと悲しさと寂しさに怒りが入り交じった複雑な表情を浮かべた雲雀が、綱吉の心臓をえぐり出す。聞こえるか否かの音量で舌打ちをした彼は、こんな時に限って自分を直視する綱吉を一瞬だけ睨んで顔を逸らした。ばつが悪いのか、片腕を解放して自分の前髪を掻き上げる。
 茫然自失としたままの綱吉が、浮き上がっていた腰をぺたんと通路に沈めた。
 彼のあんな大声を。
 あんなにも必死な彼の声を。
 綱吉は、知らない。
 手を伸ばし、その頬に触れる。幾分固くなった気がする肌をそっと撫でると、視線を戻した彼は細い目を尚更細くして綱吉の手の平に自分の手を重ね合わせた。
 安堵にも似た息を吐いた彼の、そんな不安めいた表情を綱吉は知らない。
「ヒバ……」
「頼むから」
 そっと囁くように紡がれた彼の、願いを告げる声を、綱吉は。
 確かめるように掌を包み込み、痛いくらいに握りしめ、肩を引き寄せて胸に抱き込み、背中を撫で、髪に指を差し入れて軽く梳き、焦れったそうに頬を寄せて大切に腕の中に閉じこめる。もう二度とこの檻からは逃さないとでも言いたげに、閉じた瞼に伸びる睫毛を揺らして。
 動けないで居る綱吉を、ただ、ただ、抱きしめる。
 空を掻いた綱吉の指が、時間をかけて雲雀のシャツを握った。
 右の耳のすぐ横で雲雀が僅かに身じろぐ。けれどそれ以上は動かなくて、綱吉は尚も辿々しい手つきで彼のネクタイを探し出すと、表面をなぞりながら上を目指し手繰り寄せた。
「あの」
「なに」
 首を絞められた雲雀が、傾けていた身体を起こして不機嫌に眉を顰める。
 間近にある彼の顔は十年経っても相変わらず綺麗に整っていて、しかも鋭い目つきを隠していた前髪も今は短く刈られて露わになっているものだから、余計に迫力が増して綱吉を臆させた。
 それでも綱吉は、嘗てよく応接室でそうしていたように、意味もなく雲雀のネクタイを弄りながら大きな瞳を当て所無く揺らし、泳がせて、生唾を飲んだ後意を決したように顔を上げた。
「あの、……聞いても」
「なに」
「ぁ……えっと、その」
 不安だった。自分が知らない自分の居た世界に、その知らない自分を知る人が居る事が。
 怖かった。自分が知らない自分を知る人が、自分の知る人と全く同じ感情のままで居続けていてくれたのかが分からない事が。
 人の感情など、コロコロと変わる。昨日機嫌の良かった人が、今日も上機嫌だとは限らない。今日までは大好きだったものが、明日になって急に大嫌いになることだって十分にあり得る事で。
 十年だ。長い。生まれたての赤ん坊でも小学校のランドセルが少し小さくなり始めている頃だ、小学生だった子供が成人式を迎えるところまで来てしまうだけの年数だ。
「あの、だから、なんていうか、オレは」
 自分の事なのに、まるで知らない十年後の自分。空想はしても、想像は出来ない。山本に立派になったと褒められても、それは今の自分ではないから実感は沸かなかった。
「オレ、は……」
 十年経った後も、貴方の事を、――好きなままで、居ましたか。
 考えれば変な質問だ。両手で握りしめた雲雀のシャツの皺が深くなって、綱吉はだらりと垂れ下がる彼のネクタイごと額を彼の胸元に押し当てた。首の後ろまで赤くなるのが分かって、顔を見られたくなくて目も固く閉ざす。
「君は」
 雲雀は、笑ったらしかった。
「自分の事も、分からないの?」
 背中を撫でる手が優しい。こうやって顔を合わせずにただ触れあっているだけならば、何も考えずにただ一緒に居ることが幸せだった日々に戻ってきたように感じてしまう。
 こんな何もない、無機質の、空が遠い、風の音さえ聞こえない空間だというのに、頭の上には青い空が広がり、白い雲が浮かび、鳥がさえずり、穏やかな日射しに包まれて、少しだけ眠くて欠伸を堪えながら過ごした時間が。
「分かります、けど! でも」
「君は何も変わらなかった」
 自信がないと叫ぼうとした綱吉の声を遮り、雲雀の声が静かに流れていく。
「呆れるくらい、本当に。君を見て思った。沢田綱吉は、何年経とうと、何十年経とうと、綱吉のまま、なにも」
 それは成長がないという事なのか。ふて腐れて頬を膨らませると、彼は肩を揺らして綱吉を胸で押し返した。
 ポンと弾んだ彼の上半身が後ろに流れるが、背中に添えられたままだった雲雀の手が動きをせき止める。
 影が落ちたかと思えば予告もなく唇に噛み付かれ、赤くなった箇所は舌の先で擽られた。目を瞬かせて声もなく驚く綱吉に、雲雀は悪戯な笑みを隠さない。
 嗚呼、この人は。
 本当に、どこまでも。
 嫌になるくらいに、人の心を見透かしたタイミングで。
 変わらない、何も。変わっていない、なにひとつ。
 静かな声が流れて行く。彼の心音に、今日初めて気がついた。
 目を閉じれば眠りに落ちてしまえそうなくらいに、心が凪いでいる。不安と重責と孤独で押し潰されようとしていた精神が、まるで嘘みたいに。
 ぎゅっと彼のシャツを握りしめ、甘い匂いに笑みを零す。
 抱きしめられるのは心地よかったけれど、抱きしめ返せなかったのは、きっと、十年後の自分に申し訳ないと思っているからだろう。
 だから、元の時間に無事に戻れたら、今日の分も含めて、昨日の分も、その前の分も含めて、全部まとめて、彼に抱きつこう。
 そして、俺が好きな貴方は、十年後もやっぱり俺の好きな貴方のままでしたと、力いっぱい報告しよう。
 どんな顔をするだろう、また馬鹿にされるだろうか。
 でも、それでも良い。そういうところも含めて、貴方の全部を好きになったのだから。
 頬を、親指の腹で擦られる。
「やっと、笑った」
「え?」
「怖い?」
「ぜんぜん」
 一瞬何を聞かれているのか分からなくて、首を振って答えてから思い出した。
 あの時は分からないと返した、けれど今は違う。
 忘れていた笑い方が自然と蘇って、吸い込んだ空気は夏の空の、太陽の匂いがした。

2007/8/6 脱稿